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140億年の孤独

日々感じたこと、考えたことを記録したものです。

約束された場所で

2015-12-12 00:05:56 | 村上春樹
村上春樹「約束された場所で」を読んだ。
「そのためにはやはり『アンダーグラウンド』と基本的には同じ形式を用いて、オウム真理教の信者(元信者)の気持ちや主張を聞き書きしていくしかないだろうという結論に私は達した」ということで本書にはオウム信者(元信者)へのインタビューと「アンダーグラウンド」と「悪」をめぐっての河合隼雄氏との対話が収められている。インタビューからは引用しにくいので対話から引用する。

村上「それはとても強く感じたと思います。僕は意識の焦点をあわせて、自分の存在の奥底のような部分に降りていくという意味では、小説を書くのも宗教を追求するのも、重なり合う部分が大きいと思うんです。そういう文脈で、僕は彼らの語る宗教観をある程度正確に理解できたという気がします。でも違うところは、そのような作業において、どこまで自分が主体的に
最終的責任を引き受けるか、というところですよね。はっきり言って、僕らは作品というかたちで自分一人でそれを引き受けるし、引き受けざるを得ないし、彼らは結局それをグルや教義に委ねてしまうことになる。簡単にいえばそこが決定的な差異です。」

多くの人は「グルや教義に委ねてしまう」主体性の無さを指して「洗脳」と呼んでいるのだが、「上司や規則に委ねる」という社会通念も似たようなものかもしれない。やれヒトラーに操られていた、大本営に逆らえなかった、そういう一昔前の体制なり政権であれば、民主主義社会の市民の心得というか、たしなみというか、常識の一環として批判することができる。誰も反論する人間がいないというところが、この批判のおいしいところである。すでに敗れ去った者、死んでしまった者への批判であり、きわめて卑怯である。とれとれピチピチのヒトラーを相手に正々堂々と渡り合う者など、どこにもいない。そんな勇気はない。おそらくは今の体制や社会にしても、今を生きる人々がいなくなってから批判されるのだろう。生き延びるためには、ただひたすらに従わねばならないのだし、従うことを苦痛と感じないためには考えることを放棄するに限る。新聞やら、テレビやら、ウェブで当たり前のように報道されていることに疑問を持たないのであれば、洗脳されているなんて誰も考えないほど大規模な洗脳が進行しているのだろう。あるいはそれを「民意」と呼ぶ人もいるが、それは権力を獲得した者が支配の由来の正当性を説明するための言葉だ。
次に「自分の存在の奥底のような部分に降りていく」意味では一般の人より宗教を追求する人が小説を書くのに近いのだという。その小説を読むのは一般の人であり、その本を読む目的が「自分の存在の奥底のような部分に降りていく」ことであれば結局のところ、ぐるぐる回って、みんな同じかもしれない。そして読むという行為が主体性を欠いているのだとすれば、私たちは「オウム」と同じかもしれない。だが「自分の存在の奥底」なんてものが本当にあるのかどうかよくわからない。
「自我」があるというのは誘惑だ。
アイデンティティーといった、なにかしらかけがえのないものが自分の拠り所であるという考えは人を安心させる。私の個性は、私という存在は、確固たる存在理由を持っているのだと思えることは幸せなことだろう。ちょっと考えればわかりそうだが、数十億の人々が、「オレはオレ固有の存在理由がある」と考えるのは不自然だ。あるいは数十億の鳥や魚や羊が「おいらにはおいら固有の存在理由がある」と言い出したら、「そんなことありえない」と私たちは否定するだろう。お前たちには「意志」がないではないかと。
「自我」というのは、「そと」から用意された仕掛けだ。
あるいは競争に疲れ果てて、煩悩を振り払いたくて、欲望から解放されたくて、自我を捨てようと試みる人もいる。宗教が救済するのは、本来、そのような人々であって、金持ちは「神の国」には入れない。自我を捨てた金持ちは存在しないので、金持ちが神の国に入れないのは自明ということになる。「そのためにあなたの財産を全部寄付してしまいなさい」というのであればインチキ宗教ということになるだろう。だがどの宗教でも聖職者は経済活動をせずに修行に励んでおり、そのための寄付を募り、パトロンを募っている。昔は乞食(托鉢)をしていたのだというが、あやしい。きっと威張っていたに違いない。
自我に執着しないというのは心の持ち方としては良いことなのだと思う。それは宗教団体と個人の問題というよりは、一人ひとりの心の持ち方の問題ではないかと思う。自我に執着することなく、組織に媚びることなく独立した自我、主体的に責任を引き受けた自我というのは矛盾している感じもする。だが結局のところ、人は何かを選択する。

村上「でも中には『この人は世間でうまくやっていけないだろうな』という人は明らかにいますよね。一般社会の価値観とはもともと完全にずれてしまっている。それが人口の中に何パーセントくらいなのかは知らないけれど、良くも悪くも社会システムの中ではやっていけないという人たちが存在していることは確かだと思うんです。そういう人たちを引き受ける受け皿みたいなものがあっていいんじゃないかと僕は思いますが。」
河合「それは村上さんの言っておられることの中で僕がいちばん賛成するところです。つまり社会が健全に生きているということは、そういう人たちのポジションがあるということなんです。それをね、みんな間違って考えて、そういう人たちを排除すれば社会は健全になると思っている。これは大間違いなんです。そういう場所が今の社会にはなさすぎます。」

「一般社会の価値観」というのは「多数決」で決まるものだから、ずれてしまう人は必ず出てくる。LGBTが次第に市民権を獲得するようになってきたが、国内ではレズの結婚は認められていない。つまり受け皿はない。レズやゲイを排除しても社会は健全にはならない。もともと何が健全かということもよくわからない。おそらくは「多数決」で決まる。
考え方というのは言葉(つまりは差異で識別される記号)の組合せだから、DNAの組合せできまる身体と同じように多様性を持つ。そして個体が環境との相互作用の中で生きていくように、思想は社会との相互作用とは無縁ではいられない。そのような思想と社会の干渉の結果、思想も社会も変化していく。言葉や遺伝子が変化していくのと同じように。
村上も河合も、どうして受け皿を用意してあげないのか、ポジションを用意してあげないのか、みたいなことを言っているのだが、そういうのこそ間違いだろう。ポジションは与えられるものではなく、個体が環境の中で自ら獲得していくしかない。

河合「そうです。絶対帰依です。これは楽といえば楽でいいです。この人たちを見ていると、世界に対して『これはなんか変だ』と疑問を持っているわけです、みんな。で、その『何か変だ』というのは、箱の中に入ると『これはカルマだ』ということで全部きれいに説明がついてしまうわけです。」
村上「全部きれいに説明がつくというのが、この人たちにとっては大事なんですね。」
河合「そうです。でもね、全部説明がつく論理なんてものは絶対だめなんです。僕らにいわせたらそうなります。そやけど、普通の人は全部説明できるものが好きなんですよ。」
村上「そうですね。そういうのをみんな求めている。これは宗教だけじゃなくて、一般のメディアなんかにしてもそうですね。」

「なんのために生きるのか?」といったことが確定すると楽なのかもしれない。
まあ一般的には「幸せになるため」とか、そんな答えが返ってくるかもしれないし、「野望を実現するため」というような優秀な人もいるのだろう。あるいは生き続けるために頭を下げなくてもよいということが大切かもしれない。生きるために誰かの赦しを請う必要があるというのであれば、もう生きるのが嫌になってしまう。家族のためとか、子供のためとか、何か理由があるのなら、たいていのことには我慢ができるかもしれない。
そんなふうにして子育てが終わったある日、「私の人生って何だったんだろう?」みたいなことを考えてしまうかもしれない。いちばん悲しいことは命には限りがあることで、宗教はその苦しみを取り除き、永遠を約束する。一神教だとただひたすらに全能者を信じればよい。ヒンドゥー教・仏教だと輪廻のようなものを信じることになるが、。
仏教をつきつめていくと、輪廻とか涅槃とか解脱というのは信者を招き寄せる「方便」であることがわかってくる。だからオウムの信者も含めて、私は今この段階にいて、ここから解脱までは速くて3年だみたいなことを言っていたとすれば、それはかなり勘違いしているのではないかと思う。そしてまあ天国だの、煉獄だの、地獄といったものも、ダンテがその創造力で詳細に劇的に謳いあげてはいるが、まやかしでしかない。
おそらくは「全部きれいに説明がついてほしい」というのであれば、問い掛けを途中で止めればよいのだろう。教義とはそのためのものであって、ただ信じるためのものであって、そのことに疑問を感じてしまうのは信仰ではない。そのような人には、「安住の地」であるとか、「約束の地」なんてものはない。死ぬまで説明がつかない世界を、あるいは無条件に与えられている世界そのものを信じていないならもっと別のものを、求め続けることになる。どこまで行っても終着点がない、探究心を持ち続けるなら、そうなる。そして「なんのために生きるのか?」という問い掛けも、自信を持って信条を語る他人も、実際のところどうでも良くなってくる。気がつけば、ニヒリストにされていたり、ペシミストにされていたりする。

河合「人間というのは、いうならば、煩悩をある程度満足させるほうをできるだけ有効化させようという世界を作ってきとるわけです。しかもとくに近代になって、それがずいぶん直接的、能率的になってきてます。直接的、能率的になってくるということは、そういうものに合わない人が増えてくるといいうことですね、どうしても。そういうシステムがいま作られているわけです。だから、そういう『合わない』人たちに対して我々はどう考えていけばいいのか。それに対してひとつインパクトを持ちうるのは芸術とか文学とか、そういうもんですね。これは非常に大事なものなんですが、でもそれもできない人がいますね。そういう人たちのためにどうするか。これはむずかしいことです。ただそう考えていきますと、生活保護みたいなのがあるんやったら、そういう人たちのために補助金を払うのは当たり前やないかという気がしますね。補助金をあげますから、まあ楽しく生きてくださいと。」

