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140億年の孤独

日々感じたこと、考えたことを記録したものです。

マッハと道元

2015-04-11 00:05:59 | 140憶年の孤独
「こうして、実体的な意味での物体も自我もすべて解消され、残るのは感性的諸要素がたがいに
函数的に依属しあい連関しあいながら現れ、絶えず離合集散を繰り返している一元的世界、
つまり<現象>の世界だけである。それは<物体>と呼ばれうるような複合体も現れるし、
<自我>と呼ばれうるような複合体も現れうるような両義的な世界である。
これらの複合体も比較的安定して持続するというだけで、絶対的な恒常性をもつものではない。
この世界には、そうした絶対的な恒常性をもつようなものはなに一つないのであって、
マッハに言わせれば、論理学的真理や数学的真理でさえも、そうした感性的諸要素の離合集散、
つまり経験に起源をもち、そこから生成してきたものなのである。
彼は、幾何学的空間でさえも、絶対のアプリオリではありえないと言う。」
そんなことが書かれていた。仏教の『無自性―空―縁起』に似ている。

「まず、『無自性』とは、文字通り『自性』がないということである。
『自性』とは、変化するものの根底にあってつねに同一であり、固有のものであり続ける
永遠不変の本質であり、他の何者にもよらずそれ自身によって存在する本体のことである。
『空』もまた、無自性と同じく、永遠不滅の固体的実体のないことを意味する。
このように、あらゆるものが空性であるということは、決して何者も存在しないとか、
すべてのものは虚妄であるとかいうことを意味しはしない。
『縁起』とは『因縁生起』を略した言葉で、事物事象が、互いに原因(因)や条件(縁)となり合い、
複雑な関係を結びながら、相互相依しあって成り立っていることをいう。
・・・
道元をはじめとする仏教者たちは、このような『無自性―空―縁起』の立場、すなわち、
すべての事物事象を関係性において把握する非実体的思考の立場から、本来、
『無自性―空―縁起』であるはずの事実事象を実体化し、そこに執着しがちな人間の傾向を批判する。
そして、仏教者たちは、常識的日常的な認識方法がこのような傾向におちいりやすいのは、
言語の分節機能をめぐって生じがちな誤解によると考えた。
言語による分節化とは、言葉によって世界を区切ることである。
『一水四見』のたとえに関して言及したように、人はみずからの生の必要に応じて世界を区切り、
区切ったそれぞれを言葉によって名付け文節化するのである。」

「空」は永遠不滅の固体的実体のないことを意味しているということだから、
感性的諸要素が離合集散を繰り返しているというのと同じことになる。
「縁起」は事物事象が、複雑な関係を結びながら、相互相依しあって成り立っているということだから、
感性的諸要素がたがいに函数的に依属しあい連関しあいながら現れるというのと同じことになる。
マッハがフッサールに先行しているというのはそれほどの時間差ではない。
釈迦牟尼仏がずっと先行していたということになる。
自我とか自己というものはなく感性的要素の複合体なのだから
マッハの業績であるとか釈迦牟尼仏の悟りであるとか言う必要もないかもしれない。
自我が解体されてしまうのであれば意志とか独創性とか創造性とか発見とか
そういうことを主張することに意味はなくなってしまう。
先端企業が特許で争っている光景というのも、或る感性的要素の複合体が他の感性的要素の複合体に対して
私(複合体)の方があなた(複合体)よりも先に出願したのだとそんなことを言い合っている感じがする。
遅かれ速かれいずれかの感性的要素がそうしたに違いないというだけのことなのだが、
「おのれ」というものが競い合ってしまう。

・・・「マッハとニーチェ」ではマッハの一元的世界と仏教の「無自性―空―縁起」の類似性を取り上げた。
ここから道元の『仏道をならふといふは、自己をならふなり、自己をならふというは、自己をわするるなり』
(『自己を忘れる』ということは、固定的な自我があるというとらわれから脱するということである。)
というところまであと一歩という感じがするが、その一歩が遠い。
「おのれ」は複合体を維持するための重要な形式であるため「おのれ」に執着するなと言われても
なにをどうすればよいのかわからない。それは「利他的」に行動せよということでもない。
慈善事業では「おのれ」を維持しながら「利他的」に振舞うことが出来るが
「自己をわするる」というのはそういうことではなく、ひたすら座禅ということかもしれない。

