メキシコの隅っこ

メキシコの遺跡や動物、植物、人や風景などを写真で紹介してます

ユカタンのアシエンダ:メインの館

2006-11-30 08:33:03 | 
メリダ観光の第一日目に行ったのは、アシエンダでした。

泊まったホテル(いずれ紹介します)で見せられた小さなパンフレットの、
エネケンの採集や加工を見せてくれるというツアー、
どうやら比較的新しいものらしいです。
このブログをずっとごらんになっている方はご存知かと思いますが、
アシエンダという単語にすっかり敏感に反応するようになってしまった私(笑。

まあ面白そうじゃないか、ということで、
初日からいきなり私好みのところへ遊びに行けることに。
電話で予約を入れ、ホテルまで迎えに来てもらうオプションです。
自力で行けばその分お安くなるんですが、
今回我々、五人ということもあり、不案内でもあり、
迎えに来てもらうほうが安心確実。

アシエンダの名前は Sotuta de Peon(oにアクセント)、「ソトゥータ・デ・ペオン」です。
メリダの町から南に一時間ばかり行ったところ。

しかしアシエンダ案内の本などを見ても、この名前は載っていません。
おそらく改名しちゃったんじゃないかと思うんですが、
それともまったく無名のアシエンダが数え切れないくらいある可能性も。

ともかくもそこへ行って、
エネケンの加工過程を隅から隅まで、
そしてエネケンの畑とマヤの家、
おまけにセノーテで泳いで、最後にレストラン、
というコースです。

けっこうな数の写真を撮ってしまったので、
これから何回かに分けてお見せしていこうと思います。
今日は、メインの領主の館を。





小さな噴水のある庭を抜けて正面が、この建物です。
ハマイカ(ハイビスカスの花)とライムのジュースをもらいながら
反対側へ回って、横手の階段から二階へ上がり、
各部屋を見せてもらいます。



これは裏側の(というかこっちが表かも)バルコニー。
どこにしても風通しよく、涼しげに造ってあります。

アシエンダの所有者はここに住んでいたのではなく
(そういうところもありますが、このアシエンダでは)
別荘として使っていただけだそうです。
巨大な土地を所有しているのですから、それだけでも大金持ちですが、
昔のエネケン(サイザル麻)は「緑色の黄金」と呼ばれるほど
儲かる産業だったそうで、ユカタンには金持ちがゴロゴロいたとか。

しかもまあ当時としては当然のことでしょうが、
荘園主は白人(スペイン人)で、労働者(ペオンと言います)はインディオ。
よって、この領主の館はヨーロッパの館と同じ感じです。



博物館でもよく見る感じの、居間。



豪華なキッチン。
でもタイルの色合いにメキシコっぽさが感じられる?
プエブラのタラベラ焼きっぽいですしね。



一枚目の写真に見えるバルコニーに出たところ。



寝室もありますが、意外とベッドは小さいです。
マヤ人は小柄だったけど、当時のスペイン人も小さかったんでしょうか?
枕もとの電話機も、古風、でもピンク色(笑

 

いきなり部屋の隅に頭でっかちで素朴な彫りのお坊さんが立っていたり、
大理石のテーブルの足がへしゃげたライオン(?)だったり、
見ていてなかなか飽きません。



注目を浴びず、こっそりと隅にあった螺旋階段。
どこへ行くのかなあ?

という具合に、二階はなかなかに華やかなのですが、
一階はし~んとして、



こんな感じ。
下男たちが住んでいたのでしょうか、厩として使われていたのでしょうか。



このメインの館には、エネケンのエの字も見られませんでした。
しかしこのあと、これでもかッ!てくらいエネケン尽くしになります。

続きをお楽しみに~。
でも明日はもしかしたらお休みするかも……(アレがあるのです)。

メリダの国旗モニュメント

2006-11-29 07:15:03 | 観光
まだ他の三つ(!)の旅行の話題もいろいろと残ってるんですが、
まあいろいろ取り混ぜつつあちこち紹介していくことにしようと思います。
今回、四つ目の旅行ではメリダに一週間滞在しました。

