「こうして、実体的な意味での物体も自我もすべて解消され、残るのは感性的諸要素がたがいに
函数的に依属しあい連関しあいながら現れ、絶えず離合集散を繰り返している一元的世界、
つまり<現象>の世界だけである。それは<物体>と呼ばれうるような複合体も現れるし、
<自我>と呼ばれうるような複合体も現れうるような両義的な世界である。
これらの複合体も比較的安定して持続するというだけで、絶対的な恒常性をもつものではない。
この世界には、そうした絶対的な恒常性をもつようなものはなに一つないのであって、
マッハに言わせれば、論理学的真理や数学的真理でさえも、そうした感性的諸要素の離合集散、
つまり経験に起源をもち、そこから生成してきたものなのである。
彼は、幾何学的空間でさえも、絶対のアプリオリではありえないと言う。」
そんなことが書かれていた。仏教の『無自性―空―縁起』に似ている。
「まず、『無自性』とは、文字通り『自性』がないということである。
『自性』とは、変化するものの根底にあってつねに同一であり、固有のものであり続ける
永遠不変の本質であり、他の何者にもよらずそれ自身によって存在する本体のことである。
『空』もまた、無自性と同じく、永遠不滅の固体的実体のないことを意味する。
このように、あらゆるものが空性であるということは、決して何者も存在しないとか、
すべてのものは虚妄であるとかいうことを意味しはしない。
『縁起』とは『因縁生起』を略した言葉で、事物事象が、互いに原因(因)や条件(縁)となり合い、
複雑な関係を結びながら、相互相依しあって成り立っていることをいう。
・・・
道元をはじめとする仏教者たちは、このような『無自性―空―縁起』の立場、すなわち、
すべての事物事象を関係性において把握する非実体的思考の立場から、本来、
『無自性―空―縁起』であるはずの事実事象を実体化し、そこに執着しがちな人間の傾向を批判する。
そして、仏教者たちは、常識的日常的な認識方法がこのような傾向におちいりやすいのは、
言語の分節機能をめぐって生じがちな誤解によると考えた。
言語による分節化とは、言葉によって世界を区切ることである。
『一水四見』のたとえに関して言及したように、人はみずからの生の必要に応じて世界を区切り、
区切ったそれぞれを言葉によって名付け文節化するのである。」
「空」は永遠不滅の固体的実体のないことを意味しているということだから、
感性的諸要素が離合集散を繰り返しているというのと同じことになる。
「縁起」は事物事象が、複雑な関係を結びながら、相互相依しあって成り立っているということだから、
感性的諸要素がたがいに函数的に依属しあい連関しあいながら現れるというのと同じことになる。
マッハがフッサールに先行しているというのはそれほどの時間差ではない。
釈迦牟尼仏がずっと先行していたということになる。
自我とか自己というものはなく感性的要素の複合体なのだから
マッハの業績であるとか釈迦牟尼仏の悟りであるとか言う必要もないかもしれない。
自我が解体されてしまうのであれば意志とか独創性とか創造性とか発見とか
そういうことを主張することに意味はなくなってしまう。
先端企業が特許で争っている光景というのも、或る感性的要素の複合体が他の感性的要素の複合体に対して
私(複合体)の方があなた(複合体)よりも先に出願したのだとそんなことを言い合っている感じがする。
遅かれ速かれいずれかの感性的要素がそうしたに違いないというだけのことなのだが、
「おのれ」というものが競い合ってしまう。
・・・「マッハとニーチェ」ではマッハの一元的世界と仏教の「無自性―空―縁起」の類似性を取り上げた。
ここから道元の『仏道をならふといふは、自己をならふなり、自己をならふというは、自己をわするるなり』
(『自己を忘れる』ということは、固定的な自我があるというとらわれから脱するということである。)
というところまであと一歩という感じがするが、その一歩が遠い。
「おのれ」は複合体を維持するための重要な形式であるため「おのれ」に執着するなと言われても
なにをどうすればよいのかわからない。それは「利他的」に行動せよということでもない。
慈善事業では「おのれ」を維持しながら「利他的」に振舞うことが出来るが
「自己をわするる」というのはそういうことではなく、ひたすら座禅ということかもしれない。
「感覚的諸要素の複合体」が複合体にとって有益な情報を活用しようとする形式が「思考」かもしれない。
そして情報を一元的に管理するための形式が「自我」であるかもしれない。
「自我」という形式が「思考」という形式を用いて
「自我」とは何か?「思考」とは何か?と問うところに無理があるかもしれない。
そのことについて、もう少し「考えて」みよう。
いつも「思考するもの」によって「思考されるもの」が思考されてきたのだが、
そのように主観と客観を分割する場合には実際には「考えて」いないのではないだろうか?
思考している時には「思考するもの」と「思考されるもの」は一体になっている感じがする。
複合体の諸要素を相互に関連付けることによって複合体の行動を決定するという場合に
相互の関連を行うのも相互に関連付けられるものも物理的には脳を構成するニューロンやシナプスであるが
相互の関連を行うものは「自我」であり関連付けられるものは「記憶」と呼ばれる。
物理的には同一のものを「私たち」は分離するのだが、どこが「自我」でどこが「記憶」か区別できるだろうか?
