140億年の孤独

日々感じたこと、考えたことを記録したものです。

仏教早わかり百科

2014-09-27 00:05:21 | 仏教
「旧約聖書を知っていますか」「コーランを知っていますか」のような
入門書が仏教については見あたらない。
「コーランを知っていますか」と聞いたなら知らない人がほとんどだと思うが
「仏教を知っていますか」と聞いたなら表向きは知っていますという人がほとんどだろう。
だが中身はよくわからない。知っているけど知らない。仏教とはそんなものだ。
お金が尺度の世界で暮らしていると知らない間に無宗教になってしまう。
そんな生活があたり前だと思っている人間には宗教はとっつきにくいもので
キリスト教もイスラム教も仏教もすべて敷居が高い。
日本は昔から仏教国ということになっているが私たちは仏教に馴染んでいるわけではない。
葬式の時に作法を知らないので困ってしまうとか、そんな程度なのだ。
そして気位の高い僧侶たちはお布施をもらうなんて惨めなことはするはずもなく
葬式を収入源として暮らしている。
放っておいても人は生まれて来て死んで行くので産婦人科と坊主には失業というものがない。
そのように形骸化した信仰というのはなんという悲惨だろう。
そして釈迦のひとつの教えに対してなんという宗派の数だろう。
それら宗派が互いを否定し合うのであれば真っ当な宗派はひとつとして残らないだろう。
教義よりも自分の解釈が優先するという浅ましさ
そういうあれこれの理由が私たちを仏教から遠ざけている。
聖書やコーランのように宗教を代表する経典が何であるか問われて答えられる人は少ない。
如来・菩薩・明王・天のように神々の数が多くてよくわからない。
悟りとか涅槃とか興味が持てそうにないことばかりだ。
まったくのところ病んでいる。
この国では僧侶は檀家の数を減らすまいとしてがんばっている。
お前たちは人を救うために生きているのではないのか?
それとも人が死ぬのを待っているのか?

釈迦(ゴータマ・シッダッタ)は摩耶夫人の右わきから生まれたのだという。
なぜに「右わき?」
イエスがマリヤの右わきから生まれていたのだとしたら
キリスト教徒はイスラム教に改宗したくなるのではないだろうか?
あぁ、右わきから生まれた教祖・・・
なんかいじめられそう・・・
あぁ・・・
そのようにして生まれた釈迦は東西南北の四方に向かって七歩ずつあゆんだ後に
「天上天下唯我独尊」と宣言したのだという。
「天にも地にもただ我ひとり尊い」という意味なのだという。
物語としては「エリ、エリ、ラマ、サバクタニ」の方が良いのではないかと思う。
「私は尊い」と、だから何なのか?

そしてシッダッタは幼少にして弱肉強食の世を知ったのだという。
「掘り起こされた土の中からは小さな虫が顔を出していた。
するとそこへ小鳥が現れ、虫をくわえて飛び去った。しかしその小鳥もまた、
猛禽の爪で挟み込まれ、どこかへ連れていかれてしまったのである」
「これが自然の法則とはいえ、我々の世界はひとつの地獄にすぎないのだ」ということらしい。
食う食われるの関係が進化を加速した結果として「地獄」を思考する生物が誕生した。
世界の捉え方としてはその方が適切なのではないかと思う。
食べることが地獄であったとしても私たちは死ねない。
この世が地獄であったとしても死ねない。

出家して苦行を続けていたゴータマ沙門(出家修行者のことを沙門というそうだ)であったが
「真理をとらえるためには、極端に偏ってはいけない。その中程を貫く過程―――
中道が大切なのである」という思想にたどりつく。
その後、目覚めを妨げるために、富、権勢、美しい娘など、あらゆる手管で挑戦してくる
悪魔に打ち勝ったゴータマ沙門は
出家してから六年目の三十五歳の時に真理に目覚め
「仏陀」となったのだという。

「そこで、仏教とは何か? と考えるとき、大乗仏教ではまず、宇宙仏の存在を忘れてはならない。
大乗仏教の仏とは、宇宙そのものであり、宇宙の真理とでもいうべき仏陀である。
この仏陀が真理を説き、教えを説いているのである。
しかし、宇宙仏は姿、形がなく、そのままでは教えを説くことはできない。
そこで仏陀が人間である釈迦に姿を変えてこの世に登場した、と考えられている」
ヤーウェとイエス
アッラーとマホメット
仏陀と釈迦
そんなふうにして神や仏の教えを伝えるのが預言者という構図は変わらない。
ヤクザの親分の言葉を取り次ぐチンピラはそれなりに偉いのだ。
しかし神という権威を借りてこなければ真理を説くことができないうのであれば
神と真理はセット物であり同語反復ではないかと思ってしまう。
神が語るから真理、それだとなんか寂しいな・・・

此岸(しがん)に住む私たちは幸せになれないのだという。
「生まれること、生きること(生)、老いていくこと(老)、病気になること(病)、死ぬこと(死)は、
誰もが避けて通ることのできない『四苦』であるという」
そのほかにも愛別離苦などの四つの苦があり、
この世は「四苦八苦」という苦しみに満ちているのだという。
確かに「四苦八苦」というのは文字を見るだけでも視覚的にげんなりする。
そこで幸せになるために「彼岸に渡れ」というのが仏教の基本メッセージなのだという。
そして物事はすべて「空」であるというなにやらよくわからないものが登場する。
「大乗仏教では老も病も死すらもこわくない。なぜならすべては『空』だからである」と
そんなふうに考えるらしい。
キリスト教では不死を求める人々に隣人愛を説き来世を与える。
イスラム教では不死を求める人々の素行はすべて天の帳簿に記録され褒賞として楽園が与えられる。
仏教では人々の苦しみを取り除くために空を説き何も与えない。
輪廻を前提としているのであればもともと来世は担保されているのかもしれない。
仏教では最後の審判はなく終り無くただグルグルと廻っている。
もしかするとニーチェの円環もこのことかもしれない。
そうすると道徳が一人歩きして超自我にまで発展するのはキリスト教だけという感じがする。
すべては空であると言ってしまったら何も発展しないような気がする。
そのような思想が蔓延したアジア各国は科学を発展させたキリスト教国に踏み躙られる。
原子の半径は10のマイナス10乗メートルで原子核の半径は10のマイナス15乗メートルだったと思う。
10のマイナス15乗メートルの原子核の周りを10のマイナス10乗メートルの軌道で電子が廻る。
その間には何もない。「空」なのか?
そこにモノを、この場合のモノとは原子核になるが、詰めようと思っても
モノどうしが電気の力で反発してしまい近づけることが出来ない。
たとえば重力が極めて強い場合は電気力に打ち勝ち、その結果として中性子星が出来るという。
それはおそろしく高密度の天体だ。きっと宇宙仏さんは知らない。
とにかく「中身がある」とか「モノが混ざらない」というのは物質が電気力で結合していると
そういうことであって「何かに満たされている」ということではないらしい。
「原子核とはなんぞや?」ということを問題にしてみよう。
陽子と陽子がそんなに接近したら電気力で反発するのではないかと普通は考えるものだが
中学や高校の先生は私たちが疑問を持たないようにしれっと「原子核」を説明する。
実際には原子核内部の狭い範囲でだけ電気力よりも核力(強い相互作用)が強く作用するので
バラバラにならないと、どうもそういうことであるらしい。
何かのきっかけにより原子核で核力よりも電気力が強くなると爆発する。
不安定な原子核は中性子をあてると分裂する。
そのことを利用したのが原子力発電所であり連鎖反応の場合は原子爆弾になる。
宇宙仏はきっと知らないだろう。
関心があると思えない。

