140億年の孤独

日々感じたこと、考えたことを記録したものです。

名古屋高校天体観望会

2013-09-28 21:34:25 | 科学
名古屋高校地球科学部・名古屋中学自然科学部主催の天体観望会に行ってきた。
校舎の屋上にドーム付きの口径25cm屈折式望遠鏡がある。
望遠鏡のある高校なんて信じられないです。

そのメインの望遠鏡の他に口径10~15cmの小さな屈折式望遠鏡や反射式望遠鏡が4台くらいあって
水星・金星・土星・アークトゥルス・アンタレス・二重星アルビレオ・M20などに
照準が向けられていた。

水星を見るのは初めなので「なるほど」と思っていたが、
観望会に訪れていた小さな子どもたちは「ただ光っているだけ」と言っていた。
そう言われるとそうだねぇ・・・

アルビレオは白鳥座のくちばしにあたる。白鳥座は夏の星座で一番わかりやすいと思う。
1等星デネブがおしりで3等星アルビレオがくちばしできれいな十字をしている。
北十字(ノーザンクロス)とも呼ばれる。
そのアルビレオは全天で最も有名な二重星のひとつだという。
金色と青色の対比が美しかった。

あいにくの曇り空でアンドロメダ銀河は見えないということだったが
口径25cmのメインの望遠鏡で球状星団M13を見せてもらった。
真っ暗なドームの中で見る方の目を手で覆いながら順番を待っていた。
瞳孔を開いたままにしないとよく見えないということらしい。
梯子を登って覗いてみると小さな星がたくさんきらめいているのがなんとなくわかった。
ネットをググったら見つかる写真は露出時間を長くして光を蓄積したものだから
そちらの方がきれいだと思うが生で見る方がいい感じがした。

次回は11月に開催されるそうだ。晴れるといいな。
雨天どころか曇天でも中止になってしまうのが
天体観測の悲しいところだ。

gooメール(有料版)

2013-09-27 21:35:16 | Weblog
「gooメール(無料版)をご利用の皆様へのご案内」というメールが届いた。
無料版は2014年3月10日に終了するようなので、それまでに有料版の申し込みをしてくださいという
ことだったが、10月31日までに申し込めば2014年4月末までの料金は無料になるという。
無料なのか有料なのかよくわからないが、2014年5月からは有料ということらしい。

別にgooメールが使いたいわけではないのだがブログだけ使えるようにはならないようだ。
無料で開設できるブログは探せばあると思うがいまさら引っ越すのも面倒。
編集画面に入ると「ブログの開設から1710日」と表示されている。
そんなにも長い間、無料だったのね・・・
ええ、悪いと思っていますよ・・・
払えばいいんでしょ・・・

有料版には以下のプランがあるそうだ。
①gooメールアドバンス(月額200円)
②gooアドバンスパッケージ(月額290円)

gooアドバンスパッケージは以下で構成されている。
②-1 gooメールアドバンス
②-2 gooブログアドバンス

gooブログアドバンスは画像容量1テラバイトと他社アフィリエイト可能が売りらしい。
残念ながら画像を載せる予定はない。アフィリエイトにも縁がない。
開設当初はアクセス数を増やそうと努力していたが
そういうのって疲れるので今では自分の好きなことしか書かなくなってしまった。
それでgooメールアドバンスを申し込んだ。
好きなことには出費が伴う。
致し方ない。

徒然草(三)

