「旧約聖書を知っていますか」「コーランを知っていますか」のような
入門書が仏教については見あたらない。
「コーランを知っていますか」と聞いたなら知らない人がほとんどだと思うが
「仏教を知っていますか」と聞いたなら表向きは知っていますという人がほとんどだろう。
だが中身はよくわからない。知っているけど知らない。仏教とはそんなものだ。
お金が尺度の世界で暮らしていると知らない間に無宗教になってしまう。
そんな生活があたり前だと思っている人間には宗教はとっつきにくいもので
キリスト教もイスラム教も仏教もすべて敷居が高い。
日本は昔から仏教国ということになっているが私たちは仏教に馴染んでいるわけではない。
葬式の時に作法を知らないので困ってしまうとか、そんな程度なのだ。
そして気位の高い僧侶たちはお布施をもらうなんて惨めなことはするはずもなく
葬式を収入源として暮らしている。
放っておいても人は生まれて来て死んで行くので産婦人科と坊主には失業というものがない。
そのように形骸化した信仰というのはなんという悲惨だろう。
そして釈迦のひとつの教えに対してなんという宗派の数だろう。
それら宗派が互いを否定し合うのであれば真っ当な宗派はひとつとして残らないだろう。
教義よりも自分の解釈が優先するという浅ましさ
そういうあれこれの理由が私たちを仏教から遠ざけている。
聖書やコーランのように宗教を代表する経典が何であるか問われて答えられる人は少ない。
如来・菩薩・明王・天のように神々の数が多くてよくわからない。
悟りとか涅槃とか興味が持てそうにないことばかりだ。
まったくのところ病んでいる。
この国では僧侶は檀家の数を減らすまいとしてがんばっている。
お前たちは人を救うために生きているのではないのか?
それとも人が死ぬのを待っているのか?
釈迦(ゴータマ・シッダッタ)は摩耶夫人の右わきから生まれたのだという。
なぜに「右わき?」
イエスがマリヤの右わきから生まれていたのだとしたら
キリスト教徒はイスラム教に改宗したくなるのではないだろうか?
あぁ、右わきから生まれた教祖・・・
なんかいじめられそう・・・
あぁ・・・
そのようにして生まれた釈迦は東西南北の四方に向かって七歩ずつあゆんだ後に
「天上天下唯我独尊」と宣言したのだという。
「天にも地にもただ我ひとり尊い」という意味なのだという。
物語としては「エリ、エリ、ラマ、サバクタニ」の方が良いのではないかと思う。
「私は尊い」と、だから何なのか?
そしてシッダッタは幼少にして弱肉強食の世を知ったのだという。
「掘り起こされた土の中からは小さな虫が顔を出していた。
するとそこへ小鳥が現れ、虫をくわえて飛び去った。しかしその小鳥もまた、
猛禽の爪で挟み込まれ、どこかへ連れていかれてしまったのである」
「これが自然の法則とはいえ、我々の世界はひとつの地獄にすぎないのだ」ということらしい。
食う食われるの関係が進化を加速した結果として「地獄」を思考する生物が誕生した。
世界の捉え方としてはその方が適切なのではないかと思う。
食べることが地獄であったとしても私たちは死ねない。
この世が地獄であったとしても死ねない。
出家して苦行を続けていたゴータマ沙門(出家修行者のことを沙門というそうだ)であったが
「真理をとらえるためには、極端に偏ってはいけない。その中程を貫く過程―――
中道が大切なのである」という思想にたどりつく。
その後、目覚めを妨げるために、富、権勢、美しい娘など、あらゆる手管で挑戦してくる
悪魔に打ち勝ったゴータマ沙門は
出家してから六年目の三十五歳の時に真理に目覚め
「仏陀」となったのだという。
「そこで、仏教とは何か? と考えるとき、大乗仏教ではまず、宇宙仏の存在を忘れてはならない。
大乗仏教の仏とは、宇宙そのものであり、宇宙の真理とでもいうべき仏陀である。
この仏陀が真理を説き、教えを説いているのである。
しかし、宇宙仏は姿、形がなく、そのままでは教えを説くことはできない。
そこで仏陀が人間である釈迦に姿を変えてこの世に登場した、と考えられている」
ヤーウェとイエス
アッラーとマホメット
仏陀と釈迦
