140億年の孤独

日々感じたこと、考えたことを記録したものです。

iTunesの復元/0sim/女体五満足

2016-03-27 00:05:15 | Weblog
田園が殊の外好きなので聴こうと思ったら、
古いiTunesのデータにカール・ベームのベートーヴェンが入っていなかったので、
CD使って入れ直しかと思ってがっかりしていたところ、
えっ、バーンスタインのマーラーも入っていないじゃないか、
えっ、GARNET CROWのTerminus(これはちょいマイナー)もないじゃないかということで、
千曲以上は欠けているらしいということがわかって本気出しました。
「win10 256文字 コピー」でググると
「ファイルパスが255文字を超えるファイルはFastCopyや7-Zipで操作しよう 特集その3」
というのが見つかって、FastCopyというのをインストールしたら
外付けHDDから簡単にコピーできた。
ほっとしました。
依然として、256文字を越える楽曲はiPhoneには入らないですが、
妙に長い名前というのは洋盤のワーグナーらしく、
どちらかというとあまり聴かないので、
許容範囲です。

BIGLOBEの格安SIMを挿していたiPhone 4sの処置をどうするか、
売ってしまうか、でもたいした値段になりそうにない。
データ通信の格安SIMを調べていたが、最安値は下記だった。
「FREETEL SIM[LTE対応・データ通信専用・マイクロSIM](月額299円(税抜)より)」
アマゾンで売っていたのでカスタマーレビューを見ていたら、
「ちなみに現在はSO-NETの0simに切り替えたため本SIMは解約しました」というのがあり
「0sim」でググると毎月500MBまで無料ということだった。
これがあれば外出時にパソコンをネットにつなげられそう。申し込み手続は5分で完了
開通に1週間くらいかかるみたいです。

ところで参院選への最終調整が進んでいるという女体五満足の著者が叩かれていますが、
結局は小さな子供たちが父親に失望するという形で自分に跳ね返って来ると思います。
業界では有名な話だったそうで選挙のタイミングなので流出ということなんでしょうけど
最近は道義的倫理的な姿勢に妙にうるさい世の中になって来ていて
偽装イクメン代議士も辞めさせられたし、
自分の選挙への悪影響を恐れる勢力に引きずり降ろされる可能性が高いのではないかと。
それに障害者だけど明るく爽やかに生きていますということで金儲けしてきたのだから、
そうではないということになると反感が出て来てしまいます。
特に既婚女性からの支持が得られなくなるので政治家としてはむずかしそうです。
人間の本性はエロなのでエロでもいいんですけど、
そういうキャラクターで売って来たわけではないので反則です。
妻が謝罪するとか友人の医師が弁護するとか、
そりゃあ妻にしてみれば子供を育てるためにダンナの収入が要るだけのことで、
友人医師は商品価値を損ないたくない勢力が様子見にカウンター打って来た感じで、
なんかもうやっぱり金の亡者たちという匂いがして来ます。
やっぱり有名になる人は欲望を成し遂げようとする気持ちが強いんだと思いました。
それだけのことでしょう。正直あまり興味がない。

そんでバーンスタインのマーラー1番を久しぶりに聴いてみました。
前にも書きましたが、この演奏はちょっと普通じゃないです。
なんでこんなに凄いのか、何が凄いと感じさせるのか、よくわからない。
別にこれを聴いたからどうというわけでもないですが、
世の中には時々そういうものがあるのです。
エロもいいけどね。

老後の生活に1億円かかる!

2016-03-20 20:18:54 | Weblog
老後の生活に1億円かかる!というニュースがあった。

「老後生活費の平均は月35.4万円で、この金額で25年間(65歳~90歳)生活すれば、
1億円ちょっとかかります」ということだ。
この話の絶望的なところは、老後に1億円必要ということよりは、
老後の25年間をすごすために、
年金受給額では不足する数千万円を65歳までに貯めなければならないと
考えてしまうところだろう。
「老後の安心した生活」・・・でもいつか死ぬんでしょ?
「老後の安心した生活」のために65歳まで休みなく必死に働かねばならないの?
そんなにまでして生きて何がしたいの?
結局はそういうことになる。
ただ老後を生き延びるために、ただ金を稼ぐだけの人生を送る。
あーやりきれない。

・・・ゆきのまち幻想文学賞は落ちてしまったみたい。
四百字詰10枚以内なので、そんなに惜しくもないが、正直くやしいです。
原稿用紙9枚でしたが、初めて書いた小説です。