2013-09-25 00:05:05 | 古典
三木紀人全訳注「徒然草(三)」には、第百十一段から第百八十二段までが収められている。

第百十二段「明日は遠き国へ赴くべしと」の現代語訳には、
「世間の社交的なならわしは、どれも避けられないものばかりである。黙視できない世の
ならわしに従って、それらを不可欠なものと考えていれば、したいことも多く、
身も不自由で心の落ち着くときもなく、一生はこまごまとした雑用にさえぎられて、
むなしく暮れてしまうだろう。日は暮れ、なお前途は暗い。わが一生は思うようにならない。
すべてのかかわりを捨て去るべき時だ。もはや信義も守るまい。礼儀も思うまい。
この気持ちを理解できない人は、狂人というならば、言え。正気を失った、
人情のない者とも思え。非難されても意に介しないつもりだ。
逆に、その決意をほめても、耳を傾けようと思わない。」と書かれている。
解説には「他人のおもわくなどを顧みずに専心求道の日々を送ろうとする心情を綴っている」と
書かれている。遁世者とはそういうものなのだろう。
ただ、そうした生き方が許容されていたのは中世に限られたことではないかと思う。
近代社会では所属していることに疑問を感じるや否や一匹の毒虫に変身してしまう。
存在することは所属することであり、所属を拒否すれば存在を消されてしまう。
狂人とか、正気を失ったとかそんなレベルではすまない。毒虫だ。
皆が等しく義務を負い税金を納める市民社会では遁世者を認めるわけにはいかない。
Wikipediaによると「引きこもり」について以下の説明がある。
「長期に亘って自宅や自室に閉じこもり、社会活動に参加しない状態が続くこと」
閉じこもるかどうかは別として「社会活動に参加しない」という点では
遁世者は引きこもりと区別できないだろう。
そして、情報が溢れている社会においては他人の思惑に対して機敏であることや
高いコミュニケーション能力が求められる。
他人の思惑を引き出し、それに応え顧客のニーズを満たすことによって
ビジネスパーソンとして成功することが出来る。
他者のために生きることと自己のために生きることを同化させることで
疑問を感じない仕組みを構築するのだろう。
彼らは忙しいといって本も読まないのだし、読んだとしてもビジネスに役立つ本しか読まない。
そして手ごろな金言を見つけては住み慣れた世界で一生を終える。
私はそんなものに興味はないんだな・・・
グレゴール・ザムザは惨めに死んで行くが、所属することに疑問すら感じない人々に比べれば、
ちょっとはマシな人生を送ったのだと思う。

第百二十三段「無益のことをなして」の現代語訳には、
「無益なことをして時を過ごすのを、愚かな人とも、間違ったことをする人ともいうべきである」と
書かれている。さて「無益なこと」とはいったいなんなのだろう?
「人間としてどうしても求めてつとめねばならないものは、第一に食物、第二に着る物、
第三に住む所である」とも書かれている。これに薬を加えた四つのもの以外を求めるのが贅沢なのだという。
そうすると贅沢が無益だと言いたいのかもしれない。
一方、現代ではカネにならないことが即ち無益なことなのだろう。
自己増殖が目的化した資本の手段となり、その増殖に寄与することが有益なことなのだろう。
もともと生き物にとっては生存と生殖に役に立つことが有益なことだと考えられる。
資本だけが、あるいは資本を殖やすことに取り憑かれた思考だけが歪なのではない。
遺伝子も自己増殖を目的にしているように見える。
物質すら特定の空間を占めて存在することが目的のように見える。つまり現に在り続けることが全てだ。
死すべき人間は存在を続けることが出来ない。そして不死を語る宗教を受け入れる。
仏道につとめる遁世者もまたその誘惑を逃れることが出来ないのではないだろうか?
このような議論を続けても無益なことから逃れることは出来そうにない。
結局のところ自分が価値を認めたもので世界を満たすことによって
私は無益さから逃れようとしているらしい。

第百三十七段「花はさかりに、月はくまなき」の現代語訳には、
「しずかな山の奥にも、死という敵がはげしく迫って来ないはずはない。その身が死に
直面している点で、彼は戦場に臨む武士と同じなのである」と書かれている。
解説には、「戦場にのぞむ兵士と草庵の主人とは、ひとしい運命のもとにつかのまの命を保ち、
きわどく生きている」と書かれている。
「戦場にのぞむ兵士と草庵の主人」が同じであるならば私たちも皆、同じなのだろう。
死がいつ訪れるかなんて誰にもわからない。
そして後悔のない人生を送ろうなどと考えてみたとしても仕方がない。
後悔という心の作用も生きている間に生じることであって死んでしまったら関係がない。
死ぬ前に「私は後悔していない」「私の人生は素晴らしかった」・・・
そんなふうに考えたところで何か意味があるだろうか?
その人が死んでから100年もすれば、その人が生きていたことを覚えていた人すらいなくなってしまう。
今までに夥しいほどの無名の人々が死んできた。これからもそうだろう。
その人たちが「後悔のない人生」を送ったかどうかなんて誰も興味を持たない。
そんなふうにしてニヒリズムの極限まで達すると
自分のやりたいことをやるしかないという開き直りが生まれる。
才能がなくてもやりたいことをやるしかない。

