140億年の孤独

日々感じたこと、考えたことを記録したものです。

名古屋フィル#134ベルク ヴァイオリン協奏曲『ある天使の想い出に』

2023-11-21 12:57:41 | 音楽
第517回定期演奏会〈死と継承〉
ベルク:ヴァイオリン協奏曲『ある天使の想い出に』
細川俊夫:光に満ちた息のように
ワーグナー:歌劇『ローエングリン』第1幕への前奏曲
R.シュトラウス:交響詩『死と浄化(変容)』 作品24

アルマ・マーラーが、再婚したグロピウスとの間にもうけた娘マノンをベルクはたいそうかわいがっていたということだが、そのマノンは18歳で夭折してしまう。
その『天使』に捧げるものとして、このヴァイオリン協奏曲が作曲されたと伝えられている。
曲は1935年8月に完成されたが、その後ベルクは敗血症にかかり、同年12月に急逝した。この曲は彼自身のレクイエムと言えるかもしれない。

存在している者が意に反して消滅させられる。それはとても理不尽なことに思える。
地球より重いと言われることもある人間一人一人のかけがえのない命は、数十年の猶予の後に、例外なく召し上げられる。
ずっと存在していたいと思っても、その願いが叶うことはない。不本意であっても、いつか自分が失われてしまうという事実を受け入れねばならない。
不満を口にしても聞き入れてくれる者は何処にもいない。
それでも生きていたことを覚えていれくれる人がいれば、その『想い出』の中に人は生き続けることができるのだろうか? 
私が死んだとしても、かつて私が生きていたことを覚えていてくれる人がいれば、私は完全に消滅する訳ではないのだろうか? 
だが、想い出を胸に生き続ける者がいたとしても、その者もいつかこの世界に存在する権利を剥奪されてしまう。
私たちは何て悲しい宿命を背負って、この世に生まれて来ているのだろう? 
そういうことがわかっていても私たちは生き続ける。
一切が無駄になることがわかっていても私たちの感性が働きを止めることはない。
そこで感じる喜びや哀しみこそかけがえのないものだと信じて、限りある人生を精一杯生きるしかない。
この曲を聴いていると、そんな気がして来る。

名古屋フィル#133ラヴェル クープランの墓

2023-10-22 11:19:55 | 音楽
第516回定期演奏会〈新しい音楽の継承〉
ラヴェル[作曲者,J.F.タイヤール編]:クープランの墓(全6曲版)
マルタン:3つの舞曲
ドビュッシー:神聖な舞曲と世俗的な舞曲
ホリガー:アルドゥル・ノワール(黒い熱)-ドビュッシーの「燃える炭火に照らされた夕べ」による
ドビュッシー:海-管弦楽のための3つの交響的素描

墓(Tombeau)というのは、故人を追悼する器楽曲のことを指しているらしい。
そして作曲者が追悼しているのはクープランではなくて、第一次世界大戦で犠牲となった彼の知人たちのことらしい。
かつて存在した人たちが、この大地から姿を消してしまった事実をいつまでも受け止められず、ただ呆然と立ち尽くしている。
胸にぽっかり空いてしまった穴を塞ぐ物をずっと探している。死を知った時の感情の昂ぶりが通り過ぎてしまってからは、ただ空虚だけが残る。
この曲は、そんな抑圧された哀しみを綴る音楽かもしれない。
戦争が原因でなくても、いつか人間は死を迎える。死にたくない、意識を持つ者が何故、黙って死を受け入れなければならないのか、
その不条理を訴えかけたところで誰も答えてはくれない。ただ墓標を訪れて、花を供えることくらいしか私たちにできることはない。
そこにはただ静かに風が吹いているだけかもしれない。そんな時にふと、何か超越した存在に包まれる気がする。私たちは何度も生き死にを繰り返している。
かつて存在した者が死に、その身体を構成していた有機物はばらばらに分解され、目に見えない分子に戻る。同じ分子は何度も生き物の身体に使われる。
そしていろんな動物や植物を経由して来た分子は今、私の身体を構成している。
一瞬のうちに私は何千年もの、何万年もの間に起きたことを体験したような気持ちになる。
そこでは故人も笑っていた。酒を酌み交わしながら朝になるまで私たちは語り合っていた。
懐かしい思い出か、それともただの空想なのか、死が遠くなるにつれて何が本当にあったことなのかさえ怪しくなる。
空は相変わらず空のまま、私たちを見下ろしている。雲はあの時の雲ではないかもしれないが、そこに存在している。
決して死ぬことのない空と雲と大地を前にして、私たちはすでにいなくなった故人を偲んでいる。
そして次は自分の番であることを自覚している。