シホンシュギは資本の自己増殖を効率的に実現するよう洗練されて行く。
効率的でないものは淘汰されてしまうので、効率的なシステムが生き残り、資本を獲得し、買収し、勢力を拡大していく。勝てば勝つほど、どんどん強大になり、世界に確固たる地位を築く。そして効率化し、有効化し、直接的、能率的な同類を増やし、ますます世界はその傾向を強めていく。私たちは「遺伝子」のキャリアであると共に「資本」の担い手でもあるが、遺伝子も資本も私たちのことを考えてはくれない。私たちの心というのは自動操縦するための仕掛けであり、遺伝子と資本の増殖に活用される。あるいは利用されているというふうにも書いてみたかったが、結局のところ、遺伝子や資本に意志があるわけでもない。そのような自己増殖に活用されるのは嫌だという人たちが「合わない」人たちであるかもしれない。政治家も経済学者も「経済成長」が最優先事項らしいが、それはつまり資本の自己増殖を信仰していることになる。そのシステムに合わないというのは効率化とは反対の方向の無駄ということになるのだろうか?
システムに合わない人たちを税金の無駄遣いで救済するというのは、「資本の効率的な自己増殖」のために生きている人にとっては耐え難いことだろう。

アンダーグラウンド

2015-12-05 00:05:05 | 村上春樹
この本を読むのは初めてだ。もっと前に読むべきだったのかもしれないが、その時に読みこなせたかどうかはあやしい。

「手紙は、地下鉄サリン事件のために職を失った夫を持つ、一人の女性によって書かれていた。彼女の夫は会社に通勤している途中で運悪くサリン事件に遭遇した。倒れて病院に運び込まれ、数日後に退院はできたものの、不幸にも後遺症が残り、思うように仕事をすることができなくなった。最初のうちはまだ良かったのだけれど、事件後時間が経つと、上司や同僚がちくちくと嫌みを言うようになった。夫はそのような冷たい環境に耐えきれずに、ほとんど追い出されるようなかっこうで仕事を辞めた。
雑誌がいま手元に見つからないので、正確な文章までは思い出せないけれど、たいだいそういう内容だったと思う」
「不運にもサリン事件に遭遇した純粋な「被害者」が、事件そのものによる痛みだけでは足りず、何故そのような酷い「二次災害」まで(それは言い換えれば、私たちのまわりのどこにでもある平常な社会が生み出す暴力だ)受けなくてはならないのか? まわりの誰にもそれを止めることはできなかったのか?」
その投書の手紙は、本書執筆の「現実的な点火プラグのようなもの」であったということだ。事件を起こした「オウム」は「やみくろ」で二次災害を与えた「私たち(の影の部分)」は「リトル・ピープル」ということだろうか?

それで「二次災害」を中心とした構成かと思っていたが、そういうことではなかった。もともと弱者の味方をするよりは、いじめたり、けなしたり、仲間外れにしたりすることが得意というか、「強気を助け弱きを挫く」ことが主流の社会であるため、「二次災害」を語ることは「三次災害」の増加につながってしまうのだろ。そうした他者への寛容さとか、思いやりとか、余裕が欠落したシステムが、オウムのような組織につけいる隙を与えているのだろう。ここで提示されている問題というのは「正常」と「異常」に識別できることではなく、全体像を把握するのも困難であり、批判を加えれば、めぐりめぐって自分に跳ね返ってくるようなことなのだと思う。
そういうわけで「二次災害」を受けた人がインタビューを快く受けるということはないのだろうし、インタビューを受けた人の中に「二次災害」を受けた人がいたとしても話そうとはしないのだろう。(そうすると本来、語るべきことについて、事件から誘発された本質について、人々は押し黙ってしまうということになる。)
「二次災害」が封印されてしまったので、現象を一般化してしまう(あるいは型に嵌めてしまう)報道が語らない被害者の姿、事件の日に一人ひとりが考えたこと、感じたこと、そういうことを記録したのが本書ということかもしれない。痛みはいつでも個人的なものであって一般化された痛みなどない。痛みを知るには人格を知らなければならない。車両や駅の様子など同じような情景が何度も繰り返されるが、それを同じものとして括ってしまうと痛みは取り除かれてしまう。分厚い本のページを繰っていると読者自身も一般化してしまいたいという誘惑にさらされる。その誘惑であるとか要望を叶えたものが報道ということであるかもしれない。報道もまた私たちを映す鏡なのかもしれない。

「それはある意味では、我々が直視することを避け、意識的に、あるいは無意識的に現実というフェイズから排除し続けている、自分自身の内なる影の部分(アンダーグラウンド)ではないか。私たちがこの地下鉄サリン事件に関して心のどこかで味わい続けている「後味の悪さ」は、実はそこから音もなく湧き出ているものではないだろうか?」
あとがきにはそのようなことが書かれている。
「羊」「やみくろ」「綿谷ノボル」「ジョニー・ウォーカー」「リトル・ピープル」
いずれも「自分自身の内なる影の部分(アンダーグラウンド)」を暗示しているのかもしれない。この事件と著者の小説に描かれている世界は同質のものなのだろう。

「私の個人的な考えを言わせていただくなら、麻原彰晃という人物は、この決定的に損なわれた自我のバランスを、ひとつの限定された(しかし現実的にかなり有効な)システムとして確立することに成功したのだろうと思う。彼が宗教家としてどのようなレベルにあったのか、私は知らない。宗教家としてのレベルを何で測ればいいのかも、よく知らない。しかし彼がたどってきた人生の道筋を見てみると、そう推論しないわけにはいかない。彼はその個人的欠損を、努力の末にひとつの閉鎖回路の中に閉じこめたのだ。ちょうど瓶の中にアラビアン・ナイトの魔人が閉じこめられたように。そして麻原はその瓶に<宗教>というラベルを貼り付けた。そしてそのクローズド・システムをひとつの共有体験として、そしてまた商品として、世間に広めていったのだ。
そのようなシステム確立にたどり着くまでの麻原自身の懊悩と内的葛藤はおぞましいまでに血みどろのものであったに違いない。またそこには「悟り」というか、なんらかの「超常的な価値の獲得」もあったに違いない。そのような激しい内的地獄を通過していなければ、そしてある種に非日常的な価値転換を体験していなければ、麻原がかくも強いカリスマ性を身につけることはおそらくなかっただろう。原始宗教というものは、考えようによっては、常にこのような精神の欠損部分の発する特殊なオーラに呼応しているものなのかもしれない」

ここで「個人的欠損」「精神の欠損部分」とは「個人の自律的パワープロセス」と「他律的パワープロセス(社会システム)」のネゴシエーションに失敗したことの結果ということらしい。発生的に純粋な「自律的パワープロセス」は存在しない(社会システムの内部でしか個人は存在しない)ということなので「その論理だけで乗り越えようとするときに、社会的論理と個人とのあいだに物理的(法律的)軋轢が生じることになる」ということだ。本来、独立したものではあり得ない「自律的パワープロセス」を宗教としてシステムとして商品として麻原彰晃は確立したということだ。常に個人の自由を圧迫しようとする「システム」に馴染めない人々に対して彼は明確な解答を持っていた。カリスマ性というのは、そういうものであるらしい。
既成の宗教から見れば「オウム真理教」はインチキということになるのだろうが、ではインチキでない宗教とはどういうものなのだろうか? どこで区別できるのだろうか?
その宗教が力を持っているのなら、経済的な力を持っているのなら、インチキでないと主張することができるだろう。出家者は経済活動を禁じられているので、どのようにして経済的な力を得るのかはよくわからないが(寄付?)、既成の宗教は既に「システム」に取り込まれているのであり、ズブズブの関係なのだろう。
そして私たちの考え方も荒んでいて、たとえば貧しい人々を見て私たちは「彼らは努力をしていない」と口にする。現代においては機会は均等に与えられているのであって努力すれば生活はいくらでも向上させることができるということになっている。そしてまた宗教に熱心な人のことを「気持ち悪い」と思っている。終末思想とか葬式仏教が嫌いで相手をするだけ時間の無駄だと思っている。宗教から離れているだけではなく経済活動と直結していない物事に対して価値を見出せないでいる。文芸作品とか音楽作品の愛好家に対して「現実逃避している」と言ったりしている。そんなくだらないものに傾倒するくらいなら仕事に励んで少しでも地位や所得を上げるべきだと言ったりしている。おそらくは「資本の論理」が最も根強い「宗教」の如きものなのだろう。無条件にそういうことを信じている連中がカルトによる「洗脳」を問題視するのだが、その言葉は本来は自分自身に向けられるべきだろう。

「自律的パワープロセス」を渇望する気持ちが「影の部分」というのであれば「光」はいったいどこにあるのだろうか?
「システム」が本質的に硬直する傾向を持つものである限り、そこからはみ出してしまう個人は必ず発生する。そうした個人の欲求に応えようとする「オウム真理教」のような受け皿は、いつの世も存在しているのではないかと思う。武装しなければ彼らは信者を食い物にして「ぬけぬけ」とやっていけたのだ。同じような「組織」が今もシステムからはみ出した人々を取り込んでいることだろう。おそらくは「システム」側もあからさまに自分たちに敵対しない限り、そのような「組織」を容認している。その「組織」とはやはり「やみくろ」であり、「システム」の維持を最優先する「私たち」は「リトル・ピープル」なのだろう。

