140億年の孤独

日々感じたこと、考えたことを記録したものです。

キルプの軍団

2017-09-30 00:05:08 | 大江健三郎
24ページ
叔母さんの話を、僕が脇で聞いたところでは、忠叔父さんは昇任試験のための勉強をしないが、
それは勤務の後で遊びにせいを出すからというのではなく、また勤務自体が忙しすぎてというようなことでもないのでした。
そこではじめてディケンズという名前が出て来たのですが、忠叔父さんはどういうものか、
このイギリス十九世紀の小説家が好きで、勤務が終りさえすればすぐにディケンズを読み始める。
そこで昇任試験の勉強をする暇がないのだ、ということなのでした。

好きなことをして食っていけたら良いのだが、
商業的でない分野の生産的でない業務に専念して生計を立てる研究者とその家族が暮らしていくための収入は、
商品あるいはサービスの生産性向上に振り回されて一生を終える納税者ひとり一人に支えられてのものであって、
頭脳明晰で不断の努力を怠らない研究者をひとり養っていくのも大変なのであって、
ただ、それが好きというだけのさして才能もない人間が、その活動を主体にして生きて行くことはできない。
それでも好きなものは好きなものとして心の特定の場所に居座り続けるのであって、
他人の行動と時間を支配することで売上と利益を増収して己の影響力を拡大しようとする商業主義とは折り合いがつかない。
本を読まない人たち、読んだとしても感性を磨くためとか、関連知識を広げるとか、実用的なスキルを向上させるという人と、
どうにも抑えようのない内的な衝動から本を読む習慣が身に付いてしまった人の間には、共通の了解は得られない。
そして結局は「変わった人」ということで片付けられることになるのだろう。まあ、あまり本が好きだとか言わない方が良い。
振り返ってみれば、仕事が忙しくて本を読む暇がないという時期も、かなり長い間、続いたのだ。
昇進を諦め、負け犬という種族に染まってしまえば、時間を確保できる場合もある。
負け犬でかつ忙しいという、まったく奴隷の生活を強いられる可能性もあるが。
ただ、もう自分としては、いくら探しても才能は見つからないし、何者をも恐れぬような若さも失ってしまったが、
それでもなお「なにくそ!」という気持ちはいくらか残っている。他に選択肢などなかったのだということも知っている。
ここから立ち去るわけにはいかない、他に居場所なんてない。

50ページ
・・・わしのように永い間、こういう職業についておるとね、その関係でつきあうたいていの人間には嫌がられておるのに、
そのうちのある特定の人間に好意をつくしたい、と思うことがあるのやね。
それで、わしが、キルプのように惨めな思いこみまでするとはいわんけれどもな。
しかしそういう相手からかならずしも嫌われておらんで、必要な際に、頼りにさえされておるとわかれば、
嬉しいからね。それでわしがoverjoyというふうやったかと思ってね。

この世界にまったく一人ぽっちというわけではなく、誰かに頼りにされていること、
専門知識を期待されているとか、豊富な経験に基づく的確な判断を期待されているとか、
そんなふうにして何かしら意見を述べる機会があるとすればまだ救いはあるのであって、
その組織に所属していることが不本意であるとしても、何もかもが嫌だという事態は回避できる。
最終的には個人と個人の結び付きとか信頼関係がポイントになるのであって、そういうところにはまだ喜びが残っている。
これに対して人格を認めない、まず議論する際に相手の人格を否定することから始め、
人格の歪んだ奴の言うことは間違っているのだと、
あいつは共産主義者だとか、テロリストだとか、レッテル貼りから始めるような連中やら、
「のび太のくせに生意気な」というようなジャイアン理論とか、
こんなところではとうていやっていけんなという状況も身近なところではたくさんあるのであって、
まあ確かに「正しい」ということなど何処にもなくて、ただ「権力者の言うことが正しい」としか言えない。
私たちは食う食われるの関係から複雑に進化した生き物の末裔なのであって、
「私を食べるのは間違っている」と叫んだところで、食われる事態を回避することはできない。
ただ激しい競争の中にあって、協力するとか、助け合うとか、弱者の集まりといったものが、
否定と疑問の中で生き続ける圧制者や、旱魃を放置する無慈悲な自然とか、
ひとりでは立ち向かえない圧倒的な脅威に対抗できる可能性を残しているのであって、
そういうところに喜びの源泉があるのかもしれない。

