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140億年の孤独

日々感じたこと、考えたことを記録したものです。

意志と表象としての世界Ⅲ

2013-05-12 00:05:05 | ショウペンハウアー
「すなわちこの意志の欲するもの、これこそこの世界にほかならないのであって、
それはわれわれの前に現れ出ているがままの生命の世界そのものなのである。
われわれが現象する世界を意志の鏡、意志の客体性と名づけてきたのはそのためである。
ところでその意志が意欲しているものは、つねに生命であって、生命とはまさしく
表象に対するこの意欲の表現以外のなにものでもないのであるから、
われわれが端的に『意志』という代りに『生きんとする意志』というにしても、
それは同じことであって、言葉の重複にすぎない。」

「意志」というのは「神」の言い換えにすぎないという人もいるらしいが、
この部分(これは実際にはⅡ巻にあります)を読んでいると「遺伝子」のような感じもする。
そういう因果性を含むものは「表象」としての世界に属するものと一蹴されてしまいそうだが、
19世紀には神秘的であった生命現象も20世紀には科学の一つの体系として説明されるようになった。
そのようにして「神秘的なもの」は征服されてきているのかもしれないが、
その征服の為したこととは実は「本質的に神秘的なもの」の抽出にすぎないという感じがする。
物が見えるといった主観的な現象が決して客観的に説明できないことや
混沌(無秩序)から秩序(生命)が生まれることについての飛躍とか・・・
だいたい私たちは秩序しか理解できないのだから混沌なんてわからない。
数学的にカオス云々の理解が進んだとしても混沌を意味として説明することの矛盾は解けない。
それで結局のところ「意志」が「神」の言い換えにすぎないとか、
そのことを私が「混沌から秩序が生まれること」に言い換えたとしても何も変わらない。
だいたい誰が「意志している」のだが私にはわからない・・・

そんなふうにして実際には「意志?ハァー?なに言ってんだか・・・」というのが本音であって
ショウペンハウアー哲学を理解しているのかと問われれば
そこに書いてあることはわかるが
そこに書いていないことはわからないと
そんなふうに答えるしかない。

「・・・いいかえれば、意志の客観化が形式としてもっているのは「個体化の原理」で、
これによって意志は数しれぬ個体のかたちで均等に現象し、しかも意志は個体のおのおののうちに
二つの面[意志と表象]にわたって全面的に現象するのであるが、さてエゴイズムの存立と本質とは
ひとえにここにかかっているからである。つまり各個体は自分自身を直接に意志の全体として、
また全体的な表象者として与えられているのであれば、自分以外のあらゆる人間などは、
さしあたってはただ彼の表象として与えられているにすぎないということになってくるほかなかろう。
だからこそ彼にとっては、彼自身の本質とその保持とが、ほかのすべての誰を一緒にあわせたよりも
大事だということになってくる。・・・」
「・・・しかしなかでもこれがもっとも歴然とした姿で現れるときは、なんらかの人間の群れが
いっさいの法と秩序から解き放たれた直後であろう。そのときにはホッブズが『国家について』の
第一章でみごとに描き出した『万人の万人に対する闘い』がただちに、このうえなく明瞭に姿を
みせることになろう。そこに現れるのは、誰でも自分が持ちたいと欲するものを他人から
ひったくろうとしている有様だけにとどまらない。ある人が自分の幸福をほんの少しばかりふやす
それだけのために、他の人の幸福や生活を根こそぎ破壊することだって往々にしてありがちだと
いうこともそこには現れているのである。これこそエゴイズムの最高の表現である。・・・」

