メキシコの隅っこ

メキシコの遺跡や動物、植物、人や風景などを写真で紹介してます

メキシコについての本とか

2007-02-16 09:12:54 | 文学
すみません、今日は別ブログでお茶を濁しておきます。
(あ、お茶飲みたくなった~)

ご覧くださってるかたもあるかと思いますが、
本に関するブログのほうに、
ミクシィに書いていたレビューを転載完了しました。

ここでも以前、メキシコに関連した本を何冊か紹介したことがありますが、
そこに挙げたのも含め、
また違う本もあり、

シマちゃんから教えてもらって読んだ榎本殖民関連の本や
その他の移民関係の小説、
もっと読みやすい冒険小説でメキシコを舞台にしたもの、
メキシコに住んだことのある作家さんの作品、
などなど実にいろいろな本が世の中にはあるのだなあ、と
感心します。

メキシコに興味のある皆さん、
ぜひともこんな本も手に取って、
また違った視点のメキシコを味わってみてください。

別ブログ「本棚の隅っこ」の
カテゴリ「書評・メキシコ関連の本」のところです。

メキシコに関するちょっとマイナーな本

2006-09-19 05:10:36 | 文学
今日は午後から出かけます。また一週間ほど(正確には26日まで)留守になります。
そのあいだ、またまたブログはお休みです。
申し訳ありませんが、ネタを頑張って仕入れてきますので、
26日からまたどうかよろしくお願いします。



というわけで、今日は少し趣向を変えて、
あまり知られていないけれどもメキシコに関心のある人になら、
と思える本をいくつか紹介しておこうと思います。
アマゾンに(古本であっても)ある場合は、リンクを張っておきます。

まず、これは以前よそにも書きましたが、
遠藤周作の『』という作品があります。

 (この画像はたくさんあったので、どこかから拾ってきました、あしからず)

17世紀に貿易の許可を求めて日本からメキシコ(当時はヌエバ・エスパニヤ)へ、
そしてそこからさらに欧州へと渡った侍、
支倉六右衛門常長をモデルに、その長い旅程と、
新しい世界を見る侍の驚きや葛藤を描いたものです。

メキシコはその旅のほんの一部でしかありませんでしたが、
アカプルコに到着して、メキシコシティまで、
そしてさらに欧州へ渡るためにベラクルスまで、
メキシコを横断した部分は、メキシコを知る人には興味深く読めると思います。

さて、その中で私がとても気になったのは、
支倉に同行した下級武士や商人たちの大部分が欧州行きには加わらず、
メキシコに残って支倉たちの帰りを待ち、
さらにはそのあいだにメキシコ人の妻を娶ったりして、
最終的に日本にすら帰らずにメキシコに残った、という記述でした。

その子孫について調べた本を、偶然人から借りて読んだことがあります。
城山三郎の『望郷のとき―侍・イン・メキシコ 』という本でした。
これは私もいまだ入手できず、画像が見つかりません。

二部構成になっていて、前半は当時の歴史を、
後半は当時の日本人の子孫を探し出してのインタビューを、という形だったと記憶してます。
が、借りて読んだころは私には、
むしろ日系の血を引くメキシコ人たちに、日本の血はあまり意味のないものだ、
という話くらいしか印象に残りませんでした。
またいつか手に入れて読み直そうと思ってますが。

さて、それから最近ようやく手に入れた本ですが、
大泉光一『メキシコの大地に消えた侍たち―伊達藩士・福地蔵人とその一族の盛衰』。

(画像はアマゾンから)

これは、もうまんまですね。
遠藤周作で私が気になったところを調べてある本です。
て、まだ冒頭を少し齧っただけなんですが

こういう裏の歴史みたいなものって、どうしてこう面白いのでしょうか。
無名の、けれども異国でしっかり生きていった人たちの話は、
なぜかいつもワクワクします。



さて、少し趣が違いますが、
ル・クレジオという作家をご存知でしょうか。

メキシコインディオの神話や民話を研究した本を何冊も出している人です。
が、もともとは素晴しい物語作家でもあり、
海を見たことがなかった少年―モンドほか子供たちの物語 』という短編集は
その文章の美しさに、胸がいっぱいになります。

 (画像はアマゾンから)

日本語で読んでもおそらくその美しさは感じ取れるのではないでしょうか。
文庫もありますね。

そのル・クレジオの、
マヤ神話―チラム・バラムの予言』。

 (うちのボロ本なんで汚ないです)

そして『チチメカ神話―ミチョアカン報告書

 (上に同じ)

ル・クレジオの素晴しい筆で、メキシコインディオの神話が描き出されています。
すみません、せめて冒頭を引用しようと思ってたんですが、
ちょっとでかける時間が迫ってきました。帰ってから書き足します……。