「では、仏教では死後の世界についてどう教えているのか? 仏教の基本原理としては
『わからないことはわからないのだと、わかることがわかることである』と説いている。
『わからないことはわからないと、しっかり諦めよ』ということである。
・・・明日のことや未来のことなど、考えてもわからないことをあれこれ考えてもしかたがない、
よけいなことだと教えている。死後の世界についても『考えるな』というのである」
そういうことであればキリスト教やイスラム教とはやはり違うのだろう。
進化しすぎた生き物が「いつか自分は死ぬ」という事実を受け止めることに耐え切れず
生み出したものが宗教であると思っていたが仏教はそうではないようだ。
妙にリアルで詳細な地獄とか六道はどちらかと言うと創作らしい。
仏教は哲学なのだろうか?

聖クルアーン

2014-09-20 00:05:20 | イスラム教
宗教が人々を救うためのものであるならば
各々の教義の細かい相違を克服し全人類の平和のために協力できるのではないかと
そんなことを夢想してみたりするが、きっと信仰のない者に語る資格はないのだろう。
多神教なのか無宗教なのかすらはっきりしない私たちには
キリスト教とイスラム教が憎しみ合う理由がよくわからない。
それにしてもイスラム教についての資料があまりに少ないと思うのだが
それはすでにキリスト教側に組み込まれてしまっているということなのかもしれない。
キリスト教なのか資本主義なのか金儲け主義なのかよくわからないが
金儲けも科学技術の開発推進も苦手なイスラム教徒から見ればこちらは異常なのだろう。
私たちの偏り具合を検討する場合は私たちの生活と無関係の資料が役に立つに違いない。
そうするとキリスト教を知りイスラム教を知り自分を知ることが出来るのだろうか?
そんなに都合の良いものではないと思うが簡単に手に入る情報は既に偏っている。
通常のバイアスとは違ったバイアスについて考えてみるということは
それなりに有益なことではないかと思う。

私たちが住んでいる国は西側諸国に組み込まれている。
初めは明治維新の時に自ら望んで次に第二次世界大戦の敗戦国として
ジハードを口にする連中はイカレているのではないかと考えたりするが
永遠のゼロを見て感動する連中とそう変わりはないのではないかと思う。
つまり悪気はないのだが利用されやすい。
永遠のゼロを要約すると国のために死ねということではないかと思う。
そのことに気付くまでしばらく時間がかかった。
著者がそうではないと確信して語ったとしても私は確信している。
そしてクルアーンにもそういう部分は多いと思う。
教祖はモーセに心酔しており彼のように劣勢を打開できないかと考えている。
教徒は皆、国のためにではなくて神のためと思って死んで行くのだろうが
実際には特定の勢力の利益のために死んで行く。
そして死んで行く連中のために来世の楽園が用意されている。
楽園にはなんと「果実」もあるし「川」もあるのだ。
とにかくアラビアは暑くて「日陰」と「果実」と「川」に恵まれていないらしい。
清涼飲料水や生鮮食料品の並んだスーパーを当時の人々が見たなら楽園に見えたことだろう。
そして不信仰者や偶像崇拝者どもは地獄へ堕とされる。
地獄にはもちろん「業火」がある。
とにかく熱いのが地獄なのであって八寒地獄なんてきっと彼らにとっては地獄ではない。
そうした地獄に堕とされるぞという警告がクルアーンのあちこちにある。
その聖典には律法も含まれている。
義人には褒賞があり悪人には懲罰があるという非常にわかりやすい内容となっている。
各人の行いはすべて天の帳簿に記載されるのだという。
キリスト教のように考える時間はない。
愛とは何ぞや、信とは何ぞやと考える時間はないし、良心の呵責のようなものもない。
どんなささいなことも天の帳簿に書き留められ審判の日に清算される。
とてもわかりやすいシステムだ。
そこでは三位一体のようなキリスト教徒自身もよくわからないような教義は否定される。
イエスは預言者の一人に数えられるがその神性は否定されている。
ここでキリスト教とイスラム教は互いに相容れないものとなってしまっている。
ダンテがマホメットを地獄に堕としたことはイエスの神性の否定に比べればささいなことだと思う。
そしてキリスト教国に嫌われる次の要素は
クルアーンに出て来る話が概ね旧約聖書のパクリ・改竄であるという点だ。
旧約という呼び方はキリスト教的でありユダヤ教にはもっと違う呼び名があるのだろうが
その旧約を引用して主にユダヤ人をバカにしたりもしている。
そしてバカにされたユダヤ人が19世紀に渡る流浪の末にパレスチナを占領し
イスラエルを建国したのでますます話がややこしくなっている。
とにかくユダヤ教徒もキリスト教徒も自分たちの聖典を勝手に改竄した
クルアーンが最も素晴らしい聖典であると語るイスラム教を
その創造力の無さ故に軽蔑するだろう。