115ページ
―――やれ待てイブラーヒム、かの夢にたいする汝の誠実は既に見えた、という声が天から聞えて、
子供は殺されずにすむんだよ。

これが信仰の真髄というのであれば、私は信仰など持ちたいとは思わない。
私には、神に対する絶対的な服従というのは理解できないし、それが必要というのであれば信仰も要らない。
そうした景色は、身の回りで服従を強いて来るいろんな人たちと重なって来る。
神や教会というのも、その権力構造は株式会社とそう変わらないのではないかと思う。
人間同士の争いの結果として勝敗が決し、権力が発生するのだから、そういうものなのだろう。
信長に因縁をつけられた家康が生き延びるためにやむなく長子を手にかけるとか、
まったくそういうことと同じではないかと思う。
そうして権力者はいろんな難題を持ち出して部下の忠誠をチェックしたがる。
マウンティングを欠かさないゴリラよりはるかに几帳面なその行動様式というのは、
様々な時代をくぐり抜けて来た進化の結果として霊長類の脳にすり込まれているものかもしれない。
その行動は極めて動物的だ。

僕が本当に若かった頃

2017-09-23 00:05:04 | 大江健三郎
19ページ
あの詩人が否定の文脈においていたのは「私の」という形容句ではなく、「魂」という名詞だった。
「私」を超えて大きく包み込む共通の魂のことなど、いっさい語っていなかったのだ。
死んだ友達と知恵遅れの息子と僕自身の、その三者の内面をつなぎ、すべてを覆いつくしもする懐かしいものとしての
共通の魂というようなことは、ただ僕のみが考えだしたものだ。

「私」という有限な存在を超えて無限に至りたい。
「私」という保身しか考えぬ邪な存在から逃れて境界を持たない混沌の中へ、個を超えた共通のより大きな存在に至りたい。
死を恐れ、利己主義を恥じている人間が、そのような「魂」を作り出す。
腐敗する肉体から離脱する汚れなき美しき魂、私は死んで無になるのではなく、魂が抽出されて別の次元の世界に存在できるのだと、
そういうことを保証してもらいたくて作り出されてしまう「魂」
そんなものはないのだと知っていても、そのことを受け入れたくはないとして抵抗を続ける意識、
そんなものがあるのかないのか考える羽目に陥る地獄から容易に逃れることのできる無意識的で日常的な多忙、
ありもしない魂のことを考えるよりは、今あるこの意識を、その不思議をとことんまで考えてみたい。
そうすることの経済的なメリットが皆無であるとしても、一度それに取りつかれてしまったら、逃れることは難しい。
もしかするとそんなことのために生まれて来たのかもしれない。
そんなことのために。

57ページ
悲嘆(グリーフ)となにもない(ナッシング)こととの間で、私は悲嘆を選ぶ。

フォークナーの一節、あるいは一行
恥となにもないこととの間だとしたら、恥を選ぶだろうか。
なにもない、なんの変化もない、ひたすらに凡庸な、生き続けているだけのために流れて行く無益で大量の時間、
そんな時間が経過してしまった、寿命の大半が失われてしまったということを改めて考えてしまうと、ますます嫌悪が募る。
私たちに与えられた時間は極めて有限であり、とても短いのであり、何かを為そうと思ってもあっという間に過ぎ去る。
それに時間があったとしても、あいにくと才能の方はまるで欠けているのだ。
そんな私に、あなた方はいったい何を要求しようというのだ、これ以上、あなた方の為に何を捧げよというのか。
凡庸な人間が、凡庸なままに生き延びることの何が悪いというのだ。
なんとか生き延びて、自由になる時間を少しでも多く獲得して、本を読んだり、音楽を聴いたりすることの何が悪いのだ。
私からそうする時間を取り上げ、自分の要求が実現することを強要しようとするあなた方はそんなに偉いのか。
もうこれ以上、私に関わらないでほしい。・・・そうした呪縛から逃れようとする揺るぎない決意