そしてこれまた最近手に入れて嬉しくて自慢しちゃいたいのが
ル・クレジオ『メキシコの夢』。



これもまた、インディオの習俗や神話を調べ上げた、
けれども学術書というよりは文学として仕上げた本です。

すみません、ホントは沢木耕太郎の『深夜特急』文庫版第4巻の巻末対談、
これもよそですでに書いたりしてるんですけど、
そこにもル・クレジオの名前が出ていて、
インディオや古い文化に接するやり方、みたいな話があって、
それにも言及したかったんですがぁ~~。

最後に大急ぎで、もう一冊。
ル・クレジオ『砂漠』という、これはメキシコには関係のない小説で、
おまけにアマゾンでは検索しても出てこなかったんですが。



実は私が読んだル・クレジオはこれが初めてでした。
アフリカのベルベル族の血を引く少女がフランスの片隅で生きている、
彼女の内側にはベルベル族の神話が生きている、
人の生きる力には、過去の神話と未来への夢と、両方が必要である、
そんなテーマを感じさせる物語です。

初めて親元を離れてドイツへ旅立ったとき、持っていった数少ない本の一冊でした。
外国で暮らす上で、いろいろ考えてしまうことってあると思います。
これらの本が、そういった事柄へのきっかけやヒント、勇気付けになってくれればと思います。

すみません、いっぱい書き落とした話がありますが、
またそれはいつか、ということで。
では、行ってきます!

トルトリータ

2006-04-20 07:20:33 | 文学
新しい国に来て、まだ言葉がろくにわからないころって、
入ってくる情報量が限られるせいでしょうか、
それとも緊張して精神を研ぎ澄ませているからでしょうか、
その時期に聞いたり読んだりしたことはすごく印象に残りますよね。

メキシコに来てしばらくは、適当なスペイン語の先生も見つからなくて、
家で、ようやく買った食卓兼勉強机で、独学でチマチマとやるしかなかったんですが、
そのころ使っていた教科書に、
ある文学作品からのエピソードが載っていました。

そこだけ切り取られても訳がわからん、というのが正直なところ。
でも何だか妙に心に残る逸話だったので、
教科書に載っていた作者名と書名をメモして、シティの本屋で買い求めました。

Ermilo Abreu Gómez という人の『Canek』という本です。
リンクは英語アマゾンへ飛びます。私が持ってるのとは別バージョンですが。

ぱらぱらと見たところ、空行が多いし、ページ数も少ないし、
これなら何とか読めるかな、と思ったんですが、
当時は見事に挫折しました。
インディオや農場関係の特殊な単語がゴロゴロ出てくるんで。

日本語訳も過去に出ていたようですが、絶版みたいですね。
残念です。
興味あるかたは古本でぜひ探してみてください。

去年ようやく読了しました。
95年4月6日にメキシコシティにて購入、
05年4月7日に読了、と後ろにメモが。
10年と1日かかったわけですな~。

カネックというのは、マヤの英雄だそうで、
この本の前半は、カネックがアシエンダ(大農園)に暮らして関わる人間模様を描いています。
中でも、ちょっと頭が足りないと思われているグイという少年と仲がいい。
農園を取り仕切っているチャロおばさんなどは、グイの言うことをまともに聞きませんが、
何時間も野原に寝転がって雲を眺めたりしているグイに、カネックだけは付き合います。

そういうことを知らずに読んだら「はぁ?」だった教科書のエピソードも、
全体を通して読むと、ちゃんとそれなりの味わいがありました。

    

 遠くのランチョ(農場)に住んでいるラモン叔父さんがアシエンダを訪ねてきた。
 グイに、一羽のトルトリータをプレゼントとして持ってきた。
 トルトリータはとてもかわいく、従順で、掌から餌をついばみ、何でも言うことをよく聞いた。
 グイはすっかりかわいがって、自分の部屋で一緒に眠らせるほどだった。
 けれどもトルトリータはある日、誰も理由がわからないままに病気になり、
 ぐったりとして、餌を食べなくなり、翼を垂らし、頭を傾げて、そして死んでしまった。
 グイは彼女のために泣いた。

 ラモン叔父さんがそのことを知ったとき、もう一羽のトルトリータを持って、
 またアシエンダを訪ねてきた。
 グイは鳥を見て、キスをし、おじさんに返しながら言った。

「おじさん、お願いがあるんだけど」

「言ってごらん」

「きっと嫌だって言うよ」

「言ってごらん」

「この鳥を今日は持って帰って、明日また持ってきて。
 そして、以前に連れてきたのと同じトルトリータだと言ってほしいんだ。
 死んだっていうのは間違いだって、言ってほしいんだ」

 チャロおばさんはラモンおじさんに言った。

「このバカが言うことをそのまんまやるなら、あんたはもっとバカだよ」

 カネックが口を添えた。

「やってください、ドン・ラモン」

    

これだけじゃ、やっぱり「はぁ?」ですかね~

いや、今日の話題は、このトルトリータ tortolita ってなんだってことなんです。
前置きが長すぎ?

