《河童》の旅メモ

富雄川流域探索

卑弥呼は何処「纏向遺跡2」

2010年02月19日 | Weblog
纒向遺跡は庄内式期の範囲と布留式期の範囲の二つに分けられる。庄内式期は3世紀前半で直径1キロぐらい。布留式期のピーク時は3世紀後半で東西2キロ、南北1.5キロと考えられる。全体として2世紀末から始まり4世紀には無くなっているが、飛鳥が出現するまでの最大の遺跡と云える。
(今日の歴史=1185年源氏と平氏が屋島で戦う)

卑弥呼は何処「纏向遺跡1」

2010年02月18日 | Weblog
卑弥呼はいずこに!昨年見つかった纒向遺跡の大型建物の発掘結果により、邪馬台国のあった場所に決定打を放たれたのか。画像は大型前方後円墳「箸墓古墳」。先日「奈良県市町村文化財保存整備競技会設立10周年記念」云う長いタイトルの講演会に出かけた。「纒向遺跡の調査と活用」について、桜井市教育委員会文化財課の橋本輝彦氏の話を 《河童》なりにまとめてみた。(以後の画像は総て講演会の画像を使用)
(今日の歴史=1989年高麗の兵船が対馬に来襲する)

法隆寺と太子「四天王寺」

2010年02月16日 | Weblog
聖徳太子建立の大阪・四天王寺は本格的な仏教寺院としては最古のもの。南北一直線に配置された飛鳥の伽藍方式を引き継ぐ。現在の中心伽藍は昭和34年に創建当時の様式に近づけて再建された。ここは大阪上町台地といわれる固い岩盤の南にあり、ここからは大阪湾が一望できたであろう。当時の使節団は難波の津に上陸したのち奈良街道を利用して大和の国に入った。奈良街道の入口(四天王寺)と中間点(法隆寺)を太子が押さえたことになり、それまでの蘇我氏と太子との関係が悪化する。山背大兄の悲劇が起こる原因はここにあるように思われる。高田良信著「法隆寺のなぞ」、「法隆寺の謎と秘話」、「法隆寺建立の謎・聖徳太子と藤ノ木古墳」。倉西裕子著「聖徳太子と法隆寺の謎」。大山誠一著「聖徳太子の誕生」。岡本精一著「飛鳥寺と聖徳太子」、橿考研発掘報告書「龍田御坊山古墳」「平群三里古墳」、その他関係Webサイトより抜粋、参考としました。(完)

法隆寺と太子「太子御廟2」

2010年02月15日 | Weblog
この太子廟にも法隆寺と同じように、鳥が巣を作らないとか、御廟を取り巻く結界石は何度数えても数が合わない、複数の人の話を同時に聞き理解をした等などが語り継がれていて、これらの多くは太子信仰から始まったとされている。聖徳太子と厩戸王は別人とか学問的にも色々な説があり不思議が多く語られている。大和神(神教)では信者が見えなかったものを具体的な「形」として現す仏教を取り入れて広めたことは確かだと思う。
(今日の歴史=1105藤原清衡が中尊寺を建立する)

法隆寺と太子「太子御廟」

2010年02月12日 | Weblog
叡福寺の南大門を潜ると正面に二天門がありその奥に太子の陵墓・磯長(しなが)陵がある。直径55メートルの円墳は結界石で囲まれている。明治12年の修復調査が実施された際には石室内に3基の棺が安置されていた。しかしその時横穴石室入口をコンクリートで埋めてしまっているため再調査は困難。
(今日の歴史=729年長屋王が謀反の疑いで捕らえられ自殺をする)