「すなわちこの意志の欲するもの、これこそこの世界にほかならないのであって、
それはわれわれの前に現れ出ているがままの生命の世界そのものなのである。
われわれが現象する世界を意志の鏡、意志の客体性と名づけてきたのはそのためである。
ところでその意志が意欲しているものは、つねに生命であって、生命とはまさしく
表象に対するこの意欲の表現以外のなにものでもないのであるから、
われわれが端的に『意志』という代りに『生きんとする意志』というにしても、
それは同じことであって、言葉の重複にすぎない。」
「意志」というのは「神」の言い換えにすぎないという人もいるらしいが、
この部分(これは実際にはⅡ巻にあります)を読んでいると「遺伝子」のような感じもする。
そういう因果性を含むものは「表象」としての世界に属するものと一蹴されてしまいそうだが、
19世紀には神秘的であった生命現象も20世紀には科学の一つの体系として説明されるようになった。
そのようにして「神秘的なもの」は征服されてきているのかもしれないが、
その征服の為したこととは実は「本質的に神秘的なもの」の抽出にすぎないという感じがする。
物が見えるといった主観的な現象が決して客観的に説明できないことや
混沌(無秩序)から秩序(生命)が生まれることについての飛躍とか・・・
だいたい私たちは秩序しか理解できないのだから混沌なんてわからない。
数学的にカオス云々の理解が進んだとしても混沌を意味として説明することの矛盾は解けない。
それで結局のところ「意志」が「神」の言い換えにすぎないとか、
そのことを私が「混沌から秩序が生まれること」に言い換えたとしても何も変わらない。
だいたい誰が「意志している」のだが私にはわからない・・・
そんなふうにして実際には「意志?ハァー?なに言ってんだか・・・」というのが本音であって
ショウペンハウアー哲学を理解しているのかと問われれば
そこに書いてあることはわかるが
そこに書いていないことはわからないと
そんなふうに答えるしかない。
「・・・いいかえれば、意志の客観化が形式としてもっているのは「個体化の原理」で、
これによって意志は数しれぬ個体のかたちで均等に現象し、しかも意志は個体のおのおののうちに
二つの面[意志と表象]にわたって全面的に現象するのであるが、さてエゴイズムの存立と本質とは
ひとえにここにかかっているからである。つまり各個体は自分自身を直接に意志の全体として、
また全体的な表象者として与えられているのであれば、自分以外のあらゆる人間などは、
さしあたってはただ彼の表象として与えられているにすぎないということになってくるほかなかろう。
だからこそ彼にとっては、彼自身の本質とその保持とが、ほかのすべての誰を一緒にあわせたよりも
大事だということになってくる。・・・」
「・・・しかしなかでもこれがもっとも歴然とした姿で現れるときは、なんらかの人間の群れが
いっさいの法と秩序から解き放たれた直後であろう。そのときにはホッブズが『国家について』の
第一章でみごとに描き出した『万人の万人に対する闘い』がただちに、このうえなく明瞭に姿を
みせることになろう。そこに現れるのは、誰でも自分が持ちたいと欲するものを他人から
ひったくろうとしている有様だけにとどまらない。ある人が自分の幸福をほんの少しばかりふやす
それだけのために、他の人の幸福や生活を根こそぎ破壊することだって往々にしてありがちだと
いうこともそこには現れているのである。これこそエゴイズムの最高の表現である。・・・」
「意志と表象としての世界」には「根拠の原理」と並んで「個体化の原理」というのが出てくるが
原理というほどのものなのかよくわからない。
よく知られているように生命には二つの本能があって、つまり生存と生殖である。
生存については最も低次のものとして食欲と睡眠欲があるし、生殖については性欲がある。
そういう欲動に少しの思念が混じった結果として虚栄心の充足に心血が注がれることもあるが
いずれを低次元の欲動・高次元の悩みと呼べばよいのか実際にはよくわからない。
徹頭徹尾、欲にすぎないとまとめておいた方がわかりやすいだろう。
自然淘汰説によれば、そのような自己保存と種族保存に優れた種が生存競争を勝ち抜いてきたと
いうことになるのだろう。そもそも自己保存をしない生命は長期間存在することはできない。
そんなことは自明だ。
しかし自己保存と種族保存を優先することはわかるにしても他人を滅ぼす必要はないのでは?