「意志と表象としての世界」には「根拠の原理」と並んで「個体化の原理」というのが出てくるが
原理というほどのものなのかよくわからない。
よく知られているように生命には二つの本能があって、つまり生存と生殖である。
生存については最も低次のものとして食欲と睡眠欲があるし、生殖については性欲がある。
そういう欲動に少しの思念が混じった結果として虚栄心の充足に心血が注がれることもあるが
いずれを低次元の欲動・高次元の悩みと呼べばよいのか実際にはよくわからない。
徹頭徹尾、欲にすぎないとまとめておいた方がわかりやすいだろう。
自然淘汰説によれば、そのような自己保存と種族保存に優れた種が生存競争を勝ち抜いてきたと
いうことになるのだろう。そもそも自己保存をしない生命は長期間存在することはできない。
そんなことは自明だ。
しかし自己保存と種族保存を優先することはわかるにしても他人を滅ぼす必要はないのでは?
たとえば動物は生存に必要最小限のリソースしか消費していないのでは?
それ故に人間は悪であるのでは?
そんなおセンチなことを考えてみたとしても動物が性善説にもとづいて生きているという確証はない。
たとえば、なわばりとかメスとエサの奪い合いとか・・・
あるいは精神的な現象がエゴイズムを増幅させているのだとしても、
それはやはり生命に組み込み済みのことなのだと思う。
そういうわけで『万人の万人に対する闘い』というわけである。
ホッブズは偉大ですな。
マルクスなんかは、その闘いを階級闘争と勘違いしてしまったのではないかと思う。
味方だと思って一緒に闘ってきたが、勝利すると仲間割れしてしまうといったことは、
誰の誰に対する闘いなのか承知していないことに拠る。
社会が時代と共に進歩しているという誤解、
つまりいつの日か人類は敵同士が目の幅なみだを流しながら、
お互いを祝福しあうであろうという誤解もまた、
彼にとっては不利に働いたことだろう。
『万人の万人に対する闘い』が根本的に何を変えたかというと、
肥大化する個人の欲望を制限するための国家と法の発明に違いない。
あるいはそこに倫理や道徳を持ち込んでもよい。
そのような契約がなかったならば今でも争いが続いていたかもしれない。
しかしこのような契約も、混沌から秩序が生まれるところの特異点の一つなのであって、
私たちは契約以前の状態がどんなふうだったかなんて想像もできない。
万人が争うというのは喩えにすぎない。
そしてそのような契約がエゴイズムをどこまで制限できるのかはよくわからない。
法整備されたこの国にあってもパワハラによって人が殺されていく。
そこで現代においても「必殺仕事人」は必要なのではないかと思われる。
しかし弱者のそうした願いはルサンチマンであると非難される。
いやーもう、どうでもいいんですが・・・
たとえば極めて優れた経営者が「grow or die」などと発言したとしよう。
彼はグローバル化が進展する世界の中で何か新しい視点に基づいた新しい価値観を
同時代の愚か者たちに向けた新しいメッセージを発信し得たのだろうか?
いやー、そんなのはホッブズとダーウィンが言い尽くしたことの蒸し返しにすぎない。
そこで成長と呼んでいるものを私は単に「肥大化した個人の欲望」と呼ぶ。
なるほど競争のない世界は社会を停滞させるので社会主義は資本主義に敗れたのだと、
そんなことは歴史が証明しているではないかと・・・
えーと、マルクスの間違っていた点は根拠のない進歩思想であったわけで、
それは今、成長と呼んでいるものと同類なのではないかと思うのです。
つまりホッブズの頃から何も変わっていない。
いやーもう、どうでもいいんですが・・・

「・・・すなわちこの世界の掲げ得る最大にして、最重要、かつ最有意義なる現象とは、
世界を征服する者ではなしに、世界を超克する者である、と。世界を超克する者とはすなわち、
真の認識を開き、その結果、いっさいを満たしいっさいの中に駆動し努力する
生きんとする意志を捨離し、滅却し、そこではじめて真の自由を得て、自らにおいてのみ
自由を出現せしめ、このようにして今や平均人とは正反対の行動をするような人々、
そのような人々の目立たぬ寂静たる生活振舞い以外のなにものでもじつはない。・・・」

そういうわけでショウペンハウアーは「生きんとする意志の否定」に至る。
聖者のように生きる者が(あるいは聖者が)世界を超克するというわけである。
別に超克したいと思わなくても、「永続的な慰め」を得ようとするならば
そうするより仕方がないというほどの意味である。
「梵(ブラフマン)への参入」とか「涅槃(ニルヴァーナ)への帰入」といったことも同じことなのだと言う。
同じというよりは公然と「無」を回避していないところが潔いということになるのだろう。
そして無を怖れるすべての人々によってショウペンハウアーは忌避される。
そこで私は三度書き留めることになるのだが「無」と「混沌」は同様のものであり
私はそれを把握する術を持たない。だから良いとか悪いとか私には判断できない。
私が漠然と知覚しているのは「無への意志」ではなく「知への意志」なのだろう。
何もするなと言われても、じっとしていることはできない。