手持ちの日本語ガイドブック(全部もらい物)をチェックしても、
メリダって案外載ってないもんですねえ。
まあやはり有名な遺跡、ウシュマルとチチェンイッツァ、
それに近辺の見所への足がかりとしては
簡単な紹介がありますが。

しかし今回メリダ Merida(eにアクセント)を選んだのは、
マヤ文明の中心地として栄えた土地柄から、
私が見てきたメキシコの都市の中でも一番、日常にマヤの色彩が色濃く残っていること、
そして今は観光都市として治安もそれなり、整備もそれなり、
というところがポイントでしょうか。

かく言う私も、今までメリダには何度か短期滞在はしたものの、
じっくり腰を据えて観光したことはありませんでした。
というわけで、今回はなかなかに奥深いメリダを味わってまいりました。

が、まずは軽~く市内観光の一部から。

メリダのカテドラルの横には馬車が停まってまして、
タクシーとしても使えるんですが、市内一周ツアーもやってくれます。
本当は四人乗りで、私たちは五人だったんですが、
交渉してみたら、御者のおじさん、まあいいよ、と言うので、
五人で乗ってしまいました。
引っ張ってくれた馬くん、重くてゴメンよ~~ぅ。



これは休憩中の、私たちが乗った馬車です。
ちゃんと馬くんが休めるように、途中何ヶ所か停まって、
私たちは降りて見学させてもらえるわけです。

しかしまずはカテドラル周辺の旧市街を走るので、
狭い道路でバスだの車だのと一緒になってカッポカッポと。



嫌がりもせず怖がりもせず、ちゃんと走る馬くん、偉い~。

それから北へ抜けて、モンテホ通り Paseo Montejo というところへ。
これはかつてのアシエンダ所有者など、大金持ちが住んでいたお屋敷が並ぶ通りで、
建物を眺めるだけでも見応えたっぷり。
ですがまあ、その建物はまた今度お目にかけるとして、
椰子の街路樹が並ぶ通りは、幅も広くて少しは走りやすくなります。



ちなみにこの写真にたまたま写っている赤い二階建てバスは、
これまた市内一周観光バスでして、
何ヶ所かに降りては次に来るのに乗って、自由に一周できるというもの。
これに乗ることも考えたんですが、今回はパスしました。
まあ馬車でも見るところはけっこう見たしね~。



というわけで、今日はその馬車で見学させてもらった、
「国旗モニュメント」、Monumento a la Bandera を。

モンテホ通りの真ん中にどーん!と建ってる、丸いモニュメントです。
正面はこんなの。



えーと、コロンビア人が作ったとか言ってたっけな?(うろ覚え)
この正面の戦士の足元にぐるっと、メキシコの歴史が刻まれている、
というので、見てきました。
戦士の向かって右側には独立戦争の英雄たちが、
左側は……すんません、歴史に疎いので顔見ただけでわかる有名人はいなかったような。
たぶん革命期とその後の農地改革期の人物だったと記憶してます。

しかし、歴史って、それだけじゃあ偏ってるよね?
と思いつつ裏へ回ると……



どど~ん!と、なんか迫力です。
いや、ちょうど曇り空から太陽が覗きかけて、逆光になり、
それが何とも神々しい色合いで、モニュメントのコントラストに貢献してくれました。

手前に立っているのが、例のメキシコの象徴、
サボテンにとまって蛇を食べているワシ、です。



すいません、同じような写真ですが、
光の具合がすっかり気に入ってしまったので、
自画自賛でいくつも載せちゃったりして……。

奥の、旗の下の浮き彫りは「生命の樹」。
カラフルな民芸品としてよく売られていますが、
ここではすっきりシンプルに。



生命の樹の両側に、アステカ族やマヤ族などの格好をした人たちが並んでます。
近寄ってじっくり眺めれば、きっといろいろ勉強になるのでしょう。
実際、私たちが到着したとき、学校からの見学らしい生徒の集団が最後の記念写真を撮ってました。



