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か ら け ん


ずっと走り続けてきました。一休みしてまわりを見ます。
そしてまた走ります。

CELLO  Hitomi Niikura

2014年04月24日 | 音楽

8歳からチェロを始め11歳までドイツのビミスリッキー氏に師事。桐朋学園を首席で卒業、今はスイスに住む。

世界は広い。隣人との境界線争いばかり気にするのは能力がないからだ。それで頭がいっぱいになるのは低脳だからに違いない。

ロシアや中国や朝鮮の現代文学を原書で読めよ。字幕に頼らない映画を見ろ。だが、近隣諸国の文化に通じることは並大抵の努力ではできない。そこで、僕らは、「相手のことはまだ知らない」という自覚の下、さまざまな判断をしていく。彼女と付き合い始めのころのやさしい、遠慮がちな、思いやりのある自分を思い出せ。

横柄な態度で自分の所有物のように錯覚する。やめろ。僕は主水さんから「夜郎自大」という言葉を習った。

口から火を吹いて、竹島竹島と叫びまわるしか能がない自分が、恥ずかしくなるはずだ。

紛争は第一義的には外交で解決する。表面を飛び交う三面記事に狂喜して相手を非難する。ばか。言葉の国はそんなに単純じゃない。

元来、人類は、領土問題の発生に対しいかなる対応をしてきたか。国家権力は領土問題をいかに利用してきたか。それに真っ先に乗った低脳は、いかなる種類の人間だったか。

コタツから出てしばし酒を飲むのを止めて、刺すような夜風に頭を冷やすと自分が笑えてきたりする。

僕はそういいつつもパククネを許しはしない。彼女は外交を知らない。三権の長であるという認識に欠ける。それはまた次回。

犬を食う原始人の失態をしつこく笑うな。そもそも低脳は同じことで何回も笑う。

新倉瞳は超絶技巧の持ち主だった。だがチェロは伴奏楽器だ。主役ではない。主役に上ろうと100年ぐらい前からがんばっているが、無理がある。でも彼女が弾くとビオラやバイオリンの音が聞こえた。しかし、それが何だ。わざわざチェロで弾くことはない。

チェロでバイオリンに対抗心を燃やすのは見苦しい。逆にバイオリンは、チェロに絶対勝てない音域と音量と音色がある。

だから四重奏をする。

金子みすずの言葉を思い出す。「みんなちがってみんないい」

楽器の世界と同様に、世の中は異なるものがなければならない。えてして、少しでも自分と違うとヒキツケを起こして排除に努める。海上自衛隊は内部告発者の三佐を処分しようとした。その策動が世に知れると、今度はうやむやにした。異質なものが怖いのだ。軍の統制を考えろというパーがいる。よく読め、パー。自浄力のない軍が強いか。自浄力の根源はどこにあるか。上意下達の軍が強かったためしはない。

AV女優のパッケージを見るとなんてかわいいんだと思うが、実際の中身はそうでもなかったりする。新倉瞳さんはパンフどおりの人だった。めったにないことだ。

つれて帰り、僕のバイオリンに合わせて弾いてくれたらもう思い残すことはない。

      

  


おまいら、上からだと安心して同情してるだろ。

2014年04月17日 | 音楽

いいか。自分は安全圏にいて、心底共感しているんだと、同情または正義の旗を振るものがいる。たとえば、ソファーにひっくり返ってビール片手に南スーダンの飢餓を論じるやつ。海峡を挟んでいることに安心して散々鮮人の悪口を言い、仲間を募るやつ。

