月と歩いた。

月の満ち欠けのように、毎日ぼちぼちと歩く私。
明日はもう少し、先へ。

まっすぐな道

2014-01-05 | 想い
「まっすぐな道でさみしい」

私の仕事机の上には、種田山頭火のこんな俳句が掲げられている。
昨年秋に、友人の結婚式で松山に行った際、山頭火が最後に訪れたという「一草庵」に立ち寄った。
そこでいただいた、俳句が書かれた手作りの栞を、机の上に飾っているのだ。

「まっすぐな道でさみしい」

最初はこの句にはピンとこなかった。
でも、普通に仕事をしていて、自然に目に入る位置にあるので、何度も何度もこの句を読んだ。
そして、もう100回以上は目にした頃、突然にこの句の「意味」がわかってきて、なんとも言えない気持ちになったのだった。

行乞をしていた山頭火が、暗い人気のない道を急ぐ。
最初はそんな風景しか浮かばなかった。
一人ぼっちで暗闇で淋しいのだろうなぁと。

でも、本当にある時、ある瞬間、あっと思った。閃きにも似た衝撃だった。
まっすぐな道。
それは、どれほどにまっすぐだっただろう。
分かれ道もない、ただまっすぐな道。
選ぶこともできない、引き返すこともできない、まっすぐな一本道。

母の自殺、弟の自殺、家の没落、家業の失敗、父親の死、一家離散、酒に溺れる自分。
出家して、“どうしようもない私”をただひきずって、山道を一人歩き続ける。
それは一体どれほどに孤独であっただろう。
その底が見えない孤独感と、自らに課した十字架。それることのできないまっすぐな道をただ歩き続けることしかできない自分。

なんて深い孤独!!

それがわかった瞬間に、「まっすぐな道」も「さみしい」という言葉も特別な意味をもって私に迫ってきた。
どんなに、どんなにさみしかったか!!

自分と重ね合わせるのはおこがましいことではあるが、引き返せない道をただ歩き続けるということは、時にとても孤独だ。
ましてやそれが“どうしようもない私”であるなら。

「どうしようもない私が歩いている」

この句も、なんとストレートで深いこと。

酒と文学に溺れて、迷い、悩み、どうしようもなくなって出家した山頭火。
その孤独な行乞の中で、水や自然のありがたみを知り、自らを省みるのである。

「投げ出した足へ 蜻蛉 とまらうとする」

「花に水やる 私もよばれる」

そうやって旅を続ける。
でもやっぱりお酒はやめられなくて、時々飲んで、ご機嫌になって。

「ほろほろ酔うて 木の葉ふる」

私の一番好きな句だ。

そして、終の棲家となったのが、松山の一草庵。
山頭火の孤独な旅は終わる。

私が訪れたとき、一草庵では地元のボランティアと思われるおじさんとおばさんが親切に対応してくれた。
優しい口調で、1つ1つ資料を見せてくれながら、お話をしてくれて。
おばさんはお茶とお菓子を出してくれ、最後に手作りの栞をくれた。

「まっすぐな道でさみしい」

何度読んでも、何度繰り返しても飽きない。
この短い言葉を読むたびに何かが心に湧き上がる。
山頭火のさみしさを想像しながら、改めて「言葉」の力を感じる。
そして、私もこんな短い言葉の中にいろんな想いをこめて書きたいものだと強く思うのだ。