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140億年の孤独

日々感じたこと、考えたことを記録したものです。

宮沢賢治全集10

2016-02-20 00:05:04 | 宮沢賢治
ちくま文庫 宮沢賢治全集10を読んだ。本書には農民芸術概論・手帳・ノート他が収められている。
農民芸術概論以外に読むものはあまりない。
「雨ニモマケズ手帳」に書かれていることに興味があるといった生粋の賢治ファンでない限り、
購入は控えた方がよいと思う。(私は全巻図書館から借りた。1~8巻の購入を検討中)

【農民芸術の興隆】
……何故われらの芸術がいま起らねばならないか……

曾つてわれらの師父たちは乏しいながら可成楽しく生きてゐた
そこには芸術も宗教もあった
いまわれらにはただ労働が 生存があるばかりである
宗教は疲れて近代科学に置換され然も科学は冷く暗い
芸術はいまわれらを離れ然もわびしく堕落した
いま宗教家芸術家とは真善若くは美を独占し販るものである
われらに購ふべき力もなく 又さるものを必要とせぬ
いまやわれらは新たに正しき道を行き われらの美をば創らねばならぬ
芸術をもてあの灰色の労働を燃せ
ここにはわれら不断の潔く楽しい創造がある
都人よ 来ってわれらに交れ 世界よ 他意なきわれらを容れよ

これは梅原猛の授業 仏教でも引用されていた。

「いまわれらにはただ労働が 生存があるばかりである」
私たちはただ生き延びるために働いている。
「職業は便宜的な結婚のようなものであってはならない」と言う人もいるが、
私たちは生存を継続するために不本意な労働に従事している。
それはイエスを試した悪魔が小躍りして喜ぶであろうパンのための労働だろう。
人間は食うためだったら何でもする。「わんと云え」と言われれば「わん」と言う。
そんなことがずっと続いている。
生きるために労働が必要でなかったとしたら人々の間に支配関係は成立せず、
上下関係はなく、法は意味をなさず、秩序すらなかったかもしれない。
食えなくなるぞという脅しが社会では必要とされている。
「それだけではない」と私たちは反逆を試みる。

「こんな世の中に心象スケッチなんといふものを、大衆めあてで決して書いてゐる次第ではありません。
全くさびしくてたまらず、美しいものがほしくてたまらず、ただ幾人かの完全な同感者から
『あれはさうですね。』といふやうなことを、ぽつんと云はれる位が
まづのぞみといふところです。」

私たちが求めている芸術とか美とか美しいものに接する態度は、
そういうものに違いない。

宮沢賢治全集9

2016-02-13 00:05:17 | 宮沢賢治
ちくま文庫 宮沢賢治全集9を読んだ。本書には書簡が収められている。

75ページ
けれども誰とて一度虚无思想に洗礼されなくて本当に一切を肯定することができませうか。

虚无は虚無であり、虚无思想はニヒリズムを指している。
明日も生きているという前提がないと現在を生きられない私たちが
日頃から忌み嫌っている虚無主義のことだ。
1918年の手紙に書かれているので1896年生まれの賢治が22才頃のことになる。
虚無は否定できないので洗礼されるというしかない。
まったくその通りだ。

79ページ
南無妙法蓮華経と一度叫ぶときには世界は我と共に不可思議の光に包まれるのです。

認識を捨てて主客が一になることを仏教は目指している。
その時には世界と我の区別はなくなるだろう。
だがその状態を保ったままだと私たちは生き延びることが出来ない。

90ページ
食われる魚がもし私のうしろに居て見てゐたら何と思ふでせうか。
「この人は私の唯一の命をすてたそのからだをまづさうに食ってゐる。」
「怒りながら食ってゐる。」
「やけくそで食ってゐる。」
「私のことを考へてしづかにそのあぶらを舌に味ひながらさかなよおまへもいつか
私のつれになって一緒に行かうと祈ってゐる。」
「何だ、おらのからだを食ってゐる。」
まあさかなによって色々に考へるのでせう。

この手紙の延長上に「フランドン農学校の豚」「ビジテリアン大祭」が出来たのかもしれない。
生き物を自動操縦する仕掛けとして意識を生み出した自然(遺伝子)は
意識を持った存在が食われる時の苦痛を考慮したりはしなかった。
彼らには意識がないので当然か・・・

142ページ
今来年中に読まうと思ってゐる本は
日下部氏、物理汎論 上下
・化学量論、周期律等の著述
・解析幾何、
・無機化学、(非金属元素)
・独英対照の何か。

科学の本を読んでいるようだ。
岩石や鉱物ではなく基礎的な物理や化学の本が列挙されている。

146ページ
熱の型はチブスに類する事

大正7年(1918年)末から翌年にかけて妹トシの病状を父親に報告するための手紙が頻繁に書かれている。
この時は回復したようだが、大正11年11月27日にトシは亡くなった。

242ページ
今度私は国柱会信行部に入会しました。即ち最早私の身命は日蓮聖人の御物です。

271ページ
図書館へ行って見ると毎日百人位の人が「小説の作り方」或は「創作への道」といふやうな本を
借りようとしてゐます。なるほど書く丈けなら小説ぐらゐ雑作ないものはありませんからな。
うまく行けば島田清次郎氏のやうに七万円位忽ちもうかる、天才の名はあがる。どうです。
私がどんな顔をしてこの中で原稿を書いたり綴ぢたりしてゐるとお思ひですか。
どんな顔もして居りません。

当時、島田清次郎の「地上」という小説がベストセラーになったそうだ。
賢治の生前に発表された本は「春と修羅」「注文の多い料理店」だけでそれも売れなかった。
死後の名声を彼は確信していただろうか?
「私がどんな顔をしてこの中で原稿を書いたり綴ぢたりしてゐるとお思ひですか」
作家で生計を立てたいという望みはあったに違いないが
叶えられることはなかった。

274ページ
私は愚かなものです。何も知りません。ただこの事を伝へるときは如来の使と心得ます。
保坂さん。この経に帰依して下さい。総ての覚者(仏)はみなこの経に依て悟ったのです。

親友に対してかなり露骨な勧誘をしている。「保坂さん」は嫌な思いをしたに違いない。
宗教を押し付けてもたいていは拒否される。
みんな無邪気に「明日も生きている」と信じているので「涅槃」やら「不死」は要らない。
信仰と引き換えに手に入れることが出来る「涅槃」や「不死」を胡散臭いと考えている人もいる。
覚者も本当は「修行そのものが悟り」「生死そのものが涅槃」と考えているのだと思う。
涅槃や天国がないことに気が付かない者を覚者とは呼ばない。

282ページ
そのスケッチの二三篇、どうせ碌でもないものですが、差し上げようかと思ひました。
そしたらこんどは、どれを出さうかと云ふことが、大へんわたくしの頭を痛くしました。
これならひとがどう思ふか、ほかの人たちのと比較してどうだらうかなどという嫌な考えが
わたしを苦しめます。

他人と比較してしまうことで傷ついてしまう自尊心を癒す手段はない。
ただ苦しむだけだ。

296ページ
いっしょうけんめいやってきたといっても
ねごとみたいなにごりさけみたいなことだ

そんな(心象)スケッチが手紙に含まれていた。
「いっしょうけんめいやってきた」ことで私たちは自分に言い訳しようとするのだが、
実際に私たちのしてきたことというのは「ねごとみたいな」ことばかりだ。
そこから抜け出したいと誰もが望んでいる。
「ねごとみたいなにごりさけみたいな」呪われた人生から抜け出したいと
誰もが望んでいる。

299ページ
わたくしは渇いたやうに勉強したいのです。貪るやうに読みたいのです。
もしもあの田舎くらい売れないわたくしの本と あなたがお出しになる哲学や心理学の
立派な著述とを幾冊でもお取り換へ下さいますならわたくしの感謝は申しあげられません。

自分の売れない本を「哲学や心理学」の本と交換してもらえないかと、
岩波茂雄(岩波書店創業者)に手紙を出している。

307ページ
音楽まで余計な苦労をするとお考へでありませうがこれが文学殊に詩や童話劇の詩の根底に
なるものでありまして、どうしても要るのであります。

賢治は新交響楽団のチェリストからチェロのレッスンを受けたことがあるそうだ。
オルガンの練習もしていたようだ。
その成果は確かに詩や童話の根底にあり、彼の作品は文学上特異な位置を占めている。
ほとんど誰も真似ができない。

345ページ
けれども左の肺にはさっぱり息が入りませんしいつまでもうちの世話にばかりなっても
居られませんからまことに困って居ります。

昭和4年(1929年)の手紙の下書きに書かれていた。
結核の最初の兆候は大正7年(1918年)ということなので生涯を病弱ですごしたことになる。
手帳に「丈夫ナカラダヲモチ」と書き留めた彼はずっとそう願っていたのかもしれない。
ところでこの下書きは高瀬露宛てとなっている。他にも彼女宛ての下書きがたくさんある。
彼の病弱な身体が女性を遠ざけたのだろうか?
彼の信仰がそうさせたのだろうか?