女のいない男たち

2015-11-28 00:05:53 | 村上春樹
【ドライブ・マイ・カー】
主人公は妻が自分以外の男と寝ていたことに傷つき、妻が病気で亡くなった後も延々と引きずり続けている。自分に何が欠けていたのかと彼はずっと思い悩んでいる。緑内障の徴候が見つかった彼の車を運転することになったドライバーの女の子に彼はそのことを話す。
「奥さんはその人に、心なんて惹かれていなかったんじゃないですか」
「だから寝たんです」と彼女は言う。
「そういうのって、病のようなものなんです。家福さん。考えてどうなるものでもありません」とそういうことであるらしい。
そういうものなのか?
「女のいない男たち」というのは「最愛の女性を失った男たち」のことらしい。その最愛の女性と理解し合うことさえできないという悲しさが、その言葉にはつきまとっている。
北海道の十二滝町という地名が出てくるが「羊をめぐる冒険」と関係はないようだ。まえがきによると実際の地名について苦情があったそうだから、この「地名」に変更されたのかもしれない。そして「ドライブ・マイ・カー」というタイトルもビートルズと関係はないようだ。

【イエスタデイ】
ビートルズの『イエスタデイ』の関西弁の歌詞(別に対訳でもない)が載っていたが、ビートルズ・サイドから「示唆的要望」を受けたということなので、この本に収められている関西弁は以下に縮められたということだ。

昨日は/あしたのおとといで
おとといのあしたや

しかし情報を伏せるのが困難な時代であり、ちょっとググってっみると以下のようなものが見つかった。もともと掲載されていたものと同じかは、わからない。

ーーー(引用開始)ーーー
昨日は
あしたのおとといで
おとといのあしたや
それはまあ
しゃあないよなあ

昨日は
あさってのさきおとといで
さきおとといのあさってや
それはまあ
しょあないよなあ

あの子はどこかに
消えてしもた
さきおとといのあさってには
ちゃんとおったのにな

昨日は
しあさっての四日前で
四日前のしあさってや
それはまあ
しょあないよなあ
ーーー(引用終了)ーーー

「あの子はどこかに消えてしもた」の部分が、かろうじて"Why she had to go?"にあたるのではないかと思ったが、それ以外はまったくデタラメというか、ただの遊びであって、ビートルズ・サイドが何を神経質になっているのかわからない。関西弁については「イエスタデイ」以外にも以下の言及がある。
「その証拠に、たとえばサリンジャーの『フラニーとズーイ』の関西語訳なんて出てないでしょう?」
「出てたらおれは買うで」と木樽は言った。
私も欲しい。ついでに「ライ麦畑でつかまえて」の関西語訳もお願いしたい。

「もしも君が、ほんとにこの話を聞きたいんならだな、まず、僕がどこで生まれたかとか、チャチな幼年時代はどんなだったのかとか、僕が生まれる前に両親は何をやってたかとか、そういった《デーヴィッド・カパーフィールド》式のくだんないことから聞きたがるかもしれないけどさ、実をいうと僕は、そんなことはしゃべりたくないんだな」

「もしも自分が、ほんまにこの話を聞いてみたいんやったら、おれが生まれたとことか、みみっちい幼年時代がどんなんやったとか、生まれる前におとんとおかんは何してたんかとか、そんな《デーヴィッド・カパーフィールド》式のしょうもないことを聞いてみたいかもしれへんけど、そんなことは言いたくないねん」

たぶん、サリンジャー・サイドから苦情は来ない。

【独立器官】
「すべての女性には、嘘をつくための特別な独立器官のようなものが生まれつき具わっている、というのが渡会の個人的意見だった」ということだが、彼自身が「最愛の女性」にこっぴどくやられてしまい、その独立器官の犠牲となる。そのような盲目的な恋に彼を仕向けたものもまた「独立器官」なのだという。
意のままにならないとか、意識しなくても独立して機能を果たすという意味では、独立器官はたくさんある。肺も心臓も胃も腸も私たちの意のままにはならない。それらの器官はひとつの身体を維持するために統合的に働いている。嘘をつくとか、恋をするというのは、身体的なことと精神的なものの中間にあって、制御できるようでいて制御できない。そのことで私たちは苦しむ。意のままにならないものを意のままになると思っているので苦しむ。「ノルウェイの森」にしても意のままにならない身体が不幸のはじまりだった。

【シェエラザード】
タイトルは毎夜不思議な物語を語ることで命をつないだ「千夜一夜物語」の王妃シェエラザードを指している。その王妃と同じように毎回不思議な話をしてくれる女性を「シェエラザード」と主人公は呼んでいる。私はリムスキー・コルサコフの素敵な音楽のことを思い出す。
「現実の中に組み込まれていながら、それでいて現実を無効化してくれる特殊な時間、それが女たちの提供してくれるものだった。そしてシェエラザードは彼にそれをふんだんに、それこそ無尽蔵に与えてくれた。そのことが、またいつかそれを失わなくてはならないであろうことが、彼をおそらくは他の何よりも、哀しい気持ちにさせた」
それほど熱烈に女を愛しているというわけではないが、女を失うことの意味を主人公はそのように解釈している。「現実の中に組み込まれる」というのと「現実を無効化する」というのはどういうことなのだろうか?
前者は気がついた時には世界に投げ出されていて、生き延びるためには世界に参加しなくてはならない人間の姿のようであり、後者はその世界で疎外される運命でしかない人間を救済するための手段であるような気がする。前者は生き延びることであり、後者は生きることだろう。生き延びることと生きることは微妙に違う。

【木野】
「おれは傷つくべきときに十分に傷つかなかったんだ、と木野は認めた。本物の傷みを感じるべきときに、おれは肝心の感覚を押し殺してしまった。痛切なものを引き受けたくはなかったから、真実と正面から向かい合うことを回避し、その結果こうして中身のない虚ろな心を抱き続けることになった。蛇たちはその場所を手に入れ、冷ややかに脈打つそれらの心臓をそこに隠そうとしている。
『ここは僕ばかりではなく、きっと誰にとっても居心地の良い場所だったのでしょう』とカミタは言った。
彼の言おうとしていたことが、木野にも今ようやく理解できた」
確か「虚ろな人間」が「ねじまき鳥クロニクル」に出てきて主人公を助けていた。傷つくべきときに傷つかなかった人間がそうなのだろうか?
そこは「誰にとっても居心地の良い場所」ということだが、記憶や心を失くした「世界の終り」のような場所なのだろうか?

【女のいない男たち】
「女のいない男たちになるのはとても簡単なことだ。一人の女性を深く愛し、それから彼女がどこかに去ってしまえばいいのだ」
「どちらにせよ、あなたはそのようにして女のいない男たちになる。あっという間のことだ」
「女のいない男たち」にならないためには、女を愛さないか、女より先に死んでしまうか、どちらかしかなさそうだ。女を愛さない人生にあまり意味はなさそうだし、死んでしまったらすべては失われる。生きている限り「女のいない男たち」になることは避けられないのかもしれない。
かつて愛したという記憶が埋ずみ火のように残っていて、そこからささやかな暖を取って生き延びている。そういうことは失ったことに気付こうとしない「虚ろな人間」のすることなのだろう。「女のいない男たち」になるのか「虚ろな人間」になるのか、どちらかを選択しなければならない。

東京奇譚集

2015-11-21 00:05:47 | 村上春樹
【偶然の旅人】
「きっかけが何よりも大事だったんです。僕はそのときにふとこう考えました。偶然の一致というのは、ひょっとして実はとてもありふれた現象なんじゃないだろうかって。つまりそういう類のものごとは僕らのまわりで、しょっちゅう日常的に起こっているんです。でもその大半は僕らの目にとまることなく、そのまま見過ごされてしまいます」
「そのまま見過ごされてしまう」のは「一致」ではなくて「不一致」ではないかと思う。「不一致」だと気にも留めないで忘れてしまうが「一致」すると覚えている。そうすると「覚えていること」のうち「一致」しているものの占める割合は大きくなり「ありふれた現象」となるのかもしれない。

【ハナレイ・ベイ】
「私はアメリカン・エキスプレスで息子の火葬の料金を支払っているのだ、とサチは思った。それは彼女にはずいぶん非現実的なことに思えた。息子が鮫に襲われて死んだというのと同じくらい、現実味を書いていた」
「それ以来サチは毎年この時期になると、ハナレイの町を訪れるようになった。息子の命日の少し前にやってきて、三週間ばかり滞在した。・・・それがもう十年以上続いている」
「彼女にとって今のところ、それ以外に思いめぐらすべきことはなにもない。ハナレイ・ベイ」
「サチ」の中のあるものは、簡単に言うと心は、息子が鮫に襲われて死んだ「ハナレイ・ベイ」に固着されてしまった。彼女もやはり半分は死んでしまったのであって他にすることはないのだろう。

【どこであれそれが見つかりそうな場所で】
「しかしその一方で、言葉は言うまでもなく常に私たちの介在を必要としております。私たちがいなくなれば、言葉は存在意味を持ちません」
言葉は遺伝子に似ていて私たちを運び手(キャリア)としている。個人の寿命を超えるスパンで考えると、私たちを運び手として言葉は少しずつ変化している。遺伝子と同じように。変化しているだけで、変化し続けるだけで、そこには到達すべきところがない。遺伝子と同じように。言葉や遺伝子には目的のようなものがない。遺伝子によって形作られ、言葉を用いてしか思考することのできない私たちが、目標だとか成長だとか言っているのは現象の成り立ちに対して僭越なことではないかと思う。
「私はまたどこかべつの場所で、ドアだか、雨傘だか、ドーナッツだか、象さんだかのかたちをしたものを探し求めることになるだろう。どこであれ、それが見つかりそうな場所で」
いったい何を探しているのだろうかと聞いてみたくなるのだが「それじゃあなたは何を探しているのか?」と逆に聞かれるかもしれない。とりあえず「象さんだかのかたちをしたもの」と答えるしかない。何を探しているのかよくわからないが、きっと目にしたなら、探していたものが何かわかるのだろう。

