鷲田清一「メルロ=ポンティ 可逆性」という本を読んだ。
「事象そのものへとたち帰るとは、認識がいつもそれについて語っているあの認識以前の世界へと
たち帰ることであって、一切の科学的規定はこの世界にたいしては抽象的・記号的・従属的でしかなく、
それはあたかも、森とか草原とか川とかがどういうものであるかをわれわれにはじめて教えてくれえた
風景に対して、地理学がそうであるのとおなじことである」
科学が認識以前の世界に対して「抽象的・記号的」であるというのは、科学の目指しているところであって、
科学の望むところだろう。ただ「従属的」であるという主張には科学は抵抗するのだろう。
科学は客観的であることを標榜するが、事象や現象にたち帰る時になって「客観的」ということの無理が露呈する。
現象を主観と客観に分離することは出来ない。
私たちは「客観的」であるとか「科学的」であることを強要されている。
イノベーションによって経済的に優位になれるのだし、地位が上がって権力と富が増せば生存に有利になる。
その前提として科学的であることが必要となる。そもそも科学を持たない未開人は文明人に征服されてきたのだ。
そのように科学的であると共に、実際にはありもしない主観を排除することも強要されている。
主観へのこだわりは人間的な成長を阻害する要因とみなされている。経済も人間も右肩上がりの成長を強いられている。
そうした状況の中で「科学を否定」することは「主観へのこだわり」であると誤解されてしまう。
公害によって文明に嫌気が指した人々の持つ「盲目的な自然への崇拝」の一種ではないかと誤解されてしまう。
「認識以前の世界」を語る言葉を受け止めることには困難が伴う。
そんなことではないと書いても伝わらない。
「われわれがソシュールから学んだのは、記号というものが、一つずつではなにごとも意味せず、
それらはいずれも、ある意味を表現するというよりも、その記号自体と他の諸記号とのあいだの、
意味の隔たりを示しているということである」
もちろん「記号」には「言語」が含まれる。
たとえば「神」という言葉にしてもそれだけでは何も意味せず、
他の言葉との差異によって生じた「意味の隔たり」を示しているということになる。
そこから派生した「神は存在する」といった文も「意味の隔たり」を示しているだけで「真理」といったものはどこにもない。
そのことは「無意味さ」を示しているということではないので、
私たちは差異によって生じる様々な現象について素直に驚いた方が良い。
おそらくは身体的な習慣と同様に言語による活動も私たちの身体に刻み込まれる。
思考が言語を用いているのではなく、記号が身体を操っている。
マッハが「感性的諸要素の複合体」と言った時に、その複合体に刻まれるのは感性的なものだけではなく、
記号もまたその複合体(身体)に刻まれる。
そして私たちは成長するのでもなく進化するのでもなく
ただ単にその複雑さを増して行く。
「きっぱり決まってしまった人間的自然というものは存在しない。ある人間が自分の身体を
どう使用するかということは、たんなる生物学的存在としてのこの身体を超越したことがらである。
怒ったときに大声をあげたり、愛情を感じて接吻したりすることは、テーブルのことをテーブルと呼ぶより以上に
自然的なことでもなければ、より少なく習俗的なことでもない。感情や情念的な行為も、
語とおなじように作りだされたものだ。
父子関係の情のような、人体のなかにすでに刻み込まれてしまったいるようにみえる感情でさえも、ほんとうは制度なのだ。
人間にあっては、<自然的>とよばれる行動の第一の層と、加工された文化的ないしは精神的な世界とを
重ねあわせることは不可能である。
あるいはこう言ったほうがよければ、人間にあっては、すべては加工されたものであり、
かつ、すべては自然的なものである」
そうすると何が正義で何が悪であるかということもまた自然的であるとともに加工されたものとなる。
倫理であるとか愛情であるとか、およそ一切の「人間らしさ」の類についても同様となる。
「正義」も「法」も「人間らしさ」も社会を維持するために発生してくると考えた方が良さそうだ。
それが自然的であるとか人工的であるとか言うことに意味はなさそうだ。
「人間にあっては、すべては加工されたものであり、かつ、すべては自然的なものである」と
言っていることにも何の意味もない。遺伝的であるとか生得的であるとか言っても仕方がない。
そうすると私たちは何を語れば良いのだろうか?
