神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!

ー神田川水系、支流はもちろん、旧水路、廃水路、全部 「まる歩き」ー

和田村境

2017-08-10 07:10:36 | 善福寺川6

 方南公園から下流の善福寺川は、杉並区と中野区の境となっていますが、これは江戸時代の和田村と雑色村、本郷村の村境を引き継いだものです。もっとも、当時の善福寺川は蛇行しており、また側流も複雑に絡み合っていたため、今日のように直線的な境ではありませんでした。なお、神田川との合流後は神田川が境となり、中野富士見町駅前に架かる富士見橋やや下流まで、1km弱が区境となっています。 

 

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    ・ 「東京近傍図 / 内藤新宿」(参謀本部測量局 明治13年測量)の一部を加工したもので、本来の縮尺は1/20000、パソコン上では1/12000ほどです。なお、オレンジ線は区境、オレンジ細線は明治に入ってからの村境、大字境です。

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    ・ 善福寺川  霊峰橋から光明橋にかけてで、右手に茂みの見えるのが方南公園です。区境は方南公園の東端を通って善福寺川て右折、あとは川沿いに東に向かっています。 

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    ・ 神田川  善福寺川と合流後二つ目の富士見橋から下流方向です。区境は左カーブで左手に離れるので、そこから先は両岸とも中野区(旧本郷村)になります。   

 <中野町>  明治22年(1889年)、江戸時代の中野村、本郷村、本郷新田、雑色村が合併し、東多摩郡中野村が成立、途中豊多摩郡となり、同30年町制を実施しました。当時の大字は中野、本郷、雑色で、上掲「近傍図」の青梅街道沿いが中野、方南通りから神田川右岸が雑色、間に挟まれているのが本郷ですが、下流では神田川沿いは両岸とも本郷となります。昭和7年(1932年)、東京市の成立に伴い、野方町と共に中野区の一部となって消滅しました。

 


和田右岸

2017-08-09 06:52:50 | 善福寺川6

 堀之内村から引き継がれた右岸流は、右岸段丘の際を流れ、駒ヶ坂橋で迂回から戻ってきた本流と合流していました。この流路は→ 「和田村絵図3」から→ 「昭和33年第五回修正」まで一貫していましたが、第二区画整理事業によって流域に方南公園が設けられ、一部は道路となって消滅しました。なお、タイトルは便宜上和田右岸としましたが、方南公園の東側から善福寺川右岸は中野区(旧雑色村)に属しています。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 霊峰橋から右岸方向です。正面奥の茂みは方南公園で、段丘際の用水の流域に設けられています。

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    2. 方南公園の東南角にある第二区画整理事業の記念碑越しに、右岸流の流れ出す方向のショットです。

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    3. 水路跡と重なる道路です。第二区画整理事業に伴い、用水を埋立てて開設されました。

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    4. 緩やかな左カーブを描きながら東に向かいます。

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    5. 突き当りを左折すると、ワンブロックで本流に架かる朝日橋です。

区画整理2

2017-08-08 06:02:28 | 善福寺川6

 第二土地区画整理組合は昭和16年(1941年)に発足、総面積8万6千余坪の区画整理に着手しましたが、第二次大戦と引き続く戦後の混乱期に中断、昭和28年に規模を3万5千余坪に縮小して再開しました。「杉並風土記(下巻)」(平成元年 森泰樹)によると、再開の契機となったのは「組合地内で、立正佼成会が1万坪、都住宅協会が3千坪を買収したこと」でした。特に、地内に占める立正佼成会関連用地の割合は大きく、環七通りを越えてから駒ヶ坂橋までの迂回する旧水路と、ショートカットした新水路によって囲まれた区画の大半にあたります。

 

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    ・ 「地理調査所発行の1/10000地形図(昭和33年第五回修正) / 中野」  同一場所、同一縮尺の「昭和12年第四回修正」は→ こちらです。