484ページ
世界的だなどといふことはほんたうに数ヶ国語にでも訳されてから云ふべきであって、
「春と修羅」」にそんな可能性はまづなからう。

草野心平宛ての下書きに書かれている。

493ページ
この一生の間どこのどんな子供も受けないやうな厚いご恩をいただきながら、
いつも我慢でお心に背きたうたうこんなことになりました。
今生で万分一もつひにお返しできませんでしたご恩はきっと次の生又その次の生で
ご報じいたしたいとそれのみを念願いたします。

死を覚悟した賢治が両親への遺書として書いたということだ。

523ページ
こんな世の中に心象スケッチなんといふものを、大衆めあてで決して書いてゐる次第ではありません。
全くさびしくてたまらず、美しいものがほしくてたまらず、ただ幾人かの完全な同感者から
「あれはさうですね。」といふやうなことを、ぽつんと云はれる位が
まづのぞみといふところです。

結局のところ、私たちは「美しいものがほしくてたまらない」のだろう。
そしてその気持ちを誰かと共有できればそれが幸せなのだろう。
美しいものをどれだけ掘り当てることが出来るのか。
どれだけ見つけることが出来るのか。
どれだけ共感できるのか。

宮沢賢治全集8

2016-02-06 00:05:21 | 宮沢賢治
ちくま文庫 宮沢賢治全集8を読んだ。

【どんぐりと山猫】
「どんぐりと山猫」から「鹿踊りのはじまり」までの作品は
賢治が生前に発表した唯一の童話集「注文の多い料理店」に収録されている。
お金を取ることが出来なかったという意味で彼はプロの詩人でもプロの作家でもなかった。
そこには欧米風のサクセスストーリーは皆無であり、
エンターテインメントとは種類の異なる喜びや楽しみがあるのであり、
そんな作品たちを手元に抱え、推敲を重ね、才能に見合った評価を得ることなく、
無名のまま貧しく短い生涯を閉じたデクノボーという生き様があるばかりだ。
彼の残した数々の言葉を商人の輩は誰も近づけないであろう心の奥底に大切にしまい込んで、
いっそのこと死んでしまいたいと思っても決して口にはしない、
そんなふうな人たちを賢治は救っているのだろう。
だが社会に打ちのめされた人々を慰めるのが芸術の目的ではないのであって
彼の作品を読んでいると触発される様々な心象について
私たちはよく考えてみるべきなのだろう。

「裁判ももう今日で三日目だぞ、いい加減になかなおりをしたらどうだ。」山ねこが、
すこし心配そうに、それでもむりに威張って言いますと、どんぐりどもは口々に叫びました。
「いえいえ、だめです、なんといったって頭のとがってるのがいちばんえらいんです。
そしてわたしがいちばんとがっています。」
「いいえ、ちがいます。まるいのがえらいのです。いちばんまるいのはわたしです。」
「大きなことだよ。大きなのがいちばんえらいんだよ。わたしがいちばん大きいから
わたしがえらいんだよ。」
「そうでないよ。わたしのほうがよほど大きいと、きのうも判事さんがおっしゃったじゃないか。」
「だめだい、そんなこと。せいの高いのだよ。せいの高いことなんだよ。」
「押しっこのえらいひとだよ。押しっこをしてきめるんだよ。」もうみんな、
がやがやがやがや言って、なにがなんだか、まるで蜂の巣をつっついたようで、
わけがわからなくなりました。

いわゆる「どんぐりのせいくらべ」ということだ。
「誰が誰よりえらい」とそんなことばかり気にして私たちは大切な時間を無駄にしている。
「あいつより自分の方がえらい」理由を必死になって探している。
それは実際には、まるいとか大きいとか、押しっこのえらいとか、そんなことにすぎないのだろう。
まるいのがえらいと多くの人が考えている時代には「まるい」ことを目指し、
押しっこのえらいと多くの人が考えている時代には「押しっこ」で最強を目指すのだろう。
そういうことを裁判官とか、王様とか、社長に決めてもらって、
「どんぐり」としての確固たる地位を築いて満足できる人もいれば、
満足できない人もいる。

【狼森と笊森、盗森】
「たれか童やど知らないか。」
「しらない。」と森は一斉にこたへました。
「そんだらさがしに行くぞお。」とみんなはまた叫びました。
「来お。」と森は一斉にこたへました。

「おらの道具知らないかあ。」
「知らないぞお。」と森は一ぺんにこたへました。
「さがしに行くぞお。」とみんなは叫びました。
「来お。」と森は一斉に答へました。

「おらの粟知らないかあ。」
「知らないぞお。」森は一ぺんにこたへました。
「さがしに行くぞ。」とみんなは叫びました。
「来お。」と森は一斉にこたへました。

童は狼森(オイノもり)で、道具は笊森(ざるもり)で、粟は盗森(ぬすともり)で見つかった。

【注文の多い料理店】
そして二人はその扉をあけようとしますと、上に黄いろな字でこう書いてありました。
「当軒は注文の多い料理店ですからどうかそこはご承知ください」

この二人は料理店(山猫)の注文をなにかと自分たちに都合の良いふうに解釈する。
その姿を滑稽と思って読んでいる私たちも普段の生活では同じように振舞っていたりする。
何か不都合なことが起っても、原因をひねり出し、自分や周囲の人を説得しようとする。
負けず嫌いの人は自分を説得しようとするあまり「想定内」なんてことを言ったりする。
そういうことだといつまでたっても何も変らないし何も感じ取ることはできない。
いつも自分の微動だにしないガチガチの価値観に左右されてしまうだろう。

西洋文明を理解するために、聖書を読むのだと、神曲を読むのだと、
そんなふうに考えていてはいつまでたっても聖書や神曲の核心にたどり着けない。
何かしら心を揺さぶられる体験をしたのであれば、
そのことに対して真摯な姿勢で臨んだ方が良いのではないかと思う。
聖書を読めば確実にキリスト教に揺さぶられてしまうのであって
その体験を大切にした方が本当の意味で西洋文明を理解する近道であると思う。
何かを理解したいと思うのなら、何かを感じ取りたいと思うのなら、
自分自身を解放し、そこにあるものを受け取るべきなのだ。
そしてどうも「注文の多い料理店」はその西洋文明を批判しているようなのだ・・・

「だからさ、西洋料理店というのは、ぼくの考えるところでは、西洋料理を、
来た人にたべさせるのではなくて、来た人を西洋料理にして、
食べてやる家うちとこういうことなんだ。
これは、その、つ、つ、つ、つまり、ぼ、ぼ、ぼくらが……。」がたがたがたがた、
ふるえだしてもうものが言えませんでした。

「注文の多い料理店」だけを読んだのなら、
発想の転換だか何だか、そういうことで物語を解釈しようとするかもしれない。
しかしこの話もまた自分が生き延びるために他者を犠牲にしなければならないというテーマから
読み解ける可能性があるかもしれない。
「よだかの星」「二十六夜」「なめとこ山の熊」では
<臨終正念>ということであり、死ななければ苦しみから解放されないということであった。
「ビジテリアン大祭」「フランドン農学校の豚」では
食われる方の意識をクローズアップして殺す者の罪を暴いてきた。
「注文の多い料理店」では豚が意識を持つのとは反対に
意識を持つ人が食材になったらどうなるかということを書いている。
それは容認できないことだから山猫軒を訪れた二人は救われるというのが大多数の主張となるが、
二人を救うのであれば「フランドン農学校の豚」も救われて良いのではないかと
そういうことになるのだろう。

【烏の北斗七星】
烏の新らしい少佐は、お腹が空いて山から出て来て、十九隻に囲まれて殺された、
あの山烏を思ひ出して、あたらしい泪をこぼしました。
「ありがたうございます。就ては敵の死骸を葬りたいとおもひますが、お許し下さいませうか。」
「よろしい。厚く葬つてやれ。」
 烏の新らしい少佐は礼をして大監督の前をさがり、列に戻つて、いまマヂエルの星の
居るあたりの青ぞらを仰ぎました。(あゝ、マヂエル様、どうか憎むことのできない敵を
殺さないでいゝやうに早くこの世界がなりますやうに、そのためならば、わたくしのからだなどは、
何べん引き裂かれてもかまひません。)マヂエルの星が、ちやうど来てゐるあたりの青ぞらから、
青いひかりがうらうらと湧きました。

烏の義勇艦隊、烏の大監督、烏の大尉、烏の兵曹長、二十九隻の巡洋艦、二十五隻の砲艦・・・
最後は「敵を殺さないでいいように・・・」という。
「マヂエルというのは、おおぐま座の名称「Ursa Major」の後半の読みであるとされている」ということだ。
そのおおぐま座の尻尾の部分は、死を司る北斗七星だ。
(くまに長い尻尾があるのも変な話だが、尻尾を掴んで天に放り上げたときに伸びたとか・・・)
戦争が終わってから七十年になり、中国と戦争をやりたくて仕方のない政治家が増えている。
「永遠の0」もナショナリズムを煽り「国のために死ね!」と言っているようだ。
それに同意できない連中というのはチャラチャラしていて中身のない奴にされてしまうのだろう。
日本人が死んで行くシーンだけを強調するような戦争映画なんてものはインチキだろう。
敵の死骸がリアルにそこにあって、明日は自分がそうなるかもしれない。
死にたくないと思うが、憎んでもいない敵を殺したくもない。
そんな時に烏は北斗七星に祈る。

【水仙月の四日】
「ひゆう、ひゆう、さあしつかりやるんだよ。なまけちやいけないよ。ひゆう、ひゆう。
さあしつかりやつてお呉れ。今日はここらは水仙月の四日だよ。さあしつかりさ。ひゆう。」
 雪婆んごの、ぼやぼやつめたい白髪は、雪と風とのなかで渦になりました。どんどんかける黒雲の間から、
その尖つた耳と、ぎらぎら光る黄金の眼も見えます。

「ひゆう、ひゆう、なまけちや承知しないよ。降らすんだよ、降らすんだよ。さあ、ひゆう。
今日は水仙月の四日だよ。ひゆう、ひゆう、ひゆう、ひゆうひゆう。」

「おや、をかしな子がゐるね、さうさう、こつちへとつておしまひ。水仙月の四日だもの、
一人や二人とつたつていゝんだよ。」
「えゝ、さうです。さあ、死んでしまへ。」雪童子はわざとひどくぶつつかりながらまたそつと云ひました。
「倒れてゐるんだよ。動いちやいけない。動いちやいけないつたら。」
 狼どもが気ちがひのやうにかけめぐり、黒い足は雪雲の間からちらちらしました。

雪婆んご(ゆきばんご)、雪童子(ゆきわらす)、雪狼(ゆきおいの)が登場する。人間の眼には見えない。
「水仙月は暦上の月ではなく、賢治が創作した月」ということだ。
雪と風が吹き荒れる季節なので1月か、2月か、それもよくわからないということだ。
吹雪の中で迷ってしまったなら、「一人二人とつたつていゝんだよ」ということだが
雪童子はなんとかして助けたいと思っている。