名古屋フィル#132プロコフィエフ交響曲第5番

2023-09-18 21:11:55 | 音楽
第515回定期演奏会〈ロシア・ロマンティシズムの継承〉
ラフマニノフ:ピアノ協奏曲第2番ハ短調 作品18
プロコフィエフ:交響曲第5番変ロ長調 作品100

うかつにも前回、ラフマニノフのピアノ協奏曲第2番について書いてしまっていた。今月の演奏曲ということを把握していなかった。
ではプロコフィエフの交響曲第5番について何か書けるだろうか? ちょっとむずかしそうだ。
今回のテーマは「ロシア・ロマンティシズムの継承」ということだが、これもちょっとむずかしい・・・
昨日、YouTubeで知った話。ロシアでは平均して月に一回暗殺が起きているらしい。まったくおそろしい国だ。それは今だからなのだろうか? 
確かに今の国家元首には良くない噂がいろいろある。だが、ピョートル大帝の時代とか、もっとひどかったのではないかと思う。
昔はロシアだけではなくてどの国でも権力闘争は命懸けだった。選挙によって政権が代わるのではなく、戦争によって政権が代わっていた。
そんな恐ろしい国でショスタコーヴィチは時折、政権寄りの音楽を書いて当局の追及をかわしていたようだが、でも暴力や恐怖や死を扱った音楽も書いている。
だが大衆的なものであっても前衛的なものであっても、そこにロマンティシズムのようなものはひとかけらも感じられない。
結局、ロシアでロマンティシズムと言えばチャイコフスキーではないだろうか?(ラフマニノフを除く)
凍てついた大地と共に生きる素朴な農民の姿。ロマンティシズムというよりはノスタルジーかもしれない。
素朴ですぐに騙される。良くない噂を耳にしても半裸になったプーチンを見たら、頼もしいと感じてしまうような人たち。
そんな国のロマンティシズムを求める私たち。。。
プロコフィエフの曲はあまり知らない。交響的協奏曲は好きだがロマンティシズムという気がしない。交響曲第5番もそんなにロマンティックとは思わない。
1944年に完成ということだから戦争中に書かれていたことになる。当然、そこにはショスタコーヴィチの第7番のように戦争を賛美するような力強い内容が求められる。
何者にも屈しない力強いロシアの精神。そんな感じ。
プロコフィエフはこの交響曲について、以下のように述べているということだ。
「戦争が始まって、誰も彼もが祖国のために全力を尽くして戦っているとき、自分も何か偉大な仕事に取り組まなければならないと感じた。」
「わたしの第5交響曲は自由で幸せな人間、その強大な力、その純粋で高貴な魂への讃美歌の意味を持っている。」
そのような高貴な魂を持つ民族の軍隊は日ソ中立条約を破棄して北方四島を占領し、今でも紛争の種になっている。
プロコフィエフが戦争に対して本当にそんなことを考えていたのかはよくわからない。そもそも自由に発言することが許される国ではないだろう。
ロシアや中国や北朝鮮に生まれなくて良かったと言いたいところだが、この国に本当に言論の自由があるのかは最近、よくわからなくなって来た。
芸能事務所に忖度して性犯罪に対して沈黙していたメディア。権力者が亡くなってからカルト教団との関係が暴露される政界。
権力者が生きている間は報道機関は沈黙する。つまり現在は、現在の権力に不都合な事実は隠蔽されるのだろう。音楽や芸術がその手先になるのはどうかと思う。
生き延びることを最優先すべきだが、事実から目を背けなかったという点で「バビ・ヤール」のような曲を残して死んで行った作曲家の方が素晴らしくはないか? 
だが、作曲家自身の曲に対する言及にはどの程度、意味があるものなのだろうか? 
それが平時に生まれたものなのか、戦時中に生まれたものなのか、それはあまり重要ではない気がする。
作品は生まれ落ちた時から、作者の手を離れて独自の道を歩き始める。それは後の時代の価値観によって様々に都合よく解釈される。
そこに唯一の絶対的な姿があるのだと信じて、指揮者がその姿を血眼になって見出そうとしても、
その時代に生きている彼はその時代のバイアスを受けている自身を認識することはない。
そして作曲者が死んだ後も、指揮者や演奏者が死んだ後も、感銘を受けた聴衆が死んだ後も、曲は生き続ける。
私たちは切り取られたその一瞬を共有して満足して帰路に着く。それで十分かもしれない。

