村上春樹「約束された場所で」を読んだ。
「そのためにはやはり『アンダーグラウンド』と基本的には同じ形式を用いて、オウム真理教の信者(元信者)の気持ちや主張を聞き書きしていくしかないだろうという結論に私は達した」ということで本書にはオウム信者(元信者)へのインタビューと「アンダーグラウンド」と「悪」をめぐっての河合隼雄氏との対話が収められている。インタビューからは引用しにくいので対話から引用する。
村上「それはとても強く感じたと思います。僕は意識の焦点をあわせて、自分の存在の奥底のような部分に降りていくという意味では、小説を書くのも宗教を追求するのも、重なり合う部分が大きいと思うんです。そういう文脈で、僕は彼らの語る宗教観をある程度正確に理解できたという気がします。でも違うところは、そのような作業において、どこまで自分が主体的に
最終的責任を引き受けるか、というところですよね。はっきり言って、僕らは作品というかたちで自分一人でそれを引き受けるし、引き受けざるを得ないし、彼らは結局それをグルや教義に委ねてしまうことになる。簡単にいえばそこが決定的な差異です。」
多くの人は「グルや教義に委ねてしまう」主体性の無さを指して「洗脳」と呼んでいるのだが、「上司や規則に委ねる」という社会通念も似たようなものかもしれない。やれヒトラーに操られていた、大本営に逆らえなかった、そういう一昔前の体制なり政権であれば、民主主義社会の市民の心得というか、たしなみというか、常識の一環として批判することができる。誰も反論する人間がいないというところが、この批判のおいしいところである。すでに敗れ去った者、死んでしまった者への批判であり、きわめて卑怯である。とれとれピチピチのヒトラーを相手に正々堂々と渡り合う者など、どこにもいない。そんな勇気はない。おそらくは今の体制や社会にしても、今を生きる人々がいなくなってから批判されるのだろう。生き延びるためには、ただひたすらに従わねばならないのだし、従うことを苦痛と感じないためには考えることを放棄するに限る。新聞やら、テレビやら、ウェブで当たり前のように報道されていることに疑問を持たないのであれば、洗脳されているなんて誰も考えないほど大規模な洗脳が進行しているのだろう。あるいはそれを「民意」と呼ぶ人もいるが、それは権力を獲得した者が支配の由来の正当性を説明するための言葉だ。
次に「自分の存在の奥底のような部分に降りていく」意味では一般の人より宗教を追求する人が小説を書くのに近いのだという。その小説を読むのは一般の人であり、その本を読む目的が「自分の存在の奥底のような部分に降りていく」ことであれば結局のところ、ぐるぐる回って、みんな同じかもしれない。そして読むという行為が主体性を欠いているのだとすれば、私たちは「オウム」と同じかもしれない。だが「自分の存在の奥底」なんてものが本当にあるのかどうかよくわからない。
「自我」があるというのは誘惑だ。
アイデンティティーといった、なにかしらかけがえのないものが自分の拠り所であるという考えは人を安心させる。私の個性は、私という存在は、確固たる存在理由を持っているのだと思えることは幸せなことだろう。ちょっと考えればわかりそうだが、数十億の人々が、「オレはオレ固有の存在理由がある」と考えるのは不自然だ。あるいは数十億の鳥や魚や羊が「おいらにはおいら固有の存在理由がある」と言い出したら、「そんなことありえない」と私たちは否定するだろう。お前たちには「意志」がないではないかと。
「自我」というのは、「そと」から用意された仕掛けだ。
あるいは競争に疲れ果てて、煩悩を振り払いたくて、欲望から解放されたくて、自我を捨てようと試みる人もいる。宗教が救済するのは、本来、そのような人々であって、金持ちは「神の国」には入れない。自我を捨てた金持ちは存在しないので、金持ちが神の国に入れないのは自明ということになる。「そのためにあなたの財産を全部寄付してしまいなさい」というのであればインチキ宗教ということになるだろう。だがどの宗教でも聖職者は経済活動をせずに修行に励んでおり、そのための寄付を募り、パトロンを募っている。昔は乞食(托鉢)をしていたのだというが、あやしい。きっと威張っていたに違いない。
自我に執着しないというのは心の持ち方としては良いことなのだと思う。それは宗教団体と個人の問題というよりは、一人ひとりの心の持ち方の問題ではないかと思う。自我に執着することなく、組織に媚びることなく独立した自我、主体的に責任を引き受けた自我というのは矛盾している感じもする。だが結局のところ、人は何かを選択する。
