140億年の孤独

日々感じたこと、考えたことを記録したものです。

資本論⑥

2012-07-30 00:05:05 | マルクス
岩波文庫の6巻目から「資本主義的生産の総過程」を扱う第三巻に入る。
第三巻は1894年の出版らしく、1885年出版の第二巻から9年以上あとのことになる。
エンゲルスの編集作業も相当な困難を極めたものと推察される。

しかしながら第三巻では第一巻で説明されたことと同じような話が続く。すなわち、、
生産物の価値(商品の価値)=固定資本の摩損分+流動不変資本+流動可変資本+剰余価値
剰余価値率=剰余価値/流動可変資本
ということを形を変えて説明しているように感じられる。
ここで
固定資本の摩損分:労働手段(機械装置)の摩損分、今でいうところの減価償却費
流動不変資本:材料や燃料に必要な費用
流動可変資本:労働賃金に必要な費用
剰余価値:不払労働により資本家が搾取しうる価値
となっている。
資本論では固定資本と流動資本は、不変資本と可変資本と区別されている。
つまり、不変資本=固定資本+流動不変資本、となっている。

「諸商品の価値どおりの交換または販売は、諸商品の均衡のもつ合理的なものであり、
その自然法則である」(岩波文庫第6巻、293ページ)という前提があって
その分量を量るのは労働の分量、すなわち労働時間となっている。
そのことについて今までに反論を試みていたが
少し見方を変えてみようと思う。

近年では「成果主義」という目盛りのない秤で、賃金を決めようとしている。
彼らは口を揃えて「仕事の出来ない人間ほど長い時間働いている」という。
それは当たっていると思うこともあるが一面的であるだろう。
もしも仕事の出来る人間だけを集めたいのであれば
キーエンスみたいに高額で雇えばいいのだ。

マルクスの時代と違って労働は単純なものではなくなってきている。
しかし成果を上げるために時間が必要であることに変わりはない。
あるいはそれは計画された期限通りに業務を遂行することではあるが
およそ計画というものは労働者の尻叩きのためにしか役に立たない。
計画より1ヶ月遅れているので深夜も休日も関係なく働けという訳だ。
そして余裕のある計画を立てた時には「怠けている」と判断される。
そのような状況を21世紀的な搾取であると考えてもよいかもしれない。

「あらゆる吝嗇にもかかわらず、人間材料については全く浪費的である」
(岩波文庫第6巻、134ページ)ということは今も昔も変わらない。
旧日本軍の航空機や艦艇による特別攻撃隊、さらには人間魚雷・回天といった
正気を疑うような兵器の投入によっても人間は浪費されてきた。
ブルジョアジーとプロレタリアートの階級闘争がなくなったとしても
自分の利益のために他人を浪費する風潮はなくならない。
それはしばしば「会社のため」であると「全体のため」であるといって
個人に適用される。

メリダとおそろしの森

2012-07-29 16:33:39 | 映画
ネタバレ注意でお願いします。
(これから観るという人は読まないでください)

母親が魔法で熊にされてしまうのだが
ギリシャ神話のカリストーのことを思い出した。
北斗七星が尻尾の部分にあたる、おおぐま座として夜空をめぐっている。
恋多き大神ゼウスとの間に子をもうけたが
嫉妬した女神ヘーラーにより熊の姿に変えられてしまったという。
ああ、ギリシャ神話っていつもそんな感じ・・・

ある日のこと、一人の若者が狩りをしていて熊になったカリストーを見つける。
その若者こそ、カリストーの子、アルカスだった。
立派に成長した我が子を抱きしめようとするカリストーの姿は
アルカスにとっては襲い掛かってくる熊にしか見えない。
いまにも槍で彼女を突き刺そうとするアルカス・・・

この恐ろしい状況を見たゼウスは、二人をさらって、
おおぐま座とこぐま座にしてやったという。
「はじめから全部、アンタが悪いのでは?」と私は言いたい。

こぐま座の尻尾の先はポラリス(北極星)だ。
近くにあるおおぐま座とともに天の北極を周回し海に沈むことがない。
それは恋敵が星座にされたことに怒りを覚えたヘーラーが
大洋の神であるテーテュースとその夫のオーケアノスに
彼らが海に下りて休息することを禁じるよう嘆願したからだという。
「アンタもしつこいな」と私は言いたい。

