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140億年の孤独

日々感じたこと、考えたことを記録したものです。

現象学

2015-06-21 00:05:53 | 木田元
木田元「現象学」という本を読んだ。

「メルロ=ポンティは、この現象学的還元に次のような見事な説明を与えてくれている。
『われわれは徹頭徹尾世界と関係しているからこそ、われわれがこのことに気づく唯一の方法は、このように世界と関係する運動を
中止することであり、あるいはこの運動とのわれわれの共犯関係を拒否すること(フッサールがしばしば語っているように、
この運等に参加しないでそれを眺めること)であり、あるいはまた、この運動を作用の外に置くことである。
それは常識や自然的態度のもっている諸確信を放棄することではなくて―――それどころか逆に、これらの確信こそ
哲学の恒常的なテーマなのだ―――むしろ、これらの確信がまさにあらゆる思惟の前提として<自明なものになっており>、
それと気づかれないで通用しているからこそそうするのであり、したがって、それらを喚起しそれとして出現させるためには、
われわれはそれらを一時さし控えなければならないからこそ、そうするのである』」

「ハイデガーは、現存在が、気がついた時にはいつもすでに世界のうちに投げ出されてあるという『被投性』に受動的契機を、
そして、にもかかわらずその世界内存在をおのれの存在として投げ企てうるという『企投』に能動的契機を認め、
内存在とはこれら両契機が同様の根源性をもってからみあう『被投的企投』にほかならないと考えるのである」

『現象学的還元とは、一般に信じられてきたように観念論哲学の形式であるどころか、実存的な哲学の定式なのであって、
それゆえハイデガーの<世界内存在>も、現象学的還元を土台としてのみ現われたのである』

現象学的還元によってハイデガーの<世界内存在>も現われたということである。
フッサールにとって何が現われたのかはよくわからない。
カントの超越論には現象学的還元といった土台はないので観念論ということになってしまいそうだ。
「世界と関係する運動」というのは認識しようとする思惟のことではなくて知覚や行動のことを指している。
<世界内存在>というのも観念ではなく、現存在のありのままの姿であって、私たちはそこから逃れられない。

「哲学とは、先在している真理を反映するものではなく、芸術と同じくある『真理の実現』なのである。
もしそこに先在しているロゴスがあるとすれば、それは世界そのものであり、哲学とはこの未完成の世界を捉えなおし、
これを全体化したり思惟したりしようという努力、つまりは『世界を見ることを学びなおすこと』にほかならないのである」
芸術というのは確かに「世界を見ることを学びなおすこと」であるように感じる。
モーツァルトが新しい音楽によって世界を変えてしまうと、それに追随する人々は新しい世界の見方を学ぶことになる。
そしてベートーヴェンが実現した世界を学び、ワーグナーを学び、マーラーを学び、シェーンベルクを学ぶ。
新しい世界を生み出すことができない私たちは、誰かが実現してくれる新しい世界をいつも待っている。
芸術に触れたからといって崇高になるというわけではない。
ただ新しい世界を学ぶ機会を私たちは待っている。

そして哲学も「芸術と同じ」ようなものなのだという。

現代の哲学

2015-04-18 00:05:39 | 木田元
木田元「現代の哲学」という本を読んだ。

「心理学主義は、なるほど、いっさいの心理的・社会的な規定を越えた無条件な真理の領域を想定する、いわゆる
論理主義に対する批判的立場としては有効なものであったが、その最大の欠点は、その主張がみずからにもはねかえってくると
いうところにある。もしかれらの主張が正しいとすれば、そのかれらの主張そのものも、経験的個人としてのかれらの
生理的・心理的機構に相対的な個人的主張にすぎないことになり、真理として受け容れるわけにはいかないことになる。
この立場では、普遍的な学問的認識というものは原理的に不可能なのである」
「しかし、このばあいも、もしかれら(社会学者)の主張が正しく、われわれの思考や思想がすべて社会的に制約され、
社会的状況の表現にすぎず、そうした社会的状況に限界がある以上、それらの思想も絶対的な意味で真ではありえないと
いうことになれば、当の社会主義の主張そのものも19世紀の西欧社会の状況のある種の反映にすぎず、
それ自身のうちに真の意味をもたないということになってしまおう」
「ところで、この歴史主義についても、心理学主義や社会学主義について言ったのと同じことが言える。
つまり、もしすべての思想が外的な歴史的状況の反映ないしその操り人形にすきないとすれば、そうした歴史主義の
主張そのものも同じわけであって、そこに何ら普遍的真理を認めるに及ばない、ということになろう」
「こうして、当時精神科学の諸領域を襲った実証主義的傾向は、いずれにせよわれわれの思考や思想のもつ内具的真理
―――それ自体に本質的にそなわった心理―――というものを認めず、それを心理的であれ社会的・歴史的であれ
何らかの外的・偶然的諸条件の単なる結果と見ることによって、自己矛盾に陥り、一般に学問的認識の可能性を
否定するものであった。ここでも理性―――普遍的真理とか普遍的価値―――が危機に瀕していたわけである」