そんなふうにして神や仏の教えを伝えるのが預言者という構図は変わらない。
ヤクザの親分の言葉を取り次ぐチンピラはそれなりに偉いのだ。
しかし神という権威を借りてこなければ真理を説くことができないうのであれば
神と真理はセット物であり同語反復ではないかと思ってしまう。
神が語るから真理、それだとなんか寂しいな・・・
此岸(しがん)に住む私たちは幸せになれないのだという。
「生まれること、生きること(生)、老いていくこと(老)、病気になること(病)、死ぬこと(死)は、
誰もが避けて通ることのできない『四苦』であるという」
そのほかにも愛別離苦などの四つの苦があり、
この世は「四苦八苦」という苦しみに満ちているのだという。
確かに「四苦八苦」というのは文字を見るだけでも視覚的にげんなりする。
そこで幸せになるために「彼岸に渡れ」というのが仏教の基本メッセージなのだという。
そして物事はすべて「空」であるというなにやらよくわからないものが登場する。
「大乗仏教では老も病も死すらもこわくない。なぜならすべては『空』だからである」と
そんなふうに考えるらしい。
キリスト教では不死を求める人々に隣人愛を説き来世を与える。
イスラム教では不死を求める人々の素行はすべて天の帳簿に記録され褒賞として楽園が与えられる。
仏教では人々の苦しみを取り除くために空を説き何も与えない。
輪廻を前提としているのであればもともと来世は担保されているのかもしれない。
仏教では最後の審判はなく終り無くただグルグルと廻っている。
もしかするとニーチェの円環もこのことかもしれない。
そうすると道徳が一人歩きして超自我にまで発展するのはキリスト教だけという感じがする。
すべては空であると言ってしまったら何も発展しないような気がする。
そのような思想が蔓延したアジア各国は科学を発展させたキリスト教国に踏み躙られる。
原子の半径は10のマイナス10乗メートルで原子核の半径は10のマイナス15乗メートルだったと思う。
10のマイナス15乗メートルの原子核の周りを10のマイナス10乗メートルの軌道で電子が廻る。
その間には何もない。「空」なのか?
そこにモノを、この場合のモノとは原子核になるが、詰めようと思っても
モノどうしが電気の力で反発してしまい近づけることが出来ない。
たとえば重力が極めて強い場合は電気力に打ち勝ち、その結果として中性子星が出来るという。
それはおそろしく高密度の天体だ。きっと宇宙仏さんは知らない。
とにかく「中身がある」とか「モノが混ざらない」というのは物質が電気力で結合していると
そういうことであって「何かに満たされている」ということではないらしい。
「原子核とはなんぞや?」ということを問題にしてみよう。
陽子と陽子がそんなに接近したら電気力で反発するのではないかと普通は考えるものだが
中学や高校の先生は私たちが疑問を持たないようにしれっと「原子核」を説明する。
実際には原子核内部の狭い範囲でだけ電気力よりも核力(強い相互作用)が強く作用するので
バラバラにならないと、どうもそういうことであるらしい。
何かのきっかけにより原子核で核力よりも電気力が強くなると爆発する。
不安定な原子核は中性子をあてると分裂する。
そのことを利用したのが原子力発電所であり連鎖反応の場合は原子爆弾になる。
宇宙仏はきっと知らないだろう。
関心があると思えない。
「では、仏教では死後の世界についてどう教えているのか? 仏教の基本原理としては
『わからないことはわからないのだと、わかることがわかることである』と説いている。
『わからないことはわからないと、しっかり諦めよ』ということである。
・・・明日のことや未来のことなど、考えてもわからないことをあれこれ考えてもしかたがない、
よけいなことだと教えている。死後の世界についても『考えるな』というのである」
そういうことであればキリスト教やイスラム教とはやはり違うのだろう。
進化しすぎた生き物が「いつか自分は死ぬ」という事実を受け止めることに耐え切れず
生み出したものが宗教であると思っていたが仏教はそうではないようだ。
妙にリアルで詳細な地獄とか六道はどちらかと言うと創作らしい。
仏教は哲学なのだろうか?
