goo blog サービス終了のお知らせ 

140億年の孤独

日々感じたこと、考えたことを記録したものです。

ドイツ・イデオロギー

2015-06-14 00:05:10 | マルクス
マルクス/エンゲルス著 廣松渉/小林昌人訳「ドイツ・イデオロギー」という本を読んだ。

「言語は意識と同い年である。―――言語は、実践的な、他の人間たちにとっても実存する、それゆえに私自身にとっても
また最初に実存する現実的な意識である。そして言語は、意識と同様、他の人間たちとの交通に対する欲求と必要から、
初めて生じる」
言語がなければ思考すらないというのは、あたり前のことなのだろう。
別にウィトゲンシュタインが見つけたことではない。
そして言語と意識はまた、他者の存在とも同い年ということになる。
閉じた観念は年をとらず、人間は成熟から程遠いところに留まり続けたのかもしれない。
キリスト教やら哲学について人々が思いを巡らせてきた二千年はまったく無駄であったかもしれない。
だが実践的なことに取り組んだからといって、その不毛さから逃れられるだろうか?
言語と意識が年を重ねたからといって何が良くなるのだろうか?

「同じく、つまり労働が分業化され始めると、各人は自分に押し付けられる一定の排他的な活動領域をもつようになり、
それから抜け出せなくなる。彼は、猟師、漁夫あるいは牧人あるいは批判的批評家のどれかであって、
生活の手段を失いたくなければそれであり続けざるをえない」
そういうところから抜け出したいと願いながら、抜け出すと食えなくなる。妻も子も養えなくなる。
そうすると割り当てられた分業が自分の天職であると思い込むことでしか不幸を回避することはできない。
主体的に生きるためには、そのような思い込みが必要であり、幸福でいるためには、無知に留まらねばならない。
これが自分の天職であると思い込むことでしか、人々は主体的になれない。
強制されたことを自らが望んだことであると言い換えることにより人々は満足を得る。
なんという欺瞞・・・

「共産主義というのは、僕らにとって、創出されるべき一つの状態、それに則って現実が正されるべき一つの理想ではない。
僕らが共産主義と呼ぶのは、現在の状態を止揚する現実的な運動だ」
共産主義とは目的ではなくて運動であるという。
そういうことを言ってしまったとしたら、それこそ思弁的なことではないのかと思う。そんなことは誰も理解できない。
マルクスに対して人々が持つイメージは「実際にソ連は崩壊したではないか?」ということに要約されるのではないかと思う。
マルクス主義なんてものは誰も理解しようとはしない。
共産主義が運動であることは理解したところで、だからどうなのか?

「支配階級の思想が、どの時代においても支配的な思想である。すなわち社会の支配的な物質的威力である階級が、
同時に、その社会の支配的な精神的威力である。物質的な生産のための手段を手中に収める階級は、そのことによって、
同時に、精神的な生産のための手段をも意のままにする。それゆえ、そのことによって同時にまた、精神的な生産のための
手段を持たない人々の思想は、概して、この階級に従属させられている。支配的な思想とは、支配的な物質的諸関係の
観念的表現、支配的な物質的諸関係の観念的表現、支配的な物質的諸関係が思想として捉えられたものに他ならない。
つまり、ある階級を支配階級ららしめるまさにこの諸関係が思想として捉えられたものであるから、
その階級の支配の思想なのである」
さて、自由で平等な現代社会においても「支配階級の思想が、どの時代においても支配的な思想である」ということだろうか?
階級は世襲ではないが、現代の支配者は物質的支配を勝ち取ると、すぐに精神的支配をも勝ち取る。
ニーチェが告発したように、経済的に成功した者は人格的にも優れており、道徳的にも勝利者であろうとする。
アップルやディズニーのような企業は、創造性・個性・夢・希望・勇気といったポジティブなイメージを最大限に活用し、
物質的支配と精神的支配を強化する。
付加価値のない人間は不要であるとする支配者の思想はドラッカー「マネージメント」やらコヴィー「7つの習慣」で徹底される。
そのような考え方の出来ない人は「ビジネスパーソンとして成功しない」し、商業的に成功できない者は「人間失格」である。
彼らは、日々「向上」することに囚われて生きている。
一度、権力を握ると精神的威力を示さなければ気が済まないのが彼らの本性であるため、
そのような人物にはなるべく関わりたくはないのだが、そもそも彼らは支配したいのだから、その支配から逃れることは難しい。
誰かの支配下でしか生き延びることは出来ないと、そういうことになってしまう。
だが、そのような支配的な思想というのは実際には内容がない。
生きている間の処遇が良ければ、それで良いのかもしれないが、それで実際に何を果たしたことになるのだろうか?
人々は富であったり地位であったり、そういうものを求めて止まない。
とにかく生きている間に他人に侮られるのは嫌だというのが、
その支配者の思想の正体だろう。