そういうわけで実証主義的傾向(心理学主義・社会学主義・歴史主義)では「普遍的真理」といったものは見あたらないことになる。
もともと私たちがこの身を擦り減らして生きている世界では、そんなものは何の役にも立たないに違いない。
耐え難きを耐え、忍び難きを忍び、下げたくもない頭を下げ、理不尽さを耐え忍びながら生きているのだ。
普遍的真理など要らないので、この私の生活を保障してくれるだけのカネをくれと、そんなふうに思うことが度々だ。
それでも人は何かを語らずにはいられない。「普遍的真理」などないとわかっていたとしてもだ。
そのような思想の断片(断片とは言っても彼らがその一生を捧げた成果である)が積み重ねられて行く。
そして私たちは、それらの断片を拾い上げ、理解し、考察し、次の断片を作り上げる。
私たちが生きている意味なんてないにしても、私たちが生きているということはそういうことなのだ。
超人と動物の狭間にあって蠢くことを止めないでいる。今更そのことにすら気が付かない生き方には戻れない。

「したがって、有機体と環境との関係は、物理的系とその場の関係とは比較できないような、ある生命的な<意味>を媒介とする
弁証法的関係と考えねばならない。有機体の反応はどれほど要素的な反応であっても、それが遂行される器官の種類によってではなく、
それのもつ生命的意味にしたがって分類されねばならないのである」
「生命的意味」というのはよくわからない言葉だが、ダーウィンと同じことを書いているのではないかと思う。
「有機体と環境との関係」と書いているところからして、そう解釈できる。
ここでは「物理的」ではないということが強調されているらしい。
だが「生命的」というのは、よくわからない言葉だ。

「動物にとって対象は、その時々のパースペクティヴのなかに現われ、その場の構成に依存する機能値をもっているだけのものである。
しかし、<物>とは、そうした多様なパースペクティヴのなかに現われながら、決してその<現われ>に還元されてしまわないもの、
さまざまな機能において現われる同一の<もの>でなければならない。したがって、こうした<物>としての構造が現われるのは、
直接与えられているパースペクティヴに閉じこめられることなく、これを潜在的なパースペクティヴと交互表出の関係におき、
運動空間と視覚空間とを結びつけ、ある感覚の構造を他の感覚へ移しうるような、つまりはさまざまな関係を関係させ、
構造化する独自の行為の水準においてである。これがメルロ=ポンティのいう行動のシンボル的形態であり、
真の意味での人間的行為のレベルなのである」
『シグナルとシンボルは理論上、二つの異なった世界に属している。すなわちシグナルは物理的な『存在』の世界の一部であり、
シンボルは人間的な『意味』の世界の一部である。シグナルは操作者であり、シンボルは指示者である。
シグナルはたとえシグナルとして了解され、用いられたとしても、一種の物理的または実体的存在であるが、
シンボルはただ機能的価値しかもたない』
「実在のシグナルが消え去ったあとも、有機体が内的にシグナルにかわる代理を産出して反応を完了させるばあい、
この代理となるものがシンボルなのである」
「いずれにせよ、このシンボル的行動によって、人間は直接的自然的環境を越え、いわば<世界>に開かれることになる。
人間存在が<世界内存在>という基本構造をもつといわれるのも、実はこの意味にほかならない。
したがって、ここで言われる<世界>とは、決して存在者の全体を指すのではない。
それは、物理的・生物的自然の構造を超出して、そこに創出された人間的な<構造>であり、しかも、この構造が人間によって
つくり出されたシンボルの体系である以上、それはむしろ人間そのものの存在構造だと言ってもよいであろう。
マルクスはしばしば「人間すなわち人間的世界」という言い方をしているが、事態の本質を正しく捉えた表現であると思う」