障害者が連帯するとき、すぐ分かったような顔で口出しをするやつ。そのくせすぐ飽きてほっぽり出して消えるやつ。障害は止めることができないんだぞ。

いずれも自分は快適な座敷の座布団の上にいて、廊下の座布団もないやつらに同情している。世の中、こんな欺瞞野郎が多すぎるんだ。

犠牲者が、かわいいとか障害者であるとかの場合、このときとばかり欺瞞野郎は正義漢ぶっていきりたつ。

「涙のファシズム」だ。

ただの条件反射だ。障害と聞いただけでも涙を潤ませ狂いまくる。身障者駐車場に止めていた健常者がいたことを糾弾すると絶叫するようにいいネが増える。

そもそも駐車場が狭いことが問題だ。どの駐車スペースも広くなれば解決することだ。いや駐車スペースがスーパーの入り口に近くないと、とか言い出すポン介がいるだろう。

じゃあ金属バットもって違法駐車野郎を待ち受けてやろうじゃないか。それはせんだろう。自分は安全圏だろうが。僕はその卑怯な精神が嫌いだ。

聞こえてくるぞ、おまいらの屁理屈反論が。からけんはどうなんだ、だろ。それは話の本筋と関係ないけど言おう。とことんホームラン級のバカだな。お前も一緒にバットのホームラン血しぶきにしてやる。

耳が聞こえないにもかかわらず、というえらそうな発言は許せない。この「にもかかわらず」というのがいやだ。劣っているのによくがんばっていると言いたげじゃないか。純粋に曲の勝負をするのだ。それがプロだ、プロの作曲家だ。耳がどうかは関係ない。ご存知のように世紀のいかさま師、佐村河内は化けの皮がはれた。この男はウソ障害を利用してアドバンテージにした。

世の中は、アホが熱狂しまたすぐ冷めるほど単純ではない。

大久保美来(13歳)というバイオリニストがいる。彼女は、いんちき佐村河内の曲を書いていたのは新垣隆だということを知ると、佐村河内がクレジットされた曲は弾かないと宣言した。

中2の生徒がけじめをつけることを知っているのに大人たちは無様だ。きっと、障害者に同情してHIROSHIMAのファンになったやつらは、潮が引くように消えるだろう。身勝手だ。

大久保さんはバイオリニストだが肝心の右手が生まれつきない。だがもう決して同情だけはするな。演奏で判断しろ。人生のメリハリのつけ方を知る彼女に同情は失礼だ。

同情されるのはポン介、おまえ自身だ。





CZECH PHILHARMONIC STRING QUARTET(チェコフィル 弦の四重奏)

2014年04月15日 | 音楽

水琴窟から歩いて50メートル。音響のよいホールがある。

演奏が終わり第一バイオリンと話をすることができた。お互いcopyだが、似たようなバイオリンを持っていたので親近感が沸いた。彼はガルネリ(フランス製、下注1)、僕はストラジの弟子が作ったものだ。正しくは「そうらしい」というべきだ。

彼は、お互いコピーだね、だけどストラジバリウス(注2)のほうがいいな。とほめてくれた。そして言外に今日のコンサートの出来がよくなかったことを認めた。

僕は思う。いつも心をニュートラルにしてbest conditionで弾くのは不可能だ。とくに、観客に土人の多い地方では。

以下、すべて演奏中にやってくれることだ。

パンフをパシャパシャ折ったり伸ばしたり気にも留めずにやる。携帯が鳴る。子供が騒ぐのを気にも留めない土人の親。隣の女房に何やら話しかける。間違いなくこいつらは軽トラで来ている。明らかに聞いてないそぶりでキョロキョロする。A席の前辺りに座ると舞台からよく見える。気が散るったらありゃしない。家で酒でも飲んどけよ。ここはお前と最も遠いところにある文化と言うものを鑑賞するところだ。

一番前に座っていても後ろに土人がいることが分かったので、僕は立ち上がってガンを飛ばした。演奏者には悪かったが我慢できない。

土人がマスカキ運動を止めるか、あるいは福岡県だから「表に出ろ」となると思ったが、土人はいったんはびっくりしつつ、手遊びを止めなかった。脳が器質異常を起こしている。