【山男の四月】
「さあ、のむよろしい。ながいきのくすりある。のむよろしい。」支那人は尖った指をつき出して、
しきりにすすめるのでした。山男はあんまり困ってしまって、もう呑んで遁げてしまおうとおもって、
いきなりぷいっとその薬をのみました。するとふしぎなことには、
山男はだんだんからだのでこぼこがなくなって、ちぢまって平らになってちいさくなって、
よくしらべてみると、どうもいつかちいさな箱のようなものに変って草の上に落ちているらしいのでした。
(やられた、畜生、とうとうやられた、さっきからあんまり爪が尖ってあやしいとおもっていた。
畜生、すっかりうまくだまされた。)山男は口惜しがってばたばたしようとしましたが、
もうただ一箱の小さな六神丸ですからどうにもしかたありませんでした。

支那人のくすりを飲んで山男は小さくなり「一箱の小さな六神丸」になってしまったということだ。
だます方もだまされる方も抜けていて、あまり切迫感がない。

【かしはばやしの夜】
「うまいうまい。よしよし。夏のおどりの第三夜。みんな順々にここに出て歌うんだ。
じぶんの文句でじぶんのふしで歌うんだ。一等賞から九等賞まではぼくが大きなメタルを書いて、
明日枝にぶらさげてやる。」
 清作もすっかり浮かれて云いました。
「さあ来い。へたな方の一等から九等までは、あしたおれがスポンと切って、こわいとこへ連れてってやるぞ。」
 すると柏の木大王が怒りました。
「何を云うか。無礼者。」
「何が無礼だ。もう九本切るだけは、とうに山主の藤助に酒を買ってあるんだ。」
「そんならおれにはなぜ買わんか。」
「買ういわれがない。」
「いやある、沢山ある。」
「ない。」
 画かきが顔をしかめて手をせわしく振って云いました。
「またはじまった。まあぼくがいいようにするから歌をはじめよう。だんだん星も出てきた。
いいか、ぼくがうたうよ。賞品のうただよ。
 一とうしょうは 白金メタル
 二とうしょうは きんいろメタル
 三とうしょうは すいぎんメタル
 四とうしょうは ニッケルメタル
 五とうしょうは とたんのメタル
 六とうしょうは にせがねメタル
 七とうしょうは なまりのメタル
 八とうしょうは ぶりきのメタル
 九とうしょうは マッチのメタル
 十とうしょうから百とうしょうまで
 あるやらないやらわからぬメタル。」
 柏の木大王が機嫌を直してわははわははと笑いました。
 柏の木どもは大王を正面に大きな環わをつくりました。

柏の木がおどる幻想的な夜
「月夜のでんしんばしら」では電信柱が軍隊となって行進する。
人の目の届かないところでは植物や無生物が動き回ることがあるのだろう。
そういうことを感知する作家が非凡なのだ。

【月夜のでんしんばしら】
うなりもだんだん高くなって、いまはいかにも昔ふうの立派な軍歌に変ってしまいました。
「ドッテテドッテテ、ドッテテド、
 でんしんばしらのぐんたいは
 はやさせかいにたぐいなし
 ドッテテドッテテ、ドッテテド
 でんしんばしらのぐんたいは
 きりつせかいにならびなし。」

【鹿踊りのはじまり】
「なぢよだた。なにだた、あの白い長いやづあ。」
「縦に皺の寄つたもんだけあな。」
「そだら生ぎものだないがべ、やつぱり蕈などだべが。毒蕈だべ。」
「うんにや。きのごだない。やつぱり生ぎものらし。」
「さうが。生ぎもので皺うんと寄つてらば、年老りだな。」
「うん年老りの番兵だ。ううはははは。」
・・・
「きつともて、こいづあ大きな蝸牛(なめくづら)の旱(ひ)からびだのだな。」

嘉十の手拭いを生き物だと思って鹿たちが話している。
それは「干からびたナメクジ」という結論らしい。
なんだそれは・・・

【雪渡り】
「狐こんこん狐の子、狐の団子は兎のくそ。」
 すると小狐紺三郎が笑って云いました。
「いいえ、決してそんなことはありません。あなた方のような立派なお方が兎の茶色の団子なんか
召しあがるもんですか。私らは全体いままで人をだますなんてあんまりむじつの罪をきせられていたのです。」

「みなさん。今晩の幻燈はこれでおしまいです。今夜みなさんは深く心に留めなければならないことがあります。
それは狐のこしらえたものを賢いすこしも酔わない人間のお子さんが喰べて下すったという事です。
そこでみなさんはこれからも、大人になってもうそをつかず人をそねまず私共狐の今迄の悪い評判を
すっかり無くしてしまうだろうと思います。閉会の辞です。」

「むじつの罪をきせられていたのです」と小狐紺三郎は主張する。まあそうかもしれない。
酔っ払った人間が「狐にだまされた」と言ったりするのであって、
きつねを信じるか、酔っ払いを信じるかということになると、きつねの方を信じてみたい気がする。
一度広がってしまった風評を大人たちはどうすることもできない。
関係を修復できるのは12歳以下の子供たちということで
小狐紺三郎は幻燈会のチケットに年齢制限を設ける。

【やまなし】
二疋の蟹の子供らが青じろい水の底で話していました。
『クラムボンはわらったよ。』
『クラムボンはかぷかぷわらったよ。』
『クラムボンは跳ねてわらったよ。』
『クラムボンはかぷかぷわらったよ。』
 上の方や横の方は、青くくらく鋼のように見えます。そのなめらかな天井を、
つぶつぶ暗い泡が流れて行きます。
『クラムボンはわらっていたよ。』
『クラムボンはかぷかぷわらったよ。』
『それならなぜクラムボンはわらったの。』
『知らない。』

クラムボンとは何かについては諸説あるらしい。
「crab(蟹)+bomb(泡)説」が説得力があるのではないかと思う。
まあなんでもいいんですが、なにかしら子供たちが理由もなく
「かぷかぷ」笑っているようなそんな情景が目に浮かぶ。
小さい子供というのは理由もなくいつも笑っているものであって
そういう姿を見て親は慰められるというか、
なにかしら生き甲斐のようなものを感じることができる。
蟹の子供たちにとってはキラキラ光る天井があって
見上げるとお魚が行ったり来たりしている。
かわせみが突っ込んで来たり、やまなしが落ちて来たりする。
とても素敵なお話だ。

【氷河鼠の毛皮】
『それから氷河鼠の頸のとこの毛皮だけでこさへた上着ね。』
『大丈夫です。しかし氷河鼠の頸のとこの毛皮はぜい沢ですな。』
『四百五十疋分だ。どうだらう。こんなことで大丈夫だらうか。』
『大丈夫です。』

「氷河鼠の頸のとこの毛皮だけでごさへた上着」を着ているような、ふらちな奴は懲らしめられる。
「生きてゐるにはきものも着なけあいけないんだ。おまへたちが魚をとるやうなもんだぜ」ということで
贅沢をするための殺生と生きるための殺生は区別される。
食う食われるのテーマに含まれる話かもしれない。
みんな出来るだけ殺したくないと思っているのだろうか?
それが毛皮という立派な商品になってしまったのなら
手にする人は四百五十疋分の殺生があったことなんて知らないで済む。
スーパーには加工された肉や魚が並んでいる。
私たちは育ち盛りの子供たちを育てるために良質の蛋白質を一円でも安く購入しなければならない。
それは消費という経済活動になってしまっている。
鳥や豚や牛や魚がかわいそうだとは言わない。

【シグナルとシグナレス】
すると、さあ、シグナレスはあらんかぎりの勇気を出して言い出しました。
「でもあなたは金でできてるでしょう。新式でしょう。赤青眼鏡を二組みも持っていらっしゃるわ、
夜も電燈でしょう。あたしは夜だってランプですわ、眼鏡もただ一つきり、それに木ですわ」
「わかってますよ。だから僕はすきなんです」
「あら、ほんとう。うれしいわ。あたしお約束するわ」
「え、ありがとう、うれしいなあ、僕もお約束しますよ。あなたはきっと、私の未来の妻だ」
「ええ、そうよ、あたし決して変わらないわ」
「結婚指環をあげますよ、そら、ね、あすこの四つならんだ青い星ね」
「ええ」
「あのいちばん下の脚もとに小さな環が見えるでしょう、環状星雲ですよ。
あの光の環ね、あれを受け取ってください。僕のまごころです」
「ええ。ありがとう、いただきますわ」
「ワッハッハ。大笑いだ。うまくやってやがるぜ」
 突然向むこうのまっ黒な倉庫が、空にもはばかるような声でどなりました。
二人はまるでしんとなってしまいました。

シグナレスというのは女性形なのだろうか?
どちらも信号機に違いない。新式と旧式の違いはある。
「かしはばやしの夜」「月夜のでんしんばしら」と同様に動かないものが動いているというか、
動かない物が女を口説いている。愛しているとか言っている。
いったいこの風景は何なのだと思っているところに倉庫の冷やかしが入る。
「ワッハッハ。大笑いだ。うまくやってやがるぜ」
絶妙のタイミングだ。

【オツベルと象】
「おい、お前は時計は要らないか。」丸太で建てたその象小屋の前に来て、
オツベルは琥珀のパイプをくわえ、顔をしかめて斯う訊いた。
「ぼくは時計は要らないよ。」象がわらって返事した。
「まあ持って見ろ、いいもんだ。」斯う言いながらオツベルは、ブリキでこさえた大きな時計を、
象の首からぶらさげた。
「なかなかいいね。」象も云う。
「鎖もなくちゃだめだろう。」オツベルときたら、百キロもある鎖をさ、その前肢にくっつけた。
「うん、なかなか鎖はいいね。」三あし歩いて象がいう。
「靴をはいたらどうだろう。」
「ぼくは靴などはかないよ。」
「まあはいてみろ、いいもんだ。」オツベルは顔をしかめながら、赤い張子の大きな靴を、
象のうしろのかかとにはめた。
「なかなかいいね。」象も云う。
「靴に飾りをつけなくちゃ。」オツベルはもう大急ぎで、四百キロある分銅を靴の上から、
穿め込んだ。
「うん、なかなかいいね。」象は二あし歩いてみて、さもうれしそうにそう云った。
 次の日、ブリキの大きな時計と、やくざな紙の靴とはやぶけ、象は鎖と分銅だけで、
大よろこびであるいて居った。