名古屋フィル#28ストラヴィンスキー火の鳥

2013-09-23 08:07:00 | 音楽
「火の鳥」を聴いてきた。
ストラヴィンスキーの曲だと「春の祭典」が一番好きだが「火の鳥」も好きだ。
どちらも彼の「原始主義時代」に作曲されたもので、あまりお上品な音楽ではなく、
どちらかというと野蛮で残酷で生々しい。
フロイトが医者としてフレイザーが学者としてニーチェが哲学者として
暴き出したモノをストラヴィンスキーは音楽にしている感じがする。
心を打つ感動的な音楽というのではなく、心に直接働きかける音楽だと思う。
その時に指揮者と演奏者と聴衆は一体になって、
つまりはそのことに関わる全ての人々が主体を消失してしまって、
なんとも不思議な感じで時が流れて行く。
時空という観念が曖昧になって現象を認識することができなくなってしまう。
人の本性は野蛮であると主張するものでもなく、
野蛮な本性を理性が制御できることが素晴らしいのだと主張するものでもなく、
ただそのような原初的なモノがそこにあった。
20世紀とは隠蔽されたモノを再発見する世紀だったのではないだろうか?・・・

今回はガイア・シリーズの5回目で
テーマは<火-始まりの花火と黄金の羽根>で曲目は以下の通りだった。
ナッセン: 花火と華麗な吹奏 作品22
プロコフィエフ: ピアノ協奏曲第2番ト短調 作品16
ストラヴィンスキー: バレエ『火の鳥』全曲
プロコフィエフのピアノ協奏曲第2番は生で聴けばそれなりに良いと思うが
火の鳥に比べると凡庸だと思う。
ピアニストの指は動きは人の為せる技とは思えないほど素晴らしいものだったが
技巧を凝らした曲には本質が欠けている。

徒然草(二)

2013-09-21 00:05:05 | 古典
三木紀人全訳注「徒然草(二)」には、第四十七段から第百十段までが収められている。

第五十八段「道心あらば」に以下の記載がある。
「人と生れたらんしるしには、いかにもして世を遁れんことこそ、あらまほしけれ。
ひとえに貪る事をつとめて、菩提におもくかざらんは、よろづの畜類にかはる所あるまじくや」
この部分の現代語訳は次のように書かれている。
「人として生まれたからには、そのしるしとして、万難を排して世を捨てるのが望ましいことである。
ひたすら欲望にとらわれて、悟りの道を志さないのは、さまざまの畜類と何の違いも
ないのではあるまいか」
なんというか畜類と同じとかいうのは動物がかわいそうだ。
なんとなく宮沢賢治の「フランドン農学校の豚」を思い出してしまった。
しかし自意識を持ってしまった人間の方がもっとかわいそうなのだろう。
自意識が「死ぬのは嫌だ」とか「人生の意味」とかつまらないことを考えさせる。
それを逃れようとして「悟り」に執着するのは実際のところ「煩悩」ではないかと思う。
きっと悟った人は何も語らずに行動するだけになるのだと思う。
その生き方は「富の標識」を蓄積することや虚栄心を満たすことを否定するものだが
もともとそんな欲望を持ってはいない畜類の方が楽かもしれない。
悟ってようやく畜類と同じと言ったりしたら
怒られるだろうか?

