ちくま文庫 宮沢賢治全集6を読んだ。
【革トランク】
「革トランク」という表題だが、母病気の報に応じて同じような革トランクに童話の原稿を詰めて帰郷した
賢治自身の姿に捉われてはいけないと解説に書いてあった。
【おきなぐさ】
「うずのしゅげは、植物学ではおきなぐさと呼ばれます」ということだ。
「誰だってきらひなものはありません」ということだ。
【黄いろのトマト】
『何だ。この餓鬼め。人をばかにしやがるな。トマト二つで、この大入の中へ汝たちを
押し込んでやってたまるか。失せやがれ、畜生。』
そしてトマトを投げつけた。あの黄のトマトをなげつけたんだ。その一つはひどくネリの耳にあたり、
ネリはわっと泣き出し、みんなはどっと笑ったんだ。ペムペルはすばやくネリをさらうように抱いて、
そこを遁げ出した。
みんなの笑い声が波のように聞えた。
まっくらな丘の間まで遁げて来たとき、ペムペルも俄かに高く泣き出した。ああいうかなしいことを、
お前はきっと知らないよ。
蜂雀はそんなふうにして「かあいさうなことをした」と語る。
「この悲しさはひと口に説明しにくい」
「ペムペルたちを泣かせたのは『黄いろのトマト』を作品として成り立たせた核心そのものなのである」と
解説に書かれているが、その核心というのは何なのだろうか?
子供が初めて出くわした悪意のことだろうか?
それまで疑いもなく漠然と信じていたことが他者によって、大人によって一蹴されてしまう。
それに馴染んでしまえば悪意と呼ぶことも憚られる自分たちがかつて抱いたことのない感情に出会って
何かが損なわれてしまう。そのことが「かあいさう」かもしれない。
【チュウリップの幻術】
チュウリップ酒に悪酔いしてしまったのか、チュウリップの幻術にかかってしまったのか、
そこのところがよくわからない。
【化物丁場】
「砂利を盛り直しても、乱杭を打っても、雨が降ると崩れてしまう」ような処を「化物丁場」と呼んでいる。
どことなくグロテスクな感じがする。それに関わった人は皆、生きているように感じるのだろう。
【ビヂテリアン大祭】
「「◎偏狭非学術的なビジテリアンを排せ。
ビジテリアンの主張は全然誤謬ごびゅうである。今この陰気な非学術的思想を動物心理学的に批判して見よう。
ビジテリアンたちは動物が可哀そうだから食べないという。動物が可哀そうだということがどうしてわかるか。
ただこっちが可哀そうだと思うだけである。全体豚ぶたなどが死というような高等な観念を持っているものではない。
あれはただ腹が空へった、かぶらの茎くき、噛かみつく、うまい、厭あきた、ねむり、起きる、鼻がつまる、
ぐうと鳴らす、腹がへった、麦糠むぎぬか、たべる、うまい、つかれた、ねむる、という工合ぐあいに
一つずつの小さな現在が続いて居るだけである。」
人間ひとりの命は地球より重いというようなことも言われる。人権を護るとか。人格とか。
人格と呼ばれるものは連続体であって、体験したことを時系列に記憶している者の名称であり、
身体の操作に関わる直接的な体験や読書のような間接的な体験を元に次の瞬間の行動を決める者の名称である。
そうした「途切れることのない連続的な現在」が豚の「一つずつの小さな現在」よりも尊いと考えられているのだが、
過去の体験から未来の行動をシミュレーションすることが尊いということなのだろうか?