経済学・哲学草稿

2015-06-13 00:05:23 | マルクス
マルクス著 城塚登・田中吉六訳「経済学・哲学草稿」という本を読んだ。

「しかし、労働そのものは、現在の諸条件のもとでのみならず、一般に労働の目的が富のたんなる増大にあるかぎりでは、
私はあえていうが、労働そのものは有害であり、破滅的である」
「資本とは何であろうか。『蓄積され貯蔵された労働の一定量である。』(スミス、第二編、312ページ)
資本とは貯蔵された労働である」
「こうしてそれとともに、『領主のない土地はない』という中世のことわざのかわりに、『貨幣は主人をもたない』という
他のことわざが現われ、そのなかで、人間にたいする死んだ物質の支配がいい表されるのである」
「国民経済学を動かしている唯一の車輪は、所有欲であり、所有欲にかられている人たちの戦いであり、競争である」
「労働者は、彼が富をより多く生産すればするほど、彼の生産の力と範囲とがより増大すればするほど、それだけ貧しくなる。
労働者は商品をより多くつくればつくるほど、それだけますます彼はより安価な商品となる。事物世界の価値増大に
ぴったり比例して、人間世界の価値低下がひどくなる。
・・・
労働者の生産物は、対象のなかに固定化された、事物化された労働であり、労働の対象化である。
労働の実現は労働の対象化である。国民経済的状況のなかでは、労働のこの実現が労働者の現実性剥奪として現われ、
対象化が対象の喪失および対象への隷属として、対象の獲得が疎外として、外化として現われる」
「労働していないとき、彼は家庭にいるように安らぎ、労働しているとき、彼はそうした安らぎをもたない。
だから彼の労働は、自発的なものではなくて強いられたものであり、強制労働である」

以上に示されるように、労働は有害であり、現実性の剥奪であり、疎外ということである。
仕事に主体的に取り組んでいないからそのように感じるのだと、現代ではそのように語る人が圧倒的に多い。
主体的に、前向きに、積極的にという姿勢は、成功するビジネスマンの秘訣ということなのだろう。
そしてよく教育された日本人であれば「ものづくりへのこだわり」というありきたりな美談に置き換えたり、
人間性の愛着を自負している人であれば「自己実現の欲求」にこだわったりするのだろう。
そしてもっとも騙され易い人々は「7つの習慣」を読んで目が覚めたとか言ったりする。
彼らは皆「所有欲にかられている人たちの戦い」に巻き込まれているという事実について知らぬ振りをしている。
あるいはそのような人に媚び諂うことでおこぼれに与ろうとしている。
それもきっと彼らにとっての「自己実現」なのだろう。
利益を拡大するためには顧客満足を向上させる必要があるので、労働は必然的に他人のためのものとなってしまうのかもしれない。
そして「顧客満足の向上」が最大の価値を持つという共通認識が生まれれば、それに貢献し得る自分自身こそは、
最大の価値を生み出すという価値を持つということになる。
そのような競争において価値ある人間となり、勝利を噛み締めることがまた彼らの「自己実現」であることだろう。
そしてそのように考える人が多ければ多いほど、彼らの価値は増すことだろう。
私たちは狩り場も耕作する土地も失ってしまったので、私たち自身を商品とする生き方しか選択できない。
そのような生き方しか知らないのだから、それに疑問を感じることなどなく、一生を終える。
私の人生は失敗だったとか、出世したし勲章をもらったので成功であったとか、
どう思うかは個人の自由ということだろうが、その考え方自体はひどく制限されたものになってしまうだろう。
憂鬱な月曜日といったことを一切感じることのない強い意志といったものは、
実際のところは学ぶということを、つまりは自分が変わるということを体験することから無縁の人格にしか宿らない。
私はそんなものは要らない。

「世界にたいする人間的関係のどれもみな、すなわち、見る、聞く、嗅ぐ、味わう、感ずる、思惟する、直観する、
感じとる、意欲する、活動する、愛すること、要するに人間の個性のすべての諸器官は、その形態の上で直接に
共同体的諸器官として存在する諸器官と同様に、それらの対象的な態度において、あるいは対象にたいする
それらの態度において、対象をわがものとする獲得なのである」
労働が有害であるならば、死んだ物質(貨幣)に支配されないためには、どうすれば良いのだろうか?
まずは知覚するところからはじめようと、そういうことであるかもしれない。