ここでは「シンボル的形態」が「人間的行為のレベル」であるとか、
「シンボル的行動」によって自然的環境を越え、「人間存在が<世界内存在>という基本構造をもつ」と考えられている。
ところでその「シンボル」と動物がそこに留まっているところの「シグナル」の差異はどこにあるかというと、
「シグナルが消え去ったあとも、有機体が内的にシグナルにかわる代理を産出して反応を完了させる」ということだけらしい。
そうすると「シグナル」は「組合せ回路」であり、「シンボル」は「順序回路」であるという違いしか残らない。
「組合せ回路」に比較すると「順序回路」は内部状態を持っており、生体の場合は記憶に相当するのだろう。
そうすると「シグナル」は「記憶」によって生み出され、したがって「人間的行為」だとか「世界内存在」というものも
「記憶」によって生み出されるという、まことにもっともであるというか、陳腐というか、普通というか、
そういうことを語っているようにしか思えない。
そして「組合せ回路」とか「順序回路」といったものはただの論理でしかなく、
「数学の危機」であるとか「物理学の危機」であるとか「理性的なものの危機」を感じさせない。
先ほどの「生命的意味」といった用語の無意味さと同様の無意味さがここにもあるようだ。
もともと「シンボル」だから「人間的行為」だとか「世界内存在」だと語ることに意味などないと思う。
「世界内存在」はそれのみでよく検討しなければならないことであって「シンボルだから」ということはどうでも良い。
「人間的行為」とか「人間的世界」というものも意味不明だ。
シンボルかどうかはどうでも良い。

「つまり、われわれは日常暗黙のうちに<世界というものがわれわれの経験とはかかわりなく、それ自体の超越的存在を持続し、
すべての事物はこの世界の内部に存在し、すべての出来事はこの世界のなかで生起する>ということを前提にして、
物を考えたり行為したりしている。しかし、フッサールによれば、世界の超越的存在のこうした素朴な想定、
つまり<世界定立>は、実はわれわれの日常的経験の積み重ねによって形成された一種の思考習慣にすぎず、
なんら哲学的反省を経ていない一つの先入見、いや、およそありうるなかでももっとも根本的な先入見なのである。
フッサールは、こうした先入見によって想定されているわれわれの日常的な生き方を<自然的態度>と呼ぶが、
そうなると、同じように世界の存在を前提してかかるいっさいの自然科学や人間諸科学も、やはりこの自然的態度を共有しているか、
少なくともその延長線上にあることになる」

「すべての出来事はこの世界のなかで生起する」というのは「思考習慣」にすぎないということらしい。
すべての人間がそのような先入見を持っているのだから、そのような世界は疑いようがないのだ。
そしてそのような前提がなければ、私たちは経験を共有することもできない。
そのような先入見が「真理」ではないとしたら、いったいどのような「世界」があるというのだろうか?
実際のところ、そのような先入見に基づいた「世界」しか私たちは知らないのではないだろうか?
絶対時間とか絶対空間は実際の時空とは違うのかもしれないが、空間が歪んでいるかどうかなんて「生活」に関係ない。
一方では「生活」であるとか「生きられる体験」に帰れと言いながら、実はそれは前提であり先入見であるという。
おそらくそのどちらもが正しいのだろうが、ここでも私たちは引き裂かれる。
ハイデッガーの「世界内存在」はフッサールの「世界定立」を発展させたものなのだろう。
それはほとんどの人にとってはどうでもよいことだろうが、一部の人にとっては神秘であると思う。
あたり前ではあるが、立ち止まってしまう。

「こうなってくると、<自然的態度>とは、もともと他の態度とならぶ一つの態度といったふうなものではなく、
いっさいの態度や立場に先立って、それを―――したがって超越論的態度をも―――可能ならしめるところの根源的態度であり、
それをもし先入見・臆見(ドクサ)と呼ばねばならないとすれば、それはいっさいの真理に先立つ根源的臆見だということになろう」
超越論的態度を可能ならしめるのが<自然的態度>ということであれば、
「哲学的反省」によってその「思考習慣」を改めるということは不可能ということになってしまうのだろう。
それが可能なことであるか不可能なことであるかを判断することすら出来ないだろう。
私たちは「根源的臆見」から逃れることは出来ないのだろうか?