つまり黙っている方が良い場合がある。
「事象そのものへとたち帰るとは、認識がいつもそれについて語っているあの認識以前の世界へと
たち帰ることであって、一切の科学的規定はこの世界にたいしては抽象的・記号的・従属的でしかなく、
それはあたかも、森とか草原とか川とかがどういうものであるかをわれわれにはじめて教えてくれえた
風景に対して、地理学がそうであるのとおなじことである」
科学が認識以前の世界に対して「抽象的・記号的」であるというのは、科学の目指しているところであって、
科学の望むところだろう。ただ「従属的」であるという主張には科学は抵抗するのだろう。
科学は客観的であることを標榜するが、事象や現象にたち帰る時になって「客観的」ということの無理が露呈する。
現象を主観と客観に分離することは出来ない。
私たちは「客観的」であるとか「科学的」であることを強要されている。
イノベーションによって経済的に優位になれるのだし、地位が上がって権力と富が増せば生存に有利になる。
その前提として科学的であることが必要となる。そもそも科学を持たない未開人は文明人に征服されてきたのだ。
そのように科学的であると共に、実際にはありもしない主観を排除することも強要されている。
主観へのこだわりは人間的な成長を阻害する要因とみなされている。経済も人間も右肩上がりの成長を強いられている。
そうした状況の中で「科学を否定」することは「主観へのこだわり」であると誤解されてしまう。
公害によって文明に嫌気が指した人々の持つ「盲目的な自然への崇拝」の一種ではないかと誤解されてしまう。
「認識以前の世界」を語る言葉を受け止めることには困難が伴う。
そんなことではないと書いても伝わらない。
「われわれがソシュールから学んだのは、記号というものが、一つずつではなにごとも意味せず、
それらはいずれも、ある意味を表現するというよりも、その記号自体と他の諸記号とのあいだの、
意味の隔たりを示しているということである」
もちろん「記号」には「言語」が含まれる。
たとえば「神」という言葉にしてもそれだけでは何も意味せず、
他の言葉との差異によって生じた「意味の隔たり」を示しているということになる。
そこから派生した「神は存在する」といった文も「意味の隔たり」を示しているだけで「真理」といったものはどこにもない。
そのことは「無意味さ」を示しているということではないので、
私たちは差異によって生じる様々な現象について素直に驚いた方が良い。
おそらくは身体的な習慣と同様に言語による活動も私たちの身体に刻み込まれる。
思考が言語を用いているのではなく、記号が身体を操っている。
マッハが「感性的諸要素の複合体」と言った時に、その複合体に刻まれるのは感性的なものだけではなく、
記号もまたその複合体(身体)に刻まれる。
そして私たちは成長するのでもなく進化するのでもなく
ただ単にその複雑さを増して行く。
「きっぱり決まってしまった人間的自然というものは存在しない。ある人間が自分の身体を
どう使用するかということは、たんなる生物学的存在としてのこの身体を超越したことがらである。
怒ったときに大声をあげたり、愛情を感じて接吻したりすることは、テーブルのことをテーブルと呼ぶより以上に
自然的なことでもなければ、より少なく習俗的なことでもない。感情や情念的な行為も、
語とおなじように作りだされたものだ。
父子関係の情のような、人体のなかにすでに刻み込まれてしまったいるようにみえる感情でさえも、ほんとうは制度なのだ。
人間にあっては、<自然的>とよばれる行動の第一の層と、加工された文化的ないしは精神的な世界とを
重ねあわせることは不可能である。
あるいはこう言ったほうがよければ、人間にあっては、すべては加工されたものであり、
かつ、すべては自然的なものである」
そうすると何が正義で何が悪であるかということもまた自然的であるとともに加工されたものとなる。
倫理であるとか愛情であるとか、およそ一切の「人間らしさ」の類についても同様となる。
「正義」も「法」も「人間らしさ」も社会を維持するために発生してくると考えた方が良さそうだ。
それが自然的であるとか人工的であるとか言うことに意味はなさそうだ。
「人間にあっては、すべては加工されたものであり、かつ、すべては自然的なものである」と
言っていることにも何の意味もない。遺伝的であるとか生得的であるとか言っても仕方がない。
そうすると私たちは何を語れば良いのだろうか?
つまり黙っている方が良い場合がある。