140億年の孤独

日々感じたこと、考えたことを記録したものです。

メルロ=ポンティ 可逆性

2015-04-25 00:05:53 | メルロ=ポンティ
鷲田清一「メルロ=ポンティ 可逆性」という本を読んだ。

「事象そのものへとたち帰るとは、認識がいつもそれについて語っているあの認識以前の世界へと
たち帰ることであって、一切の科学的規定はこの世界にたいしては抽象的・記号的・従属的でしかなく、
それはあたかも、森とか草原とか川とかがどういうものであるかをわれわれにはじめて教えてくれえた
風景に対して、地理学がそうであるのとおなじことである」
科学が認識以前の世界に対して「抽象的・記号的」であるというのは、科学の目指しているところであって、
科学の望むところだろう。ただ「従属的」であるという主張には科学は抵抗するのだろう。
科学は客観的であることを標榜するが、事象や現象にたち帰る時になって「客観的」ということの無理が露呈する。
現象を主観と客観に分離することは出来ない。
私たちは「客観的」であるとか「科学的」であることを強要されている。
イノベーションによって経済的に優位になれるのだし、地位が上がって権力と富が増せば生存に有利になる。
その前提として科学的であることが必要となる。そもそも科学を持たない未開人は文明人に征服されてきたのだ。
そのように科学的であると共に、実際にはありもしない主観を排除することも強要されている。
主観へのこだわりは人間的な成長を阻害する要因とみなされている。経済も人間も右肩上がりの成長を強いられている。
そうした状況の中で「科学を否定」することは「主観へのこだわり」であると誤解されてしまう。
公害によって文明に嫌気が指した人々の持つ「盲目的な自然への崇拝」の一種ではないかと誤解されてしまう。
「認識以前の世界」を語る言葉を受け止めることには困難が伴う。
そんなことではないと書いても伝わらない。

「われわれがソシュールから学んだのは、記号というものが、一つずつではなにごとも意味せず、
それらはいずれも、ある意味を表現するというよりも、その記号自体と他の諸記号とのあいだの、
意味の隔たりを示しているということである」
もちろん「記号」には「言語」が含まれる。
たとえば「神」という言葉にしてもそれだけでは何も意味せず、
他の言葉との差異によって生じた「意味の隔たり」を示しているということになる。
そこから派生した「神は存在する」といった文も「意味の隔たり」を示しているだけで「真理」といったものはどこにもない。
そのことは「無意味さ」を示しているということではないので、
私たちは差異によって生じる様々な現象について素直に驚いた方が良い。
おそらくは身体的な習慣と同様に言語による活動も私たちの身体に刻み込まれる。
思考が言語を用いているのではなく、記号が身体を操っている。
マッハが「感性的諸要素の複合体」と言った時に、その複合体に刻まれるのは感性的なものだけではなく、
記号もまたその複合体(身体)に刻まれる。
そして私たちは成長するのでもなく進化するのでもなく
ただ単にその複雑さを増して行く。

「きっぱり決まってしまった人間的自然というものは存在しない。ある人間が自分の身体を
どう使用するかということは、たんなる生物学的存在としてのこの身体を超越したことがらである。
怒ったときに大声をあげたり、愛情を感じて接吻したりすることは、テーブルのことをテーブルと呼ぶより以上に
自然的なことでもなければ、より少なく習俗的なことでもない。感情や情念的な行為も、
語とおなじように作りだされたものだ。
父子関係の情のような、人体のなかにすでに刻み込まれてしまったいるようにみえる感情でさえも、ほんとうは制度なのだ。
人間にあっては、<自然的>とよばれる行動の第一の層と、加工された文化的ないしは精神的な世界とを
重ねあわせることは不可能である。
あるいはこう言ったほうがよければ、人間にあっては、すべては加工されたものであり、
かつ、すべては自然的なものである」
そうすると何が正義で何が悪であるかということもまた自然的であるとともに加工されたものとなる。
倫理であるとか愛情であるとか、およそ一切の「人間らしさ」の類についても同様となる。
「正義」も「法」も「人間らしさ」も社会を維持するために発生してくると考えた方が良さそうだ。
それが自然的であるとか人工的であるとか言うことに意味はなさそうだ。
「人間にあっては、すべては加工されたものであり、かつ、すべては自然的なものである」と
言っていることにも何の意味もない。遺伝的であるとか生得的であるとか言っても仕方がない。
そうすると私たちは何を語れば良いのだろうか?
つまり黙っている方が良い場合がある。