それで今まで書いたことは映画のネタには、あまり関係ないかもしれない。
一致点は母親が熊になるということだけだ。
しかも無責任なゼウスと違って最後は元の姿に戻る。
予想されたラストシーンではあるが
つい涙ぐんでしまう。

実は3D映画って初めてだが、3Dであることを意識するのは始めの方だけだった。
3Dが普及しない理由がなんとなく察せられる。
2時間程度なら良いが普段からメガネをかけて見たいと人は思わないだろう。

自由は責任を伴うとか
運命を他人任せにしてはいけないといった教訓は含まれてはいるが
この映画の主題は母と娘の絆であると思う。
ちなみに「おそろしの森」ということだが
森はちっともおそろしくなかった。

資本論⑤

2012-07-22 00:54:21 | マルクス
岩波文庫の5巻目は「資本の流通過程」を扱う第二巻の続きにあたる。
詳細な理論が展開され、マルクス以前の多くの学者は容赦なく批判される。
資本論で批判される回数が多いのは、アダム・スミスとリカードだろう。
特にアダム・スミスは酷いまでに批判されているが、
おそらくそれは彼のことを部分的に認めているからだろう。
そして214ページから、デステュットという学者が批判されている。
資本家が利潤を得ることの説明が「ブルジョア的痴呆」であると言って・・・

富の蓄積に関するデステュットの説明は、
「彼らがその生産に費やしたところよりも高価に売ることによってであり」
他の資本家に対しては
「彼らの欲望の充足に充てられるべき彼らの消費の全部分については、相互に」
賃金労働者に対しては
「小額の貯蓄を除く全賃金を回収する」ということである。
あまり擁護するつもりもないが「欲望」という言葉を使っていることがわかる。
マルクスはそこのところに注意するつもりはなかったのだろう。

そしてマルクスは労働者からの賃金回収については次のように批判している。
「資本家は、労働者に100ポンドの賃金を払い、次に労働者に彼ら自身の生産物を
120ポンドで売り、かくして、彼らの手には、100ポンドが還流するのみではなく、
なお20ポンドの利益が入る?これは不可能である。労働者は、彼らが労働賃金の形態で
受取った貨幣でしか、支払いえない」

そして資本家の富を増すためには次のようでなければならないと書いている。
「資本家階級が労働者に貨幣で100ポンドを支払い、そして彼らに80ポンドの商品価値を
100ポンドで売るとすれば、資本家階級は、彼らに、彼らの正常賃金よりも25%だけ多く
貨幣で支払ったのであり、そのかわりに、25%だけ少なく商品で彼らに渡すわけである」

ん?なんかおかしくないか?
賃金に100ポンド支払い、商品を100ポンドで売ったとしたら、儲けはないのでは?
「労働者は、彼らが労働賃金の形態で受取った貨幣でしか、支払いえない」のだから。
ああ、ブルジョア的痴呆・・・
労働者に自社製品を買わせるという設定自体がおかしいのだと私は思う。

欲望と価値については前回も書いたが次のようなことを考えている。
・欲望は心という現象の一形態である。
・心という主観的な現象は、客観的な現象しか扱えない科学では解明できない。
・一方で欲望は価値を生み出す。
 もっときれいな服を着たいという人には、素晴らしい服が価値を持つ。
 もっとおいしい料理を食べたいという人には、素晴らしい料理が価値を持つ。
 もっと良い家に住みたいという人には、素晴らしい家が価値を持つ。
・価値は欲望にもとづくので解明することはできない。
 それを科学的に説明出来るという人は嘘つきである。

21世紀の凡人は理解できないことを理解できないと言えるので
19世紀の偉人すら批判してしまえる。

資本論④

2012-07-21 00:46:12 | マルクス
岩波文庫の4巻目から、「資本の流通過程」を扱う第二巻に入る。
「資本の循環」とか「資本の回転」とか、
経済学に無縁の人間が読んでも全然おもしろくない。
経済学者や経済学部の教授の頭の構造はいったいどうなっているのだろうか?
私の知る由もない。