【日々移動する腎臓のかたちをした石】
「蜂蜜パイ」に登場した淳平くんの話。
「すごく大事なことだよ、それは。職業というのは本来は愛の行為であるべきなんだ。便宜的な結婚みたいなものじゃなくて」
きっとその通りなのだろうが、さしたる才能もないので便宜的な結婚のような職業をずっと続けている。そんなふうにして大切な時間を無駄に過ごしてしまい、人生を終えるのだろう。まったく哀しいことだ。職業ではなくても何かしら出来ることはあるのではないかと思う。日常生活の中で擦り減り続け、枯れてしまいそうな情熱を傾けるべき対象がまだ残っているのであれば、抑えきれない探究心が自らのうちに滾々と湧き上がってくるのであれば、見知らぬナニモノかとの出会いが待っているのであれば、まだ終わらない。

【品川猿】
「なぜ名札をとったりしたの?」とみずぎは猿に尋ねてみた。
「わたしは名前をとる猿なのです」と猿は言った。
「待って」とみずきは言った。「本当にそのとおりなんです。このお猿さんの言うとおりです。そのことは私にもずっとわかっていました。でもそれを見ないようにして、今まで生きてきたんです。目をふさいで、耳をふさいで。お猿さんは正直に話をしているだけです。だから、許してあげて下さい。何も言わずに、このまま山に放してあげて下さい」
この「品川猿」は久しぶりにユング的なキャラクターではないかと思う。みずきの「名前」をとって、みずきが「見ないように」してきたことを、すべて知っている。意識がその存在を知らん振りしている別の人格のようなものだ。嫉妬を経験したことがないという、みずきは単に見ないようにしてきたのだし、気がつかないようにしてきた。自分を守るためには、そうしなければならなかった。
「親という名の暴力」について考えることが度々ある。
「教育という名の暴力」と言ってもよい。親だけでなく小学校の先生もそのような暴力を振るう。彼らは自分が加害者であることをまったく意識していない。自分の子供と接している中で私はその「暴力」の存在に気がついた。私が受けたモノと私が与えるモノの差異に私は気付いた。怒りがこみ上げてきた。みずきは、ふさいだ目とふさいだ耳を解き放ち、ありのままを見聞きしなければならない。そこで何が起こっていたかをごまかすことなく把握しなければならない。どのような暴力を受けたかをはっきりと思い出さなければならない。そうしないと変われない。

神の子どもたちはみな踊る

2015-11-14 00:05:06 | 村上春樹
【UFOが釧路に降りる】
「サエキさんって人がいるんだ。釧路に住んでいて、40くらいで、美容師なんだけど。その人の奥さんが去年の秋にUFOを見たの。・・・その一週間後に彼女は家出した。家庭に問題があるとかそういうのでもなかったんだけど、そのまま消えちゃって、二度と戻ってこなかった」
地震の五日後に出て行ってしまった奥さんもいれば、UFOを見た一週間後に出て行ってしまった奥さんもいる。地震と家出の関係とか、UFOと家出の関係について夫や近親者に思い当たるようなことはない。
「あなたとの生活は、空気のかたまりと一緒に暮らしているみたいでした」とそんなことを書き残して彼女は出て行った。報道が伝える甚大な被害はそのリアリティーを拡散させ、単調な日常生活を続けている人間に変わりたいと思わせるのかもしれない。何かしら意味を求めて、何かしら劇的なものを求めて、二度とない人生を過ごして行きたいと思わせるのかもしれない。実際のところ、何が原因で家を出なければならなかったのか、本人にもわかっていないかもしれない。そもそも原因があるかどうかあやしいものだ。何かをきっかけとして触発される心象風景の変化のすべてを私たちは把握できるわけではない。その一部を取り上げて、心理学と言ったり、精神分析と言ったり、哲学と言ったり、文学と言ったりしている。

【アイロンのある風景】
「順子は質問を変えた。「じゃあ、いちばん最近はどんな絵を描いた?」
「『アイロンのある風景』、三日前に描き終えた。部屋の中にアイロンが置いてある。それだけの絵や」
「それがどうして説明するのがむずかしいの?」
「それが実はアイロンではないからや」
順子は男の顔を見上げた。「アイロンがアイロンじゃない、ということ?」
「そのとおり」
「つまり、それは何かの身代わりなのね?」
「たぶんな」
「そしてそれは何かを身代わりにしてしか描けないことなのね?」
三宅さんは黙ってうなずいた」
「アイロンがアイロンじゃない」、アイロンは「何かの身代わり」ということだ。「それ」は「何かを身代わりにしてしか」描けないということだ。画家の脳裏に映った風景が絵として成立するのであれば、絵はそもそも「何かの身代わり」であるかもしれない。そうすると、なかなか正確な表現を探り当てることができない言葉も「何かの身代わり」だろうか?
気になったので丸山圭三郎「ソシュールの思想」について復習すしてみる。

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「ラングを構成する諸要素は、その共存それ自体によって相互に価値を決定しあっている。価値は対立から生じ、関係の網の目に生れる。この体系において『存在する』ということは『価値づけられて在る』ということの同義語にほかならない。個々の語はあくまで全体に依存しており、その大きさはその語を取巻く他の語にしか決定されない」
「言語学においては、現象と単位の間に違いは認められない。すべての現象は関係の間の関係である。或いは、差異について語ろう。すべては、対立として用いられた差異に過ぎず、対立が価値を生み出す。差異の中には、現象と呼ぶことが出来る差異があるのである」

「コトバについて哲学者がもっている、あるいは少なくとも提供している考え方の大部分は、我々の始祖アダムを思わせるようなものである。すなわち、アダムはさまざまな動物を傍に呼んで、それぞれに名前をつけたという。
・・・コトバの根底は名前によって構成されてはいない。
・・・それにもかかわらず、コトバが究極的にいかなるものかを見る上で、我々が看過することも黙認することも出来ないある傾向の考え方が、暗黙のうちに存在する。それは事物の名称目録という考え方である。それによれば、まず事物があって、それから記号(シーニュ)ということになる」
「ソシュールは伝統的言語観である言語命名論の否定から出発した」ということである。事物というような即自的なものはないので、その事物を記号で命名することなど出来ない。そもそも「対立が価値を生み出す」のだし「対立として差異が用いられる」のであるし、「語の大きさは体系の中でその語を取巻く他の語によって決定される」のだから「記号(シーニュ)に与えられる外的な基盤」つまり「事物」というようなものはない。しかし私たちは「事物」が存在すると堅く信じており「唯物論」は暗に支持されている。

「言語事実を持つ以前に一般的観念について語ることは、牛の前に鋤をつける如き転倒である。心理的に、言語を捨象して我々が得られる観念とは何であろうか。そんなものはたぶん存在しない。あるいは存在しても、無定形と呼べる形のもとにでしかない。我々はおそらく、言語の助けを借りずには二つの観念を識別する手段をもたないだろう。したがって、それ自体において捉えられた、我々の観念の純粋に概念的な塊は、つまり言語から切り離された塊は、一種の形をもたない星雲のごときものであり、そこでは当初から何物をも識別しない」
コトバはまた観念を示す道具であるとも考えられてきた。初めにコトバにならない純粋概念のようなものがあって私たちはコトバによってそれについて語るのだと考えられている。ここで私たちは「概念」「観念」「精神」「魂」「自我」のようなものがあると堅く信じている。誰も自分を観念論者とは思っていないが無意識のうちに観念論を信じている。

「言語記号が表現と意味を同時にもつ二重の存在であることがはっきりしたため、ソシュールは前者をシニフィアンsignifiant、後者をシニフィエsignifieと名づけた」
コトバが表現で事物に意味があるというのではなくコトバは表現と意味を同時に持つということである。その意味というのは「対立として用いられた差異」によって決まっている。そしてシニフィアンとシニフィエの関係は恣意的であるという。犬という発音と犬という意味の結びつきは自然的ではなくて恣意的である。しかし一度結びついてしまったものは私たちには必然として現われる。

「言語の中には差異しかない。それでは、意味はどこに求めたらよいのであろうか。ソシュールによれば、コトバの意味は、綴織と同じように差異と差異のモザイクから生れるのである」
「色調の組合せが織物の意味を形成する」
互いにユニークなn個の要素を二つ組み合わせるとn×n個の組合せとなる。それを続けていけば「差異と差異のモザイク」「色調の組合せ」が実現するだろう。そうするとこれは何だこれは? 情報処理か?
「差異と差異のモザイク」だなんて21世紀では珍しくもなんともない。遺伝子であるとかコンピューターのプログラムであるとかすべて差異の組合せにすぎない。