現代の哲学

2015-04-18 00:05:39 | 木田元
木田元「現代の哲学」という本を読んだ。

「心理学主義は、なるほど、いっさいの心理的・社会的な規定を越えた無条件な真理の領域を想定する、いわゆる
論理主義に対する批判的立場としては有効なものであったが、その最大の欠点は、その主張がみずからにもはねかえってくると
いうところにある。もしかれらの主張が正しいとすれば、そのかれらの主張そのものも、経験的個人としてのかれらの
生理的・心理的機構に相対的な個人的主張にすぎないことになり、真理として受け容れるわけにはいかないことになる。
この立場では、普遍的な学問的認識というものは原理的に不可能なのである」
「しかし、このばあいも、もしかれら(社会学者)の主張が正しく、われわれの思考や思想がすべて社会的に制約され、
社会的状況の表現にすぎず、そうした社会的状況に限界がある以上、それらの思想も絶対的な意味で真ではありえないと
いうことになれば、当の社会主義の主張そのものも19世紀の西欧社会の状況のある種の反映にすぎず、
それ自身のうちに真の意味をもたないということになってしまおう」
「ところで、この歴史主義についても、心理学主義や社会学主義について言ったのと同じことが言える。
つまり、もしすべての思想が外的な歴史的状況の反映ないしその操り人形にすきないとすれば、そうした歴史主義の
主張そのものも同じわけであって、そこに何ら普遍的真理を認めるに及ばない、ということになろう」
「こうして、当時精神科学の諸領域を襲った実証主義的傾向は、いずれにせよわれわれの思考や思想のもつ内具的真理
―――それ自体に本質的にそなわった心理―――というものを認めず、それを心理的であれ社会的・歴史的であれ
何らかの外的・偶然的諸条件の単なる結果と見ることによって、自己矛盾に陥り、一般に学問的認識の可能性を
否定するものであった。ここでも理性―――普遍的真理とか普遍的価値―――が危機に瀕していたわけである」

そういうわけで実証主義的傾向(心理学主義・社会学主義・歴史主義)では「普遍的真理」といったものは見あたらないことになる。
もともと私たちがこの身を擦り減らして生きている世界では、そんなものは何の役にも立たないに違いない。
耐え難きを耐え、忍び難きを忍び、下げたくもない頭を下げ、理不尽さを耐え忍びながら生きているのだ。
普遍的真理など要らないので、この私の生活を保障してくれるだけのカネをくれと、そんなふうに思うことが度々だ。
それでも人は何かを語らずにはいられない。「普遍的真理」などないとわかっていたとしてもだ。
そのような思想の断片(断片とは言っても彼らがその一生を捧げた成果である)が積み重ねられて行く。
そして私たちは、それらの断片を拾い上げ、理解し、考察し、次の断片を作り上げる。
私たちが生きている意味なんてないにしても、私たちが生きているということはそういうことなのだ。
超人と動物の狭間にあって蠢くことを止めないでいる。今更そのことにすら気が付かない生き方には戻れない。

「したがって、有機体と環境との関係は、物理的系とその場の関係とは比較できないような、ある生命的な<意味>を媒介とする
弁証法的関係と考えねばならない。有機体の反応はどれほど要素的な反応であっても、それが遂行される器官の種類によってではなく、
それのもつ生命的意味にしたがって分類されねばならないのである」
「生命的意味」というのはよくわからない言葉だが、ダーウィンと同じことを書いているのではないかと思う。
「有機体と環境との関係」と書いているところからして、そう解釈できる。
ここでは「物理的」ではないということが強調されているらしい。
だが「生命的」というのは、よくわからない言葉だ。