 上掲「地形図」の時点では、旧本流やそこから分岐した左岸流も一部残っていて、光明橋で新本流に戻るように付替えられていますが、数年後の→ 「昭和38年空中写真」では埋立てられ、新本流のみとなっています。また、「地形図」では、立正佼成会関連の施設は交成学園(佼成学園)のみですが、「空中写真」には建設中の大聖堂が写り、これは翌年には完成しています。さらに、区画整理事業の進捗に伴い、中野方面から伸長してきた本郷通りも、環七通りに達して全線開通しており、第二区画整理事業の成果を見ることができます。

 

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    ・ 本郷通り  環七通りとT字を形成している大聖堂入口交差点からのショットです。幅員17mのこの道路も区画整理事業の成果の一つで、事業対象区域の中央を横断しています。 

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    ・ 光明橋左岸  本郷通りに向かう通りの左手に、付替えの水路が並行していました。左手が昭和45年完成の普門館、右手は冒頭にあった都住宅協会の用地で、現在はコーシャハイム杉並和田の敷地です。 

和田村用水2

2017-08-07 06:21:45 | 善福寺川6

 和田村の東半分の田用水のうち、善福寺川関係のものは大きく二本で、堀之内村から引き続く右岸流は、駒ヶ坂橋で迂回を終え南下してきた本流に戻っていました。一方、左岸流のほうは北上する本流にいったん戻り、和田村に入った直後に改めて分岐、さらに東円寺前にも堰があったようで、和田堀内村当時、一帯の小字は堰山でした。なお、左岸流の流末は本郷村との境まで達し、表田圃と通称される区画を灌漑していました。

 

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    ・ 「和田村絵図3」  「杉並近世絵図」(平成5年 杉並区教育委員会)に収録されたうちの一枚を元に、和田村の東半分をイラスト化したもので、→ 「和田村絵図2」と連続しています。(グレー枠内は欠落したものを補充、また書き込みは元図のものではありません。)  

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    ・ 大聖堂前  旧本流及び分岐した左岸流の痕跡は、立正佼成会の敷地に埋もれましたが、左手の建物(法輪閣)のあたりで分岐、大聖堂前へと流れていました。 

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    ・ 善福寺川  和田堀橋から下流方向です。右岸流は右手の、やはり立正佼成会関連の建物前にあり、新しい本流とほとんど接していました。  

 <和田村の小名>  和田村の東半分にかかわる小名で、「新編武蔵風土記」に収録されているのは、峰、谷中、峰村、方南、萩久保、本村原ですが、さらに上掲「村絵図」の範囲にしぼると、善福寺川左岸の本村原と、右岸の峰で、あとは南の神田川流域や甲州街道沿いになります。明治に入り和田堀内村大字和田となった際、本村原は単に本村となりますが、いずれにしても和田村の中心だったということです。一方、和田堀内村の小字に引き継がれた峰は、善福寺川の迂回をもたらした舌状の微高地にあり、その地形に由来しているのでしょう。


環七通り

2017-08-05 07:47:08 | 善福寺川6

 現在の環七通りの元となった通りは、昭和7、8年ころ高円寺、代田橋間が開通しました。当時は東京乗合バス(青バス)が運行したことから、青バス通りとも呼ばれたようです。「杉並の川と橋」(平成21年 杉並区立郷土博物館)に載せられた概念図には、この通りと善福寺川がクロスするところに、本流の堀ノ内橋と右岸流の子ノ神橋が架けられています。また、昭和16年(1941年)から始まった第二土地区画整理事業によって、新たに開削された善福寺川本流に和田堀橋が架けられます。こうして、戦後の一時期は三橋が併存しますが、土地区画整理事業の完成と環七通りの拡幅によって、昭和40年代までには和田堀橋のみが残り現在に至っています。

 

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    ・ 「昭和22年米軍撮影の空中写真」  中野方面から上流に向かって改修中の本流が、環七通りで中断していた時期で、旧本流や右岸流と併存しています。

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    ・ 環七通り 方南方面を見通しています。陸橋下が左岸段丘にあたり、そのやや先に、改修以前の本流に架かる堀ノ内橋があったことになります。

