162ページ
青年よ、祈りを忘れてはいけない。祈りをあげるたびに、それが誠実なものでさえあれば、新しい感情がひらめき、
その感情にはこれまで知らなかった新しい思想が含まれていて、それが新たにまた激励してくれるだろう。
そして、祈りが教育にほかならぬことを理解できるのだ。
「カラマーゾフの兄弟」からの引用。ゾシマ長老の説教。
信仰を持たない人間がいったい何に対して祈ればよいのだろうかと、いつもそこで止まっている。
存在しない神に対しての祈りがあったとしたなら、とても滑稽なことではないかと誰も見ていないところで恥じらいを感じもする。
それでいて、祈りとは見返りを求める行為ではないのだし、絶対者にひれ伏すことで安心を得る行為ということでもないだろうし、
祈ることに目的はなく、祈ること自体が目的であるかもしれず、ということも考える。
そして、きっと考えるからだめなのだろうというところに落ち着く。
座禅を組むというのも祈りに似た行為かもしれない。祈りも座禅も私から遠いところにある。
もやは習慣となってしまった費用対効果といった考え方に汚染されてしまっているようで、
いつも費やした時間に対する見返りを期待してしまう。
効果がないのであれば、もっと他のことに時間を使ってみたいと考えてしまうが、
集中力も運動能力も加齢と共に衰えて行くというのが残念ならが事実であって、
力を失って行くに従って無力を悟り、何者かにすがりつきたいという思いが募り、それはきっと祈りへと向かう。
そういうきっかけが良いのか悪いのかわからないが、不信心者が改心するのであれば何だって良いのかもしれない。
220ページ
それ(不幸)は単なる苦しみとはまったく別のものだ。それは魂を奪取し、奥底まで、それにしか属さぬしるし、奴隷のしるしをきざむ。
不幸のもうひとつの効果は、魂をその共犯とすることだ、少しずつ、そこに無気力の毒を注入して。
タカちゃんは大学紛争に巻き込まれて、からなずしも敵だとは思ってない側の若者から頭を傷つけられた。
そのせいで辛い病気になって、お薬の副作用で肥りにふとって、白髪頭の赤んぼうのようになって死んだのよ。
偶然に訪れる不幸によって、世界が、社会が、歴史が、神が、周りにいる一切の他人が、
「私の命」のことなんてなんとも思っていない、「私」のことなんて全然大切に思っていないという事実に気付く。
かけがえがないと信じていた私の命は無惨に扱われ、そのことを気に掛けてくれる人はただの一人もいない。
あるいは遺伝子を共有している親族であれば、私の無念を晴らしてくれるかもしれない。
でも損なわれた精神と身体は二度と回復せず、ハンディキャップを背負って生きて行くか、あるいは虫けらのように扱われる。
場合によっては病気や障害を背負っても負けずに逞しく生きている人々の美談を聞かされて、
虚無や無気力に負けるのはお前の精神が弱いからだと言って親族からも非難される。
そういう人たちは救われるのだろうか?
そんなことを考える機会があるとドストエフスキーを読んでみたくなる。
負けてたまるかということではなく、そこに描かれている不幸について、常に私たちを取り巻いている不幸について、
私たちの主人公がどのように取り組んだかということを今一度、確認したくなる。
234ページ
われわれの目の前にある、この災厄と滅亡の機械が、働きをとめるように!