阿刀田さんはクルアーンを「親父の説教」にたとえていた、くどいし物語としておもしろくない。
逆に言うとそのような退屈さあるいは素朴さがイスラム教の良さであるかもしれない。
世界史においてキリスト教国のしてきたことと言えば悪逆非道でしかない。
19世紀から20世紀にかけての帝国主義や植民地もそうであったし原子爆弾を投下したのもキリスト教国だ。
21世紀では資本の自己増殖を唯一の目的とした強欲資本主義が他者の時間と生命を食い尽くしている。
その強欲資本主義と共存しているのがキリスト教だ。
そして彼らは公正な競争をしているなどと言っている。
きっと教義と律法と生活が矛盾するなんてイスラム教徒は考えてはいない。
そんなものは歪んだ宗教であり、あるいは宗教ですらないと彼らは考えているだろう。
そう、私たちは跪拝のない生活をしている。
私たちは教義と関係のない生活をしている。
そして自分が生き延びるために他人を不幸にすることを厭わない。
それは公正な競争の結果なのだと必死に説明する。
キリスト教徒は教義に背いて暮らし
キリスト教徒ですらない私たちは教義と無関係に暮らす。
それは真理とは関係のない、真理とはかけ離れた生活だとか人生だとか言われるかもしれない。
資本主義の崇拝者は真理など必要ないと考えているだろうし
哲学の崇拝者は真理という言葉に魅力を感じなくなっている。
イスラム教から見ればどちらも同じ退廃した人々なのだろう。
そんなどうしようもない連中は矯正する必要があるのだろうし
そんな奴らに世界を支配されるなんてアッラーがお許しになるはずはないのだろう。
だがアッラーは武器を与えてはくれない。
アッラーは見ていなくともアメリカの衛星はより小さなミサイルの熱を感知し
どこで何があったかを瞬時に知ることが出来る。そんな連中を相手に戦うことなんて出来ない。
戦力の差が歴然となった今となっては聖戦の意義すらない。
キリスト教国は核兵器や化学兵器など彼らの脅威になる武器がイスラム教徒に渡らないよう
最新の注意を払っている。
イスラム教国は何かあると疑いをかけられ戦争を仕掛けられ
後になって大量破壊兵器はありませんでしたなどと言われる。
そうした国際社会に正義なんてあるはずもないが誰も咎めはしない。
国際社会も正義もキリスト教国のものなのだ。
イスラム教徒はキリスト教徒化してずる賢くならなければ勝てはしない。
だがそんな勝利に意味などないだろう。
その通りだ。意味などない。

宗教は本当に人々を救えるのだろうか?
宗教は争いの原因になっているだけではないだろうか?
その争い故に宗教は不幸の原因になっているだけではないだろうか?
信仰のない私はそんなふうに考える。

・・・イスラム・インターナショナル・パブリケーションズ「聖クルアーン」を読んだ。
値段が書いていない。非売品なのだろうか?
日本にいるイスラム教徒は推定で5万人に満たないようなので買う人もいないのだろう。
ところで「クルアーン」とは日本語で「コーラン」のことだ。
そう発音する方が近いそうだ。

「全ての知恵と英知の源である神が人間をお創りになったという事は取りも直さず、
人がたった60年や70年生きた後に塵に返るべく創られたのではないという事である。
それどころか、人は、その霊魂の仮の宿である肉体から抜け出た後に生きなければならない、
より良い、より充実した永遠の生命の為に創造されたのである」
第二章牝牛29節の注釈にそのように書かれている。
宗教は不死を提供する。死に怯える者たちに永遠の生命を約束する。
死者は死後の世界について不満を言ったりはしないので天国の評判が落ちることはない。
信じなかっただけのことで自分だけが死後の世界に行けないのは悔しい。
そんなふうにして不死を求める人々が群がる。

第三章イムラーン家で「イエスの神性という誤った教義は論破される」のだという。
「神のみの特権である『死する事がない』ということがありえなかったイエス」は
神ではないということらしい。
ノアとかアブラハムとか多くの預言者が神と人間の間を取り次いできたが状況は変わらなかった。
絶対者である神と死すべき人間とのあいだには深淵が横たわり続けた。
キリスト教ではその溝を埋めるのが救世主(メシア)の役割であったろう。
その時に人性と神性を共有した存在が必要とされたのではないだろうか?
あるいは不死や復活とはどういうことかについて人間の立場にたった説明が必要だったかもしれない。
預言者がその想いを満たしてくれないならば人々は次の預言者に期待するだけなのだ。
その連鎖を断ち切るための存在がイエスではないだろうか?
その説明のための教義が三位一体だが素朴に生きる人間にはわかりにくい。
いつの間にか教義を授ける教会が偉いのだということになっていたりする。
キリスト教というのは権威主義的な色彩が強い。
十二使徒であったり数え切れないほど無数にいる聖者であったり
そんな人たちに順々に頭を下げるのはきりがないので
絶対者である神のみに従いたいと素朴な信者は考えるかもしれない。
いつまでたっても終末が訪れないので教会はほくそ笑んだのだ。
教徒の弱みを握って世界を支配できるだろうと・・・
そのようなつまらない教義はすこしのあいだ席を外しておいてもらえないだろうか・・・
二千年の間に為された堕落とは無関係の人々にとってイエスの神性は犯しがたいものだろう。
イスラム教にそのような人々の想いまで踏み躙ることは出来ないだろう。
攻撃するのは教会だけにした方がよい。

「もしお前たち孤児を公正に扱い得ざる恐れある場合、良しと思う女を娶るがよい、
二人なり、三人なり、四人なり。されどもし公平に扱い得ざるを恐れなば、ただ一人の女か、
或いはお前たちの右手が所有するものを娶れ。こは不公平を避けるための一番の近道なり」
第四章女第4節に書かれている。
注釈には「イスラム教は、一人の男が妻を一度に四人まで持つことを許している。
(そうするように指示したり、奨励しているのでは決してない。)
これは、孤児に関して許されているのであるから、社会の中で無視されている階層をどうするかという
問題にまずその源があると理解すべきである」と書かれている。
孤児について許されているのであれば、一人の妻が四人の夫を持ってもよいのではないかと思う。
孤児についてだからとか、預言者だからとか、特例を認めるのが好きな神様らしい。
だが孤児を援助するための方法は結婚以外にもいろいろあるはずだ。
民の生活に何かと干渉してくる神様であればそういう助言をしてあげればよいのだ。
ユダヤ教の神も一夫多妻を認めているようなのでイスラム教は仲良くできるのではないかと思う。
つまりは何か高尚なことを語っているつもりかもしれないが個人の思惑が見え隠れする。
孤児を助けるためなのだから、ちょっとくらい快楽に身を委ねてもよいだろう。
そんなふうに現世を過ごそうとする姿勢は来世であるとか永遠を語るには相応しくない。
語れば語るほど醜さを露呈する。