当時、辞書を引いても載ってないし、鳥だということはどうにかわかった、
というか、ダンナに訊いたら、鳥だと言ったわけです。

で、ある日道端を指して、トルトリータだ、と言われたのが、これ。



ドイツにも小型のトルコバト(和名シラコバト)というのがいましたが、
これはさらに小さい。スズメより少し大きいかな、というくらいです。

割とどこにでもいます。特に街中。
翼の波模様がステキです。
群れていることもありますが、夫婦らしく二羽で寄り添っていることも多いです。

本当にグイ少年に懐いたように飼える鳥なのかどうかは知りませんが、
街中でこの鳥に出会うたびに、このエピソードを思い出して、
ほんわかとあったかいような切ないような気持ちになります。

カネックの物語は、後半で急展開、
それまで平穏な生活を送っていたアシエンダで、インディオたちへのひどい支配が始まり、
耐えかねたインディオたちはカネックを先頭に反乱を起こします。

短い文章に深い意味を込めた、今もメキシコ人が好んで読む作品のひとつのようです。

石を投げれば○○に当たる?

2006-04-08 07:12:25 | 文学
いやあ、暑いですなあ~。
来週はセマナ・サンタ Semana Santa、一番暑くなると言われている時期ですから、まあしょうがないか。
昨日も、なんかやたら暑いなと思ったんですが、今日はとうとうクーラー入れてみました。
数年ぶりじゃないでしょうか。
ネットでカルメンの気温を見たら、現在34度とのこと。
そんなもんか~~。
私の部屋は西向きなので、午後暑くなるってのもありますかね~。

さて、今朝また停電しました。
こないだの大停電と同じところに、また修理の車が来てる……。
でも幸い一時間足らずで復活。

その停電中、できることがないので、本読んでました。
トラーベンの、次の短編、タイトル読んでも中身が思い出せん……。
読んだら思い出しましたが。
で、けっこう笑えたので、今日はまた続きで簡単にそのお話を。
Solución inesperada、『予期せぬ解決方法』です。

    

 レヒーノ・ボレゴは結婚して間もなく、おかしな気分になった。
 新妻のマノラがいつもご機嫌斜めで、文句ばかり言うのだ。
 結婚生活がこんなものだとは、と彼は後悔した。
 マノラのご機嫌を取り結ぼうと努力してもダメだった。
 ふたりのあいだには言い争いが絶えなくなった。

 さて、マノラの母親は、夫を亡くして娘が結婚して、
 それでも姑などと呼ばれるには、自分はまだまだ若いと思っていたので、
 ロサンゼルスへと新生活を求めて旅立っていく元気婦人だった。
 しかししばらく経つと体を壊し、ひとりではどうにもならなくて、
 娘のマノラを呼び寄せることになる。
 マノラは急いでロサンゼルスへと旅立った。

 さて、そのころレヒーノは結婚二年目だったが、
 マノラが急にいなくなって、伸び伸びと自由な一人暮らしが戻ってきた。
 最初の一週間は、マノラから毎日手紙が届き、
 ここにいたときと同じように、あれをしなさい、これをしちゃだめよ、と
 文句が連ねてあり、最後に「あなたの忠実な妻、マノラ」とある。
 勘弁してくれ、って感じですね。

 しかし次の週には手紙は一通しか来ず、
 その次の週には三通来たが、もっとおとなしいものだった。
 それから手紙は不定期になり、しばらく途絶えて、
 再び届いた手紙には
「どうか、長いあいだお便り出さなかったことをお許しくださいますように」とあった。
 レヒーノは目を疑って、その文字を眺めた。
 母親の病気が悪くなって手紙を書けずにいたこと、
 けれども持ち直してもうすぐすっかりよくなるので、そうしたら急いで帰ること、
 そして「我が命、私の愛しい旦那さまへ」と結んであった。
 レヒーノはすっかり取り乱して、マノラが狂ってしまった、
 入れるための病院を見つけなきゃ、と騒いだが、友人たちは取り合わなかった。
「なあに、お前たちは幼馴染で今までずっと一緒にいたのが悪かったんだよ。
 しばらく離れてみて有り難味がわかったんだろ。心配することはないよ」

