メキシコの隅っこ

メキシコの遺跡や動物、植物、人や風景などを写真で紹介してます

『サムライたちのメキシコ』

2008-07-19 03:16:18 | 日系移民関連
アマゾンで注文して、手に入れました。
帯の一行目、「メキシコなんて、関係ない?」に、うぎゃ~ん、そんなもんなの? と嘆きつつ、
養老孟司って京都国際マンガミュージアム館長なんだねえ、などというところに感心しつつ、
まずは読んでみました。

思ったよりも原作(写真左の新書)に忠実なものになってますね。
勝手な想像では、もっと物語として当時の様子を描いたものかと思ってました。
が、一冊で移民の話をさらっと網羅しようかと思ったら、
やはりこのくらい説明が入る啓蒙的な感じになるのは当然かも。

ちょっと残念だなと思ったのは、
せっかく最近取材にまでいらしたのだから、原作にはない部分も
少しは盛り込んでもらえたらよかったのに、ということ。
竹村立統氏はもう亡くなっているはずですが、そのことには触れていないところとか。

もちろん、原作一冊をそのままコミックにしたのではなく、
その他の資料からもエピソードを取り込んであるようなので、
移民史のポイントは一通り以上に押さえてあるように思いましたし、
本当にこれで、もっといろんな人が読んで興味を持ってくれれば嬉しいですね。
今の時代、活字を読むのは苦手という人が多くても、
こうしてコミックになれば、さらに幅広い層に知ってもらえることでしょう。
私自身、活字でこれまでそれなりに読んできていたはずのエピソードを
改めてこういう形で絵にして見せられると、ああそうだったのかと
納得した部分などもありました。

あとがきで原著者の上野久氏が
「さらに目指すは映画化である」と書かれています。
楽しみにしてます。
映画となればメキシコでも上映される可能性がありますし、
そうなればメキシコ人も日系移民に興味を持ってくれるでしょう。

最後のページに、取材に協力したかたがたの写真が何枚か載っています。
その中に、知った顔を何人か見つけました。
そうか京都国際マンガミュージアムの企画だから
私の知ってる人が多く関わっていたのか、と今さらながら納得。

興味を持ったかたは、ぜひ読んでみてください。

アマゾンのページはこちら。

サムライたちのメキシコ―漫画メキシコ榎本殖民史 (単行本)
上野 久, 木ノ花 さくや, メキシコ榎本殖民史漫画化プロジェクトチーム, 京都精華大学事業推進室
価格: ¥ 1,000 (税込)

犬の町エスクイントラのワンコ

2007-06-30 10:09:40 | 日系移民関連
思いがけないコメントをいただいて(こちらの記事)、
久々にアカコヤグアやエスクイントラのことを思い出しました。
このところ、過去のアルバムを見てみようという気が起こらずに
ずっと日々の小ネタでしのいでましたが、
今日はまた久し振りにエスクイントラの写真。

と言っても、大きなネタはだいたい書き尽くしているので、
相変わらず小ネタです。
上にリンクした記事、エスクイントラや周辺の町で非常に尊敬されていた
太田ドクトルの記念碑を見に行ったときのものですが、
トリシクロ(人力三輪タクシー)で辿りついた「大頌徳塔」で、
ひとしきり感慨にふけり、写真も撮って、
それでもなお、シマちゃんとその場を離れがたくおしゃべりしながら
塔を眺めていたんですが。

子供用の自転車に乗った女の子が行ったり来たりして、
なにやらおかしな言葉でクチャクチャとしゃべってる私たちふたりを
好奇心丸出しで眺めていたほかに、
暑い日中に舌をハッハッと垂らしたワンコが一匹、
これまたなぜだか、行ったりきたりしてるんですよね。

三度目か四度目に、とうとう私、そのワンコに声をかけました。
日本語だったかスペイン語だったか覚えてませんが。
そしたらそのワンコ、立ち止まって、こちらを見上げる。
「なんですか?」という顔なので、手を差し出したら、
ものすご~~く慎重に匂いを嗅いで……いきなり、



あくしゅ~~。

シマちゃんが、「待って待って、そのまま待って!」と言うので、
私とワンコ、フリーズ状態で、この写真を撮ってもらいました。
ワンコが握手(いや、普通は「お手」っていうんでしょうが)したとき、
私たちが爆笑したので、ワンコ、
ちょっと視線を逸らして「そんなに笑わんでも~」という感じ?