村上「でも中には『この人は世間でうまくやっていけないだろうな』という人は明らかにいますよね。一般社会の価値観とはもともと完全にずれてしまっている。それが人口の中に何パーセントくらいなのかは知らないけれど、良くも悪くも社会システムの中ではやっていけないという人たちが存在していることは確かだと思うんです。そういう人たちを引き受ける受け皿みたいなものがあっていいんじゃないかと僕は思いますが。」
河合「それは村上さんの言っておられることの中で僕がいちばん賛成するところです。つまり社会が健全に生きているということは、そういう人たちのポジションがあるということなんです。それをね、みんな間違って考えて、そういう人たちを排除すれば社会は健全になると思っている。これは大間違いなんです。そういう場所が今の社会にはなさすぎます。」
「一般社会の価値観」というのは「多数決」で決まるものだから、ずれてしまう人は必ず出てくる。LGBTが次第に市民権を獲得するようになってきたが、国内ではレズの結婚は認められていない。つまり受け皿はない。レズやゲイを排除しても社会は健全にはならない。もともと何が健全かということもよくわからない。おそらくは「多数決」で決まる。
考え方というのは言葉(つまりは差異で識別される記号)の組合せだから、DNAの組合せできまる身体と同じように多様性を持つ。そして個体が環境との相互作用の中で生きていくように、思想は社会との相互作用とは無縁ではいられない。そのような思想と社会の干渉の結果、思想も社会も変化していく。言葉や遺伝子が変化していくのと同じように。
村上も河合も、どうして受け皿を用意してあげないのか、ポジションを用意してあげないのか、みたいなことを言っているのだが、そういうのこそ間違いだろう。ポジションは与えられるものではなく、個体が環境の中で自ら獲得していくしかない。
河合「そうです。絶対帰依です。これは楽といえば楽でいいです。この人たちを見ていると、世界に対して『これはなんか変だ』と疑問を持っているわけです、みんな。で、その『何か変だ』というのは、箱の中に入ると『これはカルマだ』ということで全部きれいに説明がついてしまうわけです。」
村上「全部きれいに説明がつくというのが、この人たちにとっては大事なんですね。」
河合「そうです。でもね、全部説明がつく論理なんてものは絶対だめなんです。僕らにいわせたらそうなります。そやけど、普通の人は全部説明できるものが好きなんですよ。」
村上「そうですね。そういうのをみんな求めている。これは宗教だけじゃなくて、一般のメディアなんかにしてもそうですね。」
「なんのために生きるのか?」といったことが確定すると楽なのかもしれない。
まあ一般的には「幸せになるため」とか、そんな答えが返ってくるかもしれないし、「野望を実現するため」というような優秀な人もいるのだろう。あるいは生き続けるために頭を下げなくてもよいということが大切かもしれない。生きるために誰かの赦しを請う必要があるというのであれば、もう生きるのが嫌になってしまう。家族のためとか、子供のためとか、何か理由があるのなら、たいていのことには我慢ができるかもしれない。
そんなふうにして子育てが終わったある日、「私の人生って何だったんだろう?」みたいなことを考えてしまうかもしれない。いちばん悲しいことは命には限りがあることで、宗教はその苦しみを取り除き、永遠を約束する。一神教だとただひたすらに全能者を信じればよい。ヒンドゥー教・仏教だと輪廻のようなものを信じることになるが、。
仏教をつきつめていくと、輪廻とか涅槃とか解脱というのは信者を招き寄せる「方便」であることがわかってくる。だからオウムの信者も含めて、私は今この段階にいて、ここから解脱までは速くて3年だみたいなことを言っていたとすれば、それはかなり勘違いしているのではないかと思う。そしてまあ天国だの、煉獄だの、地獄といったものも、ダンテがその創造力で詳細に劇的に謳いあげてはいるが、まやかしでしかない。
おそらくは「全部きれいに説明がついてほしい」というのであれば、問い掛けを途中で止めればよいのだろう。教義とはそのためのものであって、ただ信じるためのものであって、そのことに疑問を感じてしまうのは信仰ではない。そのような人には、「安住の地」であるとか、「約束の地」なんてものはない。死ぬまで説明がつかない世界を、あるいは無条件に与えられている世界そのものを信じていないならもっと別のものを、求め続けることになる。どこまで行っても終着点がない、探究心を持ち続けるなら、そうなる。そして「なんのために生きるのか?」という問い掛けも、自信を持って信条を語る他人も、実際のところどうでも良くなってくる。気がつけば、ニヒリストにされていたり、ペシミストにされていたりする。