「お前たち挨拶されたなら、更に良き挨拶するか、少なくとも同じ程度の挨拶を返せ。
げにアッラーは一切を清算し給う」
第四章女第87節にはそのように書かれている。なんと清々しい神であろう。
まことに人々の暮らしは挨拶から始まる。
挨拶を無視すると人格を無視することにつながり人間関係が崩壊する。
もう一歩進んで自分から挨拶せよと命じる方がよいかもしれない。
それにしても挨拶まで帳簿に記録されるのだろうか?
なんといっても「一切」ということなので・・・

「お前たちに禁じられたものは、死骸の肉、血、豚肉・・・」
第五章食卓4節で食べ物に関する禁事が述べられる。
イスラム教では豚は禁止されている。
ほんの少しエキスが入っているだけでもダメということだ。
宗教と食事はもともと密接な関係があったはずだがキリスト教では緩和されている。
ユダヤ教ではいろいろと禁止されていたと思う。
キリスト教は世界宗教に発展する中で教義を緩めてきた。
ユダヤ教の割礼についてもパウロさんがそんなことはしなくてもよいとのたまわれた。
教祖の誕生日も太陽の誕生日である冬至に設定したりした。
布教のためにはなんでもありなのかキリスト教という感じがする。
ユダヤ教のナザレ派から出発し長い年月をかけて
コンスタンチヌス大帝が帰依するまでとにかく生き延びた。
たったひとつイエスの神性については妥協はしなかった。
イスラム教は厳格な規律を維持してきたように思える。
クルアーンが唱和され教義と一致した生活にあっては厳格というのはあたらないかもしれない。
宗教と生活が一致している状態なんて信仰のない私たちにはわからないのだ。
それはかなり幸福なことかもしれない。

「アッラーがかく云わん時を思え。『マリアの子イエスよ、汝は人々に、『我と我が母を
アッラーの外に二柱の神として崇めよ』と告げたるか?
イエスは答えん。『汝至聖者よ、我何すれぞ云うべからざることを云わんや』・・・」
第五章食卓117節に書かれている。
注釈には「当書で、’私はできません’と翻訳されている箇所のアラビア語表現のその他の
解釈の仕方は、’私にはふさわしくない’或いは’私には不可能であった’或いは
’私にはそうする権利がない’等となる。よってここでの「云うべからざる」は、
私が言うにふさわしくないという意になる」と書かれている。
まったく何の意味だかよくわからない。
「私には権能がない」とイエスに言わせていると書けばよいのに
ぼかしたつもりなのだろうか?
クルアーンは神の啓示であり完璧ということらしいので部分削除もできないだろうが
こんなことをイエスに言わせるということ自体が神の所業とは思えない。

「しかるに悪魔(サタン)が彼等に囁いて、彼等に見えざりし恥部を彼等に知らしめ、
而して云えり、『主がお前たちにこの樹を禁じたるは、お前たちを天使または
不老不死者たらしめざらんがためなり』と」
第七章高壁21節に書かれている。
旧約聖書で蛇がイヴを唆した話はクルアーンではサタンがアダムとその妻に
直接話しかけたということになっている。とてもわかりやすい構図だ。
だが「蛇」はいったい何なのか考える余地を残してもらった方が私は好きだ。
「悪いのはすべてサタンのせいなんです」
そうすると話がそこで終ってしまう。
蛇は無意識なんですよーとか、そんな話が好きだ。

「われらの神兆が彼等に読誦されるや、彼等は云う、『我等はすでに聞けり、もし我等欲しなば、
これと同じことを云い得べし。これはただ古人の物語にすぎず』と」
第八章戦利品32節に書かれている。
注釈には「信仰しない者達は、クルアーンのような話など、自分達も作れると豪語していたが、
これはただのからいばりである。実際に、彼らは何も作りはしなかったし、
未だに、短い一章すらできてはいない」と書かれている。
日本語訳はそれほどでもないがアラビア語で書かれたものはきっと素晴らしいのだろう。
縁の無い話で残念だ・・・

「汝、彼等のために赦しを請おうが請うまいが、たとい七十度彼等のために赦しを請うとも、
アッラーは決して彼等を赦さざるべし。これ彼等がアッラーとその使徒を信ぜざりし故なり、
アッラーは不実な人間を導き給わぬ」
第九章改悛80節に書かれている。
キリスト教では七の七十倍だか、七の七十七倍まで許すことになっていたと思うが、
イスラム教では七十度赦しを請うとも、赦されない。
キリスト教に比べると七の七十倍の七十倍程度は厳しいということだろうか?
一度信者になったら、二度と改宗できないということらしいし
だが人間は間違うものだからきっと許してくれると思う。
許しじゃなくて赦しか?・・・

「地上における生きとし生けるもの、みなその食物をアッラーに頼らざるものはなし。
彼はそのしばしの滞在場所も、常住所も知り給う。百事は載せて明快なる経典にあり」
第十一章フード7節に書かれている。
注釈には「神は、神のあらゆる創造物の為に、食物を用意された」と書かれている。
進化論によると「喰う喰われる」の関係が生物の進化を加速してきたのだという。
植物のように光合成を行い自分自身で生命維持のためのエネルギーを得るよりも
他の生物を利用した方が手っ取り早い。
そのためにセンサーである目や移動手段である鰭や足が発達してきたのだという。
体内のすべての細胞に栄養と酸素を供給し老廃物を回収する仕組みも発達した。
それらすべてを集中制御するための仕組みはやがて思考する肉(脳)へと発展した。
その肉が今では食べ物を恵んでもらっているのだと言ったりする。
そうした感謝の気持ちは大切かもしれない。
だが食べ物に感謝すると共に炭素や窒素や酸素を循環させている微生物にも感謝した方がよい。
死んだ生物が分解されなかったなら新しい生命も食物も得られない。
生命とは各元素が循環するシステムに支えられている。
あるいはそれが神かもしれない。