野良犬とどこかの飼い犬との区別がほとんどない
のんびりすべて(犬に限らず)放し飼いの町のことで、
このワンコもどういう素性かはわかりませんが、
もしかしたらいつもこの辺りを縄張りに、
太田ドクトルの記念碑の日陰で普段休んだりしているワンコだったのかも。
怪しいヤツが記念碑を壊したりしないよう見張ってた、
ってのは考えすぎでしょうか
でも握手してもらったので、誤解は解けたようです。



これだけではあんまりなので、もうひとつ。



「日墨親善の架け橋 明治の日本人達」
これは、シマちゃんが当時下宿していたところの
「おばちゃん」さん所有の資料です。
私は、帰る日の朝に見せていただいたので、
じっくり読むことは叶わず、残念でした。
ここにも、太田ドクトルの名前が載っています。
右の真ん中に写っているのは、ドクトルの記念碑の一部ですね。

いつの日かまたアカコヤグアを訪れて、
こういった貴重な資料をじっくりと読ませていただける日がくればなあ、
と夢見る日々です。

アカコヤグアの文化会館

2007-03-07 12:25:46 | 日系移民関連
今ちょっと用事があって、シティでいつもお世話になるIさんにお電話したら、
思いがけずまたアカコヤグアの名を聞きました。

なんと、榎本移民に興味を持たれた漫画家さんが、
取材にいらっしゃるのだそうです。
榎本移民とアカコヤグアの日系の皆さんのこと、
コミックになれば若い人たちにもたくさん読んでいただけるだろうし、
いやあ、すばらしい、いいお話ですねっ!
とすっかりひとりで盛り上がってしまいました。

そこで、まだチョボチョボと残っているアカコヤグアの写真をば。
シマちゃんの元職場ですが。

村の外れにいきなり、和風家屋。



メキシコ・日本文化会館、というのが正式名称でしょうか?
門を入って左手に、



1996年4月20日に設立、とあります。
100周年を前に、ということでしょうか?

Iさんに言われて気付きましたが、
今年は移民110周年です。
あの100周年記念をやったときから、もう10年。
早いもんですねえ。
(て、私は当時何もしませんでしたが)

さて、文化会館、
けっこう厳重な格子に錠前、開けてもらって中へ入ると、
そこは日本語学校。



七夕と鯉のぼりと、壁には日本のポスター、KYOTO、TOKIO、
そして日本地図に、シマちゃんお手製の50音表。



生徒さんたちが書いたお習字も、
一字一字に個性が、そして選ばれた単語にユーモアが。
ひとつずつ鑑賞して、突っ込んで楽しませてもらいましたよ。
七夕にぶら下げられた皆さんのお願い事にも、
笑ったり唸ったりほろりとしたり。

さらには、壁にガラスの額に入った古い一葉の写真。
すいません、感動のあまり写真を写真に撮ること忘れてしまいました。
が、さまざまな資料で見ることのできる、
榎本一次移民の皆さん勢ぞろいの、あの写真です。

今は……この空間、どうなっているのでしょうか。
きっとシマちゃんの志を継いだ生徒さんたちが集まって、
自分たちで日本語学習を続けていることでしょう。
本当に、本当に、何とかならないものかと歯がゆい思いです。



ところで、この記事で、ここに掲載する写真が
ついに、2000枚となりました。
皆さま、ご愛顧ありがとうございます。

太田連二ドクトル

2007-01-27 02:37:54 | 日系移民関連
移民のお話が出たので、引き続きシマちゃん泣かせ(?)です。

エスクイントラの道。



残念ながら、エスクイントレと呼ばれたらしい犬は一匹も写ってませんが。
これ、人力車に揺られながら撮影したんです。
どこが!? と言われるかもしれませんが、そうなんです。

で、人力車のおじいさんとシマちゃんが、
「あっちだったような気がするんですけど……」
「うん、こっちにそんなようなものがあったと思うよ~」

などと、ゆらゆら揺られながら青空の下、緩やかな会話を交わし、
なんとな~く進んでいくと、ありました!