名古屋フィル#131ラフマニノフ交響曲第3番

2023-07-17 09:29:53 | 音楽
第514回定期演奏会〈スペイン・ギターの継承〉
ラヴェル:スペイン狂詩曲
カニサレス:地中海協奏曲-ホアキン・ロドリーゴに捧げる[日本初演]
ラフマニノフ:交響曲第3番イ短調 作品44

「ラフマニノフ 交響曲第3番」と入力してChatGPTに尋ねてみた。
「ラフマニノフの交響曲第3番は、ロシアの作曲家セルゲイ・ラフマニノフ(Sergei Rachmaninoff)によって作曲された交響曲です。
彼はロマン派の作曲家として知られ、ピアニストとしても非常に有名です。
交響曲第3番は、彼が作曲した3つの交響曲のうちの1つであり、彼の最後の交響曲でもあります。
作曲は1906年から1907年にかけて行われ、初演は1907年11月30日にロシアのサンクトペテルブルクで行われました。
初演は成功を収めたものの、初版の演奏は作曲者自身の指揮の下で行われたにもかかわらず、彼自身は作品に満足せず、改訂を重ねました。
交響曲第3番は、演奏技巧と情熱的な表現が要求される難しい作品として知られており、
一部の楽章は特にピアノ演奏者として有名なラフマニノフの個性が反映されています。後の改訂版では、より洗練された形に仕上がっています。
ラフマニノフの交響曲第3番は、彼の他の作品と同様に、今日でも定期的に演奏され、多くのオーケストラや指揮者によって取り上げられています。」

「1906年」というのは間違いらしい。間違っていることを堂々と主張するところがAIらしい。嘘をついているなんてこれっぽっちも考えてはいないようだ。

ラフマニノフで有名な曲と言えばピアノ協奏曲第2番だと思う。作曲されたのはこの交響曲第3番よりも三十年以上も前になる。
郷愁や憧憬といった誰もが心の奥底で大切にしている感情が、重厚かつ甘美なピアノの音色によって無抵抗に引きずり出される。
人々は自らが隠していた最も美しい感情と真向いになり、陶酔する。華麗に、軽快に、ありったけの情熱を込めて、
進行する旋律は聴衆で満たされた広いホールを完全に支配する。そんな音楽にはピアノが最も適しているのだと無意識に誰もが考える。
そうした作曲家の特性がこの交響曲にもある程度は含まれているかもしれないが、そこから抜け出そうとする意志が見え隠れする。
曲はリズミカルでしばしば急転直下の展開を伴う。映画音楽のような派手な演出が聴き手の予想を覆そうとする。
自らの代表曲で固定されてしまった自身のイメージを振り払おうとしているのかもしれない。
私たち聴き手は、一度その魅力を理解してしまうと同じものを作り手に要求する。
心ゆくまで自分を満足させてくれたものに感謝しながら、そのおかわりを要求する。
消費社会におけるコンテンツ生産は、そうした私たちの習性を大いに利用している。
まずは認めてもらわなければならない。食って行かなければならない。生き残るためには、それが近道だ。
名声を手に入れた芸術家はその時、どうするだろうか? そのまま安定した路線を進むか、あるいは違うスタイルを目指すのだろうか? 
本物の芸術家なら、常に新しいものを求めてしまうのかもしれない。