「共産主義は否定の否定としての肯定であり、それゆえに人間的な解放と回復との、つぎの歴史的発展にとって必然的な、
歴史的契機である。共産主義はもっとも近い将来の必然的形態であり、エネルギッシュな原理である。
しかし共産主義は、そのようなものとして、人間的発展の到達目標―――人間的な社会の形姿―――ではない」
資本論には共産主義がどうとかいう記述はない。
そしてここで初めて私はマルクスの共産主義に対する肯定の表現を見た。
しかしそれもまた到達目標といったものではないようだ。革命そのものも運動であって目標にはならないということだ。
そのあたりの思い違いが、後々の不幸の原因であったかもしれない。

「この知は自己意識の純粋な対自存在であり、自我であり、しかもこの自我であって他の自我ではないところの自我であるが、
同様にまた直ちに媒介されまたは止揚された普遍的な自我である。この知は内容をもち、これを自分から区別している。
なぜなら、この知は純粋な否定性あるいは自己分裂だからである。すなわちこの知は意識なのである。
この内容は自己から区別されていながらも自我である。なぜなら、この内容は自分自身を止揚する運動、あるいは自我と
同じく純粋な否定性だからである。自我は、自分から区別されたものとしての内容のうちでも、自分に還帰している。
すなわち内容は、ただ自我がそれの他在のうちにあって自己自身のもとにあるということによってのみ、
概念的に把握されているのである」
第四草稿はヘーゲル『精神現象学』最終章についてのノートということである。
自我とか意識といったものが存在するかといったことは別にして、
私たちの思惟というものがどのような現象であるかについてヘーゲルは考えていたのだろう。
私たちの考え方のうち、どれが他人の考えで、どれが自分の考えかと問うたとしても、そんなものに答えはない。
思惟は自己から区別されていたとしても自我に取り込まれて行く。
そのようにして感性的諸要素の複合体は複雑さを増して行く。
私たちのうちに生じている現象とはそのようなものということになる。
それが実体であるとか、精神は無限であるとか、私という存在は唯一無二のかけがえのない存在であるとか、自己実現だとか、
そんなことを言いはじめると、どんどんズレてしまう。

「抽象するとは、自然の本質を自然の外部へ、人間の本質を人間の外部へ、思惟の本質を思惟作用の外部へ定立することである。
ヘーゲル哲学は、その全体系をこれらの抽象作用にもとづけることによって、人間を自己自身から疎外した。
・・・ヘーゲル哲学には、直接の統一、直接の確実性、直接の真理が欠けている」
哲学による人間の疎外と労働による人間の疎外は同じようなことなのだろう。
そしてヘーゲル哲学は、哲学というよりは神学のようなものかもしれない。
そして人間は自らが生み出した神や思想や貨幣の奴隷となってしまう。鈍感な者のみが不幸を免れる。
「鈍感力」と言って、それもまた美徳であり、器が大きいことの証であるということだ。
・・・しかしマルクスが哲学を逃れ、直接の真理を求めたとしても、彼の思想は様々に解釈されてしまう。
そして新たな不幸を生み出された。非はどこにあるのか?

共産党宣言

2012-08-21 23:43:35 | マルクス
「最近二十五年間に事情はおおいに変化したが、それでもこの『宣言』のなかにのべられている
一般的諸原則は、だいたいにおいて、今日もなお完全な正しさを失っていない」(8ページ)
ロンドン、1872年6月24日
カール・マルクス、フリードリヒ・エンゲルス

「完全な正しさ」というところがよい。
普通の人間には、何が正しくて何が間違っているのか、わからない。
わからないまま一生を終える。このことから一つの教訓を得ることが出来る。
つまり自分が正しいと思ったことが正しいのだ。
しかし、皆がそう考えたとしたら、正義と正義は激しく争うことになる。
一神教と一神教の争いのように、一人一人のことをよく知らないくせに互いに憎しみあうのだ。
結局のところ、私たちは他人が何を考えているのかわからないし、知ることも出来ない。
そのような立場にたってみると相手を説得する何の理由もありはしないし、
何が正しいかを主張することもできなくなる。
「完全な正しさ」という表現は、二度の世界大戦があったことを知らないから、
実際に生じた社会主義国における独裁を知らないから、用いることができるのだろう。
そして私たちは事実を知れば知るほど押し黙ることになる。

「人類の全歴史は階級闘争の歴史であった。つまり、搾取する階級と搾取される階級、
支配する階級と圧迫される階級とのあいだの闘争の歴史であった」(27ページ)
「階級闘争の歴史」ではなく単に「闘争の歴史」とする方があたっているだろう。
マルクスが盛んに用いる「階級」や「プロレタリア」という言葉に何の意味があるだろうか?
「私は虐げられているあなた方の味方ですよ」とそのくらいの意味しかないと思う。
それじゃ「国民の生活が第一」とあまり変わらない。