この馬車で見て回っただけでも数日分のネタです~。
合間にまたチアパスの話やシティ周辺の話題も入れつつ、
ご紹介していきます。

ジャパニーズ・スタイル・ピーナッツ

2006-11-28 11:50:44 | メキシカン和食
うわあああん、すみません、
今日は真面目に書こうと思って、メリダの町の紹介から丹念に書き起こし、
いよいよ佳境! というところでちょっと浮気して
よそのサイトを覗きに行ったりしたら、
ブラウザがフリーズして強制終了~。

風邪が治りきってないボケ頭で、もう一度同じことを書くのはきつい……。
というわけで、今日もまた小ネタでごめんなさい。





これ、道端なんかでよく売ってるお菓子です。
Cacahuates japoneses、日本風ピーナッツ。

普通のピーナッツを、しょうゆ味のカリッと堅い殻でくるんだもの。
メーカーがいくつかあって、微妙に味は違いますが、
割とおいしいんですよ、これが~~。

一緒に写ってるのは私のボロ携帯(ダンナの壊れかけたお古)で、
まあ大きさがわかってもらえるでしょうか。
袋は透明なので、見えてるのが現物ピーナッツです。
これで、40g入りの小袋、道端で買うと5ペソくらいですかね。

しかしこれ、メリダのスーパーで買ったら、
30袋入りの大袋でしか売ってなくて、
それでいくらでしたっけ、なんかその値段は間違ってるでしょ? ていう価格。
【追加情報で、38ペソと判明しました】
でもレジで確認したら、それで合ってると言う。
うーん、なるほど、道端で売ってる人はこういうのをまとめ買いしてるんだなあ。

で、そのまとめ買い大袋には、ちゃんとチレソースもついている……。
(左の黄色い小袋)
しょうゆ味にチレソースかぁ、さすがメキシカン。

さて、この芸者の横顔マークの Nipon もおいしいですが、
駄菓子の有名メーカー Sabritas のが一番おいしいと私は思ふ。
中でもゴールデン味は、駄菓子の中では絶品。

……えらいローカルな話ですいません。

さてさて、このたびメリダで巨大スーパーに行くチャンスがあり、
まあこういうところは米国とあんま変わんないねえ、そうだろうねえ、
などという会話を交わしつつ、
あ、でも駄菓子コーナーだとメキシカンテイストがあるかも!
と行ってみたところで発見したのが、これ。

    ↓



横の携帯電話と、よく見比べてください。
うーん、何グラム入りだったか確認するの忘れましたが、
1kgだったかな?
【追加情報で、850gだったとのことです。密輸入者さん、謝謝!】

袋が巨大なのはいいんですが、
写ってるピーナッツが、異様にでかい

これ、写真を拡大してあるだけだよね?
中のピーナッツがこんなにでかいわけじゃないよね?


と言いつつ二袋も買ってしまった、同行者(特に名を秘す)。
いや、もしも開けて、現物がこのでかさだったら……
ちょっと食べにくいかも?
てか、それ、ピーナッツじゃない気がします……

メキシコにおける日本の文化……?

2006-11-27 13:44:36 | 出来事
今日はまだ、引き込んだ風邪が完全に治ってないのと、
サッカーの試合が3つ+1つあったので、
短い記事でお茶を濁します。

とは言っても、これ、もしかしたらメリダ一週間旅行の中では
異質の収穫だったかもしれません。

写真を撮ろうとしても、普通じゃ撮れないです。
が、今回は、おとりになってくれた同行者のおかげで、
ばっちり、というか何というか……。

夜だったのと、ズームを使ったのでかなりぶれてしまいました。
それでも、ちゃんと読めるでしょ?
18禁対策でぼかしたわけではないんですが、ちょうどよかった?