「さきほど、ソシュールは《言語命名論》を否定する、と書いた。それにも拘らず、コトバは事物を名づけるのである」
「対象を名づけること、それは対象を存在せしめること、あるいは対象を改変することにほかならない。こうしてかつては事物に従属していたコトバ、手段としてのコトバ、コトバの彼方にある現実と意味の表現としてのコトバは、逆に事物がそれに従属するコトバ、事物と事物の関係を樹立し、それを意味づけるコトバとなって、コトバとモノの関係は逆転し、コトバはその自立性を回復する」
自我もなければ対象もないのだが、私たちは名づけることで「対象を存在せしめる」ことになる。そのことが及ぶ範囲は事物に限らず、概念すらも私たちは「存在せしめ」、それらの関係について語る。そのような改変あるいは不正が許されないならば私たちは何も語れなくなってしまうだろう。
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言葉は、対自的な観念や即自的な事物を示しているわけではないので「何かの身代わり」というわけではないのだろう。ただ「対象を名づける」ことで観念や事物は存在せしめられる。「名づけられていない」観念や事物は存在しないが「名づけられていない」差異(関係性)はあるのだろう。だがそれが存在するようになるのは「名づけられて」からになる。絵が「名づけられていない」差異(関係性)を示しているのであれば、それが描かれないうちは存在しないし描かれてからは存在する。言葉に比べるとわかりやすい。

【神の子どもたちはみな踊る】
「途中で、どこかから誰かに見られている気配があった。誰かの視野の中にある自分を、善也はありありと実感することができた。彼の身体が、肌が、骨がそれを感じとった。しかしそんなことはどうでもいい。それが誰であれ、見たければ見ればいい。神の子どもたちはみな踊るのだ」
「僕らの心は石ではないのです。石はいつか崩れ落ちるかもしれない。姿かたちを失うかもしれない。でも心は崩れません。僕らはそのかっちなきものを、善きものであれ、悪しきものであれ、どこまでも伝えあうことができるのです。神の子どもたちはみな踊るのです」
「神の子どもたち」の意味しているものが何なのかわからない。
「善也のおちんちんがそんなに大きいのは、善也が神様の子どもであるしるしなのよ」と母親は子どもに言って聞かせる。そうすると「おちんちんの大きな子どもたちはみな踊る」ということなのか?
「僕は外野フライがうまくとれることを祈り、それに対して神様は誰よりも大きな性器を僕に与えたのだ。どこの世界にそんな変な取引があるものか」と善也は考える。まさにおっしゃる通りであり、彼は既に神様を否定している。「神の子どもたち」とは、おちんちんの大きさも関係していない「ただの子どもたち」なのだろう。「普通のおちんちんの大きさの子どもたちはみな踊る」と言い換えてもよい。(ダメ?)

【タイランド】
「あなたにはうまく死ぬ準備ができているの?」
「私はもう半分死んでいます、ドクター」、ニミットは当たり前のことのように言った。
「生きることと死ぬることは、ある意味では等価なのです、ドクター」
「そのとき私は主人に尋ねました。じゃあ北極熊はいったい何のために生きているのですか、と。すると主人は我が意を得たような微笑を顔に浮かべ、私に尋ねかえしました。『なあニミット、それでは私たちはいったい何のために生きているんだい?』と」
「スプートニクの恋人」のミュウや「海辺のカフカ」の佐伯さんも半分死んでいたのではないかと思う。一年に一度しか交尾しない北極熊の生態に何かしらの哀しさを感じたニミットは尋ねてみたのだが、その疑問はさらに大きな疑問に呑み込まれてしまう。
「いったい何のために生きているんだい?」、私たちは生かされているのであって、生きているわけではないのだろう。だから「何のために生きるのか?」ということに対して答えはない。
「何の為に生まれて 何をして生きるのか 答えられないなんて そんなのは嫌だ!」
確かにアンパンマン的には「嫌だ!」で決着するのかもしれない。
「今を生きることで 熱いこころ燃える だから君は行くんだ微笑んで」
いや、もう、勝手に行ってください。

【かえるくん、東京を救う】
「職場でも私生活でも、私のことを好いてくれている人間は一人もいません。口べただし、人見知りするので、友だちを作ることもできません。運動神経はゼロで、音痴で、ちびで、包茎で、近眼です。乱視だって入ってます。ひどい人生です。ただ寝て起きて飯を食って糞をしているだけです。何のために生きているのか、その理由もよくわからない。そんな人間がどうして東京を救わなくてはならないのでしょう?」
「片桐さん」とかえるくんは神妙な声で言った。「あなたのような人にしか東京は救えないのです。そしてあなたのような人のためにぼくは東京を救おうとしているのです」
平均的で無名の夥しい数の人々にかたちを与えようとすると「片桐さん」のような人物が創造されるのかもしれない。「ただ寝て起きて飯を食って糞をしているだけ」の無数の人々の中に「私」がいる。「中身がない」とか「空っぽ」とか「何のために生きているかわからない」といったセリフが、連作「地震のあとで」では繰り返される。いろんなかたちの死が繰り返し描かれる。悪意もなく私たちを蹂躙する地震と存在理由すらない私たちが組み合わされて災害が発生し甚大な被害が出たというのであれば、それは論理的に歴史に組み込まるのだが、ここで生じている現象の本質はそういうことなのだろうか? そうした疑問を抱きつつ出口あるいは救済を模索しているのではないかと思う。
「片桐は眠りの厚い衣に包まれたかえるくんの姿を、長いあいだ眺めていた。病院を出たら、『アンナ・カレーニナ』と『白夜』を買って読んでみようと片桐は思った。そしてそれらの文学について、かえるくんと心ゆくまで語りあうのだ」
「眠り」に続いて「アンナ・カレーニナ」が紹介されるのは2回目になる。私は2回読んだことがあるが内容はあまり覚えていない。おそらく10回読んだとしても覚えていないだろう。トルストイの書いた小説の中では一番好きな作品だ。「戦争と平和」はあまりに長いし「復活」は消化しきれない思想という感じがする。それよりは「クロイツェル・ソナタ」がいいんじゃないかと思う。ドストエフスキーの「白夜」は一度だけ読んだことはある。こちらもあまり覚えていない。

【蜂蜜パイ】
「まずはこの話に出口をみつけなくてはならない。とんきちは無為に動物園に送られたりするべきではない。そこには救いがなくてはならない」
<とんきちは、まさきちの集めた蜂蜜をつかって、蜂蜜パイを焼くことを思いついた。少し練習してみたあとで、とんきちにはかりっとしたおいしい蜂蜜パイを作る才能があることがわかった。まさきちはその蜂蜜パイを町に持っていって、人々に売った。人々は蜂蜜パイを気に入り、それは飛ぶように売れた。そしてとんきちとまさきちは離ればなれになることなく、山の中で幸福に親友として暮らすことができた>
そんなふうにして「出口」だか「救済」が準備されるのだが、それは単に「分業」ではないのだろうか? そして蜂蜜パイは商品として独占できるものではなく、蜂蜜パイには蜂蜜パイのシェア争いがあるだろう。「とんきち」のような新参者が食い込めるような業界ではないかもしれない。
「でも何かひとつくらいいいところはあるはずだよ」と幼い沙羅は言う。誰でも「ひとつくらいいいところ」を持っていたかもしれないが、いつの間にかそれを失ってしまう。社会に揉まれているうちに「いいところ」すら失くしてしまい、あとは死ぬだけということになってしまう。ここで語られる「出口」や「救済」は一般的には競争の始まりに過ぎない。
そもそも厳しい競争を勝ち抜いてきたのが「村上春樹」という作家であって、
それはそんなに易しいことではないだろう。

レキシントンの幽霊

2015-11-07 00:05:26 | 村上春樹
【レキシントンの幽霊】
表題が気になって「いつになったら幽霊が現れるのだろうか?」とそんな調子で読んでしまうが、幽霊がポイントというわけではない。愛することと、愛する者を失った時のことが書かれている。「トニー滝谷」と似ているような気もする。
「望まなければ失わないのに
求めずにはいられないよ
どんな未来がこの先にあっても」
人が死ぬわけではないが「夢みたあとで」を思い出した。死んでしまったのは「君を飾る花を咲かそう」だった。GARNET CROWのメンバーは今頃どうしているんだろう。古いジャズと同じように彼らの楽曲は色褪せて忘れ去られてしまうのだろう。過ぎ去ってしまったもの、滅びゆくもの、雨の日曜日の午後にふと思い出してしまうもの、そういうものを大切にしている。愛する者を失い、「予備的な死者のようにこんこんと深く眠り続ける」というのはどうなんだろう? 生きる屍ということだろうか? 人生を預けるに値する愛が過ぎ去ってしまうと、人生は無意味になってしまい、眠り続けるしかないのだろうか?
一度振り向けられた愛情が行き先を失うと、私たちは戸惑ってしまう。他に行き先がないことを知っている身体は活動を停止する。

【緑色の獣】
この「緑色の獣」というのは「椎の木」のことなのだろう。「椎の木」は「私」の愛情を受けて大きく育ち、「緑色の獣」は「私」の憎悪によって消え去ってしまった。私の考えていることがわかるらしいので、言葉にしなくても効力があるのだろう。あるいは憎悪というものは「緑色の獣」でなくても察知されるのかもしれない。愛情もそうかもしれない。

【沈黙】
「もちろん僕は青木に対して腹を立てていました。時には殺したいくらい憎んでいました。でもその時、満員電車の中で僕が感じたのは怒りとか憎しみよりは、むしろ悲しみとか憐れみに近い感情でした。<本当にこの程度のことで人は得意になったり、勝ち誇ったりできるものなのか? これくらいのことでこの男は本気で満足し、喜んでいるのだろうか?>そう思うと、なんだか深い悲しみみたいなものを感じたんです。この男にはおそらく本物の喜びや本物の誇りというようなものは永遠に理解できないだろうと思いました」
「本物の喜びや本物の誇り」というようなものもどうなのだろう?
本当に下衆な人間というのは「本物である」とかどうとか、そんなことは気にしないだろう。だからそんなふうに相手を憐れんだところで、何も変わりはしない。彼らが「本物の喜びや本物の誇り」を永遠に理解できないだろうということは、彼らにとってどうでもよいことだろう。本物を知らないのであれば、本物であるかどうかなんて気にならない。そんな相手を憐れんでも仕方がない。

