24ページ
叔母さんの話を、僕が脇で聞いたところでは、忠叔父さんは昇任試験のための勉強をしないが、
それは勤務の後で遊びにせいを出すからというのではなく、また勤務自体が忙しすぎてというようなことでもないのでした。
そこではじめてディケンズという名前が出て来たのですが、忠叔父さんはどういうものか、
このイギリス十九世紀の小説家が好きで、勤務が終りさえすればすぐにディケンズを読み始める。
そこで昇任試験の勉強をする暇がないのだ、ということなのでした。
好きなことをして食っていけたら良いのだが、
商業的でない分野の生産的でない業務に専念して生計を立てる研究者とその家族が暮らしていくための収入は、
商品あるいはサービスの生産性向上に振り回されて一生を終える納税者ひとり一人に支えられてのものであって、
頭脳明晰で不断の努力を怠らない研究者をひとり養っていくのも大変なのであって、
ただ、それが好きというだけのさして才能もない人間が、その活動を主体にして生きて行くことはできない。
それでも好きなものは好きなものとして心の特定の場所に居座り続けるのであって、
他人の行動と時間を支配することで売上と利益を増収して己の影響力を拡大しようとする商業主義とは折り合いがつかない。
本を読まない人たち、読んだとしても感性を磨くためとか、関連知識を広げるとか、実用的なスキルを向上させるという人と、
どうにも抑えようのない内的な衝動から本を読む習慣が身に付いてしまった人の間には、共通の了解は得られない。
そして結局は「変わった人」ということで片付けられることになるのだろう。まあ、あまり本が好きだとか言わない方が良い。
振り返ってみれば、仕事が忙しくて本を読む暇がないという時期も、かなり長い間、続いたのだ。
昇進を諦め、負け犬という種族に染まってしまえば、時間を確保できる場合もある。
負け犬でかつ忙しいという、まったく奴隷の生活を強いられる可能性もあるが。
ただ、もう自分としては、いくら探しても才能は見つからないし、何者をも恐れぬような若さも失ってしまったが、
それでもなお「なにくそ!」という気持ちはいくらか残っている。他に選択肢などなかったのだということも知っている。
ここから立ち去るわけにはいかない、他に居場所なんてない。
50ページ
・・・わしのように永い間、こういう職業についておるとね、その関係でつきあうたいていの人間には嫌がられておるのに、
そのうちのある特定の人間に好意をつくしたい、と思うことがあるのやね。
それで、わしが、キルプのように惨めな思いこみまでするとはいわんけれどもな。
しかしそういう相手からかならずしも嫌われておらんで、必要な際に、頼りにさえされておるとわかれば、
嬉しいからね。それでわしがoverjoyというふうやったかと思ってね。
この世界にまったく一人ぽっちというわけではなく、誰かに頼りにされていること、
専門知識を期待されているとか、豊富な経験に基づく的確な判断を期待されているとか、
そんなふうにして何かしら意見を述べる機会があるとすればまだ救いはあるのであって、
その組織に所属していることが不本意であるとしても、何もかもが嫌だという事態は回避できる。
最終的には個人と個人の結び付きとか信頼関係がポイントになるのであって、そういうところにはまだ喜びが残っている。
これに対して人格を認めない、まず議論する際に相手の人格を否定することから始め、
人格の歪んだ奴の言うことは間違っているのだと、
あいつは共産主義者だとか、テロリストだとか、レッテル貼りから始めるような連中やら、
「のび太のくせに生意気な」というようなジャイアン理論とか、
こんなところではとうていやっていけんなという状況も身近なところではたくさんあるのであって、
まあ確かに「正しい」ということなど何処にもなくて、ただ「権力者の言うことが正しい」としか言えない。
私たちは食う食われるの関係から複雑に進化した生き物の末裔なのであって、
「私を食べるのは間違っている」と叫んだところで、食われる事態を回避することはできない。
ただ激しい競争の中にあって、協力するとか、助け合うとか、弱者の集まりといったものが、
否定と疑問の中で生き続ける圧制者や、旱魃を放置する無慈悲な自然とか、
ひとりでは立ち向かえない圧倒的な脅威に対抗できる可能性を残しているのであって、
そういうところに喜びの源泉があるのかもしれない。
115ページ
―――やれ待てイブラーヒム、かの夢にたいする汝の誠実は既に見えた、という声が天から聞えて、
子供は殺されずにすむんだよ。
これが信仰の真髄というのであれば、私は信仰など持ちたいとは思わない。
私には、神に対する絶対的な服従というのは理解できないし、それが必要というのであれば信仰も要らない。
そうした景色は、身の回りで服従を強いて来るいろんな人たちと重なって来る。
神や教会というのも、その権力構造は株式会社とそう変わらないのではないかと思う。
人間同士の争いの結果として勝敗が決し、権力が発生するのだから、そういうものなのだろう。
信長に因縁をつけられた家康が生き延びるためにやむなく長子を手にかけるとか、
まったくそういうことと同じではないかと思う。
そうして権力者はいろんな難題を持ち出して部下の忠誠をチェックしたがる。
マウンティングを欠かさないゴリラよりはるかに几帳面なその行動様式というのは、
様々な時代をくぐり抜けて来た進化の結果として霊長類の脳にすり込まれているものかもしれない。
その行動は極めて動物的だ。