意志と表象としての世界Ⅱ

2013-05-11 00:05:05 | ショウペンハウアー
ショウペンハウアー「意志と表象としての世界Ⅱ」を読んだ。
第三巻 表象としての世界の第二考察 のすべてと
第四巻 意志としての世界の第二考察 の一部が収められている。

「さて、われわれにとっては、意志とは物自体であり、イデアとは一定の段階における
この意志の直接の客体性にあたるのである。」ということで
カントの物自体とプラトンのイデアの内的な意味は同じであると主張されている。
すべての表象は意志の現象(意志の客体性)であるから、意志とは物自体ということになるのだろうか?
意志に関する見解は既に因果性の範疇にはないので、そう言われればそうですかと頷くしかない。
ただ「物自体」というのは、それほど積極的な意味を持っていないのではないかと思う。
われわれが扱えるのは、どこまでいっても現象であって、物自体には到達できない。
そういうことを言いたいがために使用される言葉でしかない。

一方でイデアについても、なに寝ぼけたことを言っているんだ、くらいにしか私は考えてはいない。
そこに到達できないという意味では、物自体と類似しているように思う。
しかしイデアこそが実体であるみたいなことになってくると
そのような議論自体に意味があるのだろうかと疑念を持ってしまう。
それが実体であったからといって世界の成り立ちが変わるわけでもなかろうにと思う。
そんなわけで物自体かイデアかよくわからないが、そういうものが意志とか意志の客体性にあたるのだと
とりあえずそのことは定義のようなものだとして受け入れよう。

「いままさに直観をおこなっている人は同時にもはや個体ではない。個体はちょうどこのような直観の
中へ自分を失ってしまっているからである。いままさに直観をおこなっている人は、意志をもたない、
苦痛をもたない、時間をもたない、純粋な認識主観である。―――」
「なににもましてまず、認識する個体がいまわたしが叙述したようにして純粋な認識主体にまで
高まっていき、それと同時に、観察された客観がイデアにまで高まっていくことによって、
表象としての世界は全面的にかつ純粋にその姿をあらわすのである。そして、ひとりイデアのみが
意志の適切な客体性であるのだから、このとき意志の客観化は完成されたことになる。」

第三巻は芸術について叙述されている。
私たちが芸術作品に接することで、しばしば体験する忘我の境地といったものは、
「純粋な認識主観にまで高まった」状態ということになるのだろう。
私は音楽の才能があるわけでもないのに音楽をよく聴くのだが、きっと純粋主観になってしまいたいのだね・・・
そうした芸術作品が日常生活に与える好ましからぬ影響から「芸術に逃避している」といったことも言われる。
しかしどちらかというと芸術というのは密度の濃い生活あるいは体験ではないかと思う。
芸術家は「観察された客観をイデアにまで高める」のであって
その直撃を受ける人間というのは無事ではすまない。
だから逃避しているというよりは、自分から弾に当たりに行っているようなものだ。
そうやって毎日被弾しているのだ・・・

「・・・というのも音楽は、意志全体の直接の客観化であり、模写なのであって、音楽は直接という点にかけては
世界それ自体と同じほどに(意志に対し)直接なのであり、いな、さらに多様に現象して個物の世界を形成している
あの数々のイデアと同じほどに(意志に対し)直接なのである。だからして音楽はけっしてほかの芸術のように
イデアの模写なのではない。それは意志それ自身の模写なのであり、イデアはこの意志の客体性でもあるのである。
音楽の与える効果がほかの芸術の与える効果よりも格段に強力であり、またはるかにしみ入るように感動的である
というのもまさに音楽が意志それ自身の模写であるせいにほかならないのである。
ほかの芸術は影について語っているだけだが、音楽は本質について語っている。―――」