「動物にとって対象は、その時々のパースペクティヴのなかに現われ、その場の構成に依存する機能値をもっているだけのものである。
しかし、<物>とは、そうした多様なパースペクティヴのなかに現われながら、決してその<現われ>に還元されてしまわないもの、
さまざまな機能において現われる同一の<もの>でなければならない。したがって、こうした<物>としての構造が現われるのは、
直接与えられているパースペクティヴに閉じこめられることなく、これを潜在的なパースペクティヴと交互表出の関係におき、
運動空間と視覚空間とを結びつけ、ある感覚の構造を他の感覚へ移しうるような、つまりはさまざまな関係を関係させ、
構造化する独自の行為の水準においてである。これがメルロ=ポンティのいう行動のシンボル的形態であり、
真の意味での人間的行為のレベルなのである」
『シグナルとシンボルは理論上、二つの異なった世界に属している。すなわちシグナルは物理的な『存在』の世界の一部であり、
シンボルは人間的な『意味』の世界の一部である。シグナルは操作者であり、シンボルは指示者である。
シグナルはたとえシグナルとして了解され、用いられたとしても、一種の物理的または実体的存在であるが、
シンボルはただ機能的価値しかもたない』
「実在のシグナルが消え去ったあとも、有機体が内的にシグナルにかわる代理を産出して反応を完了させるばあい、
この代理となるものがシンボルなのである」
「いずれにせよ、このシンボル的行動によって、人間は直接的自然的環境を越え、いわば<世界>に開かれることになる。
人間存在が<世界内存在>という基本構造をもつといわれるのも、実はこの意味にほかならない。
したがって、ここで言われる<世界>とは、決して存在者の全体を指すのではない。
それは、物理的・生物的自然の構造を超出して、そこに創出された人間的な<構造>であり、しかも、この構造が人間によって
つくり出されたシンボルの体系である以上、それはむしろ人間そのものの存在構造だと言ってもよいであろう。
マルクスはしばしば「人間すなわち人間的世界」という言い方をしているが、事態の本質を正しく捉えた表現であると思う」

ここでは「シンボル的形態」が「人間的行為のレベル」であるとか、
「シンボル的行動」によって自然的環境を越え、「人間存在が<世界内存在>という基本構造をもつ」と考えられている。
ところでその「シンボル」と動物がそこに留まっているところの「シグナル」の差異はどこにあるかというと、
「シグナルが消え去ったあとも、有機体が内的にシグナルにかわる代理を産出して反応を完了させる」ということだけらしい。
そうすると「シグナル」は「組合せ回路」であり、「シンボル」は「順序回路」であるという違いしか残らない。
「組合せ回路」に比較すると「順序回路」は内部状態を持っており、生体の場合は記憶に相当するのだろう。
そうすると「シグナル」は「記憶」によって生み出され、したがって「人間的行為」だとか「世界内存在」というものも
「記憶」によって生み出されるという、まことにもっともであるというか、陳腐というか、普通というか、
そういうことを語っているようにしか思えない。
そして「組合せ回路」とか「順序回路」といったものはただの論理でしかなく、
「数学の危機」であるとか「物理学の危機」であるとか「理性的なものの危機」を感じさせない。
先ほどの「生命的意味」といった用語の無意味さと同様の無意味さがここにもあるようだ。
もともと「シンボル」だから「人間的行為」だとか「世界内存在」だと語ることに意味などないと思う。
「世界内存在」はそれのみでよく検討しなければならないことであって「シンボルだから」ということはどうでも良い。
「人間的行為」とか「人間的世界」というものも意味不明だ。
シンボルかどうかはどうでも良い。

「つまり、われわれは日常暗黙のうちに<世界というものがわれわれの経験とはかかわりなく、それ自体の超越的存在を持続し、
すべての事物はこの世界の内部に存在し、すべての出来事はこの世界のなかで生起する>ということを前提にして、
物を考えたり行為したりしている。しかし、フッサールによれば、世界の超越的存在のこうした素朴な想定、
つまり<世界定立>は、実はわれわれの日常的経験の積み重ねによって形成された一種の思考習慣にすぎず、
なんら哲学的反省を経ていない一つの先入見、いや、およそありうるなかでももっとも根本的な先入見なのである。
フッサールは、こうした先入見によって想定されているわれわれの日常的な生き方を<自然的態度>と呼ぶが、
そうなると、同じように世界の存在を前提してかかるいっさいの自然科学や人間諸科学も、やはりこの自然的態度を共有しているか、
少なくともその延長線上にあることになる」

