マルクス/エンゲルス著 廣松渉/小林昌人訳「ドイツ・イデオロギー」という本を読んだ。
「言語は意識と同い年である。―――言語は、実践的な、他の人間たちにとっても実存する、それゆえに私自身にとっても
また最初に実存する現実的な意識である。そして言語は、意識と同様、他の人間たちとの交通に対する欲求と必要から、
初めて生じる」
言語がなければ思考すらないというのは、あたり前のことなのだろう。
別にウィトゲンシュタインが見つけたことではない。
そして言語と意識はまた、他者の存在とも同い年ということになる。
閉じた観念は年をとらず、人間は成熟から程遠いところに留まり続けたのかもしれない。
キリスト教やら哲学について人々が思いを巡らせてきた二千年はまったく無駄であったかもしれない。
だが実践的なことに取り組んだからといって、その不毛さから逃れられるだろうか?
言語と意識が年を重ねたからといって何が良くなるのだろうか?
「同じく、つまり労働が分業化され始めると、各人は自分に押し付けられる一定の排他的な活動領域をもつようになり、
それから抜け出せなくなる。彼は、猟師、漁夫あるいは牧人あるいは批判的批評家のどれかであって、
生活の手段を失いたくなければそれであり続けざるをえない」
そういうところから抜け出したいと願いながら、抜け出すと食えなくなる。妻も子も養えなくなる。
そうすると割り当てられた分業が自分の天職であると思い込むことでしか不幸を回避することはできない。
主体的に生きるためには、そのような思い込みが必要であり、幸福でいるためには、無知に留まらねばならない。
これが自分の天職であると思い込むことでしか、人々は主体的になれない。
強制されたことを自らが望んだことであると言い換えることにより人々は満足を得る。
なんという欺瞞・・・
「共産主義というのは、僕らにとって、創出されるべき一つの状態、それに則って現実が正されるべき一つの理想ではない。
僕らが共産主義と呼ぶのは、現在の状態を止揚する現実的な運動だ」
共産主義とは目的ではなくて運動であるという。
そういうことを言ってしまったとしたら、それこそ思弁的なことではないのかと思う。そんなことは誰も理解できない。
マルクスに対して人々が持つイメージは「実際にソ連は崩壊したではないか?」ということに要約されるのではないかと思う。
マルクス主義なんてものは誰も理解しようとはしない。
共産主義が運動であることは理解したところで、だからどうなのか?
「支配階級の思想が、どの時代においても支配的な思想である。すなわち社会の支配的な物質的威力である階級が、
同時に、その社会の支配的な精神的威力である。物質的な生産のための手段を手中に収める階級は、そのことによって、
同時に、精神的な生産のための手段をも意のままにする。それゆえ、そのことによって同時にまた、精神的な生産のための
手段を持たない人々の思想は、概して、この階級に従属させられている。支配的な思想とは、支配的な物質的諸関係の
観念的表現、支配的な物質的諸関係の観念的表現、支配的な物質的諸関係が思想として捉えられたものに他ならない。
つまり、ある階級を支配階級ららしめるまさにこの諸関係が思想として捉えられたものであるから、
その階級の支配の思想なのである」
さて、自由で平等な現代社会においても「支配階級の思想が、どの時代においても支配的な思想である」ということだろうか?
階級は世襲ではないが、現代の支配者は物質的支配を勝ち取ると、すぐに精神的支配をも勝ち取る。
ニーチェが告発したように、経済的に成功した者は人格的にも優れており、道徳的にも勝利者であろうとする。
アップルやディズニーのような企業は、創造性・個性・夢・希望・勇気といったポジティブなイメージを最大限に活用し、
物質的支配と精神的支配を強化する。
付加価値のない人間は不要であるとする支配者の思想はドラッカー「マネージメント」やらコヴィー「7つの習慣」で徹底される。
そのような考え方の出来ない人は「ビジネスパーソンとして成功しない」し、商業的に成功できない者は「人間失格」である。
彼らは、日々「向上」することに囚われて生きている。
一度、権力を握ると精神的威力を示さなければ気が済まないのが彼らの本性であるため、
そのような人物にはなるべく関わりたくはないのだが、そもそも彼らは支配したいのだから、その支配から逃れることは難しい。
誰かの支配下でしか生き延びることは出来ないと、そういうことになってしまう。
だが、そのような支配的な思想というのは実際には内容がない。
生きている間の処遇が良ければ、それで良いのかもしれないが、それで実際に何を果たしたことになるのだろうか?