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    ・ 和田堀橋  昭和37年(1962年)、環七通りの拡幅に伴い架け替えられ、善福寺川では最大の幅25m、長さ10.66mの橋になりました。

 <堀ノ内・和田村境>  現行の住居表示では杉並区堀ノ内と和田の境は環七通りが画していますが、これは江戸時代の堀之内、和田の村境を反映したものです。もっとも、当時の境は環七通りの左右にズレていて、上掲→ 「空中写真」に白線で重ねたのは、明治に入り和田堀内村となった際の大字堀之内、和田の境です。左下では右岸の用水が境となっていますが、その後は本流と同様に北上しています。どうやら、善福寺川の迂回をもたらした舌状の微高地があり、その際に村境が設けられていたようです。環七通り右手の白っぽく写っている区画が微高地、左手の黒っぽいのが田圃なので、言い換えれば田圃までが堀之内だったことになります。

 


旧本流跡2

2017-08-04 06:42:49 | 善福寺川6

 区画整理によるショートカットの際、取り残された旧本流跡をたどって北上しています。左手から左岸流の合流があった直後、左岸段丘に突き当たって右折、東に向きを転じます。80mほど段丘に沿ったあと、環七通りに突き当たって終了です。ところで、→ 「東京近傍図」を見ると、環七通り前後の本流の外回りを、左岸流がめぐっているように描いています。実際には、→ 「段彩陰影図」からも読み取れるように、本流が左岸段丘に沿っていたため、左岸流の流れる余地はなく、何らかの誤解に基づくものと思われます。 

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 横切っている通りは昭和に入り、環七の元となったバス通りの開通時に新設されました。

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    2. 引き続き北上します。正面に左岸段丘が見えてきました。

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    3. 左手から左岸流の合流を得た後、段丘に突き当たって右折します。

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    4. 環七通り手前です。右手の路地もかっての水路と重なるようですが。

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    5. 環七通りです。元の本流はやや左手に向かい、現在立正佼成会の用地となっているところを横切っていました。

旧本流跡

2017-08-03 07:15:18 | 善福寺川6

 堀ノ内橋から駒ヶ坂橋まで、左岸に迂回していた旧水路をショートカット、ほぼ直線とした改修は、和田堀町第二土地区画整理事業と関係しています。第二次大戦で中断するまでに、環七通りの東側はほぼ完成しており、「杉並の川と橋」(平成21年 杉並区立郷土博物館)によると、昭和21年(1946年)に工事は再開し、同25年に済美橋下まで、翌年大松橋下までの護岸工事が完了したとあります。なお、このショートカットの際、切り取られた旧水路はすぐには埋め立てられず、バイパスのような形で残りました。その跡は現在も道路になっていて、環七通りまではたどることができます

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    ・ 「昭和38年国土地理院撮影の空中写真」  上掲地図のグレー枠の部分です。同一個所に同一番号を振っています。

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    1. 定塚橋から左岸方向です。善福寺川取水施設のあたりから、元の本流は北上していました。

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    2. 取水施設裏の道路は、「下水道台帳」では「水路敷」となっています。

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    3. 緩やかなカーブを見せながら引き続き北上します。

<善福寺川取水施設>  神田川の方南橋から妙正寺川、新昭栄橋までの4.5kmの間、環七通りの地下50mには環状七号線地下調節池と呼ばれる内径12.5m、54万立方メートルを貯水可能な地下トンネルが開通しています。善福寺川取水施設はその地下調節池への取水施設の一つで、平成9年の神田川取水施設に次いで、同19年に完成しました。増水時に取水された善福寺川の水は、落下の際の衝撃を緩和するために、らせん状に回転しながら流入孔を流れ落ち(ドロップシャフト)、いったん減勢池に溜まったのち、内径6mの導水連絡管渠を通って調節池へと流れ込むのだそうです。 

 