道端とかアーケードにある、屋台に洗濯バサミで止めて
いろんな種類の雑誌を売ってるところですが。

HENTAI』……。

まあこれまでにも、『MANGA』だとか、
Cosupure』だとかいう雑誌を見かけたことはあります。
特に後者は、一瞬首をひねりましたね~。
あ!
と思い当たったときには、マジで声を上げそうになりました。

しかしな~……。
『ヘ○タイ』ですか……。

まあ思い返してみれば、マヤの儀式ツアーに参加したとき、
ガイドのインディオのおじさんが、
日本アニメの戦う少女が可愛いんだよねえ~、
とデレデレしていたこともあり、
街中でも日本のアニメだろうと思われるギョロ目少女の絵なんかも
確かに見かけます。
いやいやいや、私だって、漫画で育った世代ですから、
そういうものの魅力はわかるつもりではおりますとも。

でもなぁ~、
メキシコ初めての日本人の(しかもやや年配の)ご夫婦を案内して、
いかにもメキシコらしいところを見ていただくには、
やはりマヤ文化の色濃く残る、
かつ、まあ観光地として整備もされているメリダあたりがいいんでないか?
ということで行った、その町で、
こんなものを見ると、何とも複雑な気持ちですね。

どうせ日本語のまま定着するなら、
もうちょっとこう……『変態』じゃない単語がいいかもなあ、
などと思ってしまうのは、贅沢なんでしょうか?

ラジオ番組に出ます~

2006-11-17 08:53:54 | お知らせ
え~、電話はまだ直ってません。
当然ですか
今日は朝から電話局に行ってチャンバラしてきたんですけど、
それでも今日も修理、来ませんでした。
てことは、旅行から帰ってから改めて戦闘に突入ということですね。

まあ愚痴ってもしょうがないので、またネットカフェからのアップです。
そうでなくとも11月はアップできる日のほうが少ないというのに(また愚痴。

そうです、また出かけちゃいます、すいません。
17日から25日まで。
というわけで、少ない日数頑張ってアップしようと思ってたのに
無理っぽいです。
まぁ今回はネットカフェという手段を思いついたのと、
時間にやや余裕があったのが幸いでしょうか。
でないと、またご心配おかけするところでした。



さて、実はこのブログをごらんになった方から、
ラジオ番組に声出演してみませんかとお誘いを受けました。
面白そうな話には何でも飛びつくカエルなので、
後先考えずに、お願いします~、とお返事を出しましたら、
本当に実現してしまいました。
(いや、メキシコだったら放送があるまで、実現したと断言はできないですが、
 これは日本の話ですから、たぶん(たぶん?)大丈夫)

落語家・立川志の輔お師匠とお話をさせていただく番組ということで、
メキシコのお話をするはずだったんですが、
何しろいきなり電話が通じなくなるし、
録音のお約束の時間は迫ってるし、で焦りまくりました。
結局携帯で国際通話、という今までやったことのない方法でしたが、
どうにかこうにか。

しかし私、緊張しまくって頭の中半分(以上)真っ白。
おまけに何だかメキシコの話というより
私の浦島振りをたっぷりご披露してしまった気がしてるんですけど……
そこはプロの方々ですから、うまく編集して
それらしく作り直していただいているかと思います。

というわけで、恥ずかしいですが
聞ける方はぜひとも聞いてみてください。
ただ、関東エリアのみの放送とのことです。
18日(土)の11時からの『志の輔ラジオ』という番組で、
私のは番組の時間次第で11時半過ぎくらいから流れるそうです。
あ、ばっちり本名で出てますけどあしからず。
ちゃんと、本物の亀さんです。



いやいや、しかしこのブログをやっているおかげで、
大勢の方と知り合えて、メキシコの話をしたり、
メキシコに関心を持っていただいたりして、
本当にやっている甲斐があるというものですが、
こんなことまでさせていただけると、もう本気で、
日墨国際交流推進委員会、とか作れそうな気がしてきちゃいますね

このブログもますます頑張ろうと思いました。
ので、最近お休みが非常に多いですが、
それもネタ集めってことで、どうかお見捨てなきよう、
皆さま、よろしくお願いします!

ホテイアオイ と ネットカフェ

2006-11-15 09:34:36 | 植物
すみません、今日は停電ではなくて、ですね。
電話線が死にました

どうしても外せない用事があったので、
ネットカフェに出張ってきてます。
だって、電話が通じないと他に連絡の取りようがないのだ~!!(怒

メキシコにはネットカフェ、そんなに使う人がいるのか?
ってくらいたくさんあります。
ハイテクなんかまるで縁のなさそうなちっちゃな村にもあります。



しかしメキシコのネットカフェでは
日本文字が書ける環境が期待できないので、
この文面は家で書いてHTML文書でコピペです。
うまく行くかなあ?

