昨日は、お正月を迎える前の一大行事として、年賀状書きを取り上げ、私のそれに寄せる思いとこだわりを綴りました。
もう一つ、それと甲乙つけがたいほど大変なのが、お節料理作りです。
60代になり、年末に過労で倒れ入院して以来、なんとなくその作業の半ばは、娘たちにバトンタッチされた気がしないでもありません。
それまでは数品、娘達も作ってくれましたが、ほとんどの料理は私がこしらえました。
お正月は毎年、わが家に家族が全員揃い、私の手作りのお節を囲んで、楽しく過ごしたものです。
数年前あたりから、娘たちが作る量がさらに増え、三分の一ずつ分担して準備するといった感じでしょうか。
でも、娘たちの仕事は、最近とみに多忙になってきているようです。
頼んでよいものやら、ちょっと迷います。
準備した画像がなくて、昨日慌てて撮りました。
お正月や来客時しか使用しない器を載せることに致しますね。
嫁ぐ時に、母がお嫁入り道具として準備してくれた、輪島塗のお椀です。
最近の若い人達はお節を好まないといった話もよく耳にしますが・・・・・。
私の子供たちは、幼い時からお節が大好き。
喜んで食べてくれましたので、嫁いでからの48年間ずっと作り続けてきました。
準備しなかったのは、60代の始め、クリスマス前に入院したときだけです。
幸いにも、孫たちも好きなようです。
それに、横着と言いましょうか、研究意欲がなくて、お節に詰める料理のほとんどが、結婚当初と変わらない我が家。
母伝授のお節をしっかり守り通している、殊勝な娘です。(笑)
もちろん新たに加えたものや、母の紅白なますが七色なますになったり、と変化もないわけではありませんけれど。
両親から受け継いだ器、今右衛門作のものです。
お正月にまつわる思い出と言えば、特に忘れられないのは、新婚のお正月。
十月に結婚、まだ日も浅く、最初に迎えた新年でした
二人で過ごす初めてのお正月とあって、私はかなり張り切っていたのでしょう。
母が作っていたのと同様のお節をこしらえ、Yさんに喜んでもらいたい、との気持ちで一杯でした。。
でも作り方がよく分からない。
自信のかけらもありませんでした。
唯一頼りになるのは、母が私に手渡してくれたNHKの朝の料理番組のテキスト12月号でした。
何故か妹も同様のものを持っています。
けれど、このテキストだけでは、わからないことも一杯。
母に、遠距離電話を何度もかけ、必死で初めて自分で手掛けるお節に取り組みました。
新婚当時、自分で買った唯一の輪島塗のお盆です。とても勇気が要りました。
私達は、しばらく社宅に入れず、大阪の千里山に建つお屋敷の裏にある、2DKの狭いアパート住んでいました。
周りは、閑静な高級住宅地でした。
その客層を狙ったのでしょう。住宅地の中にあるビルの二階で、輪島塗漆器の販売会がありました。
若い私には場違いなところに思え、少々緊張したからでしょうか。
今でも、展示会場の雰囲気をとてもよく覚えています。
ところが、大変なことに。
作り始める前から風邪気味だった私の体は、悪寒と共についに発熱。
38℃を超え、39℃近くまでに。
でも私は熱を押して、ひたすら頑張り通しました。
Yさんが、私の健気な努力に感激し、とても喜んでくれるに違いない、と思ったからなのです。
でも私が期待した反応を、Yさんは示してくれませんでした。
それどころか、不機嫌な顔をして、
「そんな無理をしてまで、なぜ作るんだ」といったような言葉をかけられました。
優しい言葉も、ありがとうもなくて。
結構傷つき、悲しい思いに浸り、この人と結婚して良かったのかしら、と自問自答さえしたようにも?
結局寝正月で、ひたすら休養することに。
究極の照れ屋で、高倉健タイプ?(笑)だった夫は、その言葉が私をいたわる表現だったのでしょうけれどね。
そういえば、この頃、夫が好きだった歌が、高倉健の「唐獅子牡丹」でした。(笑)
他にもいろいろ想い出多きおせち料理ですが、今年も娘たちの協力も得て、頑張って作りましょう。
年に一度しか使用しない実家の遺品の輪島塗のお屠蘇器や、お重を出すと、お正月が目前の気持ちが一気に高まります。
去年は、お正月何を食べたのでしょう。
まだ深い悲しみの中にあったからでしょうか。
何も思い出せません。
家族が全員わが家に揃って過ごしたくらいの事しか。
今年は、清々しい気持ちで新年を迎え、良きスタートにしたいものです。
私の記事は、記述と投稿時の間に、いつもかなりの時間差があります。
そのため、内容に不自然さが生じてしまいますこと、ご了承下さいませ。
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