「すべての出来事はこの世界のなかで生起する」というのは「思考習慣」にすぎないということらしい。
すべての人間がそのような先入見を持っているのだから、そのような世界は疑いようがないのだ。
そしてそのような前提がなければ、私たちは経験を共有することもできない。
そのような先入見が「真理」ではないとしたら、いったいどのような「世界」があるというのだろうか?
実際のところ、そのような先入見に基づいた「世界」しか私たちは知らないのではないだろうか?
絶対時間とか絶対空間は実際の時空とは違うのかもしれないが、空間が歪んでいるかどうかなんて「生活」に関係ない。
一方では「生活」であるとか「生きられる体験」に帰れと言いながら、実はそれは前提であり先入見であるという。
おそらくそのどちらもが正しいのだろうが、ここでも私たちは引き裂かれる。
ハイデッガーの「世界内存在」はフッサールの「世界定立」を発展させたものなのだろう。
それはほとんどの人にとってはどうでもよいことだろうが、一部の人にとっては神秘であると思う。
あたり前ではあるが、立ち止まってしまう。

「こうなってくると、<自然的態度>とは、もともと他の態度とならぶ一つの態度といったふうなものではなく、
いっさいの態度や立場に先立って、それを―――したがって超越論的態度をも―――可能ならしめるところの根源的態度であり、
それをもし先入見・臆見(ドクサ)と呼ばねばならないとすれば、それはいっさいの真理に先立つ根源的臆見だということになろう」
超越論的態度を可能ならしめるのが<自然的態度>ということであれば、
「哲学的反省」によってその「思考習慣」を改めるということは不可能ということになってしまうのだろう。
それが可能なことであるか不可能なことであるかを判断することすら出来ないだろう。
私たちは「根源的臆見」から逃れることは出来ないのだろうか?

うーん、やっとフッサールについて記載されているところの感想を書いたが、このペースでやっていると終わりそうにない。
この後、ハイデガー・メルロ=ポンティ・フロイト・ソシュール・レヴィ=ストロース等が登場する。
この本は1969年、つまり45年前に書かれていて、「ハイデガーの思想」「哲学と反哲学」「マッハとニーチェ」に比べると
読みにくいが、入門書として適しているというか、各々の思想についての見取り図が示されている感じがする。
「知りたい」と思わせてくれたことに感謝したい。

マッハと道元

2015-04-11 00:05:59 | 140憶年の孤独
「こうして、実体的な意味での物体も自我もすべて解消され、残るのは感性的諸要素がたがいに
函数的に依属しあい連関しあいながら現れ、絶えず離合集散を繰り返している一元的世界、
つまり<現象>の世界だけである。それは<物体>と呼ばれうるような複合体も現れるし、
<自我>と呼ばれうるような複合体も現れうるような両義的な世界である。
これらの複合体も比較的安定して持続するというだけで、絶対的な恒常性をもつものではない。
この世界には、そうした絶対的な恒常性をもつようなものはなに一つないのであって、
マッハに言わせれば、論理学的真理や数学的真理でさえも、そうした感性的諸要素の離合集散、
つまり経験に起源をもち、そこから生成してきたものなのである。
彼は、幾何学的空間でさえも、絶対のアプリオリではありえないと言う。」
そんなことが書かれていた。仏教の『無自性―空―縁起』に似ている。

「まず、『無自性』とは、文字通り『自性』がないということである。
『自性』とは、変化するものの根底にあってつねに同一であり、固有のものであり続ける
永遠不変の本質であり、他の何者にもよらずそれ自身によって存在する本体のことである。
『空』もまた、無自性と同じく、永遠不滅の固体的実体のないことを意味する。
このように、あらゆるものが空性であるということは、決して何者も存在しないとか、
すべてのものは虚妄であるとかいうことを意味しはしない。
『縁起』とは『因縁生起』を略した言葉で、事物事象が、互いに原因(因)や条件(縁)となり合い、
複雑な関係を結びながら、相互相依しあって成り立っていることをいう。
・・・
道元をはじめとする仏教者たちは、このような『無自性―空―縁起』の立場、すなわち、
すべての事物事象を関係性において把握する非実体的思考の立場から、本来、
『無自性―空―縁起』であるはずの事実事象を実体化し、そこに執着しがちな人間の傾向を批判する。
そして、仏教者たちは、常識的日常的な認識方法がこのような傾向におちいりやすいのは、
言語の分節機能をめぐって生じがちな誤解によると考えた。
言語による分節化とは、言葉によって世界を区切ることである。
『一水四見』のたとえに関して言及したように、人はみずからの生の必要に応じて世界を区切り、
区切ったそれぞれを言葉によって名付け文節化するのである。」