「感覚的諸要素の複合体」が複合体にとって有益な情報を活用しようとする形式が「思考」かもしれない。
そして情報を一元的に管理するための形式が「自我」であるかもしれない。
「自我」という形式が「思考」という形式を用いて
「自我」とは何か?「思考」とは何か?と問うところに無理があるかもしれない。
そのことについて、もう少し「考えて」みよう。
いつも「思考するもの」によって「思考されるもの」が思考されてきたのだが、
そのように主観と客観を分割する場合には実際には「考えて」いないのではないだろうか?
思考している時には「思考するもの」と「思考されるもの」は一体になっている感じがする。
複合体の諸要素を相互に関連付けることによって複合体の行動を決定するという場合に
相互の関連を行うのも相互に関連付けられるものも物理的には脳を構成するニューロンやシナプスであるが
相互の関連を行うものは「自我」であり関連付けられるものは「記憶」と呼ばれる。
物理的には同一のものを「私たち」は分離するのだが、どこが「自我」でどこが「記憶」か区別できるだろうか?
脳の中の特定の部位を指して「ここが私です」と言えるのだろうか?
そして「私」以外の部位を指して「そこは記憶です」と言えるのだろうか?
実際のところ「記憶」のない「自我」も「自我」のない「記憶」も想定できないので両者が独立しているとは考えにくい。
それでも「自我」があると信じて疑わない私たちには相当強い先入観が働いているのだろう。
もしも「自我」がないとしたら私たちは路頭に迷ってしまう。
そうすると人間は知性のある生き物というよりは
行動の主体・思考の主体がなくなってしまうと路頭に迷ってしまう生き物だと考えた方が良いかもしれない。
そのような「思考するもの」と「思考されるもの」あるいは「自我」と「記憶」が分離されることのない
感性的諸要素の複合体をどう扱えばよいのだろう?私たちの認識はそれを捉えることができるのだろうか?
だが「認識」は「言語」により達成され「言語」は主観により客観を記述するものであるから
そのような複合体を「言語」で語ることは困難というしかないだろう。
或る哲学者が「語りえぬものについては沈黙せねばならない」と書いた時に語りえぬものとされたのは論理と倫理であるが
主客の区別のない一元的世界を語ることはそのことよりもずっと困難であり
仏教ではずっと昔から語りえぬものとされてきた。
そういうことだから、ここから先は言語なき言語、言葉なき言葉の登場を待たねばならない。
そこではきっと「主観の謎」であるとか「秩序の謎」といったことは問題にならない。
そこでは「主観」や「秩序」を客観的に語ろうとする誤りが取り除かれる。
「宇宙の起源」「生命の起源」「心の起源」という問いが解消され
「主観の謎」「秩序の謎」が設定されたのだがそれすら問いにはならないということになってしまった。
目標であるとか夢であるとか問いであるとか、そういうものを設定してみるのだが、
その目標の立て方からして間違っていると、何度もそういう目に合う。
「自我」に執着するのであれば、そのような目標の立て方なり、生き方は否定されるだろう。
人生は短いのであって一角の人物となるためには、あちこち目移りしていてはいけない。
そういう前提を必要としない者にのみ、間違いを認める者にのみ、問うことが許される。
感性的諸要素の複合体の特定の要素である思想とか主張とか哲学とか
そのようなものに固執するということは自我に執着することと同じではないかと思われる。
まずは「自己をわするる」ことによって形而上学的幻想を捨ててしまう。
そういうところから始めよう。

斥けられた三つの問い

2014-08-03 18:52:54 | 140憶年の孤独
「宇宙は無のゆらぎから生まれた」そうだ。
空間は「無」なのではなくて「電子と陽電子」が発生したり対消滅したりするなどして
「揺らいでいる」のだという。「どうして揺らいでいるのか」はわからない。
そこでまー、そーゆーことだと了解したとして「無のゆらぎ」の前はどうかというと
時間すら存在しないので「その前」はない。じゃあ「時間」とは何なのか?・・・
「宇宙の起源」についての問い掛けは「時間」についての無知により
問いでなくなってしまう。