 そしてマノラは帰ってきて、レヒーノに抱きついてキスで覆いつくし、
 掌を返したように物分りよく愛情深い妻になった。
 レヒーノは、マノラの母親が感化したのだと思って感謝した。
 しばらくしてマノラはレヒーノに妊娠を告げ、ふたりは息子を得た。
(この辺り、トラーベンのユーモアのある筆致でホントは全部訳したいくらいですが、省略します。
 読める人はぜひとも自分で読んでみてください~)


 さて、ふたりはその界隈でも「結婚は失敗に終わるばかりではない」ということの実例として有名なおしどり夫婦になった。
 息子のクトベルトが大きくなって、近所のベラという娘と恋に落ちた。
 ベラはオチョア医師の一人娘で、クトベルトと同じ年頃、
 オチョア医師のほうは妻を数年前に亡くして、娘とふたりだったが、クトベルトを大変気に入っていた。
 ところがクトベルトの両親、ボレゴ夫妻はこの結婚に断固反対

 クトベルトが、ベラのどこがいけないんだ、と両親を問い詰めても、
 ベラは申し分ない、美人で気立てがよくて品行方正、だが結婚はやめておけ、とレヒーノ。
 お父さんの言うとおりですよ、他の娘になさい、とマノラ。
 とうとうオチョア医師が乗り込んできて、娘のどこが気に食わないんだ、と問い詰めても
 ふたりは断固として反対

 とうとうオチョア医師は強引に二人を結婚させることにし、
 クトベルトは次の土曜日に結婚式をあげる、お父さんとお母さんが出席してくれなくとも、と宣言。
 その晩、頭を抱えたレヒーノは、
「もうダメだ、あの子に本当のことを言うしかない」と呻く。
「ベラはクトベルトの妹なんだ。
 お前が母親の看病にロサンゼルスへ行っているあいだ、
 オチョアも会議で出かけていた。オチョアの女房も寂しかったんだろう、
 それでおれたちは……」

 告白するレヒーノを呆然と見つめるマノラは、震える声で
「それ、間違いないの? 本当に間違いなく、ベラはあなたの娘なの?」
「間違いない。オチョアはもちろん知らないことだが。
 ベラはおれの娘、クトベルトと血がつながってるんだ」
 それを聞いたマノラ、深い溜息をついて、
「だったら大丈夫、あのふたりは結婚しても問題ないわ。
 だって、クトベルトはあなたの息子じゃないんですもの」

 そう、マノラがロサンゼルス滞在中、
 オチョア医師もロサンゼルスで会議があり、ふたりはそこで出会って、
 過ちを犯した、というのですな。
 しかしそのことで却って、マノラは夫を愛していたことを悟って、
 心を入れ替えて善き妻になった、というわけ。

 呆然とその話を聞くレヒーノ。
 そこへ、寝ていたはずのクトベルトが眠れずに、何か飲もうと起き出してきた。
「お前、ベラと結婚してもいいぞ。あれはいい娘だ」
 父親の言葉と、頷いてみせる母親に、クトベルト君、パジャマのまんま家を駆け出し、
 ベラの家まで走って行ってそのことをオチョアとベラに告げました。

 まあ話のオチとしては、何も知らないオチョア医師が
「クトベルト、お前の両親って変だよなあ~、あんなに頑固に訳も言わずに反対してたのに。
 まあおれが怒鳴り込んでやったのが効いたんだろう」
 と自己満足に浸るわけですが。
 pesado って単語に、不倫に絡めて二重の意味があるのかな?
 ともかくそれで、めでたしめでたし。

    

ユーモアと言っていいのか、ブラックユーモアと言うべきか?
まあ、石を投げれば不倫体験者に当たる、ってなくらい多いらしいメヒコですから、
こんな事態もお話じゃなくて現実かもしれないですね~

しかし、このカラッとしたトラーベンのユーモア、やっぱり好きです

インディオは大儲けしたかどうか?

2006-04-07 09:14:33 | 文学
さて、それではお話を最後まで続けましょう~。
まだ下の記事(「メキシコ人の安請け合いには理由がある?」)を
読んでくださってないかたは、そちらを先にご覧くださいね~。

ウィンスロップ氏がインディオに出した難題、
千個の籠を売るとしたら、単価はいくらにすべきか?
皆さんはいくらくらいにすべきだと思いますか?