脳の中の特定の部位を指して「ここが私です」と言えるのだろうか?
そして「私」以外の部位を指して「そこは記憶です」と言えるのだろうか?
実際のところ「記憶」のない「自我」も「自我」のない「記憶」も想定できないので両者が独立しているとは考えにくい。
それでも「自我」があると信じて疑わない私たちには相当強い先入観が働いているのだろう。
もしも「自我」がないとしたら私たちは路頭に迷ってしまう。
そうすると人間は知性のある生き物というよりは
行動の主体・思考の主体がなくなってしまうと路頭に迷ってしまう生き物だと考えた方が良いかもしれない。
そのような「思考するもの」と「思考されるもの」あるいは「自我」と「記憶」が分離されることのない
感性的諸要素の複合体をどう扱えばよいのだろう?私たちの認識はそれを捉えることができるのだろうか?
だが「認識」は「言語」により達成され「言語」は主観により客観を記述するものであるから
そのような複合体を「言語」で語ることは困難というしかないだろう。
或る哲学者が「語りえぬものについては沈黙せねばならない」と書いた時に語りえぬものとされたのは論理と倫理であるが
主客の区別のない一元的世界を語ることはそのことよりもずっと困難であり
仏教ではずっと昔から語りえぬものとされてきた。
そういうことだから、ここから先は言語なき言語、言葉なき言葉の登場を待たねばならない。
そこではきっと「主観の謎」であるとか「秩序の謎」といったことは問題にならない。
そこでは「主観」や「秩序」を客観的に語ろうとする誤りが取り除かれる。
「宇宙の起源」「生命の起源」「心の起源」という問いが解消され
「主観の謎」「秩序の謎」が設定されたのだがそれすら問いにはならないということになってしまった。
目標であるとか夢であるとか問いであるとか、そういうものを設定してみるのだが、
その目標の立て方からして間違っていると、何度もそういう目に合う。
「自我」に執着するのであれば、そのような目標の立て方なり、生き方は否定されるだろう。
人生は短いのであって一角の人物となるためには、あちこち目移りしていてはいけない。
そういう前提を必要としない者にのみ、間違いを認める者にのみ、問うことが許される。
感性的諸要素の複合体の特定の要素である思想とか主張とか哲学とか
そのようなものに固執するということは自我に執着することと同じではないかと思われる。
まずは「自己をわするる」ことによって形而上学的幻想を捨ててしまう。
そういうところから始めよう。
函数的に依属しあい連関しあいながら現れ、絶えず離合集散を繰り返している一元的世界、
つまり<現象>の世界だけである。それは<物体>と呼ばれうるような複合体も現れるし、
<自我>と呼ばれうるような複合体も現れうるような両義的な世界である。
これらの複合体も比較的安定して持続するというだけで、絶対的な恒常性をもつものではない。
この世界には、そうした絶対的な恒常性をもつようなものはなに一つないのであって、
マッハに言わせれば、論理学的真理や数学的真理でさえも、そうした感性的諸要素の離合集散、
つまり経験に起源をもち、そこから生成してきたものなのである。
彼は、幾何学的空間でさえも、絶対のアプリオリではありえないと言う。」
そんなことが書かれていた。仏教の『無自性―空―縁起』に似ている。
「まず、『無自性』とは、文字通り『自性』がないということである。
『自性』とは、変化するものの根底にあってつねに同一であり、固有のものであり続ける
永遠不変の本質であり、他の何者にもよらずそれ自身によって存在する本体のことである。
『空』もまた、無自性と同じく、永遠不滅の固体的実体のないことを意味する。
このように、あらゆるものが空性であるということは、決して何者も存在しないとか、
すべてのものは虚妄であるとかいうことを意味しはしない。
『縁起』とは『因縁生起』を略した言葉で、事物事象が、互いに原因(因)や条件(縁)となり合い、
複雑な関係を結びながら、相互相依しあって成り立っていることをいう。
・・・
道元をはじめとする仏教者たちは、このような『無自性―空―縁起』の立場、すなわち、
すべての事物事象を関係性において把握する非実体的思考の立場から、本来、
『無自性―空―縁起』であるはずの事実事象を実体化し、そこに執着しがちな人間の傾向を批判する。
そして、仏教者たちは、常識的日常的な認識方法がこのような傾向におちいりやすいのは、
言語の分節機能をめぐって生じがちな誤解によると考えた。
言語による分節化とは、言葉によって世界を区切ることである。
『一水四見』のたとえに関して言及したように、人はみずからの生の必要に応じて世界を区切り、
区切ったそれぞれを言葉によって名付け文節化するのである。」
「空」は永遠不滅の固体的実体のないことを意味しているということだから、
感性的諸要素が離合集散を繰り返しているというのと同じことになる。
「縁起」は事物事象が、複雑な関係を結びながら、相互相依しあって成り立っているということだから、
感性的諸要素がたがいに函数的に依属しあい連関しあいながら現れるというのと同じことになる。
マッハがフッサールに先行しているというのはそれほどの時間差ではない。