名古屋フィル#130ベートーヴェン ミサ・ソレムニス

2023-06-19 13:03:55 | 音楽
第513回定期演奏会〈教会音楽の継承と超越〉
ベートーヴェン:ミサ・ソレムニス ニ長調 作品123

「ミサソレムニス ベートーヴェン」と入力してChatGPTに尋ねてみた。
「ミサ・ソレムニス」とは、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(Ludwig van Beethoven)が作曲した大規模な宗教音楽作品です。
正式なタイトルは「ミサ曲 ニ短調 作品123」(Missa in D, Op. 123)ですが、一般的に「ミサ・ソレムニス」として知られています。
「ミサ・ソレムニス」は、ベートーヴェンが宗教的な祝祭のために作曲したミサ曲であり、その規模と複雑さから彼の最も重要な作品の一つとされています。
作曲は1819年に始まり、完成までに数年を要しました。初演は1824年に行われましたが、当時の音楽界においては非常に進んだ作風であり、
一部の批評家からは理解されなかったといわれています。
「ミサ・ソレムニス」は合唱、ソリスト、オーケストラのための作品であり、全体的な時間も非常に長く、約80分から90分以上かかる演奏が一般的です。
この作品は宗教的なテーマに基づいており、ミサの構成要素を取り入れながら、ベートーヴェン独自の感性と芸術的な表現が反映されています。
「ミサ・ソレムニス」は、その壮大なスケールと複雑な楽曲構造により、多くの指揮者や合唱団、オーケストラによって演奏されてきました。
この作品はベートーヴェンの偉大な遺産の一部であり、彼の音楽の中でも特に重要な位置を占めています。

「特に重要な位置を占めています」とは言っても、演奏される機会はあまりないと思う。
ミサ曲なので本来は教会で演奏されるべきなのだろうが、そういうことはあまりないだろうし、
コンサートホールでは交響曲が演奏される機会の方がずっと多い。名フィルのコンサートで聴くのも初めてだ。
どうも私たち日本人はキリスト教が苦手であり、宗教曲が苦手であり、他言語で長々と演奏される曲、
特にオペラが苦手であるため、欧米に比べるとさらに演奏される機会は少ないかもしれない。
でも宗教曲が苦手とは言っても、マタイ受難曲やモーツァルトのレクイエムのような
悲劇性がそれとわかるような曲は何故だか受け入れることができる。
この曲は実際にそうなのかは知らないが、延々と神を賛美している感じがする。
キリスト教的な精神に染まっていれば、それが良いと思えるものなのかもしれない。
「一部の批評家から理解されなかった」ということだが、私もずっとこの曲が理解できないでいる。
理解できていないまま放置するのは、なんだかベートーヴェンに申し訳ないような気がしているが、
もう二十年以上は理解が進んでいないような気がする。
ピアノソナタと弦楽四重奏曲と交響曲を中心にベートーヴェンの作品はたくさん聴いているが、どうもこの曲とは相性が悪い。
もっと若い頃であれば、良いと思えるまで聴き続けたかもしれないが、
今は好きなものだけに時間を使いたいという気持ちが強い。自由に使える時間は無尽蔵にある訳ではない。
今度、生まれて来た時には、この曲をきちんと理解しますということで許してもらいたい。
そういうことなので来世は欧米人ということで神様よろしくお願いいたします。

名古屋フィル#129バルトーク ルーマニア舞曲/ヴァイオリン協奏曲第2番

2023-05-17 20:38:48 | 音楽
第512回定期演奏会〈継承されざる個性〉
バルトーク:ルーマニア舞曲 Sz.47a, BB 61
バルトーク:ヴァイオリン協奏曲第2番 Sz.112, BB 117
クセナキス:ノモス・ガンマ
ラヴェル:ボレロ

静かな夜にピアノ曲を聴いている。シューベルトの18番以降のピアノソナタやバルトークのミクロコスモスをかけることが多い。
演奏時間が長いので頻繁に操作をする必要がなく、静止した時間の中を流れ続けるメロディにゆったり身を委ねることができる。
iTunesの表示を見るとミクロコスモスは153曲あって総演奏時間は2時間27分、
シューベルトの18~21番は各々50分、41分、53分、57分になっていた。
バルトークは他にも小品を集めた作品集を持っていて、「子供のために」「ピアノの初歩」「ハンガリー農民歌」「ハンガリー舞曲」
「ルーマニア舞曲」「ピアノソナタ」といった作品を時々聴いている。こちらは総演奏時間が4時間45分だった。
今回のコンサートで演奏された「ルーマニア舞曲」も入っている。
いつもコンサートの前は演奏曲をYouTubeで探して予習しているが、今回は「あ、この曲か」と思った。
長いこと聴いているせいかピアノの方がしっくり来る。オーケストラはオーケストラで良いと思う。
シューベルトの後期のピアノソナタに比べると、バルトークのミクロコスモスや他の小品の知名度はそんなに高くないと思う。
でもなんとなく同じカテゴリーの作品と思って聴いている。素朴で静かに心に沁みて来る。
華やかさは一切排除され、一つ一つの音が静かに語り掛けて来る。
年齢を重ねるとそうした素朴な音楽の方が良いと感じるようになるらしい。
バルトークは作曲家であると共に音楽収集家で音楽教育にも熱心だったという事実も伝わって来るが、
それ以上のものが含まれている感じがする。
感動したとか、ブラボーとか言う前に、作曲家の人柄にじっと耳をすませるのも良いのではないかと思う。