資本論第二巻はマルクスの死後にエンゲルスが編集して出版したものだそうだ。
それが容易な仕事でなかったと「序文」で述べられている。
この序文では「資本家の剰余価値はどこから生ずるか」という「資本主義的生産過程の秘密」を
マルクスが剽窃したという噂が否定されていたりする。
「剰余価値が労働力の搾取によって生産される」という「秘密」が
誰の発見によるものかという、どちらかと言えば、どうでもよい話だ。
エンゲルスによるとマルクスは
「初めてその現実の経過における剰余価値形成過程を、微細な点まで叙述し、
これを解明することに成功した」ということで
その業績をラヴォアジエに喩えている。
ラヴォアジエ以前に「酸素」の抽出に成功していた者たちは
結局のところ「酸素」がどのようなものであるかを解明していなかったのだと・・・

この小話は「科学的社会主義」を標榜した彼らの姿をよく現しているのではないかと思う。
生産物の価値が、材料や燃料にあった価値と、機械などの労働手段から部分的に移転される価値と、
必要労働による価値と、不払労働による剰余価値の合計であるという等式は、
化学反応の前後で原子の種類と数は等しいということや
物理学におけるエネルギー保存の法則や運動量保存の法則を連想させる。
彼らは経済学における基本法則を見出したと考え
それを「科学」だと宣言したのだろう。

自然科学に興味のある人が、この本を読んだとして、「科学」と思うかどうか疑問だ。
それに「科学だから良い」「科学でないから悪い」といった問題でもない。
科学が対象とすることが出来るのは客観的に捉えることが出来る現象に限られている。
それ故に例えば「脳科学」なんてものは矛盾でしかない。
主観的な現象は客観的に捉えることができない。
それで「科学だから良い」とか「科学によってのみ現象は解明される」という考えは
誤解でしかない。
だが科学には科学なりのおもしろさというものが確かにある。
経済学が科学であったなら、そのおもしろさも含まれていると思うが
残念ながら科学ではないと思う。

剰余価値が不払労働から成るものであったとしたら
AppleとDellは活用するEMSの労働者から等しく価値を付加されたであろう。
しかしApple製品とDell製品は同一の価値で扱われない。
EMSの労働者が酷い扱いを受けていて搾取されているのが事実だとしても
そのことによって価値が生み出されるなどという妄想はどこから生じてくるのだろう?
そもそも「価値」とは何だろうか?
それは人間の欲望を満たすもの、あるいは人間の欲望を生じさせるものでは?
新しいiPadは古いiPadの価値を消失させる。欲望の対象は新しいiPadに向けられる。
Intelは常に新しいチップを開発して新しい欲望を掻き立てる。
そのような製品はまず企画されなければならない。
製品(あるいは商品)が生活必需品と奢侈品にしか分類されなかった時代に
価値そのものの解明を期待するのは間違いだろう。
それは今でも「謎」であり得る。

岩波文庫「資本論(4)」は500ページ以上あって読むのがたいへんだ。
まるで「ジャン・クリストフ」を読んだ時のような
不毛さに襲われた。

資本論③

2012-07-17 00:05:05 | マルクス
「資本家のために剰余を生産する労働者、すなわち資本の自己増殖に役立つ労働者のみが、
生産的である」(資本論(3)10ページ)
私たちは何気なく「生産的である」とか「生産的でない」と口にするが、
いかに漠然と語っているか、あるいは生きているかを認めなくてはならない。
「生産的?」それ自体、何の意味があるだろうか?