第一次榎本移民、太田連二ドクトルの大頌徳塔(というらしいです)。

 

ドクトル R.オオタ、1917年5月6日没。
高貴にして高潔なドクトル・オオタへ、
エスクイントラ、アカペタウア、マパステペックの住人たちの
尊敬と感謝の念の証として
いつまでも安らかならんことを


と書いてあります。
何というか、単語の区切り方がとても日本的。
まあ日本と関係なくても実は、好きなところで切っちゃいますけどね、メキシコ人。
でも、こういうときだけは、勝手に日本的と思いたくなるもんです。

なんでこんな道端に記念碑というか、これ墓石なわけですけど、
あるのかというと、
ここら、当時は霊園だったそうです。
でも町がどんどん大きくなって通りが延びて、家が建って、
霊園を撤去してよそへ移すことになったとき、
この太田ドクトルの碑だけは、
動かしてくれるなと町じゅうの人の反対運動で、ここに残ったとか。
(シマちゃん談)



碑の前にたたずむシマちゃん。
碑の後ろに、ひょっこりと生えているパパイヤの木が可愛い。
というか、



同じような写真を何度もすみませんが、
この並びのおうちの色彩に、もううっとり……。



さて、松田英二氏という、移民関連では必ず名前が出てくる植物学者さんがいます。
この人が書いた、当時の記録、貴重な一次資料をシマちゃんから見せてもらいました。

そのうちの一冊、
『南メキシコに遺された日本人の足跡』(昭和41年8月31日発行)というのは、
藁半紙っぽい紙を綴じた小冊子。
その口絵写真に、このドクトル・オオタ大頌徳塔の写真がありました。



スキャナの限界で、まだらになっちゃってスミマセン。
でも、これはきっと、まだここがちゃんと霊園だったころの写真だと思います。

そしてこの小冊子に、ドクトル・オオタについての記述も。
以下、引用します。

「最後に見落としてならぬ人物は、仙台人太田連二である。
 彼は前にも記したように、榎本の自由移民として渡航したのであるが、
 資性あわれみ深く、学ばざるによく医者の業に巧にして、
 すでに太平洋を渡る時から、仲間や船乗の病気や負傷を治していた。
 それ故エスクィントラに住んでは、よく村人のために病を癒し、怪我を治した。
 しかもすこぶる淡白な態度でお金に心を惹かれないため、貧乏人がどれ程助かったか知れない。
 彼が一時結婚のため日本に旅するという噂が立つや、全町民は酒を担ぎ込んで、
 再び必ず町に帰られんことを願い、町中の楽器を動員して、
 彼の門出を祝うという有様であった。」


当時の榎本移民の中に仁平氏という医師がおられたようなんですが、
太田氏はその助手として働き、仁平氏がトナラ市に往診中黄熱病に罹って亡くなったあと、
その医院を継いでドクトル・オオタとして町民に慕われたそうな。
しかしドクトル・オオタもまた、黄熱病で不帰の客となったとあります。

「エスクィントラの町民は、氏の没後、永くその徳を追慕し、
 その徳をほめたたえんがために、町会の満場一致の決議により、
 同氏旧居の前通りを”Avenida DR.OTA”と命名し、表彰したのであった。」


この通り、今でももちろんあって、私も通りました。
標識の写真を撮っておけばよかったかなあ。
夜で暗かったので、ほほ~、と眺めただけになりました。

「その葬儀の時、町民の嘆き悲しみは非常なもので、
 前後にその例を見ない盛んな葬儀を営んでくれたという。
 又彼の死後未亡人が三幼児を抱えて思案に暮れていた時、
 一日農夫風の男が五匹の牛を引き来りて
 『これは太田先生の牛です。五年前、息子の病気を癒して貰って、
 お金がなかったので一匹のめ牛を差上げて、自分の牧場で飼養して置いたのが
 いまや五匹になりました』と。
 その翌日また四匹、つづいて三匹、五匹と数日を出でずして集まる牛馬三十余匹、
 全家族の帰朝の費をつぐのうて余りありしと。」


こういう話を読むと、感動するとともに、
ちょっと自分の成し遂げた(というか遂げてない)ことを考えて、
ちいちゃくなっちゃいます……。
昔の人は、偉かったよなあ~……。

100年前の家

2006-12-08 08:00:21 | 日系移民関連
今日は久し振りに、チアパス・アカコヤグアの話に戻りましょう。

シマちゃんと、兄貴分のYさんに連れられて行った農場(ランチョ)に、
その家はありました。



今から100年ほど前、一次移民だった人が作ったという家です。

今はもう全然使っていないということなんですけど、
どうです、これ、
しっかりとして、壁もひとつとして崩れてません。

むしろ、入り口手前にあった水場だったというレンガ造りの部分は
すっかり壊れて土台だけになってしまってました。
こんな湿潤なチアパスの気候に、木造建築のほうが長持ちするんですね。

薄暗い中へ入ってみると、涼んで寝ていたワンコが二匹、
一匹は私たちの気配を察して、素早く入り口から抜け出しましたが、
もう一匹は間に合わなくて玄関から出られず、
裏口の壊れた隙間を、キャウン!と悲鳴を上げつつ必死で抜けていきました。
そんなに慌てて逃げなくても、何もしないよ~