    

 翌日ウィンスロット氏がインディオを訪ねていくと、
 またいつもどおり小屋の前に座って籠を編んでいた。
「千個の計算は済んだかね?」
 こんにちはを言う間も惜しんでウィンスロット氏は訊ねた。
「はい、親方。どうか親方にもお恵みの日でありますように。
 お値段ですが、計算してみました。
 信じてください、とっても大変だったんです。
 親方を騙すことになってはいけないし、
 かと言って親方の公正な儲けを損させてしまってもいけないし……」
「御託はいいから、アミーゴ、いくらだね? 値段はいくらになるんだね?」
 ウィンスロップ氏は神経質に訊ねた。

 インディオは答えた。
「よく考えて間違いのないように計算した末のお値段は、次のとおりです。
 千個の籠を作るとしたら、一個当たり4ペソになります。
 五千個作るとしたら、一個当たり9ペソで、
 一万個作るとしたら、一個は最低でも15ペソということで。
 もう一度申し上げますが、この計算は間違っておりません」

 ウィンスロップ氏は、スペイン語がよくわからなくて、理解できなかったのだと思った。
「一万個買うと、一個15ペソって、そう言ったかね?」
「そのとおりでございます、親方。間違いございません」とインディオは穏やかに答えた。
「しかし、100個買えばひとつ65センターボだと言ったじゃないか」
「はい、親方。もし私が百個、籠を持っていたとしたら、ひとつ65センターボでお譲りしますよ」
「そうだろう、そうだろう」ウィンスロップ氏は頭がおかしくなりそうだった。
「それじゃあどうして一万個を同じ値段で売ってくれないのかね?
 値引きしろとはもう言うまい、しかしなんでまた、そんなにおっそろしく値上がりしなきゃいけないのだ?」

「親方、単純なことですよ、どうしてお分かりになりませんかね?
 千個の籠を作るには、一ダース作るのの百倍の時間がかかります。
 一万個作ろうと思ったら、一世紀かかっても終わりゃしません。
 良識があって正直な人間なら誰にでもわかることです。(だんだん嫌味が効いてまいりました!)
 千個の籠を作るには、百個の籠より多くの藁が必要となるだけじゃありません、
 色染めのための植物、根っこ、種、虫もみんなそれだけ必要になります。
 たとえば紫に染めるための虫を見つけるには、ジャングルを三日か四日歩き回らないといけないんです。
 藁を加工するのにどれだけ時間がかかるかも、ご存じないかもしれませんね」

 インディオはさらに続ける。

「そして、それよりももっと重大な問題があります。
 私が籠を作るのにかかりっきりになったら、誰がトウモロコシや山羊の世話をしますかね?
 日曜日のご馳走のためにウサギを捕まえに行きますかね?
 トウモロコシを収穫しなければ、トルティーヤすら作れません。
 そうなったら、何を食べればいいんでしょうか?」

「籠にいっぱいいっぱい金を払うと言ってるんだ、
 その金でトルティーヤも豆も、好きなだけ、何でも好きなだけ買えばいいじゃないか」
 とウィンスロップ氏は反論。

「親方はそう思いなさるでしょう。けど、見てください。
 私が蒔いたトウモロコシからは収穫できることは間違いないです。
 しかし、買おうと思ったら保証はない。
 それに、考えても見てください、もしもこの辺りのインディオが全員、籠を作ることになったら?
 誰がトウモロコシや豆を作るんですか?
 わしら、みんな飢え死にしてしまいます」

「この辺に親戚はいないのかね?」
 2万ドルの夢が消えそうになって絶望的なウィンスロップ氏は訊ねた。
「この村のほとんどの住人は、私の親戚です、親方」とインディオ。
「それじゃ、その親戚がトウモロコシや何か、手伝いに来てくれないのかね?」
「来てくれるでしょうが、親方、そうなったら誰が彼らのトウモロコシの世話をしますかね?
 同じことですよ、親方。誰もトウモロコシを作らなくなって、
 そうしたらどれだけお金があっても買えないほどにトウモロコシの値段は上がって、
 みんな飢え死にします。
 そう考えると、籠をひとつ65センターボじゃ売れないってわかるでしょう?
 15ペソより安くはできないんですよ」

 それでもウィンスロップ氏は諦めようとしないで、
 手帳を取り出して数字に数字を連ねて、どれだけの儲けになるかインディオにわからせようとした。
「契約してくれれば、7800の輝くばかりの銀のペソを支払おう。
 仕事が終わったらおまけに1200ペソをプレゼントする。
 合計で9000ペソの儲けだぞ」
 インディオはウィンスロップ氏の掲示する金額にではなく、
 彼の手帳に稲妻のようにすばやく書きつけられる計算に感動していた。
「で、どうだね、アミーゴ? いい話だろう?
 受けてくれればこの場で500ペソ渡そう」
「前にも言ったように、値段は一個当たり15ペソです」