入門書が仏教については見あたらない。
「コーランを知っていますか」と聞いたなら知らない人がほとんどだと思うが
「仏教を知っていますか」と聞いたなら表向きは知っていますという人がほとんどだろう。
だが中身はよくわからない。知っているけど知らない。仏教とはそんなものだ。
お金が尺度の世界で暮らしていると知らない間に無宗教になってしまう。
そんな生活があたり前だと思っている人間には宗教はとっつきにくいもので
キリスト教もイスラム教も仏教もすべて敷居が高い。
日本は昔から仏教国ということになっているが私たちは仏教に馴染んでいるわけではない。
葬式の時に作法を知らないので困ってしまうとか、そんな程度なのだ。
そして気位の高い僧侶たちはお布施をもらうなんて惨めなことはするはずもなく
葬式を収入源として暮らしている。
放っておいても人は生まれて来て死んで行くので産婦人科と坊主には失業というものがない。
そのように形骸化した信仰というのはなんという悲惨だろう。
そして釈迦のひとつの教えに対してなんという宗派の数だろう。
それら宗派が互いを否定し合うのであれば真っ当な宗派はひとつとして残らないだろう。
教義よりも自分の解釈が優先するという浅ましさ
そういうあれこれの理由が私たちを仏教から遠ざけている。
聖書やコーランのように宗教を代表する経典が何であるか問われて答えられる人は少ない。
如来・菩薩・明王・天のように神々の数が多くてよくわからない。
悟りとか涅槃とか興味が持てそうにないことばかりだ。
まったくのところ病んでいる。
この国では僧侶は檀家の数を減らすまいとしてがんばっている。
お前たちは人を救うために生きているのではないのか?
それとも人が死ぬのを待っているのか?
釈迦(ゴータマ・シッダッタ)は摩耶夫人の右わきから生まれたのだという。
なぜに「右わき?」
イエスがマリヤの右わきから生まれていたのだとしたら
キリスト教徒はイスラム教に改宗したくなるのではないだろうか?
あぁ、右わきから生まれた教祖・・・
なんかいじめられそう・・・
あぁ・・・
そのようにして生まれた釈迦は東西南北の四方に向かって七歩ずつあゆんだ後に
「天上天下唯我独尊」と宣言したのだという。
「天にも地にもただ我ひとり尊い」という意味なのだという。
物語としては「エリ、エリ、ラマ、サバクタニ」の方が良いのではないかと思う。
「私は尊い」と、だから何なのか?
そしてシッダッタは幼少にして弱肉強食の世を知ったのだという。
「掘り起こされた土の中からは小さな虫が顔を出していた。
するとそこへ小鳥が現れ、虫をくわえて飛び去った。しかしその小鳥もまた、
猛禽の爪で挟み込まれ、どこかへ連れていかれてしまったのである」
「これが自然の法則とはいえ、我々の世界はひとつの地獄にすぎないのだ」ということらしい。
食う食われるの関係が進化を加速した結果として「地獄」を思考する生物が誕生した。
世界の捉え方としてはその方が適切なのではないかと思う。
食べることが地獄であったとしても私たちは死ねない。
この世が地獄であったとしても死ねない。
出家して苦行を続けていたゴータマ沙門(出家修行者のことを沙門というそうだ)であったが
「真理をとらえるためには、極端に偏ってはいけない。その中程を貫く過程―――
中道が大切なのである」という思想にたどりつく。
その後、目覚めを妨げるために、富、権勢、美しい娘など、あらゆる手管で挑戦してくる
悪魔に打ち勝ったゴータマ沙門は
出家してから六年目の三十五歳の時に真理に目覚め
「仏陀」となったのだという。
「そこで、仏教とは何か? と考えるとき、大乗仏教ではまず、宇宙仏の存在を忘れてはならない。
大乗仏教の仏とは、宇宙そのものであり、宇宙の真理とでもいうべき仏陀である。
この仏陀が真理を説き、教えを説いているのである。
しかし、宇宙仏は姿、形がなく、そのままでは教えを説くことはできない。
そこで仏陀が人間である釈迦に姿を変えてこの世に登場した、と考えられている」
ヤーウェとイエス
アッラーとマホメット
仏陀と釈迦
そんなふうにして神や仏の教えを伝えるのが預言者という構図は変わらない。