ヴァイオリン協奏曲第2番も随分前から聴いている。難解なところがあるが、深くは考えずにそのまま聴いている。
でももしかしたら考えているかもしれない。
芸術家がわざわざ難解な部分に踏み込んでいるのだから、その意図を少しでも理解したいという気持ちはあると思う。
それは音楽に限った話ではなくて、本を読むのも同じ。
純粋理性批判とか、資本論とか、カラマーゾフの兄弟とか、そんな気持ちで読んでいたような気がする。
人の営みって、そういうものだと思う。

名古屋フィル#128マーラー交響曲第5番

2023-04-16 07:02:18 | 音楽
第511回定期演奏会〈継承者/川瀬賢太郎音楽監督就任記念〉
ハイドン:交響曲第86番ニ長調 Hob.I-86
マーラー:交響曲第5番嬰ハ短調

「マーラー交響曲第5番」についてChatGPTに尋ねてみた。
『マーラーの交響曲第5番は、1901年に作曲された、全5楽章からなる交響曲です。
第1楽章は、葬送行進曲風の重々しい曲想から始まり、途中でロマンティックな旋律が現れ、
やがて再び葬送行進曲に戻る構成になっています。
第2楽章は、シュタンツェン(舞曲)と呼ばれる、陽気で軽快な曲で、オーケストラの各楽器が次々にソロを取っていきます。
第3楽章は、アダージョ。美しく壮大な旋律が印象的で、フルートやホルンのソロが特に美しい部分となっています。
第4楽章は、軽快なロンド形式の楽章で、中央部にはトランペットとトロンボーンのソロが登場し、大きなクライマックスを築きます。
最後の第5楽章は、前半は序奏付きの大規模なフーガで、後半は静かなエピローグとなっています。
マーラー交響曲第5番は、多彩な楽章構成と情感豊かな音楽表現が特徴であり、マーラーの代表作の一つとされています。』

第2楽章が「陽気で軽快」というのはちょっと違うと思う。
第1楽章も第2楽章も降りかかって来る運命や逃れようのない悲劇を扱っている感じがするが、
第1楽章は客観的で人格を持たない対象、つまり民族全体の運命、悲劇、受難であるのに対して、
第2楽章は私的なものといった感じがする。
悲しみも苦しみも個人が体験することでしか現実のものとならないが、
一方でそれらを包含した民族全体に降りかかる運命といったものも存在するのだと言っている感じがする。
いずれにしても私たちは自分の力でどうすることもできない強大な何かに翻弄されながら生きるしかない。
私はこの二つの楽章を聴きながら、その現実を確認することになる。
重苦しさ。息苦しさ。生きていると纏わりつかれる負の感情がそこにあるような気がする。
第3楽章は打って変わって楽しげになる。苦しみを克服するために努力や闘争は特に必要ないらしい。
ここには澄み切った喜びがあり、懐かしさがあり、のどかですらある。
それでいて少し寂しくもあり、物静かに水琴窟の音に耳を澄ませている風でもある。
そうかと思えば、熱狂もある。いろいろな要素が持ち込まれたスケルツォ。
偉大なシンフォニストはいずれもスケルツォの名手だが、この楽章はスケルツォにしては長くてちょっと変わっている。
人生における様々な要素が散りばめられている。そして全体としては、やはり謎めいている。
年老いた人であれば、そこにかつて体験した出来事を想起するかもしれない。
若い人であれば、これから遭遇することになる未来を目の当たりにすることになるかもしれない。
第4楽章。弦とハープだけで演奏される。とてもゆっくりと美しい調べが奏でられる。急ぐ必要はない。慌てる必要はない。
美しいもの、価値あるものはいつだってそこにある。
立ち止まってじっと耳を傾けていれば、愛に溢れた旋律が迸るのが聴こえて来る。
「ベニスに死す」でこの楽章が用いられたことがマーラーの音楽がブームになった一因ということだが、
この曲を知ってから映画を見た私にはよくわからない。
ただ、映画のそのシーンと音楽はとてもマッチしていると思った。
第5楽章。牧歌的で清浄な光に満ちた旋律。
マーラーの音楽にはしばしば美しさと醜さが同居していて、その両面性が最大の魅力に感じられることも多いが、
ここでは醜さは鳴りを潜め、美しさだけが響き渡っている感じがする。