人々は富であったり地位であったり、そういうものを求めて止まない。
とにかく生きている間に他人に侮られるのは嫌だというのが、
その支配者の思想の正体だろう。
「言語は意識と同い年である。―――言語は、実践的な、他の人間たちにとっても実存する、それゆえに私自身にとっても
また最初に実存する現実的な意識である。そして言語は、意識と同様、他の人間たちとの交通に対する欲求と必要から、
初めて生じる」
言語がなければ思考すらないというのは、あたり前のことなのだろう。
別にウィトゲンシュタインが見つけたことではない。
そして言語と意識はまた、他者の存在とも同い年ということになる。
閉じた観念は年をとらず、人間は成熟から程遠いところに留まり続けたのかもしれない。
キリスト教やら哲学について人々が思いを巡らせてきた二千年はまったく無駄であったかもしれない。
だが実践的なことに取り組んだからといって、その不毛さから逃れられるだろうか?
言語と意識が年を重ねたからといって何が良くなるのだろうか?
「同じく、つまり労働が分業化され始めると、各人は自分に押し付けられる一定の排他的な活動領域をもつようになり、
それから抜け出せなくなる。彼は、猟師、漁夫あるいは牧人あるいは批判的批評家のどれかであって、
生活の手段を失いたくなければそれであり続けざるをえない」
そういうところから抜け出したいと願いながら、抜け出すと食えなくなる。妻も子も養えなくなる。
そうすると割り当てられた分業が自分の天職であると思い込むことでしか不幸を回避することはできない。
主体的に生きるためには、そのような思い込みが必要であり、幸福でいるためには、無知に留まらねばならない。
これが自分の天職であると思い込むことでしか、人々は主体的になれない。
強制されたことを自らが望んだことであると言い換えることにより人々は満足を得る。
なんという欺瞞・・・
「共産主義というのは、僕らにとって、創出されるべき一つの状態、それに則って現実が正されるべき一つの理想ではない。
僕らが共産主義と呼ぶのは、現在の状態を止揚する現実的な運動だ」
共産主義とは目的ではなくて運動であるという。
そういうことを言ってしまったとしたら、それこそ思弁的なことではないのかと思う。そんなことは誰も理解できない。
マルクスに対して人々が持つイメージは「実際にソ連は崩壊したではないか?」ということに要約されるのではないかと思う。
マルクス主義なんてものは誰も理解しようとはしない。
共産主義が運動であることは理解したところで、だからどうなのか?
「支配階級の思想が、どの時代においても支配的な思想である。すなわち社会の支配的な物質的威力である階級が、
同時に、その社会の支配的な精神的威力である。物質的な生産のための手段を手中に収める階級は、そのことによって、
同時に、精神的な生産のための手段をも意のままにする。それゆえ、そのことによって同時にまた、精神的な生産のための
手段を持たない人々の思想は、概して、この階級に従属させられている。支配的な思想とは、支配的な物質的諸関係の
観念的表現、支配的な物質的諸関係の観念的表現、支配的な物質的諸関係が思想として捉えられたものに他ならない。
つまり、ある階級を支配階級ららしめるまさにこの諸関係が思想として捉えられたものであるから、
その階級の支配の思想なのである」
さて、自由で平等な現代社会においても「支配階級の思想が、どの時代においても支配的な思想である」ということだろうか?
階級は世襲ではないが、現代の支配者は物質的支配を勝ち取ると、すぐに精神的支配をも勝ち取る。
ニーチェが告発したように、経済的に成功した者は人格的にも優れており、道徳的にも勝利者であろうとする。
アップルやディズニーのような企業は、創造性・個性・夢・希望・勇気といったポジティブなイメージを最大限に活用し、
物質的支配と精神的支配を強化する。
付加価値のない人間は不要であるとする支配者の思想はドラッカー「マネージメント」やらコヴィー「7つの習慣」で徹底される。
そのような考え方の出来ない人は「ビジネスパーソンとして成功しない」し、商業的に成功できない者は「人間失格」である。
彼らは、日々「向上」することに囚われて生きている。
一度、権力を握ると精神的威力を示さなければ気が済まないのが彼らの本性であるため、
そのような人物にはなるべく関わりたくはないのだが、そもそも彼らは支配したいのだから、その支配から逃れることは難しい。
誰かの支配下でしか生き延びることは出来ないと、そういうことになってしまう。
だが、そのような支配的な思想というのは実際には内容がない。
生きている間の処遇が良ければ、それで良いのかもしれないが、それで実際に何を果たしたことになるのだろうか?
人々は富であったり地位であったり、そういうものを求めて止まない。
とにかく生きている間に他人に侮られるのは嫌だというのが、
その支配者の思想の正体だろう。