演奏が終わって楽屋で奏者と話したのが一番楽しかった。弾きにくかったでしょう、というとプロですからと悲しく笑った。

ストラジバリウスを手にするその日まで、彼はなんにでも耐えていく。ガンバレ。

彼とはドイツ語で話した。チェコだから当たり前だ。僕は英語ができない。ソウルの博物館の会議でわざとらしく館長が英語で話しかけた。僕は5回ぐらい、I cannnot、といったのにみんなに自慢したかったのだろう。これ見よがしに英語でたたみかけてくる。

僕が口ごもると日本人をやっつけてうれしいし、流暢に話すと自分の英語を自慢できてうれしい。悪質な韓国人の典型で、どこにでもいる。

韓国語ならFluentlyにできるから、韓国語で行きましょう、と何度も言った。ところが、英語を止めなかったので僕は帰った。英語が嫌いなのは私の勝手だ。

僕が帰れば会議はできない。後先考えないのも鮮人の特徴だ。

以後、僕は彼を見たことがない。土人は排除されねばならない。


 


注1 イタリアのバイオリン製作集団、およびそのバイオリンをさす。若々しくはつらつとした音が得意。写真。

注2 イタリアのバイオリン職人ストラジが90年の生涯をかけて製作したバイオリン、現存は200台。やさしく引き込む音が得意である。弾く人にとってはストラジバリウス同士でもぜんぜん違うという。

 

 

 


SISAY(シサイ、花が咲く)

2014年02月21日 | 音楽

天神(福岡の中心)にいくと、Z-sideという百貨店がある。岩田屋の亜種だ。カッコつけてジーサイドと読むそうだ。僕が知ったかぶりをしてゼットサイドというんだとある人に教えたら、その人は天神で大声で、「ゼットサイドはどこですか」と聞いてしまった。

今後、そのひとと会うことはないだろう。だから気にすることはない。

SUROY これをなんと読めというんだ。シュロアだそうだ。福岡南部にある中規模モールだ。無理がある読み方をさせて何を楽しんでいるのか。変態め。

かと思うと九州山口の貧乏人が狂ったように押し掛けて不必要な渋滞を発生させるモールがある。OUTLETMALL  これはそのまま読めばいいのだがいつから固有名詞になったのか。

例えば、電器屋という名前の電器屋があっては、区別がつかなくなる。寿司屋という名の寿司屋はない。「棚ずれ品集積所」。ま、「鳥栖」という言葉が冠詞のようにつくだろうが、僕が見た大きな看板には、ただのアウトレットとある。

しかも安くもないアウトレットに突進する姿は、貧乏のるつぼに自らはまるものだ。本物を見る目を曇らす。大丸、三越で同じものを見て安く買ったと誤った喜びにふける。変態だ。

二流なら持たないほうがはるかに豊かだ。

そんな読みにくいものに、MALLAGEというのがある。僕はマラゲと呼んでひどく顰蹙を買った。だが、どう見てもマラ毛だ。(本当はモラージュ)で、本題ベレッサ。BELLEZA 僕は読めん。スペイン語の方がよっぽど読みやすい。SISAY

うるさいモールの中で演奏していた。曲もUPしたいが、また痙攣をおこして消すだろうからできない。やっとUPするやり方を2年がかりで覚えたのに。皆さんは、YOUTUBEで検索してほしい。基本に忠実で且つ西欧の楽器との融合も図るなかなか本物だ。

ちょうど大丸や三越のようだ。アメ公やイタ公の名前を変に取り入れると、読み方の間違いごときを鬼の首をとったように笑う人間をふやす。そしてその人間こそ笑われることに必ずなる。

リーダーと話した。僕はスペイン語はほとんど知らないので身ぶり手ぶりで話した。とくにチャランゴ(charango)の演奏がとても速くてとても悲しい、と。普通、音楽は早いと楽しい。

どんなにハモっても、大きな声を出しても、チャランゴが二重弦の深い響きを出しても、僕はすべての曲が悲しかった。アウトレットな音楽がはやる中、本物たちの目は澄んでいた。

