140億年の孤独

日々感じたこと、考えたことを記録したものです。

燃えあがる緑の木 第三部 大いなる日に

2017-06-24 00:05:19 | 大江健三郎
162ページ
青年よ、祈りを忘れてはいけない。祈りをあげるたびに、それが誠実なものでさえあれば、新しい感情がひらめき、
その感情にはこれまで知らなかった新しい思想が含まれていて、それが新たにまた激励してくれるだろう。
そして、祈りが教育にほかならぬことを理解できるのだ。

「カラマーゾフの兄弟」からの引用。ゾシマ長老の説教。
信仰を持たない人間がいったい何に対して祈ればよいのだろうかと、いつもそこで止まっている。
存在しない神に対しての祈りがあったとしたなら、とても滑稽なことではないかと誰も見ていないところで恥じらいを感じもする。
それでいて、祈りとは見返りを求める行為ではないのだし、絶対者にひれ伏すことで安心を得る行為ということでもないだろうし、
祈ることに目的はなく、祈ること自体が目的であるかもしれず、ということも考える。
そして、きっと考えるからだめなのだろうというところに落ち着く。
座禅を組むというのも祈りに似た行為かもしれない。祈りも座禅も私から遠いところにある。
もやは習慣となってしまった費用対効果といった考え方に汚染されてしまっているようで、
いつも費やした時間に対する見返りを期待してしまう。
効果がないのであれば、もっと他のことに時間を使ってみたいと考えてしまうが、
集中力も運動能力も加齢と共に衰えて行くというのが残念ならが事実であって、
力を失って行くに従って無力を悟り、何者かにすがりつきたいという思いが募り、それはきっと祈りへと向かう。
そういうきっかけが良いのか悪いのかわからないが、不信心者が改心するのであれば何だって良いのかもしれない。

220ページ
それ(不幸)は単なる苦しみとはまったく別のものだ。それは魂を奪取し、奥底まで、それにしか属さぬしるし、奴隷のしるしをきざむ。
不幸のもうひとつの効果は、魂をその共犯とすることだ、少しずつ、そこに無気力の毒を注入して。
タカちゃんは大学紛争に巻き込まれて、からなずしも敵だとは思ってない側の若者から頭を傷つけられた。
そのせいで辛い病気になって、お薬の副作用で肥りにふとって、白髪頭の赤んぼうのようになって死んだのよ。

偶然に訪れる不幸によって、世界が、社会が、歴史が、神が、周りにいる一切の他人が、
「私の命」のことなんてなんとも思っていない、「私」のことなんて全然大切に思っていないという事実に気付く。
かけがえがないと信じていた私の命は無惨に扱われ、そのことを気に掛けてくれる人はただの一人もいない。
あるいは遺伝子を共有している親族であれば、私の無念を晴らしてくれるかもしれない。
でも損なわれた精神と身体は二度と回復せず、ハンディキャップを背負って生きて行くか、あるいは虫けらのように扱われる。
場合によっては病気や障害を背負っても負けずに逞しく生きている人々の美談を聞かされて、
虚無や無気力に負けるのはお前の精神が弱いからだと言って親族からも非難される。
そういう人たちは救われるのだろうか?
そんなことを考える機会があるとドストエフスキーを読んでみたくなる。
負けてたまるかということではなく、そこに描かれている不幸について、常に私たちを取り巻いている不幸について、
私たちの主人公がどのように取り組んだかということを今一度、確認したくなる。

234ページ
われわれの目の前にある、この災厄と滅亡の機械が、働きをとめるように!