19世紀にパスツールは生物の自然発生説(生物が無生物から生まれることがある)を否定した。
科学技術の進展がめざましい近代以降ではその説を疑う者はあまりいない。
ところが太陽系が誕生した頃に生命は地球に存在せず現在では存在することから
過去を遡ったある時点で「生物が無生物から発生した」と考えなければならなくなる。
これはいったいどういうことなのだろう?そもそも生物とか生命というのは何なのだろう?
生命が秩序であるとするならば非生命は無秩序(あるいは混沌)ということになる。
「混沌から秩序が生まれるものなのだろうか?」そのような問いを発した時に別の問いが生じる。
「混沌とは何なのだろうか?」
私たちに理解できることは何らかの意味を持ったことであり何らかの秩序を持ったことでしかない。
たとえば私たちは雑音を音楽として理解することは出来ない。
音に規則性がなければ音楽として理解することが出来ないように
何ら規則性のない現象を知識として理解することは出来ない。
混沌が理解できないのであれば、混沌から秩序への移行を理解することは出来ない。
そのようにして「生命の起源」について問い掛けてみても
「混沌」を理解することが出来ない私たちが回答することは出来ない。

そして懲りない私たちは「心とは何か」と問い掛ける。この「心」という不思議な現象について・・・
脳科学についての研究を進めていけば私たちは「心」の正体を
あるいは「私」の正体を知ることが出来るのだろうか?
残念ながら出来ない。科学は客観的な現象を扱う手段であって主観的な現象である「心」には適用できない。
私たちに出来ることは「○○のことを考えている」時に「○○野」が活発に働くといったことを知る程度だろう。
ある活動とそれに呼応して働いているニューロンを結びつけることで満足しなければならない。
あるいは単純なニューロンが複雑な系を作り出す仕掛けくらいはわかるようになるかもしれない。
哲学は独我論とか何とか言っているがやはり主観については何もわからない。
そのようにして「心の起源」について問い掛けてみても
「主観」という謎の前で立ち止まってしまう。

私たちは「時間」を理解出来ないため「宇宙の起源」について知ることは出来ない。
私たちは「混沌」を理解出来ないため「生命の起源」について知ることは出来ない。
私たちは「主観」を理解出来ないため「心の起源」について知ることは出来ない。
それでは私たちは何を知ることが出来るのか?
・・・私たちが私たちの限界についてどれだけ語ったとしても
私たちの好奇心や探究心は「はい、そうですか」と納得したりはしない。
人生で成功するためにとか、より良い生き方のためにとか、道徳のためとか、来世のためにとか、
神のためにとか、社会の発展のためにとか、人類の無限の進歩のためにとか、
そんな「○○のために・・・」というのはもうやめよう。
私たちはもっと良いものを持っている。

今から何者かになることはできない

2013-05-07 22:31:01 | 140憶年の孤独
今から何者かになることはできない。
若さとは何者にもなれるであろう可能性であって
その間は「何者にもなれない」ということを直視しなくてもよい。
しかし「何者かになる」ということは既に「他の者にはなれない」ということを含んでいる。
いずれにせよ可能性はいつかは消滅することになる。
つまりは若さを失ったある時点において人はシラフになるわけだ。
そして人はまた虚栄心から逃れることができない。
社会的地位や平均を凌駕する所得水準の高さによって成功者の自尊心は満足を得る。
おめでとうございます。あなたは辛酸を舐め、大変な努力の末に、
見事成功を勝ち取られました。云々・・・
リア充とコミュ強者の笑いは止まらない。
そんな他人の成功や幸福に興味はないが、彼らが身に余る能力で獲得した成功を
彼らの人格にまで適用しようと企てる時に私は腹を立てるのだ。
「道徳の系譜」を書いた時のニーチェはきっとそんな気持ちだったと思う。
そのような二重の勝利を収めようとする厚かましさに対して私は抗議する。
人格が優れていたから成功したというすり替えに抗議する。
とはいっても実際のところ二重の勝利は得られない。
彼らの性根は下種であることを免れない。
腐りきった中世のローマであれば彼らに何かくれてやったかもしれない。
しかし権威もなく学識もなく自らの価値さえわからぬ現代においては
彼らに何かをくれてやる人間などいない。
カネを稼ぐ能力であれば客観的に褒められもしようが人格はそういうわけにはいかない。
だいたい自分の人格を褒めてもらいたいという人格者なんているわけがない。
そういうわけでルサンチマンに陥って自分は人間としては優れているなどと
考えている輩がいたとしても彼らが一重の勝利を得ることもない。
そもそも人格や徳といったものは報酬とは縁がない。
「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」と福音書にも書いてある。
別に神の国に入りたいわけではないが私にはその意味がわかる。
それでなお問うてみるが「いまさら何者かになりたいなどと考えているの?・・・」
自分以外の何者にもなりたくないとかいう陳腐な回答をしても仕方がないのだが
自分に染み付いた生き方を肯定するのであれば
いまさら何者かになる必要なんてないし、なれるものでもない。
何が優れているかなんて改めて問い返す必要はない。
そもそも何が優れているかわからない人が優れているわけはない。
ここに一冊の本があるとしよう。
その本が人物を判断することになる。
そういうものだ。