エクアドルにいて歌うのは、スペイン語の歌じゃないか。自分たち南米人はイベリア半島の言葉しか知らない。それでも歌う。言葉は饒舌になり曲は早くなる。歴史とともに、澱のように深く沈んでいるわだかまりをかき消すかのように。

いいか、朝鮮人。言葉をとられるとはこういうことだ。






 


高嶋ちさ子コンサート

2014年02月18日 | 音楽

(アホがあわてて消さないようにしつこくも今回、内容にうつる前に無料著作権講座をする。渋谷をうろつくガキが集まってSNSを始めると錯乱した行為をする。今回の高嶋さんの肖像は無料パンフレットのものだ。対価がないモノには権利は発生しない。よく考えたらわかるかもしれないことだ。無理かな。便所虫は便所から出てはいけない。臭いからだ。僕はチンピラSNSばかりでなく理性的なOCNがあって本当によかった。バカだらけなら日本は終わりだ。)

観客は、平日なのに子供を連れて来ていた人もいる。よくコンサートには、託児所ありとか書いてあることがある。そんなコンサートは貧乏人がいくコンサートもどきだ。よほどの嬰児でない限りしつけろ。

しかも学齢期の児童を連れて来ていた。欠席が増えたら報告書に書くのが怖い、タマの小さい公務員らしい教員は、学校を休ませまいとする。親はそんな貧乏組合員の妄言を跳ね返す教養をもっている。

「教育は親がします。」という親に対し返す言葉は下品だ。教員、「仲間の中で学び合う姿勢が必要です。」とぬかしやがる。そんなことしたらバカにひきずられて我が子の成績が落ちるだけだ。きちんとしつけられた同レベルのお友達はたくさんいる。

ところが、小学校の教員は、何でもかんでもお手手つないでチイチイパッパをやりたがる。この雀の学校には行かない権利がある。

低劣な親よ。学校がどうしたこうしたと叫ぶな。組合員がいるか、いじめがあるか、はたまたPTAが忙しいか。ほとんどカネも払わず給食にケチをつけ、教科書に因縁を付け、学校に因縁をつける。

この無教養な親は、子が高校になるとピタッといなくなる。数Ⅲは分からんからだ。そんなアホの狂宴に付き合うのは、よしたらどうだろう。校長たって、もと小学校の教員だぞ。

ホールでは、子供たちは一言も話さなかった。凛とした顔立ち、しまった口元、端正な服装、散髪したての髪。3時間動かなかった。これが教育だ。一日スズメの学校に行かないぐらい大勢に影響ない。

モーツアルトと同じ年に作られたストラジバリウスがいかに貴重なものか、子も親も学習した。みんな、NHK竜馬伝のテーマ音楽を弾いている人のピアノに天才を感じたはずだ。これがチェロかというほど自由な音階を行き来する演奏に、手に汗をかいて聴いていただろう。東京フィルはなんと言う人材を持っているのか、と。

コンサートは必ずかぶりつきで聞くべきだ。CDでは消される譜面をめくる音、チェロが舞台を擦る音、左右の離れた音、譜面台を動かす音、その場所により音をさえぎったり反射したりする。

子供を子供扱いしてはならない。子供はそのすべてを記憶して帰る。

確かに料金は、気絶するほど高い。それが何だ。保育料と称するカネで他人に育てさせているじゃないか。それに比べたら安い。どうしても行けないというなら、BOOK-OFFでUsedを買え。本物を大音量で聞かせろ。そこらのへぼ車のボコボコ低音を圧倒する教養を持つ子を育てよう。


バイオリンを弾くな。

2013年06月06日 | 音楽

バラックが連なり闇市が広がっていたころ。浮浪児はそれぞれグループを作りケンカに明け暮れていた。まやかしの同情心は彼らを施設なるものに収容しようとする。そのお先棒を担いだのが警察だ。この低脳たちは昔から今までさじ加減というものを知らない。浮浪児は人間ではなくノルマだった。