65歳まで「老後のゆとりある資金」を稼ぐための人生なんて嫌ですね。
もうこれからは好き勝手やってやる。
ん?今までもそうか?
というか雇ってもらえるのって60歳までで、60~65歳はどうするの?
35.4万円×12か月×5年=2124万円
なんかひどい時代だね。

東芝的なもの

2015-08-04 00:05:11 | Weblog
【なつかCM】

「経営陣は実現不能な目標を設定するだけ。あとは「従順」や「忠誠」を代名詞とする
日本の企業文化に任せておくだけでよかった。そこではヒエラルキーの下層にいる人間たちが
上からの言いつけを死に物狂いで実行するのだから」
そんなふうなことが書かれているが、それは何処にでもある風景だと、
東芝に限ったことではないと考えている人がたくさんいるだろうし、
粉飾と言わずに「不適切会計」と報じていることに違和感を持つ人もたくさんいるだろう。
報道のあり方自体がすでに東芝的であり、歴代社長の確執がどうとかいったことくらいしか書けない。
上場廃止にするとせっかく上向いてきた株価やら経済に水を差すのだし、
メディアにおいては重要なスポンサーである東芝さまを粉飾と報じることは御法度だし、
上司の意向に沿わないし、自分の出世を含めた人生設計にそぐわないということなのだろう。
それは日本に固有のことかと言えばそういう気はしない。
いつの時代も、どの国家であっても、権力者の意向に沿った情報操作が行われてきたのだし、
つまりは情報操作を行えるということが権力者の証ということなのだ。
この種の報道の行き着く先は大衆のガス抜きであって、
「不正を行った社員は解雇されてしまうが、不正を行った社長は辞任で済むのは如何なものか?」と
書いたりはするが、いずれみんな飽きてしまうのだ。
そして司法もまた権力の一部であり、相互の権力に干渉しないという程度にしか機能しない。
お互いの地位とか、ヒエラルキーの上層にいる人間がもらえることになっている年金には干渉しない。
そうすることで自分たちの老後は安泰ということになるだろう。
そんなふうにして反吐が出るほど嫌な奴らが権力を持っているのが通常の社会であり、
その権力は元の権力者の地位を保証する者に継承されていく。
そういうのが羨ましければ、明日からは心を入れ替え、上司に向かって全力で尻尾を振るべきだろう。
えっ、もうそうしている?・・・
失礼しました。

そういうわけで今回の教訓は何かというと、
「明日を作る技術の東芝」とか「エネルギー(原子力事業)とエレクトロニクス(半導体事業)の東芝」
といった企業の業績を上げることは「実現不能な目標」になってしまったということではないかと思う。
あるいはシャープというこれまた大企業が底なしの業績不振に陥っていることも同じ事情による。
かつて農業に従事する人口が養えなくなったのと同じように、
エネルギーやらエレクトロニクスに従事する人口が養えなくなって来たということになる。
「20万人の従業員が一丸となれば会社存亡のこの危機をきっと脱出できる」なんて気合だけではどうにもならない。
江戸幕府が抱えていたような不労階級を維持することは出来ない。
将軍の意向に沿っていれば自らの地位も安泰なんてことではなくて
上司の意向に沿っていても共倒れになっしまうというようなことになって来ている。
いまさら転職なんて出来ないというのが大多数の意見だと思うが、
余っているのに米を作っても仕方がないとか、海外の大規模農業に比較して価格競争力がないとか、
そういった言葉が製造業に撥ね返って来ている。
そんな先の見えない時代に役立つ技能というのはエネルギーとかエレクトロニクスではなくて
コミュニケーション能力ということだ。

美は、細部に宿る。

地球の干され方

2015-05-18 00:05:21 | Weblog
干されてから、もう○年になる。
それは晴れてはいるが比較的じめじめとして風の流れも絶えてしまった五月のベランダに
全工程が32分で終了する位の洗濯物を干すような、ありきたりで定期的な感じの干され方かもしれないし、
長雨の止まぬ六月の室内に生乾きの下着や靴下を吊るすような、やむを得ない感じの干され方かもしれない。
洗濯物も寝苦しいであろう真夏の夜の闇の中を訪れては去って行く蚊のドップラー効果にイラついている時のことかもしれない。
実に様々な干され方が地球には存在するのであって、私はすでに36種類くらいの干され方を体験したような気がする。
ちょっとした権威と言えるだろう。
そんなふうにして地位も給料も上がらないのだが
加速度的に忙しさと悲哀と道化の程度を増して行く現代日本の労働環境にあっては
比較的時間に余裕のある生活を送ることができているのではないかと思う。
そして誰も読まないような記事をアップロードしては
ほくそ笑む。