254ページ
僕が靖一叔父さんの告白を楽しんでいたというのじゃない。それでいてどうしても聞くことがやめられないで、
―――モット、モット! と訊ねつづけていたんだよ。そして靖一叔父さんは残虐な細部を繰りかえし、
車のうしろの座席では仙台でひろった女の人がスピードにも靖一叔父さんの話の内容にも怯えて、
―――ヤメテ、ヤメテ! と泣き声をあげていた。

聞くだけで怯えてしまうような話を体験してしまった当事者の精神はその時に既に壊れてしまっていて、
そこから先の生き方というのは未来は現在よりも必ず良くなるという希望を抱いて生きている人間のそれとは大きく異なっていて、
過去のその一点に人生のすべてが凝縮されてしまっていて、そこより先の未来などなく、
現在は永遠にその残虐な行為を働いた己に固着してしまい、死ぬことだけを考えるようになるのかもしれない。
加齢と共に少しづつ可能性の領域が奪い取られてしまい、価値ある未来が何処にも見当たらなくなる凡人の人生とは違って、
いきなり訪れた圧倒的な絶望、それも自分の卑劣な行為と結びついた絶望、
精神はそのようなものに耐えうるようには出来ていない。
そしてその絶望に誘発された行為が、次の絶望的な人間を生みだしてしまう。
「本当に若かった頃」のそんな体験は人生のすべてを決定してしまう。

治療塔惑星

2017-09-16 00:05:58 | 大江健三郎
15ページ
かつてこの広場は《やすらかに眠ってください、あやまちは繰りかえしませんから》という誓いの言葉を支えとし、
再び被爆者を作り出さぬという人類の意志を表明する場所だった。

広島の平和公園について書かれている。
公園内の慰霊碑にその文字は刻まれていて、訪れる者は皆、何かしらの感銘を受けるのだが、
その場所を去って再び忙殺の中に舞い戻ると、その言葉も、その言葉から受け取ったと思ったメッセージも全部忘れてしまう。
資料館で見た光景から誘発された痛みや苦しみが、個人的な痛みや苦しみを昇華して、人類の苦悩すら体現しているのだと、
その時は考えたりもするのだが、痛みや苦しみほど、その時を過ぎてしまえば忘れ去られるものはない。
そうしていつの日か、自らが傷つく日まで、忘れているのだろう。
それにしても「あやまち」というのは、いったい何のことなのだろうか?
原子爆弾を投下した当事者は、米軍兵士の死傷者を増やすことなく戦争を早期に終結させるためには正しい選択であったと、
そんなふうに主張して「あやまち」を認めたことなど一度もないのであって、
戦争に負けて目が覚めましたという体の平和主義者が、軍部の独走を許した国民ひとりひとりが悪かったのだとか、
そういうことが「あやまち」なのだと思い込もうとしているように見える。
そんなふうにしてこの国では、平和を声高に主張する者が偽善的に良心を満足させていられる時期が続いていたが、
「共謀罪」の成立によって確実に「あやまち」の方へと舞い戻っているように感じる。
未遂段階で罪を確定する法律が刑事法の体系を崩すというようなことが有識者の間で叫ばれているということだが、
支配者がより強固に権力を増し、被支配者を屈服させ意のままにしようとすることは、
ずっと昔から繰り返されて来た事実であって、歴史の語ることはそのことだけなのであって、
サラリーマンを長年やっていれば、民間においても権力者がビジネス拡大を理由にみずからの指示に盲目的に従う側近を、
増やそうとしているだけなのだということがよくわかる。
そういう行動は、ニホンザルやゴリラの群れで見られるマウンティング(順序確認行為)と同じ部類のものであって、
それなしには集団の秩序が保てないという単純な理由に基づいているのであって、
支配者がその支配力を増そうとするのは極めて動物的な行為なのであるという自然法則に、
正義や平等や戦争放棄の思想が打ち勝てるとは到底思えない。
そう思ってはいるが、いざ当事者になったとしたら、激しい抵抗を試みるのだろう。
特に子供が脅威にさらされている場合には命を賭して行動するのだろう。
それもまた生命の保存、種の保存に基づく強烈な本能の命ずるところであって思想ではない。
愛や慈悲などの宗教でもない。

