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140億年の孤独

日々感じたこと、考えたことを記録したものです。

背徳者

2014-03-29 00:03:01 | ジッド
「僕は、はじめ誇りとしていた学識を心のうちで軽蔑するようになった。最初僕の全生命であった
あの研究も、もはやまったく偶然の因襲的な関係しかないように思われて来た。
僕は、別の自分を発見した。そして、ああ、なんたる歓びだ!
僕はそんなものとは別個に存在していたのだ。
専門家としての僕は、実に愚劣に思われた。人間としての僕は、自分にわかっていたろうか?
僕はやっと生まれたばかりだ。どんな人間に生まれたかは、まだわからなかった。
それこそ、これから知らなければならぬことだった。」

「どんな人間に生まれたか」を知ることが出来るのだろうか?
「人間が何か」すら知ることも出来ないのだから
「どんな人間に生まれたか」を知ろうなんて愚問ではないか?
そして学識を軽蔑して感性に忠実であったところで
やがてはその忌まわしい思惟に戻ってきてしまうのではないだろうか?
感性なき知性には意味がないのだろうが一方で感性だけに留まることが出来るだろうか?
画家や作曲家のしていることが知性と無関係とは考えられない。
絵や音楽は新しい秩序であり、秩序をもたらすのは知性だろうから・・・
古い絵や古い音楽や古い学問や古い宗教から逃れられないのは不幸なことだろう。
そして自分の主義主張から自由になれないのも不幸なことだろう。
そんなことを考えている時点でわたしも「背徳者」のひとりなのだろうか?
社会は秩序を維持するために徳を必要とする。この秩序は先ほど書いた秩序とは異なる。
人間を従わせるための秩序と人間が生み出す秩序は性質が異なる。
「どんな人間に生まれたか」なんて知らない。
知らなくてもやることは決まっている。

「・・・というのは、まるで死者の世界から戻って来た男のように、他人の中に立ち交じると、
僕はいつも異邦人だったからだ。」

「異邦人」はしばらく読んでいないが、あれはカフカの「変身」的に「異邦人」だったような気がする。
だが広い意味では、自覚を持ったなら異邦人にならざるを得ないのではないかと思う。
そもそも「他人」などというものは理解することが出来ない。
他人の中に立ち交じれる自分なんて「他人」に過ぎないだろう。
自分が見つめ続ける自分なんていつだって「異邦人」だろう。
そしてわたしたちはそうした「異邦人」的なものに共感している時点で
すでに矛盾している。

「今日、なぜ、詩や哲学が死文字と化しているか、君は知っているかい?
それは、これらのものが、生活から遊離したからだ。ギリシャでは、生活を直接理想化した。
だから、芸術家の生活は、それ自体がすでに詩の実現であったし、
哲学者の生活は、自己の哲学の実践だった。
だからまた、詩も哲学も生活の中に混じり合い、お互いに無縁の存在ではなく、
哲学は詩を育み、詩は哲学を謡うと言った具合に、
見事な融和が行われていたのだ。」

それにしても、どうしていつも「ギリシャ」を持ち出してくるのだろう?
キリスト教で衰退した文化は、いつだって「ギリシャ」だ。
彼らにとってはいつもデュオニソスが先生でなければならないらしい。
「ギリシャ」なんてなくても生きていけるじゃないか?
わたしたちが古代ギリシャ人を見習って生きていかなければならないとしたら
生きていたって仕方がないじゃないか?

狭き門

2014-03-22 00:02:26 | ジッド
「この瞬間が、わたしの一生を決定したのだった。わたしは、今もなお苦しく思わずには
そのときのことを思い出せない。もちろんわたしには、はなはだ不完全にしかアリサの悲嘆の
原因がのみこめていなかった。だがわたしには、そうした悲嘆が、この波打っている
いじらしい魂にとって、またすすり泣きにふるえているこのかよわい肉体にとって、
いかに強すぎるものであるかがひしひし感じられたのだった」

たとえば、あなたの一生を決定した出来事には、どんなものがあっただろうか?
わたしの一生を決定した出来事には、どんなことがあっただろうか?
あるいは、ただひたすらに流されて、こんなところにいるのかもしれない。
望んだ方向ではなく、望まぬ方向へ流されていったのかもしれない。
あるいは望んでも仕方がなかったのかもしれない。
「望まなければ失わないのに 求めずにはいられないよ どんな未来がこの先にあっても」
・・・これは「夢みたあとで」の歌詞だな・・・
一生を決定した出来事は、確実に記憶の中にある。
もしかすると、それは自分に都合の良いように変形された記憶であるかもしれない。
だが、どれが真実であるか、何が客観的な真実であるか、そんなことを記憶に求めても仕方がない。
ビデオテープとかSDカードに記録した動画は記録であって記憶ではない。
一生を決定するほどにシナプスを結合させ脳に固着した出来事というのは、
あるいは語りたくない種類のものであったとしても忘れることはない。
自分で何度も否定したところで拭い去れるようなことではない。
確かに忘れるというのはひとつの才能であるように思う。
そうすると私はその才能にはめぐまれなかったらしい。
ジェロームのように美しい瞬間によって決定された人生は祝福されるべきだろう。
私を含めた多くの人々の人生を決定してきたけっして美しくはない出来事もまた祝福されるべきだろう。
・・・アリョーシャであれば、そんなふうに考えるかもしれない。