「各資本家の絶対的利益とするところは、一定量の労働を、より少数の労働者から
搾り出すことであって、同様に低廉にか、またはより以上に低廉であっても、
より多数の労働者から搾り出すことではない」(資本論(3)216ページ)

―――いったい何を言っているのだろう?
剰余価値が(搾取の直接の対象であるところの)不払時間に比例し
労働手段としての機械装置の向上による生産力に比例するものだとすれば
時代と伴に加速度的に発展する生産力の増加に伴って不払時間は減るということだろうか?
確かに「より少数の労働者から」と書いている。
そうすると労働者全体の不払時間は減るということになる。
そうすると搾取は減り、それ以上の資本の蓄積は出来ないことになる。
搾取の結果として労働者が失業したのだとしても
果たして失業者から「搾取」出来るものだろうか?
なんという矛盾を抱えているのだろうか・・・

そのような矛盾についての質問を受け付けることもなく
話はイギリスにおける労働者の貧困に移る。
イギリスの不幸は自らの貧困を語る人々を欠いていることにあるのだろう。
そしてドイツ人が、その凄惨さを語ることになったのだ。
ここでは偉大なる産業革命の国であるイギリスの栄光はどこにも見当たらない。
黒人を奴隷として扱う前に、彼らは自国民を、それも特に子どもを奴隷として扱っていたのだ。
そしてフランス大革命すら茶番であったということだ。
そのようなことは歴史の教科書には書いていない。
イギリス、フランスあるいは欧州全体の恥が日本の教科書に記載されていたとしたら
各国から苦情がくるに違いない。

そして、そもそも、資本主義的蓄積に欠かすことのできない「労働者」は
どこから来たのかが考察される。
それはつまり、「なぜ私たちは他人のために働かなければならないか?」という問い。
―――「何故か?」
―――「土地を追われた農民だから」
それが私たちの先祖なのだろうか?

資本論②

2012-07-16 22:48:39 | マルクス
剰余価値が労働力の搾取であることが語られた後に
「第8章 労働日」にて、当時の労働者の境遇がどのようなものであったか、
それも特に子どもたちの境遇がどのようなものであったかが、
やや感情的に記載されている。
この本では、理論を展開する部分と人道的に訴えかける部分が
共存しているらしい。

資本論①

2012-07-13 23:00:23 | マルクス
どうしたことか「資本論」を読み始めてしまった。
アマゾンのレビューに「20世紀最大の悪魔の書」というのがあって気になったらしい。
現在では社会主義が間違っていたことが証明されているとか
そんなことには興味がない。

そこに何が書かれているかを知ることが第一の目的であり
そこに書かれていることに人々が魅了された理由を知ることが第二の目的だと思う。
19世紀には様々な偉人が輩出した。政治家とか将軍のことではないですよ。
ニーチェやドストエフスキーやマルクスのことです。
凡庸な人間であっても時間を惜しまないのであれば
そして何よりも理解したいと願うのであれば
偉人の考えたことに近づけるものです。

「資本論」はしかし、とても長くて岩波文庫から出ているのは全九巻ある。
やっと第一巻を読み終えたところだが最後まで辿り着けるか自信がない。
もともと小説を読むタイプの人間なので「経済学」なんて興味がない。
単に思想に興味があるだけだ。

「そんなわけで、ある使用価値の価値の大いさを規定するのは、ひとえに、
社会的に必要な労働の定量、またはこの使用価値の製造に社会的に必要な
労働時間にほかならないのである」(第一巻75ページ)

「価値の大いさ」とはひどい訳だと思うが、
早い段階から、価値と労働時間が結び付けられていることに注目しておきたい。
現代ではユーザーニーズという言葉が示すように使用者から見た価値が語られるが
資本論ではそうではないらしい。
そして、原価=材料費+加工費+経費と言われているが
材料費を突き詰めて考えていくと、それはやはり材料費+加工費+経費に分解され
これを繰り返してゆくと原価は労働時間にほかならないことになるのだろう。

「20世紀最大の悪魔の書」というのは正確ではなくて
実際には「19世紀に書かれた20世紀にとっては悪魔の書」になると思う。
振り回されたのは20世紀の人間だろう。
「猫のゆりかご」では科学の無責任が批判されているように解釈できるが
さて思想そのものも無責任ではないのだろうか?

