メキシコの隅っこ

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1-4 空を飛ぶ

2005-11-19 07:05:55 | 掌編連載
 お巡りのマドロウが、と言っても息子のほうじゃなくて
当時は禿げ頭の親父のほうだったが、少年を初めて見たの
はラミソンの農場の横にある池だった。

 そのときすでにマドロウは、よそ者の少年の話をいくつ
も耳にしていた。曰く教会前の公園で寝ていた、曰く東の
外れの橋の上で猫と踊っていた、曰く朝早く屋台を出して
いたホットドッグ屋の親父からソーセージをねだり取った
(ホットドッグ屋の吝嗇さを知っているこの町の者なら誰
も信じないはずの話だが)、挙句に黒猫が人語をしゃべっ
た。

 特に最後のはどこから出た噂か知らないが、隣町から神
父を呼べと言い出す者もちらほら、マドロウはそれをのん
びりなだめて、町の中を探して歩いていたというわけだ。

 さて、マドロウが少年を見つけたとき、少年は池で泳い
でいた。まだ太陽が中天に昇りきらない時刻で、ほとりの
大きな楠の木の陰が池を半分覆っていた。木の下には、少
年が脱いだらしいボロの山と、黒猫が一匹。マドロウは鼻
歌など歌いながらぶらぶらと池に近寄った。

「おおい、寒くないかぁ?」

 巨体に出っ張った腹を青い制服の上から掻きながら、少
年に声をかける。少年は木陰がちらつく水面でくるりと向
きを変えてマドロウに片手を大きく上げてみせた。

「潜るとね、水が歌ってるのが聞こえるよ。おじさんも来
たら」

 マドロウは意味がわからなかったので、眉を上げて微笑
んだだけで胸ポケットから煙草を出して火をつけた。

「まあちょいと上がってこいや。訊きたいことがあるんだ」

「ぼく、どこからも来ないよ」

 噂に聞いていたとおりの少年の言葉に、マドロウは煙草
の煙とともに笑いを吐き出した。少年は達者な抜き手で楠
の木のほうへ泳ぎ、池から出た。マドロウは煙草をふかし
ながらのんびりと池を回って近付く。

 大きすぎるショーツを着けただけの少年は、指先や髪か
ら水を滴らせながらマドロウを見上げて笑った。痩せて肋
骨が浮いていたが、笑い声は元気で、肋骨も元気に上下に
揺れた。マドロウは一緒に笑ってしまったが、すべきこと
は忘れなかった。

「なんかちょっと話してくれやぁ、お前。まあ何でもいい
けど、ええとほら、たとえば名前とか、親のこととか、さ」

 マドロウが池のほうに視線を逸らしながら困惑と申し訳
なさのにじみ出る口調で言うと、少年、あっという間に楠
の木に登ってしまった。黒猫があとを追って駆け上がる。
少年は下から三番目の枝にまっすぐに立って、小さく跳ね
る。揺すられて、枝の先まで葉が一緒に笑った。猫が抗議
するような声音で鳴いた。

「ねえ、おじさん。ぼく、空を飛べるんだよ。飛んでみせ
ようか」

 マドロウの禿げ頭より遥か上だ。呑気者のマドロウもさ
すがに、煙草を口の端から落とした。

「ちょっと待て!」

 苦しいお腹を曲げて煙草を拾い、覚悟を決めた大声で叱
りつけた。

「お前、なに馬鹿を言ってる! もういい、なにも訊かん
から降りてこい」

 そのころにはラミソンの農場からもその向こうからも、
人が集まってきた。少年はさらに枝を揺すって近付く人々
に手を振り、両手を大きく広げて、そして飛んだんだ。

 少年が本当に飛んだと言う者と、池に飛び込んだだけだ
と言う者とで意見は対立している。マドロウは、うん、マ
ドロウはその件に関しては勘弁してくれと言っている。