結局のところ過去と未来の行動を紐付けるために必要となった「私」という虚構が尊いのだと、
それが人権であると、自然が生き物を自動操縦するために与えた意識という仕掛けが尊いのだと、
そんなことを言っているだけかもしれない。
本当に尊い人格というものが、百年未満しか維持されず、やがて無に帰るというのは矛盾している。
現在を生き延びることが出来ているので人口の大部分は不平を言わないのだが、
寿命が訪れて死んで行く者たちが各々言葉を残して行くというのであれば、
世界はどの時代にあっても死んで行く者の悲鳴であるとか不平不満に満ちているだろう。
「◎偏狭非学術的なビジテリアンを排せ。
ビジテリアンの主張は全然誤謬ごびゅうである。今これを生物分類学的に簡単に批判して見よう。
ビジテリアンたちは、動物が可哀そうだという、一体どこ迄までが動物でどこからが植物であるか、
牛やアミーバーは動物だからかあいそう、バクテリヤは植物だから大丈夫だいじょうぶというのであるか。
バクテリヤを植物だ、アミーバーを動物だとするのは、ただ研究の便宜べんぎ上、勝手に名をつけたものである。
動物には意識があって食うのは気の毒だが、植物にはないから差し支つかえないというのか。
なるほど植物には意識がないようにも見える。けれどもないかどうかわからない、あるようだと思って見ると
又また実にあるようである。元来生物界は、一つの連続である、動物に考があれば、植物にもきっとそれがある。
ビジテリアン諸君、植物をたべることもやめ給たまえ。諸君は餓死する。又世界中にもそれを宣伝したまえ。
二十億人がみんな死ぬ。大へんさっぱりして諸君の御希望に叶かなうだろう。そして、そのあとで動物や植物が、
お互同志食ったり食われたりしていたら、丁度いいではないか。」
動物だから可哀想とか、植物だから食べてもOKというのは、あまり根拠のないことかもしれない。
可哀想といった考え方は、食う食われるの関係で発展し、その種類を増してきた生物界全体から見ると、
取るに足らない考え方かもしれない。
人間を除いた生物界は、可哀想だとか思うことも無く、ひたすらに食う食われるの関係を継続している。
そして人間がいなくなったとしたら、いっそうそうなのだ。
【土神ときつね】
「土神はたまらなさうに両手で髪を掻かきむしりながらひとりで考へました。
おれのこんなに面白くないといふのは第一は狐きつねのためだ。狐のためよりは樺の木のためだ。
狐と樺の木とのためだ。けれども樺の木の方はおれは怒ってはゐないのだ。
樺の木を怒らないためにおれはこんなにつらいのだ。
樺の木さへどうでもよければ狐などはなほさらどうでもいゝのだ。おれはいやしいけれどもとにかく神の分際だ。
それに狐のことなどを気にかけなければならないといふのは情ない。それでも気にかゝるから仕方ない。
樺の木のことなどは忘れてしまへ。ところがどうしても忘れられない。今朝は青ざめて顫ふるへたぞ。
あの立派だったこと、どうしても忘られない。おれはむしゃくしゃまぎれにあんなあはれな人間などをいぢめたのだ。
けれども仕方ない。誰たれだってむしゃくしゃしたときは何をするかわからないのだ。」
こうした土神の心情を淡々と記述できるということは、
賢治自身に土神と同じような負の感情とか負の資質があるということかもしれない。
作家は様々な資質を、様々な人格を操る。
【林の底】
「ところが早くも鳥類のこのもやうを見てとんびが染屋を出しました。」
私はやっぱりとんびの染屋のことだったと思はず笑ってしまひました。
はねの色がみんな同じで白かった鳥たちをとんびが染めるという楽しいお話で
オチはたいてい決まっている。
『ふん、さうだな。一体どう云ふふうに染めてほしいのだ。』
烏は少し怒りをしづめました。
『黒と紫で大きなぶちぶちにしてお呉れ。友禅模様のごくいきなのにしてお呉れ。』
