木田元「現象学」という本を読んだ。
「メルロ=ポンティは、この現象学的還元に次のような見事な説明を与えてくれている。
『われわれは徹頭徹尾世界と関係しているからこそ、われわれがこのことに気づく唯一の方法は、このように世界と関係する運動を
中止することであり、あるいはこの運動とのわれわれの共犯関係を拒否すること(フッサールがしばしば語っているように、
この運等に参加しないでそれを眺めること)であり、あるいはまた、この運動を作用の外に置くことである。
それは常識や自然的態度のもっている諸確信を放棄することではなくて―――それどころか逆に、これらの確信こそ
哲学の恒常的なテーマなのだ―――むしろ、これらの確信がまさにあらゆる思惟の前提として<自明なものになっており>、
それと気づかれないで通用しているからこそそうするのであり、したがって、それらを喚起しそれとして出現させるためには、
われわれはそれらを一時さし控えなければならないからこそ、そうするのである』」
「ハイデガーは、現存在が、気がついた時にはいつもすでに世界のうちに投げ出されてあるという『被投性』に受動的契機を、
そして、にもかかわらずその世界内存在をおのれの存在として投げ企てうるという『企投』に能動的契機を認め、
内存在とはこれら両契機が同様の根源性をもってからみあう『被投的企投』にほかならないと考えるのである」
『現象学的還元とは、一般に信じられてきたように観念論哲学の形式であるどころか、実存的な哲学の定式なのであって、
それゆえハイデガーの<世界内存在>も、現象学的還元を土台としてのみ現われたのである』
現象学的還元によってハイデガーの<世界内存在>も現われたということである。
フッサールにとって何が現われたのかはよくわからない。
カントの超越論には現象学的還元といった土台はないので観念論ということになってしまいそうだ。
「世界と関係する運動」というのは認識しようとする思惟のことではなくて知覚や行動のことを指している。
<世界内存在>というのも観念ではなく、現存在のありのままの姿であって、私たちはそこから逃れられない。
「哲学とは、先在している真理を反映するものではなく、芸術と同じくある『真理の実現』なのである。
もしそこに先在しているロゴスがあるとすれば、それは世界そのものであり、哲学とはこの未完成の世界を捉えなおし、
これを全体化したり思惟したりしようという努力、つまりは『世界を見ることを学びなおすこと』にほかならないのである」
芸術というのは確かに「世界を見ることを学びなおすこと」であるように感じる。
モーツァルトが新しい音楽によって世界を変えてしまうと、それに追随する人々は新しい世界の見方を学ぶことになる。
そしてベートーヴェンが実現した世界を学び、ワーグナーを学び、マーラーを学び、シェーンベルクを学ぶ。
新しい世界を生み出すことができない私たちは、誰かが実現してくれる新しい世界をいつも待っている。
芸術に触れたからといって崇高になるというわけではない。
ただ新しい世界を学ぶ機会を私たちは待っている。
そして哲学も「芸術と同じ」ようなものなのだという。
「メルロ=ポンティは、この現象学的還元に次のような見事な説明を与えてくれている。
『われわれは徹頭徹尾世界と関係しているからこそ、われわれがこのことに気づく唯一の方法は、このように世界と関係する運動を
中止することであり、あるいはこの運動とのわれわれの共犯関係を拒否すること(フッサールがしばしば語っているように、
この運等に参加しないでそれを眺めること)であり、あるいはまた、この運動を作用の外に置くことである。
それは常識や自然的態度のもっている諸確信を放棄することではなくて―――それどころか逆に、これらの確信こそ
哲学の恒常的なテーマなのだ―――むしろ、これらの確信がまさにあらゆる思惟の前提として<自明なものになっており>、
それと気づかれないで通用しているからこそそうするのであり、したがって、それらを喚起しそれとして出現させるためには、
われわれはそれらを一時さし控えなければならないからこそ、そうするのである』」
「ハイデガーは、現存在が、気がついた時にはいつもすでに世界のうちに投げ出されてあるという『被投性』に受動的契機を、
そして、にもかかわらずその世界内存在をおのれの存在として投げ企てうるという『企投』に能動的契機を認め、
内存在とはこれら両契機が同様の根源性をもってからみあう『被投的企投』にほかならないと考えるのである」
『現象学的還元とは、一般に信じられてきたように観念論哲学の形式であるどころか、実存的な哲学の定式なのであって、
それゆえハイデガーの<世界内存在>も、現象学的還元を土台としてのみ現われたのである』
現象学的還元によってハイデガーの<世界内存在>も現われたということである。
フッサールにとって何が現われたのかはよくわからない。
カントの超越論には現象学的還元といった土台はないので観念論ということになってしまいそうだ。
「世界と関係する運動」というのは認識しようとする思惟のことではなくて知覚や行動のことを指している。
<世界内存在>というのも観念ではなく、現存在のありのままの姿であって、私たちはそこから逃れられない。
「哲学とは、先在している真理を反映するものではなく、芸術と同じくある『真理の実現』なのである。
もしそこに先在しているロゴスがあるとすれば、それは世界そのものであり、哲学とはこの未完成の世界を捉えなおし、
これを全体化したり思惟したりしようという努力、つまりは『世界を見ることを学びなおすこと』にほかならないのである」
芸術というのは確かに「世界を見ることを学びなおすこと」であるように感じる。
モーツァルトが新しい音楽によって世界を変えてしまうと、それに追随する人々は新しい世界の見方を学ぶことになる。
そしてベートーヴェンが実現した世界を学び、ワーグナーを学び、マーラーを学び、シェーンベルクを学ぶ。
新しい世界を生み出すことができない私たちは、誰かが実現してくれる新しい世界をいつも待っている。
芸術に触れたからといって崇高になるというわけではない。
ただ新しい世界を学ぶ機会を私たちは待っている。
そして哲学も「芸術と同じ」ようなものなのだという。