鎖つきの時計と飾りつきの靴
鎖は百キロで飾りは四百キロある分銅
ブリキの時計と紙の靴は次の日にやぶける。

間もなく地面はぐらぐらとゆられ、そこらはばしゃばしゃくらくなり、象はやしきをとりまいた。
グララアガア、グララアガア、その恐ろしいさわぎの中から、
「今助けるから安心しろよ。」やさしい声もきこえてくる。
「ありがとう。よく来てくれて、ほんとに僕はうれしいよ。」象小屋からも声がする。

人々を騙して強制労働させる権力者とその末路を描いているのかもしれない。
囚われた象を助けるためにたくさんの象が押し寄せるところは監獄を落とした革命を思わせるところがある。
そんな血みどろの歴史を繰り返すのは嫌だが一方では不当な支配がなくなればいいのにと思う。
フランス革命は歴史の必然だと私たちは教えれられてきたらそんなことはない。
武装した警察が組織化されると権力者を蹴落とすことは不可能になる。
隣国を見ればそのことはわかるだろう。
この国は自由を標榜しているのだがやはり隣国に似た部分がある。
私たちの行動できる範囲、私たちの思考できる範囲はそれほど広くはない。
しかし現代では誰が思考範囲の拡大を望んだりするだろう。
仕事に疲れてオフは娯楽でリフレッシュしてまた仕事で疲れる、
そんなことを繰り返している大多数の人たちは「何も考えたくない」と望んでいるかのようだが、
彼らのプライドはそんなことを認めたりはしないだろう。
夏目漱石も宮沢賢治も知らないのに自分たちはきちんと考えてきたのだと
家族のために、会社のために、国家のために尽くしてきたのだと
それが報われないのであれば、人の一生は何なのかと彼らは言いたいのだ。
きっと達磨なら「無功徳」と言うのだろう。

【ざしき童子のはなし】
「大道めぐり、大道めぐり」
 一生けん命、こう叫びながら、ちょうど十人の子供らが、両手をつないでまるくなり、
ぐるぐるぐるぐる座敷のなかをまわっていました。
どの子もみんな、そのうちのお振舞によばれて来たのです。
 ぐるぐるぐるぐる、まわってあそんでおりました。
 そしたらいつか、十一人になりました。
 ひとりも知らない顔がなく、ひとりもおんなじ顔がなく、それでもやっぱり、
どう数えても十一人だけおりました。そのふえた一人がざしきぼっこなのだぞと、
大人が出て来て言いました。
 けれどもたれがふえたのか、とにかくみんな、自分だけは、どうしてもざしきぼっこでないと、
一生けん命眼を張って、きちんとすわっておりました。
 こんなのがざしきぼっこです。

「11人いる!」というSF漫画があったが、
もしかするとこの童話が元になっているのかもしれない。
「ひとりも知らない顔」がないのに十人が十一人になっているというのは不気味だ。

【猫の事務所】
事務長は大きな黒猫で、少しもうろくしてはゐましたが、眼などは中に銅線が
幾重も張つてあるかのやうに、じつに立派にできてゐました。
 さてその部下の
一番書記は白猫でした、
二番書記は虎猫でした、
三番書記は三毛猫でした、
四番書記は竃猫でした。
 竃猫といふのは、これは生れ付きではありません。生れ付きは何猫でもいいのですが、
夜かまどの中にはひつてねむる癖があるために、いつでもからだが煤できたなく、
殊に鼻と耳にはまつくろにすみがついて、何だか狸のやうな猫のことを云ふのです。
 ですからかま猫はほかの猫には嫌はれます。

そしておひるになりました。かま猫は、持つて来た弁当も喰べず、
じつと膝に手を置いてうつむいて居りました。
 たうとうひるすぎの一時から、かま猫はしくしく泣きはじめました。
そして晩方まで三時間ほど泣いたりやめたりまた泣きだしたりしたのです。
 それでもみんなはそんなこと、一向知らないといふやうに面白さうに仕事をしてゐました。
 その時です。猫どもは気が付きませんでしたが、事務長のうしろの窓の向ふに
いかめしい獅子の金いろの頭が見えました。
 獅子は不審さうに、しばらく中を見てゐましたが、いきなり戸口を叩いてはひつて来ました。
猫どもの愕ろきやうといつたらありません。うろうろうろうろそこらをあるきまはるだけです。
かま猫だけが泣くのをやめて、まつすぐに立ちました。
 獅子が大きなしつかりした声で云ひました。
「お前たちは何をしてゐるか。そんなことで地理も歴史も要つたはなしでない。
やめてしまへ。えい。解散を命ずる」
 かうして事務所は廃止になりました。
 ぼくは半分獅子に同感です。

猫の事務所で「かま猫」はいじめられる。
理由はあまりない。「あいつは気に食わない」とそんなふうなことだろう。
「かま猫」にとっては理不尽である黒猫・白猫・虎猫・三毛猫の正当性は
彼らにとって理不尽な獅子の威厳により無効となる。
戦前の日本を跋扈していた軍人が進駐軍に滅ぼされたようなものかもしれない。
だが「獅子」とか「進駐軍」といったものも私たちの味方というわけではない。
権力が私たちの味方であったことは一度もない。

【北守将軍と三人兄弟の医者】
「三人兄弟の医者と北守将軍」の違うバージョン。
「三人兄弟の医者と北守将軍」の方がおもしろいのではないかと思う。

【グスコーブドリの伝記】
「グスコーブドリの伝記」2012年に映画化されているらしい。
猫を使った意図は「銀河鉄道の夜」と同じなのだろうか?
そんなに無理して映画化するくらいなら初めから何もしない方が良いのではないかと思う。

「カルボナード火山島が、いま爆発したら、この気候を変えるくらいの炭酸ガスを噴くでしょうか。」
「それは僕も計算した。あれがいま爆発すれば、ガスはすぐ大循環の上層の風にまじって
地球ぜんたいを包むだろう。そして下層の空気や地表からの熱の放散を防ぎ、
地球全体を平均で五度ぐらい暖かくするだろうと思う。」
「先生、あれを今すぐ噴かせられないでしょうか。」
「それはできるだろう。けれども、その仕事に行ったもののうち、
最後の一人はどうしても逃げられないのでね。」
「先生、私にそれをやらしてください。どうか先生からペンネン先生へ
お許しの出るようおことばをください。」

一般には火山が爆発すると、その塵埃が世界中に拡散して日光を塞ぎ、
寒冷化するのではないかと思う。
賢治の分身であるグスコーブドリは死にたくて仕方がないのだろう。
人々を救うために、人々の役に立って死にたいのだ。
これはいわゆる「デクノボー」とは違って、どこにでもいるようなありきたりの英雄なのだろう。
おまけに科学万能主義の匂いまでする。

けれどもそれから三四日たちますと、気候はぐんぐん暖かくなってきて、
その秋はほぼ普通の作柄になりました。そしてちょうど、このお話のはじまりのようになるはずの、
たくさんのブドリのおとうさんやおかあさんは、たくさんのブドリやネリといっしょに、
その冬を暖かいたべものと、明るい薪で楽しく暮らすことができたのでした。

賢治が「さいはひ」と願ったものは「たくさんのブドリのおとうさんやおかあさん、
たくさんのブドリやネリの楽しい暮らし」ということなのだろうか?
ここでは第4次稿の「銀河鉄道の夜」のように内省的で幻想的なものはない。
生き死にを未来永劫繰り返すというのであれば、
苦しみが続くような気もする。

【朝に就ての童話的構図】
「北緯二十五度東経六厘の処に目的のわからない大きな工事ができました」
・・・
「兵隊さん。構はないさうだよ。あれはきのこといふものだつて。何でもないつて。
アルキル中佐はうんと笑つたよ。それからぼくをほめたよ」

なんだ、きのこか・・・

宮沢賢治全集7

2016-01-31 00:05:41 | 宮沢賢治
ちくま文庫 宮沢賢治全集7を読んだ。

【税務署長の冒険】
密造酒がテーマになっている。
「松谷みよ子『現代民話考』によれば、一二五二年鎌倉幕府が出した沽酒の令以来、
酒税は権力者に欠かせぬ財源となっていた」と解説に書かれていた。
明治政府が法制化した自家製造酒の全面禁止による増収も日露戦争の財源に充てられたそうだ。
そういうことに納得しない農民が密造を行い、官吏がこれを摘発するのだという。
そうした背景を持つこの童話では村ぐるみで不正が行われている設定になている。
権力の手先である税務署長が活躍するが作者は村の味方らしい。

【或る農学生の日誌】
稲がとうとう倒れてしまった。ぼくはもうどうしていいかわからない。
あれぐらい昨日までしっかりしていたのに、明方の烈しい雷雨からさっきまでに
ほとんど半分倒れてしまった。
喜作のもこっそり行ってみたけれどもやっぱり倒れた。いまもまだ降っている。
父はわらって大丈夫大丈夫だと云うけれども
それはぼくをなだめるためでじつは大へんひどいのだ。
母はまるでぼくのことばかり心配している。ぼくはうちの稲が倒れただけなら何でもないのだ。
ぼくが肥料を教えた喜作のだってそれだけなら何でもない。
それだけならぼくは冬に鉄道へ出ても行商してもきっと取り返しをつける。
けれども、あれぐらい手入をしてあれぐらい肥料を考えてやってそれでこんなになるのなら
もう村はどこももっとよくなる見込みはないのだ。
ぼくはどこへも相談に行くとこがない。学校へ行ったってだめだ。

「主人公の設定からしてはじめから虚構」と解説に書いているが、
天候にオロオロして倒れてしまった賢治の晩年というのは
こんなふうではなかったかと思う。

【なめとこ山の熊】
「熊。おれはてまえを憎くて殺したのでねえんだぞ。おれも商売ならてめえも
射たなけぁならねえ。ほかの罪のねえ仕事していんだが畑はなし木はお上のものに
きまったし里へ出ても誰も相手にしねえ。仕方なしに猟師なんぞしるんだ。
てめえも熊に生れたが因果ならおれもこんな商売が因果だ。
やい。この次には熊なんぞに生れなよ」
 そのときは犬もすっかりしょげかえって眼を細くして座っていた。