区画整理

2017-08-02 06:51:55 | 善福寺川6

 環七通りから神田川との合流地点にかけて、善福寺川が現行のように改修されたのは、昭和初期から30年代にかけて、二次にわたって行われた和田堀町の土地区画整理事業と連動してでした。まず、昭和2年(1927年)に発足した中野町第二土地区画整理組合によって、淀橋から区境までの改修が先行、それを引き継ぐ形で、昭和5年に発足した和田堀町第一土地区画整理組合が、翌年から昭和17年にかけて、区境から駒ヶ坂橋までの改修を行い、現在の和田1丁目地域を区画整理しましたました。

 

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 第二土地区画整理組合は昭和16年(1941年)に発足、総面積8万6千余坪の区画整理に着手しましたが、第二次大戦と引き続く戦後の混乱期に中断、昭和28年に規模を3万5千余坪に縮小して再開しました。対象地域は駒ヶ坂橋より下流の和田2丁目、方南2丁目、堀ノ内1、2丁目、及び神田川、善福寺川両河川に挟まれた中野区弥生町6丁目で、事業が完了したのは昭和35年のことです。

 

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    ・ 区整碑  昭和18年の日付のある第一土地区画整理事業の記念碑は、地下鉄中野富士見町駅前にあります。背景の橋は富士見橋で、杉並と中野の区境に架かっています。 

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    ・ 方南公園  区画整理によって環七通りの下流、右岸段丘斜面に出来た公園で、その一角には和田堀第二土地区画整理組合事業の→ 記念碑が、昭和35年に建てられました。

左岸の用水3

2017-08-01 06:27:23 | 善福寺川6

 妙法寺道を過ぎて二流に分かれたうち、左手のものを追います。→ 「堀之内村絵図」にあるように、北上する本流に合流するまでです。なお、「杉並の通称地名」(平成4年 杉並区教育委員会)によると、流路の左手の一帯(堀ノ内2-9~12)は昭和20年ころまで「ばっけ」と呼ばれていたようです。左岸段丘が小崖線の様相を呈していて、かっては湧水もあったのでしょう。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 妙正寺道まで戻り、今度は左手の水路を追います。

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    2. このあたりから右手の本流に戻る水路もあったようですが、特に痕跡は残っていません。

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    3. 若干左手にずれたところに、狭い路地の入り口が見えます。ここからは水路単独だったのでしょう。

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    4. 「杉並の通称地名」にある「ばっけ」と通称されたのはこの左手です。

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    5. 本流に戻って終了です。本流といっても区画整理以前のもので、当時は左岸段丘際まで北上していました。

左岸の用水2

2017-07-31 06:47:42 | 善福寺川6

 堀之内村の左岸を灌漑していた田用水の二回目です。→ 「堀之内村絵図」で本村橋下流から分岐し、前回の水路に合流しているものを追います。→ 「大正5年修正」の、宅地を現わす斜線区画の東縁に沿うものですが、本村橋近くの痕跡は失われています。その後は「地形図」にある通り、妙法寺道を越えたところで右カーブし、本流に戻るまでを追います。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 本村橋の東にあるもう一つの用水跡です。右カーブの先で左手から前回の水路が合流します。

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    2. 熊野神社のある段丘前を東に向かいます。「堀之内村絵図」では字岡田と書き込みのあるところです。

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    3.  妙法寺道を越えます。ここで二方向に分岐しますが、「村絵図」では左手のみ、地形図では右手のみ、→ 「迅速測図」は両方描いています。

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    4. 右手の水路です。右カーブの先にはコンクリート蓋が残されています。

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    5. コンクリート蓋はここまでですが、左奥に見える階段の先は堀之内橋下流の善福寺川です。