4.6 宗教あるいは幽霊について

2013-04-06 00:05:05 | 140憶年の孤独
記録によると以下の文章は、2011/11/26と2012/5/19に書かれたものらしい・・・

死を受け入れることができない人々は死後の世界とか最後の審判だとか前世について語る。
死んで無に還り自分に関する一切のものが失われてしまうことを彼らは受け入れない。
幽霊についても無を退けるための発明ではないかと思う。
科学では理解できない現象があって幽霊もその一つだと固く信じている人もいる。
何も私は科学的に幽霊を否定したいというわけではない。
唯物論に偏るわけでもなく唯心論に偏るわけでもない。
肉体と精神は同じものであると脳と心は同じものであると言いたいだけだ。

報われるべき一切の努力は神に考慮されることなく踏みにじられ死に至る。
そうしたことに耐えられない人々は魂の不滅を信じる。
「不死がなければ善もない」とイワン・カラマーゾフが語ったのは的を得ている。
人々が神を讃えるのは自分が善良になるために必要なことだろう。

祈りを捧げること、あるいは何か偉大な存在に身を委ねることは精神の安定につながる。
安定した精神は安定した活動の源になる。
人々が祈るのは自分が活動するために必要なことだろう。
一切の理屈を捨てて活動に専念するために人々は祈る。
その活動から何が生まれるのかを本人が自覚する必要すらない。
動物が活動するのは本能だろう。
そして思考を携えた動物である人間は高い次元での活動を欲する。
成功のために成長のために人々は主体的に活動する。
彼らはいつか気がつくことがあるだろうか?
祈りとは盲目的であることについて
疑念のない人生における成功の価値について

きっと100年後に生きている人々から見れば私たちは何も知らないに違いない。
そして100年前に生きていた人々について私たちは何も知らない。
かつてそんな人々が存在したことについて全く何も知らない。
彼らの祈りや彼らの成功について何も知らない。
時間という悪魔は全てを洗い流してしまう。

きっと100年後の宗教の姿は今と変わらないものだろう。
安定した活動の基盤として
人々が善行をおこなうための拠り所として
それは必要とされる。
そして100年後には幽霊の問題が解決していることを望む。
私たちには心身二元論の相手をしている時間は
必要ではない。

4.5 人類の絶滅について

2013-02-17 00:36:09 | 140憶年の孤独
<以下の文章は最近書いたものではなくて、2011/10/26から11/23の間に書かれたものです。
その頃は、これが限界でした。そして私は書くことで忘却することが出来る。
2011年的なものは葬り去ろう。私は今を生きている。>

4.5 人類の絶滅について
核戦争で人類が絶滅する可能性はあるだろう。
それ以外に環境破壊とかヒトが起因になるものもあれば巨大隕石が落下する可能性もある。
1883年に彗星群が大接近していて危なかったという話もある。
そんな生まれる前のことを言われてもピンとこないが・・・
恐竜が滅びたのも巨大隕石との衝突によると言われている。
しかしその衝突がなければ哺乳類が主役になることもなくヒトが進化することもなく
恐竜が支配する時代がずっと続いていたかもしれない。
よくよく考えてみれば生き残っている生物よりも絶滅した生物の方がずっと多い。
ネアンデルタール人だって絶滅した。
絶滅した生物はみな生存競争に敗れたのだろうか?
あるいは急激な環境の変化に耐えられなかったのだろうか?
人類も体温以上の温度の中では生きていけないだろう。
そういうのまで含めて生存競争というならば
最後に残るのは細菌のようなシンプルな生物だろうし
もう少し大きな生物であれば3億年を生き延びてきたゴキブリだろう。
きっと私たちはゴキブリに勝てないのだろう。
そうしたことをあまり考えることなく万物の霊長とか言うのはどうかしている。
自然界の生存競争を引用して現代の競争社会を賛美するものもいるが
つまらぬ主張だろう。