その栗の木と白い雪の峯々にかこまれた山の上の平らに黒い大きなものが
たくさん環になって集って各々黒い影を置き回々教徒の祈るときのように
じっと雪にひれふしたままいつまでもいつまでも動かなかった。
そしてその雪と月のあかりで見るといちばん高いとこに小十郎の死骸が
半分座ったようになって置かれていた。
 思いなしかその死んで凍えてしまった小十郎の顔はまるで生きてるときのように
冴え冴えして何か笑っているようにさえ見えたのだ。ほんとうにそれらの
大きな黒いものは参の星が天のまん中に来てももっと西へ傾いても
じっと化石したようにうごかなかった。

「その血のついた大きなくちばしは、横にまがっては居ましたが、
たしかに少しわらって居りました。」(よだかの星)
「ほんたうに穂吉はもう冷たくなって少し口をあき、かすかにわらったまゝ、
息がなくなってゐました。そして汽車の音がまた聞えて来ました。」(二十六夜)

よだか・穂吉・小十郎の微笑は<臨終正念>の表現ということで説明される。
よだかや小十郎の場合は、生き延びるためにやむなく殺しているのだが、
死ぬことでしかその苦しみから解放されることはないと、そんな感じになっている。
明晰な意識を持ち、生き続けることがあたり前と考えている自分自身が
もし食われるとしたなら、そうした想像力が殺生に伴う罪の意識を掻きたてるのだろう。
「よだかの星」「二十六夜」「なめとこ山の熊」とはすこし系統が異なるが、
「ビジテリアン大祭」「フランドン農学校の豚」も同一のテーマであって、
他者の犠牲により世界が成立しているのだと、
そんな世界は「良く」も「正しく」も「美しく」もないと主張しているのかもしれない。
そうした理想を求める心情というものも自己保存を命じられた意識という働きの中の
ひとつの機能にすぎないのではないかと考えると思想も行為も循環してしまい、
身動きが取れなくなってしまうのだろう。
「正しく」あろうと思わなくなった場合の拠り所を失くしてしまった自分が恐ろしくて
「正しく」あろうとする人もたくさんいるかもしれない。
倫理を離れて生きるのはつらいことだ。

【洞熊学校を卒業した三人】
「蜘蛛となめくぢと狸」に大幅に手を入れて改作したものということだ。

【畑のへり】
一疋の蛙が刈った畑の向ふまで跳んで来て、いきなり、このたうもろこしの列を見て、
びっくりして云ひました。
「おや、へんな動物が立ってゐるぞ。からだは瘠せてひょろひょろだが、
ちゃんと列を組んでゐる。ことによるとこれはカマジン国の兵隊だぞ。どれ、よく見てやらう。」

蛙が「とうもろこし」を見ると「カマジン国の兵隊」に見えるということだ。
たしかに整列はしている。

【月夜のけだもの】
動物園を描いたものだということだ。
檻のなかをのそのそあるいていた獅子が、いつのまにか立派なフロックコートを着て、
「もうよからうな。」と言ったりする。

【マリヴロンと少女】
「私はもう死んでもいいのでございます。」
「どうしてそんなことを、仰っしゃるのです。あなたはまだまだお若いではありませんか。」
「いいえ。私の命なんか、なんでもないのでございます。あなたが、もし、
もっと立派におなりになる為なら、私なんか、百ぺんでも死にます。」
「あなたこそそんなにお立派ではありませんか。あなたは、立派なおしごとをあちらへ
行ってなさるでしょう。それはわたくしなどよりははるかに高いしごとです。
私などはそれはまことにたよりないのです。
ほんの十分か十五分か声のひびきのあるうちのいのちです。」
「いいえ、ちがいます。ちがいます。先生はここの世界やみんなを
もっときれいに立派になさるお方でございます。」

自分より優れた誰かに尽くすことで少女は満足を得ようとする。
そうすることで世界に貢献できるのだと、自分が死んでも無駄にならない、そんなふうに考える。
しかし誰に「世界やみんなをもっときれいに立派にする」ことが出来るのだろう?
現在の世界は10年前にくらべて「きれい」になったのだろうか?
現在を生きるみんなは10年前にくらべて「立派」になったのだろうか?
少年少女のそうした気持ちは彼らの成長と共に消え失せていく。
そして世界はいつまでも同じであり続ける。「きれい」でもなければ「きたなく」もない。

【蛙のゴム靴】
それで日本人ならば、丁度花見とか月見とかいふ処を、蛙どもは雲見をやります。
「どうも実に立派だね。だんだんペネタ形になるね。」
「うん。うすい金色だね。永遠の生命を思はせるね。」
「実に僕たちの理想だね。」
 雲のみねはだんだんペネタ形になって参りました。ペネタ形といふのは、
蛙どもでは大へん高尚なものになってゐます。
平たいことなのです。雲の峰はだんだん崩れてあたりはよほどうすくらくなりました。

今日、永遠の生命を思わせるペネタ形の雲を眺めていた。
嘘です・・・

【まなづるとダァリヤ】
「ピートリリ、ピートリリ。」と鳴いて、その星あかりの下を、
まなづるの黒い影がかけて行きました。
「まなづるさん。あたしずゐぶんきれいでせう。」赤いダァリヤが云ひました。
「あゝきれいだよ。赤くってねえ。」

ピートリリ、ピートリリ・・・

【フランドン農学校の豚】
「ずいぶん豚というものは、奇体なことになっている。水やスリッパや藁をたべて、
それをいちばん上等な、脂肪や肉にこしらえる。豚のからだはまあたとえば生きた一つの触媒だ。
白金と同じことなのだ。無機体では白金だし有機体では豚なのだ。考えれば考える位、
これは変になることだ。」

現在ではいっそう農業の工業化が進んでいるのではないかと思う。
牛海綿状脳症(うし かいめんじょう のうしょう、Bovine Spongiform Encephalopathy, BSE)は、
飼料として与えた汚染肉骨粉が感染源と考えられているということだが、
無駄を省き、効率化を徹底するという経済的・工業的な思想が汚染を拡大したのではないかと思う。
そんなことを書いていながら、私たちは安価な肉を求めてスーパーを彷徨う。
土曜より日曜が安いとか、消費期限切れが近い20%値引きの商品を買い求めたりする。
おそらくは経済的・工業的な思想という点では消費者も共犯なのだ。
「生きた一つの触媒」と私たちが呼んでいるものに意識を持たせてみたらどうなるか、
この童話はそういうことを扱っている。

【ポラーノの広場】
「そうだ、ぼくらはみんなで一生けん命ポラーノの広場をさがしたんだ。けれども、
やっとのことでそれをさがすと、それは選挙につかう酒盛りだった。けれども、
むかしのほんとうのポラーノの広場はまだどこかにあるような気がしてぼくは仕方ない。」
「だからぼくらは、ぼくらの手でこれからそれを拵えようでないか。」
「そうだ、あんな卑怯な、みっともない、わざとじぶんをごまかすような、
そんなポラーノの広場でなく、そこへ夜行って歌えば、またそこで風を吸えば、
もう元気がついてあしたの仕事中からだいっぱい勢がよくて面白いような、
そういうポラーノの広場をぼくらはみんなでこさえよう。」
「ぼくはきっとできるとおもう。なぜならぼくらがそれをいまかんがえているのだから。」
「何をしようといってもぼくらはもっと勉強しなくてはならないと思う。
こうすればぼくらの幸になるということはわかっていても、そんならどうして
それをはじめたらいいか、ぼくらにはまだわからないのだ。
町にはたくさんの学校があって、そこにはたくさんの学生がいる。
その人たちはみんな一日一ぱい勉強に時間をつかえるし、いい先生は覚えたいくらい教えてくれる。
ぼくらには一日に三時間の勉強の時間もない。それも大ていはつかれてねむいのだ。
先生といったら講義録しかない。わからないところができて質問してやっても
なかなか返事が来ない。けれどもぼくたちは一生けん命に勉強して行かなければならない。
ぼくはどうかしてもっと勉強のできるようなしかたをみんなでやりたいと思う。」

「何をしようといってもぼくらはもっと勉強しなくてはならないと思う~」以降は
この本では異稿とみなされているが、童話の意図としては、同じ方向のものだと思う。
どちらかというと貧弱な共産主義のようなものだ。
私たちはあらゆる理由で目の前にある世界を認めない。
正しさを備えていないとか、卑怯であるとか、不公平であるとか、
自分や自分の考え方を認めてくれないような世界は否定する。
そうした一人ひとりの不平不満が蓄積して来ると、改革であるとか、維新といった言葉を操る
怪しげな政治家が跋扈するようになる。
結局のところ、改革されるべき世界は改革された世界とそう変りはない。
改革、維新、革命というのは運動の方向性であって、
政体その他の組織が身に付けられるものではない。
そればかりか、いったん出来上がった組織では権力の維持と分配がが最優先されるので、
そうした運動は排除されることになる。
「ぼくら」がどれだけ一生懸命に勉強したところでユートピアが訪れることはない。
誰もが「卑怯で、みっともない、わざとじぶんをごまかすような」境遇に耐えている。
あるいはそれが普通になってしまっている。

【銀河鉄道の夜】
「カムパネルラ、また僕たち二人きりになったねえ、どこまでもどこまでも一緒に行こう。
僕はもうあのさそりのようにほんとうにみんなの幸のためならば僕のからだなんか
百ぺん灼いてもかまわない。」
「うん。僕だってそうだ。」カムパネルラの眼にはきれいな涙がうかんでいました。
「けれどもほんとうのさいわいは一体何だろう。」ジョバンニが云いました。
「僕わからない。」カムパネルラがぼんやり云いました。
「僕たちしっかりやろうねえ。」ジョバンニが胸いっぱい新らしい力が湧くように
ふうと息をしながら云いました。