ヤクザの親分の言葉を取り次ぐチンピラはそれなりに偉いのだ。
しかし神という権威を借りてこなければ真理を説くことができないうのであれば
神と真理はセット物であり同語反復ではないかと思ってしまう。
神が語るから真理、それだとなんか寂しいな・・・
此岸(しがん)に住む私たちは幸せになれないのだという。
「生まれること、生きること(生)、老いていくこと(老)、病気になること(病)、死ぬこと(死)は、
誰もが避けて通ることのできない『四苦』であるという」
そのほかにも愛別離苦などの四つの苦があり、
この世は「四苦八苦」という苦しみに満ちているのだという。
確かに「四苦八苦」というのは文字を見るだけでも視覚的にげんなりする。
そこで幸せになるために「彼岸に渡れ」というのが仏教の基本メッセージなのだという。
そして物事はすべて「空」であるというなにやらよくわからないものが登場する。
「大乗仏教では老も病も死すらもこわくない。なぜならすべては『空』だからである」と
そんなふうに考えるらしい。
キリスト教では不死を求める人々に隣人愛を説き来世を与える。
イスラム教では不死を求める人々の素行はすべて天の帳簿に記録され褒賞として楽園が与えられる。
仏教では人々の苦しみを取り除くために空を説き何も与えない。
輪廻を前提としているのであればもともと来世は担保されているのかもしれない。
仏教では最後の審判はなく終り無くただグルグルと廻っている。
もしかするとニーチェの円環もこのことかもしれない。
そうすると道徳が一人歩きして超自我にまで発展するのはキリスト教だけという感じがする。
すべては空であると言ってしまったら何も発展しないような気がする。
そのような思想が蔓延したアジア各国は科学を発展させたキリスト教国に踏み躙られる。
原子の半径は10のマイナス10乗メートルで原子核の半径は10のマイナス15乗メートルだったと思う。
10のマイナス15乗メートルの原子核の周りを10のマイナス10乗メートルの軌道で電子が廻る。
その間には何もない。「空」なのか?
そこにモノを、この場合のモノとは原子核になるが、詰めようと思っても
モノどうしが電気の力で反発してしまい近づけることが出来ない。
たとえば重力が極めて強い場合は電気力に打ち勝ち、その結果として中性子星が出来るという。
それはおそろしく高密度の天体だ。きっと宇宙仏さんは知らない。
とにかく「中身がある」とか「モノが混ざらない」というのは物質が電気力で結合していると
そういうことであって「何かに満たされている」ということではないらしい。
「原子核とはなんぞや?」ということを問題にしてみよう。
陽子と陽子がそんなに接近したら電気力で反発するのではないかと普通は考えるものだが
中学や高校の先生は私たちが疑問を持たないようにしれっと「原子核」を説明する。
実際には原子核内部の狭い範囲でだけ電気力よりも核力(強い相互作用)が強く作用するので
バラバラにならないと、どうもそういうことであるらしい。
何かのきっかけにより原子核で核力よりも電気力が強くなると爆発する。
不安定な原子核は中性子をあてると分裂する。
そのことを利用したのが原子力発電所であり連鎖反応の場合は原子爆弾になる。
宇宙仏はきっと知らないだろう。
関心があると思えない。
「では、仏教では死後の世界についてどう教えているのか? 仏教の基本原理としては
『わからないことはわからないのだと、わかることがわかることである』と説いている。
『わからないことはわからないと、しっかり諦めよ』ということである。
・・・明日のことや未来のことなど、考えてもわからないことをあれこれ考えてもしかたがない、
よけいなことだと教えている。死後の世界についても『考えるな』というのである」
そういうことであればキリスト教やイスラム教とはやはり違うのだろう。
進化しすぎた生き物が「いつか自分は死ぬ」という事実を受け止めることに耐え切れず
生み出したものが宗教であると思っていたが仏教はそうではないようだ。
妙にリアルで詳細な地獄とか六道はどちらかと言うと創作らしい。
仏教は哲学なのだろうか?