おさるのシャーロット

2015-05-10 08:49:35 | Weblog
サルにシャーロットと命名したことが問題になっているらしい。
きっとイヌにシャーロット、キジにシャーロット、あるいはクマやカメにシャーロットと命名した場合は問題にならないのだろう。
桃太郎、金太郎、浦島太郎各位のご意見を伺いたいところだ。
おそらくは「サル」にまつわる「サル」特有の進化論的に少々むずかしい問題なのだろう。
生物学的かつ宗教的な見地からダーウィンの、当事者として豊臣秀吉殿下のご意見を伺いたいところだ。
同じ名前なのでプリンセス=サルという短絡思考をしてしまうという人は、たぶんサルの赤ちゃんをかわいいとは思っていないのだろう。
動物園に応募した人はみんな「赤ちゃん」の名前について思案していたのであって
「英国王室ウザいから、サルと同じ名前にしてやろう、ウッキッキ」みたいな気持ちで応募したりはしない。
サルにシャーロットではなく、おさるのシャーロットなのだ。
「どうして騒動になる可能性があるのにそんな名前をつけたのか?」
そうした問題回避型の発想というのはどうなんでしょう?
多角的な視野から検討しておりますというアレか?

未送信のメールより・・・

2014-06-11 21:34:39 | Weblog
ナポレオンとか豊臣秀吉とか、他人を踏み躙ることなんとも思わず、
平気で踏み越える人たちのことを便宜的に勝利者とか支配者とか権力者と呼んでいます。
「難波のことも夢のまた夢」なので、その勝利にいったい何の価値があるのかは置いといて、
要するに彼らは生殺与奪の権利を握っており、生きている間は(ナポレオンは没落したので
権力者である間はと書いた方が正確か?)好き勝手なことができるということになります。
これが「意志と表象としての世界」の
「第二巻 意志としての世界の第一考察 すなわち意志の客観化」で述べられているところの
「生きんとする意志」の例といえるでしょう。

一方で、イエスや釈迦や宮沢賢治などは、財産やら殺生やら競争を疎い、
彼らの行動を理解できぬ者たちからは「利他的」などと呼ばれるような行為を自ら行い、
そのことに積極的な価値を見出しているとすら言えます。
これは「意志と表象としての世界」の
「第四巻 意志としての世界の第二考察 自己認識に達したときの生きんとする意志の肯定ならびに否定」で
述べられているところの「生きんとする意思の否定」にあたります。
「否定」というところに厭世主義とかペシミズムの匂いを察知して
それ以上知ろうとしない人も多いですが、ここでいう「否定」というのは、
実は積極的な意味を持っていると思います。

この両者の中間が、やはり「意志と表象としての世界」に引用されていますが、
ホッブズの「万人の万人に対する闘い」から発展した自然法の管理下の状態かと思います。
法の下の平等などと言いますが、共同体の維持のために個人の自由を制限すること、
統治とか支配になんらかの正当性を与えること、
君子における徳であるとか、リーダーに必要な器であるとか、その類の本は巷に溢れていますが、
要するに「自分のしてほしくないことを他人に強要するな」ということです。
小学校の道徳の教科書に書いてあるようなことになります。
しかしここでいくら良い人とか立派な人とか徳のある人と言ったところで、
「生きんとする意思の否定」に達した人には及ばないと思います。

そういうわけで「意志と表象としての世界」というのは考え方を整理するのに役立ちます。
ちなみに第一巻はカント、第三巻はプラトンのイデアに基づいて芸術のことを書いています。
そこで超越論的な哲学であるとか、芸術の価値についても理解を深めることができます。

私はしかし自己の生存の無制限の拡大(生きんとする意志)とか、
生存競争の否定による道徳的な勝利(生きんとする意志の否定)のいずれかを支持する
立場にはいないし、ましてやその中間状態を支持したりしないです。
ま、年とったら宮沢賢治みたいな生き方をしてみたいとは思います。
いずれかの立場に組してしまうと、それ以上のことを考えられなくなると思うので、
そんなふうにはなりたくないです。

これで説明になっているのかな?

