京都人の言い草では、「京都で『さきの戦い』というと、
『鳥羽・伏見の戦い』です。」なんて言いますが、
ちゃんと、と言うか京都も大東亜戦争の末期に鳥羽辺りで空襲があったようです。
さらに京都人は言います。「それは『洛中』じゃないでしょ?」と。
減らない口です・・・。
さて、本題に・・・m(_ _)m
私の今興味のあるのは、
日中戦争(盧橋溝事件)1937年(昭和12年)7月7日
~敗戦の日1945年(昭和20年)8月15日(玉音放送の日)
ちょうど、関心を持ち始めたときに、
作家の半藤一利さんが「昭和史A面B面」の二冊を出している。
私が興味を持ったときには、まだ「B面」は、発行されていませんでしたが。
私がこの「昭和史」を読んで引っかかったのが「二・二六事件(にいにいろくじけん)」。
この前に「五・一五事件」もあるのですが、「二・二六事件」は、
徳川時代(江戸時代)が、始まってから帝都でこれ程大きなクーデターはありません。
その後、有ったとすれば「オーム真理教・地下鉄サリン事件」であろう。
前者は、陸軍青年将校(だいたい、20代半ばの年齢)が、蹶起(けっき=決起)して、
岡田内閣総理大臣を始め、高橋是清大蔵大臣などの邸宅に踏み込んで、
次々に暗殺し、陸軍上層部を刺激し、『軍人における内閣の樹立』を夢見たのである。
これは、勝手に将校達が考えて、起ったわけで無く、
皇道派(天皇を中心とした軍人による政治)の軍人による扇動によるものだった。
そんなわけで、「純真無垢」な青年将校は、「今の内閣に『天誅』を下せば、
天皇の理解と内閣の軍人がきっと自分達の行動を理解してくれるだろう。」
と思ったのだが、軍人は「へっぴり腰」で「昭和天皇の逆鱗に触れる」
結局、このクーデターは一週間も経たないうちに、
「将校は原隊に戻るように、そうでなければ君たちは『賊軍』である。」
とされ、武装蜂起、原隊回帰となり、首謀者は名ばかりの裁判、
「東京陸軍軍法会議」にかけられ、首謀者のほとんどと銃殺刑、
そして、「思想的に扇動させた」とし、北一輝・西田税も民間人でありながら、
銃殺刑にあっている。
この「二・二六事件」は、様々な人々の主導権争いがあった。
全ては、上層部や閣内で行われてきたものだった。
この「皇道派」と言われる軍人と「統制派」と言われる軍人。
当初は青年将校の希望であった「皇道派」真崎甚三郎を首班としていたが、
事件収拾後、「統制派」では、よく知られるところと言うと、
東条英機後の総理大臣である。
ここから時代を遡ります!
まだまだこれは、調べねばならぬ!!