とんびがぐっとしゃくにさはりました。そしてすぐ立ちあがって云ひました。
『よし、染めてやらう。よく息を吸ひな。』
烏もよろこんで立ちあがり、胸をはって深く深く息を吸ひました。
『さあいゝか。眼をつぶって。』とんびはしっかり烏をくはへて、墨壺の中にざぶんと入れました。
からだ一ぱい入れました。烏はこれでは紫のぶちができないと思ってばたばたばたばたしましたが
とんびは決してはなしませんでした。そこで烏は泣きました。泣いてわめいてやっとのことで
壺からあがりはしましたがもうそのときはまっ黒です。烏は怒ってまっくろのまま染物小屋をとび出して、
仲間の鳥のところをかけまはり、とんびのひどいことを云ひつけました。
ところがそのころは鳥も大ていはとんびをしゃくにさはってましたから、みな一ぺんにやって来て、
今度はとんびを墨つぼに漬けました。鳶はあんまり永くつけられたのでたうとう気絶をしたのです。
鳥どもは気絶のとんびを墨のつぼから引きあげて、どっと笑ってそれから染物屋の看板を
くしゃくしゃに砕いて引き揚げました。
とんびはあとでやっとのことで、息はふき返しましたが、もうからだ中まっ黒でした。
そういうことで、烏もとんびもまっ黒になりました。
友禅模様でも良かったけど。
【マグノリアの木】
(これがお前の世界なのだよ、お前に丁度あたり前の世界なのだよ。
それよりもっとほんたうはこれがお前の中の景色なのだよ。)
丁度あたり前の世界とか、お前の中の景色とか、そういうものを相手にして私たちは一生を過ごす。
その世界や景色というものは、資質によっても環境によっても違って見える。
同じ景色がずっと続いたとしても、丁度あたり前の世界であり、
違う景色が見えるようになるのであれば、それもまた丁度あたり前の世界ということだろう。
景色を取り替えようとする試みは自分自身を取り替える試みと同じになるのだと思う。
いつか「ほんたう」の景色が見えるようになるかということではなくて、
今、見えている景色が「ほんたう」のものだ。
その「ほんたう」が変って行くのだ。
【インドラの網】
「ごらん、そら、インドラの網を。」
私は空を見ました。いまはすっかり青ぞらに変ったその天頂から四方の青白い天末まで
いちめんはられたインドラのスペクトル製の網、その繊維は蜘蛛くものより細く、
その組織は菌糸より緻密に、透明清澄で黄金でまた青く幾億互に交錯し光って顫えて燃えました。
ググると以下のような説明があった。
「インドラの網は,インドの勇猛な神「帝釈天」の宮殿にかけられた,巨大な球状の網のこと.
その結び目には,美しい水晶の宝珠が縫い込まれ,全体が宇宙そのものを表現しているとされる.
また宝珠の一つひとつが他の一切の宝珠を映し込んでいることから,
ひとつの宝珠に宇宙のすべてが収まっている,というようにも考える」
画像検索結果は以下の通り。
インドラの網
【雁の童子】
そのとき俄かに向うから、黒い尖った弾丸が昇って、まっ先きの雁の胸を射ました。
雁は二、三べん揺らぎました。見る見るからだに火が燃え出し、世にも悲しく叫びながら、
落ちて参ったのでございます。
弾丸がまた昇って次の雁の胸をつらぬきました。それでもどの雁も、遁げはいたしませんでした。
却って泣き叫びながらも、落ちて来る雁に随いました。
第三の弾丸が昇り、
第四の弾丸がまた昇りました。
六発の弾丸が六疋の雁を傷つけまして、一ばんしまいの小さな一疋だけが、
傷つかずに残っていたのでございます。燃え叫ぶ六疋は、悶えながら空を沈み、
しまいの一疋は泣いて随い、それでも雁の正しい列は、決して乱れはいたしません。
そのとき須利耶さまの愕ろきには、いつか雁がみな空を飛ぶ人の形に変っておりました。
赤い焔に包まれて、歎き叫んで手足をもだえ、落ちて参る五人、それからしまいに只一人、
完いものは可愛らしい天の子供でございました。
そして須利耶さまは、たしかにその子供に見覚えがございました。最初のものは、