「ジャン・クリストフ」や「チボー家の人々」のラストシーンで語られているように
次世代への希望を抱いていれば穏やかな死を迎えることができるのかもしれない。
あるいは人生は無駄ではないとか新しい世代の捨石になるのだという
勘違いをしたまま死んでゆけるのかもしれない。
巨大隕石の落下はそうした人々の想いを蹂躙するものであるだろう。
しかし一方では意思のない木星の巨大な重力が
地球への巨大隕石の衝突確率を低くして私たちを守っていたりする。
しかし太陽系の寿命は有限だ。
遠い未来には太陽は膨張して火星軌道までの天体を飲み込んでしまうという。
その中には当然地球も含まれる。人類が危機を乗り越えて存続していたとしても
地球が失われるのであれば絶滅は免れないだろう。
そしてスターゲイザーのいなくなった宇宙は再び孤独を味わうことだろう。
次世代への希望を抱いて死んでいった人々が報われることもないだろう。
だいたい何を期待しようというのだろう?
人間の精神が無限に進歩するという妄想か?

かくして有限な個体が無限の可能性を秘めた種へと寄せる期待は報われることがない。
そして人類とか種といったものに無限の可能性を抱くのはただの勘違いだろう。
死すべき個体がそう信じたいだけのことだろう。
このことは宗教に似ている。
過ぎ去った過去は変えることができないが未来は変えることができると
そこに何かしらの希望や理想を夢みることは勝手だが
手付かずの無垢な未来というのはやはり幻想であって
あるのはただ連綿と続く現在でしかない。
そして現在というのはいつの時代にも様々な制限を受けるものだろう。

人類の絶滅などというと差し迫ったものではないと無関心を装う人もいれば
全ての努力が水泡に帰すると感じて絶望的な気分になる人もいるだろう。
人類が誕生する可能性を計算してその希少価値を考え
絶滅してしまうのはとても残念なことだと感じる人もいるだろう。
宇宙の歴史とか生命の歴史といったものは観察者の出現によって露になるもので
観察者が消え去ってしまえば何もなかったことになるかもしれない。
しかし永劫回帰が本当であれば絶滅してもまた誕生することだろう。
絶滅してから途方もない時間がかかったところで誰もその時間を生きてはいない。
そういう意味では宇宙にしても生命にしてもごく最近に誕生したものだろう。
ダーウィン以前は生命の進化なんて誰も考えなかったし
宇宙が膨張している観測結果がなければ誰も宇宙の始まりなんて考えなかっただろう。
思考するものの内にしか宇宙や生命などといったものは存在しないのだろう。
そうすると私の死やあなたの死といった思考するものの個々の死は
宇宙の消滅や世界の消失を伴っているものかもしれない。
そしてあなたが人類の滅亡を心配する必要も全然ないということになるだろう。
あなたは来るべき自分の死についてよく考えるべきなのだ。

4.4 生まれてきた意味はあるのか?

2013-01-12 20:19:53 | 140憶年の孤独
生まれてきた意味は何なのかと言語の支配下にあるヒトは問い続ける。
時間という悪魔によって、かけがえのない私、かけがえのない人生が無に帰するのを
私たちは容認できないようになっている。しかしそれは叶わぬ願いである。
そして消滅することがわかっているからいっそう人生における意味を見出そうと必死になる。
たとえば犬や猫の一生に何か意味があるだろうか?
言語のない彼らは意味を求めたりはしない。
生まれて子どもを育てて死ぬだけだ。それをずっと繰り返すのだ。
そして私たちは犬死にしたくないとか言ったりする。
それは犬に対して失礼だろう。
夢の実現あるいは自己実現が人生の目的であり意味であると言う人もいる。
それもまたけっこうなことだ。人生は短いのでやりたいことをやるべきだろう。
しかし多くの人間はやりたいことができないでいる。
私たちは夢とかなんとかいう前に金を稼がなければならない。
一人だけなら細々と生きていけるかもしれないが
子どもを育てるのであれば悠長に夢など追いかけている暇はない。
そこで大抵の人間は偶然就いた職業に主体的かつ前向きに取り組むことで
自己実現を果たしているのだと思い込もうとする。
そのような思い込みは相当な無知でなければ不可能だと思うが
所属する組織のアイデンティティーに身を委ねることによって閉じた世界にこもるのだ。
そこでは同じような考え方の人間あるいは自分の考えを持たない人間がたくさんいて
自分たちの無知と偏見を見なくてもよい状態が維持されている。
ライバルに勝つことが彼らの目的であり生きる意味となっている。
同業他社に勝つことあるいは立身出世をして他人より秀でていることを証明し
まわりの人間に周知させる。勝ち組となり成功者となり富裕層の仲間入りをする。
しかし本当にそんなことが生まれてきた意味なのだろうか?