原子力発電所に賛成する人は、たいてい以下のようなことを主張する。
・経済規模に見合った電力を生み出せる手段は火力と原子力だけであるが枯渇の恐れのある石油に全面的に依存するわけにはいかない。
・原子力は危険と言われているが、事故で死亡する人の割合は火力の方が高く、温室効果ガスの増加という点でも火力には問題がある。
・原子力発電を無くせば安価に電力を供給することができなくなり、したがって製造業が成り立たなくなり雇用が確保できなくなる。
また、大っぴらには言えないが、原子力技術を保有することは軍事的に極めて重要なのだろう。
他国の脅威に対抗するために原子力空母、原潜、核兵器を自国の技術で保有できるという点が重要なのだろう。
兵器を保有していなくても、その技術を保有していればいつか実現することができる。
一方、反対する人は原発をトイレのないマンションと呼んでいる。
いちおうトイレは六ケ所村にあるが、核のゴミはそこに集積され、外部から遮断された状態で放射性物質が減るのを待っている。
半減期が数十年とか数万年とか核種によって様々だが、半減期とは放射性物質が半分になるまでの期間であり、
それをすぎたからといってなくなるわけではない。半減期の二倍の期間を経過したとしても元の四分の一になるだけだ。
その保管に必要なコストを考えると安価なエネルギーというのは非常に疑わしい。
核のゴミは日本海溝に捨ててしまえという意見もあって、地震の頻発する国で地中に保管するよりは危険が少ないと思うが、
各国が海洋に不法投棄をすると収拾がつかなくなる。すでに耐用年数をすぎた旧ソ連の原潜があちこちに不法投棄されているらしい。
良い案だと思うが、残念ながら通らない。
ずっと引き継がれるべき地球や生命やエコシステムを私たちの代で終わらせるわけにはいかないと、
そういう気持ちの強い人がいて、原発については大江さんはそういうトーンで書いているのだと思う。
小惑星が衝突して地球が滅びるのは容認できるが、私たちの意思に左右されることで滅びることがあってはならないということだろうか?
物理学の発展により原子力エネルギーが見出されたこと、それが実用化されたことは果たして人間にコントロールできることだったのだろうか?
生命現象の必然として知性がもたらされ、知性の働きによって時空と物質をめぐる科学法則が見つかり、
戦争で優位になるため、他者の上に立つためにそれが実用化されたことは個人を超えた現象一般に属することに思える。
その運用を誤って滅亡することもまた・・・

258ページ
そしてついには、かわりの人間が、そのものの人間となる時が来る。ナニカ・ナニモノカそのものの到来の日。
そのものの人間とは「救い主」。そのものの人間が現れる時、それまでのかわりの人間はみな、そのものの人間と重なる。
「救い起き上がろうと主」とは、そのような綜合体としての、唯一のものにほかならない。そこに至るかわりの人間のひとりとして、
積極的に務めを引き受けよう。両膝を潰されて倒れながら、かつは幾たびもしながら、私はそう考えたのでした。

「あなたは『救い主』ですか?」という問いに対して「救い主」とされる人間はそうこたえる。
彼自身もまた「救い主」とは何なのかをよく考えてみて、どうすれば人々を救えるのか、どう振る舞えばよいのか考えてみて、
自分が果たすべき役割を実行するだけだという、ごくあたり前のことに辿り着く。
「そのものの人間」「総合であり唯一」「無限でかけがえのない存在」
有限で取るに足りない自分自身のことを思う度に「無限を構成する一要素」として無限に参加したいという切なる願い。
核兵器の脅威にさらされている時代にあっては、その「無限に至る道程」を途切れさせてはならないという気持ちがさらに強まり、
そうした彼らは経済活動を理解し得ぬ滑稽な知識人として批判の対象に挙がる。
私は無限に参加するという思想を利用して、虚無や無気力や避けられない死の不安から逃れようというのは、まやかしではないかと思っている。
それこそ遺伝子やそれが実現した自己操縦の仕掛けとしての意識にまんまと嵌められているような気がする。
何がムカつくといって遺伝子はそんなことは一切知らないということがムカつく。
そうしたことに対して新しい展開が見えて来たなら良いのだが、
相変わらず一歩も先へ進めない。

300ページ
そして、これは詩とは無関係の、むしろ逆方向の、私の妄想ともいえるものですが、私自身についていえば、
自分はこの夜の暗さのなかで待ち受ける状態のまま終るのではないか、と考えることがあります。
ギー兄さんですらそうなのではないか、とも思うのです。

「明けない夜はない」という言い方もあるが、魂がずっと暗いところを彷徨い続け、一生このままではないかと不安になる。
有機的に秩序立てられた生命の世界から、論理的に明晰な知性の世界から追いやられて、混沌の中へと戻ってしまいそうに感じる。
このまま終ってしまうという考えから逃れられないことの苦しみ。

燃えあがる緑の木 第二部 揺れ動く(ヴァシレーション)

2017-06-17 00:05:08 | 大江健三郎
34ページ
なんということがあろう? 洞穴から聞こえてくるひとつの声
それが表わす言葉はただひとつのみ、喜びを抱け(リジョイス)!

What matter? Out of cavern comes a voice,
And All it knows is that one word 'Rejoice!'

