読者の皆様には申し訳なかったと思います。僕に反感を抱いている人もさぞや寂しかったろうと思います。ネット環境がそろわなくてひと月も迷惑をかけました
本論。
言葉とはなかなか通じないものだ。ただ、どんなに嫌な奴の言葉でも、ふとした瞬間にストンと納得する時が来るものだ。それは世界が二律背反で成り立ってはいないからだ。例えばアホは、あれは左翼だ、はたまた右翼だと色分けをしたがるが、どうして世界が右と左しかないといえようか。
前も後ろも上も下もある。
人を左に追いやって自分だけの整合性の中でマスをかく変態は、とにかく女性に嫌われせいぜいブスと添い遂げるのがオチだ。
どうも世間がうるさくなってしまった。知にはたらいて角が立ったわけでもなく、平凡な日常が息苦しい。
清涼剤が必要な時に、タイミングよくジュエリーの発表会があった。この年になるとドレスコードがめんどくさい。ベンツS以上だのスーツも細かく言われる。僕は極貧で正月は毎日うどんで過ごした。しかし悔しいじゃないか。無教養の小金持ちには負けない。
食事が出るのが楽しみの一つで、タダだから文句ないがやはり炭水化物に浸かった体はけいれんを起こして喜んだ。
時計なんてダイソーに行けば100円で来る。それはグランドセイコーより正確だ。
だから何だ。時を知るのは5番か6番目に重要なことで、一番は、何といってもそれを身にまとったことにより元気が出るかが重要なのである。
値段は安いが僕の時計の中では最高に僕を元気にする。SEIKOは大好きだ。
今日は庶民の生活に触れようと スーパーに行った。どうして貧困な人はあんなに老けているのだろう。その上表情が厳しくいつも子供を叱っている、声が大きい、服装が派手で汚れている。
人が人生をかけてタダの石を探し求め、またある人は技を磨き年月と伝承を加え、最高の接客技術とともに、やっとジュエリーになる。ウブロの係の人がいいことを言った。「宝石はどんなに大きくとも価格は手間賃の積み重なりのみです。」
今のロレックスは下品の極みだが、60’は上品なジュエリーだった。
しきりに感激していたが、僕の下心は見抜かれていた。「からけんさん、食事ならいつでもできますよ。」