自由を希求する

2014-06-10 20:58:47 | Weblog
自由を求めるということは実際には自由でないことを証明しているのかもしれない。
過去を愛するこは思想の奴隷であることを示しているのかもしれない。
夢見るとか前向きというのは実際には現在に屈服した人間のすることかもしれない。
未来を愛するためには現在の奴隷とならねばらならないのかもしれない。
自由を求めることすら遺伝子の命ずるままに生きることのようであり
そうだとするとプログラムされた自由という矛盾に至る。
自由な選択で意志を決定しているということすら嘘ではないかと疑ってしまう。
そのようにして「疑う」ことは「自由」なのだろうか?
そのような問いはきっと無意味なのだろう。
「自由」かどうかなんて誰にもわからないのだろう。
生き延びること、子孫を残すことを目的として「自由」は活用される。
よく考えてみると望んで生まれて来たわけでもないし望んで死んで行くわけでもない。
生きることも死ぬことも自由に決められない。
他人に支配されるのが嫌ならば他人を支配しなければならないという矛盾
支配者には責任が伴い、判断力がなくとも判断を求められ時間に追われ、
「自由」に思い通りに過ごせる時間がない。
そんな支配者が「自由」であるはずもないが、一時の支配が彼らに束の間の喜びを、
他人を支配することの喜びを感じさせる。

未来永劫「存在」することも出来ない存在が「自由」であるはずがない。
だからそこにいる君よ!好きなことをしよう。

facebookを止めた理由なんてあるわけない

2014-06-08 00:14:31 | Weblog
もともと似合ってもいなかったが・・・
仮面を立派に見せようといろいろ工夫しているのが馬鹿馬鹿しくなったし・・・
メッセージのやり取りをしている方には悪いと思いましたが・・・
そのメッセージは自分の言葉とはかけ離れてしまっているようにも感じ・・・
そして他人のフォーマットに従うのは苦痛でならない・・・
そのことに何の疑問も持たないというのはどうもおかしい・・・
思えばこうした身近なことから私たちはコントロールされているのかも・・・
料理を撮影してコメントするのは変だと思う・・・
この頃「○○食べ放題」みたいなのを見るとめまいがする・・・

美しい小鳥がカラスに追いかけられていた。
そのカラスを仲間の小鳥が追いかけていた。
彼(あるいは彼女)は親だったのだろうか、恋人だったのだろうか?
注意を自分に向けようとしていた。
やがてカラスは小鳥を捕らえ夕日を背に獲物を嘴にして建物の上に立っていた。
私が飛べたなら助けに行けたのに・・・と思った瞬間に
先週、鶏肉をさばいてから揚げにしていたのは誰かと考えた。
自ら手を下した分、カラスの方が立派なのだろう。
私たちは「から揚げなう」「焼き肉なう」とかとつぶやいてコメントするだけだ。
あー、めまいがしてきた。

それでこれからもきっと「から揚げ」を作るのだろう。
「カツ丼」も作る・・・豚さん、ごめんなさい・・・
生き物というのはそういうものだ。
でも写真は撮らない。

昨年の巣に戻って来たと思われたツバメは、その後、姿を見せなくなった。
食われてしまったのだろう。

進撃の巨人

2014-01-27 00:05:05 | Weblog
「アルプスの少女ハイジ」の頃から飼い慣らされてきた世代には合わないかもしれない。
リアリティと恐怖が見る者を圧倒する。
「弱肉強食」と私たちが語るのは私たちが強者でいられる間だけだ。
流される血、喰われる肉塊、捕食される恐怖・・・
生きたまま人間が喰われることで人格そのものが完全に否定される。
そこでは尊厳であるとか誇りであるとかいった言葉は意味を持たなくなる。
敗者にとっては「この世界は残酷」なのだ。
知性なきその表情、巨人には悪意なんてものはないのだ。みんな笑ってやがる。
そう、私たちが食事をするように彼らは笑う。
表情のない猛獣が人間を喰う時よりも薄気味悪く巨人は笑い人間を喰らう。
死んで行った者には皆、名前があり、名前には生きた証が、その意味が求められる。
ここでは意味そのものが、人が生きる理由そのものが否定される。
意味もなく死ぬことを犬死と言うが、人から見た犬と巨人から見た人が同等となり、
ここでは意味もなく犬のように人が死んで行く。
だが一方で人類の天敵であるという彼らは私たちに似ている感じもする。
「いったい何のために死ぬんだ?」
私たちに食われていった鳥や豚や牛はそんなことを考えただろうか?
「どうして奪われる?」
そうやっていつも私たちが命を奪ってきたからだ。
右翼などとは性質の異なる暴力とすら呼べない暴力、尽きることのない暴力
非力なものに向けられた力は、非力なものにとっては暴力になる。
「誰も自分が悪魔じゃないことを証明できない」
そう、天敵とは彼らではなくて、私たちかもしれない。
巨人と人間との戦いは本当は人間同士の戦いなのかもしれない。
「考えることを放棄している」
「敵は巨人だけじゃない」
そんなセリフもあった。
アメリカ映画的な善も悪もなく日本アニメ的に相対的な善も相対的な悪もない。
アメリカ映画では邪悪な存在がなければ正義を主張することすら出来ない。
感動的なクライマックスを演出することも出来ない。
アメリカという国がテロ支援国家を必要としているように、
アメリカ映画は邪悪な存在を必要としている。
そして日本のアニメでは善と悪を相対的なものとして語ることによって
リアリティを確保しようとしている。
もちろん宮崎アニメはそんなものですらなく、
主義としては反戦であり自然保護であり反科学文明であり、
そこに愛と夢と希望と感動といったディズニー的な要素も織り交ぜてある。
それがダメだということではなく「それでなくてはダメ」だと思う人々のあり様が
その人だけではなく周りの人間もダメにして行く。
宮崎さんが得意とする空中戦のシーンも過去のものとなってしまった。
立体機動装置により展開される構図は尽きることなく変化する。
過去の価値は破壊される時が来る。