第七十四段「蟻のごとくに集まりて」の解説には、
「無常を自覚せぬ人間の営みの卑小さ、むなしさを対句仕立ての構文で説くもの」と書かれている。
無常を自覚するなんて無理だし、
無常を自覚したところで人間の営みは卑小であり続けるだろうし、
あまり意味のない文章だと思う。
そんなことを書かねば目の前にある「虚しさ」を遠ざけることができないという意味で
ますます卑小になってしまいそうだ。
この手の議論は「世界の中の私」と「私の中の世界」が最終的に一致してしまい、
「主体が世界である」という結論に達してしまう。それもまた意味のない文章だ。
繰り返しになるが「無常を自覚している俺ってスゲー!」というのはやめて欲しい。
誠実な人間はそんな高い所にいつまでも居られるものではない。
矛盾に満ちた地表で、のたうちまわることを厭わない人の方が私は好きだ。

第八十九段「奥山に、猫またといふもの」
「猫バス」は知っているが「猫また」は知らない。想像もつかない。
そうやって想像力をくすぐるところが文章の魅力であり映像が表現できないものだろう。
動画であれ静止画であれ映像は想像力を殺してしまう。
私たちは視覚的な刺激を受けるとそれに支配されてしまう。
どうもそういうのは好みでない。

第百八段「寸暇惜しむ人なし」の現代語訳には、
「無益のことをし、無益のことを言い、無益のことを思って時を過ごし、月日を送り、
一生を送るなどというのは、もっとも愚かなことである」と書かれている。
いったい何が無益で何が有益なのか?
ここでは「善を行う」ことが有益とされているらしい。
市民社会以前の「善」がどのようなものかわからないが、
市民社会での「善」は法に合致するものであり、法は概ね多数の意見に従うものだろう。
そうすると多数の意見に従って行動することが有益なのだろうか?
実際には自分の生存確率と子孫の生存確率を最大にする行為が有益であり、
私たちの学習能力は毎日その情報を更新している。
だから何が有益で何が善であるかは確定しない。
いつの間にか人々は何が善であるかなんて語らなくなった。
市民社会の「善」はアメリカの「正義」に踏み躙られてしまった。
一方で金銭を得ることが有益であるという認識は一致している。
生存を有利にすることが有益なのだから・・・
そこで生き続けることと生きることは違うのではないかと
そういう疑問を持ったとしたら
どうだろうか?

徒然草(一)

2013-09-18 00:05:05 | 古典
三木紀人全訳注「徒然草(一)」を読んだ。
原文に加えて、現代語訳・語釈・解説が記載されている。暇な人向け
「角川書店編ビギナーズ・クラシックス」で足りない人にオススメ

さっそく序段から揉めている。
「心にうつりゆく」の「うつる」は「映る」なのか「移る」なのか問題にしている。
私は何の疑問もなく「映る」と思っていたが「移る」もよさそうだ。
おそらく両方の意味がこめられているのだろう。
ここではまた「心」を「鏡」にたとえている。「鏡に色・形あらましかば、うつらざらまし」なのだと言う。
なんとなく論理哲学論考の五・六三三一「つまり、視野はけっしてこのような形をしてはいないのである」を思い出した。
五・六三二には「主体は世界に属さない。それは世界の限界である」と書いてある。
実際のところ「心が鏡である」とか「主体は世界の限界である」というのは何も説明していない。
鏡が鏡を映すことはないのだし、主体は世界に属さないので把握できない。
実は「わかりませんよ」と告白しているだけなのだろう。しかもカッコつけて・・・
そういうわけで心を対象として捉えようとすると合わせ鏡が映す世界に迷い込んでしまうのだが
私たちの好奇心は探索をやめようとはしない。
その好奇心を問うことで循環してしまうのは自明だが
やめることができない。