で、せっかく今日のネタも用意してたんですが、
さすがに複数の写真をアップして組み込む作業までは
大変なので、やめておきます。

今日は、以前ここで話題に挙がって名前を教えていただいた
ホテイアオイが満開の写真を。



これはどこぞの道端で、どぶ(?)にびっしりだったのを
あまりの満開ぶりに感動して写したものです。

それと、だいぶ初期の記事なので、
写真が無駄にでっかいですが、
こちらにもホテイアオイに囲まれたカヌーたちの姿があります。

すみませんが、今日はこれだけで。
明日には修理に行くと言ってましたが、
はてさて、本当でしょうか!?
乞う御期待!

あ、あと、コメントへのお返事も遅れますが、
どうかご了承ください~。

タフコ農場と山本浅二郎氏

2006-11-14 10:07:35 | 日系移民関連
さて、アカコヤグアのお話第二弾~。

cimaちゃんと兄貴分のYさんとに連れられて、
ランチョを見せていただきました~。
が、今日はそのYさんのランチョではなくて(それは取っておき)、
その手前にあった、タフコ農場(ランチョ)を。

アカコヤグアの道をピックアップトラックに乗せてもらって
どっち方向でしょうか?
しばらく行くと、いかにも村外れになって、
ブタの親子(お父さんはイノシシかもしらん……汗)に出会ったりしつつ、
道は徐々にガタガタになり細くなり……
家も途切れがちになって、やがて両側とも放牧地に。
少し行くと、右手に見えてくるのがタフコ農場。



中を見せてもらうことはできませんでしたが、
おおお~、これが、あの! と感激。
というのも、アカコヤグアと移民の人々の話には
必ずタフコ農場の名前が出てくるからです。

門のところをアップで。



日章旗と、TAJUKOの文字。
その下には小さく、
PRIMER ASENTAMIENTO DE LOS
PRIMEROS INMIGRANTES JAPONESES
COLONOS ENOMOTO

「最初の日本人移住者、榎本移民による、最初の居住地」
と書いてあります。

そして移民の人たちに意義深い年号、
1897年と1997年。

TAJUKOの左側に、縦書きで
「多福湖」と書いてあったんですが、
すみません、帰ってから写真を見たら、つぶれてしまって見えませんね。
資料文献などでは「多福岡」という表記もあるようです。

これは、他のいくつかあるランチョと並んで、
本当に初期に作られた農場です。
(てか、最初の、と主張してありますね)

貴重な一次資料に、タフコ農場についての記述があるので、
それを書き写します(改行は亀による)。

最初の榎本植民の一人で三河の人、山本浅次郎を中心に起った農場である。
同植民の契約三ヵ年を完全に果たした唯一の人で約束の百二十町をゆずり受け、
最初は共働会社の人々と共に三奥組合(三河者と奥州者)の形をとった時代もあるが
同会社の解散後は個人農場として発展して
甘蔗を植えて砂糖作りや牧畜を業とした。
革命動乱のときの武勇伝はここを舞台に演じられた(※)。
若くして植民に加わってきた人であったため、
メキシコに来て初めてローマ字を以って日本語を書くことを学んだので、
終生ローマ字日本語の手紙を書いていた。
没後現在もこの農場は牧畜を主として同氏五男が立派に経営して今日にいたっている。


【『南メキシコに遺された日本人の足跡』 松田英二・著 1966年8月】

(※)の革命期の武勇伝というのも、何度か読んだことがありますが、
これまた貴重な一次資料から引用(改行同上)。

故山本浅二郎氏は榎本植民地も大分奥の方タフコ農場に居住していたが、
革命戦の最中ある夜三十名以上の匪賊に襲撃された。
同氏は家族の退避を見極めるや敵の目標をくらますため
一糸まとわぬ裸体となり、屋内をかけめぐりつつ発砲応戦し、
匪賊の大部分をたおしてこれを撃退し、
地方民からその武勇を買われた由である(後略)


【『南メキシコにおける通称「榎本植民地」視察出張報告書』 
       在メキシコ日本国大使館 大倉敏之・著 1966年】

とまあ、そんなドラマがこの農場でも、また他の農場でもあったわけです。
で、今は、のどかな牧畜地。

私の大好きなセブー牛が!