「共産主義者の当面の目的は、あらゆる他のプロレタリア党の目的と同一である。
すなわち、階級へのプロレタリア階級の形成、ブルジョア支配の打倒、
プロレタリア階級による政治権力の奪取である」(63ページ)
省略すると「共産主義者の目的は政治権力の奪取である」となる。
世界中で共産主義者が嫌われるのはそのせいだろうか?
そして政治権力を奪取したプロレタリアなるものは別のものへと変容することになる。
その名は単に「支配者」だ。

「しかしいまやこの闘争は、搾取され圧迫される階級が、かれらを搾取し圧迫する階級から
自分を解放しうるためには、同時に全社会を永久に搾取、圧迫、および階級闘争から
解放しなければならないという段階にまで達した」(10ページ)
「全社会を階級闘争から解放するための闘争」
19世紀の人々はそのような矛盾に満ちたユートピア思想を抱いていたのだ。
マルクスはそのことを知っていたのではないかと思う。
資本論には階級闘争のことは一切書かれていない。
きっと恥ずかしくて書けなかったのだろう。

1872年から140年後のロンドン五輪の閉会式でジョン・レノンのイマジンが流れていた。
///
Imagine all the people
Sharing all the world

You may say I'm a dreamer
But I'm not the only one
I hope someday you'll join us
And the world will live as one

想像してごらん みんなが
世界を分かち合うんだって...

僕のことを夢想家だと言うかもしれないね
でも僕一人じゃないはず
いつかあなたもみんな仲間になって
そして世界はきっとひとつになるんだ
///

ジョン・レノンは好きだが、たった4人のグループを続けることができなかった人に
「世界はひとつ」と言われても困る。

資本論⑨

2012-08-11 21:41:35 | マルクス
岩波文庫の9巻目で資本論全体が締めくくられる。
「第七篇 諸収入とその源泉」が納められているがページ数は100ページほどであり、
その後にエンゲルスが書いた補遺と訳者の解題が記載されている。

ここでは、ほとんど扱われることがなかった「競争」について記載があるが、
「競争はただ利潤率における不等を均等化しうるにすぎない」
(岩波文庫第9巻、86ページ)と書かれているだけだ。
資本家同士が競争を行い、特定の資本家が競争に敗れた資本家の資本を吸収し、
資本が集中されてゆくといったことが示されてはいるが、
その詳細なプロセスは記載されてはいない。
「競争は利潤率を均等化する」という程度のことで済まないことを
著者は認識しているはずだが追求していない。
それは執拗に同じことを繰り返して記述する本書のスタイルに合致していない。
「競争」を語ることは、それほどまでに困難なことなのだろう。

未完に終わった最終章「諸階級」について訳者は次のように書いている。
「いかにして資本主義の量的発展の中に、質的発展の、
つまり、社会主義社会への飛躍を準備しているか、資本主義の内的矛盾が、
その運動法則が、どのようにして社会主義社会実現の条件であるかを明白にする章であろう」
資本論は「悪魔の書」であるとレビューに書いていた人もいるが、
実際には社会主義やら革命といったことについては、ほとんど記載されていない。
左寄りな訳者が上述のようなことを書いているのだろう。
階級闘争が終わって平等な社会が実現するといったことを信じる理由は不十分であり、
王か貴族か武士か資本家か知らないが、およそ歴史というものは権力闘争の繰り返しであり、
支配者が入れ替わっているだけだろう。
結局のところ支配者階級と被支配者階級は常に存在を続ける。
そのことは社会主義というユートピア思想が空想であることを示している。

エンゲルスは、マルクスの葬儀で
「人間は、政治、科学、芸術、宗教等にたずさわるまえに、なによりもまず、
食い、飲み、すまい、また着なければならない」と述べたという。
つまり、経済学がすべての土台であると彼は言っている。
そしてまた自分たちの経済学は迷信や呪いとは異なる科学的なものであると考えている。
一般的には、人文科学、社会科学、自然科学という分野があることになっているが、
観測できない現象、したがって検証できない現象が科学であると
自然科学に携わる人々が考えることはないだろう。
だが、科学でなければ意味がないといったことではないのだし、
客観的に捉えられること以外は思考してはいけないということであれば
私たちの人生は相当に暇でつまらないものになってしまうだろう。
そういうことを考慮していない彼らは妄想に取り憑かれている。

「競争」についても、あまり記載されていないが「欲望」についての記載も少ない。
以前書いたことを繰り返そう。
・欲望は心という現象の一形態である。
・心という主観的な現象は、客観的な現象しか扱えない科学では解明できない。
・一方で欲望は価値を生み出す。
・価値は欲望にもとづくので解明することはできない。
つまり経済学が土台であるということが妄想であると共に
価値を解明することができない経済学は、そもそも土台を持つことができない。
ただ、私は別にそれが無意味だと主張しているのではない。
小説、哲学、宗教、自然科学、経済学について上下関係などないと
自惚れた経済学者に言っておきたいだけだ。