「敬虔なる信者に約束された楽園をたとうれば、かくの如し。河川その中を流れて、
常時果実が実り、されば樹下に日陰あり。こは正義者への褒賞なり、されど信ぜざる者どもへの
応酬は、業火なり」
第十三章雷36節に書かれている。
楽園の三大要素は清涼感を漂わせる「河川」「果実」「日陰」であり、
地獄の要素はただひとつ「業火」となっている。
アラビアの日常生活においてはとにかく暑いのはイヤなのだろう。
死んでまで暑いのはもっとイヤなのだろう。

「われらが彼等の或る種の者に、束の間の楽しみ―すなわち現世の栄華―を与えたことに
汝目をみはるなかれ―あれは要するに、それによって彼等を試さんがためなり」
第二十章ター・ハー132節に書かれている。
注釈には「戦争、そしてひいては人間の悲惨・流血につながる国家間のねたみ・対立は、
人間が物質的豊さ・快適さを貪欲に求めたことによる直接的・間接的な結果である。
イスラム教信者は、他人の富をうらやんではいけない」と書かれている。
イスラム教信者は妬んではいないのかもしれない。
「福なるかな」ですな・・・
戦争でなくても人間は富をめぐって争い続ける。
利益と売上げを拡大できる者が現代においては神の如き振舞いを許される。
判断の是非も利益の増大に依存している。
そのことが非難されると「じゃあ戦後の貧しい時代に生きてみろ」なんてことになる。
現代では貪欲に快適さを求める人々を利用することで利益と売上げを拡大できる。
「河川」「果実」「日陰」に満足するのであればマシだが
「冷暖房」「飽食」「見てくれ」「感動」「つながり」といった一次的欲求を満たす者が
富と地位と名誉を手にすることができる。
そんなもの別に欲しくもないが、ほんの僅かな糧を得るために巻き込まれてしまう。
自給自足で生きていける世界ではない。
自分達だけが簡素に生きていけるわけではない。
イスラム教徒はどうなのだろうか?

「女の信者たちに、その眼を抑え、陰部を護り、やむを得ず外に露われたるところ以外は
その美しさや飾り物を人目に触れさせてはならぬと云え。而して、そのヴェールを胸まで垂れ、
己れの夫、又は父、又は夫の父、又は己れの子供たち、又は夫の子供たち、又は兄弟、
又は兄弟姉妹の子供たち、又は行儀正しい女たち、又は己れの右手が所有する、
又は性欲なき子供の下僕、又は女の恥部に関心を持たぬ幼児を除き、その美しさや飾り物を
人目に触れさせることなかれ。また、彼女たちの隠れたる飾り物を人目に触れるほどに、
その脚を印象づけることなかれ。汝等信徒たちよ、相い集いてアッラーにお縋り申せ、
栄えんがために」
第二十四章光り32節に書かれている。
「女の信者たちに、・・・人目に触れさせてはならぬと云え」ということだから
女性に対して語りかけているわけではない。
また、「性欲なき子供の下僕」や「女の恥部に関心を持たぬ幼児を除き」という表現から
美しさは性欲の対象であると考えていることが推測できる。
そのような卑しい考えは神に相応しいと言えるだろうか?
それで無意識の化身である蛇がそそのかしたというのではなく
サタンが直接的に悪へと誘うということになる。
性欲の対象が悪いのであって性欲が惹起されるのは仕方がないということだろう。
そうした考え方はキリスト教とはやはり正反対なのではないかと思う。
きっと教会や天使といった超自我に見張られるキリスト教徒の方が不幸に違いない。
ヴェールで隠してもらいたいのはキリスト教徒の方かもしれない。

「汝の心に降りたるは、汝をして警告者たらしめんがためなり」
第二十六章詩人195節に書かれている。
注釈には「クルアーンのお告げはモハッマド預言者が、授けられた啓示を自らの言葉で
表現したものではなく、ガブリエルを通してモハッマド預言者の心に下された
神御自身の言葉であった」と書かれている。
なんだ、ここでもガブちゃんか・・・
受胎告知でマリヤムのもとを訪れたのもガブちゃんだったし忙しいこったな。
大天使長なのに部下はいないのかと思ってしまう。
がんばれガブちゃん!
ミカリンも!

「正しき道を守る者」
第三十六章ヤー・スィーン5節に書かれている。
注釈には「この節は、預言者と哲学者の差異を明確に述べている。哲学者は真理を見い出すのに
長い時間を必要とし、追求最中に迷う事も度々ある。しかし、神の預言者は、最少の時で、
最短距離を経て真理に到着する。哲学者の様に抽象的で難解な思考にさまよう事もなく、
預言者は神の啓示に導かれて直接真理に到達するのである」と書かれている。
真理という言葉、あるいは真理を得るという状態を大切に思うのであれば、
最短距離の真実に身を委ねるのがよいかもしれない。
近年の哲学者は真理に酔いしれるほど幸福ではない。
論理的に正しいと呼べる事は神とか無限とは相容れない事であり
そのような単純な事をわざわざ真理と呼ぶのも憚られるような事態となってきた。
その思考とは真逆にして抽象的に飛躍して神を語るのも有りかもしれないが
私はそういうのは好きではない。
真理を説く者というのは思考の限界に挑戦するということがない。
人間をバカにしているのはそういう人たちの方だ。

「さて、その子が、アブラハムと共に走り廻れる年頃に成長した時、アブラハムは云えり、
『愛する息子よ、我は汝を犠牲に供えることを夢に見たり。されば、汝、これをどう思うか?』と。
息子は答えて、云えり、『父上よ、命ぜられた如くなしたまえ。アッラーの思し召しなら、
我よく耐え忍ぶ者なることを父上に証明せん』と」
第三十七章整列者103節に書かれている。
注釈には「アブラハムがどちらの息子を生けにえに捧げたかという点で、クルアーンと聖書は
意見を異にしている。聖書はイサクであったと述べ、一方クルアーンはイシュマエルであったと
明記している」と書かれている。
イシュマエルは「アブラハムの長男。アブラハムの妻サラの所有していたエジプト人の
女奴隷ハガルとの子」であり「全てのアラブ人の先祖」とみなされている。
イサクはイシュマエルが生まれた後に、高齢のサラから生まれたユダヤ人の直系であり、
ダビデ・ソロモンにつながる。
長男と次男、庶子と嫡子、妾腹と本腹の対決がすなわち、
アラブ人とユダヤ人、クルアーンと聖書の対決につながっている。
なんかつまらないことで言い合いになっているなと感じる人が多いと思う。
どちらもアブラハムの子ではないか・・・