この曲を初めて聴いてからかなりの年月が経過した。いつまでも魅力が色褪せない音色に満ちた曲だと思う。
そんな曲に出会えたことにとても感謝している。

名古屋フィル#127アーノルド交響曲第5番

2023-03-20 20:28:05 | 音楽
第510回定期演奏会〈アーノルド〉
ヒグドン:ブルー・カテドラル
シューマン:序奏と協奏的アレグロ 作品134
酒井健治:ピアノ協奏曲『キューブ』[委嘱新作・世界初演]
アーノルド:交響曲第5番 作品74

「マルコム・アーノルド交響曲第5番」と入力してChatGPTに尋ねてみた。
『申し訳ありませんが、私は人工知能のチャットボットであり、音楽を演奏することはできません。
ただし、マルコム・アーノルドの交響曲第5番について情報を提供することはできます。
マルコム・アーノルドは、20世紀のイギリスの作曲家で、交響曲や映画音楽などを手掛けました。
交響曲第5番は、1961年に作曲され、同年に初演されました。
この交響曲は、オーケストラのための作品であり、全4楽章からなります。
第1楽章は比較的穏やかで、緩やかなテンポで進行します。
第2楽章は、スケルツォと呼ばれる軽快な楽章で、トリオと呼ばれる中間部分も含まれます。
第3楽章は、バラードと呼ばれる緩やかな楽章で、美しい旋律が印象的です。
最後の第4楽章は、速いテンポのフィナーレで、力強いクライマックスを迎えます。
マルコム・アーノルドの交響曲第5番は、ネオロマン派音楽の影響を受けた作品であり、
世界中で演奏されることが多く、特にイギリス音楽の代表的な作品の一つとして知られています。』

アーノルドという作曲家についてほとんど何も知らないので尋ねてみた。
ChatGPTがどこから情報を拾って来たのかはよくわからない。正しい情報なのかもわからない。
それなりにまとまった文章にはなっている。何か物足りない感じもする。
今回も、いつもそうするようにYouTubeにあった動画で予習した。
美しい曲だと思った。ウィットが効いていて親しめると思った。ジャズも少々入っている感じがした。
ただ、思い入れのある作曲家という訳でもなく、思い入れのある曲という訳でもない。繰り返し聴いてみたいというのでもない。
名フィルのホームページの「聴きどころ」には「今回は『近現代音楽に強い名フィルだからこそ』ということで、
長年温めてきたアーノルド5番をチョイス。」と書いてあった。そんなに何回も演奏される曲ではないと思う。
それを聴かせてくれる指揮者とオーケストラに感謝すべきなのだろう。
でも、この瞬間が過ぎ去ってしまったなら、気迫のこもった演奏が終わり、盛大な拍手で演奏者が称えられ、
アナウンスと共に会場を訪れた聴衆がホールを去ってしまったなら、もうこの曲のことを皆が忘れてしまっているかもしれない。
今日、訪れた人々の中で、この曲をもう一度聴く機会のある人はほとんどいないかもしれない。
ふと、そんなことを考えてしまった。世界には様々なものがひしめき合っている。
多くのコンテンツが視聴者の争奪戦を繰り広げている。価値のないものはすぐに忘れ去られてしまう。
1961年に作られた曲が2023年に演奏されるという事実は、曲に生命力が宿っていることを証明している。
そうは言っても、もっと存在感のある曲が他にもたくさんある。そうするとなかなか順番が回って来ない。
次に出会うのはいつになるだろう? ひょっとしたら次はないかもしれない。そう思うと少し寂しい。
私の自由になる時間には限りがあるということを最近、強く意識するようになった。
いろんな曲を聴いてみたいと考えていた時期はすでに過ぎてしまった気がする。