「空」は永遠不滅の固体的実体のないことを意味しているということだから、
感性的諸要素が離合集散を繰り返しているというのと同じことになる。
「縁起」は事物事象が、複雑な関係を結びながら、相互相依しあって成り立っているということだから、
感性的諸要素がたがいに函数的に依属しあい連関しあいながら現れるというのと同じことになる。
マッハがフッサールに先行しているというのはそれほどの時間差ではない。
釈迦牟尼仏がずっと先行していたということになる。
自我とか自己というものはなく感性的要素の複合体なのだから
マッハの業績であるとか釈迦牟尼仏の悟りであるとか言う必要もないかもしれない。
自我が解体されてしまうのであれば意志とか独創性とか創造性とか発見とか
そういうことを主張することに意味はなくなってしまう。
先端企業が特許で争っている光景というのも、或る感性的要素の複合体が他の感性的要素の複合体に対して
私(複合体)の方があなた(複合体)よりも先に出願したのだとそんなことを言い合っている感じがする。
遅かれ速かれいずれかの感性的要素がそうしたに違いないというだけのことなのだが、
「おのれ」というものが競い合ってしまう。

・・・「マッハとニーチェ」ではマッハの一元的世界と仏教の「無自性―空―縁起」の類似性を取り上げた。
ここから道元の『仏道をならふといふは、自己をならふなり、自己をならふというは、自己をわするるなり』
(『自己を忘れる』ということは、固定的な自我があるというとらわれから脱するということである。)
というところまであと一歩という感じがするが、その一歩が遠い。
「おのれ」は複合体を維持するための重要な形式であるため「おのれ」に執着するなと言われても
なにをどうすればよいのかわからない。それは「利他的」に行動せよということでもない。
慈善事業では「おのれ」を維持しながら「利他的」に振舞うことが出来るが
「自己をわするる」というのはそういうことではなく、ひたすら座禅ということかもしれない。

「感覚的諸要素の複合体」が複合体にとって有益な情報を活用しようとする形式が「思考」かもしれない。
そして情報を一元的に管理するための形式が「自我」であるかもしれない。
「自我」という形式が「思考」という形式を用いて
「自我」とは何か?「思考」とは何か?と問うところに無理があるかもしれない。
そのことについて、もう少し「考えて」みよう。
いつも「思考するもの」によって「思考されるもの」が思考されてきたのだが、
そのように主観と客観を分割する場合には実際には「考えて」いないのではないだろうか?
思考している時には「思考するもの」と「思考されるもの」は一体になっている感じがする。
複合体の諸要素を相互に関連付けることによって複合体の行動を決定するという場合に
相互の関連を行うのも相互に関連付けられるものも物理的には脳を構成するニューロンやシナプスであるが
相互の関連を行うものは「自我」であり関連付けられるものは「記憶」と呼ばれる。
物理的には同一のものを「私たち」は分離するのだが、どこが「自我」でどこが「記憶」か区別できるだろうか?
脳の中の特定の部位を指して「ここが私です」と言えるのだろうか?
そして「私」以外の部位を指して「そこは記憶です」と言えるのだろうか?
実際のところ「記憶」のない「自我」も「自我」のない「記憶」も想定できないので両者が独立しているとは考えにくい。
それでも「自我」があると信じて疑わない私たちには相当強い先入観が働いているのだろう。
もしも「自我」がないとしたら私たちは路頭に迷ってしまう。
そうすると人間は知性のある生き物というよりは
行動の主体・思考の主体がなくなってしまうと路頭に迷ってしまう生き物だと考えた方が良いかもしれない。
そのような「思考するもの」と「思考されるもの」あるいは「自我」と「記憶」が分離されることのない
感性的諸要素の複合体をどう扱えばよいのだろう?私たちの認識はそれを捉えることができるのだろうか?
だが「認識」は「言語」により達成され「言語」は主観により客観を記述するものであるから
そのような複合体を「言語」で語ることは困難というしかないだろう。
或る哲学者が「語りえぬものについては沈黙せねばならない」と書いた時に語りえぬものとされたのは論理と倫理であるが
主客の区別のない一元的世界を語ることはそのことよりもずっと困難であり
仏教ではずっと昔から語りえぬものとされてきた。
そういうことだから、ここから先は言語なき言語、言葉なき言葉の登場を待たねばならない。
そこではきっと「主観の謎」であるとか「秩序の謎」といったことは問題にならない。
そこでは「主観」や「秩序」を客観的に語ろうとする誤りが取り除かれる。
「宇宙の起源」「生命の起源」「心の起源」という問いが解消され
「主観の謎」「秩序の謎」が設定されたのだがそれすら問いにはならないということになってしまった。
目標であるとか夢であるとか問いであるとか、そういうものを設定してみるのだが、
その目標の立て方からして間違っていると、何度もそういう目に合う。
「自我」に執着するのであれば、そのような目標の立て方なり、生き方は否定されるだろう。
人生は短いのであって一角の人物となるためには、あちこち目移りしていてはいけない。
そういう前提を必要としない者にのみ、間違いを認める者にのみ、問うことが許される。
感性的諸要素の複合体の特定の要素である思想とか主張とか哲学とか
そのようなものに固執するということは自我に執着することと同じではないかと思われる。
まずは「自己をわするる」ことによって形而上学的幻想を捨ててしまう。
そういうところから始めよう。