第五十六章不可避より
1.慈悲深く、恵み遍くアッラーの御名において。
2.不可避なること起る時、
3.何人もその到来を嘘なりと云う能わず。
4.すなわち、或る者は貶降され、ある者は賞揚されん。
5.大地が激しく震撼する時、
6.山々はこなごなになり、
7.塵埃の如くなりて四散せん。
8.その時お前たちは、三つの組に分けられん。
9.最初に右手の人々、彼等はなんと幸せなるかな!
10.次に左手の人々、彼等はなんと不幸なるかな!
11.先頭の人々は、一番義しかりし信者たち。
12.彼等は神のそば近くに席を占めん。
13.彼等は至福の楽園に住まん。
14.そは初期のムスリムに多く、
15.後世の者は少なく、
16.金や宝石をちりばめた搨牀の上に、
17.相対して倚座す。
18.年とらぬ少年たちが給仕にまわる、
19.高坏や水差しや流泉から汲みたての盃をささげて。
20.彼等之を飲むとも頭痛がせず、また泥酔することなく、
21.果実はお好み次第、
22.種々の鳥肉も望みのまま。
23.また目もとすずやかな美しい処女らは、
24.恰も秘蔵の真珠の如し。
25.こは彼等の善行の報いなり。
26.彼等はもはや無益な話も、罪つくりな話も聞かざるべし。
やはり「果実」は必須のようだ。
「鳥肉」と「処女」が「善行の報い」というのもどうなんでしょうか?
「来世」というよりは「現世」の幸せのような感じがする。
「地獄」の苦痛も「現世」の苦痛なのだろう。
そんな褒賞と懲罰がないと「善行」はないのだろうか?
「善行」という行為の中には喜びは含まれていないのだろうか?
「天国」は「隣人」の中にあるのではなかったのだろうか?

「われらはそのすべてを帳簿に記載せり」
第七十八章知らせ30節に書かれている。
やはり「帳簿」がポイントなのだろう。

「お前たちの富への執着は異常なり」
第八十九章暁21節に書かれている。
注釈には「金銭に対する極端な執着は、良い目的の為には使わず、唯、ひたすら自分の財産を
増やしたいという節度のない欲望を、人の心に生じさせる。それは、財産獲得の為には手段を
選ばない様に人を変え、人の道徳的退廃をもたらす。イスラム教は、個人と同様、
社会の道徳の健全さにも非常な配慮を示す。社会が健全である為には、物が広く行き渡り、
富がゆるやかに循環する事が必要である」と書かれている。
キリスト教国においては、富を手にした者は名声も手にすることが出来る。
そういう者が、さらには優れた人格者であるとみなされ道徳的勝利をも手に入れることが出来る。
そのような二重の勝利を得ようとするあつかましさにニーチェは呆れたのだった。
キリスト教国において、思惟のないところで頻繁に起こる出来事だが、
イスラム教国において、そういうことはないのかもしれない。
強欲に支えられた競争により科学も経済も発展する。
その力をもとにキリスト教国は異教徒を踏み躙ることが出来る。
数多くの同胞を踏み躙ってきたのだから
異教徒のことなど気にしないのだろう。

「地面に臥す貧者を養うことなり」
第九十章邑17節に書かれている。
注釈には「人の道徳性を向上させる二つの方法を述べている。
(1)奴隷解放。つまり、社会の抑圧された階層をこの世で同等の仲間にまで引き上げる事。
(2)孤児や貧しい人々が、自立し、社会に役立つ一員となれる様手助けする事」と
書かれている。
富が分配される事が事前にわかっているのであれば努力をしないという人々がいる。
このため競争社会は正当化され、貧しい者は努力をしない者ということにもなる。
生活保護は税金で賄われている。
誰が正当に貧しくて、誰が不当に貧しいのだか、区別できない。
そして一方では働いても働いても貧しい奴隷のような人々がいる。
働いた時間に比例して所得が増えるわけではない。
付加価値を創出する人、利益をもたらす人の所得が増し、富が蓄積して行くことになる。
そのような事態においても「道徳性」は富者についてまわる。
彼らは人格もすぐれていることになっているからだ。
何かがおかしい・・・
そこで結局は褒賞とも懲罰とも縁を切った個人の生き方の問題となる。
クルアーンや聖書に書かれていなくとも
私たちは試されている。

名古屋フィル#39マルティヌー交響曲第1番

2014-09-15 00:05:53 | 音楽
第416回定期演奏会、曲目は以下の通り
スメタナ: 歌劇『売られた花嫁』序曲
ドヴォルザーク: ピアノ協奏曲ト短調 作品33, B.63
マルティヌー: 交響曲第1番 H.289

生没年は以下の通り
ベドルジハ・スメタナ:1824年3月2日 - 1884年5月12日
アントニン・ドヴォルザーク:1841年9月8日 - 1904年5月1日
ボフスラフ・マルティヌー:1890年12月8日 - 1959年8月28日

三人ともチェコの作曲家だ。
スメタナ、ドヴォルザークの郷愁的な作品のファンである日本人も多いと思う。
聞き流そうとしても心にひっかかってしまう。
今回のピアノ協奏曲も望郷とか憧憬と形容したくなる旋律に満ちていた。
マルティヌーの曲は今回、初めて聴いた。
いちおう演奏の1週間前からYouTubeからダウンロードした曲で予習していた。
難しいわけではない。20世紀の作曲家としては古典的かもしれない。
物足りないといえば、そうかもしれない。
前回のコンサートで演奏中に携帯を鳴らした馬鹿者がいたので
今回はやたらと電源を切れというアナウンスが繰り返されていた。
私としては演奏直後の「ブラヴォー」ほど興醒めなものはないので
これも禁止して欲しいのだが無理みたいだ。
今回もそういう無神経な人がいた。きっと自分が感動することに夢中なのだろう。
すべてが古典的というわけではないのだから
創意工夫されたところを見つけ出しては喜びを感じるとか
そんな楽しみ方があっても良いのではないかと思う。
予期しない音の響き方にびっくりするとか
ささいなことに楽しみがあるものだ。