ポラーノの広場では「こうすればぼくらの幸になるということはわかっていても、
そんならどうしてそれをはじめたらいいか、ぼくらにはまだわからないのだ」ということだったが、
ここでは「けれどもほんとうのさいわいは一体何だろう」と懐疑的になっている。
賢治の残した原稿には途切れることの無い推敲の後が残されているということだが、
「銀河鉄道の夜」は特に修正が激しかったようであり、
カンパネルラの水死はようやく第四次稿になって書かれている。
第三次稿まではポラーノの広場と同じように以下に示すような前向きな記述が見られる。
「ああマジェランの星雲だ。さあもうきっと僕は僕のために、僕のお母さんのために、
カムパネルラのためにみんなのためにほんたうのほんたうの幸福をさがすぞ。」
「さあ、切符をしっかり持っておいで。お前はもう夢の鉄道の中でなしに本当の世界の火や
はげしい波の中を大股にまっすぐに歩いて行かなければいけない。天の川のなかでたった一つの
ほんたうのその切符を決しておまへはなくしてはいけない」
そんな感じで、なにやら切符までものすごいことになっている。
さすがにここまで革新的確信的なジョバンニだと作品の幻想性が失われてしまっただろう。
「僕のからだなんか百ぺん灼いてもかまわない」というのは、
マリヴロンに「私なんか、百ぺんでも死にます」といってのける少女に似ているが、
ジョバンニにはきっとそんなことはできないだろう。
彼がどこにでも行けるのは「不完全な幻想第四次の銀河鉄道」の中だけであり、
「本当の世界」にあってはどこにも行けない。
そうした閉塞感が幻想性を高めているように感じられる。

【風の又三郎】
ところが嘉助がすぐ、
「先生。」といってまた手をあげました。
「はい。」先生は嘉助を指さしました。
「高田さん名はなんて言うべな。」
「高田三郎さんです。」
「わあ、うまい、そりゃ、やっぱり又三郎だな。」

「風野又三郎」では風野又三郎という名前だったが、
「風の又三郎」では高田三郎さんになった。
人間に近づいたか?

【ひのきとひなげし】
「何を云ってるの。ばかひのき、けし坊主なんかになってあたしら生きていたくないわ。
おまけにいまのおかしな声。悪魔のお方のとても足もとにもよりつけないわ。
わあい、わあい、おせっかいの、おせっかいの、せい高ひのき」

助けてもらったのに生意気なひなげし・・・

【セロ弾きのゴーシュ】
ゴーシュ(gauche)はフランス語で「下手くそな」という意味だと解説に書いてあった。
彼の上達は、猫とかっこうと狸の子と野ねずみのおかげなのだろうか?
たしかに狸の子はなかなか鋭い指摘をしていた。

宮沢賢治全集6

2016-01-24 00:05:39 | 宮沢賢治
ちくま文庫 宮沢賢治全集6を読んだ。

【革トランク】
「革トランク」という表題だが、母病気の報に応じて同じような革トランクに童話の原稿を詰めて帰郷した
賢治自身の姿に捉われてはいけないと解説に書いてあった。

【おきなぐさ】
「うずのしゅげは、植物学ではおきなぐさと呼ばれます」ということだ。
「誰だってきらひなものはありません」ということだ。

【黄いろのトマト】
『何だ。この餓鬼め。人をばかにしやがるな。トマト二つで、この大入の中へ汝たちを
押し込んでやってたまるか。失せやがれ、畜生。』
 そしてトマトを投げつけた。あの黄のトマトをなげつけたんだ。その一つはひどくネリの耳にあたり、
ネリはわっと泣き出し、みんなはどっと笑ったんだ。ペムペルはすばやくネリをさらうように抱いて、
そこを遁げ出した。
 みんなの笑い声が波のように聞えた。
 まっくらな丘の間まで遁げて来たとき、ペムペルも俄かに高く泣き出した。ああいうかなしいことを、
お前はきっと知らないよ。

蜂雀はそんなふうにして「かあいさうなことをした」と語る。
「この悲しさはひと口に説明しにくい」
「ペムペルたちを泣かせたのは『黄いろのトマト』を作品として成り立たせた核心そのものなのである」と
解説に書かれているが、その核心というのは何なのだろうか?
子供が初めて出くわした悪意のことだろうか?
それまで疑いもなく漠然と信じていたことが他者によって、大人によって一蹴されてしまう。
それに馴染んでしまえば悪意と呼ぶことも憚られる自分たちがかつて抱いたことのない感情に出会って
何かが損なわれてしまう。そのことが「かあいさう」かもしれない。

【チュウリップの幻術】
チュウリップ酒に悪酔いしてしまったのか、チュウリップの幻術にかかってしまったのか、
そこのところがよくわからない。

【化物丁場】
「砂利を盛り直しても、乱杭を打っても、雨が降ると崩れてしまう」ような処を「化物丁場」と呼んでいる。
どことなくグロテスクな感じがする。それに関わった人は皆、生きているように感じるのだろう。

【ビヂテリアン大祭】
「「◎偏狭非学術的なビジテリアンを排せ。
ビジテリアンの主張は全然誤謬ごびゅうである。今この陰気な非学術的思想を動物心理学的に批判して見よう。
ビジテリアンたちは動物が可哀そうだから食べないという。動物が可哀そうだということがどうしてわかるか。
ただこっちが可哀そうだと思うだけである。全体豚ぶたなどが死というような高等な観念を持っているものではない。
あれはただ腹が空へった、かぶらの茎くき、噛かみつく、うまい、厭あきた、ねむり、起きる、鼻がつまる、
ぐうと鳴らす、腹がへった、麦糠むぎぬか、たべる、うまい、つかれた、ねむる、という工合ぐあいに
一つずつの小さな現在が続いて居るだけである。」

人間ひとりの命は地球より重いというようなことも言われる。人権を護るとか。人格とか。
人格と呼ばれるものは連続体であって、体験したことを時系列に記憶している者の名称であり、
身体の操作に関わる直接的な体験や読書のような間接的な体験を元に次の瞬間の行動を決める者の名称である。
そうした「途切れることのない連続的な現在」が豚の「一つずつの小さな現在」よりも尊いと考えられているのだが、
過去の体験から未来の行動をシミュレーションすることが尊いということなのだろうか?
結局のところ過去と未来の行動を紐付けるために必要となった「私」という虚構が尊いのだと、
それが人権であると、自然が生き物を自動操縦するために与えた意識という仕掛けが尊いのだと、
そんなことを言っているだけかもしれない。
本当に尊い人格というものが、百年未満しか維持されず、やがて無に帰るというのは矛盾している。
現在を生き延びることが出来ているので人口の大部分は不平を言わないのだが、
寿命が訪れて死んで行く者たちが各々言葉を残して行くというのであれば、
世界はどの時代にあっても死んで行く者の悲鳴であるとか不平不満に満ちているだろう。

「◎偏狭非学術的なビジテリアンを排せ。
ビジテリアンの主張は全然誤謬ごびゅうである。今これを生物分類学的に簡単に批判して見よう。
ビジテリアンたちは、動物が可哀そうだという、一体どこ迄までが動物でどこからが植物であるか、
牛やアミーバーは動物だからかあいそう、バクテリヤは植物だから大丈夫だいじょうぶというのであるか。
バクテリヤを植物だ、アミーバーを動物だとするのは、ただ研究の便宜べんぎ上、勝手に名をつけたものである。
動物には意識があって食うのは気の毒だが、植物にはないから差し支つかえないというのか。
なるほど植物には意識がないようにも見える。けれどもないかどうかわからない、あるようだと思って見ると
又また実にあるようである。元来生物界は、一つの連続である、動物に考があれば、植物にもきっとそれがある。
ビジテリアン諸君、植物をたべることもやめ給たまえ。諸君は餓死する。又世界中にもそれを宣伝したまえ。
二十億人がみんな死ぬ。大へんさっぱりして諸君の御希望に叶かなうだろう。そして、そのあとで動物や植物が、
お互同志食ったり食われたりしていたら、丁度いいではないか。」

動物だから可哀想とか、植物だから食べてもOKというのは、あまり根拠のないことかもしれない。
可哀想といった考え方は、食う食われるの関係で発展し、その種類を増してきた生物界全体から見ると、
取るに足らない考え方かもしれない。
人間を除いた生物界は、可哀想だとか思うことも無く、ひたすらに食う食われるの関係を継続している。
そして人間がいなくなったとしたら、いっそうそうなのだ。

【土神ときつね】
「土神はたまらなさうに両手で髪を掻かきむしりながらひとりで考へました。
おれのこんなに面白くないといふのは第一は狐きつねのためだ。狐のためよりは樺の木のためだ。
狐と樺の木とのためだ。けれども樺の木の方はおれは怒ってはゐないのだ。
樺の木を怒らないためにおれはこんなにつらいのだ。
樺の木さへどうでもよければ狐などはなほさらどうでもいゝのだ。おれはいやしいけれどもとにかく神の分際だ。
それに狐のことなどを気にかけなければならないといふのは情ない。それでも気にかゝるから仕方ない。
樺の木のことなどは忘れてしまへ。ところがどうしても忘れられない。今朝は青ざめて顫ふるへたぞ。
あの立派だったこと、どうしても忘られない。おれはむしゃくしゃまぎれにあんなあはれな人間などをいぢめたのだ。
けれども仕方ない。誰たれだってむしゃくしゃしたときは何をするかわからないのだ。」

こうした土神の心情を淡々と記述できるということは、
賢治自身に土神と同じような負の感情とか負の資質があるということかもしれない。
作家は様々な資質を、様々な人格を操る。