一階は確か、ほぼ一間、入ってすぐの右手に小さな部屋がありましたが、
それ以外は広い空間になってました。

昔懐かしい、祖父母の家を思い出すような狭くて急な階段があり、
今でもちゃんと登れます。

二階へ上がってみました。



階段を見下ろす角度です。
一階には玄関のドアが一部見えてます。
二階も、広い一間に、小さな部屋がひとつだったかな、ふたつあったかな。
小部屋にはコウモリがキキキ……と巣食っておりました。

三方に贅沢に窓を取り、下半分も今でもちゃんと動く引き違い戸になっていて、
開けると涼しい風が吹き込んできました。

電気の線も引いてあって、確か聞いた話では、
今は干上がってるけど、家の前を流れていた川で、水力発電してたとか……。
ホントかな?
ちょっと記憶に自信がないです。あとで確認して修正します。

外は暑いのに、家の中はひんやりと涼しかったです。
当時の工夫がしのばれます。

裏には立派なバルコニーもありました。



手すりの向こうは、うっそうと茂るジャングル。
ドアは壊れて倒れてましたが、
開け放しの屋内には、意外なほど動物もゴミも入り込んでません。
(まあコウモリ以外は、ですね)

バルコニーにはしかしやっぱり、いろいろと住人が。

 軒下でお休み中の蛾

 なんとも不思議な形の蜂の巣?

何だか今でもちょっと掃除すればすぐに住めそうなくらい、
しっかりとよくできた家でした。
誰も住んでないなんて、もったいない~、
でもこれだけ隔絶されたランチョに住み込んで生活、となると、
相当重労働で厳しい生活になるだろうことは想像にかたくない。
でももしも20代のころにこんな生活をするチャンスが与えられていたら、
もしかしたら私ならやる気になってたかもなあ……。
などと夢想するのでした。

このランチョは、前にお見せしたタフコ農場よりさらに奥まったところにあり、
道がどんどん細くなり、ガタガタになり、
木戸を開けて乗り入れると、もう道があるのかどうかさえ、よくわからん……
といったふうな、すばらしいジャングルの中にあるのです。

そして、トラックを停めたところに生えていたでっかい樹、
これはもう、あんぐり口を開けて見上げるしかない感動ものでしたが、
それはまた今度(笑。

今日はおまけに、このランチョで見せてもらった
マメイの樹をお見せしましょう。



広々としたところに生えているので、そんなに大きく見えませんが。
このときもすでに、実がびっしりと生ってました。
これ、全部食べられんでしょ~? どうすんの?って感じ。
一部は売ったりもするらしいですが、
所詮、取りきれる分量じゃないんですよ~。
何というか、自然の豊かさを感じるお話でした。
まあだから、あくせく働かなくなっちゃうんだ、というのも、ごもっとも(笑。
緑あふれるチアパスでした。

タフコ農場と山本浅二郎氏

2006-11-14 10:07:35 | 日系移民関連
さて、アカコヤグアのお話第二弾~。

cimaちゃんと兄貴分のYさんとに連れられて、
ランチョを見せていただきました~。
が、今日はそのYさんのランチョではなくて(それは取っておき)、
その手前にあった、タフコ農場(ランチョ)を。

アカコヤグアの道をピックアップトラックに乗せてもらって
どっち方向でしょうか?
しばらく行くと、いかにも村外れになって、
ブタの親子(お父さんはイノシシかもしらん……汗)に出会ったりしつつ、
道は徐々にガタガタになり細くなり……
家も途切れがちになって、やがて両側とも放牧地に。
少し行くと、右手に見えてくるのがタフコ農場。



中を見せてもらうことはできませんでしたが、
おおお~、これが、あの! と感激。
というのも、アカコヤグアと移民の人々の話には
必ずタフコ農場の名前が出てくるからです。

門のところをアップで。



日章旗と、TAJUKOの文字。
その下には小さく、
PRIMER ASENTAMIENTO DE LOS
PRIMEROS INMIGRANTES JAPONESES
COLONOS ENOMOTO

「最初の日本人移住者、榎本移民による、最初の居住地」
と書いてあります。

そして移民の人たちに意義深い年号、
1897年と1997年。

TAJUKOの左側に、縦書きで
「多福湖」と書いてあったんですが、
すみません、帰ってから写真を見たら、つぶれてしまって見えませんね。
資料文献などでは「多福岡」という表記もあるようです。

これは、他のいくつかあるランチョと並んで、
本当に初期に作られた農場です。
(てか、最初の、と主張してありますね)