【氷男】
「本当に信じがたいことなのだけれど、氷男はどういうわけか私のことを熟知していた。私の家族構成やら、私の年齢やら、私の趣味やら、私の健康状態やら、私の通っている学校やら、私のつきあっている友だちやらについて、彼は何から何まで知っていた。私がもうとっくに忘れてしまったような遠い昔のことまで、彼はちゃんと知っていた」
氷男というのは「過去」「記憶」のことなのだろうか? 
それも一般的なものではなく「私の過去」「私の記憶」というようなものなのだろうか?
「そして私にはわかっていた。私たちの新しい一家が南極の外を出ることはもう二度とないのだということを。永遠の過去が、その途方もない重みが、私たちの足をしっかりと捉えていた。そして私たちにはもうそれを振り払うことができないのだ。今の私にはほとんど心というものが残されていない。私の温もりはずっと遠くの方に離れていってしまった」
厚い氷に閉ざされ、温もりや暖かさからは永遠に隔離されているその大陸は、「永遠の過去」の象徴なのだろう。暖かいと形容される感情から切り離された氷男は、その人間にとっての固有の過去ということかもしれない。かつて「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」では「記憶」が「心」と関連付けられていたが、ここでは「記憶」ではなく「感情」が「心」と密接な関係を持っているようだ。

【トニー滝谷】
妻の残した洋服と、父の残したジャズ・レコードのコレクションを処分してしまうと、孤独をかみしめることになる。物への思い入れというのは実際のところ「本人」にしかわからない。私が集めた本とCDも、私が死んでしまったなら、ブックオフで処分されてしまうに違いない

【七番目の男】
「・・・しかしなによりも怖いのは、その恐怖に背中を向け、目を閉じてしまうことです。そうすることによって、私たちは自分の中にあるいちばん重要なものを、何かに譲り渡してしまうことになります。私の場合には―――それは波でした」
「しかしたとえ遅きに失したとしても、自分が最後にこうして救われ、回復を遂げたことに、私は感謝しております」
「損なわれる」ことはあっても「救われる」ことは今までに一度もなかったのだが、ここで初めて「救われ」と書かれている。そして「文章を書くことは自己療養へのささやかな試みにしか過ぎない」ということであったが、恐怖、あるいは恐怖のようなものを直視するということが、なんらかの救済につながるということかもしれない。

【めくらやなぎと、眠る女】
「螢・納屋を焼く・その他の短編」に収められている「めくらやなぎと眠る女」に十年ぶりに手を入れ短くしたものということだ。
「やらなくちゃいけないことなんて、どこにもひとつもない。でもここにだけは、いるわけにはいかないんだ」というところに傍点が打たれている。その少し前に、「彼らはいったい誰なのだろう? そしていったいどこに行こうとしているのだろう?」という文章があった。「ノルウェイの森」につながりがあるということだから、そういう話にもなってしまう。ただ結局のところ、どこにも行けないのだ。私自身の人生を離れてはどこにも行けない。私自身の身体を離れてはどこにも行けない。ゴーギャンの『われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこへ行くのか』には誕生から成年期を経て死に至る人生の過程と、そのありさまを見つめ続ける仏のような姿が描かれている。生き死にがずっと繰り返されてきたことが感じられる。「どこから来たのか? どこへ行くのか?」ということだが、実際には生き死にが繰り返されるだけで「どこにも行けない」ことが画家にはわかっていたのではないかと、そんなふうに思った。

TVピープル

2015-10-31 00:05:53 | 村上春樹
【TVピープル】
「それからTVピープルはテレビの外側に出てきた。まるで窓から出るように、枠に手をかけて足をよいしょと踏み出して出てきたのだ」
それじゃまるで貞子じゃないか。「リング」は1991年6月発行、「TVピープル」は1989年6月号の雑誌で発表されているので、村上さんが有利ということになる。
「TVピープル」が何かの象徴かどうかはよくわからない。「1Q84」の「リトル・ピープル」みたいに「空気さなぎ」を作るわけでもない。「彼らは原則的に、TVピープルがそこに存在しないものとして対応しているのだ。存在していることは知っている。でも存在しないものとして対応している」
会社にいる人たちはそのような反応をしている。そして「TVピープル」が家に置いて行ったテレビに対して妻も反応していない。「TVピープル」に反応しているのは「僕」だけであり、繰り返される擬態音は「僕」が幻聴を聞いていることを示しているようだ。そうすると「TVピープル」は「僕」だけが気付いている幻覚か幻聴のようなものなのだろう。
「もう駄目だから帰ってこないんだ」
「飛行機でないとするなら、これは何なんだい?」
「TVピープル」は「論理」から遠ざかったような話し方をする。それは論理的に考えることに疲れ果てた「僕」かもしれない。

【飛行機―――あるいは彼はいかにして詩を読むようにひとりごとを言ったか】
飛行機
飛行機が飛んで
僕は、飛行機に
飛行機は
飛んで
だけど、飛んだとしても
飛行機が
空か
・・・
「でもさっきあなたはお風呂場でちゃんとそう言っていたのよ。だからあなたが飛行機のことを考えていなかったとしても、あなたの心はどこか遠い森の奥の方で飛行機のことを考えていたのよ」
「あなた」の考えていることと「あなたの心」が考えていることは違うのかもしれない。意識を客体のように眺めることのできる主体がすべてを把握しているわけではない。「すべて」を把握することはできないし「心が考えるすべて」を把握することもできない。まったく別の人格が一人の人間の中に住まうこともある。もともと「各々の思念は勝手に想起してくる」ものだが、私たちは「自分が考えた」ことだと信じている。そして「自分」という縛りを持たない方の「彼」は詩を読むようにひとりごとを言ったのだろう。

【我らの時代のフォークロア―――高度資本主義前史】
「すべてが終わったあとで、王様も家来もみんな腹を抱えておお笑いしました」と彼は言った。
「僕はそのときのことを思い出すたびにこの文章を思い出すんだ、条件反射みたいに。僕は思うんだけど、深い哀しみにはいつもいささかの滑稽さが含まれている」
哀しさだけが残るというのはやり切れない。「そのときのことを思い出す」のは辛いので「おお笑い」したかったのかもしれないし、「そのときのことが滑稽」だったので「おお笑い」せずにはいられなかったのかもしれない。そんな哀しいことがありました、そんな滑稽なことがありました、そういう思い出があるということは「比較的恵まれている」ということかもしれない。哀しさの記憶すらないということが最も哀しい。

【加納クレタ】
加納クレタと姉の加納マルタが登場する。短編集「TVピープル」は1990年の出版で「ねじまき鳥クロニクル」が1994年の出版となっている。ここでは加納マルタはざっくばらんな男性のような口調で描かれている。加納クレタは「ねじまき鳥クロニクル」と同じように「あらゆる種類の男」に犯される。4年間で変わるものもあれば変わらないものもある。短編「ねじまき鳥と火曜日の女たち」は1986年に発表されている。これらの作品は、ずいぶんと長い間、あたためられてきたのだろう。

【ゾンビ】
「ほくろ?」と男は言った。「ひょっとしてそれは、右の耳の中にある品のないみっつのほくろのことかな?」
彼女は目を閉じた。つづいているのだ。

【眠り】
「読んだ時は結構感動したはずなのに、結局のところ何も頭に残っていないのだ。そこにあったはずの感情の震えや高まりの記憶は、いつのまにか全部綺麗にするすると抜け落ちて消えてしまっていたのだ。それではあの時代に、私が本を読むことで消費した膨大な時間はいったい何だったのだろう?」
本を読んでもすぐに忘れてしまうのだから、読まないことと変わりはないのかもしれない。そうするときっと勉強をしてもすぐに忘れてしまうのだから、勉強をしないことと変わりはないのかもしれない。すぐに忘れてしまうことなのに、なんとか記憶に定着させようとする、少なくとも受験日までは覚えていたい、そんなことのために膨大な時間を消費する。私たちはそれを「教育」とか「勉強」と呼んでいる。仕事では読書や勉強と比較にならないくらい多くの時間を消費する。「仕事」だから仕方がない。生活するために、生き延びるためには仕方がない。あるいは何をしていたとしても振り返ってみれば膨大な時間を消費したことになるのだと思う。それは二度と取り戻せないという意味で「膨大な時間」なのだろう。好きなことをして「膨大な時間」を消費してしまったのなら、それはそれで良いことなのだろう。仕事に役立てるためとか、教養のためとか、感性を磨くためとか、そんなふうに本を読んでもつまらない。ただ単に忘れてしまうために本を読んだ方が楽しい。

「ずっと休みなくエンジンを動かしていると、それは早晩壊れてしまう。エンジンの運動は必然的に熱を生じるし、こもった熱は機械そのものを疲弊させることになる。だからそれは放熱のために休ませなくてはならないのだ。クールダウンするのだ。エンジンを切る―――それがつまり睡眠である。人間の場合、それは肉体の休みであると同時に精神の休みでもある」
「草木も眠る丑三つ時」と言われるが、草木は眠ったりしないだろう。あるいは起きてもいない。活動と休息は激しい運動をする動物に固有のものだろう。そして精神の活動は、考える肉である脳が最も活発に運動しているのだから、最も休息を必要とするのだろう。動物とは「動く物」であり、人間は「考える葦」であって、休息が必要なのだ。私は「考えること」が好きなタイプだと思うが、それでも何時間も続けて文章を書いていると疲れてしまい行き詰る。翌日になってみると行き詰ったところがスラスラ書けたりする。眠っているあいだに何が起きているのだろうか?
おそらくは「忘れてしまう」ことが進行しているのではないかと思う。(つまりは「膨大な時間を消費する」ということが起きている。) 一日の活動をすべて覚えておく必要なんて全然なくて忘れてしまった方が良いことばかりなのだろう。そして本を読んで感動したということは覚えていても「何も頭に残っていない」ということになる。そうすることで手つかずの新しい一日を始めることができる。