ショウペンハウアーはびっくりするくらい様々な芸術に通じているが、音楽に対する評価が一番高いようだ。
私はたまたま音楽にしか接していないのだが「直接」というのはよくわかる。
それが感情とか概念を表現したものであると勘違いすることもしばしばあるが
表現されたものから感情とか概念を再構築することなどできない。
概念を伝えたいのであれば音楽でない別の手段を使えばよい。音楽はそういうものではない。
「苦しみを通じて歓喜へ」といったものは作曲家の勘違いではないかと思うこともある。
実際にそういう理屈は彼の作品には含まれていなかったりする。
そういう意味では年末に第九を聴いて感動するという習慣は
純粋主観になることとは別種のことであると思われる。
それは主に聴き手の問題だ。
私たちは「高尚」とか「至高」あるいは身近な言葉だと「感動」などと言ったりして
音楽を倫理や道徳やその他の価値観に類したものに従属させることが、しばしばある。
それは純粋主観とは程遠く端的に自我の満足でしかないのだが
嗜好は相対的なものであるからその価値を認めるべきだなどという話になる。
まことにめんどくさくて仕方がない。

ショウペンハウアーの時代に比べると聴きたい時に聴けるという利便性は増している。
しかし3分程度の曲をダウンロードして感動したとか言ったところで
その恩恵に浴しているとは言い難い。
音楽はカップ麺ではないのだ。

意志と表象としての世界Ⅰ

2013-05-04 00:05:05 | ショウペンハウアー
ショウペンハウアー「意志と表象としての世界Ⅰ」を読んだ。
西尾幹二訳、中公クラシックスより全3巻で発行されている。
ショウペンハウアーは本書を以下の4部で構成している。

第一巻 表象としての世界の第一考察 根拠の原理に従う表象、すなわち経験と科学との客観
第二巻 意志としての世界の第一考察 すなわち意志の客観化
第三巻 表象としての世界の第二考察 根拠の原理に依存しない表象、すなわちプラトンのイデア、芸術の客観
第四巻 意志としての世界の第二考察 自己認識に達したときの生きんとする意志の肯定ならびに否定

「意志と表象としての世界Ⅰ」には第一巻と第二巻が収められている。

「世界はわたしの表象である」という文章で本書は始まる。
「すなわちその真理とは、認識に対して存在するところのいっさい、だからこの全世界ということになるが、
これはじつは主観との関係における客観にすぎず、眺める者あっての眺められた世界、
一言でいえば、表象にすぎないという真理なのである。
当然のことながら、今述べているこのことは、現在にあてはまるだけでなく過去や、どんな未来にも、
遠いものにも近いものにも、ひとしく当てはまる。なぜならば、すべてのものの区別のものをなしている
時間や空間そのものに、今述べているこのことが当てはまるからである。いやしくもこの世界に属しているもの、
また属することができるものはことごとく、主観による以上のような制約をいやでもおうでも
背負わされているのであって、世界に属するすべてのものはただ主観に対して存在するにすぎない。
世界は表象である。」

何か目新しいことが書かれているわけではない。
「純粋理性批判」の記載内容を「根拠の原理に従う表象」と言い換えている感じがする。
カントは「現象」と呼んだと思うが、それほど違いはないと思う。
知覚は時間とか空間とか因果律に従うという、それくらいの意味だと思う。
注釈に「カントは感性を直観の能力とし、悟性(知性)を思惟の能力としたが、
ショウペンハウアーは悟性を直観の能力と考えている」と書いてあったが、
言葉の使い方が違うというだけのことだろう。

「ところでわれわれをいま探求へと駆り立てているものは、われわれが表象をもっており、
それはかくかくの表象であり、それらはまたあれこれの法則に従って連関しており、
この法則は一般的に表せばつねに根拠の原理である、というようなことを知るだけでは、
われわれはとうてい満足しないということに外ならない。われわれはその表象の意義を知りたいのである。
この世界は表象のほかにはなにもないのかどうか、これをわれわれは問うている。
もし表象のほかになにもない場合には、世界は実体のない夢か、妖怪じみた蜃気楼のように、
われわれの傍を通りすぎていくに違いなく、顧慮するに値しないものとなろう。
それとも、世界はなお別のあるもの、それ以外のなにかあるものであるのかどうか。
そうであるとすればこのあるものとは何であろうか。次に述べることだけはたたちに確実である。
今ここで問われ求められているものは、その本質全体からみて表象とは完全に根本的に異なった
あるものでなければならず、それゆえに表象の形式をも法則をもよせつけないようなあるもので
なければならない。だから表象から出発して、表象の法則を手引きにしたのでは、
この問われ求められているものにおよそ到達することはできない。」