名古屋フィル#126チャイコフスキー交響曲第5番

2023-02-11 10:20:20 | 音楽
第509回定期演奏会〈チャイコフスキー〉
シューマン:交響曲第1番変ロ長調 作品38『春』
チャイコフスキー:交響曲第5番ホ短調 作品64

各楽章に「運命」の動機を散りばめ、それを乗り越え、華々しいフィナーレで高らかに勝利を歌い上げる曲の構想に、
何かしら恣意的なものを感じてしまう。ベートーヴェンのような嘘のない強靭な意志はここにはない。
長らくこの曲に対して抱いていた不満はそうしたものだと思う。
そういう意味では弱さや儚さを偽りなく伝えようとしているような悲愴交響曲や、
挫折も何も知らない希望に満ちた若い作曲家という感じのする「冬の日の幻想」の方が私は好きだ。
でも本当にそうだろうか? たとえ作曲家にそうした歪んだ意図があったとしても、曲そのものは違うのではないか? 
今はそんなことを考えている。何者かに怯えて闘争を続け、必死になってそれを打ち消そうとするのは彼だけではない。
勝利が得られないことなど初めからわかりきっている。
フィナーレの勝利が虚構であればあるほど、この曲の真価が露わになるような気がする。
よく耳をすませばここは彼の憧憬や憂鬱や哀しみに溢れている。
打ち勝とうとする足掻きがいっそうそうした感情を際立たせているような気もする。
第二楽章。凍てつく大地をただじっと見つめている農夫がそこに立っているようだ。
ホルンが優しく柔らかな憧れに満ちた旋律を奏でる。私の瞳はいつの間にか温かい涙で満たされている。
どうしてこんなことで泣いてしまうのだろう? 優しさは深い哀しみの裏返しなのだろう。
私の無意識はそのことに気付いて、考えるよりも先に涙が溢れてしまっている。私は今、この曲と一体になっている。
もうわかった。このまま最後まで行こう。どれだけ勝利が虚構であろうとも、そんなことは大した問題ではない。
なんて美しく儚く華麗で哀しみに満ちている世界なのだろう。
そうした人の気持ちを引きずり出してしまう曲は誰がなんと言おうと傑作に違いない。

名古屋フィル#125ニールセン交響曲第4番

2023-01-26 21:15:49 | 音楽
第508回定期演奏会〈ニールセン〉
シベリウス:交響詩『タピオラ』 作品112
藤倉大:三味線協奏曲[管弦楽版]
ニールセン:交響曲第4番『不滅(消し難きもの)』 作品29,FS.76

「不滅」「消し難きもの」「滅ぼし得ざるもの」あるいは簡単に「滅ぼせないもの」
作曲家自身が与えたという副題の意味がよくわからないでいる。
1914年から1916年にかけて作曲されたということだから、
取り返しのつかない多くの悲劇を引き起こしてしまう戦争であっても滅ぼせないものということなのだろう。
どれだけ悲惨な出来事があろうとも私たちの奥深いところにある人間性そのものは決して滅ぼされることはないということを、
はっきり示したいのかもしれない。
だが戦争ということではなくても、人間はいつか死ぬものであり、限られた時間しか存在できないのだから、
どこか心の奥底で決して滅ぼされない永遠なもの、不滅なものがあるのだと信じようとしているような気がする。
霊魂の不滅を信じる宗教はそういう性格のものだという気がする。
自分はいつか死んでしまうが、それでも滅ぼせないものはある。
そう信じることで、私のしていることは決して無駄にはならないと確信できるのかもしれない。
あるいはその気持ちは創作活動を根底で支えるものであるかもしれない。
人間性を信じていなければ、そもそも創作なんてできないに違いない。
悪意を持っている者が、産みの苦しみを甘んじて受け入れることなんてあり得ない。
悪意は常に人間が築き上げて来たものを滅ぼそうとする。ひねくれた自尊心がそうさせる場合もある。
弱者を蔑ろにしていると、無敵の人となった弱者に滅ぼされてしまう場合もある。
何が原因で、何がきっかけでということはよくわからない。ただ人間はいつも戦ってばかりかもしれない。
永遠なんて本当はないから、いつか滅んでしまうというのが真実に違いない。
でも私たちは百年も生きていないのだから、その間だけ無限や不滅を信じていてもいいのではないか、
そんな気がします。