パン屋再襲撃

2015-10-24 00:05:15 | 村上春樹
短編において、フィッツジェラルドとカポーティとレイモンド・カーヴァ―が著者の師であるということだ。しかし著者の短編のスタイルは流麗でもなく、洗練されているわけでもなく、武骨な感じすらする。そして短編集ごとに性格が異なっている感じがする。
「中国行きのスロウ・ボート」と「カンガルー日和」は純粋な短編集という感じだが、「螢・納屋を焼く・その他の短編」と「回転木馬のデッド・ヒート」は「ノルウェイの森」の準備であり、「パン屋再襲撃」は「ねじまき鳥クロニクル」の準備なのだろう。

【パン屋再襲撃】
パン屋は通常、パンを買いに行くところであって、襲撃するところではない。登場人物は尋常でない空腹に耐えかねて決心してパン屋を襲撃したのだが、少々不思議な店の親父にワーグナーを聴くという条件で好きなだけパンをもらってしまった。そのようにして襲撃は完遂されず、強奪は未遂に終ってしまった。非論理的な襲撃が、非論理的な条件で、論理的に退けられてしまった。マイナスにマイナスを掛けるとプラスになるというアレのことか?
そういうわけで新たなパートナー(妻)の指示のもと、リターンマッチ(再襲撃)が計画される。そんな感じで論理的な綻びを意図して書いているのではないかと思うが、不条理というところまで行かない。いまどき不条理だと売れないのだろう。

【象の消滅】
パン屋が襲撃するところではないように、像も消滅するものではない。パン屋以外のところ、たとえばマクドナルドやケンタッキーフライドチキンや吉野家であっても襲撃してはいけないし、象以外の動物、犬や猫や鼠もまた消滅したりはしない。「夢を叶えるゾウ(ガネーシャ)」だと消滅したりするのかもしれない。
そんなふうにして日常的には使われることのない語彙の組合せが生み出す効果を楽しんでいるようにも見える。ただ、象が消滅したという論理的綻びからは論理的なストーリーは展開できない。こうした試行に出口は期待できない。そもそも出口を用意しようという気配もない。

【ファミリー・アフェア】
兄と妹と妹の婚約者との話。
兄と妹の婚約者との間のテンポが合わない。
そのことに気付いている妹は自分と婚約者のテンポが合っていると考えているのだろうか?

【双子と沈んだ大陸】
双子は「1973年のピンボール」に登場した208と209の双子であるらしい。
1973年のピンボール」174ページ
「『何処に行く?』と僕は訊ねた。
『もとのところよ。』
『帰るだけ。』
「そうすると双子というのはやはり意味になることのできい混沌であったかもしれない。
心に住まう無意識であったかもしれない。
彼女らは私たちのところをしばしば訪れては元の場所へと
混沌へと帰っていく」
そういうことを以前書いた。再登場した双子はそのような性格を失っている感じがする。
「通り過ぎる者」という側面が強くなっているような気がする。
べつに何だっていいのだが。

【ローマ帝国の崩壊・一八八一年のインディアン蜂起・ヒットラーのポーランド侵入・そして強風世界】
「昨日僕は夕食のあとで映画館に入ってメリル・ストリープの『ソフィーの選択』を観たのだ。ヒットラーがポーランドに侵入したのはその映画の中の出来事だ」
「なかなか面白い映画だった」と書かれているが、そんなに「おもしろく」はないと思う。どちらかというときつい。そのような「選択」を強いられる理不尽さと、そのような「選択」をしてしまったソフィー自身の行為に潜む理不尽さは映画を観た人間の記憶にずっと留まることになる。私にこの映画を紹介してくれた女の子は、その後、三人の子供の母親となった。「彼女たち」が理不尽な選択を迫られることのない世の中が続けばいいなと思う。
「強風世界」では「結局ショスタコヴィッチのチェロ・コンチェルトとスライ・アンド・ザ・ファミリー・ストーンのレコードが強風にふさわしい選択であるように思えたので、僕はその二枚のレコードをつづけて聴いた」ということが書かれている。スライ・アンド・ザ・ファミリー・ストーンと言われてもよくわからない。ショスタコーヴィチのチェロ協奏曲は知っている。1番と2番があるが、どちらが「強風にふさわしい音楽」かはわからない。第2番は静かに不思議な曲であまり強風には向いていないように思われるが、第3楽章の終盤は強風にふさわしいかもしれない。第1番の協奏曲はプロコフィエフの交響的協奏曲に触発されて作曲されたということだ。交響的協奏曲もどちらかというと強風に向いているかもしれない。どの曲もロストロポーヴィチの独奏だと、いっそう強風的かもしれない。

【ねじまき鳥と火曜日の女たち】
これは後に「ねじまき鳥クロニクル」に発展した短編のようだ。ただし猫の名前は「ワタナベ・ノボル」となっている。この短編集では「渡辺昇」という人物が頻繁に登場する。2014年に亡くなった安西水丸さんの本名らしい。「ねじまき鳥クロニクル」ではあまりに悪人なので「ワタヤ・ノボル」に変えたということだ。

回転木馬のデッド・ヒート

2015-10-17 00:05:34 | 村上春樹
【はじめに・回転木馬のデッド・ヒート】
冒頭に「ここに収められた文章を小説と呼ぶことについて、僕にはいささかの抵抗がある。もっとはっきり言えば、これは正確な意味での小説ではない」と書かれているが、これはフェイクだ。「小説ではない」わけはない。著者は「デレク・ハートフィールド」のような嘘を平気でつく。気をつけねばならない。
「僕がこの連載でやろうとしたことは、とてもはっきりしている。それはリアリズムの文体の訓練である」と「村上春樹全作品1979-1989」の説明(「自作を語る」)に書かれている。「グレート・ギャツビイ」の語り手であるニック・キャラウェイに「ずっと興味を持っていた」、「このような訓練の行きつく先は明らかに『ノルウェイの森』である」ということだ。内容としても手法としても「ノルウェイの森」は「グレート・ギャツビイ」と深い関係にあるようだ。
「回転木馬のデッド・ヒート」の本文には以下のようなことが書かれている。「我々はどこにも行けないというのがこの無力感の本質だ。我々は我々自身をはめこむことのできる我々の人生という運行システムを所有しているが、そのシステムは同時にまた我々自身をも規定している。それはメリー・ゴーラウンドによく似ている。それは定まった場所を定まった速度で巡回しているだけのことなのだ。どこにも行かないし、降りることも乗りかえることもできない。誰をも抜かないし、誰にも抜かれない。しかしそれでも我々はそんな回転木馬の上で仮想の敵に向けて熾烈なデッド・ヒートをくりひろげているように見える」
どうもこのあたりもハイデガーに似ている感じがする。
「死は生の対極としてではなく、その一部として存在している」というところが「存在と時間」に書かれていることと似ていることは「ノルウェイの森」の感想に書いた通りだ。「我々自身をはめこむことのできる我々の人生という運行システム」に先立って「我々の身体」が既にある。それは同時に「我々自身をも規定している」ことになる。このあたりのことは普通に現象学で示されている。私たちは私たちの身体と共に世界に投げ出されていて、ある日、突然「投げ出されている」ことに気付く。そしてそのことを無条件に引き受けなければならないことに気付く。引き受けた時点で今度は主体的に「切り開いて」いかなければならないことに気付く。そのような受動的かつ能動的な生を生きる存在が私たちということになる。私たちが身体と共にある限り、「どこにも行かないし、降りることも乗りかえることもできない。誰をも抜かないし、誰にも抜かれない」「我々はどこにも行けない」と著者は書いている。私たちは身体から離れたところには行けない。私が乗る回転木馬は私だけが乗るものであって、他者は結局のところ関与できない。

【レーダーホーゼン】
「じゃあ、どうしてお母さんはその三十分のあいだに離婚する決心ができたんだろう?」
「それは母親自身にもずっとわからなかったの。それで母もひどく混乱していたのね。母にわかることは、そのレーダーホーゼンをはいた男をじっと見ているうちに父親に対する耐えがたいほどの嫌悪感が体の芯から泡のように湧きおこってきたということだけなの」
レーダーホーゼンとは「ドイツ人がよくはいている上に吊り紐がついた半ズボン」ということだ。夫のみやげにレーダーホーゼンを買いに出かけて、夫に似た体型の人がそれを身につけているところを見ているうちに、夫への激しい憎悪に気がついたのだという。夫から離れていながら夫に似た体型の人を見るという特別な場合には、生活を共にする相手と直接接触している時には常時作動するような抑止力が働かず、憎悪が解放されてしまうということかもしれない。怒りは直接的なもので対象となる相手がそこにいなければ生起することはないように思える。憎悪は自分でも気がつかないうちに心の中でどんどん成長していき、何かをきっかけにして沸々と湧き上がってくる。ここではレーダーホーゼンがきっかけになっているが、おそらくは何でもきっかけになり得る。既に憎悪は育まれてしまったのだから。