たとえば動物は生存に必要最小限のリソースしか消費していないのでは?
それ故に人間は悪であるのでは?
そんなおセンチなことを考えてみたとしても動物が性善説にもとづいて生きているという確証はない。
たとえば、なわばりとかメスとエサの奪い合いとか・・・
あるいは精神的な現象がエゴイズムを増幅させているのだとしても、
それはやはり生命に組み込み済みのことなのだと思う。
そういうわけで『万人の万人に対する闘い』というわけである。
ホッブズは偉大ですな。
マルクスなんかは、その闘いを階級闘争と勘違いしてしまったのではないかと思う。
味方だと思って一緒に闘ってきたが、勝利すると仲間割れしてしまうといったことは、
誰の誰に対する闘いなのか承知していないことに拠る。
社会が時代と共に進歩しているという誤解、
つまりいつの日か人類は敵同士が目の幅なみだを流しながら、
お互いを祝福しあうであろうという誤解もまた、
彼にとっては不利に働いたことだろう。
『万人の万人に対する闘い』が根本的に何を変えたかというと、
肥大化する個人の欲望を制限するための国家と法の発明に違いない。
あるいはそこに倫理や道徳を持ち込んでもよい。
そのような契約がなかったならば今でも争いが続いていたかもしれない。
しかしこのような契約も、混沌から秩序が生まれるところの特異点の一つなのであって、
私たちは契約以前の状態がどんなふうだったかなんて想像もできない。
万人が争うというのは喩えにすぎない。
そしてそのような契約がエゴイズムをどこまで制限できるのかはよくわからない。
法整備されたこの国にあってもパワハラによって人が殺されていく。
そこで現代においても「必殺仕事人」は必要なのではないかと思われる。
しかし弱者のそうした願いはルサンチマンであると非難される。
いやーもう、どうでもいいんですが・・・
たとえば極めて優れた経営者が「grow or die」などと発言したとしよう。
彼はグローバル化が進展する世界の中で何か新しい視点に基づいた新しい価値観を
同時代の愚か者たちに向けた新しいメッセージを発信し得たのだろうか?
いやー、そんなのはホッブズとダーウィンが言い尽くしたことの蒸し返しにすぎない。
そこで成長と呼んでいるものを私は単に「肥大化した個人の欲望」と呼ぶ。
なるほど競争のない世界は社会を停滞させるので社会主義は資本主義に敗れたのだと、
そんなことは歴史が証明しているではないかと・・・
えーと、マルクスの間違っていた点は根拠のない進歩思想であったわけで、
それは今、成長と呼んでいるものと同類なのではないかと思うのです。
つまりホッブズの頃から何も変わっていない。
いやーもう、どうでもいいんですが・・・
「・・・すなわちこの世界の掲げ得る最大にして、最重要、かつ最有意義なる現象とは、
世界を征服する者ではなしに、世界を超克する者である、と。世界を超克する者とはすなわち、
真の認識を開き、その結果、いっさいを満たしいっさいの中に駆動し努力する
生きんとする意志を捨離し、滅却し、そこではじめて真の自由を得て、自らにおいてのみ
自由を出現せしめ、このようにして今や平均人とは正反対の行動をするような人々、
そのような人々の目立たぬ寂静たる生活振舞い以外のなにものでもじつはない。・・・」
そういうわけでショウペンハウアーは「生きんとする意志の否定」に至る。
聖者のように生きる者が(あるいは聖者が)世界を超克するというわけである。
別に超克したいと思わなくても、「永続的な慰め」を得ようとするならば
そうするより仕方がないというほどの意味である。
「梵(ブラフマン)への参入」とか「涅槃(ニルヴァーナ)への帰入」といったことも同じことなのだと言う。
同じというよりは公然と「無」を回避していないところが潔いということになるのだろう。
そして無を怖れるすべての人々によってショウペンハウアーは忌避される。
そこで私は三度書き留めることになるのだが「無」と「混沌」は同様のものであり
私はそれを把握する術を持たない。だから良いとか悪いとか私には判断できない。
私が漠然と知覚しているのは「無への意志」ではなく「知への意志」なのだろう。
何もするなと言われても、じっとしていることはできない。
それはわれわれの前に現れ出ているがままの生命の世界そのものなのである。
