岩波文庫の6巻目から「資本主義的生産の総過程」を扱う第三巻に入る。
第三巻は1894年の出版らしく、1885年出版の第二巻から9年以上あとのことになる。
エンゲルスの編集作業も相当な困難を極めたものと推察される。
しかしながら第三巻では第一巻で説明されたことと同じような話が続く。すなわち、、
生産物の価値(商品の価値)=固定資本の摩損分+流動不変資本+流動可変資本+剰余価値
剰余価値率=剰余価値/流動可変資本
ということを形を変えて説明しているように感じられる。
ここで
固定資本の摩損分:労働手段(機械装置)の摩損分、今でいうところの減価償却費
流動不変資本:材料や燃料に必要な費用
流動可変資本:労働賃金に必要な費用
剰余価値:不払労働により資本家が搾取しうる価値
となっている。
資本論では固定資本と流動資本は、不変資本と可変資本と区別されている。
つまり、不変資本=固定資本+流動不変資本、となっている。
「諸商品の価値どおりの交換または販売は、諸商品の均衡のもつ合理的なものであり、
その自然法則である」(岩波文庫第6巻、293ページ)という前提があって
その分量を量るのは労働の分量、すなわち労働時間となっている。
そのことについて今までに反論を試みていたが
少し見方を変えてみようと思う。
近年では「成果主義」という目盛りのない秤で、賃金を決めようとしている。
彼らは口を揃えて「仕事の出来ない人間ほど長い時間働いている」という。
それは当たっていると思うこともあるが一面的であるだろう。
もしも仕事の出来る人間だけを集めたいのであれば
キーエンスみたいに高額で雇えばいいのだ。
マルクスの時代と違って労働は単純なものではなくなってきている。
しかし成果を上げるために時間が必要であることに変わりはない。
あるいはそれは計画された期限通りに業務を遂行することではあるが
およそ計画というものは労働者の尻叩きのためにしか役に立たない。
計画より1ヶ月遅れているので深夜も休日も関係なく働けという訳だ。
そして余裕のある計画を立てた時には「怠けている」と判断される。
そのような状況を21世紀的な搾取であると考えてもよいかもしれない。
「あらゆる吝嗇にもかかわらず、人間材料については全く浪費的である」
(岩波文庫第6巻、134ページ)ということは今も昔も変わらない。
旧日本軍の航空機や艦艇による特別攻撃隊、さらには人間魚雷・回天といった
正気を疑うような兵器の投入によっても人間は浪費されてきた。
ブルジョアジーとプロレタリアートの階級闘争がなくなったとしても
自分の利益のために他人を浪費する風潮はなくならない。
それはしばしば「会社のため」であると「全体のため」であるといって
個人に適用される。
第三巻は1894年の出版らしく、1885年出版の第二巻から9年以上あとのことになる。
エンゲルスの編集作業も相当な困難を極めたものと推察される。
しかしながら第三巻では第一巻で説明されたことと同じような話が続く。すなわち、、
生産物の価値(商品の価値)=固定資本の摩損分+流動不変資本+流動可変資本+剰余価値
剰余価値率=剰余価値/流動可変資本
ということを形を変えて説明しているように感じられる。
ここで
固定資本の摩損分:労働手段(機械装置)の摩損分、今でいうところの減価償却費
流動不変資本:材料や燃料に必要な費用
流動可変資本:労働賃金に必要な費用
剰余価値:不払労働により資本家が搾取しうる価値
となっている。
資本論では固定資本と流動資本は、不変資本と可変資本と区別されている。
つまり、不変資本=固定資本+流動不変資本、となっている。
「諸商品の価値どおりの交換または販売は、諸商品の均衡のもつ合理的なものであり、
その自然法則である」(岩波文庫第6巻、293ページ)という前提があって
その分量を量るのは労働の分量、すなわち労働時間となっている。
そのことについて今までに反論を試みていたが
少し見方を変えてみようと思う。
近年では「成果主義」という目盛りのない秤で、賃金を決めようとしている。
彼らは口を揃えて「仕事の出来ない人間ほど長い時間働いている」という。
それは当たっていると思うこともあるが一面的であるだろう。
もしも仕事の出来る人間だけを集めたいのであれば
キーエンスみたいに高額で雇えばいいのだ。
マルクスの時代と違って労働は単純なものではなくなってきている。
しかし成果を上げるために時間が必要であることに変わりはない。
あるいはそれは計画された期限通りに業務を遂行することではあるが
およそ計画というものは労働者の尻叩きのためにしか役に立たない。
計画より1ヶ月遅れているので深夜も休日も関係なく働けという訳だ。
そして余裕のある計画を立てた時には「怠けている」と判断される。
そのような状況を21世紀的な搾取であると考えてもよいかもしれない。
「あらゆる吝嗇にもかかわらず、人間材料については全く浪費的である」
(岩波文庫第6巻、134ページ)ということは今も昔も変わらない。
旧日本軍の航空機や艦艇による特別攻撃隊、さらには人間魚雷・回天といった
正気を疑うような兵器の投入によっても人間は浪費されてきた。
ブルジョアジーとプロレタリアートの階級闘争がなくなったとしても
自分の利益のために他人を浪費する風潮はなくならない。
それはしばしば「会社のため」であると「全体のため」であるといって
個人に適用される。