貴重な一次資料に、タフコ農場についての記述があるので、
それを書き写します(改行は亀による)。

最初の榎本植民の一人で三河の人、山本浅次郎を中心に起った農場である。
同植民の契約三ヵ年を完全に果たした唯一の人で約束の百二十町をゆずり受け、
最初は共働会社の人々と共に三奥組合(三河者と奥州者)の形をとった時代もあるが
同会社の解散後は個人農場として発展して
甘蔗を植えて砂糖作りや牧畜を業とした。
革命動乱のときの武勇伝はここを舞台に演じられた(※)。
若くして植民に加わってきた人であったため、
メキシコに来て初めてローマ字を以って日本語を書くことを学んだので、
終生ローマ字日本語の手紙を書いていた。
没後現在もこの農場は牧畜を主として同氏五男が立派に経営して今日にいたっている。


【『南メキシコに遺された日本人の足跡』 松田英二・著 1966年8月】

(※)の革命期の武勇伝というのも、何度か読んだことがありますが、
これまた貴重な一次資料から引用(改行同上)。

故山本浅二郎氏は榎本植民地も大分奥の方タフコ農場に居住していたが、
革命戦の最中ある夜三十名以上の匪賊に襲撃された。
同氏は家族の退避を見極めるや敵の目標をくらますため
一糸まとわぬ裸体となり、屋内をかけめぐりつつ発砲応戦し、
匪賊の大部分をたおしてこれを撃退し、
地方民からその武勇を買われた由である(後略)


【『南メキシコにおける通称「榎本植民地」視察出張報告書』 
       在メキシコ日本国大使館 大倉敏之・著 1966年】

とまあ、そんなドラマがこの農場でも、また他の農場でもあったわけです。
で、今は、のどかな牧畜地。

私の大好きなセブー牛が!



一頭だけでしたが、いつ見てもすごいよ~。
シラサギたちもいっぱい一緒にいるんですよね。



普通の(?)牛たちも。
さて、この一番手前の牛の、腰骨辺りに、
所有農場を示す焼印が押してあるんですが、見えるでしょうか?

こっちのほうが見やすいかも。



「日章旗」をデザインした、タフコ農場のマークだそうです。
cimaちゃんの兄貴分Yさんに教えていただきました~。

少し離れたところに、馬もいました。



ちょっとぽつんと離れて、さびしそう?

そんなこんなして写真を撮ったり、
教えてもらった草の茎から出るネバネバでシャボン玉を飛ばしたり
して遊んでいる私たちの横を、
砂埃を上げて通り過ぎるトラック。



ああっ、セブー牛が!
これまたドナドナかっ!?
と慌てたのでぶれてます、すいません。

でもたぶんこの先にはいくつもの広大なランチョが隣接しているようなので、
ドナドナじゃなくて、どこかの農場で
のんびり草を食べて過ごすために連れていかれたのでしょう。
……ということにしておきます。

今日も長い話を読んでくださってありがとうございました

日本人が初めて入植した村、アカコヤグア

2006-11-12 15:38:39 | 日系移民関連
さて、9月の旅行のネタもまだ紹介し終わっていないのに、
またもや新しい旅行の話になります。
まあ残っているネタはいずれ必ず紹介しますので、
まずはやはり活きのよい(?)話題から。



アカコヤグア Acacoyagua という名前は、
メキシコ関係の本を読んでいるとわりかしあちこちに出てきます。

1897年、榎本移民と呼ばれる一団の日本人の殖民者がこアカコヤグアに住みついたのが、
まあ公式に移民と認められる最初のメキシコ在住日本人なわけです。

私がメキシコに来たのが1995年で、
1997年には日系移民100周年記念として、いろいろなイベントがありました。
そのころはまだ大したことも知らなくて、
それより自分の生活に必死だったもんだから、何も興味持たず、
今思うと残念なことをしました。

そして今回ついに、ネットで知り合ったcimaちゃんを頼って、
厚かましくもこのアカコヤグア訪問の悲願を達成したわけです。
いやあ、ネットはすごい、そしてcimaちゃんには大感謝!なのです。

何しろまあ、はっきり言ってかなり遠い
cimaちゃんがいてくれなければ、とうてい腰を上げる決心がつかなかったでしょう。
メキシコ全体から見ればわずかな距離ではあるんですが、
今回私たち、モンテレイとさらにその北の国境沿いのレイノーサへ行き、
そこから一路、南の果てまで行ったわけですから、
まあ1800kmほどですね。
気候も植生もまるで違うことを、しみじみと実感しました。
特に、モンテレイは寒かった。
「寒いかもねえ」と言って、南国仕様の私たちは、
長袖のシャツを一枚持って、充分なつもりでいました。
ところがモンテレイでは、吐く息が白い寒さ。
参りましたね~、まったく。