「そしてわたしは、努力してそこからはいらなければならないという狭き門を見た」

狭き門とは、いったいなんなのだろう?
To the happy fewと同じことなのだろうか?
どうして幸福は狭くて少数のものでなければならないのだろうか?
徳を説く者に対する疑念のような軽蔑のような感情がわたしを支配する。
この感情は確かにニーチェによって惹起されるものと似ている。
ジッドはニーチェの礼賛者だったのかと、そんなことが今頃わかったのだった。
なんて私は無知なのだろう。

「ジュリエットは、とても幸福らしく思われます。はじめ、ピアノと読書をやめているのを見て
ちょっと悲しくなりました。でも、それはエドゥワールさんが音楽を好きでなく、
読書にも興味をもっておいででないからのことなのでいた。そして、夫のついていけないような
楽しみを求めないジュリエットの態度は、おそらく賢いものと言えるでしょう。
反対に、ジュリエットのほうでは夫の仕事に興味をもち、夫はジュリエットに何から何まで
説明してやっているのでした」

まあ別に音楽と読書がなくても生きていけるし幸福にもなれる。
あるいは音楽や読書がない方が幸福に近いのだろう。
21世紀の読書子は思索が幸福に通じるなんて考えてはいない。
地上のものであれ天上のものであれ幸福を目的にすることの愚かさを感じている。
ジュリエットは地上の幸福を得たがアリサは求めても得られぬ天上の幸福に滅ぼされる。
いったい著者はニーチェの敵なのか味方なのか?
文学的には滅ぼされる者の方が美しい。
ここにはそういう矛盾がある。
21世紀のエンタメは消費者への快感と感動の提供を惜しまない。
なにかしら集中力が必要なものとか考えなくてはついていけないことは排除される。
高尚なものなど求めてはいないがブタの餌の如きものに「いいね!」を期待されるのは困る。
そうすると高尚でなくとも、やはり少数であるしかないのか・・・

「あなたのおっしゃることがわかりませんわ。これはみんなつつましい人たちで、
一所懸命にその思うところを言って、わたしと率直に話をしてくれるんですの。
わたしには、はじめからこうした人たちがけっして美しい言葉のわなに身をまかせたり
しないだろうこと、わたしはわたしで、こうした人たちのものを読みながら、
うわついた賞賛などしていい気持になったりはしないだろうことがわかっていますの」

「軽蔑してもらいたいと思うような卑俗な信仰に関するくだらない小冊子が
並べられている」のを見て問い詰めるジェロームに対してアリサは答える。
ジェロームの愛(いや、そんなものは幻に違いないだろうが)に応えようとして
天上の幸福を求めたアリサは高尚なものに疲れてしまったのかもしれない。
「高尚なものや至高なものに、このオレの呪いあれ!」なんて言ってみたくなる。
美しさを誰かと共有しようとすることに無理があるのかもしれない。
美しいものはただ美しいと思えばよいだけであって「いいね!」を期待してはならない。
「『いいね!』に、このオレの呪いあれ!」

「だって、このわたしにどうしてあげられるかしら」と、すぐに彼女が言った。
「あなたは、いま、影に恋をしておいでなのよ」
「影にではないんだ、アリサ」
「心に描いておいでの姿に」

結局のところ、わたしたちは影に恋することしかできないのではないかと思う。
誰も、そのひとのあるがままを知ることは出来ない。
他者に「心」があることすら、私たちにはわからないのだという。
そもそも「心」が何であるかも私たちにはわからない。
だが、その言葉は、アリサが影になろうとしたから発せられたのではないだろうか?

「主よ、ジェロームとわたくしと二人で、たがいに助けあいながら、二人ともあなたさまのほうへ
近づいていくことができますように。人生の路にそって、ちょうど二人の巡礼のように、
一人はおりおり他の一人に向かって、《くたびれたら、わたしにおもたれになってね》と言えば、
他の一人は《君がそばにいるという実感があれば、それでぼくには十分なのだ》と答えながら。
ところがだめなのです。主よ、あなたが示したもうその路は狭いのです―――
二人ならんでは通れないほど狭いのです」

ブルックナーの6番を聴きながら、この感想を書いている。
指揮はオイゲン・ヨッフム、いちおう他の曲と区別は出来る。
7番以降の方が傑作と言われるし、4番の方が知名度が高い。
そんなことはどうでもよくて、6番は6番で好きだ、というただそれだけのこと
この気持を誰かと共有できるものだろうか?
この音の強弱を速度を重なりをどう表現したら伝えられるだろうか?
そんなもの言葉にした瞬間に嘘になるに決まっている。
一人でいる孤独の方が二人でいる孤独よりはましだ。
二人ならんでは通れないのだ。