人生に成功も失敗もないし生まれてきた意味を求めることに意味はないと
そういうスタンスを取っていると怠け者の烙印を押されてしまったりする。
マジョリティはマイノリティの存在を許さないようにできている。
違う考え方があることすら知らないで生きている。

生まれてきた意味がないのなら私は何のために生きているのだろうか?
子どもを育てるためと言うのは一つの理由になる。
それでは子どもを育て終わったらどうするのか?
私のような人間は知りたいというただそれだけのために生きている。
それもまた言語を持ってしまったことによるのだろう。
しかも謎は言葉では語り尽くせない感性や知覚にまで広がっている。
とても手に負えるものではない。
しかしどういうわけか私の人生はそのようなものになってしまった。
望んだわけではないが自然とそうなってしまった。
あまり使いたくない言葉だがそれは運命なのだろう。

実際のところ人生に意味がないと主張すること自体が矛盾している。
「人生に意味がない」という有意味の文章を作った時点で意味が生まれている。
意味があるとかないとかなんてどうでもよいことだろう。
だがヒトは意味を与えずにはヒトでいられないし
意味を生み出さなければヒトでいられない。

4.3 さて死んだのは誰か?

2012-12-22 20:27:43 | 140憶年の孤独
「さて死んだのは誰か?」とは池田晶子さんの言葉だ。
私というものは唯一の存在ではなくありふれたものだと言ったら驚くだろうか?
ナンバーワンとかオンリーワンとか実はどうでもよかったりする。
<私>という唯一のかけがえないものを数十億人のありふれた<私>が持っている。
こうしている間にも<私>は生まれ<私>は死んでゆく。
そこで「さて死んだのは誰か?」と言う訳だ。
一方で<私>という不可解なものを私たちが理解できないことは既に書いた通りだ。
そうするともはや「死んだのは誰か?」ではなく「死んだのは何か?」というレベルに
落ちてしまうのかもしれない。
「ヒトの命は地球よりも重い」と言われたりもするが
それにしてはどんどんヒトは死んでゆく。全く地球がいくつあっても足りない。
夥しい数の無名の人々が生まれ、夥しい数の人々が無名のまま死んでゆく。
私たちは100年前に無名の人々がどのように暮らしていたか知らない。
同様に100年後の人々は今を生きている無名の私たちの暮らしを知ることはないだろう。
「いったい何だったのだろう?」、「いったい何があったのだろう?」
そのような問いかけを誰もしないし答えるものもいない。
だいたい無名の誰それが生きていたことに誰も興味は持たないだろうし
誰が死んだのかにも興味を持つことはないのだろう。
興味を持つ<誰か>も興味を持たれる<誰か>もいつかいなくなる。
そして人口が爆発した現代では夥しい数の死が用意されている。
しかしヒトは自分の死を体験することができない。ヒトは他人の死しか体験できない。
そういう意味ではヒトは決して死ぬことはない。自分の死を哀れむことすらできない。
自分の消滅や不在を恐れてもあまり意味はないのだ。
そして自分の死後に「さて死んだのは誰か?」と問うこともできない。
個体の一つが無に還っただけにすぎない。

4.2 私たちはなぜ死ぬのか?