まあ飛行機が途中経由したトルーカは、何しろシティより高地ですから、
モンテレイよりもっと寒くて、私ら、凍ってましたけど。
でもまあそれは飛行機を待つわずかなあいだのこと。

そして、ようやく辿り着いたチアパスの州都、トゥクストラ・グティエレスの空港。
あああ~、南国だよ、青空だぁよ~

そこからさらに、町まで数十キロをタクシーで、
そしてさらにバスで、6時間南下。
メキシコの最南端からわずか100km足らずのところまで。

この、メキシコでバスに乗るのがまた楽しいんですが、
その話は長くなるのでまた今度。
そうして辿り着いたのはアカコヤグアではなくて
隣町のエスクイントラ Escuintla なんですが、
その紹介も、また今度。



とにもかくにも、そうやってcimaちゃんと無事ご対面を果たし、
アカコヤグアを案内してもらいました。

小さな村と、侮るなかれ。
日本人には見所たんまりの、意義深い村なのだ。
そこで、今日はその一ヶ所、
榎本移民団記念碑を。

あ~、前置きが長くてすみません(笑。



見よ、この青空を。
寒空のモンテレイでたまった鬱屈が、あっという間に霧散する風景。

記念塔の裏はこんなの。



句が間違ってるとか、最後の一文字が欠けてるとか、
細かいことを気にしてはいけません。
これは、移民団とともにチアパスに定住し活躍した植物学者、
松田英二氏の直筆文字だそうです。
松田英二氏については、またそのうちに詳しく書くと思います。

記念碑の表の台座にはこんな文字が。



まあ要するに、榎本移民団を記念してこの記念碑を建てた、てなことが書いてあります。

裏の銅版には、その36名の名前が。
(ひとり船旅の途中に亡くなったそうですが)



宮城県と岩手県、そして愛知と兵庫からの人々です。
チアパス南部にコーヒー農園をひらこうとしてやってきた人たちですが、
残念なことにわずか三ヶ月でその計画は頓挫。
大変な苦労の中で、移民団は四散してしまいました。
その中でわずかにチアパスに踏みとどまった人たちもいます。
その辺についてはまたゆっくりとお話しすることにして。



100周年記念に、メキシコ在住日本人たちが寄付を集めて作ったという、
この記念公園には、石灯籠もひっそりと立ってました。

それから、え~と、



秋篠宮、ってこの字でよかったですかね?
皇室関連にはとっても疎いもんですから、これもどういうお方だったか、
cimaちゃんに聞いた端から忘れてもうた……
とにかく、皇族のお方が寄贈なさったんだか植樹なさったんだかという
何か……

とまあ、チアパスの空の下、
百年前の日本人たちを忘れない村があるのです。
この綺麗な公園では、小さな男の子がお母さんに連れられて走り、
お年寄りが日陰に座っておしゃべりに勤しみ、
靴磨きの兄ちゃんたちが植木の下でお客を待っておりました。



いやはや、土日は更新お休みとか言ってましたけど、
そんなこと言ってたら、次出かけるまでにネタが溜まりすぎちゃうので、
少し頑張ります。
長くなって申し訳ないですが~
いやもうマジに、cimaちゃんにいろいろ教わったことを
全部書き留めておきたい気分なんよ~。
なので、どうかしばらくお付き合いください。
あ、モンテレイのほうも話も出しますけど。

いろいろ想像を巡らせてしまうもの

2006-04-21 07:53:01 | 日系移民関連
カテゴリを何にしようか迷いました。
人の写真ではないですが、
それでもやっぱり「人」にしておきます。
(追記:日系移民というカテゴリを作ったのでそこへ移動しました)

メキシコシティの大学で語学コースに通っていたころの話です。
同じクラスの仲の良かった友人とある日、トロツキー博物館へ出かけました。

トロツキーはご存知かと思いますが、
メキシコに亡命して、ディエゴ・リベラやフリーダ・カーロとも交流を持ち、
そして最後にはコヨアカンの隠れ家で暗殺されました。
その隠れ家だったところが、今は博物館になっています。
去年だったか、トロツキーを殺した斧が公開されたとニュースになっていました。
血糊のDNAを調べればそれが本物かどうかわかるそうです。
その後、どうなったのかな。