 ウィンスロップ氏、錯乱状態。

 インディオはそれに戸惑うこともなくのんびりと答えた。
「いいですか、親方。値段は変わりません。
 それに、まだご存じないことがあるんです。
 私は、籠を、私のやり方で作ります。
 私の魂のかけらとメロディを込めて作るんです。
 もしおっしゃるように何千個も作るとなると、ひとつひとつに私の魂のかけらを入れることはできなくなります。
 そうなると、籠はどれも同じになって、そのことで私の心臓は食われてだんだんなくなってしまいます。
 ひとつひとつには、違うものをこめなきゃいけないんです。
 夜明けに聞く唯一無二の小鳥の歌だとか、
 私の籠に止まりに来る蝶の羽の美しさだとか、
 そういったものが私にインスピレーションを与えてくれます。
 そして蝶や鳥たちも私の籠の美しさに惹かれて寄ってくるんです。

 さて、親方、大変楽しいお話をありがとうございました。
 あなたのような教養ある偉い方とお話できるのは身に余る光栄でした。
 けどごめんなさい、あさってはご存知のように市が立つ日で、
 それまでにこの籠を仕上げて売りにいけるようにしないといけないんです。
 いらしてくださって、ありがとうございました。さようなら」

 ウィンスロップ氏がどんな顔でニューヨークへ帰っていったか、
 その後どんな反応をしたかについてはトラーベンは短く書いていますが、
 私は省略しておきます。

    

ところで、このお話を読み返していて、以前ネットでも似たような笑い話を見かけたな、
それもメキシコ舞台だった、と思って探してみたら、ありました。
こちら

まあ要するに、言いたいことはおんなじですかね。

それから今日のことなんですが、必要があってステンドグラスの制作について調べてましたら、
あるステンドグラスの職人さんが、大量生産に関してのコラムを。
偶然とは言え、まるで同じことを書いておられるのにびっくりしました。

私も、心しなくては。
物を作ることばかりじゃなく、何につけてもこういう心構えは大切になることがあるのだろうと思います。

メキシコ人の安請け合いには理由がある?

2006-04-07 07:58:18 | 文学
というわけで、また一から書き直します、気力をかき集めて。

一昨日の続きです。
トップ写真は、カンペチェの文化センターの民芸品売り場へ行ったとき、
誰もいないと思ってパパッと撮ったんですが、
あとからよく見るとどの部屋にも監視カメラがついておりました……。
買いもしないくせに写真だけ撮ってごめんなさい。

ウィンスロップ氏がインディオから買ったのはこんな感じの小篭だったのかな、
ということで、
お話の続きを。

    

 三週間の滞在を終えて、ウィンスロップ氏はメキシコをすっかり見学し、
 満足して”Nuyorg”へと帰っていった。
 いつもどおりの文明社会、いつもどおりの仕事と、日常が戻ってきたが、
 ある日、上品なベーカリーの前を通りがかって、買った小籠のことを思い出した。
 急いで家に戻ってあの小籠を持ってベーカリーへ行き、
 お菓子を売るときにこの夢のある小籠を使ってみてはどうかと薦めた。
 店の経営者は小籠を見て心を動かされたが、それを顔には出さず、明日来てくれと言った。

 翌日ウィンスロップ氏がもう一度行ってみると、菓子屋の返事はこうだった。
 うちが売っているのはお菓子で、包みではない。
 だがこの小籠を使うにやぶさかではない、ひとつ1ドル25セントでなら買い取ろう。
 ウィンスロップ氏はそれを1ドル75セントまで値上げして売りつけることに成功。
 しかし菓子屋が言うには、それならば一万個、できれば一万二千個、
 それも最低20は違う柄のものがほしい、そうでなければ商売にならない。
 十月末までにそろえてほしい。
 ウィンスロップ氏は承知して、契約書にサインした。

 それからウィンスロップ氏は急遽メキシコへと戻った。
 片手にした手帳に、数字に数字を書き連ねて、儲けの計算独白が約二ページ続きますが、省略して。
 ようやく例のオアハカの村へ到着したウィンスロップ氏は、
 あのインディオが小屋の前に座り込んで籠を編んでいるのを見つけた。
「やあどうだい、アミーゴ」とウィンスロップ氏の挨拶に、インディオもていねいに返す。
 それからまた座って、
「申し訳ありませんが、陽のあるうちに編み上げてしまいたいもので、失礼して」と編み続ける。
「大きな儲け話を持ってきたよ」とウィンスロップ氏。
(相変わらず変なスペイン語ですが、面倒なので普通に訳します)
「ありがたいことで、親方」
 さあ、このインディオは聞いたこともない金額にきっと目を回すぞ、とウィンスロップ氏は内心で笑いながら、
「その小籠を、千個作れるかね?」
「どうしてできないわけがありましょうか、親方? 二十作れるなら、千個だって作れますとも」
「そのとおりだな。それじゃ、五千はどうかな?」
「もちろんですとも。千個作れるなら五千個だって作れますわな」
「素晴しい! ワンダフル! それじゃあ……、一万二千個でも作れるかね?」
 インディオは答えた。
「もちろんですとも、親方。お好きなだけお作りいたしますよ」