そのような前フリがあってから「意志としての世界」に導かれていく。
「すべての表象、すべての客観は、意志の現象であり、意志が目に見えるようになったものであり、
いいかえればこの意志の客体性である」ということになる。
ここで語られる「意志」というのは端的な人間の意志の場合もあるが
それのみに限定されているわけではない。

「・・・彼はもっとも内奥の本質としてある意志を、人間や動物など、自分自身にまったく似ている
諸現象のなかに、認めるだけでは終わらないだろう。さらに反省をつづけていくならば、
植物のうちに働き成長していく力も、いや、結晶を形成する力も、磁力を北極に向ける力も、
異質の金属との接触から磁力を引きつける力も、物質の親和力というかたちをとって離合集散として
現象する力も、さらに最後に、あらゆる物質において強力に求引し石を地面に、地球を太陽に
引きつける力でさえも―――これらのすべて、現象の面でのみは異なっているが、内的本質の
うえからは同一のものと認識されるべきである。これらのすべては、他のあらゆるものより人に
直接的に親密によりよく知られているなにものかであって、それが歴然と姿を現わす場合には
意志とよばれているものに当たるのである。」

そんなわけで「意志」の内部抗争の結果、時間と場所と物質をめぐる争いが絶えないことになる。
「個体や現象は、物質をたがいに相手から奪い取ろうとつとめるのである。
また空間と時間をもたがいに相手から奪い取ろうとつとめるのである。」
結晶が維持されるということは、ある存在が時間と場所と物質を占めていることになる。
維持されないものは存在することが許されない。
もうひとつ上の次元では「食う食われるの関係」で動物が争っている。
ここで争奪の対象となるのは動物の身体を構成している物質であり、
彼らが暮らしているテリトリー(場所)であり、彼らの存在(時間、寿命)だろう。
さらに上の次元では人間たちが争っている。そして「自分の幸福をほんの少しばかりふやすそれだけのために、
他の人の幸福や生活を根こそぎ破壊」したりしている。
ちなみに少し前まで私がこだわっていた「宇宙の起源」「生命の起源」「心の起源」というものも、
その抗争の歴史を辿っていただけのことだと言える。

そうやってショウペンハウアーは「意志の否定」にまで至るので
彼の哲学はペシミズムだの厭世主義と呼ばれる。
それが良いとか悪いとか、そんなことを決める資格は私にはない。
それに呑み込まれてしまわないかと恐れている人に対しては
「まず読んでみては?」と言いたい。

自殺について 他四篇

2013-05-03 00:05:05 | ショウペンハウアー
「そこで誰かが日常の会話の際に、何でも知りたがるくせに何をも学ぼうとしないような
例の多くの連中のひとりから、死後の生命のことについてたずねられるとしたら、
思うに最も適切なまたさしあたり最も正確な解答は次のようなものであろう―――
『君が死んだ後には、君が生まれる前に君があったところのものに、君はなることだろう。』
けだしこの解答によって、始まりがあるような種類の存在に終りがあってはならないと
するような要求の愚かさが指摘されているのである。」

「エジプト人がオルクス[冥府の神]をアメンテスと名づけたのもそういう意味においてであった。
アメンテスというのは、プルタルコスによれば、『受容者にして賦与者たるもの』の謂であり、
アメンテスは万物がそこへと還帰しかつ万物がそこから出現しきたるゆえんの同一の源泉で
あることが、それによって示されているのである。このような観点からすれば、
我々の人生というものは死から融通してきた借金のようなものだとも考えられよう、
―――そうすると睡眠はこの借金に対して日ごとに支払われる利子だということになる。」

「さらにまた生気溌剌としてそこいらに立っている動物のどれもが、我々にこう呼びかけて
いるように思われる、―――『どうして貴方は生ある者が過ぎ去り易いからといって
歎いておられるのか。もしも私の前に生きていた私の同類のすべてが死んでしまわなかったとしたら、
どうして私はこうして生きていることができたでありましょうか。』―――
こういうわけであるから、世界の舞台の上でどんなに脚本や仮面が変るにしても、
結局俳優達はすべての点で同一なのである。我々は一緒に坐って、語りあい、互いに心を
ゆすぶりあっている。眼は輝き、声は昂まってくる、―――
千年前もちょうどこんな風にほかの人達が坐っていた。それは全く同じ風であり同じ人達であった。
千年後にもやはり同じ光景が繰返されることであろう。
この事実を我々に気づかせないようにしている仕掛けが、時間なのである。」