もはや地面に達しまする。それは白い鬚の老人で、倒れて燃えながら、骨立った両手を合せ、
須利耶さまを拝むようにして、切なく叫びますのには、
(須利耶さま、須利耶さま、おねがいでございます。どうか私の孫をお連つれ下さいませ。)
(私共は天の眷属でございます。罪があってただいままで雁の形を受けておりました。
只今報いを果たしました。私共は天に帰ります。ただ私の一人の孫はまだ帰れません。
これはあなたとは縁のあるものでございます。どうぞあなたの子にしてお育そだてを願います。
おねがいでございます。)と斯うでございます。
罪の報いを果たしたというのは、弾丸に胸を貫かれるということだろうか。
【三人兄弟の医者と北守将軍】
そのときバアユウ先生は
丁度一ぴきの首巻の
年寄りの馬を診てゐ、たのだ。
「せきは夜にも出ますかね。」
「どうも出ますよ、ごほん、ごほん。」
「ずゐぶん胸が痛みますか。」
「イヒン、ヒン、ヒン、ヒン、ヒン。」
「ずゐぶん胸が痛みますか。」
「イヒン、ヒン、ヒン、ヒン、ヒン。」
「どうです胸が痛みますか。」
「痛みます、ごほん、ごほん、ごほん」
「たべものはおいしいですか。」
「イヒン、ヒン、ヒン、ヒン、ヒン。」
医者と馬とで会話が成り立っている。
「イヒン、ヒン、ヒン、ヒン、ヒン。」
わかるんか・・・
【学者アラムハラドの見た着物】
小さなセララバアドは少しびっくりしたようでしたがすぐ落ちついて答えました。
「人はほんとうのいいことが何だかを考えないでいられないと思います。」
【ガドルフの百合】
「どなたですか。今晩は。どなたですか。今晩は。」
向うのぼんやり白いものは、かすかにうごいて返事もしませんでした。却って注文通りの電光が、
そこら一面ひる間のようにしてくれたのです。
「ははは、百合の花だ。なるほど。ご返事のないのも尤もだ。」
ガドルフの笑い声は、風といっしょに陰気に階段をころげて昇って行きました。
【楢ノ木大学士の野宿】
「十万何千年前とかがどうしたの。もっと前のことさ、十万百万千万年、千五百の万年の前のあの時を
お前は忘れてしまってゐるのかい。まさか忘れはしないだらうがね。忘れなかったら今になって、
僕の横腹を肱で押すなんて出来た義理かい。」
大学士はこの語を聞いて
すっかり愕ろいてしまふ。
「どうも実に記憶のいゝやつらだ。えゝ、千五百の万年の前のその時をお前は忘れてしまってゐるのかい。
まさか忘れはしないだらうがね、えゝ。これはどうも実に恐れ入ったね、いったい誰だ。変に頭のいゝやつは。」
大学士は又そろそろと起きあがり
あたりをさがすが何もない。
「さやう、病人が病名を知らなくてもいゝのですがまあ蛭石病の初期ですね、所謂ふう病の中の一つ。
俗にかぜは万病のもとと云ひますがね。それから、えゝと、も一つのご質問はあなたの命でしたかね。
さやう、まあ長くても一万年は持ちません。お気の毒ですが一万年は持ちません。」
鉱物を相手にするのなら、一万年とか十万年というスケールで話をするのかもしれない。
自己複製する分子が生命の起源であるという話があった。
生命の誕生以前には鉱物であるとか結晶であるとか安定的に世界にその姿を維持できる分子が
ショウペンハウアーの言う意志という意味で世界あるいは宇宙に存在を続けていた。
その後、生きている間にはエントロピー増大の法則に逆らって秩序を蓄積して行く存在であるところの生命が、
その無機質な世界を塗り替えた。
だが有機物がその形を留めることの出来る期間は限られていて、
そこからさらに発展した意識を持った生き物にとっても一万年には手が届かなくて、
鉱物たちが居眠りをしている間に、いなくなってしまうのだろう。
【葡萄水】
それから二人はせっせと汁を瓶につめて栓をしました。麦酒瓶二十本ばかり出来あがりました。