62ページ
―――リッチャン、科学史に革命をもたらした発明やら発見やらは、いつも競争でね、ひとをだしぬくことを
めざして行われた努力の成果だよ。それがこの傷つけられ恥かしめられた古い地球の人類の体質なんだよ。

発明、発見というのは、混沌の中に埋もれていた現象が誰にでも理解できるものとなるよう初めて体系化するということで、
科学だけではなく芸術にあっても、未発見の技法を見つけ出して音の配列や色の配列として初めて表現することで、
その初めて実現する、達成するといったことには当然、他人をだしぬくという要素が含まれる。
だしぬくことを目指しているわけではないが、第一発見者にしか栄誉は与えられないのであって、
二番目以降に何をやったところで、既知なのであり、模倣であり、そうならないよう尋常でない努力を重ねているうちに、
はずみで他人の研究成果を拝借して、遺伝子の構造は二重螺旋であるとか、言ってみたりもするのだろう。
だしぬくことではなしに、栄誉を獲得するのが目的であり、他者からの尊敬を得るのが目的であり、
他人から軽く見られたくないと、それも数十年の経験を積んだ上であればなおさら軽く見られたくないと、
そうなってしまったら、いったい私の人生は何だったのかと、何の意味があるのかと、
模倣者、敗北者になることを、そんな状況に陥ってしまうことを死ぬほど恐れている。
そうして実際には、科学や芸術のために身を捧げているというのではなしに、自尊心に捧げていることになる。
普通の人でいること、何の見返りもないままに時が過ぎ去ることを容認できること、
そんな普通の人になれないとしたら、めまぐるしい競争の中で死に物狂いで戦いながら栄誉を獲得するとか、
大多数は競争に敗れて敗者の汚名の中で甘んじて暮らすということになり、
命が尽きるまで続く不幸の中に閉じこもるのだろう。

211ページ
<書かれたテクストは、著者の不在、指示対象の不在、コンテクストの不在、コードの不在をも超えて存在しうる
―――そしてなお読みうるものである。>
「治療塔」はひとつの書かれたテクストである。人類の側の、つまりこちら側の宇宙にはこの記号の作り手はいない。
著者は不在。人類がこの惑星に達するまで、エンピレオ高原に人類にあたるものが実在していた痕跡はない。

著者はすぐ不在になる。
書かれたテクストに引き継がれる価値があったならば、それに比べて人間の寿命は遥かに短い。
数十年後に確実に命が尽きることを知っている者はテクストを書いて、死後もそれが引き継がれることを望むが、
そうやって書かれた大多数のものは凡庸であり、書かれたことすら知られずに忘れ去られて行く。
凡庸さを逃れた幸福な記号たちは、ヴァイオリンの名器が代々の名人に引き継がれていくように、
名曲がその記号の集まりの価値を発揮し、代々の演奏家と聴衆を満足させて来たように、名声を獲得する。
実際には、記号は私たちが操るものではなくて、私たちが単に記号を媒介しているだけの存在なのかもしれない。
生き物が遺伝子の乗り物であり、私たち自身が遺伝子が指示する記号の存在と変遷を媒介しているだけであるのと同じように。
そうすると自己というものは鳴りを潜めて、記号と記号を媒介するものが反応を起こして、
新しい記号の組み合わせを実現していく、その繰り返しが生命現象であり、
文化的な現象もまた同じなのだろう。