進駐軍は人殺しを作業のように行いながらもふとしたところに気まぐれで、お遊びの善人ごっこをする。そこらの孤児を帝国ホテルに連れ込むと、バスタブにあふれんばかりの泡を立てすっかりきれいにし、散髪し、三越で服を新調し、少々の金を持たせ飯を食わせると、はいさようならと放逐する。

さあ、どっちが悪質か。警察からまわされた浮浪児は孤児院で偽善的気まぐれに戸惑う。イエス様の説く世界はあまりにも輝き夢に見た母の出現を約束するが大ウソだ。彼らにとっては闇市の意地の悪い婆どもがよっぽどマリア様だ。善人ぶることもなく余った野菜をくれた。人は居心地のいい方に流れる。だから孤児院を抜け出すのだ。ノルマ消化の警官にはわからんだろ。

そんな孤児の中にバイオリンのたしなみのある子がいた。子供だから大した音は出ない。第一、バイオリン自体が焼失している。

軍関係のバイオリン奏者がどこからかその噂を聞きだし、その孤児と会った。子供が弾くにはフルサイズの大きすぎるバイオリンだったが、才能を感じさせる音がした。軍のバイオリン奏者はいくばくかのカネと自分のあまり上等でないバイオリンを与えた。

といってもバイオリンの値段というのは郊外の住宅より安いものはない。弓もほぼ同額だ。二人は再会を期して別れた。

バイオリン奏者は目が出なかったようだ。アメリカの芝生の庭に出てたしなむ程度に弾くのを老後の楽しみとしていた。運命は残酷だ。浮浪児は成人した。世は高度成長を迎えた。だが彼は乞食のままだった。佐世保に流れ着く。

老人となった奏者は奇跡的に多くの協力者を得て彼を見つけ出す。この美談をマスコミが放っておくはずがない。四ヶ町のアーケードの下、冷たい地面に彼は寝ていた。カメラの放列は彼をせかす。ボロボロになったバイオリンケースを開けろと。

これを制したのは老奏者だ。

持っていてくれただけで十分だ。開けることはない。その中にボロボロのバイオリンが入っていることは明白だったのだ。残念ながら乞食が弾けるものじゃない、才能がないものが弾けるものじゃない。

ここに逆説がある。だからトップの奏者は代表なんだ。夢がかなわなかった人たちの代表なんだ。豊かさだろうが才能だろうがすべてに障害なく、かつ指導者に恵まれて初めて花咲くものだ。トップ奏者は心しなければならない。自分ひとりでそこにいると思ってはならない。


若いのは声ばっかり大きくて中身がない。

2013年04月29日 | 音楽

おとといバイオリンの先生に呼び出されて先生のおうちを訪問した。ピアノと違いたった4本の弦しかないので調律は早い。ところがプロ意識のせいかなかなか弾き始めずに調律ばかりしている。この頃は調律器などという便利なものも出てきた。

大体でいいんだ。ぼくはコンサートでもない限りG線からポロロンとするだけでいい。KORGの気がきいた電子音叉もあるが、普通の音叉が電池もいらず第一壊れない。

先日音叉で合わせていたら知らない人から笑われた。だから何にも使わないで合わせるのが一番だ。バイオリンはフレットがないので少し弦の張り方がずれていても指のビブラートで調節できる。開放弦の時はいい加減な調律がばれるが横の弦で代用すればばれることはない。

いたれりつくせりのKORGを使うと絶対音階が甘やかされてバカになる。

バイオリンは本体も気絶するくらい高いが、弓もそれに負けていない。自動車の修理にホント似ている。まず、素人ほどいい道具をほしがる。さらに、やたら新しいものをほしがる。それは間違いだ。ほしがるという動機の前に大脳が働いていない。