92ページ
あの頃、いかにもセンチメンタルな歌いぶりのニュー・ミュージックが流行していた。とくにその人気歌手の、
―――海や死にする、山や死にする? と問いかける演目を、「森の会」の若者たちが鼻歌式に歌っていたのに反撥して、
総領事がたちまち怒り狂う老人を演じられたのを覚えている。

これは「防人の詩」のことなのだろう。

132ページ
地獄にある巡礼者は、人が現世においてすると同じく、めぐりあう事物を自分の五官で発見する。
煉獄では「心のドラマ」「夢のヴィジョン」として、つまり想像力を介して、巡礼者は新しいものに出会う。
ところが天国篇に書かれている言葉は、現実にある事物を描写するものでなく、想像力のとらえるヴィジョンを提示するものでもない。
言葉自体が、実在。実在そのものの言葉で、天国は表現されるのだ。

「天国篇」の言葉は独特であって、永井豪さんが漫画にしようとしてもうまくいかない。
「現世でめぐりあう事物」ということであれば、五官、特に視覚的な効果を期待することができるので、
版画であったり、漫画であったり、膨らませたイメージをそこに展開することで言葉の持っていたイメージの投影に成功する。
だが「実在」ということであれば、見つけ出すことはできなくて、特に視覚に頼ることはできない。
もともと言葉にできないはずのものが、言葉としてそこにあるということの不思議。

137ページ
―――・・・・・・さて、私はこのおしまいの方の、des Welt-Atemsという言葉が好きでね、世界の息というか・・・・・・
トリスタンは死んでしまったけれども、その生命の息吹きがイゾルデのなかに入ってきて、
また彼女の周囲に波だつように広がって、すべてがその世界の息のただなかにある。
そのなかに沈み込むことで、意識を越えた最上の快楽へと自分は向かう、
というわけで、そこには愛と死が溶け合っている。

至福とか、救済ということを言った時に、意識の働きによる論理的な思考は邪魔者とされてしまう。
そうすると私たちが現世を生き延びようとする時に必死になって活用する知性一般というものは、
私たちを救えるものにはならないということになってしまう。
忘我の境地に達し、世界の息吹の中に取り込まれ、自分が失われてしまうことも含めて一切の思惟から解放されて、
だがそれというのはつまり死ではないかと、何も考えられない状態のことではないかと、
認識を離れて信仰に生きるというのは、生きながらに死んでいる状態なのだろうか?
もしかすると愛と死が溶け合っているということなのかもしれないが、
作者とこの本の登場人物と同様に、信仰を持たない者に救済はあるのか、特定の神を信じないものが至福に至れるか、
そういうことをずっと心に抱いて生きているような気がするが、
まだ何も見えない。

150ページ
そういうことがあって、こう思った。自分は子供のままで死ぬかもしれないし、それをまぬがれても、
年をとって死ぬまでに、人生のはっきりしたかたちを本当に描くことができるだろうか?

子供の頃に抱えた漠然とした不安はそのままに残ってしまって、はっきりしたかたちを獲得するには至らない。
何かひとつのことに打ち込んで来たなら、加齢に比例して積み重ねられて獲得できたものもあったのかもしれないが、
これじゃない、こんなふうじゃないと思いながら、何度も積み木を崩してしまうような生き方を繰り返して来て、
もういまさら目の前にあるものを崩しても、新しい何かを獲得できたりはしないことに気付く。
もともと、はっきりしたかたちなんてないのかもしれないし、ないのだとしたらあると思い込むことが大切かもしれない。
充実した毎日を送るためには、多少の欺瞞は必要なのだろうが、騙し通すには気付いてしまうことが多すぎてやり切れない。
はっきりしたかたちを描くことができたとしても、それもまた失われてしまうという虚無に襲われたりもするし、
だから何もしたくはないというわけでもなく、何も考えずにいられるというわけでもなく、
やっぱりこんな状態は、犬が吠えるということと、そう違いはないのだと、
吠え続けるしか仕方がないのだと考える。

152ページ
―――正直いって神はあるんですか?
―――・・・・・・神はあるかと問われてね、私がどのように答えたとしても、きみを満足させはしないと思うよ、
とギー兄さんは伏せた眼の周りが赭らんでくる感じのままいった。

「神」と言った時に何を思い浮かべているのだろうか?
どのようにして世界が成立したのか、どうして私が今ここにいるのか、といったことを考えた時に、
その始まりに位置する存在が必要になるという事情があって、全能の神が要請されるということなのだろうか?
あるいはやがて死を迎える有限な存在である自分を悲しむあまり、永遠にすがりつきたいとか、
魂の救済を願って止まないということなのだろうか?
宇宙の起源とか言った途端に、宇宙は無の揺らぎから生まれた、というようなことになって、
そこから先は、あるいは時間すら生まれていないので「先」ということにすら意味がなくなってしまうのだが、
現代科学やら物理学の出番はなくなり、論理的な説明を尽くすこともできなくなり、
結局は信じるか信じないかということで、でもいったい何を信じて良いのかよくわからない。
何をではなしに、神はどういうものであるかということは一切不問ということにして、
ただ信じるということが救いなのだろうが、そういうことで良いのだろうか?