名古屋フィル#72ストラヴィンスキー夜鳴きうぐいすの歌

2017-09-10 07:37:09 | 音楽
名フィル 第449回定期演奏会 〈南京/中国の不思議な旋律〉
2017.09.09
日本特殊陶業市民会館 フォレストホール
午後 4時開演(午後 3時15分開場)
ストラヴィンスキー: 交響詩『夜鳴きうぐいすの歌』
ウォルトン: ヴィオラ協奏曲*
ペルト: フラトレス
ヒンデミット: ウェーバーの主題による交響的変容

名古屋の定期を急に振ることにしたが理由は曲が面白そうで、僕のレパートリーでできるからだ。
藤倉大の曲は勉強する暇がないのでやめて、降りた指揮者の娘さんが危篤という事でフラトレスで祈るのだ。 ※「フラトレス」=親族、兄弟、同士の意。
---2017.9.5 道義コメント---

ウェンティン・カン(ヴィオラ)*
名古屋フィルハーモニー交響楽団

↓引用元
名フィル 第449回定期演奏会 〈南京/中国の不思議な旋律〉

栄にある愛知県芸術劇場の改修工事のため、今回から金山にある日本特殊陶業市民会館フォレストホールに演奏会場が変更になった。
久しぶりに訪れて見ると、前回訪れたのはティエリー・フィッシャーがベートーヴェン・ツィクルスをやった時だったろうか、
座席は昔の映画館のように古く擦り切れて質素で少し湿っているような質感のシートで腰に負担がかかりそうだった。
チケットはC席ということで三階席があてがわれて、上から見下ろしてみると一階席は妙に空席が目立ち、
四列しかない三階は相対的に座席数が少ないのか、右端の方から眺めてみると妙に混んでいた。
愛知県芸術劇場は三階と言ってもオーケストラの真横の席だったから、指揮者や奏者の表情はよく見えて、
前回の演奏会の時なんかは、演奏に加えて美貌の指揮者の容姿も十分に堪能できたのだが、
今回のホールの三階席からオーケストラまでの距離は遠く、指揮者の姿は冥王星から見る太陽ほどに小さかった。
夏の間中、伝説ポケモンを追っかけていたせいで、今日が定期演奏会ということに気付いたのは不覚にも一週間前であり、
曲目を見て思ったことは「うーん、どれも知らない」ということだった。
一週間前から「夜鳴きうぐいすの歌」を、五日前から「ヴィオラ協奏曲」を聴き始め、
「ウェーバーの主題による交響的変容」を聴いたのは前日、
「フラトレス」に至っては会場への移動の当日、YouTubeで聴いた。
そういうわけで予習はあまり足りていなかった。

「ナイチンゲール」は鳥としては「ファイヤーバード」ほどに有名ではないが、
何度か聴いていると、音色というか間合いというか巧みな構成というか、
幻想的なままに振る舞う原始的な夜の響きというか、この作曲家独特のものがある種の懐かしさや親近感を伴って、
だんだんと聴く者の感性に忍び込んで来るような気がした。
音楽の魅力の要素のひとつとして、なにかしら圧倒的なものに浸食される喜びのようなものがあって、
聴く者の主体を平気で蹂躙してしまうような感じの、偉大な作曲家の偉大さにはそういうところがある。
ビートルズはチャック・ベリーのナンバーをカバーしたロールオーバー・ベートーヴェンという曲を残しているが、
ベートーヴェンに打ちのめされることにマゾヒスティックな快感を覚える音楽ファンも
意外に多いのではないかと思う。

常任指揮者を務めたマーティン・ブラビンズとの再会を楽しみにしていた人も多いと思うが、
近親者の危篤ということで「フラトレスで祈る」しかないということだ。
私は先週、伯母を亡くして、久しぶりに四国を訪れた。
人間はいつか死ぬ。やがて自分も死ぬ。