(以前読んだときはそんなに思わなかったんですが、
 今回はここを読んで爆笑してしまいました。
 結末を知っているからというのもあるかもしれませんが、
 メキシコ人ってできるかどうかわからないこと、のみならず出来もしないことでも、
 こうやって安請け合いすること多くないですか?
 初めのころはそれを真に受けては裏切られて腹を立ててましたが、
 最近ではだいぶんわかってきて、笑えるようになりました。
 こんなことを言うのは、そのときだけでも相手を喜ばせたいという気持ちなのですよね。
 その瞬間を一番大切にする刹那主義らしいものの考え方だと思います)


 力強いインディオの言葉に、ウィンスロップ氏はすっかり喜んだ。
「そうだろうとも、そうだと思ったよ。だから、いい商売の話を持ってきたんだ」
「ありがたいことで、親方」

「それで、どれくらいで出来上がるだろうか?」
 ウィンスロップ氏が尋ねると、インディオは手を休めずに頭を左右に傾げながら計算するふうだった。
 それからゆっくりと答えた。
「それだけたくさんの籠を作るとなると、それなりの時間がかかりますねえ、親方。
 わかっていただけると思いますが、藁はきちんと処理して乾燥させないと、
 柔軟性と輝きを失ってしまって、籠を作っても艶もなくケバだらけの代物ができてしまいます。
 藁を乾燥させるあいだに、色染めするための植物や根っこや虫を集めましょう。
 それにもけっこう時間がかかるんですよ、本当に。
 それを集めるにも、月の満ち具合が大事でしてね、正しい満ち具合の夜でないと色がちゃんと出ないんです。
 虫にしても、適した時期でないと粉をふいてしまって使い物になりません。
 しかしもちろん、親方のお望みの籠は作りますとも。
 そうですねえ、まあ3ダースは作れるでしょう。お望みでしたら。
 二ヶ月もいただければね」

「3ダース!? 3ダースだって!?」ウィンスロップ氏は叫んだ。
 このインディオは事態をまったく理解していないのだ。わかっちゃいないのだ。
 そこでもう一度説得作戦のやり直し。
「以前、100個買うなら一個65センターボにすると言ったよね、アミーゴ?」
「そのとおりです、親方」
「よろしい。それじゃあ千個ほしいとすると、一個いくらになる?」

(ところで、これは正しい交渉の仕方ではありません。
 以前、シティの友人が花市で小さな鉢植えを買おうとしたんだそうです。
 一個5ペソのところを、5つ買うから一個4ペソにしてよ、と言うと、嫌だと。
 じゃあ5つ買うから全部で20ペソでどう? と言うと、いいよと。
 まあ計算できなかったのか、単に根負けしただけなのかはわかりませんが、
 合計金額を言うほうが大きく聞こえて説得しやすいというのは確かなようです。
 まあこのお話では、読み手にもわかりやすいように一個当たりで話しているのかも。
 いや、読み手が計算できないと言いたいわけではありませんが)


 千個買うとなると、一個いくらにすればいいか?
 これはインディオの計算能力を越えていたので、インディオは初めて籠を編む手を止めた。
 頭を何度か動かし、周りに助けが落ちていないかと探す様子で、
 それからようやく口を開いた。
「申し訳ありませんが、親方。
 それはちょっと多すぎて、一晩はたっぷり考えないと計算できません。
 もしお許しいただけるなら、明日もう一度来ていただけないでしょうか?」

    

というわけで、インディオの答は明日に。
というところまで昨日書いたんですが、パアになったんで、
続きはこれから書きます。
まずはこれをアップ。

む、むごい……

2006-04-06 07:04:09 | 文学
すみません……

今、一時間ばかりかけて書いた記事、
昨日の小籠の話の続き、
さあ書き上げたぞ! と投稿ボタンを押しましたら、

書いているあいだに時間が経って自動的にログアウトしてしまったのか、
ログイン画面へ。

まさか……

と思いつつも仕方なくログインしてみたら、
平然と編集画面へ……。

記事は消えてしまいました……

今日はもう時間も気力もないです。
明日必ず、今日の分とその続きをアップしますので、
今日は勘弁してください~~。

Gooさん、これはむごいよ~~~~!

ええ、ええ、ちゃんと操作する前にコピーを取っておかなかった、
ブラウザで文章を直接書いてしまう私の怠慢が
すべて悪いんでございますとも!!!