19世紀に搾取されていた労働者が行っていた単純労働に比較して現代の労働は複雑になっている。
生活必需品が主要な生産対象ではなくなり人々の欲望を掻き立てる製品やサービスを
生み出せるような労働者が必要とされている。
その様相をマルクスが見たのであれば資本論は改められるだろう。
現代の資本主義は労働者の創造性を引き出すことの出来ない企業を淘汰してしまう。
単純労働で生産される液晶の価値はどんどん下がってしまった。
他に売るべき製品を持たないシャープは行き詰っている。
どうすれば創造性を発揮することが出来るだろうか?そういうことが問われている。
しかしそのような労働者は非常に限られているのではないだろうか?
所得格差は広がる一方であるが放置してよいのだろうか?
資本主義に何らかの公正さを求めても無駄だ。
なんといっても自己増殖(あるいは右肩上がりの成長)が目的化されているのが
資本主義だから、そこで私たちは問い続けることになる。
本書はそのきっかけになる。答えではない。

資本は剰余価値で説明され、剰余価値の起源は不払労働であるという。
しかし剰余価値は蓄積された富として資本主義の成立以前から存在していると思う。
それは原初の農耕社会から続いている。
その謎を解き明かしたいというのであれば資本を語るだけでは
不十分であると思う。

資本論⑧

2012-08-09 22:19:07 | マルクス
岩波文庫の8巻目は「資本主義的生産の総過程」を扱う第三巻の続きで地代について書かれている。

地代も利子と同様に「資本によって産み出された剰余価値の一部」として取り扱われている。
しかし一方で、「与えられた平均利潤を超えて農業において生産された剰余価値がどの程度まで
地代に転化され、どの程度まで平均利潤への剰余価値の一般的均等化に参加するかは、
土地所有にかかるのではなく、一般的市場状態にかかる」(岩波文庫第8巻、253ページ)といった
記載もあり、実際のところ何が正しいか目測を立てるのは難しい。

そもそも「資本」とは何であるか?
それについて延々と述べられいるわけだが何か定義があるわけではない。
そのような単純な問いは経済を学んでいる人は軽々しく口にすることはできないだろう。
だだ、素人には恐れるものなど何もないので好きに書かせていただく。

貨幣資本、生産資本、商品資本
不変資本、可変資本、固定資本、流動資本
英語でcapital、独語でkapital
ググってみると「資本とは事業活動などの元手」と書いてあった。
そして剰余価値が不払剰余労働から成ると繰り返される主張を含めて考えてみると
資本とは「富」あるいは「蓄積されたもの」であると思える。

原始的な狩猟社会においては蓄積されるものは何もなく、その日暮らしだ。
人間以外の動物の暮らしもそのようなものだ。
冬眠前のリスが餌を蓄えることはあっても、それを富として認識するわけではない。

原始的な農耕社会によって蓄えられた穀物が「富」の期限であると思われる。
つまり必要労働とは生きるために消費する穀物を生産するのに必要な労働であり、
剰余労働とは蓄積できる穀物を生産するのに使用する労働とみなせるだろう。
そうすると穀物あるいは富を独占する王や豪族は不払剰余労働の搾取者であり得る。

奴隷社会、封建社会、資本主義社会と歴史と共に形態は変わってゆくが
剰余価値(あるいは富)をめぐって人々は争い続けてきたし今でも争いは続いている。
そして富をめぐる争いは人々を支配するための争いでもある。
支配があってこそ搾取することが出来る。逆に支配者となった者は搾取を始めることだろう。
そのようにして社会主義革命に成功した人々は自分が支配者となり
自分が搾取する者へと変貌してしまうことから逃れられなかった。
私はそう思う。

まもなく消費増税法案が成立するという。
誰が搾取しているのだろうか?