2012-09-10 21:05:34 | 140憶年の孤独
ヒトの致死率は100%だ。ヒトでなくとも個体の寿命には限りがある。
分裂して増殖する単細胞生物であればコピーが続くので寿命は無限かもしれない。
ヒトの場合も生殖細胞は大切に扱われる。それは親から子に語り継がれる。
身近な人々の死から自分が有限な存在であることを認識してしまうほど
進化してしまった私たちは幸福だろうか?
進化には方向性がないので正しい進化とか間違った進化というものはあり得ないが
死を認識させてしまうほどの脳の発達は残酷な進化と言えるかもしれない。
しかしいったいどうして私たちは死ななければならないのか?
「利己的な遺伝子」に書いてあるように私たちは遺伝子の乗り物であって
使えなくなった乗り物は捨ててしまって新しい乗り物に乗り換えた方が効率が良いのだろう。
テロメアの長さが決まっているので細胞分裂できる回数が決まっているという話もあるが
脳の細胞のように分裂しないものもある。
私たちの身体を構成する細胞は酸素を使って呼吸することで効率よくエネルギーを
得ている。しかし活性酸素は細胞内のDNAやタンパク質も損傷させてしまう。
DNAを修復するシステムが完璧であったなら寿命は延びるかもしれない。
しかし性というシステムがあれば新しい乗り物を用意することができるので
古い乗り物を修復するための進化は必要ではなかったのだろう。
そうすると性とか呼吸といった私たちを生み出し活かすためのメカニズムは
私たちを死に至らしめるメカニズムでもあることになる。
私たちが死ぬ理由は私たちが生きていることの中にある。
あるいは生命はエントロピー増大の法則に逆らっているので
およそ人智では設計できないような複雑で秩序だった生の状態から
単純で無秩序な死へ還るのは必然なのかもしれない。
そのように死を解釈したところでヒトが死を受け入れることができるかというと
そんな簡単なものでもない。
かつての権力者たちは不老不死を求めたし現在でも精神の不滅を信じている人たちがいる。
この世では不幸だったがあの世では幸福になるという。
はたして宗教は先祖への負い目から生まれたのだろうか?
それは死への恐怖から生まれたのではないだろうか?
死を意識してしまうヒトが精神の安寧を得るために発明したものではないだろうか?
しかし多くの日本人が宗教を意識していないように私も信者ではない。
さりとて神の不在を声高に主張する者でもない。
組織に適応し成熟したオトナはそもそも自分の意見を持っていないし
疑問も持っていないので宗教など必要ないのだろう。
そうでない者はあらゆる疑問にあらゆる謎に耐えることができるだろうか?
死を前にしてあまりに無力な自分に絶望してしまうことにならないだろうか?
しかし神がなければ不平を申し立てる相手もいない。
結局のところ私たちは死ぬ理由を考えるのをやめて
生きることに対して貪欲になるしかないのだろう。
日本人の平均寿命は男性で70歳を超えているし女性は80歳を超えている。
老人になると癌やらアルツハイマーといった疾病が待っている。
自然はヒトがそんなに長生きすることを想定していなかった。
遺伝子から見ると私たちは子どもたちを育てあげた時点で用無しなのだ。



時はいつかは 大切なもの
すべての人から うばう
時間をかけて 与えては なくし
抜け出せない 問いかけを残して

君を飾る花を咲かそう
心を込めて育ててゆくよ
旅立つ君へ僕が出来ること
何もないけれど強く生きるよ
優しい君が 躊躇わずに ゆけるように・・・

最後の雨が虹に変わるよ

GARNET CROW / 君を飾る花を咲かそう

4.1 1万回の日の出と日の入り

2012-09-02 21:57:18 | 140憶年の孤独
第4章 死について
4.1 1万回の日の出と日の入り

あれからもうそのぐらい経つのだけれど僕は変ったのだろうか?
あるいは全然変っていないのだろうか?
そもそも変ることは良いことなのだろうか?
学ぶということが変るということであれば良いことかもしれない。

僕にわかっていることはただ一つのことで
それは時の流れは止められないということ
つまり僕たちは確実に死に向かって突き進んでいる。
誰もその進行を止めることはできない。

しかし流れているものは何なのだろう?
「ユークリッド的で三次元についてしか概念を持たぬように創られた頭脳には
神はあるかないかという問題は解決できない」のだし
「時間」というものを理解することもできないのだろう。
それが「4番目の次元」だと言ったところで
何かの説明になっているだろうか?