河合「人間というのは、いうならば、煩悩をある程度満足させるほうをできるだけ有効化させようという世界を作ってきとるわけです。しかもとくに近代になって、それがずいぶん直接的、能率的になってきてます。直接的、能率的になってくるということは、そういうものに合わない人が増えてくるといいうことですね、どうしても。そういうシステムがいま作られているわけです。だから、そういう『合わない』人たちに対して我々はどう考えていけばいいのか。それに対してひとつインパクトを持ちうるのは芸術とか文学とか、そういうもんですね。これは非常に大事なものなんですが、でもそれもできない人がいますね。そういう人たちのためにどうするか。これはむずかしいことです。ただそう考えていきますと、生活保護みたいなのがあるんやったら、そういう人たちのために補助金を払うのは当たり前やないかという気がしますね。補助金をあげますから、まあ楽しく生きてくださいと。」
シホンシュギは資本の自己増殖を効率的に実現するよう洗練されて行く。
効率的でないものは淘汰されてしまうので、効率的なシステムが生き残り、資本を獲得し、買収し、勢力を拡大していく。勝てば勝つほど、どんどん強大になり、世界に確固たる地位を築く。そして効率化し、有効化し、直接的、能率的な同類を増やし、ますます世界はその傾向を強めていく。私たちは「遺伝子」のキャリアであると共に「資本」の担い手でもあるが、遺伝子も資本も私たちのことを考えてはくれない。私たちの心というのは自動操縦するための仕掛けであり、遺伝子と資本の増殖に活用される。あるいは利用されているというふうにも書いてみたかったが、結局のところ、遺伝子や資本に意志があるわけでもない。そのような自己増殖に活用されるのは嫌だという人たちが「合わない」人たちであるかもしれない。政治家も経済学者も「経済成長」が最優先事項らしいが、それはつまり資本の自己増殖を信仰していることになる。そのシステムに合わないというのは効率化とは反対の方向の無駄ということになるのだろうか?
システムに合わない人たちを税金の無駄遣いで救済するというのは、「資本の効率的な自己増殖」のために生きている人にとっては耐え難いことだろう。
「そのためにはやはり『アンダーグラウンド』と基本的には同じ形式を用いて、オウム真理教の信者(元信者)の気持ちや主張を聞き書きしていくしかないだろうという結論に私は達した」ということで本書にはオウム信者(元信者)へのインタビューと「アンダーグラウンド」と「悪」をめぐっての河合隼雄氏との対話が収められている。インタビューからは引用しにくいので対話から引用する。
村上「それはとても強く感じたと思います。僕は意識の焦点をあわせて、自分の存在の奥底のような部分に降りていくという意味では、小説を書くのも宗教を追求するのも、重なり合う部分が大きいと思うんです。そういう文脈で、僕は彼らの語る宗教観をある程度正確に理解できたという気がします。でも違うところは、そのような作業において、どこまで自分が主体的に
最終的責任を引き受けるか、というところですよね。はっきり言って、僕らは作品というかたちで自分一人でそれを引き受けるし、引き受けざるを得ないし、彼らは結局それをグルや教義に委ねてしまうことになる。簡単にいえばそこが決定的な差異です。」
多くの人は「グルや教義に委ねてしまう」主体性の無さを指して「洗脳」と呼んでいるのだが、「上司や規則に委ねる」という社会通念も似たようなものかもしれない。やれヒトラーに操られていた、大本営に逆らえなかった、そういう一昔前の体制なり政権であれば、民主主義社会の市民の心得というか、たしなみというか、常識の一環として批判することができる。誰も反論する人間がいないというところが、この批判のおいしいところである。すでに敗れ去った者、死んでしまった者への批判であり、きわめて卑怯である。とれとれピチピチのヒトラーを相手に正々堂々と渡り合う者など、どこにもいない。そんな勇気はない。おそらくは今の体制や社会にしても、今を生きる人々がいなくなってから批判されるのだろう。生き延びるためには、ただひたすらに従わねばならないのだし、従うことを苦痛と感じないためには考えることを放棄するに限る。新聞やら、テレビやら、ウェブで当たり前のように報道されていることに疑問を持たないのであれば、洗脳されているなんて誰も考えないほど大規模な洗脳が進行しているのだろう。あるいはそれを「民意」と呼ぶ人もいるが、それは権力を獲得した者が支配の由来の正当性を説明するための言葉だ。
