《河童》の旅メモ

富雄川流域探索

ちょこっと福井の旅・一乗谷朝倉遺跡「戦国時代の城下町が…」

2019年09月13日 | Weblog

山際には多くの寺院跡があり、土塁、
柿経(こけらぎょう・ヒノキ材を削った
30cm内外の細片"柿"に経文を墨書したもの)、
卒塔婆、墓地などが発見されている。
縦横に走る道路沿いには、武家屋敷、
寺院、大甕を並べた紺屋をはじめ数珠屋、
鋳物師、檜物師(ひものし・曲げ物師)、
刃研技師などの職人の家や坪庭のある医者の家が建ち並んで、
職人町家を形成していた。
1区画ごとに裏庭、井桁に組まれた石枠の井戸と、
側溝に流されていたと思われる石組の厠跡が復元されている。
そこには幾人かの職人が働き、人口密度が相当高かったと思わている。

今日の暦:(1914)年、第一次大戦で日本軍が
ドイツ支配下の膠州湾(こうしゅうわん)を占領。


ちょこっと福井の旅・一乗谷朝倉遺跡「大手口」

2019年09月12日 | Weblog

一乗谷の城下町は、南北の谷幅が最も狭い場所に
「城戸」を設置し守りを固めていた。
城戸は外側から町中をうかがうことが出来ないように
「矩折(かねおれ)状」、桝形状に作られていたとある。
門扉はないが「大手門」の様な役目をしていたのかも知れない。
「現在は幅18メートル、高さ5メートル、
長さ20メートルの土塁が残っている。
枡形虎口である門跡には重さ10トン超の石が積み上げられている。
なかには40トンを超す巨石もある。
また、城戸の外側には幅10メートル、深さ3メートルの堀があり、
かつては一乗谷川と直接繋がっていたと考えられている(ウイキペディアより抜粋)」。

今日の暦:昭和37(1962)、原子力研究所国産第一号炉に原子の火が灯る。


ちょこっと福井の旅・一乗谷朝倉遺跡「一乗谷へ」

2019年09月08日 | Weblog

朝倉氏遺跡史料館から直ぐの、足羽川(あすがわ)と
一乗谷川の合流地点を南に少し入ると、
一乗谷朝倉遺跡の石柱がたっている「下城戸」。
一乗谷遺跡は南北約1.7㎞の谷間にあり1万人の都市であったと云う。
谷幅が最も狭い場所である、南と北に「上城戸」と「下城戸」があった。
足羽川は日本海・三国湊につながり、
多くの物資が集積していたと考えられるとある。

昭和20(1945)年、マッカーサーが連合軍を率いて東京に進駐。


ちょこっと福井の旅・一乗谷朝倉遺跡「朝倉氏と石田三成」

2019年09月06日 | Weblog

「朝倉氏は信長に滅ぼされた」としか知らない。
ともあれ、県立一乗谷朝倉氏遺跡資料館へ。
孝景、氏景、貞景、孝景、義景と
5代に渡り続いた朝倉氏である。
義景は15代将軍足利義明を、
ここ一乗谷に奉じたが上洛は出来なかった。
義景は天正5(1573)年、刀根坂の戦いで信長に敗北し、
孝景が応仁の乱で西軍に参加して以後、
この地に居城を移した、戦国大名朝倉氏は滅亡した。
意外だったのは、明智光秀は義景の庇護を受けて、
一乗谷の北約17㎞程にある坂井市・称念寺に、
10年ほど居住したことが知られていると云うこと。
信長の越前攻め、光秀はどんな気持ちで朝倉攻めをしたのだろう。

今日の暦:平成1(1989)年、日本の静止気象衛星「ひまわり4号」打ち上げ。


ちょこっと福井の旅・一乗谷朝倉遺跡

2019年09月05日 | Weblog

兵庫県養父市の武士であった初代朝倉孝景が、
ここ一乗谷に居城を移して以来、
信長に敗北するまで5代約100年間も維持できたのは、
この画像を見て納得した。
両側には250m~400m以上の峰々、
その頂には一乗谷城、小見放城、
東郷槙山城、三峯城などの支城があり、
福井平野や鯖江を眼下におさめていた。
攻めるには谷筋の南北からしかない
「自然要塞」であることが見て取れる。