スパナの形が100年前と変わったか。Macだ、KTCだと叫ぶ前にスパナの形の理由を考え過去の人間の知恵に畏怖を感じなければならない。

若造のバイオリンは声ばかり大きくて肝心なことができない。うっとりさせること。これができなければ楽器ではない。バイオリンの場合は若造といっても100歳だ。200~300歳が色気のある音を出す。壇密を弾いていい音を出したいものだ。

バイオリンにLEDをつけるバカはいない。葉加瀬が電子バイオリンを弾いていたがきわめて悪趣味だ。ビットレートを落として聴くようだ。つまりもうほとんど改良の余地はないのだ。

エンジンもそうだ、ミッションもそうだ。カーボンがついて古く見えるが本質は全く変わってない。キャブがFIになったか。バカ。飛行機は戦前からFIだ。

何をつけた何を貼ったで喜ぶバカは見苦しい。俺の勝手だとは言わせない。僕は見苦しいと言っているのだ。

そういう小手先のどうでもいいことに金をかけあくせく働く前に本質を考えてほしい。

よいバイオリンをよい弓で弾くとよい音が出る。このことはあと数百年は変わらない。

よい車をよい運転で転がすとよい気分になる。これもガソリンの続く限り変わらない。

バイオリンの先生が、「わしゃもうすぐ死ぬからからこのバイオリンはからけんにやろう」、と言ってもらって来たのが画像のバイオリンだ。受け取った時、僕は腰を抜かして喉がカラカラになった。

 

University of Cambridge for Genius not for Loonies

2013年02月22日 | 音楽

クリスマスの時期になると僕の下手なバイオリンでもパーティーに呼ばれることが多い。ま、タダ酒飲んで帰れるわけだからちょっとはバイオリンの効用もあるようだが15年も頑張ってその程度だ。

バイオリンの練習は4/1サイズのバイオリンから始める。おもちゃみたいな20センチ程度の本体でも値段はけっこうする。しかも僕は福岡まで習いに行くのがとても怖かった。不良たちが待ち構えているからだ。その不良たち。その子もきちんと不良になっているが、そこそこカネはためている。

僕の仲間にバイオリンの天才がいた。僕も彼ができることができないわけではない。しかし、時間が違う。一週間に一度閃く僕に比して彼は連続的にひらめきがある。彼は江藤なんかの偏屈バイオリニストをしのいでいた。彼と合わせると彼の音色にうっとりして僕はよく間違えた。

その彼だが、自分が上手なことなど全く意に介せず僕の数学の素晴らしさをしきりにほめていた。僕レベルの数学はただの暗記で漢字の練習みたいなもんなのにな。

5,6年遠ざかっていたら彼が死んだ。自殺した。死なせたらいけない人だった。下品な演歌をカラオケで近所迷惑も顧みず絶叫する糞ジジイが生きている一方でなぜ彼は死んだんだ。良い音というものがいかなるものかということを、低級公務員はもちろん高級官僚にも分かる人はめっきり減った。

息苦しい国から脱出して何が悪い。ケンブリッジには出勤簿がない、勤務時間がない、隣の人の研究にまったく関心を示さない、要求しただけの金をくれる、それは恐ろしいほどだ。天才が必死になった時、世にも恐ろしいことが起こる。そこそこ頭のいい奴の研究の数百年分の業績を一カ月で上げる。

今朝の朝日新聞にあったように、井底の蛙どもは本物の大学院を知らないか低能かその両方であるかだ。だから島がどうしたアカヒがどうしたと百年の大計を知らずにわめいている。優れたバイオリニストがウィーンに行くように天才はケンブリッジに行け。

科挙試験みたいな丸暗記の試験で多くの天才がつぶれた。極度にやさしい韓国語の試験はテレビを見ながら100点をとった。なのに英語と同列に評価される。こんな能天気と混じったらバカになる。