―――大地にひれ伏した彼はかよわい青年であったが、立ちあがったときには、一生変らぬ堅固な闘士になっていた。
そして彼は突然、この歓喜の瞬間に、それを感じ、自覚したのだった。
アリョーシャはその後一生を通じてこの一瞬を決して忘れることができなかった。
「だれかがあのとき、僕の魂を訪れたのです」・・・・・・

カラマーゾフの兄弟からの引用。

180ページ
これまで幾たびも話したことだが、魂のことを始めなければならないと、子供の頃から私は考えていた。
ハイスクールの生徒になると、それにかさねて折りかえし点ということを思うようになった。
いったん魂のことを始めてしまえば、生きるための金銭を稼ぐことはできないのだから、
その折りかえし点に至るまでに、死ぬまでの生活費を貯えておかなければ・・・・・・

日々を過ごしていくのに精一杯で、貯えなんてとても無理だ。
製品やサービスでしのぎを削っている世界においては、労働者を働かせるあらゆる手段が講じられていて、
子育てとか住宅ローンとか老後の不安を煽ったりもして、働かざる者、食うべからずの価値観を徹底させ、
私たちを駆り立てるのであって、そんな状況にあっては、折り返し点には到底辿り着けないだろう。
あるいは子供が独立したなら、私一人が野垂れ死にしようが誰も気に掛けないのであって、
それが折り返し点なのかもしれない。

262ページ
・・・・・・あらためて考えてみるんだけど、総領事の人生は、どういうことだったのかしら?

誰の人生であったとしても、振り返ってみれば「なんだったのかしら」と問わずにはいられない。
一度きりの、かけがえのない私の人生、ラオウだったら悔いはなかったのかもしれないけど、
それを良いとか悪いとか語るのは生き残った人たちであって、
死んでしまうのに生き残る人たちの視点で考えるのって、なんだかおかしい。

337ページ
僕は信仰を持たない人間ですが、恩寵ということを音楽に見出すといわずにはいられません。
この言葉を、品の良さとも美質とも、感謝の祈りともとらえたい思いで、
僕はヒカリの音楽とその背後にある現世の自分たちを超えたものに耳を澄ませているのです。

探求心の向かうところ、絵を見るとか、映画を見るとかあるのだろうが、私の場合はたいていは本と音楽に向かう。
説教臭い音楽とか、いきすぎたセンチメンタルやら、ノリがいいというだけで三か月後には誰も聴かなくなる音楽、
端的に産業に貢献するのが目的の消費のためだけの音楽というのもあるので一概には言えないが、
そこには知的に論理的に認識したり理解できるようなものではないのだが、
私たちを捉えて離さない何かがあるのであって、それは恩寵のようなものなのかもしれない。
とは言っても、恩寵ということ自体、私にはよくわかってはいないし、
信仰を持たない人間には一生縁のないことかもしれない。
きっと何百年も聴き継がれている音楽というのは現世を超えたものを含んでいるのだろう。
そういうものに触れることができる、そこにある何かから影響を受けることができる、
私が恩寵というのは、そんなもののことかもしれない。

燃えあがる緑の木 第一部 「救い主」が殴られるまで

2017-06-10 00:05:56 | 大江健三郎
21ページ
新しいギー兄さんについてもね、誰かがかれの物語を書き残そうとつとめないかぎり、なにもなかったと同じになるよ。
かつてなにもなかった、いまなにもない、将来にわたってなにもないだろう、というのと同じになる。
それを防ぐ役割は、サッチャンのものだと僕は思うよ!