次に「自分の存在の奥底のような部分に降りていく」意味では一般の人より宗教を追求する人が小説を書くのに近いのだという。その小説を読むのは一般の人であり、その本を読む目的が「自分の存在の奥底のような部分に降りていく」ことであれば結局のところ、ぐるぐる回って、みんな同じかもしれない。そして読むという行為が主体性を欠いているのだとすれば、私たちは「オウム」と同じかもしれない。だが「自分の存在の奥底」なんてものが本当にあるのかどうかよくわからない。
「自我」があるというのは誘惑だ。
アイデンティティーといった、なにかしらかけがえのないものが自分の拠り所であるという考えは人を安心させる。私の個性は、私という存在は、確固たる存在理由を持っているのだと思えることは幸せなことだろう。ちょっと考えればわかりそうだが、数十億の人々が、「オレはオレ固有の存在理由がある」と考えるのは不自然だ。あるいは数十億の鳥や魚や羊が「おいらにはおいら固有の存在理由がある」と言い出したら、「そんなことありえない」と私たちは否定するだろう。お前たちには「意志」がないではないかと。
「自我」というのは、「そと」から用意された仕掛けだ。
あるいは競争に疲れ果てて、煩悩を振り払いたくて、欲望から解放されたくて、自我を捨てようと試みる人もいる。宗教が救済するのは、本来、そのような人々であって、金持ちは「神の国」には入れない。自我を捨てた金持ちは存在しないので、金持ちが神の国に入れないのは自明ということになる。「そのためにあなたの財産を全部寄付してしまいなさい」というのであればインチキ宗教ということになるだろう。だがどの宗教でも聖職者は経済活動をせずに修行に励んでおり、そのための寄付を募り、パトロンを募っている。昔は乞食(托鉢)をしていたのだというが、あやしい。きっと威張っていたに違いない。
自我に執着しないというのは心の持ち方としては良いことなのだと思う。それは宗教団体と個人の問題というよりは、一人ひとりの心の持ち方の問題ではないかと思う。自我に執着することなく、組織に媚びることなく独立した自我、主体的に責任を引き受けた自我というのは矛盾している感じもする。だが結局のところ、人は何かを選択する。
村上「でも中には『この人は世間でうまくやっていけないだろうな』という人は明らかにいますよね。一般社会の価値観とはもともと完全にずれてしまっている。それが人口の中に何パーセントくらいなのかは知らないけれど、良くも悪くも社会システムの中ではやっていけないという人たちが存在していることは確かだと思うんです。そういう人たちを引き受ける受け皿みたいなものがあっていいんじゃないかと僕は思いますが。」
河合「それは村上さんの言っておられることの中で僕がいちばん賛成するところです。つまり社会が健全に生きているということは、そういう人たちのポジションがあるということなんです。それをね、みんな間違って考えて、そういう人たちを排除すれば社会は健全になると思っている。これは大間違いなんです。そういう場所が今の社会にはなさすぎます。」
「一般社会の価値観」というのは「多数決」で決まるものだから、ずれてしまう人は必ず出てくる。LGBTが次第に市民権を獲得するようになってきたが、国内ではレズの結婚は認められていない。つまり受け皿はない。レズやゲイを排除しても社会は健全にはならない。もともと何が健全かということもよくわからない。おそらくは「多数決」で決まる。
考え方というのは言葉(つまりは差異で識別される記号)の組合せだから、DNAの組合せできまる身体と同じように多様性を持つ。そして個体が環境との相互作用の中で生きていくように、思想は社会との相互作用とは無縁ではいられない。そのような思想と社会の干渉の結果、思想も社会も変化していく。言葉や遺伝子が変化していくのと同じように。
村上も河合も、どうして受け皿を用意してあげないのか、ポジションを用意してあげないのか、みたいなことを言っているのだが、そういうのこそ間違いだろう。ポジションは与えられるものではなく、個体が環境の中で自ら獲得していくしかない。
河合「そうです。絶対帰依です。これは楽といえば楽でいいです。この人たちを見ていると、世界に対して『これはなんか変だ』と疑問を持っているわけです、みんな。で、その『何か変だ』というのは、箱の中に入ると『これはカルマだ』ということで全部きれいに説明がついてしまうわけです。」
村上「全部きれいに説明がつくというのが、この人たちにとっては大事なんですね。」