トラーベンの短編集

2006-04-05 07:40:27 | 文学
Bruno Traven という作家がいます。
前、よそでこの人について少しだけ書いたことがありますが。

ええと、なに人だかよくわからない人です。
ドイツ人だという説とかアメリカ人だとか、
小説を書いたのは実はまるで別人なんだとか、さっぱり謎。
よって、名前の読みもよくわかりません。
私は最初にドイツ語で読んだので、ドイツ語式にトラーベン、トラーヴェンと読んでますが、
英語風のトレイヴンという表記も見かけました。
日本じゃどっちにしても翻訳はまるで出ていないようですが。

わかっているのはとにかく、メキシコ革命の前後にメキシコに住み、
各地を渡り歩き、インディオたちの生活を克明に綴った小説を書いたということ。
最大の長編は6冊に渡るシリーズものとして、
三本連作の映画にもなっています。
『マカリオ』という作品も有名で、映画化されています。
映画はほとんどが白黒ですが、今でもときどきテレビで上映されてます。

今日は、あるサイトで言及されていたフェアトレードという言葉で思い出した
この短編集について。
最初に発行されたのが1956年、ちょうど半世紀前ですね。
10の短編が収められてますが、まあいろんな意味で面白いです。
メキシカンなものの考え方や行動が、エッセンスに凝縮されて物語になってます。

それで、逐語訳は大変なので無理かもですが、
でもあらすじだけでは含まれているアイロニーなんかが伝わらなくてもったいないので、
適当に端折りつつ、紹介していこうかな~。
短編一本でもけっこうあるので、何日かに分けて連載することになりますが。

というわけで、今日はまず
Canastitas en serie 『小籠の量産』というお話。


    
 ミスター・ウィンスロップというアメリカ人が観光でメキシコにやってきた。
 外国人向けの観光地を避けてオアハカの小さな村へとやってきた彼は、
 小屋の入り口にしゃがみ込んでいるインディオを見つけた。
 インディオは熱心に、色付けした藁を編んで小籠を作っているところだった。

 インディオはもちろん、小籠の売り上げだけでは生活できないので、
 わずかな土地にトウモロコシを植え、雨と陽の恵みを気にしながら一日働いたあと、
 こうして編んだ小籠を土曜の市に持って行って売って、生活の足しにしているのです。
 しかしその小籠には、色とりどりに花や蝶や鳥やリスにシカ、虎やその他二十種類もの
 さまざまなジャングルの動植物が織り込まれ、まさに芸術品。
 そしてまたその使い道もさまざまで、実に役に立つものなのだった。

 そんな小籠をインディオは市で売っている。一個80センターボの値をつける(まあ半世紀昔の話です)。
 けれどもたいていは80センターボですら売れることはめったになく、
 たいていの客は
「なぁんだい、こんなちっぽけで役にも立たない籠が80ペソだって、冗談じゃない、
 30センターボも払ってもらえりゃ感謝すべき代物じゃないか。
 いやいい、私は気前がいいから40センターボ払ってあげよう。けど、それ以上だったらいらないよ」

 そうしてインディオは一個40センターボで売るしかなくなる。
 それすらもほとんどの場合、客は
「じゃあ40センターボね。あれ、小銭が30センターボしかないや。
 困ったなあ、君、50ペソ札にお釣りはあるかい?」
 インディオは当然、お釣りなど持ち合わせていないので、
 結局小籠の値段は30センターボとなるのだった。

 さらに、遠い道のりを市場までやってきたからには、
 インディオは籠を売れ残して帰るわけには行かない。
 家々を一軒ずつ回り、ときにはひどい侮辱や罵倒にも耐えながら、
 20センターボ25センターボでどうにかこうにか籠を売って家路に着くのだった。

 さて、ミスター・ウィンスロップがこのインディオを見かけ、声をかけた。
「その籠に、いくら、アミーゴ?」とちょっとおかしなスペイン語で訊ねる。
「80センターボで、親方」とインディオは答えた。
「よし、私、買う」ウィンスロップ氏は、鉄道会社を丸ごとひとつ買いでもするような大きな身振りで宣言した。
 本当は、4ペソか5ペソくらいするだろうと思ったのだ。
 しかしその値段を聞いて、ウィンスロップ氏は俄然興味を持った。
「アミーゴ、10個の籠、私買う、いくらになる?」
 インディオは少しためらって計算する様子で、それから答えた。
「10個買ってくださるなら、一個70センターボにしますよ」
「よろしい、アミーゴ、じゃあもし、100個買う、いくら?」
 インディオは落ち着いた様子で答えた。
「それでしたら、一個65センターボになりますな」
 ウィンスロップ氏はそこにあった16個の籠をすべて買い占めてアメリカへ帰っていきました。

    

さて、ホクホクのウィンスロップ氏はここで当然、大変アメリカ人らしい発想をするわけですな。
長くなったので、続きは明日に。