そしてここに書いていることも本が心に映した「よしなしごと」に過ぎない。

第十二段「同じ心ならん人と」の解説には、
「求めて得られない『心の友』への飢餓感を表白したものである」と書いてある。
「ひどく歯切れの悪い文章である」とも書いてある。確かにその通りだ。
「心の友」とは存在しないから「心の友」と言うのだろう。剛田武さんにも教えてあげたい。
同じ心ならん人(心をひとしくする人)がいないのは主体が唯一無二であることと同じことなのかもしれない。
そういう友を欲する姿勢をマズローなら承認の欲求と呼ぶのかもしれない。
言葉を持った瞬間から私たちは求めてしまう。
今ではスマホ・無線通信・twitter・facebookによって
リアルタイムに承認の欲求を満たそうとするケースもある。
それは「つながり」と言って美化されたりもする。

そしてブログを書くことも承認の欲求を満たそうとする試みに過ぎない。
だから読んでね。

第十三段「ひとり灯のもとに」の解説には、
「現実に『心の友』を得られない『わびしさ』を慰めるものとして、
書物とのふれあいをのべる」と書いてある。そういうものなのか?
地位や名誉を得ることで承認の要求が満たされている人は本を読んだりはしない。
一方で村上春樹の小説の主人公などは決まっていろんな本を読みいろんな音楽を聴いている。
作品に触れることで益々現実離れが加速してしまい寡黙になってしまう。
もしかして私は自分のことを書いているのだろうか?

第三十段「人のなきあとばかり悲しきは」の解説には、
「しばらくは人々の記憶に残っていた故人がまもなく忘れられ、残された者も徐々に死んで行き、
ついには一つの人生がまったくなんの痕跡を残さずに消えることが述べられる」と書いてある。
だからどうなのと聞かれても困るのだが、そういう事実がある。

第三十八段「名利に使はれて」には、「才能は煩悩の増長せるなり」と書いてある。
おもしろいと思ったが、それでは「煩悩」とは何であるかと問うとわからなくなる。
「ぶっせん」に「煩悩」と「遺伝子」を並べていたシーンがあった。
煩悩というか欲望は生きて行くために欠かせないものだろう。
あるいはその言葉は肯定的には「情熱」に置き換えられるかもしれない。
しかし「才能は遺伝子の増長せるなり」と書くとあまりに当たり前のことになってしまう。
突出した遺伝子がマー君みたいな子を生み出す。
その偉大な記録は永遠に語り継がれるだろう・・・というのはウソで
千年後にはプロ野球そのものが無くなってラグボールが流行っているかもしれない。
人類が存続しているかどうかも怪しい。
そして他の事象と同じように「なんの痕跡を残さずに消える」のだろう。
まあ私が消える方がずっと早いですが・・・

徒然草(角川書店編)

2013-09-14 00:05:05 | 古典
角川書店編ビギナーズ・クラシックス徒然草を読んだ。

「さて、徒然草の中心思想は無常観であるといわれるが、どんな内容なのだろうか。
無常とは、人間の世界を支配する人知を超えた力、目にみえない力の存在を感じさせることである。
たとえば、人間にとって生死のはかなさである。」
そんなふうなことが解説に書いてあった。

つまり、無常を感じることが大切であると・・・
でもそれは人知を超えていることなのだから、そもそも感じることも出来ないのでは???
理解は出来なくても感じることは出来るのだろうか?
たとえば音楽にはそういうところがある。きっと感性の守備範囲は知性の守備範囲より広いのだろう。
しかし、無常とか解脱とか輪廻とか、そういうものは抽象概念であって、感じ取るものではない。
理性が自ら生み出した抽象概念を真理と勘違いしてしまう誤謬については
純粋理性批判に詳しく書かれている。

遺伝子のデジタル性は「生死のはかなさ」と相容れないように思える。
永遠が与えられてしまうと人々は一生懸命生きようとしなくなるみたいなことを言う人もいるが、
そもそも永遠が与えられることはないのだから「仮定」に「誤り」がある。
「人知を超えた力」を説く人々は結局のところ「永遠」とか「無限」とか「絶対」という概念を
人間の上に置き、そのことを理解している「俺ってスゲー!」みたいに思っているのではないかと思う。
なんといっても「人知を超えた力を感じている」のだから・・・
無限とか絶対に飛躍するのは卑怯だと思う。
そもそも私たちの認識は因果関係から離れることは出来ないものだし
私たちの思考は言語の限界を超えることは出来ない。
そう考える方がずっと誠実だと思う。