演奏が終わった後、鳴り止まぬ拍手の中、ちょっとしゃべりたそうな仕草を見せた指揮者は、
会場が静まるのを待ってから、一言つぶやいた。
「50年目のこのホールも悪くないですよ」
ホールも人間もどんどん老いて行く。どんなに厭ったところで時間の進行は止められない。
老化や病気と折り合いをつけて生きて行くしかない。

静かな生活

2017-09-09 00:05:26 | 大江健三郎
55ページ
そういう時、私は心のなかで、―――なにくそ、なにくそ! お先真暗でも、元気を出して突き進もうじゃないか!
といっている。

「お先真っ暗」ということで、将来に期待するものなど何もなくて、
あり余るほどの未来と可能性を保有する若年者が楽観的でいられるのとは違って、
生きられる時間がどんどん削られて行き、過ぎ去った時間の蓄積は自分自身の無能さを無慈悲なまでに示し、
この先、ずっとこの先、死ぬまでずっと、何も良いことはないだろうと思うような時が訪れて、
生れて来たことの意味というのはどこにもなく、ただ混沌の中へと帰って行くだけと囁く声がする。
深くは考えずに漠然と生きている、幾分かの努力を伴った人生を過ごして地位や財産を獲得して来た人に比べて、
とてもみすぼらしく、他人に比較して何のすぐれたところもなく、こき下ろされる状況を自ら作り出してしまっている。
そんなことをあれこれ考えて、窪みだか、落とし穴だか、地獄の一歩手前だかにいると思える時、
心の奥底から「なにくそ、なにくそ」と言う者の声が聞こえて来る。
不利で不安定な状況にあっても生き続けなければならない、むしろいつもそういう場合なのだ。
生きることは、無秩序へ向かう自然法則に逆らうことなのだから、何かしら抵抗する要素を含んでいる。
そうして「なにくそ」と思いながら、今日も生きている。

147ページ
私があくまで普通の頭で考えているのはね、自分をどんな些細なことにも特権化しないで、
なんでもない人として生きているかぎり、余裕があるということだわ。
その上で自分なりに力をつくせばいいわけね。
・・・
それでもね、なんでもない人として生きる覚悟をつらぬけば、・・・イーヨー、ごめんね、また恐いことをいうよ、
死ぬ際にも余裕をもってゼロにかえれるという気がするんだわ。
ほとんどゼロに近いところから、ゼロへ、ということで。
死後の魂とか、永遠の生命とかいうことを気にかけるのは、自分について特権化した感じ方じゃないの?
たとえば虫とくらべて・・・

虫は世界に同化して暮らしているので、世界を認識することなく、主客が分裂することなく、
自分のことを特権化することなく生き続け、そして誰に不平不満を言うわけでもなく死んで行く。
私たちも生まれた時には世界の只中にぽかんと浮いているような感じでいて、ぼんやり世話をしてくれる身内を眺めている。
そして相手との関係が成立した時点でそうなるのか、そうなるから相手との関係が成立するのか、
経験したことを今後に役立てようという機能がそうさせるのか、ある日、世界の中にぽつんと投げ出されている自分という存在に気付く。
いったんそうなってしまうと、どうあってもゼロに戻ることはなく、ゼロでないのに百になれるわけでなく、
百を羨む十の位の者として、他者と自分を比べてしまって、苦しみ、不幸であり続ける。
なんでもない人であろうとすること、デクノボーになりたいと望むこと、
傍から見て無欲であろうとしている人の心の中は、激しい苦しみがあり、嫉妬に燃え盛る紅蓮の炎で焦がされているかもしれない。
考えれば考えるほど深くなる苦しみから逃れたい、ゼロへと帰還したい。
それが簡単ならとっくにそうしている。
人生はゼロではない、諦めてはいけない、努力すれば報われると、前向きに生きていきましょうよと、
それは先の「なにくそ」とは違う種類の違う人たちがよく口にすることであって、
そういう考えが支持されないのであれば一生懸命働こうなどとは誰も考えなくなるので、
自転車操業のような経済状況をこかさないためにも、是非ともその考え方は貫かなければならないと皆が了解の中にいる。
だがある方面の人びとは、その欺瞞にとうに気付いていて、その醜悪な体制には付き合い切れないと心底考えている。
そうした彼らは、墓参りをして、先祖の魂を供養して安心しているように見えて、実は無の恐怖に怯えている。
私が死んだら、別にお墓に入れてもらわなくても良いし、線香をあげてもらわなくともよい。
私が生きていたことなんて忘れてもらってかまわない。
だが、今、生きている間に何かをしようとする心の働きというのは、そんな物分かりの良い悟ったような考え方とは相反して、
自らの存在をかけて、ゼロでないことを示そうとするあさましい心の働きなのだろうが、
そのあさましさが生きていることそのもののような気がする時もある。
そしてきっと、静かに死んで行くことを拒否している。