われわれが現象する世界を意志の鏡、意志の客体性と名づけてきたのはそのためである。
ところでその意志が意欲しているものは、つねに生命であって、生命とはまさしく
表象に対するこの意欲の表現以外のなにものでもないのであるから、
われわれが端的に『意志』という代りに『生きんとする意志』というにしても、
それは同じことであって、言葉の重複にすぎない。」
「意志」というのは「神」の言い換えにすぎないという人もいるらしいが、
この部分(これは実際にはⅡ巻にあります)を読んでいると「遺伝子」のような感じもする。
そういう因果性を含むものは「表象」としての世界に属するものと一蹴されてしまいそうだが、
19世紀には神秘的であった生命現象も20世紀には科学の一つの体系として説明されるようになった。
そのようにして「神秘的なもの」は征服されてきているのかもしれないが、
その征服の為したこととは実は「本質的に神秘的なもの」の抽出にすぎないという感じがする。
物が見えるといった主観的な現象が決して客観的に説明できないことや
混沌(無秩序)から秩序(生命)が生まれることについての飛躍とか・・・
だいたい私たちは秩序しか理解できないのだから混沌なんてわからない。
数学的にカオス云々の理解が進んだとしても混沌を意味として説明することの矛盾は解けない。
それで結局のところ「意志」が「神」の言い換えにすぎないとか、
そのことを私が「混沌から秩序が生まれること」に言い換えたとしても何も変わらない。
だいたい誰が「意志している」のだが私にはわからない・・・
そんなふうにして実際には「意志?ハァー?なに言ってんだか・・・」というのが本音であって
ショウペンハウアー哲学を理解しているのかと問われれば
そこに書いてあることはわかるが
そこに書いていないことはわからないと
そんなふうに答えるしかない。
「・・・いいかえれば、意志の客観化が形式としてもっているのは「個体化の原理」で、
これによって意志は数しれぬ個体のかたちで均等に現象し、しかも意志は個体のおのおののうちに
二つの面[意志と表象]にわたって全面的に現象するのであるが、さてエゴイズムの存立と本質とは
ひとえにここにかかっているからである。つまり各個体は自分自身を直接に意志の全体として、
また全体的な表象者として与えられているのであれば、自分以外のあらゆる人間などは、
さしあたってはただ彼の表象として与えられているにすぎないということになってくるほかなかろう。
だからこそ彼にとっては、彼自身の本質とその保持とが、ほかのすべての誰を一緒にあわせたよりも
大事だということになってくる。・・・」
「・・・しかしなかでもこれがもっとも歴然とした姿で現れるときは、なんらかの人間の群れが
いっさいの法と秩序から解き放たれた直後であろう。そのときにはホッブズが『国家について』の
第一章でみごとに描き出した『万人の万人に対する闘い』がただちに、このうえなく明瞭に姿を
みせることになろう。そこに現れるのは、誰でも自分が持ちたいと欲するものを他人から
ひったくろうとしている有様だけにとどまらない。ある人が自分の幸福をほんの少しばかりふやす
それだけのために、他の人の幸福や生活を根こそぎ破壊することだって往々にしてありがちだと
いうこともそこには現れているのである。これこそエゴイズムの最高の表現である。・・・」
「意志と表象としての世界」には「根拠の原理」と並んで「個体化の原理」というのが出てくるが
原理というほどのものなのかよくわからない。
よく知られているように生命には二つの本能があって、つまり生存と生殖である。
生存については最も低次のものとして食欲と睡眠欲があるし、生殖については性欲がある。
そういう欲動に少しの思念が混じった結果として虚栄心の充足に心血が注がれることもあるが
いずれを低次元の欲動・高次元の悩みと呼べばよいのか実際にはよくわからない。
徹頭徹尾、欲にすぎないとまとめておいた方がわかりやすいだろう。
自然淘汰説によれば、そのような自己保存と種族保存に優れた種が生存競争を勝ち抜いてきたと
いうことになるのだろう。そもそも自己保存をしない生命は長期間存在することはできない。
そんなことは自明だ。
しかし自己保存と種族保存を優先することはわかるにしても他人を滅ぼす必要はないのでは?