【タクシーに乗った男】
「私はその時二十九歳でした。月並な言い方ですが、私の青春はもう終ろうとしていました。私は画家になろうとしてアメリカにやってきて、結局画家にはなれませんでした。私の腕は私の目ほど立派ではありませんでした。私は何ひとつとして自分の腕でものを創りだすことができませんでした。そしてその絵の男は・・・なんだか私自身の失われてしまった人生の一部であるように思えたんです。私はその絵をアパートの部屋の壁にかけて、毎日毎日眺めて暮らしました。その絵の男を見るたびに、私は自分が失ったものの大きさを思いしらされました。あるいはその小ささをね」
「・・・彼は凡庸という名のタクシーの中に閉じこめられていました・・・」
自分に力量がないと思い知らされるということ、自分より優れた資質がどこにでもあることに気がついてしまい他者と比較し自分を敗者にしてしまうこと、努力では補えない才能が与えられていないことに気付いてしまうということ、私もその男も一生そのような「凡庸の中」に閉じこめられて生きていくのだ。「凡庸の中」にいて私が気がついたことは、それでも何かせずにはいられないということだ。たとえば読んだことのない著者の本を読んでみること、理解すること、創りだすことはできなくとも何かしら喜びはある。そして他人と自分を比較してはいけないこと、優れているとしてもたいしたことはないし、劣っていると自覚しても気が滅入るだけだ。「凡庸の中」での過ごし方については、私はそれなりの権威と呼べるかもしれない。

【プールサイド】
「だから35回めの誕生日が目前に近づいてきた時、それを自分の人生の折りかえし点とすることに彼はまったくためらいを感じなかった」
「そしてこれで半分が終ったのだ。と彼は思う」といったことが書かれている。
「いろんな人が僕のところにきて、あの話には実感があったと言った。人生の折り返し点ということがあるいは人に何かを考えさせるかもしれない。僕自身はそんなことを考えたことは一度もないけれど」という感じでこの話は「いちばんよく話題にのぼる」ということだ。だが人生の折り返し点というのはマラソンの折り返し点とは違う。マラソンのゴールが歓喜であるのに対して人生のゴールは敗北であったり混沌への帰還であったりする。それがどういうものなのか誰にもわからない。わからないくせに水泳競技のターンや陸上競技のターンにたとえて納得しようとする。おそらく著者はからかっているだけなのだろう。私だって人生のゴールだが折り返し点について神妙なことを言っている人がいたら、たぶん、からかってしまうだろう。

【今は亡き王女のための】
「亡き王女のためのパヴァーヌ」という曲がある。ラヴェルの作曲だ。小説とはあまり関係ない。ふと思い出しただけだ。
「彼女は自分のことだけを真剣に考えることに慣れきっていたんです。それのおけげで、他人の不在がもたらす痛みというものを、彼女は想像することさえできなくなっていたんです」
「亡き王女」が彼女のことなのか、彼女の亡くなってしまった娘のことなのかはわからない。

【嘔吐1979】
「友だちの恋人や奥さんと寝るのが好き」だという男が、1979年6月4日から同年7月14日まで嘔吐するという話。彼はやましさとかうしろめたさのような感情を抱いてはいないということだが、彼の中で行き先を失ったそうした感情が嘔吐の形でシグナルを発していると捉えるといったことが一般的な解釈になるだろう。私たちの身体はどこかで感情と結びついているというよりは、感情が身体の一部であってその逆ではない。そして私たちは嘔吐の原因を解明しようと試みるのだが、それほど自分の身体について熟知しているわけではないので、いずれ途方に暮れることになる。

【雨やどり】
「そんなことはないんです。その時その時で、ふっと口に出てくる金額が違うんです。いちばん高いので八万円、いちばん安くて四万円かな。相手の顔を見て直感的に数字が出てくるんです。金額を言って断られたことは一度もありませんでしたよ」
五人の男に体を売ったという女性が、相手の払える金額を当てるという話。

【野球場】
とびきり大きいカメラの望遠レンズで気になる彼女の生活をたっぷり眺めるという話。その行為から抜け出せずにいたが、夏休みになって彼女が帰省のためアパートを出て行ってしまってから、ようやく自分が解放されたのだという。

【ハンティンング・ナイフ】
「僕はたしかにまだ若くはあったけれど、それはかげりひとつない若さというのではなかった。そのことはほんの数週間前にかかりつけの歯科医から指摘されたばかりだった。歯についていえば、あともう擦り減ったり揺らいだり抜け落ちていくだけの過程にすぎないんです、とその医者は言った。そのことをよく覚えていて下さい。あなたにできることはそれを少しでも遅らせるだけです。防ぐことはできません。遅らせるだけのことです」
そのようなことが書かれていた。それが過ぎ去った後に、それを失った後になって初めて、かつて「かげりひとつない若さ」というようなものがあったのだと気付く。老いによって歯が抜け落ち、髪も抜け落ち、肌は張りを失う。身体を擦り減らしていくと共に精神も擦り減らして行く。擦り減った精神は擦り減った身体と同等あるいはそれ以上に、みじめなものだろう。
私たちは皆、負けるとわかっている闘いを強いられている。私たちは私たちの身体と共に世界に投げ出されている。乗りかえる馬はない。

螢・納屋を焼く・その他の短編

2015-10-10 00:05:40 | 村上春樹
【螢】
この短編は後に「ノルウェイの森」という形に改変されている。実際には改変というレベルではなく、大幅に増築されたまったく別の建築物と言った方がよいかもしれない。「子供の不思議な角笛」に収められた歌曲が壮大な交響曲に発展したと言った方がよいかもしれない。「ノルウェイの森」を先に読んでしまっているので「ノルウェイの森」の一部であるという感じがする。
「死は生の対極としてではなく、その一部として存在している」というところは、ここで既に太字で示されている。それが何を指しているかといったことは「ノルウェイの森」の感想に書いたのでそちらを参照してください。

【納屋を焼く】
納屋を焼くのか焼かないのか、納屋は焼かれたのか焼かれなかったのか、よくわからない。もし「納屋を焼く」という犯罪行為の必要性について述べる機会が与えられたならば、反社会的行為を慎むべく教育されたまっとうな人間としては「そのようなことは断じていけません」という他ない。あるいは彼自身が「納屋を焼こう」としたのではなく彼の潜在意識がそうさせたので彼に罪はありませんとか、そんな感じで弁護する振りをしているかもしれない。私としては、どっちでもいいんです。
「神の子どもたちはみな踊る」に「アイロンのある風景」という短編があり、流木を「ぎょうさん集めて」焚き火をする情景が収められている。読んでいると「うーん、焚き火したい」と思ってしまう。べつに「火をつけたい」というわけではないんですよ。なんといっても放火は重罪なんで。でもやっぱり火をつけたいのかな?
しけた納屋専門の放火魔のそそのかしに乗って「僕」自身は「納屋を焼きたい」と考えたのだろうか?
いちおう「僕は納屋を焼いたりしない」とは書かれている。
本当はどうだか。

【踊る小人】
「しかしこれで終ったわけじゃない」と小人はつづけた。「あんたは何度も何度も勝つことができる。しかし負けるのはたった一度だ。あんたが一度負けたらすべては終る。そしてあんたはいつか必ず負ける。それでおしまいさ。いいかい、俺はそれをずっとずっと待っているんだ」
この小人は死とひきかえに手に入れることのできる才能のようなものではないかと思う。「多崎つくる」でモーツァルトとシューベルトの話が出てきたが、彼らは才能を維持するために命を削っていたのだと思う。それは小人に体を貸して踊ってもらうことと似ているかもしれない。あるいは何か才能を発揮しようというなら、死と隣り合わせの生き方を選ばなくてはならないのかもしれない。きっといつかはそうしてしまうのだろう。何もせず漠然と生きていても死はじわじわと忍び寄って来る。それならいっそ小人と一緒に踊った方が「星の運行」や「潮の流れ」や「風の動き」と一体化することもできてこの世に思い残すことも少なくなるかもしれない。それでもたいていの人は老後の暮らしに必要な資金を貯蓄して安心しようとする。確かに飢え死には避けられるだろう。だがやがて死ぬのだ。何もしないまま。何もできないまま。

【めくらやなぎと眠る女】
「彼女は丘を描いた。こみいった形をした丘だった。古代史の挿画に出てきそうなかんじの丘だ。丘の上には小さな家があった。家の中には女が眠っていた。家のまわりにはめくらやなぎが茂っていた。めくらやなぎが女を眠りこませたのだ。
「めくらやなぎっていったいなんだよ」と友だちが訊ねた。
「そういう種類の柳があるのよ」と彼女は言った。
「聞いたことないね」と友だちが言った。
「私が作ったのよ」と彼女が言った。「めくらやなぎの花粉をつけた小さな蝿が耳からもぐりこんんで女を眠らせるの」」
「めくらやなぎ」について言及がないまま物語は進められる。残り3分の1くらいになってようやく説明らしきものがある。「手のりかいつぶり」よりは実在しそうかもしれない。だが「蝿が耳から」というところが生理的に受け付けられない。友だちと一緒に彼女の見舞いに訪れる情景は「ノルウェイの森」に引用されている。そうすると友だちというのはキズキで「めくらやなぎ」について語る彼女は直子ということになる。そういう話がひとつくらい彼らのためにあってもよかったのだ。

【三つのドイツ幻想】
三つの短い物語で構成されている。
・冬の博物館としてのポルノグラフィー
・ヘルマン・ゲーリンング要塞 1983
・ヘルWの空中庭園
「ヘルWの空中庭園は東西ベルリンを隔てる壁のすぐわきにある四階建てのおんぼろビルの屋上につながれていた」と書かれていた。当時は「ベルリンの壁」というものがあった。まだ「ソ連」も崩壊していなかった。「30年が過ぎ去った」というよりは歴史的事実を積み重ねられた方がリアリティーがある。