200ページ
ドイツ語の教授資格者のフランス娘が、白痴の子供ら四十二人をあずかって、ソ連軍を逃れベルリンを脱出して来た、
と打ち明けて来る。旅の間に麻疹で次つぎに死んでゆき、いまは十二、三人しか残っていない。
セリーヌはすぐ麻疹の具合を見てやりたいと思うが、子供たちは列車に分散して乗っていて、すぐ見つけ出すわけにはゆかない。
四歳から十歳の、いずれもどんな言葉も理解しない頭の持主だという。
フランス娘は、いまや子供たちの食物も調達できないばかりか、彼女自身喀血し・発熱して、
医師であるセリーヌに子供たちのことを頼むほかないわけなのだ。

そうした悲惨の中で、誰に褒められるというわけでもなく、誰が見ているというわけでもなく、
血のつながりもない、言葉も解さない、そんな子供たちを守ろうとする。
まもなく尽きる自分の命に対する不満もなく、子供たちを託す人を探している。
そんな人生は、小説の中だけでなく、きっとどこかにあったのだ。もしかしたら、ありふれていたかもしれない。
そう考えることで何かしら希望が湧いてきたりもする。

治療塔

2017-09-02 00:05:01 | 大江健三郎
60ページ
最初に「ショック期」、傷害を受けて、人は無関心あるいは離人症的になる。・・・
次いで「否認期」。人は自分がそのような障害者の状態に落ちこんだことを否認しようとする。・・・
そして「混乱期」。どのような仕方でも現実にある障害を否認することはできぬ、自分の障害は根治できぬものだ、
とさとった時、とくに若い障害者は強い攻撃性を持つにいたる。それが外向的にあらわれる時、怒り、怨みが人をとらえる。
内向的にあらわれれば、悲嘆にとらえられ、抑鬱的になる。・・・
さて、このような過程を乗り越えて、どのように障害を受容するかが課題となる。
あなたがたにとっては、「落ちこぼれ」たることを受容し、この地球に残っていることを自分の個性として受け入れるために、
いかに努力を行うかが課題であろう。その努力こそが、いま汚染された地球に残され「落ちこぼれ」と呼ばれさえする人類の
なすべきことであろう。

