「うつせみ和尚」のお説教

『うつせみ和尚の日記』二件の事故が元で『(複雑性)PTSD/鬱』になって
闘病、障害当事者として活動している者です。

空蝉の現人的こころ-『精神病院内のピア職員差別』って、どやさ!?

2016年09月08日 21時13分06秒 | 「うつせみ和尚」のお説教

題目が過激的?ですが、実話を元にお話ししますので、しばしお時間を拝借したい。

「病院は広い」というイメージがありがちですが、

「職員の居場所」というのは結構手狭なのです。

現に私のような者にはPCもイスもテーブルも与えられていない。

なので、病院の事務方は「居場所が特定できない」私に電話が掛かって来ても

お手上げなわけです。

「テーブル・イス・電話」があれば大したものです。

しかし、それらを与えられても「ピア(障害者)」であると、

なにかと、『孤立感』を感じざるを得ません。

私もいろいろ「被害」を聞いてきましたが、そんな中のひとつをば・・・

手狭な職員の部屋だと、同じ課でも別々の部屋になる事はあるのですが、

大人数がいる部屋で、なにかの祝い事があって

皆お金を出し合ってケーキを用意してたそうです。

別の部屋の人は何にも知らずに入ってきたと思いなさい。

どちらもバツが悪く、ピアの方はなにも見なかったかのように部屋から出たそうです。

なぜ、ピアが気を遣うのか?

かく言うわたしも、あまり居ない病院本館で食事するときは、

手弁当なのですが、お水と箸をもって「一人席」に行って、

誰にも見つからないよう身を細くして(無理)して、そそくさと食事を切り上げて

食堂を出るわけです。

病院の表っ面は「障害者を雇っているから評価してください!」と、

行政にアピールしても中身はこんなもんです。

でも、ピアの方々は明るいですよ!

我々ピアといるときはね・・・

 

 

 

 

 

 


『(C)-PTSD論』-当事者の立場で、「時計は止まったまま・・・」

2016年09月05日 22時44分06秒 | 「うつせみ和尚」のお説教

この写真から解るように「戦争」と「PTSD」は密接な関係があります。

帰還兵の自殺率が高いことやふさぎ込む人、行動・言動に異常を来す人などです。

まぁ、私もそうですが「あの時から時計が止まったまま」と言う感がします。

昨今、日本も天変地異で「家族」や「家」を失った人が

「PTSD」と見られる症状を来す方がいます。

今は現地にカウンセラーや看護師が素早く駆けつけるなど手厚くされています。

「PTSD」の研究で最先端を言っているのはアメリカだと思いますが、

向こうの日本語訳や書籍を読んでも今ひとつで・・・

「なんだか違うなぁ~」って感じです。

ショックを受けた当初は、「急性ストレス障害(ASD)」といい。

一ヶ月以上症状が続く場合には、「心的外傷後ストレス障害(PTSD)」と言います。

私はグチャグチャなので、「複雑性-心的外傷後ストレス障害(C-PTSD)」

と言うわけです、格好いいでしょ(冷笑)

うつ病も併発する方もいます。(私もね)

私の場合は、今思えば今年骨折で数ヶ月入院したことが、今の「ほぼ安定状態」が

保れているのではないかと、分析している。

もちろん、今年で丸一年続けているカウンセリングの効果もあると思っている。

しかし、しかし(二回も言うな)ながら、

ご多分に漏れず「私の時計も17年前から止まったまま」です。

どうやったら、「止まった時計が動くのか?」解りません。

私を取り巻く環境は刻一刻と移り変わっているのに、

「なんだかなぁ~」って感じ。

本人しか解らない感覚ですがね。

「倒れても前に倒れたら、少しは進む。倒れて手に土がつけば、払わず懐に入れる」

全ては、自分の「徳」に・・・。

(徳=利益ってことじゃないよ)

 

 

 

 

 

 

 

 

 


空蝉<うつせみ>現人の空蝉的こころ・『激動の昭和*源泉は江戸幕府倒幕から』

2016年09月04日 20時39分24秒 | 「うつせみ和尚」のお説教

京都人の言い草では、「京都で『さきの戦い』というと、

『鳥羽・伏見の戦い』です。」なんて言いますが、

ちゃんと、と言うか京都も大東亜戦争の末期に鳥羽辺りで空襲があったようです。

さらに京都人は言います。「それは『洛中』じゃないでしょ?」と。

減らない口です・・・。

さて、本題に・・・m(_ _)m

私の今興味のあるのは、

日中戦争(盧橋溝事件)1937年(昭和12年)7月7日

~敗戦の日1945年(昭和20年)8月15日(玉音放送の日)

ちょうど、関心を持ち始めたときに、

作家の半藤一利さんが「昭和史A面B面」の二冊を出している。

私が興味を持ったときには、まだ「B面」は、発行されていませんでしたが。

私がこの「昭和史」を読んで引っかかったのが「二・二六事件(にいにいろくじけん)」。

この前に「五・一五事件」もあるのですが、「二・二六事件」は、

徳川時代(江戸時代)が、始まってから帝都でこれ程大きなクーデターはありません。

その後、有ったとすれば「オーム真理教・地下鉄サリン事件」であろう。

前者は、陸軍青年将校(だいたい、20代半ばの年齢)が、蹶起(けっき=決起)して、

岡田内閣総理大臣を始め、高橋是清大蔵大臣などの邸宅に踏み込んで、

次々に暗殺し、陸軍上層部を刺激し、『軍人における内閣の樹立』を夢見たのである。

これは、勝手に将校達が考えて、起ったわけで無く、

皇道派(天皇を中心とした軍人による政治)の軍人による扇動によるものだった。

そんなわけで、「純真無垢」な青年将校は、「今の内閣に『天誅』を下せば、

天皇の理解と内閣の軍人がきっと自分達の行動を理解してくれるだろう。」

と思ったのだが、軍人は「へっぴり腰」で「昭和天皇の逆鱗に触れる」

結局、このクーデターは一週間も経たないうちに、

「将校は原隊に戻るように、そうでなければ君たちは『賊軍』である。」

とされ、武装蜂起、原隊回帰となり、首謀者は名ばかりの裁判、

「東京陸軍軍法会議」にかけられ、首謀者のほとんどと銃殺刑、

そして、「思想的に扇動させた」とし、北一輝・西田税も民間人でありながら、

銃殺刑にあっている。

この「二・二六事件」は、様々な人々の主導権争いがあった。

全ては、上層部や閣内で行われてきたものだった。

 この「皇道派」と言われる軍人と「統制派」と言われる軍人。

当初は青年将校の希望であった「皇道派」真崎甚三郎を首班としていたが、

事件収拾後、「統制派」では、よく知られるところと言うと、

東条英機後の総理大臣である。

 ここから時代を遡ります!

まだまだこれは、調べねばならぬ!!