iPod classic生産終了

2014-09-14 00:05:59 | Apple
iPhone 6/iPhone 6 Plus/Apple Watchの発表の裏で
クイックホイール搭載器の生き残りであったiPod classicがラインナップから消えた。
そしてどういうわけか価格.comのMP3プレーヤーの売れ筋ランキングのトップになっており
販売価格が\47,500円という超ボッタクリ価格になっていた。
転売ヤーが買い占めたものと推測されるが実際に転売はキツイのではないかと思う。
1ヶ月くらいすると投げ売りになるかもしれない。
私も1台持っているので、中古の価格も上がっている今が売るチャンスだが、
もともとタッチパネルよりもクイックホイールの方が使いやすいと思っているので
きっと手放せないだろう。
iPhone 6に128GBを用意したのでAppleはそちらに誘導するつもりだろうが
iPhone 6(128GB)の価格はiPod classicの5倍なので
その目論見が当たるかどうかはよくわからない。
一方、Apple Watchは見れば見るほどどういう使い方をするのかわからない。
きっとこれは単純に「時計」なのだろう。
スイスもびびっているそうだ。
Googleみたいに「ウェアラブルデバイス」なんて売り方はしないのだろう。
iWatchではなくてApple Watchなのだから・・・
もともとAppleの販売店とか戦略は高級ブランドに似ていると言われている。
「iPod classicさようなら、Apple Watchこんにちわ」というのは
高級ブランドとしては正しい選択なのだろう。

コーランを知っていますか

2014-09-13 00:05:32 | イスラム教
阿刀田高「コーランを知っていますか」という本を読んだ。
旧約・新約の時と同様、このシリーズから入るのが敷居が低くて良いのではないかと思う。
普段の生活でイスラムに関して入ってくる情報と言えば
「イスラム過激派」がどうとか「イスラム原理主義」がどうとかであり
それがどういう集団なのかもわからず「なんか怖い」で終ってしまっている。
聖書については、なんか深刻そうだけど、関係ない。
コーランについては、なんかよくわからないし、関係ない。
そんなふうにして過ごしてきた。
私は阿刀田さんと同様にキリスト教徒でもないしイスラム教徒でもない。
信じるまではいかないし
信じなければ意味もないのかも知れないけど
ただ単に知りたい。
そんなふうにして旧約を読み、新約を読んで来た。、
そこには何かしら私たちの普段の生活とは違うものがあった。
コーランについても同じようなことが待っているのかもしれない。
アラビア語で表記されないと意味ないみたいなんだけど
神の音楽らしいので音声で聞かないと意味ないみたいなんだけど
とりあえず初めの一歩はなんでもいい・・・

「・・・ユダヤ教もキリスト教も同じ唯一神を仰ぎ、これまでにも神の言葉を伝える
啓典[ユダヤ教の聖典や旧・新約聖書]がくだされ、数多くの預言者[モーセやイエスなど]が
この世に送られて来たが、人々の胸にまだ充分に神の教えが届いたとは言えない。
いよいよ最後にマホメットが現われ、もっとも充実した教典であるコーランがつかわされた、
と、これがイスラム教側の見方である」
そういうわけでキリスト教とイスラム教は同じ神について争っている。
イエスを信じる人々とマホメットを信じる人々で争っている。
「神について一致しているのであればいいんじゃないの?」
というわけにはいかないらしい。

ダンテは神曲でマホメットを地獄に堕としており、その描写が凄まじいこともあり、
「イスラム教徒が怒るのも無理がない」と著者は書いている。
一方でアラーに対してイーサー(イエス)が次のように語っている箇所を引用している。
「あなたに讃えあれ、わたしに権能のないことを、わたしは言うべきでありません」
これはイエスの神性を完全に否定している。
三位一体のキリスト教ではイエスの神性が否定されると何も残らない。
後発の宗教の聖典(?)に自分たちの教祖が登場し「わたしに権能のない」とまで言わせているのだから
キリスト教としては不愉快に違いない。
ただ厳格な一神教を追求すると「人の子」の神性は否定されるのではないかという気もする。
砂漠で駱駝と共に素朴に生きる人々にとって三位一体はむずかしいのかもしれない。
もちろんアジアの東端で多神教の中で生きている人間にとっても難しい。

イスラム教徒が信ずべき六つのものを六信というそうだ。
「アラー、天使、啓典、預言者、来世、天命」の六つ
また、信徒が六信を胸に抱いて実践すべき五つの行為を五行というそうだ。
「信仰告白、礼拝、斎戒、喜捨、巡礼」の五つ
ポイントは「来世」なのだろう。
「そして、もう一つ、私たちは『おぎゃー』と生まれ『くくっ』と息を引き取るまで、
これを人間の一生と考えるが、アラーの教えはちがう。いま述べた一生はただの通過点、
東海道新幹線で言えば東京を出て小田原に着くまでくらい。その先に長い、長い道のりがある。
顕然たる来世がある。そして、ある日、審きの大法廷が開かれ、その主宰者がアラーの神、
現世で神の教えを守って正しく生きた者には至福がもたらされ、悪しき所業の者いは
耐えがたい責め苦が待っている。いい気になって小田原まで神をないがしろにしていると、
それから先は博多といわず、どことも知れない果ての果てまで永遠に苦痛の中に置かれる」
ということらしい・・・
道に迷って「どう生きるべきか」なんて考えてみたところで答えがない。
『今』を生き延びるための機能(意識)はもともと『死』を受け入れることが出来ない。
やがて死んでしまうのであれば、どう生きるかなんて意味がなくなってしまう。
そこで『来世』を約束してくれる神を探し求める。
時間と空間を超越し生死を支配する絶対者こそが『来世』を与えてくれるだろう。
一神教とは『死』を回避するための手っ取り早い手段であるように思える。
信じない者には『来世』はないのだから信じるに限る。
そうやってとりあえずは博多まで行こうと
普通は考えるのだ・・・