原子力発電所に賛成する人は、たいてい以下のようなことを主張する。
・経済規模に見合った電力を生み出せる手段は火力と原子力だけであるが枯渇の恐れのある石油に全面的に依存するわけにはいかない。
・原子力は危険と言われているが、事故で死亡する人の割合は火力の方が高く、温室効果ガスの増加という点でも火力には問題がある。
・原子力発電を無くせば安価に電力を供給することができなくなり、したがって製造業が成り立たなくなり雇用が確保できなくなる。
また、大っぴらには言えないが、原子力技術を保有することは軍事的に極めて重要なのだろう。
他国の脅威に対抗するために原子力空母、原潜、核兵器を自国の技術で保有できるという点が重要なのだろう。
兵器を保有していなくても、その技術を保有していればいつか実現することができる。
一方、反対する人は原発をトイレのないマンションと呼んでいる。
いちおうトイレは六ケ所村にあるが、核のゴミはそこに集積され、外部から遮断された状態で放射性物質が減るのを待っている。
半減期が数十年とか数万年とか核種によって様々だが、半減期とは放射性物質が半分になるまでの期間であり、
それをすぎたからといってなくなるわけではない。半減期の二倍の期間を経過したとしても元の四分の一になるだけだ。
その保管に必要なコストを考えると安価なエネルギーというのは非常に疑わしい。
核のゴミは日本海溝に捨ててしまえという意見もあって、地震の頻発する国で地中に保管するよりは危険が少ないと思うが、
各国が海洋に不法投棄をすると収拾がつかなくなる。すでに耐用年数をすぎた旧ソ連の原潜があちこちに不法投棄されているらしい。
良い案だと思うが、残念ながら通らない。
ずっと引き継がれるべき地球や生命やエコシステムを私たちの代で終わらせるわけにはいかないと、
そういう気持ちの強い人がいて、原発については大江さんはそういうトーンで書いているのだと思う。
小惑星が衝突して地球が滅びるのは容認できるが、私たちの意思に左右されることで滅びることがあってはならないということだろうか?
物理学の発展により原子力エネルギーが見出されたこと、それが実用化されたことは果たして人間にコントロールできることだったのだろうか?
生命現象の必然として知性がもたらされ、知性の働きによって時空と物質をめぐる科学法則が見つかり、
戦争で優位になるため、他者の上に立つためにそれが実用化されたことは個人を超えた現象一般に属することに思える。
その運用を誤って滅亡することもまた・・・
258ページ
そしてついには、かわりの人間が、そのものの人間となる時が来る。ナニカ・ナニモノカそのものの到来の日。
そのものの人間とは「救い主」。そのものの人間が現れる時、それまでのかわりの人間はみな、そのものの人間と重なる。
「救い起き上がろうと主」とは、そのような綜合体としての、唯一のものにほかならない。そこに至るかわりの人間のひとりとして、
積極的に務めを引き受けよう。両膝を潰されて倒れながら、かつは幾たびもしながら、私はそう考えたのでした。
「あなたは『救い主』ですか?」という問いに対して「救い主」とされる人間はそうこたえる。
彼自身もまた「救い主」とは何なのかをよく考えてみて、どうすれば人々を救えるのか、どう振る舞えばよいのか考えてみて、
自分が果たすべき役割を実行するだけだという、ごくあたり前のことに辿り着く。
「そのものの人間」「総合であり唯一」「無限でかけがえのない存在」
有限で取るに足りない自分自身のことを思う度に「無限を構成する一要素」として無限に参加したいという切なる願い。
核兵器の脅威にさらされている時代にあっては、その「無限に至る道程」を途切れさせてはならないという気持ちがさらに強まり、
そうした彼らは経済活動を理解し得ぬ滑稽な知識人として批判の対象に挙がる。
私は無限に参加するという思想を利用して、虚無や無気力や避けられない死の不安から逃れようというのは、まやかしではないかと思っている。
それこそ遺伝子やそれが実現した自己操縦の仕掛けとしての意識にまんまと嵌められているような気がする。