そんなことより徒然草に書かれている文章そのものを楽しむ方がいいんじゃないかと思う。
アフォリズムとして・・・

MediaPadとiPhone 5C

2013-09-13 23:05:23 | Apple
価格.comによるとNexus 7(2013年版)が売れているらしい。
アメリカの価格に比べると日本はボッタクリ価格に見えるが、
売れ筋2位(16GB)、3位(32GB+LTE)、4位(32GB)に入っている。
32GB+LTEは4万円くらいするが、SIMフリーiPadに比べると安いのだろう。
そんな高価なタブレットに比べると見劣りするのだが、
8月末に、MediaPad 7 Lite S7-931uという端末を14,500円+安心手数料で買った。
1024x600なのでNexus 7の半分の解像度しかない。
CPUはまもなく4世代前の製品になるiPhone 3GSと同じものなのでモッサリ感は否めない。
AndroidのくせにChromeが落ちるのは訳がわからない・・・
SIMフリー・通話・microSDHC・GPS・Bluetooth・320万画素カメラと
値段の割には機能がたくさんあるのが良いところだ。
microSDHCは東芝の32GBのClass 10がトランセンドより安かったので購入した。
iSyncrでMacBookのiTunesと同期させている。プレイリストはいちおう使える。
ただしフォルダは見えない。
外部スピーカーは良い音とは言えないがそれなりの音量は出る。
POPミュージックを垂れ流して聴くのに使っている。クラシックを聴くには難がある。
パソコンとUSBでつないで簡単にデータ授受ができる。
USBのホストにもなれるらしいが未確認・・・
高額商品ではないので気楽に持ち出せる。保護フィルムなんて張らない。
100均で買ったケースに入れている。
Android4.0.3だが使いやすくなったと思う。
WiFi・Bluetooth・GPSの入り切りなどはiPadより使いやすいと思う。
ブラウザで押した位置がわからない場合は拡大して問い合わせてくるところも良い。
iTunesのライブラリがフォルダで見えないのが残念だ。

iPhone 5S/5Cの発表があったが「サプライズがなかったのがサプライズ」と言われている。
iPhone 5Cに比べるとiPod touchの方が断然良いと思う。
iPhone 5Cに比べるとiPhone 3GSもまだまだ現役で行けそうだ。
Appleは一時期、宿敵であるMicrosoftの支援を受けるまで落ちぶれたことがあったが
その時代が再来するのではないかと思ってしまった。
きっと残るのはGoogleとAmazonなのだろう。
Appleという研究所を失ったSamsungも共に落ちぶれていくのだろう。
SONYという研究所を失ったPanasonicと同じように・・・
AppleのHPを覗くと見たくもないiPhone 5Cの巨大画像に唖然としてしまう。
かつてこれほどAppleのHPを嫌だと思ったことはない。
きっと多くの人が同じ不快感を感じただろう。
見栄っ張りな日本人はみんなiPhone 5Sを買うと思う。
羞恥ゆえに電車の中で5Cを使う人はいないだろう。
iPhoneの価格は虚栄心により維持されている。
「私だけ5C」なんてプライドが許さない。
あー、MediaPadは楽だわ・・・

あさきゆめみし

2013-09-11 00:05:05 | 源氏物語
ヴィジュアルな表現に対しての侮蔑
現代の価値観に置き換えた時の誤解
視覚情報が引き起こす想像力の停止
音楽的文章を葬り去ることへの危惧
原文から抜け落ちてしまう心理描写

漫画化にあたっては様々な障害があったことと推測される。
桐壺では創作している部分があり、空蝉をすっ飛ばしたりしているが、
全体としては原作に忠実なのではないかと思う。
もっとも現代語訳しか読んだことがないので本当にそうなのか実はわからない。
桐壺で多少の創作を試みて原作よりおもしろくするのは無理だと考えたのかもしれない。
そこから先は、絵としての表現を追及したのではないかと思う。
それにまあ、原作者は女性だし、漫画化したのも女性だし、読者も女性だし、
女人にしかわからないところがきっとあるのだろう。