うーん、やっとフッサールについて記載されているところの感想を書いたが、このペースでやっていると終わりそうにない。
この後、ハイデガー・メルロ=ポンティ・フロイト・ソシュール・レヴィ=ストロース等が登場する。
この本は1969年、つまり45年前に書かれていて、「ハイデガーの思想」「哲学と反哲学」「マッハとニーチェ」に比べると
読みにくいが、入門書として適しているというか、各々の思想についての見取り図が示されている感じがする。
「知りたい」と思わせてくれたことに感謝したい。

哲学と反哲学

2015-03-28 00:05:01 | 木田元
木田元「哲学と反哲学」という本を読んだ。

「では、マッハの言う<要素>、もっとくわしく言えば<感性的要素>とはいかなるものか。
彼はその例として『色、音、温かさ、圧感、空間、時間等々』を挙げている。
経験を構成しているこれら直接の感覚所与こそが、世界の究極の構成要素なのである。
・・・
マッハの考えではこれらの要素は、実在する物体の属性と見られるべきでもなければ、
また何らかの経緯でわれわれのうちに生じた主観的表象、観念と見られるべきでもない。
それは物的でも心的でもない<中性的>存在なのである。
それがいかなる意味なのか、野家啓一氏の実に卓抜な解説を借りることにしよう。
『例えば私がローソクを見ているとする。その時見る主体は私であり、
見られている対象はローソクであって、そこには何のまぎれもない。
だが、私がそのローソクに手をかざす時、果して<熱い>のは私の手か、それともローソクの炎か。
このまぎれは、すぐさま前者にも拡張される。すなわち、見られている炎が<赤い>のか、
それとも見ている私の網膜が<赤さ>を感ずるだけなのか。答えは二様に分れる。
<熱さ>や<赤さ>を対象の客観的性質として炎の側に帰属させる道と、それを私の主観的性質とみなす道である。
だがマッハは、この二様の答のいずれも拒否する。彼の答はこうである。
そこには<熱さ><赤さ>という<要素>あるいは<感性的要素>が直接現前しているだけだ、と。』
マッハにとって存在するのは、相互の多様な函数的依属関係のうちに現れてくる<感性的要素>だけであり、
<熱さ>や<赤さ>を担う実態的<物体>の存在など必要ない。
『物体が感覚を産出するのではなく、要素複合体(感覚複合体)が物体をかたちづくるのである。
・・・<物体>とはすべて要素複合体・・・に対する思想上の記号にすぎない。』
・・・マッハは<自我>もまた『比較的鞏固に連関しあっている要素群』を指す『名称』、
『暫定的概観のための実用的統一』、『観念的な思惟経済的単位』にすぎない、
これを実体化するのは形而上学的幻想だ、と主張する。
『第一次的なもの[根源的なもの]は、自我ではなく、諸要素(感覚)である。
・・・・・・諸要素が自我をかたちづくるのである。
私[自我]が緑を感覚する、ということは要素緑が他の諸要素(感覚、記憶)の或る複合体のうちに
現れるということの謂である。私が緑を感覚するのをやめたり、私が死んだりすると諸要素は
もはや従前通りの結合において現れない。それだけの話である。
観念的・思惟経済的な、実在的でない統一[単位]が存立しなくなったというだけのことである。
自我は不変の、確定した、先鋭に区画された統一ではない。』
こうして、唯物論・実在論が拠りどころとしてきた<物体>も<物質>も、また観念論によって
いっさいの存在を支える基点とされた<自我>も、<感性的要素>に解体されてしまう。」
そんなことが書かれていた。