釈迦牟尼仏がずっと先行していたということになる。
自我とか自己というものはなく感性的要素の複合体なのだから
マッハの業績であるとか釈迦牟尼仏の悟りであるとか言う必要もないかもしれない。
自我が解体されてしまうのであれば意志とか独創性とか創造性とか発見とか
そういうことを主張することに意味はなくなってしまう。
先端企業が特許で争っている光景というのも、或る感性的要素の複合体が他の感性的要素の複合体に対して
私(複合体)の方があなた(複合体)よりも先に出願したのだとそんなことを言い合っている感じがする。
遅かれ速かれいずれかの感性的要素がそうしたに違いないというだけのことなのだが、
「おのれ」というものが競い合ってしまう。
・・・「マッハとニーチェ」ではマッハの一元的世界と仏教の「無自性―空―縁起」の類似性を取り上げた。
ここから道元の『仏道をならふといふは、自己をならふなり、自己をならふというは、自己をわするるなり』
(『自己を忘れる』ということは、固定的な自我があるというとらわれから脱するということである。)
というところまであと一歩という感じがするが、その一歩が遠い。
「おのれ」は複合体を維持するための重要な形式であるため「おのれ」に執着するなと言われても
なにをどうすればよいのかわからない。それは「利他的」に行動せよということでもない。
慈善事業では「おのれ」を維持しながら「利他的」に振舞うことが出来るが
「自己をわするる」というのはそういうことではなく、ひたすら座禅ということかもしれない。
「感覚的諸要素の複合体」が複合体にとって有益な情報を活用しようとする形式が「思考」かもしれない。
そして情報を一元的に管理するための形式が「自我」であるかもしれない。
「自我」という形式が「思考」という形式を用いて
「自我」とは何か?「思考」とは何か?と問うところに無理があるかもしれない。
そのことについて、もう少し「考えて」みよう。
いつも「思考するもの」によって「思考されるもの」が思考されてきたのだが、
そのように主観と客観を分割する場合には実際には「考えて」いないのではないだろうか?
思考している時には「思考するもの」と「思考されるもの」は一体になっている感じがする。
複合体の諸要素を相互に関連付けることによって複合体の行動を決定するという場合に
相互の関連を行うのも相互に関連付けられるものも物理的には脳を構成するニューロンやシナプスであるが
相互の関連を行うものは「自我」であり関連付けられるものは「記憶」と呼ばれる。
物理的には同一のものを「私たち」は分離するのだが、どこが「自我」でどこが「記憶」か区別できるだろうか?
脳の中の特定の部位を指して「ここが私です」と言えるのだろうか?
そして「私」以外の部位を指して「そこは記憶です」と言えるのだろうか?
実際のところ「記憶」のない「自我」も「自我」のない「記憶」も想定できないので両者が独立しているとは考えにくい。
それでも「自我」があると信じて疑わない私たちには相当強い先入観が働いているのだろう。
もしも「自我」がないとしたら私たちは路頭に迷ってしまう。
そうすると人間は知性のある生き物というよりは
行動の主体・思考の主体がなくなってしまうと路頭に迷ってしまう生き物だと考えた方が良いかもしれない。
そのような「思考するもの」と「思考されるもの」あるいは「自我」と「記憶」が分離されることのない
感性的諸要素の複合体をどう扱えばよいのだろう?私たちの認識はそれを捉えることができるのだろうか?
だが「認識」は「言語」により達成され「言語」は主観により客観を記述するものであるから
そのような複合体を「言語」で語ることは困難というしかないだろう。
或る哲学者が「語りえぬものについては沈黙せねばならない」と書いた時に語りえぬものとされたのは論理と倫理であるが
主客の区別のない一元的世界を語ることはそのことよりもずっと困難であり
仏教ではずっと昔から語りえぬものとされてきた。
そういうことだから、ここから先は言語なき言語、言葉なき言葉の登場を待たねばならない。
そこではきっと「主観の謎」であるとか「秩序の謎」といったことは問題にならない。
そこでは「主観」や「秩序」を客観的に語ろうとする誤りが取り除かれる。
「宇宙の起源」「生命の起源」「心の起源」という問いが解消され
「主観の謎」「秩序の謎」が設定されたのだがそれすら問いにはならないということになってしまった。
目標であるとか夢であるとか問いであるとか、そういうものを設定してみるのだが、
その目標の立て方からして間違っていると、何度もそういう目に合う。
「自我」に執着するのであれば、そのような目標の立て方なり、生き方は否定されるだろう。
人生は短いのであって一角の人物となるためには、あちこち目移りしていてはいけない。
そういう前提を必要としない者にのみ、間違いを認める者にのみ、問うことが許される。
感性的諸要素の複合体の特定の要素である思想とか主張とか哲学とか
そのようなものに固執するということは自我に執着することと同じではないかと思われる。
まずは「自己をわするる」ことによって形而上学的幻想を捨ててしまう。
そういうところから始めよう。