「ぼく夕霧 きみと同じおばあちゃまの孫だよ」
「わたし・・・雲居の雁ってよばれているの」
さすがにそこは無理があるかな。「雲居の雁」ってどんな名前やねん・・・

六条の御息所は、ますます化け物のように描かれている。
生き霊として葵に取り憑き、死んで物の怪となって紫の上や女三宮に取り憑くが、
源氏が彼女を厭わしいとは思わなくなるまで
彼女は魔物のままなのだ。

紫の上は美しく聡明で身分が高く教養があり芸道に通じ風流も解する、
あらゆる点で素晴らしい女人として描かれているのだが紫式部はその彼女に幸福を与えなかった。
彼女に子どもは生まれなかったし出家も許されなかった。
この時代に女人が自由を獲得する手段は出家しかなかったのだと、
そういうことを再認識出来るという点ではマンガも良いのだが初めは文章で馴染んだ方が良いと思う。
絵なり映像なり視覚的な情報は修正不可能なまでに第一印象を決定してしまう。
文章が許す想像の範囲は広いし何度でも修正できる。

「雀の子を、犬君が逃がしてしまったの、伏籠に入れてあったのに」
大和和紀さんは最後にその回想シーンをもってきた。
さすがに上手い。その時に私は思ったのだ。
ああ、伏籠に閉じ込められていた雀の子は、紫の上だったのだと、
その言葉は彼女の将来を暗示していたのだと・・・
う、少女マンガにしてやられたね。
寂聴さんが「伏籠の中にしっかり入れておいたのに」と訳したのはイマイチだと思う。
「伏籠に入れてあったのに」の方がだんぜんいいですよ。

さて女君として完璧な紫の上に対して、
男君として完璧な源氏はどう描かれているだろうか?
准太上天皇(太上天皇に准じた待遇で実際にはそのような称号はないとのこと)にまで登りつめ、
それぞれ帝・中宮・太政大臣となる三人の子の父となった源氏もまた幸福にはなれず、
無常の世界の中で悟りを開くわけでもない。
物語の初めに「雨中の品定め」で理想の女性像のようなものが語られるが、
物語の結末は完璧な男君と完璧な女君を組み合わせても幸福には程遠いというものだった。
そして持ち越された結論は宇治十帖に書かれる。

本編に比べると「あさきゆめみし」の宇治十帖は失敗していると思う。
匂宮と薫がイケメン高校生のマブダチのように描かれている。
現代語訳では、静の薫と動の匂宮、浮舟を争った二人の貴公子が実はとてもつまらない連中であり、
薫の誠実と匂宮の情熱の両方を欲した浮舟もまた浅ましき者として否定される。
その否定に至るまでのプロセスが狂おしいものであるが故に説得力がある。
そうしたことをマンガで描くことに限界があるというよりは、
そんな話を夢見がちな読者は好まないのだろう。

橘の小島の色はかはらじを
この浮舟ぞゆくへ知られぬ

行方の知れぬ航海を迷いながら続けていかねばならない私たちは
浮舟と同じ素性のちっぽけな人間でしかない。
美しくあるが教養も嗜みもない浮舟は著者と真逆の人物のように思える。
そしてまた完璧な女人である紫の上とも真逆の人物のように思える。
そんな彼女が物語を締め括るということが源氏物語の最も優れたところだと思う。
紫式部は本当は紫の上を出家させたいと思っていたのかもしれない。
それでは物語にならない・・・

植ゑて見し花のあるじもなき宿に
知らずがほにて来ゐる鶯

そんなふうにして誰もいなくなってしまった。
あなたも私もいつかいなくなる。
逃れようがない。

源氏物語(巻十)