【林の底】
「ところが早くも鳥類のこのもやうを見てとんびが染屋を出しました。」
 私はやっぱりとんびの染屋のことだったと思はず笑ってしまひました。

はねの色がみんな同じで白かった鳥たちをとんびが染めるという楽しいお話で
オチはたいてい決まっている。

『ふん、さうだな。一体どう云ふふうに染めてほしいのだ。』
 烏は少し怒りをしづめました。
『黒と紫で大きなぶちぶちにしてお呉れ。友禅模様のごくいきなのにしてお呉れ。』
 とんびがぐっとしゃくにさはりました。そしてすぐ立ちあがって云ひました。
『よし、染めてやらう。よく息を吸ひな。』
 烏もよろこんで立ちあがり、胸をはって深く深く息を吸ひました。
『さあいゝか。眼をつぶって。』とんびはしっかり烏をくはへて、墨壺の中にざぶんと入れました。
からだ一ぱい入れました。烏はこれでは紫のぶちができないと思ってばたばたばたばたしましたが
とんびは決してはなしませんでした。そこで烏は泣きました。泣いてわめいてやっとのことで
壺からあがりはしましたがもうそのときはまっ黒です。烏は怒ってまっくろのまま染物小屋をとび出して、
仲間の鳥のところをかけまはり、とんびのひどいことを云ひつけました。
ところがそのころは鳥も大ていはとんびをしゃくにさはってましたから、みな一ぺんにやって来て、
今度はとんびを墨つぼに漬けました。鳶はあんまり永くつけられたのでたうとう気絶をしたのです。
鳥どもは気絶のとんびを墨のつぼから引きあげて、どっと笑ってそれから染物屋の看板を
くしゃくしゃに砕いて引き揚げました。
 とんびはあとでやっとのことで、息はふき返しましたが、もうからだ中まっ黒でした。

そういうことで、烏もとんびもまっ黒になりました。
友禅模様でも良かったけど。

【マグノリアの木】
(これがお前の世界なのだよ、お前に丁度あたり前の世界なのだよ。
それよりもっとほんたうはこれがお前の中の景色なのだよ。)

丁度あたり前の世界とか、お前の中の景色とか、そういうものを相手にして私たちは一生を過ごす。
その世界や景色というものは、資質によっても環境によっても違って見える。
同じ景色がずっと続いたとしても、丁度あたり前の世界であり、
違う景色が見えるようになるのであれば、それもまた丁度あたり前の世界ということだろう。
景色を取り替えようとする試みは自分自身を取り替える試みと同じになるのだと思う。
いつか「ほんたう」の景色が見えるようになるかということではなくて、
今、見えている景色が「ほんたう」のものだ。
その「ほんたう」が変って行くのだ。

【インドラの網】
「ごらん、そら、インドラの網を。」
 私は空を見ました。いまはすっかり青ぞらに変ったその天頂から四方の青白い天末まで
いちめんはられたインドラのスペクトル製の網、その繊維は蜘蛛くものより細く、
その組織は菌糸より緻密に、透明清澄で黄金でまた青く幾億互に交錯し光って顫えて燃えました。

ググると以下のような説明があった。
「インドラの網は,インドの勇猛な神「帝釈天」の宮殿にかけられた,巨大な球状の網のこと.
その結び目には,美しい水晶の宝珠が縫い込まれ,全体が宇宙そのものを表現しているとされる.
また宝珠の一つひとつが他の一切の宝珠を映し込んでいることから,
ひとつの宝珠に宇宙のすべてが収まっている,というようにも考える」

画像検索結果は以下の通り。
インドラの網

【雁の童子】
そのとき俄かに向うから、黒い尖った弾丸が昇って、まっ先きの雁の胸を射ました。
 雁は二、三べん揺らぎました。見る見るからだに火が燃え出し、世にも悲しく叫びながら、
落ちて参ったのでございます。
 弾丸がまた昇って次の雁の胸をつらぬきました。それでもどの雁も、遁げはいたしませんでした。
 却って泣き叫びながらも、落ちて来る雁に随いました。
 第三の弾丸が昇り、
 第四の弾丸がまた昇りました。
 六発の弾丸が六疋の雁を傷つけまして、一ばんしまいの小さな一疋だけが、
傷つかずに残っていたのでございます。燃え叫ぶ六疋は、悶えながら空を沈み、
しまいの一疋は泣いて随い、それでも雁の正しい列は、決して乱れはいたしません。
 そのとき須利耶さまの愕ろきには、いつか雁がみな空を飛ぶ人の形に変っておりました。
 赤い焔に包まれて、歎き叫んで手足をもだえ、落ちて参る五人、それからしまいに只一人、
完いものは可愛らしい天の子供でございました。
 そして須利耶さまは、たしかにその子供に見覚えがございました。最初のものは、
もはや地面に達しまする。それは白い鬚の老人で、倒れて燃えながら、骨立った両手を合せ、
須利耶さまを拝むようにして、切なく叫びますのには、
(須利耶さま、須利耶さま、おねがいでございます。どうか私の孫をお連つれ下さいませ。)

(私共は天の眷属でございます。罪があってただいままで雁の形を受けておりました。
只今報いを果たしました。私共は天に帰ります。ただ私の一人の孫はまだ帰れません。
これはあなたとは縁のあるものでございます。どうぞあなたの子にしてお育そだてを願います。
おねがいでございます。)と斯うでございます。

罪の報いを果たしたというのは、弾丸に胸を貫かれるということだろうか。

【三人兄弟の医者と北守将軍】
そのときバアユウ先生は
丁度一ぴきの首巻の
年寄りの馬を診てゐ、たのだ。
「せきは夜にも出ますかね。」
「どうも出ますよ、ごほん、ごほん。」
「ずゐぶん胸が痛みますか。」
「イヒン、ヒン、ヒン、ヒン、ヒン。」
「ずゐぶん胸が痛みますか。」
「イヒン、ヒン、ヒン、ヒン、ヒン。」
「どうです胸が痛みますか。」
「痛みます、ごほん、ごほん、ごほん」
「たべものはおいしいですか。」
「イヒン、ヒン、ヒン、ヒン、ヒン。」

医者と馬とで会話が成り立っている。
「イヒン、ヒン、ヒン、ヒン、ヒン。」
わかるんか・・・

【学者アラムハラドの見た着物】
小さなセララバアドは少しびっくりしたようでしたがすぐ落ちついて答えました。
「人はほんとうのいいことが何だかを考えないでいられないと思います。」

【ガドルフの百合】
「どなたですか。今晩は。どなたですか。今晩は。」
 向うのぼんやり白いものは、かすかにうごいて返事もしませんでした。却って注文通りの電光が、
そこら一面ひる間のようにしてくれたのです。
「ははは、百合の花だ。なるほど。ご返事のないのも尤もだ。」
 ガドルフの笑い声は、風といっしょに陰気に階段をころげて昇って行きました。

【楢ノ木大学士の野宿】
「十万何千年前とかがどうしたの。もっと前のことさ、十万百万千万年、千五百の万年の前のあの時を
お前は忘れてしまってゐるのかい。まさか忘れはしないだらうがね。忘れなかったら今になって、
僕の横腹を肱で押すなんて出来た義理かい。」
大学士はこの語を聞いて
すっかり愕ろいてしまふ。
「どうも実に記憶のいゝやつらだ。えゝ、千五百の万年の前のその時をお前は忘れてしまってゐるのかい。
まさか忘れはしないだらうがね、えゝ。これはどうも実に恐れ入ったね、いったい誰だ。変に頭のいゝやつは。」
大学士は又そろそろと起きあがり
あたりをさがすが何もない。

「さやう、病人が病名を知らなくてもいゝのですがまあ蛭石病の初期ですね、所謂ふう病の中の一つ。
俗にかぜは万病のもとと云ひますがね。それから、えゝと、も一つのご質問はあなたの命でしたかね。
さやう、まあ長くても一万年は持ちません。お気の毒ですが一万年は持ちません。」

鉱物を相手にするのなら、一万年とか十万年というスケールで話をするのかもしれない。
自己複製する分子が生命の起源であるという話があった。
生命の誕生以前には鉱物であるとか結晶であるとか安定的に世界にその姿を維持できる分子が
ショウペンハウアーの言う意志という意味で世界あるいは宇宙に存在を続けていた。
その後、生きている間にはエントロピー増大の法則に逆らって秩序を蓄積して行く存在であるところの生命が、
その無機質な世界を塗り替えた。
だが有機物がその形を留めることの出来る期間は限られていて、
そこからさらに発展した意識を持った生き物にとっても一万年には手が届かなくて、
鉱物たちが居眠りをしている間に、いなくなってしまうのだろう。

【葡萄水】
それから二人はせっせと汁を瓶につめて栓をしました。麦酒瓶二十本ばかり出来あがりました。
「特製御葡萄水」といふ、去年のはり紙のあるのもあります。このはり紙はこの辺で共同でこしらへたのです。
 これをはって売るのです。さやう、去年はみんなで四十本ばかりこしらへました。
もちろん砂糖は入れませんでした。砂糖を入れると酒になるので、罰金です。

「密造酒」の話

【みじかい木ぺん】
算術も作文も図画もうまくできるようになる木ぺん(鉛筆)の話
ドラえもん的な終り方をする。

【バキチの仕事】
馬もびっくりしましたぁね、(おいどいつだい、何の用だい。)おどおどしながらはね起きて
身構えをして斯うバキチに訊いたってんです。
(誰でもないよ、バキチだよ、もと巡査だよ、知らんかい。)バキチが横木の下の所で腹這いのまま云いました。
(さあ、知らないよ、バキチだなんて。おれは一向知らないよ。)と馬が云いました。

【サガレンと八月】
「何の用でここへ来たの、何かしらべに来たの、何かしらべに来たの。」
「何してるの、何を考えてるの、何か見ているの、何かしらべに来たの。」

風がそんなふうにして語りかけてくるということだ。あるいは波もそうかもしれない。
現象が苦もなく文章に転換される。

【台川】
野外授業の一部始終が描かれている。
黒曜石、流紋凝灰岩、凝灰質礫岩、玻璃蛋白石、緑簾石・・・

【イーハトーボ農学校の春】
授業風景が描かれている。

【イギリス海岸】
この作品に書かれた岸辺は「イギリス海岸」という名の観光名所になったのだという。

【耕耘部の時計】
さあ、その時です。いままで五時五十分を指してゐた長い針が俄かに電のやうに飛んで、
一ぺんに六時十五分の所まで来てぴたっととまりました。
「何だ、この時計、針のねぢが緩んでるんだ。」