たとえば二十代の頃に一緒に働いて、とても強い影響を受けた友人がいたのだが病気で亡くなってしまって、
彼が死んでしまってからもう何年も経っていて、彼の思い出を語れる人々とも離ればなれになってしまって、
もしもこのまま私が死んでしまったなら、もう彼のことを知っている人もいなくなって、なにもなかったのと同じになるのかもしれない。
若い頃の私たちが夢みたこと、失望したこと、彼のような誠実で尊敬できる人間に出会えて励みになったこと、
人が人に憧れることが出来た美しい時代、そのことを書き残そうとして挫折してしまったこと、
こんなんじゃいけないな、なにもなかったのと同じでいいわけがないという、有限の寿命への敵対心のようなものがあって、
その気持ちを形のあるものにするためには、もっと力をつけなくてはならないと思って、でもまだ力が足りない。
こんな状態が長く続くようだと、一生かかっても何もできないじゃないかと絶望的な気分になる。
でも私はまだ戦い続けている。

56ページ
―――私は魂のことをしたいと思います、と申し出ていたのだった。具体的なプランはなにもないけれど、
いまの職業は捨てますし、今後は自分で生きる糧を作り出すほかのどのような職業にもつかぬつもりでいます・・・

子供の頃に「大人になったら何になりたい」と聞かれるのが苦痛だった。
使い慣れぬ知性と感性を抱え、容易に推し量れぬ現象とその総体から成る世界を目の前にして戸惑っていた。
今だとサッカー選手とか、YouTuberになりたいと子供たちはこたえるそうだけれど、
思うようにリフティングも出来ない運動神経を恥じて男の子らしくサッカー選手になりたいなんて言うこともできず、
初対面の子供に対してはそういう質問をするもんだという視線の大人を前に沈黙していた。
理科や数学が得意だと周りにおだてられて、その道を極めれば自己実現が叶うのだと思い込もうとしたこともあった。
あるいはたまたま就いた仕事で一流になってやろうとか、でもどうにもごまかしようがなかった。
それに「魂のこと」というわけでもないんです。魂とか精神とか、何ものにも動じない怯まない意志とか、
肉体が滅びても魂は滅びないとか、そんなことを信じているわけでもない。
ただ、そのことよりは優先すべきことがあるということを、ずっと気に掛けていて、
その一つの運動の方向性として、私は本を読むのだし、それをブログに記録もする。
そういう意味で「私は魂のことをしたいと思います」という切実な気持ちを吐露する人がいるのであれば、
私は彼の話を心ゆくまで聞きたいと思う。

163ページ
―――こんな山の中で、といっては失礼だけれども、ともかくこういう場所で、永い一生をやってゆくつもりなの?

生れて来たからには何かデカいことをやってやろうと青年らしく野心に満ちた精神は考えるべきと推奨されている。
豊臣秀吉とか、坂本龍馬とか、男なら大きな仕事を成し遂げて歴史に名を残す人物になってやろうと考えるべきだとか、
それはちょっと現実味を欠いているので、大臣や教授や社長になれるだけでも御の字だとか、
それもちょっと高望みしすぎなので、せめて部長、課長くらいならとか、私たちの周りの人たちの考えること。
しかし「こんな山の中で」と考える時点でかみ合っていないのであって、
そんな考え方を押し付けれられてはたまらないと思うからこそ「山の中」を選んでいるのかもしれない。
自分が良いと思ったことを子供に押し付ける傾向はどこにでもあるのであって、
価値観がそう変わらないのであれば差異が露わになってもめることもないかもしれないが、
まったく相容れないほどすれ違う場合もある。

168ページ
ただ僕が恐いのは、自分が死んだ後でも、この世界で時間が続いていくことです。
しかも自分はおらんのやと思うと、本当に死ぬことが厭です。

自分が死んだ後も世界で時間が続くというのは、つまり自分の命はそれほど大切に思われていないことの証明であって、
でもいずれ誰もが死ぬというのであれば、一人として大切にされている者はいないのであって、
そうすると滅びゆく存在としてお互いを尊重したり慰めたりもできるかもしれないが、
相変わらずの日常的な自尊心を満足させるためには、互いを攻撃しあい身をすり減らす日々。
そんなことで気を抜けない暮らしの中では、自分が死んだ後のことなんて考える余裕もない。
ただ、緊張感が薄らいでリラックスした瞬間に、やがて失われてしまう取るに足らない自分の存在を明瞭に意識してしまって、
やがて訪れる「百年後の自分の不在」に気付いてしまって、
どうしようもないその寂しさを免れる手段はなくて、結局は日々の暮らしに忙殺されるしか、忘れる手段がない。
ただ一度でもそういうことがあったなら、もう二度とごまかすことは出来ない。
そうして百年後が二十年後に、十年後に、三年後に、手持ちの未来はどんどん無くなって行く。