はたして「1万回の日の出と日の入り」は本当にあったのだろうか?
私たちは1年が365日で10年だとその10倍で20年だとその20倍になると
計算しているだけなのではないだろうか?
365回の日の出と日の入りがあったことすら確信できない。
今まで経過したものが何処へ行ってしまったのか
誰にもわからない。

つぎの「1万回の日の出と日の入り」が終る頃には
こんなことを考えている僕はもういないだろう。
そのようにして将来訪れる「自分の死」を意識させるなんて
随分と残酷なことではないだろうか?

Nicht hundert Jahre darfst du dich ergötzen
An all dem morschen Tande dieser Erde!
百歳とはゆるされぬ身で うつつに耽るとも
すべてはこの地上の儚きたわごとに興ずるのみ!
マーラー交響曲《大地の歌》
第1楽章 地上の悲愁を詠える酒席の歌―李白の詩「悲歌行」に拠る―より抜粋

大地の歌では奇跡的なほどに交響曲と歌曲が融合されている。
そしてまた東洋と西洋も一つになっている。
死を前にすると洋の東西なんてどうでもよくなるものだ。

Dunkel ist das Leben, ist der Tod.
生は暗く、死もまた暗し。

確か大江さんは「百年後の自分の不在」と書いていた。
そしてこうした表現あるいは考え方を「ネガティブ」と呼ぶ人たちは
そうすることで自分は死と無関係だと考えているかのようだ。
確かに自分の死を体験できるわけではないのだから考えても仕方がない。
しかし魂は永遠とか、精神は永遠とか、輪廻転生とか、そんなふうに考えるのは滑稽だ。
すべてが無に帰するとか混沌に帰ることいったことを直視することが
出来ない人々のために宗教が発明された。
安心しないと生きることもできないし
死ぬこともできないらしい。

3.8 言語と論理

2012-08-18 00:05:05 | 140憶年の孤独
「言語がなければ考えることすら出来ない」というのが事実であるなら
思想の限界は言語の限界によって制限されているのだろう。
そしてまた不適切な言語の用い方は誤解を生むものなのだろう。
「神はあるか」「不死はあるか」といった問題について
「三次元的、ユークリッド的にしか物事を捉えることが出来ない頭脳」は
何も答えることが出来ない。あちらのことは私たちにはわからない。
それでもなお、「神はあるか」と問う者は後を絶たない。
全く信じないか、無条件に信じるか、好きな方を選べば良いと思う。
それが真であるとか偽であるとか誰にもわかりはしない。

「論理哲学論考」によれば「論理」は先験的(ア・プリオリ)なものであるという。
対象と対象の関係を「論理」で結びつけることが「考える」ということなのだろうか?
そして先験的に「論理」が備わっているということであれば
NOT,AND,ORといった接続が先天的に脳に備わっているということなのだろうか?
ニューロン相互の接続はもっと複雑なもののようだから
そのハードウェア的な(先験的な)接続が「論理」であると考えてよいのだろうか?

「論理」の最小単位はNOT(否定),AND(かつ),OR(または)に他ならない。
コンピューターのソフトウェアもハードウェアも「論理」を組み合わせることで複雑な処理を行う。
そうするとコンピューターはア・プリオリに「論理」を備えているのだから
既に「考えている」ということになるのだろうか?
今、こうしている瞬間、私は「考えた」ことを書こうとしているのだけれど
その瞬間を捉えることは決して出来ない。
ただ、私は「言語」と「論理」を使って「考えている」のだということに気がつく。
コンピューターは「言語」を用いずに「論理」だけを適用する。
彼は「論理」を適用している対象が何であるかを知らない。
そうするとやはり「考えていない」のだろうか?

そして「論理」が接続であるとしたなら「言語」の物理的なイメージは何だろう?
記号と像を結びつけるものとして個々の名詞があるのだろうか?
記号はビット表記のように複数のニューロンで扱われ
像もビット表記として複数のニューロンで扱われるのだろうか?
個別の入力に応じて特定のニューロンが発火するといった現象が度々報告されたり
ある活動をしている時に脳の特定の部位が活発になると報告されたりするが
私たちは「言語」を可能にする脳の仕組みなんて全然わかっていない。
その仕組みは「言語」では語り得ないものかもしれない。
そしてそこで思考停止に至る・・・