「特製御葡萄水」といふ、去年のはり紙のあるのもあります。このはり紙はこの辺で共同でこしらへたのです。
これをはって売るのです。さやう、去年はみんなで四十本ばかりこしらへました。
もちろん砂糖は入れませんでした。砂糖を入れると酒になるので、罰金です。
「密造酒」の話
【みじかい木ぺん】
算術も作文も図画もうまくできるようになる木ぺん(鉛筆)の話
ドラえもん的な終り方をする。
【バキチの仕事】
馬もびっくりしましたぁね、(おいどいつだい、何の用だい。)おどおどしながらはね起きて
身構えをして斯うバキチに訊いたってんです。
(誰でもないよ、バキチだよ、もと巡査だよ、知らんかい。)バキチが横木の下の所で腹這いのまま云いました。
(さあ、知らないよ、バキチだなんて。おれは一向知らないよ。)と馬が云いました。
【サガレンと八月】
「何の用でここへ来たの、何かしらべに来たの、何かしらべに来たの。」
「何してるの、何を考えてるの、何か見ているの、何かしらべに来たの。」
風がそんなふうにして語りかけてくるということだ。あるいは波もそうかもしれない。
現象が苦もなく文章に転換される。
【台川】
野外授業の一部始終が描かれている。
黒曜石、流紋凝灰岩、凝灰質礫岩、玻璃蛋白石、緑簾石・・・
【イーハトーボ農学校の春】
授業風景が描かれている。
【イギリス海岸】
この作品に書かれた岸辺は「イギリス海岸」という名の観光名所になったのだという。
【耕耘部の時計】
さあ、その時です。いままで五時五十分を指してゐた長い針が俄かに電のやうに飛んで、
一ぺんに六時十五分の所まで来てぴたっととまりました。
「何だ、この時計、針のねぢが緩んでるんだ。」
「今朝は進んでさっきは合ひ、今度は十五分おくれてゐる」と思っていたら、
針のねじが緩んでいたのだった。
【さいかち淵】
「花巻に実在するさいかち淵で遊ぶ子どもらの観察がもとになっている」のだという。
【タネリはたしかにいちにち嚙んでゐたやうだった】
「藤蔓みんな噛じって来たか。」
「うんにゃ、どこかへ無くしてしまったよ。」タネリがぼんやり答えました。
「仕事に藤蔓噛みに行って、無くしてくるものあるんだか。今年はおいら、おまえのきものは、
一つも編んでやらないぞ。」お母っかさんが少し怒って云いました。
「うん。けれどもおいら、一日噛んでいたようだったよ。」
タネリが、ぼんやりまた云いました。
「そうか。そんだらいい。」お母っかさんは、タネリの顔付きを見て、安心したように、
またこならの実を搗きはじめました。
解説によると「こならの実はよほどの時でなければ食べない食料であり、飢饉の指標である」ということだ。
【黒ぶだう】
仔牛と狐という対照的かつ典型的な二人が登場する
【車】
「日雇労働者の一日の体験がユーモラスにしかし一抹の哀愁を伴って描き出される」ということだ。
【氷と後光】
「あら、この子の頭のとこで氷が後光のやうになってますわ。」若いお母さんはそっと云ひました。
若いお父さんはちょっとそっちを見て、それから少し泣くやうにわらひました。
「この子供が大きくなってね、それからまっすぐに立ちあがってあらゆる生物のために、無上菩提を求めるなら、
そのときは本當にその光がこの子に來るのだよ。それは私たちには何だかちょっとかなしいやうにも思はれるけれども、
もちろんさう祈らなければならないのだ。」
若いお母さんはだまって下を向いてゐました。
こどもは苹果を投げるやうにしてバアと云ひました。すっかりひるまになったのです。
「あらゆる生物のために、無上菩提を求める」というのはどうなんだろう?
本当に親が子にそんなことを願ったりするのだろうか?
【四又の百合】
「正徧知はあしたの朝の七時ごろヒームキャの河をおわたりになってこの町にいらっしゃるそうだ」
こう言う語がすきとおった風といっしょにハームキャの城の家々にしみわたりました。
「ハームキャ」というのは花巻のことだろうか?