左岸の用水

2017-07-29 07:19:53 | 善福寺川6

 「新編武蔵風土記稿」は堀之内村の堰三ヶ所のうち、村の南を流れ和田村に達するもの以外の二ヶ所について、「又一ヶ所は中道にあり、又一ヶ所は小名本村にあり、この二流は村内にて本流に落合」と書いています。これは→ 「堀之内村絵図」で、二ヶ所で分岐したのち合流、村内で本流に戻っている左岸流の様子と一致しており、本村橋から環七通りまでの左岸には、「絵図」と同様の流路の痕跡が現在でも残されています。ただ、最初の分岐からしばらくは、済美教育センターの敷地にあって失われていますが、昭和62年(1987年)の発掘で、古墳時代後期の住居跡や江戸時代後期のゴミ捨て場などとともに、灌漑用水路の存在も確認されています。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(大正5年修正) / 中野」  上掲地図と同一場所、同一縮尺です。

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    1. 本村橋手前で左カーブに差し掛かります。左岸への最初の分岐があったのはこのあたりと思われます。

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    2. 本村橋から左岸方向です。熊野神社前への道が右カーブするあたりを、左岸流は横切っていました。 

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    3. 右カーブの先でもう一つの左岸流と合流していましたが、次回に続きます。 

 <渋谷の水車>  昨日引用した「嘉陵紀行」の中に、「水車聞ゆる所を、右に見て田間を行」の一文がありました。やはり昨日UPした→ 「迅速測図」には、熊野神社前から本村橋に差し掛かる右手に水車を確認できます。これは、その後の地形図でも、「大正10年第二回修正」まで見ることができ、「杉並の通称地名」(平成4年 杉並区教育委員会)によると、渋谷家所有の水車があったため、昭和10年ころまで「水車」と通称されていたようです。同書には「今井さん堰」の項もあり、「済美学校創設者今井恒郎の所有地内にあって水車の水を引くためであった」と書いています。

 


堀之内村の橋

2017-07-28 06:24:22 | 善福寺川6

 「東京府志料」は「善福寺池流」にかかわる橋梁リストを載せていますが、うち堀之内村関係は次のようになっています。「板橋三 堀ノ内村ニアリ一ハ天正寺橋長二間半幅一間一ハ前田橋長二間半幅一間一ハ子ノ神橋長三間幅五尺」 これを→ 「堀之内村絵図」→ 「東京近傍図」と照らし合わせてみると、熊野神社前を通る下総往還などと呼ばれる古道や、方南方面から妙法寺に至る妙法寺道にかかわるものです。

 

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    ・  「迅速測図 / 東京府下武蔵國東多摩郡高圓寺村(部分)」  「東京近傍図」と重なりますが、色彩がある分読み取り安く、また本村橋手前の水車など、若干異なるところもあるため、あえてUPしました。 

 「村絵図」に書き込まれた字名から推測すると、天正寺橋は大正寺橋の誤記で、下総往還の右岸流側に架かる橋、前田橋は本流側に架かり、現在は本村(ほんむら)橋と呼ばれているものです。ただ、ここでの本流、右岸流の区別は現在を基準にしたもので、二つの橋の大きさが全く同じことや、「迅速測図」の描き方などからは、その区別は意識されていなかったのでしょう。次の子ノ神橋は妙法寺道にかかわるものですが、「東京府志料」の当時、本流と右岸流のどちらに架かっていたのか不明です。ちなみに、「杉並の川と橋」(平成21年 杉並区立郷土博物館)に掲載された、環七通り開通以前と注記入りの概念図では、北側のものが堀ノ内橋、南側のが子ノ神橋となっています。

 

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    ・ 本村橋  平成18年から継続していた善福寺川改修工事(済美橋・和田堀橋間)は完成し、本村橋や 奥に見える→ 堀ノ内橋は新しくなりました。

 <嘉陵紀行> 文政9年(1826年)4月28日の「嘉陵紀行」の一節です。「堀の内村妙法寺にまふで、それより大宮村八幡宮に参拝す、其道すがら妙法寺の門の前を南に行、人家二戸許在処のかどより右に横折て、少し高き処に上る心地にて、又少し下りゆけば、水車聞ゆる所を、右に見て田間を行、又山徑に入て一條の馬道に出、此馬道は即ち八幡宮の大門の通り也」 この道順を追ってみると、妙法寺前から妙法寺道を南に下り、途中右折して下総往還に入り、下って田圃の中を抜け、又山道に入って大宮八幡の通りに出る、ということになります。とすると、途中「水車聞ゆる所を、右に見て田間を行」のところで、水車前に架かる前田橋(本村橋)を通り、次いで大正寺橋を渡ったのでしょう。