河合「そうです。でもね、全部説明がつく論理なんてものは絶対だめなんです。僕らにいわせたらそうなります。そやけど、普通の人は全部説明できるものが好きなんですよ。」
村上「そうですね。そういうのをみんな求めている。これは宗教だけじゃなくて、一般のメディアなんかにしてもそうですね。」
「なんのために生きるのか?」といったことが確定すると楽なのかもしれない。
まあ一般的には「幸せになるため」とか、そんな答えが返ってくるかもしれないし、「野望を実現するため」というような優秀な人もいるのだろう。あるいは生き続けるために頭を下げなくてもよいということが大切かもしれない。生きるために誰かの赦しを請う必要があるというのであれば、もう生きるのが嫌になってしまう。家族のためとか、子供のためとか、何か理由があるのなら、たいていのことには我慢ができるかもしれない。
そんなふうにして子育てが終わったある日、「私の人生って何だったんだろう?」みたいなことを考えてしまうかもしれない。いちばん悲しいことは命には限りがあることで、宗教はその苦しみを取り除き、永遠を約束する。一神教だとただひたすらに全能者を信じればよい。ヒンドゥー教・仏教だと輪廻のようなものを信じることになるが、。
仏教をつきつめていくと、輪廻とか涅槃とか解脱というのは信者を招き寄せる「方便」であることがわかってくる。だからオウムの信者も含めて、私は今この段階にいて、ここから解脱までは速くて3年だみたいなことを言っていたとすれば、それはかなり勘違いしているのではないかと思う。そしてまあ天国だの、煉獄だの、地獄といったものも、ダンテがその創造力で詳細に劇的に謳いあげてはいるが、まやかしでしかない。
おそらくは「全部きれいに説明がついてほしい」というのであれば、問い掛けを途中で止めればよいのだろう。教義とはそのためのものであって、ただ信じるためのものであって、そのことに疑問を感じてしまうのは信仰ではない。そのような人には、「安住の地」であるとか、「約束の地」なんてものはない。死ぬまで説明がつかない世界を、あるいは無条件に与えられている世界そのものを信じていないならもっと別のものを、求め続けることになる。どこまで行っても終着点がない、探究心を持ち続けるなら、そうなる。そして「なんのために生きるのか?」という問い掛けも、自信を持って信条を語る他人も、実際のところどうでも良くなってくる。気がつけば、ニヒリストにされていたり、ペシミストにされていたりする。
河合「人間というのは、いうならば、煩悩をある程度満足させるほうをできるだけ有効化させようという世界を作ってきとるわけです。しかもとくに近代になって、それがずいぶん直接的、能率的になってきてます。直接的、能率的になってくるということは、そういうものに合わない人が増えてくるといいうことですね、どうしても。そういうシステムがいま作られているわけです。だから、そういう『合わない』人たちに対して我々はどう考えていけばいいのか。それに対してひとつインパクトを持ちうるのは芸術とか文学とか、そういうもんですね。これは非常に大事なものなんですが、でもそれもできない人がいますね。そういう人たちのためにどうするか。これはむずかしいことです。ただそう考えていきますと、生活保護みたいなのがあるんやったら、そういう人たちのために補助金を払うのは当たり前やないかという気がしますね。補助金をあげますから、まあ楽しく生きてくださいと。」
シホンシュギは資本の自己増殖を効率的に実現するよう洗練されて行く。
効率的でないものは淘汰されてしまうので、効率的なシステムが生き残り、資本を獲得し、買収し、勢力を拡大していく。勝てば勝つほど、どんどん強大になり、世界に確固たる地位を築く。そして効率化し、有効化し、直接的、能率的な同類を増やし、ますます世界はその傾向を強めていく。私たちは「遺伝子」のキャリアであると共に「資本」の担い手でもあるが、遺伝子も資本も私たちのことを考えてはくれない。私たちの心というのは自動操縦するための仕掛けであり、遺伝子と資本の増殖に活用される。あるいは利用されているというふうにも書いてみたかったが、結局のところ、遺伝子や資本に意志があるわけでもない。そのような自己増殖に活用されるのは嫌だという人たちが「合わない」人たちであるかもしれない。政治家も経済学者も「経済成長」が最優先事項らしいが、それはつまり資本の自己増殖を信仰していることになる。そのシステムに合わないというのは効率化とは反対の方向の無駄ということになるのだろうか?
システムに合わない人たちを税金の無駄遣いで救済するというのは、「資本の効率的な自己増殖」のために生きている人にとっては耐え難いことだろう。