一頭だけでしたが、いつ見てもすごいよ~。
シラサギたちもいっぱい一緒にいるんですよね。



普通の(?)牛たちも。
さて、この一番手前の牛の、腰骨辺りに、
所有農場を示す焼印が押してあるんですが、見えるでしょうか?

こっちのほうが見やすいかも。



「日章旗」をデザインした、タフコ農場のマークだそうです。
cimaちゃんの兄貴分Yさんに教えていただきました~。

少し離れたところに、馬もいました。



ちょっとぽつんと離れて、さびしそう?

そんなこんなして写真を撮ったり、
教えてもらった草の茎から出るネバネバでシャボン玉を飛ばしたり
して遊んでいる私たちの横を、
砂埃を上げて通り過ぎるトラック。



ああっ、セブー牛が!
これまたドナドナかっ!?
と慌てたのでぶれてます、すいません。

でもたぶんこの先にはいくつもの広大なランチョが隣接しているようなので、
ドナドナじゃなくて、どこかの農場で
のんびり草を食べて過ごすために連れていかれたのでしょう。
……ということにしておきます。

今日も長い話を読んでくださってありがとうございました

モンテレイのバラガン灯台

2006-11-13 06:28:12 | 観光
前回バラガンの記事を書いたら、その日だけアクセスが2割増しになりました(笑。
なので、今日もちょっと戦々恐々としつつ、
ルイス・バラガンです。

tengo hambreさんのブログで教えていただいたんですが、
モンテレイのセントロ(都心部)には、バラガン設計による巨大な壁が立っているとか。

ええ~、そうでしたっけね???
何度も何度も行ってるはずなのに、覚えがない……(汗。

というわけで、今回はきっちり見定めてこようと、
行く前から張り切ってました。

でもまずは、tengo hambreさんの記事と写真をごらんください。
とか言ってまた勝手に直リンです、tengo hambreさんすみません~。

まずは基本的な説明と写真
そしてポストカードですが、これを見て、ぜひとも現物を見なくては!とびっくりモノリス。
私が騒いじゃったので探し出してくださった夜景写真
そして日中の、高いところから撮った専門家の写真と思われます。

……て、あら。
こんだけあったら、私の写真、要りませんかね?(汗

何しろ、昨日も書きましたけど、
私たちが行ったモンテレイと来たらもう、寒くて寒くて……。
ベッドに潜り込んで出てこないダンナをどうにか引っ張り出して
ようやくセントロまで行ってみたら、確かにあったんですけど。



こんなんやもんなぁ~。
いやいや、古風な街灯、バックのカテドラル、噴水。
これで青空でさえあれば、バラガンのレンガ色が美しく映えてくれたでしょうに。

しょうがないので、細部を攻めます(?)。



登って落っこって首折った、なんてバカが出るに決まってますから、
塔の周囲は厳重に柵で囲まれてますが、
その柵のあいだから塔の足元を見ると、こんなん。

ドアがあるし。
中には何があるのでしょう?
掃除用具とか?
そして、この梯子のごとき横棒は、やっぱり
登ることを想定してつけてあるんでしょうかねえ?



塔の反対側はべったりと普通の壁なんですが、
そこにこんな文字が刻まれてました。
これは Faro del comercio、「商業の灯台」というらしいです。
商工会議所みたいなところが作らせた、ってことかしらん?
下のほうの、デザイナーのところに、
ルイス・バラガンとラウル・フェレラ・トレスとふたりの名前が並んでます。



塔を囲む芝生の端に、こんな説明書きもありました。
ここにもちゃんとバラガンの名前が、小さくですけど。
1983年4月30日に作られたとあります。
で、この看板は2002年に、商工会議所120周年記念で作られたとか。
て、ほとんど関係ないですか(汗。

さてさて、この塔、ただの塔ではなくて灯台なわけですから、
てっぺんには仕掛けがあるんですね。



カメラで頑張ってズームしてみました。
でも、ほとんどわかんね~
まあとりあえず、右の端のほうに赤いランプがあることだけはわかりますかね。



レイノーサからモンテレイに帰ってきた日、
我慢しきれず、ダンナも姑さんもほっぽり出して、
ひとりでセントロに出かけてみました。

まあ他にもいろいろと面白い教会とかあるんですよね。
その辺をゆっくり見て回りたかったんですが、
メトロポリタン博物館から出てきたとき、
うっすらと青空が!!!