マッハとニーチェ

2015-04-04 00:05:41 | マッハ
木田元「マッハとニーチェ 世紀転換期思想史」という本を読んだ。
マッハとは音速の単位にもなっている物理学者のことである。

「こうして、実体的な意味での物体も自我もすべて解消され、残るのは感性的諸要素がたがいに
函数的に依属しあい連関しあいながら現れ、絶えず離合集散を繰り返している一元的世界、
つまり<現象>の世界だけである。それは<物体>と呼ばれうるような複合体も現れるし、
<自我>と呼ばれうるような複合体も現れうるような両義的な世界である。
これらの複合体も比較的安定して持続するというだけで、絶対的な恒常性をもつものではない。
この世界には、そうした絶対的な恒常性をもつようなものはなに一つないのであって、
マッハに言わせれば、論理学的真理や数学的真理でさえも、そうした感性的諸要素の離合集散、
つまり経験に起源をもち、そこから生成してきたものなのである。
彼は、幾何学的空間でさえも、絶対のアプリオリではありえないと言う。」
そんなことが書かれていた。仏教の『無自性―空―縁起』に似ている。

「まず、『無自性』とは、文字通り『自性』がないということである。
『自性』とは、変化するものの根底にあってつねに同一であり、固有のものであり続ける
永遠不変の本質であり、他の何者にもよらずそれ自身によって存在する本体のことである。
・・・
『空』もまた、無自性と同じく、永遠不滅の固体的実体のないことを意味する。
このように、あらゆるものが空性であるということは、決して何者も存在しないとか、
すべてのものは虚妄であるとかいうことを意味しはしない。
・・・
『縁起』とは『因縁生起』を略した言葉で、事物事象が、互いに原因(因)や条件(縁)となり合い、
複雑な関係を結びながら、相互相依しあって成り立っていることをいう。
・・・
道元をはじめとする仏教者たちは、このような『無自性―空―縁起』の立場、すなわち、
すべての事物事象を関係性において把握する非実体的思考の立場から、本来、
『無自性―空―縁起』であるはずの事実事象を実体化し、そこに執着しがちな人間の傾向を批判する。
そして、仏教者たちは、常識的日常的な認識方法がこのような傾向におちいりやすいのは、
言語の分節機能をめぐって生じがちな誤解によると考えた。
言語による分節化とは、言葉によって世界を区切ることである。
『一水四見』のたとえに関して言及したように、人はみずからの生の必要に応じて世界を区切り、
区切ったそれぞれを言葉によって名付け文節化するのである。」

「空」は永遠不滅の固体的実体のないことを意味しているということだから、
感性的諸要素が離合集散を繰り返しているというのと同じことになる。
「縁起」は事物事象が、複雑な関係を結びながら、相互相依しあって成り立っているということだから、
感性的諸要素がたがいに函数的に依属しあい連関しあいながら現れるというのと同じことになる。
マッハがフッサールに先行しているというのはそれほどの時間差ではない。
釈迦牟尼仏がずっと先行していたということになる。
自我とか自己というものはなく感性的要素の複合体なのだから
マッハの業績であるとか釈迦牟尼仏の悟りであるとか言う必要もないかもしれない。
自我が解体されてしまうのであれば意志とか独創性とか創造性とか発見とか
そういうことを主張することに意味はなくなってしまう。
先端企業が特許で争っている光景というのも、或る感性的要素の複合体が他の感性的要素の複合体に対して
私(複合体)の方があなた(複合体)よりも先に出願したのだとそんなことを言い合っている感じがする。
遅かれ速かれいずれかの感性的要素がそうしたに違いないというだけのことなのだが、
「おのれ」というものが競い合ってしまう。