保母や薬剤師や小学校教員の養成所ならどこでもいい。外国に行く必要はない。

低能偏狭右翼が頭脳流出を嘆くが、流出した頭脳に帰国の枷をなぜはめるのか。Internathonalに交流、論議、論争、協力をしなければその人の能力は死ぬ。人間はいつまでも天才であるはずない。人生のほんの一瞬輝くのだ。それをきちんととらえる組織をUniversityという。

ひるがえって、鉛筆一本まで支給を受けたら報告書を書けと言う文科省の書類万能主義、形式主義は人の能力を殺す。こんな国では優れた画期的発明は生まれない。ただ役人のその場しのぎのための学校が十年一日のごとく意味もなくただの作業をしているだけだ。

Posted at 2013/02/06

諏訪根自子(すわ・ねじこ)、3月に死んでいたなんて。

2013年01月23日 | 音楽

生物が多様性を持つことで生態系も維持されると考えるのが今日の定説だ。組み上げられた網の目の壮大なピラミッドという生態系の中ですべての生物は生きている。その考えを進めると、生物各個体がその各自のDNAにわずかの個性の違いを持つことにより、多様性は安定し種自体が保全されていると考えてよい。

この多様性という内容をかってに都合よく非科学的に定義して、自らに都合のよい者たちだけの楽園を夢見た集団がいた。DNAの枠内での多様性を奨励した。つまりナチスドイツにおいては宣伝大臣が決める多様性という範疇からはみ出したものには生存の余地がなかったのだ。

ユダヤ人は「最終的解決」と、社会主義者ひいては自由主義者まで「処刑」と、ホモやレズは「清掃」と、そしてついに障害者は「消毒」と呼ばれ殺された。そしてポーランド人の殺害に関してはなんの呼び名もなく、子供から真っ先に殺された。親は抵抗をあきらめる。

彼らは臆面もなくこのような人殺しを多様性(アーリア人の多様性の確保)と言った。間違いだ。それは単一性であり民族浄化だ。

極東では太陽の帝国がこれをまね、世界で最も遅く産業革命を成し遂げたにもかかわらず700倍の国力の国に刃向かった。第二第三国民(兵役検査甲種、乙種合格に満たないもの)は非国民と呼ばれ在郷軍人会は多くの国民を自殺させた。

車いすに乗って必死に日の丸を振っても邪魔な人間であることに変わりない。ラジオ体操の後、精神訓話をたれる老人も空襲で真っ先に焼け死んでほしい人たちだ。

頭に血が上ってお互いに相手国をバカにするのがとくに最近熱心だ。上記のように戦争になれば異なる存在を認めない社会が必ず来る。みんな防衛大学に合格したつもりの議論が盛んだ。間違えるなよ。我々は、邪魔者として味方から殺されるか、兵として敵に殺されるかのいずれかにすぎない。

つまり我々は狭く定義された多様性の外にいる。

アウシュビッツを管理していたナチス将校は、多くの障害者を「消毒」しながら家では良きパパであった。モーツアルトに涙を流しかわいい子供や奥さんに囲まれ幸福感を満喫した。人間の心の深くにある「流れに逆らわなければ良心は麻痺する」こともいずれ論じる。

残念ながら、日本初の海外留学生が乗った客船がドイツハンブルグについたとき、戦争が始まったのだ。ドイツの領土が狭まるとともに諏訪の活躍の場も狭まった。諏訪はドイツ領土の縮小とともに網にかかった魚が苦しむように残されたドイツ領土を演奏して回った。

諏訪は上手ではない。それは今の基準で聞くからだ。暗中模索の中で道を開くパイオニアは無駄も多くいい先生にめぐり合うことも少ない。しかし、男らしいその音色はバイリンの原点に立ち返らせてくれる。

「くもん」でチャラチャラ計算するのは数学と関係ない。

ゲッペルス宣伝大臣は一つだけいいことをした。ベルリンフィルをバックに堂々と演奏する彼女に感激しストラジバリウスを送った。ユダヤ人から取り上げたものだという奴がいるが、とんでもない。友邦日本の天才にそんなことをするはずない。