まあわずかな時間ではありましたが、
レンガ色がよくわかっていただけるかと。
神さま、ありがと~



さて、しかし夜景を見るには、いくら何でもひとりで飛び出しては、
姑さんが大騒ぎするに決まってます。
(実は日中に出たときも、義兄の車で送ってもらって、
ドサクサ紛れに姑さんの目を盗んで出たのでした)

でもまあさすがのダンナも、これには(いやいや)付き合ってくれたので、
無事に脱出。



夜景~。
バックのカテドラルも当然ライトアップされてますし、
周囲の公園の街灯もあかあかと点いていて、
いやもう明るい明るい。
それでも、例の赤ランプが点いているのはくっきり見えますね。

そして、写真の撮り方が難しくて、
いろいろと場所を変えたりカメラの設定を変えたりして
何枚も撮ってはみたんですが、
うーん、綺麗に撮れないもんだなあ。

  

でもとにかく、緑色の光線が、塔のてっぺんから出て
回っているのがわかるでしょうか?
下から見上げて、時計と反対周りになります。

梯子状になっている壁が見える位置から見ていると、
向こう側を回ってきた光線はほぼ水平です。
そして、壁とちょうど90度になったところで、
上向きに45度、ぐいいいっと上がります。
そして、そのままこちらへ回ってきて、
頭上を過ぎ(一連の写真はこの辺り)、
向こう側へ回って、たぶん、徐々に角度を落としているらしい。

きっともっと写真を撮るにふさわしい場所があるんだろうと思います。
こんなに明るいところでは、緑の光線が写真に写りきらず、
とても残念。

ちなみに、ダンナの実家はかなり山のほうになるんですが、
そこで見ていると、頭上を一瞬で通り過ぎていました、
この緑の光線。
セントロで撮影したときは、こちらに回ってくるのに
1分くらいだったかなあ。
写真の撮影時刻の間隔を見ても、そんなもんですね。
けっこうゆっくりなんですけど、
灯台から離れれば、それだけ光線は速く動きます。
私のデジカメではシャッター速度がまるで追いつけず、
何度かチャレンジしてみましたが、
真っ暗な夜空しか撮れませんでした……。

でもさすがに、くっきりはっきり見えましたけどね。
今までも見ていたんだと思いますが、
たぶんどっかにサーカスでも来てるんだなあ、
くらいにしか認識してなかったんでしょう……。
おかげで、モンテレイに関する知識がひとつ増えました。

日本人が初めて入植した村、アカコヤグア

2006-11-12 15:38:39 | 日系移民関連
さて、9月の旅行のネタもまだ紹介し終わっていないのに、
またもや新しい旅行の話になります。
まあ残っているネタはいずれ必ず紹介しますので、
まずはやはり活きのよい(?)話題から。



アカコヤグア Acacoyagua という名前は、
メキシコ関係の本を読んでいるとわりかしあちこちに出てきます。

1897年、榎本移民と呼ばれる一団の日本人の殖民者がこアカコヤグアに住みついたのが、
まあ公式に移民と認められる最初のメキシコ在住日本人なわけです。

私がメキシコに来たのが1995年で、
1997年には日系移民100周年記念として、いろいろなイベントがありました。
そのころはまだ大したことも知らなくて、
それより自分の生活に必死だったもんだから、何も興味持たず、
今思うと残念なことをしました。

そして今回ついに、ネットで知り合ったcimaちゃんを頼って、
厚かましくもこのアカコヤグア訪問の悲願を達成したわけです。
いやあ、ネットはすごい、そしてcimaちゃんには大感謝!なのです。