叔母さんの話を、僕が脇で聞いたところでは、忠叔父さんは昇任試験のための勉強をしないが、
それは勤務の後で遊びにせいを出すからというのではなく、また勤務自体が忙しすぎてというようなことでもないのでした。
そこではじめてディケンズという名前が出て来たのですが、忠叔父さんはどういうものか、
このイギリス十九世紀の小説家が好きで、勤務が終りさえすればすぐにディケンズを読み始める。
そこで昇任試験の勉強をする暇がないのだ、ということなのでした。
好きなことをして食っていけたら良いのだが、
商業的でない分野の生産的でない業務に専念して生計を立てる研究者とその家族が暮らしていくための収入は、
商品あるいはサービスの生産性向上に振り回されて一生を終える納税者ひとり一人に支えられてのものであって、
頭脳明晰で不断の努力を怠らない研究者をひとり養っていくのも大変なのであって、
ただ、それが好きというだけのさして才能もない人間が、その活動を主体にして生きて行くことはできない。
それでも好きなものは好きなものとして心の特定の場所に居座り続けるのであって、
他人の行動と時間を支配することで売上と利益を増収して己の影響力を拡大しようとする商業主義とは折り合いがつかない。
本を読まない人たち、読んだとしても感性を磨くためとか、関連知識を広げるとか、実用的なスキルを向上させるという人と、
どうにも抑えようのない内的な衝動から本を読む習慣が身に付いてしまった人の間には、共通の了解は得られない。
そして結局は「変わった人」ということで片付けられることになるのだろう。まあ、あまり本が好きだとか言わない方が良い。
振り返ってみれば、仕事が忙しくて本を読む暇がないという時期も、かなり長い間、続いたのだ。
昇進を諦め、負け犬という種族に染まってしまえば、時間を確保できる場合もある。
負け犬でかつ忙しいという、まったく奴隷の生活を強いられる可能性もあるが。
ただ、もう自分としては、いくら探しても才能は見つからないし、何者をも恐れぬような若さも失ってしまったが、
それでもなお「なにくそ!」という気持ちはいくらか残っている。他に選択肢などなかったのだということも知っている。
ここから立ち去るわけにはいかない、他に居場所なんてない。
50ページ
・・・わしのように永い間、こういう職業についておるとね、その関係でつきあうたいていの人間には嫌がられておるのに、
そのうちのある特定の人間に好意をつくしたい、と思うことがあるのやね。
それで、わしが、キルプのように惨めな思いこみまでするとはいわんけれどもな。
しかしそういう相手からかならずしも嫌われておらんで、必要な際に、頼りにさえされておるとわかれば、
嬉しいからね。それでわしがoverjoyというふうやったかと思ってね。
この世界にまったく一人ぽっちというわけではなく、誰かに頼りにされていること、
専門知識を期待されているとか、豊富な経験に基づく的確な判断を期待されているとか、
そんなふうにして何かしら意見を述べる機会があるとすればまだ救いはあるのであって、
その組織に所属していることが不本意であるとしても、何もかもが嫌だという事態は回避できる。
最終的には個人と個人の結び付きとか信頼関係がポイントになるのであって、そういうところにはまだ喜びが残っている。
これに対して人格を認めない、まず議論する際に相手の人格を否定することから始め、
人格の歪んだ奴の言うことは間違っているのだと、
あいつは共産主義者だとか、テロリストだとか、レッテル貼りから始めるような連中やら、
「のび太のくせに生意気な」というようなジャイアン理論とか、
こんなところではとうていやっていけんなという状況も身近なところではたくさんあるのであって、
まあ確かに「正しい」ということなど何処にもなくて、ただ「権力者の言うことが正しい」としか言えない。
私たちは食う食われるの関係から複雑に進化した生き物の末裔なのであって、
「私を食べるのは間違っている」と叫んだところで、食われる事態を回避することはできない。
ただ激しい競争の中にあって、協力するとか、助け合うとか、弱者の集まりといったものが、
否定と疑問の中で生き続ける圧制者や、旱魃を放置する無慈悲な自然とか、
ひとりでは立ち向かえない圧倒的な脅威に対抗できる可能性を残しているのであって、
そういうところに喜びの源泉があるのかもしれない。
115ページ
―――やれ待てイブラーヒム、かの夢にたいする汝の誠実は既に見えた、という声が天から聞えて、
子供は殺されずにすむんだよ。
これが信仰の真髄というのであれば、私は信仰など持ちたいとは思わない。
私には、神に対する絶対的な服従というのは理解できないし、それが必要というのであれば信仰も要らない。
そうした景色は、身の回りで服従を強いて来るいろんな人たちと重なって来る。
神や教会というのも、その権力構造は株式会社とそう変わらないのではないかと思う。
人間同士の争いの結果として勝敗が決し、権力が発生するのだから、そういうものなのだろう。
信長に因縁をつけられた家康が生き延びるためにやむなく長子を手にかけるとか、
まったくそういうことと同じではないかと思う。
そうして権力者はいろんな難題を持ち出して部下の忠誠をチェックしたがる。
マウンティングを欠かさないゴリラよりはるかに几帳面なその行動様式というのは、
様々な時代をくぐり抜けて来た進化の結果として霊長類の脳にすり込まれているものかもしれない。
その行動は極めて動物的だ。