 


右岸の用水9

2017-07-27 06:37:25 | 善福寺川6

 子ノ神橋から環七通り手前までの右岸流です。子ノ神橋を過ぎると二流に分かれますが、うち、段丘に沿って孤を描きながら和田村に向かう水路は、宅地造成によってその痕跡の前半が失われ、泉南中学のある段丘下の路地となって復活します。その後は再び二流に分かれ、左カーブで本流に戻るもの、東行して和田村へと入るものがありました。ただ、後者は環七通りに阻まれてその先をたどることはできません。なお、→ 「和田村絵図2」の右端で、右岸流と堀之内、和田村境が重なっていますが、今回の区画に該当し、明治に入り和田堀内村の大字境に引き継がれました。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(明治42年測図) / 中野」」  上掲地図と同一場所、同一縮尺です。

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    1. ここから右岸段丘下の路地となって復活します。段丘上は泉南中キャンパスです。

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    2. かっての村境と共に、左折して北に向きを変えます。 

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    3. 「地形図」には描かれていませんが、北上する本流に戻る一流もありました。 

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    4. 「地形図」に描かれているのは右カーブで和田村へと向かうほうですが、環七通りに阻まれて痕跡は失われます。 

右岸の用水8

2017-07-26 06:06:59 | 善福寺川6

 ガーデン堀ノ内住宅の南縁に沿っていた右岸の用水は、その敷地から離れたところで方南方面から妙法寺に至る妙法寺道を越え、すぐに二流に分かれます。今回は左手の流れを追い、定塚橋で本流に戻るまでです。なお、妙法寺道には子ノ神(ねのかみ)橋が架かっていました。→ 「堀之内村絵図」→ 「東京近傍図」にも描かれています。「村絵図」に書き込まれた字名からして、子の神(ねずみを使とする大国主命、大黒様)を祀る社の存在が推測されますが、目下のところ未確認です。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. ガーデン堀ノ内住宅の南縁に沿って、左カーブで徐々に北寄りに向きを変えます。

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    2. 子ノ神橋の架かっていたところです。右手に向かう水路もありましたが、ここでは直進します。

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    3. 右折、次いで左折のクランクです。

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    4. たくさんの車止めでガードされていますが、ここで左折です。

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    5. 定塚橋で本流に戻ります。一帯の字、定塚窪(久保)が由来ですが、橋自体は善福寺川改修後の架橋です。

右岸の用水7

2017-07-25 07:02:51 | 善福寺川6

 だいしょうじ公園まで戻り、右岸段丘に沿って流れる用水跡を追います。それらしい蛇行を繰り返しながら、全体として左カーブで向きを北寄りへと変えます。途中、マンション(ガーデン堀ノ内住宅)の敷地の南縁に沿いますが、昭和40年代初めに造成地に建設されたものです。なお、「杉並の通称地名」(平成4年 杉並区教育委員会)によると、だいしょうじ公園付近は砂利の採掘場所だったところで、大正ころまで砂利根と呼ばれていました。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. だいしょうじ公園に戻り、右手に右岸段丘を見ながら進みます。公園先の左手は堀ノ内子供園です。

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    2. 左カーブ、右カーブのクランクで若干北側にシフトし、段丘の際から離れます。

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    3. ガーデン堀ノ内住宅の敷地に沿い始め、狭い路地風になってきました。

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    4. いったん中断しますが、その先連続しています。ただ、フェンスに阻まれるため、方南通り経由で迂回しなければなりません。

0409h0409g

    5. 引き続きマンション敷地の南縁に沿い、北寄りに向きを転じます。