何がムカつくといって遺伝子はそんなことは一切知らないということがムカつく。
そうしたことに対して新しい展開が見えて来たなら良いのだが、
相変わらず一歩も先へ進めない。
300ページ
そして、これは詩とは無関係の、むしろ逆方向の、私の妄想ともいえるものですが、私自身についていえば、
自分はこの夜の暗さのなかで待ち受ける状態のまま終るのではないか、と考えることがあります。
ギー兄さんですらそうなのではないか、とも思うのです。
「明けない夜はない」という言い方もあるが、魂がずっと暗いところを彷徨い続け、一生このままではないかと不安になる。
有機的に秩序立てられた生命の世界から、論理的に明晰な知性の世界から追いやられて、混沌の中へと戻ってしまいそうに感じる。
このまま終ってしまうという考えから逃れられないことの苦しみ。
青年よ、祈りを忘れてはいけない。祈りをあげるたびに、それが誠実なものでさえあれば、新しい感情がひらめき、
その感情にはこれまで知らなかった新しい思想が含まれていて、それが新たにまた激励してくれるだろう。
そして、祈りが教育にほかならぬことを理解できるのだ。
「カラマーゾフの兄弟」からの引用。ゾシマ長老の説教。
信仰を持たない人間がいったい何に対して祈ればよいのだろうかと、いつもそこで止まっている。
存在しない神に対しての祈りがあったとしたなら、とても滑稽なことではないかと誰も見ていないところで恥じらいを感じもする。
それでいて、祈りとは見返りを求める行為ではないのだし、絶対者にひれ伏すことで安心を得る行為ということでもないだろうし、
祈ることに目的はなく、祈ること自体が目的であるかもしれず、ということも考える。
そして、きっと考えるからだめなのだろうというところに落ち着く。
座禅を組むというのも祈りに似た行為かもしれない。祈りも座禅も私から遠いところにある。
もやは習慣となってしまった費用対効果といった考え方に汚染されてしまっているようで、
いつも費やした時間に対する見返りを期待してしまう。
効果がないのであれば、もっと他のことに時間を使ってみたいと考えてしまうが、
集中力も運動能力も加齢と共に衰えて行くというのが残念ならが事実であって、
力を失って行くに従って無力を悟り、何者かにすがりつきたいという思いが募り、それはきっと祈りへと向かう。
そういうきっかけが良いのか悪いのかわからないが、不信心者が改心するのであれば何だって良いのかもしれない。
220ページ
それ(不幸)は単なる苦しみとはまったく別のものだ。それは魂を奪取し、奥底まで、それにしか属さぬしるし、奴隷のしるしをきざむ。
不幸のもうひとつの効果は、魂をその共犯とすることだ、少しずつ、そこに無気力の毒を注入して。
タカちゃんは大学紛争に巻き込まれて、からなずしも敵だとは思ってない側の若者から頭を傷つけられた。
そのせいで辛い病気になって、お薬の副作用で肥りにふとって、白髪頭の赤んぼうのようになって死んだのよ。
偶然に訪れる不幸によって、世界が、社会が、歴史が、神が、周りにいる一切の他人が、
「私の命」のことなんてなんとも思っていない、「私」のことなんて全然大切に思っていないという事実に気付く。
かけがえがないと信じていた私の命は無惨に扱われ、そのことを気に掛けてくれる人はただの一人もいない。
あるいは遺伝子を共有している親族であれば、私の無念を晴らしてくれるかもしれない。
でも損なわれた精神と身体は二度と回復せず、ハンディキャップを背負って生きて行くか、あるいは虫けらのように扱われる。
場合によっては病気や障害を背負っても負けずに逞しく生きている人々の美談を聞かされて、
虚無や無気力に負けるのはお前の精神が弱いからだと言って親族からも非難される。
そういう人たちは救われるのだろうか?
そんなことを考える機会があるとドストエフスキーを読んでみたくなる。
負けてたまるかということではなく、そこに描かれている不幸について、常に私たちを取り巻いている不幸について、
私たちの主人公がどのように取り組んだかということを今一度、確認したくなる。
234ページ
われわれの目の前にある、この災厄と滅亡の機械が、働きをとめるように!