先天的に、あるいは事故に遭って障害を背負った人に対して、実践経験豊富なカウンセラーは、
彼は今、「ショック期」「否認期」「混乱期」にあると観察によって判別し得るものなのだろうか?
あるいは勝ち誇った権力者が、大勢の下々を見下して「前向きに努力せよ」とか「いかに努力を行うかが課題」といったりするのだろう。
「働かざる者、食うべからず」の原始理論を「大人にとっての労働」は「子供にとっての勉強」と等価であるという
彼らにとっては画期的な理論に発展させた、とある凡庸な家庭の親は、ひたすらに子供の人格を否定し続けてしまうことさえある。
一般的には「落ちこぼれ」の努力によって生産活動を成り立たせている支配者というのは、人々がやる気を失うことを恐れている。
落ちこぼれが働くなくなったり、いなくなったりすると、彼らは困るのだ。被支配者を労働させることで彼らの支配は成り立っている。
被支配者が支配者のために時間を捧げて労働活動、奉仕活動を行うことが「努力」なのだろう。
そういう馬鹿々々しさが見えてしまったなら、人は心の奥底から、自分のために生きよう、自分のために時間を使おうと
考えるものなのかもしれない。それに気付かねば、一生の間、権力者に取り入って自らの地位向上に努めるしか、
することがない。

170ページ
―――・・・宇宙船団が出発して行く、頭の良い人、美しい人、強い人はみな乗り組ませて、
破壊され、汚染された地球に、選ばれなかった者たちが残っている。
打ち壊され焼かれ、放射能に汚れた地球で、生きつづけてゆかなければならない。
傷ついている、ものごとがよくわからず、醜く弱い、子供のような者らが。
しかしそのような者であるからこそ、なんとか生き延びる手だてをもとめて・・・

選ばれた者と選ばれなかった者。
意識を、自尊心を満足させる上で、あるいは消極的には傷つけない上では選ばれた者でありたい。
百人のうち百人がそう思っている。あるいはたったひとりの宮沢賢治だけはそんなふうには考えないのかもしれない。
他人の言いなりになりたくないという理由で百万人の軍隊を戦わせてきたのが歴史という面もあり、
最後に生き残った者が、勝ち残った者が選ばれた者を名のる資格がある。
次には選ばれた者の基準に従って選ばれる「頭の良い人、美しい人、強い人」がいる。
生きているうちに、できるだけ長い間、自尊心を満足させ続けること、
生きることの意味はその程度のことに凝縮されているような気さえする。
恵まれない者、打ちのめされている者、傷ついている者、生まれ付き醜い者、生まれ付き弱い者、
いつまでも続いているかに見える生涯に渡って弱者に転落する危険性を心配する者は、
弱者の味方であることを生前に示そうとすることがあるかもしれない。
想像力の貧困な人間に弱者救済を説得させる手段というのは、いつかあなたもそうなるということを示すことに違いない。
そうすると今の強者は今の地位を保持する努力をしながらも将来弱者になった場合の保険をかけることもできる。
一方「汚染された地球」のイメージには原爆投下直後の凄惨な光景が土台となっているかもしれない。
焼け爛れた皮膚をまといながら渇きを癒すために川に殺到して亡くなって行った被爆者たち。
その光景を刻んだ経験がないのなら人生の価値は半分しかないのかもしれない。
選ばれなかった者として、生き延びる手だてを求めて生きて行こう。
できるだけ考えることを放棄しないで生きて行こう。

171ページ
《でも、仕方がないわ、生きていかなければ!・・・生きていきましょうよ。長い、はてしないその日その日を、
いつ明けるともしれない夜また夜を、じっと生き通していきましょうね。
今のうちも、やがて年をとってからも、片時も休まずに、人のために働きましょうね。
そして、やがてその時が来たら、素直に死んでいきましょうね。
あの世へ行ったら、どんなに私たちが苦しかったか、どんなに涙を流したか、どんなにつらい一生を送ってきたか、
それを残らず申し上げましょうね。すると神さまは、・・・》

チェーホフは、私たち一人ひとりの苦しみを、隅々まで知っていたのだと思う。
生れて、苦しみ、そして死ぬ、死んで行くことに文句は言えないから、素直に死んでいきましょうねと言うしかない。
生前に苦情を語ることを許されず死んで行った者には、あの世で口上の機会が与えられるのだという希望ですらない希望。
涙腺が緩んで仕方がない台詞だな。
そうして生きることの悲しみを癒された者は原点に返る。
「でも、仕方がないわ、生きていかなければ!」