で、トロツキー博物館はどうでもいいんですが、
そのすぐ隣だったかどこだったかに、
小さな本屋がありました。
私も友人も、本屋と見るとフラフラと入っていって、
隅から隅まで見ないと何時間かかろうと出られないたちです。
ふたりで本屋で過ごした時間は、100時間くらい?
で、そこへもごく当然、入っていきました。

個人経営の小さい本屋でしたが、
その店の一番奥に、思いがけないものを発見して、私たち二人、座り込んでしまいました。

床に平積みで、高さは40~50cmくらい、幅は2~3m、もしかしたらもっとかも。
文藝春秋が積んであったんです。

そのころの私たち、日本語を目にすることなど、
大福餅を食べることより珍しかったもんですから、
もう磁石に惹きつけられるように、その宝物の山の前に本当に座り込んでしまいました。

しかし、この量は尋常ではないです。
見れば、昭和二十年代などという恐ろしく古いものも混じっている。
『相撲』という雑誌も少しですが、ありました。

今の私なら、厚かましく店のお兄さんに、
「これどうしたんですか、どういう事情でこんなにたくさん買い取ったんですか」と
質問攻めしていたことでしょうが、当時の語学力では……。
値段を訊くのが精一杯。
当時は日記もつけてなかったので、細かい値段は忘れましたが、
一冊10ペソ、三冊で25ペソ、とかそんな感じに言われたと思います。
いや、もっと安かったかも。
でも、貧乏学生の私たちには大量に買える値段ではない。

うんうん悩みつつ、
しかも下のほうを掘り起こすとページ分解しそうな古いのもあるので、
適当に、どうにか目につき、かつ興味を惹かれるのを数冊。

たとえばこんなのです。



これではわからないでしょうが、
左の戦争特集八月号は昭和45年のもの、
右の日本の遺族特集は昭和43年のものです。
そして、もっと最近(当時)のものまでありました。

さらにお宝の山から見つけたのは、こんなのです。



「サイタ サイタ サクラガ サイタ」の小學國語讀本ですよ。
写真では隠れてしまいましたが、
右隅には「尋常科用」と書いてあります。
これが、「巻一」から「巻四」までそろってました。

古い小説などで話には聞いたことがありましたが、
実物を見るのは初めて。
それが、メキシコのちっぽけな本屋の隅に

こんなところに埋もれさせておくのは許せない、と
胸に抱き締めて、買い取ってしまいました。
いや、買ったからって世に出るわけではないんですが。

他にも見つけたものがあるんですが、
書いていたら長くなったので、ちょっとカットします。

ともかく、昭和20年代からずっとメキシコに住んでおられた日本人が、
たぶん亡くなったのではないかと思います。
ご家族が、処分ということでまとめて本屋へ持ってこられたのではないかと。

そう言えば、シティでお世話になるところで、
『暮らしの手帖』創刊号を含む、
これまた古い雑誌のコレクションを見せてもらったことがありますが、
それもどこからともなく流れてバザーに出ていたとか。

服とか置物とかより、
自分が本好き(本の虫ともいう)だからでしょうか、
こんな古い雑誌を大事に取って、日本をしのんでおられたかたが、と思うと、
なんとも感無量なのでした。

シティに行くたびに、あの本屋にまだ残っているだろうかと
気になりながらも結局その近辺へ足を向けることはなく、
もう10年になるから、いくらなんでも、もうなくなってるでしょうね~。
買ってどうするものでもないですが、
廃棄処分になったかも、と思うとちょっと悲しいです。

日本人社会はちっちゃいぞ

2006-02-25 08:49:08 | 日系移民関連
また突然話が飛びますが。
昨日はでっかい話だったけど、今日はちっちゃい話です。

こないだシティへパスポートの再発給に行ったとき。
せにしえんたさんから、いいこと教えていただきました。

日本大使館にメールアドレスを渡しておくと、
いろいろソレ関係の情報がもらえるって話です。
私は、もちろんそんな気の利いたことやってません。
前に大使館行ったとき(って10年前かな?)メールアドレスなんか持ってなかったし。

というわけで、ついでにお願いしておきました。
メモ用紙にペラッと名前とアドレスを書いて渡しただけ、
メヒコ人相手だったらまあ87%は「なくした」とかでそれきりになるところでしょうが、
いや、さすがは日本大使館です
ちゃんと連絡来るようになりました

え、そんなん、みんな当然やってる?
まあまあ

んで、皆さんも見てると思いますが、
今日、というか今さっき、面白いのが届きました。
ので、今日はそれをネタにしちゃおう!