2013-09-07 00:05:05 | 源氏物語
瀬戸内寂聴訳「源氏物語巻十」には、浮舟・蜻蛉・手習・夢浮橋が収められている。

【浮舟】
匂宮は薫が浮舟を宇治に隠していたことを知り、かつて訪れた宇治の山荘に赴く。
薫の声を真似て寝所に忍び込み、浮舟を手に入れる。
全く気付かないうちに信じられないことになってしまったと女君は考えていたが、
片時も遭わずにいたら死んでしまいそうだと激しい情熱を剥き出しにする匂宮に惹かれる。
浮舟は二月に再び宇治を訪れた匂宮と愛欲の限りを尽くす。
そんな中で匂宮は「この人を姉君の女一の宮に女房としてさし上げたら、
どんなに大事になさるだろう」とふと考える。彼にとってはその程度の女なのだろう。
浮舟の不貞に気が付いた薫は山荘の警備を強化するが、
彼もまた正妻として尊重する気持ちはなく、このまま隠し妻にしておこうと考えている。
どちらがいいとも決められない浮舟はやがて自分が死んでしまうのが一番無難な方法だと
考えるようになる。

【蜻蛉】
宇治の山荘では浮舟がいなくなったことに気が付いた女房たちが大騒ぎする。
匂宮も薫も悲しみに暮れる。しかしその嘆きがずっと続くことはなく、
薫は小宰相の君という女房のもとに通ったり、女一の宮に見惚れたりする。
多情が本性の匂宮も宮の君に懸想して、うろうろする。
彼らの誠実やら情熱といったものは時の経過とともに消え失せるものであることを
浮舟の帖で読者を酔わせた著者は示しているのだと思う。
まるで自らの魔法を解く魔法使いのようであり
種明かしをする手品師のようだ。

【手習】
行方不明になっていた浮舟が出家するまでが描かれる。
小説としてはヒロインの死で締めくくることも出来たと思う。
仏教では自殺がたいそう重い罪であることからそうしなかったのかもしれない。
宇治十帖の主人公は薫ということになっているが私は浮舟が主人公ではないかと思っている。
薫や匂宮に比べると身分も低く教養もなく人並みな扱いすらしてもらえなかった浮舟が
最終的には読者に道を示すことになる。

【夢浮橋】
消息を知った薫が連絡を取ろうとするが浮舟は応じない。
そんな浮舟の態度に薫は「女君を誰か男が隠し住まわせているのか」と想像している。
夢浮橋というのが何かという説明もなく物語はそこで唐突に終っているようにも見える。
そんな終り方だが足りないものはないと思う。

解説に「『男はせいぜいこの程度よ』という、紫式部の声が聞こえてくるような気がする」と
書いてあるが、私にはそんな声は聞こえてこなかった。
男より女の方が優れているとか、そんなつまらないことを書いているのではないと思う。
快楽を追求してやまない浅ましさという点では匂宮も薫も浮舟も変わらない。
そのような人物と行為を連ねることで読者自身さえも同一の種類の人間であると
著者は遠回しに語っているのではないかと思う。
浮舟は自身の浅ましさを自覚したという点で他の二人に優っているのだと思う。
地位・名声・快楽を手に入れるために、生きている限り逃れられない欲望を満たすために、
互いを欺き合い、男は女を手に入れようとし、女は女で快楽に身を委ねる。
源氏の孫であり源氏の性質を色濃く引き継いでいる匂宮は源氏の分身のように思える。
そのような高貴で美しくて優れた人間や、誠実を売りにしている薫のような人間が、
父宮に認知してもらえず身分の卑しい教養もない浮舟に最終的に凌駕されてしまう。
私にはそんなふうに紫式部の語る声が聞こえてきた。
ショウペンハウアーが源氏物語を読んでいたなら、そこにも「生きんとする意志の否定」を
見つけ出しただろう。
生化学的な物質の分泌で生じるであろう欲望によって遺伝子は生き物を支配している。
そのことを認識するのであれば積極的にそのような意志を否定し自由という虚構を廃し、
それでも生きることが出来るということを私は示したい。