『仏道をならふといふは、自己をならふなり、自己をならふというは、自己をわするるなり』
『自己を忘れる』ということは、固定的な自我があるというとらわれから脱するということである。
つまり、自己を追求して、自己とは実は固定的なものとしては存在しないということが分かる。
自分だと思っていたものは、自分ではないのである。」
仏教ではそういうことになっている。

そういうことを認めた瞬間に救われるものもある。
無駄に生まれて無駄に死んでいった夥しいほどの無名の存在よ!
お前たちはそもそも存在しなかったのだ。

だが近代化(西洋化)した社会では「自己を忘れる」というわけにはいかない。
誰が誰より偉いと言ってニホンザルの群れのように序列を確かめたがるのだ。
そのようなプライドが感性的諸要素の複合体にまとわりついて離れない。
別にどうでもいいやという気もしないではない。
私がやらなくても別の複合体がやるに違いないなどと言ってしまうと
それは極めて「無責任」ということになるだろう。
「自己を忘れる」と執着がなくなり私有財産をめぐって誰も争わなくなってしまう。
シュメール文明が発展・成立したのも私有財産を認めたからだと言われている。
執着が競争を生み出し、そのような形態が「文明」というものであるかもしれない。
競争がなくなると成長が止まってしまう。
成長が止まると他の複合体の勢力に蹂躙されてしまう。
それは群れのボスにとって好ましいことではない。
経済を活性化すると言うのは簡単に言うとボスのために働けということだ。
個体に「自己を忘れる」ことがないよう強制するために「住宅ローン」などの制度もある。
住居を得るために人並みな生活を得るために数十年の奉仕が必要となる。
そのように発達した社会制度に救済は用意されていないだろう。
自己を維持したまま「自己を忘れる」というのは難しい。
自己を忘れてしまいたい人は自己を維持しようとしないだろう。
(つまり自殺ということになる)
そうすると生きながら「自己を忘れる」というのが修行に違いない。
感性的諸要素の複合体とか現象学とか言いながら
その学を成立させた功績は「自分」のものであるとフッサールは考えたかもしれない。
そんな人間よりは雲水の方に好感が持てるというものだ。

『あらゆる力の中心は残余のもの全体に対しておのれの遠近法を、つまりおのれのまったく特定の価値評価、
おのれの作用の仕方、その抵抗の仕方をもっている。それゆえ<仮象の世界>なるものは、一つの中心から発して
世界へ働きかけるある特殊な作用の仕方に還元されることになる。
いまや、それ以外の作用の仕方はまったくないのであって、<世界>とはこうした諸作用の相対的働きを指す
呼び名にすぎない。』
『<認識する>のではなく、図式化するのである―――われわれの実践的欲求を満たすに足るだけの
規則性や諸形式を混沌(カオス)に課すのである。』
「ここで『混沌』と言われているのは、たえず生成し変化しつつあるもののことである。
そうしたなかにいては生は安定することができない。
そこで、その混沌に、到達した現段階を確保しようとする生の要求を満たすに足る程度の規則性と形式を
押しつけ、いわばそれを『図式化』して、あたかもそれが静止した不変のものであるかのように
思いこもうとするのが、認識の働きなのであり、それはけっしていわゆる<認識>、
つまり<真に存在するもの>を把握する働きなどではない、とこの断章は言いたいのである。」
ニーチェについて、そのようなことが書かれていた。
マッハと重なるということで、この本のタイトルは「マッハとニーチェ」ということになっている。
「空」あるいは「混沌(カオス)」というのは把握できない世界を象徴している。
「感覚的諸要素の離合集散により生成(あるいは現生)」したものは「図式化」により捉えられる。
私たちは混沌など理解できないのだから認識できるものには秩序がある。意味がある。
私たちは私たちの形式を「世界」に押し付けている。
それは主観が世界をゆがめているというようなことではなく
そういうあり方でしか「世界」は「認識」できないと
そういうことになる。

「感覚的諸要素の複合体」が複合体にとって有益な情報を活用しようとする形式が「思考」かもしれない。
そして情報を一元的に管理するための形式が「自我」であるかもしれない。
「自我」という形式が「思考」という形式を用いて
「自我」とは何か?「思考」とは何か?と問うところに
無理があるかもしれない。