前回に続きます。
車の中で彼が語ったこととは。
「僕は今、お経を学びながら暗記しているのだよ。車の中でもいつも流して聴いている」と。
私は、意外な言葉に、一瞬戸惑いました。
そして要らざる推測をして、私の感想を述べたところ、
「そうではなくて、世話になった人たちへの感謝のの気持ちを表したいからだ」と。
その時のN君は、健康そのものに見えました。
病の兆候など、逞しい彼の体つきからは、全く感じられなくて・・・・・・。
ですから、その言葉を余り深く受け止めなかった私です。
只々、N君の行いの立派さに感動し、我が身を恥ずかしく思いました。
もしかすると、彼の心の内には、その時すでに、覚悟のようなものがあったのかもしれません。
健康には細心の注意を払い、高価なサプリメントも服用。
所用で上京した時には、東京の一流の整体師の施術をいつも受けているとのことでした。
私にも、その医院を紹介くださり、サプリメントまで一袋譲ってくださったのです。
一方、ハワイには、コンドミニアムを所有。
年に数回家族で出かけていた、家族思いのN君。
お世話になった恩師を大切にする、とても義理堅い人。
慶応大学在学中のゼミの恩師が亡くなられた後も、先生を囲む会を、奥様を励ます会に替えて、年に一回継続しておられました。
私が大好きなマーガレットを花束にして、墓前に手向けてあげたい。
今はそんな心境でいます。
彼の言葉の一つ一つが、身に染みるほどに印象的だったのに、深くそれを受け止めたとは、とても言えない私。
そして、この度の突然の訃報。
亡くなるまでの経緯が、郷里でN君と親しくしていた友人の話から、次第に分かってきましたが。
その詳述は、お別れ会の記述の時に話します。
今は、病名のみ。
何と、白血病です。
正確な病名は、骨髄異形成症候群。
被爆者にとっては、なんと悲しい響きでしょう。
N君は川岸にある見晴らしの良い、今のお住まいで被爆。
爆心地から一キロ足らず。
お母様はまだ赤ちゃんだったN君を抱きしめ、熱風から我が子を守るため、川に飛び込まれたようでした。
その時、流れてきた流木で脚を痛め、その後は一生脚が不自由なお暮らしに。
お父様は戦死されましたが、とても裕福なお宅だたため、その後も恵まれた家庭環境で、お坊ちゃんとしてすくすく成長したN君です。
お母様はお料理上手。
お菓子作りも上級の腕前。
ショートケーキを我が家にお持ちくださったり、N君のお宅で豪華な昼食をご馳走になったこともありました。
日本がまだ恵まれているとは言えない時代のこと。
そのあまりの美味しさに、感動したことを、今でも鮮明に覚えています。
私が絨毯や食器を褒めると、「~ちゃんは若いのに、見る目があるわね~」と感心されたことも。
私には今も忘れられない、嬉しい言葉でした。
青空を仰ぐと、亡くなった親愛なる人々が笑顔で応えてくれているような心境になれます。
私は長い間、被爆者の意識は持たないようにして、暮らしてきました。
被爆者手帳を手元に置くようになったのも、マイホーム建築後からです。
その私が多少被爆の影響を意識するようになったのは。福島の原発事故後からでしょうか。
その当時の風評に、私の心も蝕まれました。
でもこの度のN君の死の原因を知り、覚悟のような気持ちが、私の心にも芽生えた気がします。
被爆によって、私の体の細胞は幾分なりとも傷ついているでしょうから。
三キロの地点で被爆、75歳にになったばかりのわが身。
75歳を過ぎると、自分の体の潜在的な弱点が表に現れてきやすくなるのではないでしょうか。
そろそろ被爆の影響が出てきても、不思議なことではありません。
でもN君も私も、幸運な人生を全うすことができた、と今の年齢なら、言えるでしょう。
一瞬の閃光で、多くの人が命を落とした原爆です。
私達は、この年まで、生きながらえることができたのですから。
N君は、大往生を遂げられたに違いありません。
私がそう確信する感動的な理由があります。
その感動が、今も覚めることなく、私の心を揺さぶり続けています。
このお話は、次回のお別れ会の記述の時に致します。
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ありがとうございました。
花のように泉のように