何しろまあ、はっきり言ってかなり遠い
cimaちゃんがいてくれなければ、とうてい腰を上げる決心がつかなかったでしょう。
メキシコ全体から見ればわずかな距離ではあるんですが、
今回私たち、モンテレイとさらにその北の国境沿いのレイノーサへ行き、
そこから一路、南の果てまで行ったわけですから、
まあ1800kmほどですね。
気候も植生もまるで違うことを、しみじみと実感しました。
特に、モンテレイは寒かった。
「寒いかもねえ」と言って、南国仕様の私たちは、
長袖のシャツを一枚持って、充分なつもりでいました。
ところがモンテレイでは、吐く息が白い寒さ。
参りましたね~、まったく。

まあ飛行機が途中経由したトルーカは、何しろシティより高地ですから、
モンテレイよりもっと寒くて、私ら、凍ってましたけど。
でもまあそれは飛行機を待つわずかなあいだのこと。

そして、ようやく辿り着いたチアパスの州都、トゥクストラ・グティエレスの空港。
あああ~、南国だよ、青空だぁよ~

そこからさらに、町まで数十キロをタクシーで、
そしてさらにバスで、6時間南下。
メキシコの最南端からわずか100km足らずのところまで。

この、メキシコでバスに乗るのがまた楽しいんですが、
その話は長くなるのでまた今度。
そうして辿り着いたのはアカコヤグアではなくて
隣町のエスクイントラ Escuintla なんですが、
その紹介も、また今度。



とにもかくにも、そうやってcimaちゃんと無事ご対面を果たし、
アカコヤグアを案内してもらいました。

小さな村と、侮るなかれ。
日本人には見所たんまりの、意義深い村なのだ。
そこで、今日はその一ヶ所、
榎本移民団記念碑を。

あ~、前置きが長くてすみません(笑。



見よ、この青空を。
寒空のモンテレイでたまった鬱屈が、あっという間に霧散する風景。

記念塔の裏はこんなの。



句が間違ってるとか、最後の一文字が欠けてるとか、
細かいことを気にしてはいけません。
これは、移民団とともにチアパスに定住し活躍した植物学者、
松田英二氏の直筆文字だそうです。
松田英二氏については、またそのうちに詳しく書くと思います。

記念碑の表の台座にはこんな文字が。



まあ要するに、榎本移民団を記念してこの記念碑を建てた、てなことが書いてあります。

裏の銅版には、その36名の名前が。
(ひとり船旅の途中に亡くなったそうですが)



宮城県と岩手県、そして愛知と兵庫からの人々です。
チアパス南部にコーヒー農園をひらこうとしてやってきた人たちですが、
残念なことにわずか三ヶ月でその計画は頓挫。
大変な苦労の中で、移民団は四散してしまいました。
その中でわずかにチアパスに踏みとどまった人たちもいます。
その辺についてはまたゆっくりとお話しすることにして。



100周年記念に、メキシコ在住日本人たちが寄付を集めて作ったという、
この記念公園には、石灯籠もひっそりと立ってました。

それから、え~と、



秋篠宮、ってこの字でよかったですかね?
皇室関連にはとっても疎いもんですから、これもどういうお方だったか、
cimaちゃんに聞いた端から忘れてもうた……
とにかく、皇族のお方が寄贈なさったんだか植樹なさったんだかという
何か……

とまあ、チアパスの空の下、
百年前の日本人たちを忘れない村があるのです。
この綺麗な公園では、小さな男の子がお母さんに連れられて走り、
お年寄りが日陰に座っておしゃべりに勤しみ、
靴磨きの兄ちゃんたちが植木の下でお客を待っておりました。



いやはや、土日は更新お休みとか言ってましたけど、
そんなこと言ってたら、次出かけるまでにネタが溜まりすぎちゃうので、
少し頑張ります。
長くなって申し訳ないですが~
いやもうマジに、cimaちゃんにいろいろ教わったことを
全部書き留めておきたい気分なんよ~。
なので、どうかしばらくお付き合いください。
あ、モンテレイのほうも話も出しますけど。