サウジアラビアを訪れた著者は感想を求められ、同席した著者の奥さんも感想を求められたそうだ。
「女のかたが家にだけ閉じ込められていて、それで満足なのでしょうか」という感想に対して
「女性たちは男性の保護を受けて幸福にくらしています」という答えが返ってきたため、
「きっとそうなんだと思います。でも、それは男のかたからではなく、女のかたからじかに
聞きたいですよね」と続く・・・
キリスト教は隣人愛を説いている。
隣人を自分自身として愛することで人格が相対化される。
互いの人格を尊重するということで男女間の関係は対等になる。
イスラム教では教祖からして一夫多妻であり
その教祖が正しいとされるので人格を尊重するということにはならない。
その点はとても未熟であるように思える。
ギリシャ・ローマ・エジプトといったヘレニズム文化圏ではもともと女性の地位が高いらしい。
そこで勢力を拡大していかなければならなかったキリスト教はそれを引き継いだだけかもしれない。
・・・しかし、その宗教が、どのようにして合理主義と同居してきたのかよくわからない。
強欲資本主義にしてもキリスト教を信じる人々が生み出してきたのだろうし
帝国主義も植民地も欧州が起源だろう。
そうすると「何が隣人愛なのか?」ということになる。

この本が出た2003年頃には、
世界人口の33%がキリスト教徒、20%がイスラム教徒、13%がヒンズー教徒、6%が仏教徒であったそうだ。
私は6%の中に入っているのだろうか?
あまり自覚はないのだが・・・

ヨハネによる福音書

2014-09-06 00:05:10 | キリスト教
カラマーゾフの兄弟(原卓也訳)の冒頭にはヨハネによる福音書からの引用がある。
「よくよくあなたがたに言っておく。一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。
しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる。
(ヨハネによる福音書。第十二章二十四節)」

新約聖書翻訳委員会訳のヨハネによる福音書の十二章二十四節(番号が振ってある)には
確かに次のように書いてあった。
「アーメン、アーメン、あなたがたに言う。麦の種が地に落ちて死なないなら、
それは一つのままで残る。だが、もし死ぬなら、多くの実を結ぶ」

ある哲学者によればドストエフスキーはそれほど深くないのだという。
だが深いとか深くないとか何を問題にしているのかわからなくなる時がある。
深いとか深くないとかこだわっていること自体が深くないのだと思われる時もある。
結局のところ、その哲学者はドストエフスキーに嫉妬しているのだろう。
「私の方がもっと深いのに・・・」そういうことが言いたいのだろう・・・
そして、どれほど深く考えたとしても死と不死の問題から逃れることは出来ないだろう。
哲学が超越論を扱ったとしても生きること自体を超越することは出来ない。
生身の人間には生活の糧を得るための止むを得ない経済活動が必要だし
立派な精神というものも死を目の前にして挫けてしまったりする。
そういう時に私たちは何かしら大切なものがあったのではないかと記憶を辿ってみたりする。
ドストエフスキーは絶対ではないにしてもそういうもののひとつなのだろう。
引用された福音書もまた大切なもののひとつなのだろう。

イスラム教や仏教とは違ってキリスト教をめぐる文化は変化に富んでいるように思える。
神曲とかマタイ受難曲とかメサイヤとかカラマーゾフの兄弟とか・・・
キリスト教圏では文学や音楽や哲学や科学は他の文化圏とは異なる様相を見せているように思える。
しかし実際は変化しているように見えて循環しているだけなのかもしれない。
「この人を見よ」にしても聖書からの引用ではないか・・・
もしも円環が真理であるならば、その円環の尻尾を掴むことが出来るのかもしれない。
長い時間をかけて振り出しに戻っただけなのだろうか?

「紀元後七十年、神殿を失ったファリサイ派のラビたちは、祭儀の場で行われていたことを
日常生活の中で別な形で表現することにより、つまりかつて国を失った先祖たちがバビロンで
行ったように、外的な掟を遵守することによって、民族の再統合をはかろうとした。
その結果彼らは、外的掟を相対化したイエスの生き方を継承する人々を排除せざるをえなくなった。
こうしてナザレ派と呼ばれた人々はキリスト教徒として、ユダヤ教から独立した宗派を形成することを
余儀なくされてゆくわけだが、その過渡期にあって、自らの根を断たれ、ローマからユダヤ教に
与えられていた様々な宗教的特権を失ってでもイエスの生き方を自分のものにする道を選ぶか否かの
決断を迫られていた。
そのような中でヨハネ福音書の著者は、イエスがどのような意味で神の子、キリストであるかを示し、
自分の信仰を貫徹して、はっきりした決断を下し、それを公にするよう読者に求めているのである」
解説にはそのように書かれていた。

「ナザレ派」が追い込まれた結果としてヨハネ福音書が成立したのであるなら
造山運動によってサバンナに追い込まれた人類の祖先のようなものなのかもしれない。
過酷な環境が強い生命と強い精神を育てる。
その福音書にある言葉に触発されて、とある小説が書かれたのであるなら、
なんという素敵な偶然が連続する世界に私は生きていることだろう。
もっと違った世界があったかもしれないと考えるとわくわくした気分になる。
現在から一つ一つの事象を過去に遡った時には必然のように見えてしまうことが多いが、
そんな官僚的で教会的な事柄がいつも世界を支配してきたわけではないのだ。
創立期とは変わり果てた姿となって中世を支配し君臨するキリスト教
いつの世も人々を窒息させてしまう権威と支配
自由と平等と博愛を我が物にする傲慢
私たちはそんなものに従わなくても良い。
それは素敵な偶然なのだから・・・

「よくよくあなたがたに言っておく。一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。
しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる」
今も昔も変わることなく死と不死の問題が扱われる。
そんなふうにして毎日が過ぎて行く。

・・・
Eilt, ihr angefochtnen Seelen,
Geht aus euren Marterhöhlen,
eilt - Wohin ? - nach Golgatha!
Nehmet an des Glaubens Flügel,
flieht - Wohin? - zum Kreuzeshügel!
Eure Wohlfahrt blüht allda!

急げ、悩める魂たちよ!
責め苦の洞窟から出て来なさい!
急げ-「どこへ?」-ゴルゴタへ!
信仰の翼を身につけて
逃げろ-「どこへ?」-十字架の丘へ!
お前たちの幸せがそこにあるのだ!
・・・
ヨハネ受難曲より抜粋・・・

eilt - Wohin ? - nach Golgatha!
急げ-「どこへ?」-ゴルゴタへ!
flieht - Wohin? - zum Kreuzeshügel!
逃げろ-「どこへ?」-十字架の丘へ!

Wohin ? Wohin ? Wohin ? と迫ってくるところが圧巻
nach Golgatha!というところが
キリスト教・・・