資本論⑦

2012-08-05 14:38:05 | マルクス
岩波文庫の7巻目は「資本主義的生産の総過程」を扱う第三巻の続きで利子について書かれている。

「利子は、元来、機能資本家なる産業家または商人が、自己の資本ではなく借入れた資本を
充用するかぎり、この資本の所有者にして貸し手である者に支払わねばならない利潤、
すなわち剰余価値の一部分にほかならないものとして、現れるのであり、
元来そういうものなのであり、また現実にもそうであるほかないものなのである」
(岩波文庫第7巻、60ページ)

商売をするには資本が必要であり、そこで得られるであろう利潤は
利潤(剰余価値)=企業家所得+利子、という表現によって資本論に組み込まれる。
しかしながら高利貸は資本主義的生産が発生する前から存在していたし
恐慌時の信用収縮に伴う利子率の上昇を、この表現によって説明することもできない。
商品の供給過剰による値崩れを剰余価値が不払賃金によるものだという理論が説明できないように
利子が剰余価値の一部であるという説明も現象を説明し得るものではない。

資本論のおもしろいところは、そのような標準理論を提唱しておきながら、
それに相反するような現象を数多記載しているところだと思う。
著者自身がどこまで理論を信じていたのか読んでいて疑問を感じさせるように
著者が誘導しているような気がする。

ここでは約10年毎に恐慌が繰り返されてきた様子が書かれている。
恐慌発生時には、資本家、商人、高利貸の中にも没落してゆく者たちがいたという。
借り手が支払えないような利子をつけて貸すのであれば最終的に何も返ってこないわけだ。
今ではギリシャを支援することに相当するのではないだろうか?
貸し手は何も返ってこないよりはマシだとしてヘアカット(債務免除)に応じる。

「国債のばあいのように何らの資本も存在しないばあいには・・・」
(岩波文庫第7巻、224ページ)
信用制度についても様々に書かれているが国債に関しては全く奇異であると思う。
何もないところから金銭を生み出すというのは錬金術にも等しい。
貨幣資本も資本であるからには自己増殖が目的化され
何らの資本も存在しない国債を買ってまで儲けを得ようとする。
国債というのは、資本の自己増殖欲を利用した錬金術(あるいは国家的詐欺)であると私は思う。
しかし実際に回収しようとしても何も出てこないから、いつかハジけるものだろう。

そうすると国民は騙されているのだろうか?
そう思うのであれば原発に反対するように国債の発行に反対すればよいだろう。

2012年9月に創業100周年を迎えるというシャープは
8/2の取引後に4-6月期の最終損益が1384億円の赤字となったことを発表した。
それで8/3の同社株は一時ストップ安になるほどに暴落した。
液晶に賭けたシャープは液晶の供給過剰とともに衰退してゆくのだろう。
私には19世紀の恐慌により没落していった資本家と重なって見える。
かつて同社の製品を愛用していたこともあるが今では多くの競合製品の中に埋没している。
誰にでも生産できる製品は値崩れしてゆくしかない。
だいたい「世界に誇る亀山モデル」って商品か?

社員5千人を削減することを決めて
「上期に膿を出しながら下期から再生する不退転の決意で臨む」と社長が言ったそうだが、
「膿!!!!!」
こんな発言をする人物に誰がついてゆくのだろう?

資本論⑥

2012-07-30 00:05:05 | マルクス
岩波文庫の6巻目から「資本主義的生産の総過程」を扱う第三巻に入る。
第三巻は1894年の出版らしく、1885年出版の第二巻から9年以上あとのことになる。
エンゲルスの編集作業も相当な困難を極めたものと推察される。

しかしながら第三巻では第一巻で説明されたことと同じような話が続く。すなわち、、
生産物の価値(商品の価値)=固定資本の摩損分+流動不変資本+流動可変資本+剰余価値
剰余価値率=剰余価値/流動可変資本
ということを形を変えて説明しているように感じられる。
ここで
固定資本の摩損分:労働手段(機械装置)の摩損分、今でいうところの減価償却費
流動不変資本:材料や燃料に必要な費用
流動可変資本:労働賃金に必要な費用
剰余価値:不払労働により資本家が搾取しうる価値
となっている。
資本論では固定資本と流動資本は、不変資本と可変資本と区別されている。
つまり、不変資本=固定資本+流動不変資本、となっている。

「諸商品の価値どおりの交換または販売は、諸商品の均衡のもつ合理的なものであり、
その自然法則である」(岩波文庫第6巻、293ページ)という前提があって
その分量を量るのは労働の分量、すなわち労働時間となっている。
そのことについて今までに反論を試みていたが
少し見方を変えてみようと思う。

近年では「成果主義」という目盛りのない秤で、賃金を決めようとしている。
彼らは口を揃えて「仕事の出来ない人間ほど長い時間働いている」という。
それは当たっていると思うこともあるが一面的であるだろう。
もしも仕事の出来る人間だけを集めたいのであれば
キーエンスみたいに高額で雇えばいいのだ。

マルクスの時代と違って労働は単純なものではなくなってきている。
しかし成果を上げるために時間が必要であることに変わりはない。
あるいはそれは計画された期限通りに業務を遂行することではあるが
およそ計画というものは労働者の尻叩きのためにしか役に立たない。
計画より1ヶ月遅れているので深夜も休日も関係なく働けという訳だ。
そして余裕のある計画を立てた時には「怠けている」と判断される。
そのような状況を21世紀的な搾取であると考えてもよいかもしれない。