別に極秘情報じゃないですよね?
公開しちゃってもいいですよね?
怒られたら削除しよう……。

以下、引用。

--------------------------------------------
 皆様方のご協力を得まして、昨年10月1日時点のメキシコにおける在留邦人数の
結果がまとまりました。
 ここに改めて皆様方のご協力に対し感謝申し上げると共に本件調査結果を次のとお
りご報告申し上げます。

1.長期滞在者・永住者別及び職業別在留邦人数
 1.長期滞在者
  (1)民間企業関係者及びその家族      2413名
  (2)報道関係者及びその家族            8名
  (3)自由業関係者及びその家族        265名
  (4)留学生・研究者・教師及びその家族    309名
  (5)政府関係者及びその家族         275名
  (6)その他(メキシコ人の配偶者等)     258名
   小計                   3528名

2.永住者                   2002名

3.総数(1+2)               5530名

4.都市別在留邦人数(主要15都市)
メキシコシティー                    2388名
アグアスカリエンテス(アグアスカリエンテス州)      498名
ガルサガルシア (ヌエボレオン州)            241名
グアダラハラ(ハリスコ州)                221名
カンクン(キンタナロー州)                161名
サポパン(ハリスコ州)                  120名
ケレタロ(ケレタロ州)                  115名
ナウカルパン(メキシコ州)                111名
クエルナバカ(モレロス州)                107名
ティファナ(バハカリフォルニア州)             86名
モンテレイ(ヌエボレオン州)                84名
レオン(グアナファト州)                  58名
プエブラ(プエブラ州)                   53名
ウイスキルカン(メキシコ州)                52名
トルーカ(メキシコ州)                   44名


注)集計は行政区分都市単位で行っていますので、
一般的にモンテレイと言われる地域でもモンテレイ市、ガルサ・ガルシア市等、
グアダラハラもグアダラハラ市、サポパン市等に区分して集計しております。
---------------------------------------------

この統計、どのくらい実情を反映しているのか知りませんが、
え、メキシコ全土に住んでる日本人ってたったの5530人なの?

ドイツなんてデュッセルドルフ一都市だけでも6000人なのに(今は知らんよ、10年以上前の話)、
それにも満たないわけ?
うひょ~~!
メヒコの日本人社会ってちっちゃい~~!

それで、どうもよくわからないのが、ですね。
1.の「長期滞在者:その他(メキシコ人の配偶者等)」と2.「永住者」の違いです。
ぶっちゃけ、私はどっちに入ってるんだろ?

永住権取ってる人は後者ってことかしらん?
だって、メキシコ人と結婚してる人が258名って、絶対少ないですよね?
で、メキシコ人と結婚してて、たとえば教師してる人、とかはどこに入ってるわけ?

まあいろいろと不明な点も多いですが、追求はやめて。
次に面白いのはやっぱり都市別。
ほぼ半数がメキシコシティか~。やっぱしな~。
んで、カンペチェ州なんて数にも入りませんな。
タバスコ州もチアパス州も、影も形もないですな
さすが。

カンクーンには意外と大勢、日本人住んでるんですね~。
面白いのはモンテレイとガルサガルシアで、
これは隣接している、というかガルサガルシアはモンテレイの一部みたいなもんなんだけど、
ガルサガルシアに住んでる人のほうが、モンテレイより圧倒的に多かったり。
ガルサガルシアって、何があるの?

いや、待て待て、職業別だってよく見ると面白いぞ。
民間企業、つまり駐在員さんとその家族が圧倒的に多いのはいいとして、
報道関係者のこの圧倒的な少なさは何ですか
そりゃ~メヒコのニュース、日本で流れてなくても何の不思議もないにゃ~


などなど、いろいろ楽しんだわけですが。

でもねえ、大使館って本人が申告しなきゃわからないでしょ?
メキシコの入国記録チェックするわけでもなし。

この前聞いた話だけど、
トラテロルコ(メキシコシティの一地区)のアパートで老夫婦が殺された事件があって、
その奥さんのほうが日本人だったとか。
でも、事件があるまでだ~~れもその人のこと知らなかったらしいです。
大使館ももちろん。
シティに長くて、たいていの日本人なら知ってるというIさんでも知らなかった、
ということは、日本人とまったく没交渉で生活しておられたわけで、
そりゃそういう人だっているでしょう。
私だって、ネットがなけりゃそうなってます。

てことは、やっぱり5530人にプラスアルファがあるんだろうな~。
それって、どれくらいの人数なんだろうな~、
どこに住んで、どんなふうに暮らしてるのかな~、

などといろいろ夢想してしまうのでした。