140億年の孤独

日々感じたこと、考えたことを記録したものです。

名古屋フィル#99田園交響曲

2020-07-11 21:15:26 | 音楽
第481回定期演奏会〈「生誕250年記念 トリビュート・トゥ・ベートーヴェン」シリーズ/田園〉
ベートーヴェン:交響曲第6番ヘ長調 作品68『田園』

数か月の間に名古屋と新大阪を何度も往復していた。新幹線でベーム指揮の田園交響曲を何度も聴いていた。
どういう訳だか、田園交響曲が聴きたくて仕方がなかった。
若い頃は挫けそうになったら英雄交響曲を聴いてなんとか自分を鼓舞しようとしていたが、
今はあまりそういう気持ちになれない。父は結局、亡くなってしまった。
素朴で美しい世界があるのなら、ずっとその中に浸っていたいという気持ちが強く働いている。
父が死ぬまで面倒を見ていた母はすでに壊れ掛かっている。
人間は簡単に死んでしまうものだし、簡単に壊れてしまうものなのだと良く分かった。
葬儀や人が死んだ後に必要になる様々な手続き、壊れ掛かった母のこと、しばらくの間それで忙しかった。
耳の聞こえなくなったベートーヴェンは田園生活の美しさを楽譜に表現するより他に、
その美しさに触れる機会がなかったのだと言われている。
そしてその創作活動の結果は自然の模倣を遥かに超えてしまう何物かに仕上がり、
後世に引き継がれ、今、あらゆる楽器が奏でる空気の振動となって私の鼓膜を刺激している。
名フィルのコンサートもしばらくの間、中断を余儀なくされていた。今年中に再開されるのかとても不安だった。
ふと学生の頃、住んでいた街には小さなオーケストラしかなかったのを思い出した。
マーラーの交響曲を演奏するために他のオーケストラと合同でコンサートを開いていた。
この街のオーケストラがなくなってしまうかもしれないと不安になり、少し寄付をした。
あたり前のようにあって欲しいものは、いつ消失してしまうのかわからない。
世界はいつまでも同じ世界ではない。私と妹以外の誰もこの世界から父がいなくなってしまったことに気付かない。
ソーシャルディスタンスに配慮して一つおきにしか座席を使わないように変更された。
三階席から見下ろすと一つおきに観客が座っているのが見えた。
もともと購入していたチケットは払い戻して、半数の席に振り直された後のチケットを再度購入した。
随分と久しぶりのコンサート。今日ここにいる誰もが待ち望んでいた。
観客もオーケストラもスタッフも。著名な指揮者も。
今日はベートーヴェン交響曲第6番「田園」だけが演奏される。
私が好きなのは第一楽章と第五楽章の冒頭のところ。とても美しい音楽。美しすぎて言葉にできない。
演奏が始まる。美しい調べが数か月駆けずり回っていた頃の記憶を呼び戻す。
新幹線の中で聴いていた田園交響曲が、今もっともリアルな形式で私の元を訪れている。
こんなにも美しい世界があるのなら、その中にずっと埋没していたいと思う。
なんだか今日はとても特別な日のような気がする。
何か月もずっと演奏できなかったオーケストラ。これから再起を図るにしてもホールの座席は半分しか使えない。
経営は苦しくなるに違いない。いつになったら元に戻るのかわからない。
もう二度と元には戻らないかもしれない。私は私に出来ることはやろうと思います。
少ないですが、中止になった公演の分はこれからも寄付しようと思います。それくらいしか出来ません。
第五楽章の冒頭のところで、私は泣いてしまいました。隣に人が座っていなくて良かった。
だってそれはとても美しすぎる音楽だったから。

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