そして一方では物語にはつきものの謎がある。
巨人・壁・外の世界・・・それはリアルなものであると共に象徴的な言葉でもある。
主人公の原動力は復讐なのか?探究心なのか?
「どうしてだって?そんなの決まってんだろ。俺がこの世に生まれたからだ!」
なんという情熱的で直接的で観念的なセリフだろう。
その気持ちは私にはよくわかる。

お金とか、時間とか、人生とか

2013-12-26 00:33:03 | Weblog
お金というのは尺度なのだろう。
金持ちは貧乏人よりも尺度が大きいが故に優れている。
そうではなくて精神の気高さとか徳がある人が優れていると言うとルサンチマンだと言われる。
お金を得るために、つまりは生きて行くために、人々は日々頭を下げている。
お金があれば、そう卑屈になることもないのだろうと考えたりもする。
顧客満足度を向上させることに経営者は夢中になっている。
その目的のために人々は互いの時間を奪い合っている。
誰かを満足させるためには誰かが奴隷とならねばならない。
ずっと昔からそうだったし、これからもずっと同じだろう。
地位の低い者は地位の高い者に時間を、つまりは命の一部を差し出す。
毎日、命の一部を差し出すことで、結局は命の全てを差し出すことになる。
その連鎖が続くわけだから誰もが時間を奪われる。すなわち誰もが命を奪われる。
そのような考え方は前向きではない、ポジティブではないとして否定される。
否定されたからといって何が変わるわけでもない。
結局のところ命というものは、誰かに奪われるか、自分で消耗してしまうかどちらかであって、
かけがえのないものであるとか、地球よりも重いというのは出鱈目だろう。
21世紀の日本で餓死者が出ることは恥ずべきことなのだろうか?
江戸時代には飢饉で多くの餓死者を出した。
私たちのプライドは「江戸時代と同じ」であることを認めない。
しかし現代ではよりいっそう時間の奪い合いを、リソースの奪い合いをしている。
近代以降は物質よりも時間を独占しようとする支配者が増えている。
そして権力者は彼らの搾取を容認することで自らの地位の安泰を図る。
なんか、つまんねー世の中だな・・・
商売をしている限りはそうしたルールに従って生きて行かねばならない。
商売をビジネスと言い換えてスマートさを語る場合もある。
そういう連中の相手をするのは疲れる。
ビジネスでなければ娯楽であり、娯楽でなければビジネスであると彼らは考えている。
そのような枠組みの中で生きることはできないと感じる。
露骨にそう言ってしまうとグレゴール・ザムザのように毒虫になってしまうので
そうならないように、つまりは生き延びるために、仮面を被る。
そのようにして私は社会に奉仕し、命を差し出す。
このような二面性は弱点になっているのだろう。
しかしそれ以外にどんな生き方が出来るのだろうか?
私は少なくとも10年以上は内奥に潜む本能が表面に出て来ないように配慮して暮らしていた。
ずっとそのままであったなら私は幸せだったのだろうか?
そういう時の「幸せ」というのは、いったいどういう意味なのだろうか?
きっと意味なんてないのだろう。人は自分が何者であるかも知ることなく虚しく死んで行く。
私たちは遺伝子の乗り物にすぎない。
死の間際まで自分の願望を果たすことに粘着する。
彼らが若かった頃には粘着する老人を軽蔑していたのだが
そんなことは忘れてしまったらしい・・・
人生が二度あったとしても彼らは彼らの人生を過ごすのだし
私は私の人生を過ごすのだろう。