「あらゆる吝嗇にもかかわらず、人間材料については全く浪費的である」
(岩波文庫第6巻、134ページ)ということは今も昔も変わらない。
旧日本軍の航空機や艦艇による特別攻撃隊、さらには人間魚雷・回天といった
正気を疑うような兵器の投入によっても人間は浪費されてきた。
ブルジョアジーとプロレタリアートの階級闘争がなくなったとしても
自分の利益のために他人を浪費する風潮はなくならない。
それはしばしば「会社のため」であると「全体のため」であるといって
個人に適用される。

資本論⑤

2012-07-22 00:54:21 | マルクス
岩波文庫の5巻目は「資本の流通過程」を扱う第二巻の続きにあたる。
詳細な理論が展開され、マルクス以前の多くの学者は容赦なく批判される。
資本論で批判される回数が多いのは、アダム・スミスとリカードだろう。
特にアダム・スミスは酷いまでに批判されているが、
おそらくそれは彼のことを部分的に認めているからだろう。
そして214ページから、デステュットという学者が批判されている。
資本家が利潤を得ることの説明が「ブルジョア的痴呆」であると言って・・・

富の蓄積に関するデステュットの説明は、
「彼らがその生産に費やしたところよりも高価に売ることによってであり」
他の資本家に対しては
「彼らの欲望の充足に充てられるべき彼らの消費の全部分については、相互に」
賃金労働者に対しては
「小額の貯蓄を除く全賃金を回収する」ということである。
あまり擁護するつもりもないが「欲望」という言葉を使っていることがわかる。
マルクスはそこのところに注意するつもりはなかったのだろう。

そしてマルクスは労働者からの賃金回収については次のように批判している。
「資本家は、労働者に100ポンドの賃金を払い、次に労働者に彼ら自身の生産物を
120ポンドで売り、かくして、彼らの手には、100ポンドが還流するのみではなく、
なお20ポンドの利益が入る?これは不可能である。労働者は、彼らが労働賃金の形態で
受取った貨幣でしか、支払いえない」

そして資本家の富を増すためには次のようでなければならないと書いている。
「資本家階級が労働者に貨幣で100ポンドを支払い、そして彼らに80ポンドの商品価値を
100ポンドで売るとすれば、資本家階級は、彼らに、彼らの正常賃金よりも25%だけ多く
貨幣で支払ったのであり、そのかわりに、25%だけ少なく商品で彼らに渡すわけである」

ん?なんかおかしくないか?
賃金に100ポンド支払い、商品を100ポンドで売ったとしたら、儲けはないのでは?
「労働者は、彼らが労働賃金の形態で受取った貨幣でしか、支払いえない」のだから。
ああ、ブルジョア的痴呆・・・
労働者に自社製品を買わせるという設定自体がおかしいのだと私は思う。

欲望と価値については前回も書いたが次のようなことを考えている。
・欲望は心という現象の一形態である。
・心という主観的な現象は、客観的な現象しか扱えない科学では解明できない。
・一方で欲望は価値を生み出す。
 もっときれいな服を着たいという人には、素晴らしい服が価値を持つ。
 もっとおいしい料理を食べたいという人には、素晴らしい料理が価値を持つ。
 もっと良い家に住みたいという人には、素晴らしい家が価値を持つ。
・価値は欲望にもとづくので解明することはできない。
 それを科学的に説明出来るという人は嘘つきである。

21世紀の凡人は理解できないことを理解できないと言えるので
19世紀の偉人すら批判してしまえる。

資本論④

2012-07-21 00:46:12 | マルクス
岩波文庫の4巻目から、「資本の流通過程」を扱う第二巻に入る。
「資本の循環」とか「資本の回転」とか、
経済学に無縁の人間が読んでも全然おもしろくない。
経済学者や経済学部の教授の頭の構造はいったいどうなっているのだろうか?
私の知る由もない。

資本論第二巻はマルクスの死後にエンゲルスが編集して出版したものだそうだ。
それが容易な仕事でなかったと「序文」で述べられている。
この序文では「資本家の剰余価値はどこから生ずるか」という「資本主義的生産過程の秘密」を
マルクスが剽窃したという噂が否定されていたりする。
「剰余価値が労働力の搾取によって生産される」という「秘密」が
誰の発見によるものかという、どちらかと言えば、どうでもよい話だ。
エンゲルスによるとマルクスは
「初めてその現実の経過における剰余価値形成過程を、微細な点まで叙述し、
これを解明することに成功した」ということで
その業績をラヴォアジエに喩えている。
ラヴォアジエ以前に「酸素」の抽出に成功していた者たちは
結局のところ「酸素」がどのようなものであるかを解明していなかったのだと・・・