222ページ
店先で街路を眺めている時に
突然私の身体が燃えあがった。
そして二十分間かそこいら
感じられたのだ、私の幸福があまりに大きいので、
私は祝福されており、かつは祝福もなしうると。

238ページ
遠からず死んでゆく老人なり、重病の若い人なりが、この土地にいるとしよう。現に私は、幾人もそのような人に接してきた。
その死んでゆく人に対して、私が語りかけたいと願うのは―――心から自分がそう信じていると、すっきり理解してもらうのは
難しいことで、なかなか喉から出て行かない言葉ではあるけれども―――、
自分のいのちよりも、あなたのいのちが大切だと私は思う、ということなのだ。

私が死んだ後も、世界は私の死に無関心で何事もなかったように続いて行くのだから、私の命なんて取るに足りない。
人間ひとりの命は地球より重いなんて、誰が言い出したのかは知らないが、人道的な報道のないところでは、
非合法、あるいは合法の軍事力、あるいは暴力によって、武装していない市民が虫けらのように殺されてしまう。
そうした暴力から逃れることができたとしても、病気や事故に遭ったり、
そういう一切を免れたとしても老衰によって私の命は取り上げられてしまう。
生命を自動操縦する仕掛けとしての意識であるとか自己とか、経験と推論により生き残れる確率を高める行動を決めるための仕組みが、
自分自身の死を免れることが出来ないという理不尽な事実を認識してしまうに至るのはどうしようもない不幸。
自然はそんな私たちに無頓着なのであって、私たちはお互いを救う方法を見出さなければ生きては行けない。
この小説で扱っていることはそういうことなのではないかと思う。
ドストエフスキーに似ている。

267ページ
それに対して、カジはまっすぐな怒りで涙目になってしまい、
―――これだけの数の読んだ本にしか、自分が生きた証拠はないのに! と両腕を広げて本を護ろうとする素ぶりを示した。

ブログに本の感想を書くのは、「自分が生きた証拠」を残そうということかもしれない。

344ページ
なぜかというと、そのようにしてさきのギー兄さんが殺されたのは、続いてのかれが、つまり私が、
いまここに立つことの前触れだったから。そうである以上、ここで自分が新しいギー兄さんとして殴り殺されるなら、
それもまた正しいと思う。その時、もっと確実に、さらに新しいギー兄さんがやって来ると約束されることになるから。
本当に新しい人間としての、そのギー兄さんまであなたたちが拒むことはできない・・・・・・

バプテスマのヨハネと、その非業の死を思い出した。

352ページ
私がどうしてそこまで急速に深入りして行ったのか? 考えてみてもしっかりした理由はない。
ただ自分がいま現にやっていることに深入りしてゆくほか、その手ごたえを確かめることができない。
現在のコースから離れてしまえば、その自分はマヤカシだと感じられる。
切り替えた後の方向はなにひとつ見えてこないのでもある・・・・・・

結局のところ何のプランもない。理由もない。場当たり的で、人生設計など考えたこともない。
八十歳まで生きるとして、裕福な老後をすごすためには貯金しなければならないとか、そんなこと考えたこともない。
一文無しになって、乞食になって、物乞いになって、自己責任だから仕方ないと言われて、
そんなふうに死んで行くのだろう。

367ページ
サッチャンは、「燃えあがる緑の木」という暗喩(メタファー)についていつか話してくれただろう?
片側は緑に覆われて露が滴っている木、もう片側は、それが燃え上がっている。

名古屋フィル#69チャイコフスキーヴァイオリン協奏曲ショスタコーヴィチ交響曲第12番

2017-06-04 07:22:47 | 音楽
第446回定期演奏会
吉松隆: 鳥は静かに… 作品72
チャイコフスキー: ヴァイオリン協奏曲ニ長調 作品35
ショスタコーヴィチ: 交響曲第12番ニ短調 作品112『1917年』

チャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲は非常に有名であり、
メンデルスゾーンのそれとカップリングされたLPが子供時代をすごした家のリビングの
巨大な箱を集積したステレオ装置の棚に並んでいたのを覚えている。
ソリストはハイフェッツでその印象があまりに強かったので後にCD化されたものを購入したりもした。
そんなふうにどの家庭にも一枚は常備されている曲なのでクラシック入門曲というイメージが定着してしまうのだろうか、
いつまでも聴いていると初心者みたいで恥ずかしいと思う人もいるようだ。
この日も協奏曲の演奏が終わった後の休憩時間に隣の席の二人連れの片割れが
「(クラシック聴きはじめの頃に)なんでこんなつまらない曲を熱心に聴いていたなかぁ」みたいなことを言い、
演奏直後の感動が醒めぬうちにそんなことを言われて戸惑ってしまった相手はと言うと、
「でもさっきの演奏良かったよねぇ」と一生懸命演奏してくれたオーケストラに失礼のない回答をしていた。
クーベリックのマーラーがどうだとか、インバル、バレンボイムがどうかとか、
通であることを一生懸命力説しているなんとも痛い会話がその後も続き、
「それに比べればショスタコーヴィチの12番はおもしろい」などと言っていた。
レコードやCDもいいんだけど、どうしたってコンサートホールの臨場感に比べれば足りないものがある。
楽器の形状や大きさが音質を左右してしまうのだから、ステレオ装置のスピーカーにその限界があるのは明らかだろう。
そんな私もこの曲を聴くのは実に久しぶりで十年くらい聴いていなかったのではないかと思う。
それでやはりクラシックを聴き出した頃のことを思い出していた。
汲みつくしても枯れることのない泉を掘り当てたような気がしていて、毎週新しい曲を仕入れては一生懸命聴いていた。
本を読むのと似ていて、そうして自分の知性なり感性を拡張することに喜びを感じていた。
「あの指揮者は・・・」といって語りたがる人というのもそうして自分の知っている領域が拡張されることに
喜びを感じていて、そして他人にも認めてもらいたくて、そんなふうに言ってしまうのだろう。
だが今日の私は、その頃のどんな曲にも喜びを感じたかつての自分の姿を妙にうらやましい気持ちで思い出していたのだ。
初心を持ち続けることの良さというのは確かにあるように思う。
前置きが長くなってしまったが、チャイコフスキーを聴いていて、劇的である感じることが多い。
日本語ではなくドラマティックであると言った方がイメージが合うかもしれない。
バレエ音楽「白鳥の湖」なんて映像なしでずっと聴いていられる。
あれは本当に劇的な音楽であって、すりるとサスペンスに満ちた映像を音声化したらこんなふうになるに違いない。
そしてまたメランコリックな感じがするが、そこには弱々しい陽の光を待ち焦がれている北国の憧憬が常に内在している。
雪が降りしきり風の強い白夜が続いて、ペチカを焚いて長い冬をやりすごそうとする民族に特有の、
やがて訪れる春のやわらかな陽射しに対する無条件の憧憬。
交響曲第1番「冬の日の幻想」を聴くといつもそんなふうに思う。
それがやがて憂鬱に支配されるようになったとしても始まりはそうした素朴な憧憬だったに違いない。
そういうところが好き。

ショスタコーヴィチの交響曲第12番については「しかし当局の体制に迎合した作品と見做されたために作品の評価は低く、
演奏会で取り上げられる機会は少ない」というようなことが書かれていたが、
交響曲第5番、第7番ほど露骨に支配体制に迎合しているとは感じられない面もあるのではないかと思う。
レーニンによる十月革命を扱っているということなのだが、革命を賛美し国民を鼓舞するような聴こえ方に欠けている。
ショスタコーヴィチの交響曲創作には果たして自由があったのか、一歩間違えれば粛清にあうかもしれない時代の中で、
極めて前衛的な第3番、マーラーの後継者であることを宣言しているかのような第4番、
そして批判勢力を封じ込めるような迎合的な第5番、戦争の勝利を高らかに謳い上げバルトークもあきれてしまった第7番、
二十世紀の名作とされる第13番、第14番、とても同じ作曲家の創作とは思えないようなラインナップが続く。
そうした中で革命を扱った第11番と第12番を私はずっと読み解けないでいる。
「革命のペトログラード」
「レーニンが革命の計画を練ったといわれるラズリーフ湖の畔」
「十月革命の火蓋を切った巡洋艦アヴローラ」
「人類の夜明け」
各楽章の表題はそのようになっているが曲全体を暗いモチーフが覆っている。
閉塞感に満ちたどの時代も人々は革命を夢見ては血を流し、
流された血は人類が夜明けを迎えるために必要なものであったのだと、そういうことの繰り返し。
革命の結果として生まれたスターリンの独裁を身に染みて感じてすごしてきた作曲家は、
夜明けなど決して訪れないことを見透かしているようでもある。

人生の親戚

2017-06-03 00:05:08 | 大江健三郎
144ページ
ひとつは、やはりアレ以来、私にとりついてきたイメージのかたちです。
この現実世界に知恵遅れの子供として、また下肢の動かない子供として、生きている悲惨。