僕はストラジバリウスを弾いたことがある。弘法は筆を選ぶ。この僕ですら天才?と思うほどよい音が出た。諏訪根自子、ゲッペルスからのバイオリン、一番うれしかったときだったろう。やすらかに。

Posted at 2012/09/25

「演歌始祖の古賀政男は韓国人」

2012年12月15日 | 音楽

          「演歌始祖の古賀政男は韓国人」、日本の艶歌歌謡協会理事長が証言=韓国 ・・・・・・サーチナより

 

韓国テレビのドキュメンタリー番組で、昭和時期の代表的な作曲家である故・古賀政男氏が韓国人だと紹介されており、 話題を集めている。韓国メディアが10日、伝えた。(1月10日)

3日に放送された新年特集ドキュメンタリー番組『韓国人の音楽 トロット(韓国大衆楽曲)』では、トロットの歴史や 同国歌謡史への影響などについて紹介した。

番組では、日本艶歌歌謡協会の理事長を務める高樹一郎氏が登場し「演歌は韓国メロディから生じたもので、演歌と トロットは酷似している。

演歌始祖の古賀政男先生は事実上韓国人であり、歌で敗戦後絶望していた日本人に夢と希望を 持たせた」との見方を示したという。

韓国大衆音楽評論家のバク・ソンソ氏は「これが事実ならば、韓国と日本の大衆歌謡史は書き換える」として、 関連調査と研究を早急に進めるべきと指摘している。

一方、ネット上の掲示板などでも同話題が取り上げられ、「古賀政男が韓国人」ということから、 「演歌の韓国起源説」に共感する意見が多く寄せられた。「歌唱法や音階をみると、韓国民謡に似ている」などと
書き込まれた。

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たまにはお前ら(朝鮮人)の味方でもするかと思って最近のブログを書いていたのが間違いだった。

バク・ソンソは調査するといったがその後音沙汰ない。

古賀政男は僕の家の近くで生まれた。本人の家系にも周囲にも朝鮮人はいない。大川、柳川は朝鮮人の少ない地域だ。農村というものは利権がレンガ積みの壁のようにびっしり積み上がっていてよそ者の入り込む余地はない。

古賀本人がそうじゃないか。5歳の時親が死に行き場をなくした彼は、むしろ朝鮮に行く。朝鮮から古賀が来ることは全くありえない。5歳で親が死ぬのは当時の日本人の平均寿命からすると通常のことで、親が40歳で死ぬのは長生きの方だった。

朝鮮では知己を頼って仁川に住む。仁川には僕も住んだ。今韓国は日本人町から優先して再開発をしている。日帝の残滓をなくしたいようだ。もったいないことをする。貴重な近代建築遺産なのに。

 

「演歌は韓国メロディから生じたもので、演歌と トロットは酷似している。」言いも言いたり。バカが高じて痙攣をおこしたな。

演歌が韓国メロディから生じたものなら日韓合併以前にもいわゆる韓国メロディなるものがあったことになる。ただのメロディでよかったらたしかにあった。高樹も歌手なら分かるように古来のシジョーやタリョンと演歌とは全く音階が違う。

高樹のために答えを言ってやろう。日本の支配以後、とくに武断統治が終わるころから盛んに内地から半島に導入された日本の当時の歌謡曲の音階が、今になっても韓国においてその影をのこしているにすぎない。かといって、朝鮮の歌手を蔑視するものでは決してない。僕はバイオリンを40年した。耳は鍛えてある。韓国の演歌歌手の実力は日本と同等だ。

言えることは、こうだ。韓国メロディーが日本の演歌を作ったのではなく、日本の演歌が韓国演歌あるいはトロットを作ったのだ。韓国民謡と演歌は、歌唱法や音階において相互にまったく異なる。

再論するが、似ているモノはただ一つ。日本人古賀が伝えた演歌と、それが今に残る韓国演歌だ。

Posted at 2012/03/22