ザ・スコット・フィッツジェラルド・ブック

2012-07-08 13:33:18 | フィッツジェラルド
村上春樹「ザ・スコット・フィッツジェラルド・ブック」を読んだ。
以下の三部で構成されている。

第一部「スコット・フィッツジェラルドと五つの町」
第二部「スコット・フィッツジェラルドについての幾つかの文章」
第三部「スコット・フィッツジェラルドの二つの短篇」

第一部ではフィッツジェラルドに縁のある町について書かれている。
ニューヨーク州ニューヨーク
カリフォルニア州ハリウッド
メリーランド州ロックヴィル
アラバマ州モントゴメリイ
ミネソタ州セント・ポール
村上春樹さんのフィッツジェラルドに対する思い入れが
かなりのものだということが感じられる。

第二部は主に彼の妻であった「ゼルダ・フィッツジェラルド」について書かれている。
彼と彼女の人生から「夜はやさし」は生まれたのだろう。
「グレート・ギャツビー」にしても彼らの人生と全く無関係ではない。
しかし実際にあった出来事がそのまま小説になっているわけではないと思う。
「実際にあった出来事」なんて知る由もないけれど・・・
だからゼルダがいなければ、彼がゼルダと結婚していなければ
フィッツジェラルドという作家が語り継がれることも
なかったのだと思う。

第三部には短篇が二つ収められている。
「自立する娘」
「リッチ・ボーイ」
後者は一級品の短篇だが前者はいくぶん格が落ちるのだそうだ。
フィッツジェラルドはその短篇の大半を金のために書いたのだそうだ。
そのような暇つぶしのたまに書かれた作品の中にも
一級の部分があるというのが
著者の考えらしい。

猫のゆりかご

2012-07-07 18:50:31 | ヴォネガット
カート・ヴォネガット「猫のゆりかご」を読んだ。
20ページくらい読んだところで、ふきだしそうになった。
あまりにフザけていると、そう思われたのだ。

「本書には真実はいっさいない。

『フォーマ*を生きるよるべとしなさい。それはあなたを、
勇敢で、親切で、健康で、幸福な人間にする』

―『ボコノンの書』第一の書第五節

*無害な非真実」

冒頭にそのようなことが書かれている。
「フォーマ?」、「ボコノン?」
もちろん、そんなことを真に受けていては身体がもたない。

だが読み進むにつれて笑いは消えうせてゆく。
「真実ほど見るにたえぬものはない」ということが真実なのだろうかと
そうであるならば嘘を並べ立てることが人を
「勇敢で、親切で、健康で、幸福」にするのかもしれないと
そのように感じてしまう。

日本ではカート・ヴォネガットの本はハヤカワ文庫SFから出版されている。
本の背表紙にも「SF長編」という説明がある。
しかしSFかどうかなんて
どうでもいいことだ。

この本で私はカート・ヴォネガットのファンになってしまったと思う。
あるいはボコノン教徒になってしまったのかもしれない。
「スローターハウス5」でも原爆の話が扱われていたが
本書は原爆の話から開始される。
科学と宗教を中心に様々なことが語られている。

中学生の自殺

2012-07-06 20:50:52 | Weblog
父の被害届は警察に3回断られ
教師は生徒の暴力行為を目の当たりにしながら「あんまりやんなよ」と
いうだけだったという。そして周りには他の教師もいたという。
親にしたってそんな学校に通わせなくても良かったのにと思う。
私だったら学校を辞めさせる。

苦痛だけで誰も助けてくれない。
そんな世界で生きて行きたいなんて思わないだろう。
被害届を断った警察や暴力行為を傍観した教師は責められて当然だろう。
しかし彼らだけが「ひどい奴ら」なのだろうか?
きっと「何もしなかった」ことが悪いことだと彼らは考えていない。
それで罪に問われることはないのだったら誰でもそうするかもしれない。
「別に私が殺したわけではない」
「私一人だけではなくみんなが悪かったのだ」
そういった無責任を積み重ねる傾向が私たちの中に潜んでいるのだとしたら
私たちは私たち自身と戦っていけるのだろうか?

軍の暴走で戦争の被害者になり戦後は民主主義に目覚めたという輩なんて
きっとそういう人たちとそっくりだと思う。
きっと「何もしなかった」のに被害に遭ったのだろう。
「何も悪いことはしなかった」のに・・・
うん、良いことも何もしなかった。

たとえばナチス支配下のドイツで私は戦えるだろうか?君は戦えるだろうか?
きっとそこまで進行してしまったら手遅れだろう。
中学生ひとり救えないのが
私たちなのだから。