【虔十公園林】
「虔十、貴きさんどごの杉伐きれ。」
「何なしてな。」
「おらの畑ぁ日かげにならな。」
虔十はだまって下を向きました。平二の畑が日かげになると云ったって杉の影がたかで
五寸もはいってはいなかったのです。おまけに杉はとにかく南から来る強い風を防いでいるのでした。
「伐れ、伐れ。伐らなぃが。」
「伐らなぃ。」虔十が顔をあげて少し怖こわそうに云いました。その唇くちびるはいまにも泣き出しそうに
ひきつっていました。実にこれが虔十の一生の間のたった一つの人に対する逆らいの言ことばだったのです。
・・・
さて虔十はその秋チブスにかかって死にました。平二も丁度その十日ばかり前にやっぱりその病気で死んでいました。
ところがそんなことには一向構わず林にはやはり毎日毎日子供らが集まりました。
「ああそうそう、ありました、ありました。その虔十という人は少し足りないと私らは思っていたのです。
いつでもはあはあ笑っている人でした。毎日丁度この辺に立って私らの遊ぶのを見ていたのです。
この杉もみんなその人が植えたのだそうです。ああ全くたれがかしこくたれが賢かしこくないかはわかりません。
ただどこまでも十力じゅうりきの作用は不思議です。ここはもういつまでも子供たちの美しい公園地です。
どうでしょう。ここに虔十公園林と名をつけていつまでもこの通り保存するようにしては。」
「子供たちの美しい公園地」になると虔十が考えて身体を張ったかどうかはよくわからない。
虔十本人にもよくわからなかったという気がする。
きっと信念を貫く人の意志のようなものとは違った自然的な力(十力の作用)のようなものがあるのだろう。
賢治は虔十(けんじゅう)に自分を重ねていたということだ。
賢治の詩や童話は「子供たちの美しい公園地」になった。一方で短歌や文語詩はその価値が定まっていない。
私たちが死んでしまった後のずっと未来に、その真価が認められるのかもしれない。
自らの生存のためだけに、栄華のためだけに、保身のためだけに生きるのであれば、そういうことは起こらない。
何かしら与えたいという、何かしら伝えたいという思いが、いつか十力の作用と結びつき、
新しい価値を遍く世界に知らしめる。
【祭の晩】
「おじいさん、山男はあんまり正直でかあいそうだ。僕何かいいものをやりたいな」
「うん、今度夜具を一枚持って行ってやろう。山男は夜具を綿入の代りに着るかも知れない。それから団子も持って行こう」
亮二は叫びました。
「着物と団子だけじゃつまらない。もっともっといいものをやりたいな。山男が嬉うれしがって泣いてぐるぐるはねまわって、
それからからだが天に飛んでしまうくらいいいものをやりたいなあ」
あんまり正直だと「かあいそう」ということだ。
正直者は疑ったりはしないので、実際に「かあいそう」なのは、「正直者をかあいさう」と思う人間かもしれない。
正しく生きようと思っても、一方では騙されて損をしてしまうと考えてしまう。
それが「かあいそう」だ。
【紫紺染について】
「ええと、失礼ですが山男さん、あなたはおいくつでいらっしゃいますか。」
「二十九です。」
「お若いですな。やはり一年は三百六十五日ですか。」
「一年は三百六十五日のときも三百六十六日のときもあります。」
「あなたはふだんどんなものをおあがりになりますか。」
「さよう。栗の実やわらびや野菜です。」
「野菜はあなたがおつくりになるのですか。」
「お日さまがおつくりになるのです。」
野菜は「お日さまがおつくりになる」ということだ。
なるほど・・・
原発を無くすために太陽光発電をしようというのは、根本的なところで原発推進派と同じではないだろうか?
「お日さまがおつくりになる」なんて決して考えない。
【毒もみのすきな署長さん】
「さて署長さんは縛られて、裁判にかかり死刑ということにきまりました。
いよいよ巨きな曲った刀で、首を落されるとき、署長さんは笑って云いました。
「ああ、面白かった。おれはもう、毒もみのことときたら、全く夢中なんだ。
いよいよこんどは、地獄で毒もみをやるかな。」
みんなはすっかり感服しました。
署長さんの徹底した探究心に「みんなはすっかり感服しました」ということだ。
人の興味がどの方向に向くのかよくわからないが、何かしらそれが徹底されていると「みんな」は感服する。
夢中になれるものがあることが「さいはひ」ではないかと思う。