「『尤も、ここだけの話だが、ただ生きるという以外に何の目的もなしにいつまでも生き続け
どこまでも生を続けていく種属というものは、客観的には滑稽だし、主観的には退屈なものだろうさ、
―――それは君の想像以上だよ。試みに自分で脳裡に描き出して見給え!』
そこで私はこう答える、―――『いや、それは連中があらゆる仕方で自分で実演してみせて
くれるでしょう。』」

トラシュマコス 要するにだね、僕が死んだら僕はどうなるんだろう、―――簡単明瞭に頼むよ!
フィラレートス 一切にして無だ。
トラシュマコス さあ困った。問題の解答は矛盾だときている。ごまかそうたって駄目だよ。
フィラレートス 超越的な問題に、内在的認識のために創られた言葉で解答を与えようとすれば、
 矛盾に陥らざるをえないのだ。
・・・
トラシュマコス おい、おい、僕の個性が存続しないのだったら、僕は君のいう不滅性のみんなにだって
 一文も払いはせんぞ。
フィラレートス いやまだ取引の余地はあるかも知れないさ。かりにだね、僕が君に君の個性の存続を
 保証したものだとするんだ。但し条件がある。君は君の個性が再び目覚める前に、三ヵ月だけ
 完全に無意識的な死の眠りを眠ることを承知してくれるのだ。
トラシュマコス ようしわかった。
フィラレートス ところでだね、我々は完全に無意識的な状態のなかにいるのだから、まるっきり
 時間のはかりようもなにもないわけだよ。そこでだ、我々がその死の眠りで横になっている間に、
 意識のある世界で三ヵ月経過しようとそれとも一万年経過しようと、それは我々にとっては全く
 同じことになるのじゃないかね。三ヵ月だったのか、一万年だったのか、我々は目覚めたときに
 ひとから言われる通りに信ずるほかはないのだからね。そうだとすると、君の個性が君にもどされるのが、
 三ヵ月後であろうと一万年後であろうと、それは君にとってどちらでもいいことになるのでは
 なかろうかね。
トラシュマコス そう言えば、まあそうだ。
フィラレートス ところがだ、一万年経った後で、誰かがもしひょっとして君を起こすのを忘れたとしたら
 どうだろう。僕が思うに、君はほんの束の間の短い生存の後に一万年というかの長い非存在が
 続いたのだから、君はもうすっかりその非存在となじみになってしまっていて、そんなことがあっても
 君はそれをたいした不幸とも感じないのではないかね。それに、君の現在の現象を操作している
 かの秘密のからくりが、その一万年の間も一瞬もとどまることなくほかの同類の諸現象を展示し
 操作し続けていたのだということを、もし君が知ったとしたら、君は自分の境遇にすっかり慰めを
 感ずるようになっているかも知れないさ。
トラシュマコス ははあ!―――こんな風にして君は実にこっそりと気づかれないようにして
 僕から僕の個性を騙りとろうとしているんだな。そんな騙りには僕は断じてひっかからないよ。
 僕は僕の個性の存続を主張する。この個性を失った日には、からくりだとうと現象だろうと
 僕の慰めにはなりえない。個性のことは僕の脳裡を離れることがないのだ、僕は断じてこれを
 手離さないよ。
フィラレートス そうすると君は多分君の個性を、これ以上のものはありえないというほどに、
 快適で優秀で完全で無比なものと考えているのだね。だからして君はそれを何かほかのもの、
 ―――このもののなかでも生活はもっとましでもっと安楽だとでの言われうるようなもの、
 とも交換しようとはしたがらないんだね。
トラシュマコス ああ、わが個性よ、そは如何なるものにもあれ、それこそは僕なのだ。

 「余にまさる何者もこの世にはありえず、―――神は神にして、余は余なり。」
 ゲーテ『サテュロス』

・・・
この話はまだまだ続くのだが、ここらへんでやめます。

ショウペンハウエル(ショウペンハウアー)の「自殺について 他四篇」から引用している。
おもしろい本だが、もう少し売れそうなタイトルをつけることはできなかったのだろうか?
きっと岩波書店は儲けることを考えていない。