たとえば動物は生存に必要最小限のリソースしか消費していないのでは?
それ故に人間は悪であるのでは?
そんなおセンチなことを考えてみたとしても動物が性善説にもとづいて生きているという確証はない。
たとえば、なわばりとかメスとエサの奪い合いとか・・・
あるいは精神的な現象がエゴイズムを増幅させているのだとしても、
それはやはり生命に組み込み済みのことなのだと思う。
そういうわけで『万人の万人に対する闘い』というわけである。
ホッブズは偉大ですな。
マルクスなんかは、その闘いを階級闘争と勘違いしてしまったのではないかと思う。
味方だと思って一緒に闘ってきたが、勝利すると仲間割れしてしまうといったことは、
誰の誰に対する闘いなのか承知していないことに拠る。
社会が時代と共に進歩しているという誤解、
つまりいつの日か人類は敵同士が目の幅なみだを流しながら、
お互いを祝福しあうであろうという誤解もまた、
彼にとっては不利に働いたことだろう。
『万人の万人に対する闘い』が根本的に何を変えたかというと、
肥大化する個人の欲望を制限するための国家と法の発明に違いない。
あるいはそこに倫理や道徳を持ち込んでもよい。
そのような契約がなかったならば今でも争いが続いていたかもしれない。
しかしこのような契約も、混沌から秩序が生まれるところの特異点の一つなのであって、
私たちは契約以前の状態がどんなふうだったかなんて想像もできない。
万人が争うというのは喩えにすぎない。
そしてそのような契約がエゴイズムをどこまで制限できるのかはよくわからない。
法整備されたこの国にあってもパワハラによって人が殺されていく。
そこで現代においても「必殺仕事人」は必要なのではないかと思われる。
しかし弱者のそうした願いはルサンチマンであると非難される。
いやーもう、どうでもいいんですが・・・
たとえば極めて優れた経営者が「grow or die」などと発言したとしよう。
彼はグローバル化が進展する世界の中で何か新しい視点に基づいた新しい価値観を
同時代の愚か者たちに向けた新しいメッセージを発信し得たのだろうか?
いやー、そんなのはホッブズとダーウィンが言い尽くしたことの蒸し返しにすぎない。
そこで成長と呼んでいるものを私は単に「肥大化した個人の欲望」と呼ぶ。
なるほど競争のない世界は社会を停滞させるので社会主義は資本主義に敗れたのだと、
そんなことは歴史が証明しているではないかと・・・
えーと、マルクスの間違っていた点は根拠のない進歩思想であったわけで、
それは今、成長と呼んでいるものと同類なのではないかと思うのです。
つまりホッブズの頃から何も変わっていない。
いやーもう、どうでもいいんですが・・・
「・・・すなわちこの世界の掲げ得る最大にして、最重要、かつ最有意義なる現象とは、
世界を征服する者ではなしに、世界を超克する者である、と。世界を超克する者とはすなわち、
真の認識を開き、その結果、いっさいを満たしいっさいの中に駆動し努力する
生きんとする意志を捨離し、滅却し、そこではじめて真の自由を得て、自らにおいてのみ
自由を出現せしめ、このようにして今や平均人とは正反対の行動をするような人々、
そのような人々の目立たぬ寂静たる生活振舞い以外のなにものでもじつはない。・・・」
そういうわけでショウペンハウアーは「生きんとする意志の否定」に至る。
聖者のように生きる者が(あるいは聖者が)世界を超克するというわけである。
別に超克したいと思わなくても、「永続的な慰め」を得ようとするならば
そうするより仕方がないというほどの意味である。
「梵(ブラフマン)への参入」とか「涅槃(ニルヴァーナ)への帰入」といったことも同じことなのだと言う。
同じというよりは公然と「無」を回避していないところが潔いということになるのだろう。
そして無を怖れるすべての人々によってショウペンハウアーは忌避される。
そこで私は三度書き留めることになるのだが「無」と「混沌」は同様のものであり
私はそれを把握する術を持たない。だから良いとか悪いとか私には判断できない。
私が漠然と知覚しているのは「無への意志」ではなく「知への意志」なのだろう。
何もするなと言われても、じっとしていることはできない。