先天的に、または後天的に、ハンディキャップを抱えて生きて行くということ。
自分がそのような惨めな存在であることを自覚するということの悲惨。
劣っていると自覚することを免れて生きている動物は重傷を負っても死の間際まで生きようとするが、
この先の未来にずっと横たわる悲惨を生きて行かねばならないということを予測することの出来る人間は、
抱え込んでしまったディスアドバンテージゆえに生きる気力が一切消え失せてしまって、
下肢の動かない人生を、いくらそれが現実だからといってどうしてそんなものを引き受けねばならないのか、
どうして私の人生にはそのような選択肢しか残されていないのか、
まだ何者にでもなれる可能性を秘めた少年が、どうして希望のない未来を引き受けねばならないのか、
そう考えてみると、やはり他者との優劣を気にしながらしか生きて行けない人間の真実の姿が浮き彫りになる。
未来は、将来はきっと良くなるということを信じることが出来なければ生きる理由のない人生。
一度、そういうことが失われてしまえば、死へとまっしぐら。
知恵遅れでないからといって、下肢が動かないわけではないからといって、
だが将来、もう何者にもなれないということが突き付けられたなら、
もはや希望はないのであって、そんな状態でも生きて行けるというのは、
死にたくない、消え失せたくないという恐怖があるから。
負けたくないという強い気持ちがあって、でも下肢の自由を失って、その手段が絶たれたなら、
悪意を持って自分を陥れた相手を呪ったり、そのような卑劣な人間の生存を保障する社会そのものを呪ったり、
そんな後ろ向きなことを考えても仕方ないじゃないかと優等生が言ったところで、
その子の陥った深淵を理解してやれることは出来ない。
そんなふうに思いつめて死んで行った子供たちのことを考えて、
絶望と無力感に苛まれる母親。

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そこにしゃがみ続けていたならば、私は可愛い女の子として、さっきから写真を撮っている祖父のカメラに
おさまった姿を最後に、この世から居なくなる。それはそれで、充分に生きたことにもなる、とわかっているのよ。
それ以上、いくら生きても同じことで、生き続ければ成長もあり、ムーサンと道夫くんを生み、
かれらを苦しい懊悩のあげく死なせ、その父親も、アルコールで肝臓を破壊して自滅に向かわせる・・・・・・
そういうことがあるだけだとよくわかっているんだわ。

希望がないばかりか、このまま生きて行っても癒えることのない苦しみがあるだけで、
いつか死ぬのに、この先は不幸ばかりが待ち受けているというのに、この少女はどうして生存を続けるのか。
生きることに理由なんてなくて、一生その十字架を背負い続けて行くというだけの人生。
決して他人が肩代わりすることのできない重すぎる十字架、その先の破滅、その先にきっと天国はない。
神様を信じることで救われるところへも身を委ねたりもしない。
苦しみだけを引き受けるだけの、いつ終わるとも知れない長い人生。
生きているうちに獲得できる地位や名誉とは無縁の、他者と比べることで感じられる優位などは慰めにもならない、
そのようなごまかしようのない人生。

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子供たちの悲惨な死に見たmysteryを心にきざんで、労働に献身する母親と、一緒に働く。
そうすることで、これまでどうしてもバラバラで、悪気はないが、どうかすると怠けてしまうようだった
農場の人たちに、ひとつの旗じるしがあたえられる。そういうわけです。

自意識の作用として当然のごとく、自然のままに虐げられ、蔑まれて生き続けるしかない人々。
他人の不幸にほくそ笑むような意地の悪い精神に蝕まれているような人も、
あの人よりはマシといって相対的に自分の地位を押し上げてなんとか精神のバランスを維持しているような人も、
不幸であるはずの人間が、何の見返りも求めずに労働に身を捧げる姿や、他人のために奉仕する姿を見てしまうと、
自分の身勝手さであるとか、卑小さに気付いてしまう瞬間が訪れ、勇気を与えられたような気がしてしまう。
人生の親戚が悲しみであるというのなら、その悲しみを介して人々は仲良くなれる、励ましあえる、
なんのために生きているのだかわからないと当人が思っていたとしても、
その姿を見ているだけで慰められる人間がいるのであって、
そういう人に出会えたというそれだけのことで、それが数十年前に一度だけ訪れた記憶であったとしても、
絶望から逃れるには十分な経験となるに違いなくて、
かつてそういうことがあったということを
今、思い出した。