「自我」であるとか「考える」ということが実際のところどういうことなのか私たちはずっと「考えて」きた。
電王戦でプロ棋士を負かすコンピュータは「考えている」のだろうか?
ホーキング博士は人工知能が人間を滅ぼすと警告しているが、その「知能」とは何なのだろうか?
どの時点で人工知能が私たちを滅ぼそうと「考える」のだろうか?
「より良いものになろうとする欲」をプログラムすれば「考える」ようになるのだろうか?
その場合の「欲」とはいったい何なのだろうか?
そんなふうにいろいろ「考えて」みるのだが「考える」ということはずっとわからないままだ。
「自我」とか、人間は「知性」を持っているとかいうことを、私たちは信じている。
人類を讃える人々は必ずその「自由意志」を賛美する。
デカルトはあらゆるものを疑ってみたが「考える」自我は否定はしなかった。
そこには確かに「考える」という現象はあるのかもしれないが「考える私」というのは存在するのだろうか?
「私」が「考える」というのは同語反復ではないだろうか?
「諸要素(感覚、記憶)」を生存に有利な情報として活用するということを
「諸要素の或る複合体」が果たしている。「複合体」は活用されるものであり、活用するものでもある。
そしてその統一された「複合体」が失われるという恐怖こそが生存に最も役立つことであるかもしれないので
「自我」がないという主張を私たちは退ける。それは死を避けようとすることに似ている。
「<自我>が<感性的要素>に解体される」というのであれば、<感性的要素>の組み合わせが<個性>であるかもしれない。
そして<感性的要素>がニューロンが保持するON/OFF情報に還元されるのであれば、
やはり私たちはオートマトンかステートマシンといったものとそう変わりはないのだろう。
そのようなオートマトンが集まって国家を作り、あるいは憎しみ合って戦争をしたりするのは滑稽なことに違いない。
オートマトンどうしが選挙で争ったり、市場シェアで争ったり、あらゆる組織で主導権を争ったりしている。
非人間的に富や利益を追求したとしても、オートマトンなのだから人間的でなくても良いかもしれない。
良いことでも悪いことでもそこで繰り広げられる物語が失われてしまうことに私たちは抵抗するのだろう。
どこまで行っても自我にしがみつき、そして死を怖れている。
情報と論理の組み合わせが自我を構成するようになるのであれば、コンピュータが私に戦いを挑んできたり、
冗談を言うようになっても不思議はないと思うが、そうならないのは何故だろう?
要素とは言ってみても実際のところ彼らには表象が欠けているからかもしれない。
エサ・異性・敵と言った生存・生殖に由来する表象であるとかON/OFF情報でなければ
生存する自我(感性的要素の複合体)は形成されないのかもしれない。
<自我>が<感性的要素>の組み合わせであるとしたら私たちはモノにすぎないということだろうか?
実はここでは、物体も物質も物自体も否定されている。
量子力学でいうところの粒子性とか波動性のような日常的に受け入れがたい現象は
実体としてのモノがないということを示唆している感じがするが
それでもなお客観的な真実があるのだと科学者が信じているのだとすれば
それは信仰の一種にすぎないのかもしれない。
「私たちはモノではない」という主張は「私たちにはココロがある」という主張とつながっている。
そしてココロにしがみつこうとするのはやはり「百年後の自分の不在」に関する恐怖なのだ。
仏教や道教での主客を克服しようとする試みは、もともと主客なんてものはないと考えると納得がいく。
そうすると遅れていたのはやはり西洋文明ということになるのだろう。
ココロがないということは死んでいるということではないのだが、
ココロを認めないことに対して抵抗する人から、あなた死んだらどうですか、と言われてしまうかもしれない。
そして科学技術のもたらした繁栄ゆえに、未開の文明に対する経済的な成功ゆえに
現にそこにある富を誇るがゆえに、物質に対する信仰もなくならない。
その信仰を保持する個体が生存確率を増やしているのだから、その信仰はある意味で真実(有益な情報)なのだ。
「<自我>も<物体>も<感性的要素>に解体されてしまう。」ということは
それを超越しているのであって有益な情報というわけではない・・・
「・・・つまり存在が存在者を集め、それが存在者たりうるようにしているのであり、
そうだとすれば、存在とは<Versammlung(集めること)>、<ロゴス(レゲイン→ロゴス)>だと言うのである」
ということをハイデガーは考えていたという。
ここで言うところの「存在」は「感性的要素の複合体」であるような感じがする。複合体がさらに要素を集めている。
そのことと「存在」が重なるような感じがする。

「マッハにとって感覚が世界の究極的な構成要素だと言っても、それは、世界が感性的要素の無秩序なモザイクだと
いうことではない。それらの要素は相互に函数的に依属し合い、構造的に組織された『全体』をなしているのである。
そして、<自我>もまた、そうした諸要素の『比較的恒常的に組織された複合体』でしかない。
となれば、<認識>ということも、世界を超え出た認識主観が世界を外から眺めるといった純粋な観察などでは
ありえないことになる。認識する者もすべてが函数的に依属し合う世界のただなかに身を置き、それに適応しようとする
一個の機能環でしかない。マッハにとって、認識とは、したがってまた法則定立を目指す科学的認識にしたところで、
生物学的適応の一形式にすぎないのである。
『自然法則とは、われわれの見解からすれば、自然の中で正しい道を見いだし、不案内であったり混乱したりすることなく
諸現象に立ち向かうために、われわれの心理学的欲求が産み出したものである。』
そんなことが書かれていた。
最も素晴らしい認識、あるいは業績といったものは最も適応した複合体によってもたらされるのかもしれない。
心理学者が無意識と呼んでいる作用から生じる創造的行為とは複合体の中での要素の並べ替えにすぎないのかもしれない。
私たちが歴史上の偉人を讃える時には、その意志を、その行動力を讃えるのだが、
それは「形而上学的幻想」であるところの個々の自我を留めようとする虚しい努力であるかもしれない。
自然界において美しい結晶が成長するのと同じように
複合体は未知の法則を見いだし、
複合体は未知の旋律を見いだし、
複合体は未知の思想を見いだす。