原子力発電所に賛成する人は、たいてい以下のようなことを主張する。
・経済規模に見合った電力を生み出せる手段は火力と原子力だけであるが枯渇の恐れのある石油に全面的に依存するわけにはいかない。
・原子力は危険と言われているが、事故で死亡する人の割合は火力の方が高く、温室効果ガスの増加という点でも火力には問題がある。
・原子力発電を無くせば安価に電力を供給することができなくなり、したがって製造業が成り立たなくなり雇用が確保できなくなる。
また、大っぴらには言えないが、原子力技術を保有することは軍事的に極めて重要なのだろう。
他国の脅威に対抗するために原子力空母、原潜、核兵器を自国の技術で保有できるという点が重要なのだろう。
兵器を保有していなくても、その技術を保有していればいつか実現することができる。
一方、反対する人は原発をトイレのないマンションと呼んでいる。
いちおうトイレは六ケ所村にあるが、核のゴミはそこに集積され、外部から遮断された状態で放射性物質が減るのを待っている。
半減期が数十年とか数万年とか核種によって様々だが、半減期とは放射性物質が半分になるまでの期間であり、
それをすぎたからといってなくなるわけではない。半減期の二倍の期間を経過したとしても元の四分の一になるだけだ。
その保管に必要なコストを考えると安価なエネルギーというのは非常に疑わしい。
核のゴミは日本海溝に捨ててしまえという意見もあって、地震の頻発する国で地中に保管するよりは危険が少ないと思うが、
各国が海洋に不法投棄をすると収拾がつかなくなる。すでに耐用年数をすぎた旧ソ連の原潜があちこちに不法投棄されているらしい。
良い案だと思うが、残念ながら通らない。
ずっと引き継がれるべき地球や生命やエコシステムを私たちの代で終わらせるわけにはいかないと、
そういう気持ちの強い人がいて、原発については大江さんはそういうトーンで書いているのだと思う。
小惑星が衝突して地球が滅びるのは容認できるが、私たちの意思に左右されることで滅びることがあってはならないということだろうか?
物理学の発展により原子力エネルギーが見出されたこと、それが実用化されたことは果たして人間にコントロールできることだったのだろうか?
生命現象の必然として知性がもたらされ、知性の働きによって時空と物質をめぐる科学法則が見つかり、
戦争で優位になるため、他者の上に立つためにそれが実用化されたことは個人を超えた現象一般に属することに思える。
その運用を誤って滅亡することもまた・・・
258ページ
そしてついには、かわりの人間が、そのものの人間となる時が来る。ナニカ・ナニモノカそのものの到来の日。
そのものの人間とは「救い主」。そのものの人間が現れる時、それまでのかわりの人間はみな、そのものの人間と重なる。
「救い起き上がろうと主」とは、そのような綜合体としての、唯一のものにほかならない。そこに至るかわりの人間のひとりとして、
積極的に務めを引き受けよう。両膝を潰されて倒れながら、かつは幾たびもしながら、私はそう考えたのでした。
「あなたは『救い主』ですか?」という問いに対して「救い主」とされる人間はそうこたえる。
彼自身もまた「救い主」とは何なのかをよく考えてみて、どうすれば人々を救えるのか、どう振る舞えばよいのか考えてみて、
自分が果たすべき役割を実行するだけだという、ごくあたり前のことに辿り着く。
「そのものの人間」「総合であり唯一」「無限でかけがえのない存在」
有限で取るに足りない自分自身のことを思う度に「無限を構成する一要素」として無限に参加したいという切なる願い。
核兵器の脅威にさらされている時代にあっては、その「無限に至る道程」を途切れさせてはならないという気持ちがさらに強まり、
そうした彼らは経済活動を理解し得ぬ滑稽な知識人として批判の対象に挙がる。
私は無限に参加するという思想を利用して、虚無や無気力や避けられない死の不安から逃れようというのは、まやかしではないかと思っている。
それこそ遺伝子やそれが実現した自己操縦の仕掛けとしての意識にまんまと嵌められているような気がする。
何がムカつくといって遺伝子はそんなことは一切知らないということがムカつく。
そうしたことに対して新しい展開が見えて来たなら良いのだが、
相変わらず一歩も先へ進めない。
300ページ
そして、これは詩とは無関係の、むしろ逆方向の、私の妄想ともいえるものですが、私自身についていえば、
自分はこの夜の暗さのなかで待ち受ける状態のまま終るのではないか、と考えることがあります。
ギー兄さんですらそうなのではないか、とも思うのです。
「明けない夜はない」という言い方もあるが、魂がずっと暗いところを彷徨い続け、一生このままではないかと不安になる。
有機的に秩序立てられた生命の世界から、論理的に明晰な知性の世界から追いやられて、混沌の中へと戻ってしまいそうに感じる。
このまま終ってしまうという考えから逃れられないことの苦しみ。