この小話は「科学的社会主義」を標榜した彼らの姿をよく現しているのではないかと思う。
生産物の価値が、材料や燃料にあった価値と、機械などの労働手段から部分的に移転される価値と、
必要労働による価値と、不払労働による剰余価値の合計であるという等式は、
化学反応の前後で原子の種類と数は等しいということや
物理学におけるエネルギー保存の法則や運動量保存の法則を連想させる。
彼らは経済学における基本法則を見出したと考え
それを「科学」だと宣言したのだろう。

自然科学に興味のある人が、この本を読んだとして、「科学」と思うかどうか疑問だ。
それに「科学だから良い」「科学でないから悪い」といった問題でもない。
科学が対象とすることが出来るのは客観的に捉えることが出来る現象に限られている。
それ故に例えば「脳科学」なんてものは矛盾でしかない。
主観的な現象は客観的に捉えることができない。
それで「科学だから良い」とか「科学によってのみ現象は解明される」という考えは
誤解でしかない。
だが科学には科学なりのおもしろさというものが確かにある。
経済学が科学であったなら、そのおもしろさも含まれていると思うが
残念ながら科学ではないと思う。

剰余価値が不払労働から成るものであったとしたら
AppleとDellは活用するEMSの労働者から等しく価値を付加されたであろう。
しかしApple製品とDell製品は同一の価値で扱われない。
EMSの労働者が酷い扱いを受けていて搾取されているのが事実だとしても
そのことによって価値が生み出されるなどという妄想はどこから生じてくるのだろう?
そもそも「価値」とは何だろうか?
それは人間の欲望を満たすもの、あるいは人間の欲望を生じさせるものでは?
新しいiPadは古いiPadの価値を消失させる。欲望の対象は新しいiPadに向けられる。
Intelは常に新しいチップを開発して新しい欲望を掻き立てる。
そのような製品はまず企画されなければならない。
製品(あるいは商品)が生活必需品と奢侈品にしか分類されなかった時代に
価値そのものの解明を期待するのは間違いだろう。
それは今でも「謎」であり得る。

岩波文庫「資本論(4)」は500ページ以上あって読むのがたいへんだ。
まるで「ジャン・クリストフ」を読んだ時のような
不毛さに襲われた。

資本論③

2012-07-17 00:05:05 | マルクス
「資本家のために剰余を生産する労働者、すなわち資本の自己増殖に役立つ労働者のみが、
生産的である」(資本論(3)10ページ)
私たちは何気なく「生産的である」とか「生産的でない」と口にするが、
いかに漠然と語っているか、あるいは生きているかを認めなくてはならない。
「生産的?」それ自体、何の意味があるだろうか?

「各資本家の絶対的利益とするところは、一定量の労働を、より少数の労働者から
搾り出すことであって、同様に低廉にか、またはより以上に低廉であっても、
より多数の労働者から搾り出すことではない」(資本論(3)216ページ)

―――いったい何を言っているのだろう?
剰余価値が(搾取の直接の対象であるところの)不払時間に比例し
労働手段としての機械装置の向上による生産力に比例するものだとすれば
時代と伴に加速度的に発展する生産力の増加に伴って不払時間は減るということだろうか?
確かに「より少数の労働者から」と書いている。
そうすると労働者全体の不払時間は減るということになる。
そうすると搾取は減り、それ以上の資本の蓄積は出来ないことになる。
搾取の結果として労働者が失業したのだとしても
果たして失業者から「搾取」出来るものだろうか?
なんという矛盾を抱えているのだろうか・・・

そのような矛盾についての質問を受け付けることもなく
話はイギリスにおける労働者の貧困に移る。
イギリスの不幸は自らの貧困を語る人々を欠いていることにあるのだろう。
そしてドイツ人が、その凄惨さを語ることになったのだ。
ここでは偉大なる産業革命の国であるイギリスの栄光はどこにも見当たらない。
黒人を奴隷として扱う前に、彼らは自国民を、それも特に子どもを奴隷として扱っていたのだ。
そしてフランス大革命すら茶番であったということだ。
そのようなことは歴史の教科書には書いていない。
イギリス、フランスあるいは欧州全体の恥が日本の教科書に記載されていたとしたら
各国から苦情がくるに違いない。

そして、そもそも、資本主義的蓄積に欠かすことのできない「労働者」は
どこから来たのかが考察される。
それはつまり、「なぜ私たちは他人のために働かなければならないか?」という問い。
―――「何故か?」
―――「土地を追われた農民だから」
それが私たちの先祖なのだろうか?