「今朝は進んでさっきは合ひ、今度は十五分おくれてゐる」と思っていたら、
針のねじが緩んでいたのだった。

【さいかち淵】
「花巻に実在するさいかち淵で遊ぶ子どもらの観察がもとになっている」のだという。

【タネリはたしかにいちにち嚙んでゐたやうだった】
「藤蔓みんな噛じって来たか。」
「うんにゃ、どこかへ無くしてしまったよ。」タネリがぼんやり答えました。
「仕事に藤蔓噛みに行って、無くしてくるものあるんだか。今年はおいら、おまえのきものは、
一つも編んでやらないぞ。」お母っかさんが少し怒って云いました。
「うん。けれどもおいら、一日噛んでいたようだったよ。」
 タネリが、ぼんやりまた云いました。
「そうか。そんだらいい。」お母っかさんは、タネリの顔付きを見て、安心したように、
またこならの実を搗きはじめました。

解説によると「こならの実はよほどの時でなければ食べない食料であり、飢饉の指標である」ということだ。

【黒ぶだう】
仔牛と狐という対照的かつ典型的な二人が登場する

【車】
「日雇労働者の一日の体験がユーモラスにしかし一抹の哀愁を伴って描き出される」ということだ。

【氷と後光】
「あら、この子の頭のとこで氷が後光のやうになってますわ。」若いお母さんはそっと云ひました。
若いお父さんはちょっとそっちを見て、それから少し泣くやうにわらひました。
「この子供が大きくなってね、それからまっすぐに立ちあがってあらゆる生物のために、無上菩提を求めるなら、
そのときは本當にその光がこの子に來るのだよ。それは私たちには何だかちょっとかなしいやうにも思はれるけれども、
もちろんさう祈らなければならないのだ。」
 若いお母さんはだまって下を向いてゐました。
 こどもは苹果を投げるやうにしてバアと云ひました。すっかりひるまになったのです。

「あらゆる生物のために、無上菩提を求める」というのはどうなんだろう?
本当に親が子にそんなことを願ったりするのだろうか?

【四又の百合】
「正徧知はあしたの朝の七時ごろヒームキャの河をおわたりになってこの町にいらっしゃるそうだ」
 こう言う語がすきとおった風といっしょにハームキャの城の家々にしみわたりました。

「ハームキャ」というのは花巻のことだろうか?

【虔十公園林】
「虔十、貴きさんどごの杉伐きれ。」
「何なしてな。」
「おらの畑ぁ日かげにならな。」
 虔十はだまって下を向きました。平二の畑が日かげになると云ったって杉の影がたかで
五寸もはいってはいなかったのです。おまけに杉はとにかく南から来る強い風を防いでいるのでした。
「伐れ、伐れ。伐らなぃが。」
「伐らなぃ。」虔十が顔をあげて少し怖こわそうに云いました。その唇くちびるはいまにも泣き出しそうに
ひきつっていました。実にこれが虔十の一生の間のたった一つの人に対する逆らいの言ことばだったのです。
・・・
さて虔十はその秋チブスにかかって死にました。平二も丁度その十日ばかり前にやっぱりその病気で死んでいました。
 ところがそんなことには一向構わず林にはやはり毎日毎日子供らが集まりました。

「ああそうそう、ありました、ありました。その虔十という人は少し足りないと私らは思っていたのです。
いつでもはあはあ笑っている人でした。毎日丁度この辺に立って私らの遊ぶのを見ていたのです。
この杉もみんなその人が植えたのだそうです。ああ全くたれがかしこくたれが賢かしこくないかはわかりません。
ただどこまでも十力じゅうりきの作用は不思議です。ここはもういつまでも子供たちの美しい公園地です。
どうでしょう。ここに虔十公園林と名をつけていつまでもこの通り保存するようにしては。」

「子供たちの美しい公園地」になると虔十が考えて身体を張ったかどうかはよくわからない。
虔十本人にもよくわからなかったという気がする。
きっと信念を貫く人の意志のようなものとは違った自然的な力(十力の作用)のようなものがあるのだろう。
賢治は虔十(けんじゅう)に自分を重ねていたということだ。
賢治の詩や童話は「子供たちの美しい公園地」になった。一方で短歌や文語詩はその価値が定まっていない。
私たちが死んでしまった後のずっと未来に、その真価が認められるのかもしれない。
自らの生存のためだけに、栄華のためだけに、保身のためだけに生きるのであれば、そういうことは起こらない。
何かしら与えたいという、何かしら伝えたいという思いが、いつか十力の作用と結びつき、
新しい価値を遍く世界に知らしめる。

【祭の晩】
「おじいさん、山男はあんまり正直でかあいそうだ。僕何かいいものをやりたいな」
「うん、今度夜具を一枚持って行ってやろう。山男は夜具を綿入の代りに着るかも知れない。それから団子も持って行こう」
 亮二は叫びました。
「着物と団子だけじゃつまらない。もっともっといいものをやりたいな。山男が嬉うれしがって泣いてぐるぐるはねまわって、
それからからだが天に飛んでしまうくらいいいものをやりたいなあ」

あんまり正直だと「かあいそう」ということだ。
正直者は疑ったりはしないので、実際に「かあいそう」なのは、「正直者をかあいさう」と思う人間かもしれない。
正しく生きようと思っても、一方では騙されて損をしてしまうと考えてしまう。
それが「かあいそう」だ。

【紫紺染について】
「ええと、失礼ですが山男さん、あなたはおいくつでいらっしゃいますか。」
「二十九です。」
「お若いですな。やはり一年は三百六十五日ですか。」
「一年は三百六十五日のときも三百六十六日のときもあります。」
「あなたはふだんどんなものをおあがりになりますか。」
「さよう。栗の実やわらびや野菜です。」
「野菜はあなたがおつくりになるのですか。」
「お日さまがおつくりになるのです。」

野菜は「お日さまがおつくりになる」ということだ。
なるほど・・・
原発を無くすために太陽光発電をしようというのは、根本的なところで原発推進派と同じではないだろうか?
「お日さまがおつくりになる」なんて決して考えない。

【毒もみのすきな署長さん】
「さて署長さんは縛られて、裁判にかかり死刑ということにきまりました。
 いよいよ巨きな曲った刀で、首を落されるとき、署長さんは笑って云いました。
「ああ、面白かった。おれはもう、毒もみのことときたら、全く夢中なんだ。
いよいよこんどは、地獄で毒もみをやるかな。」
 みんなはすっかり感服しました。

署長さんの徹底した探究心に「みんなはすっかり感服しました」ということだ。
人の興味がどの方向に向くのかよくわからないが、何かしらそれが徹底されていると「みんな」は感服する。
夢中になれるものがあることが「さいはひ」ではないかと思う。

宮沢賢治全集5

2016-01-17 00:05:05 | 宮沢賢治
ちくま文庫 宮沢賢治全集5を読んだ。やっと童話だ。

【蜘蛛となめくぢと狸】
「無慈悲に他者の生命を食らう」ということで「蜘蛛となめくぢと狸」は残虐であり、
「他者の生命によって生きるとは地球上の動植物の宿命でさえあろう」と解説に書かれている。
「食う食われる」の関係が進化のスピードを加速させ、
その結果として多様な生命に満ちた世界が形成されたということだから、
その世界を単に「悪」と見做すことはどうなのだろうかと思う。
解説者も私も、毎日毎日、他者の生命を食らって生き延びている。
そんな人間が生きることが悪などと言うことはできない。

【双子の星】
「主人公の二人の童子の徹底した無邪気さ」と解説に書かれている。
「蜘蛛となめくぢと狸」ほどの悪党も登場しない。

【貝の火】
「思いがけず貝の火という大変な宝物をもらってしまた子兎ホモイの喜びと不安が、
どうしようもなく慢心から失明へと進行していく過程が、天候や風景と微妙に感応しながら、
実に鮮烈に描き出されている」と解説に書かれている。
ひばりの子を助けたということでもらってしまった貝の火だが、
そんな重たい意味を持つ贈り物を、扱いを誤ると失明に至るような贈り物を、
まだ何も知らぬ子兎が望んでいたのだろうかという気もする。
何か選べるというのであれば小判とかお茶菓子の方が良かったのではないかと思う。
しかし何か良いことをした者は、さらに何かを期待されるということであるかもしれない。
そしてだんだんに増長してしまったり、自らの能力では負い切れないものを抱えてしまったりして破滅へと向う。
「泣くな。こんなことはどこにもあるのだ。それをよくわかったお前は、一番さいわひなのだ。
目はきっと又よくなる。お父さんがよくしてやるから。な。なくな。」
ホモイのお父さんは言う。この童話は破滅で終わっているわけではないのだと思う。
「こんなことはどこにもあるのだ。」ということを体験できたのだから
もっと悪くなるということはない。

【いてふの実】
「この「花鳥童話」と自ら名づけた一群の作品で賢治は、死と美、すなわち流転する生命と永遠の美の
関わり合いをさまざまに扱っているが、その中心にしばしば、果実や種子の散乱というモチーフが
置かれていて、「いてふの実」は「おきなぐさ」とともにその典型的な一篇である」
「種子として未来へと散乱していく幼い生命たちの不安と希望がみごとに表現されている」
と解説に書かれている。
「一疋の大口魚が毎年生む子の数は百万疋とか聞く。牡蠣になるとそれが二百万の倍数の上るという。
そのうちで生長するのはわずか数匹に過ぎないのだから、自然は経済的に非常な濫費者であり、
徳義上には恐るべく残酷な父母である」(夏目漱石「思い出す事など」)
自然はここでも濫費しているようだ。
未来へと散乱していく幼い生命たちがみな「いてふの木」に育つことはない。
未来という希望の背後に残酷な世界が横たわっている。

【よだかの星】
みにくいということで嫌われているよだかが昇天して星になる。
「いいや。おれの名なら、神さまから貰ったのだと云ってもよからうが、お前のは、云わば、
おれと夜と、両方から借りてあるんだ。さあ返せ。」
「鷹さん。それは無理です。」
「無理ぢゃない。おれがいい名を教へてやらう。市蔵といふんだ。市蔵とな。いい名だらう。
そこで、名前を変へるには、改名の披露といふものをしないといけない。いいか。
それはな、首へ市蔵と書いたふだをぶらさげて、私は以来市蔵と申しますと、口上を云って、
みんなの所へおじぎをしてまはるのだ。」
・・・鷹さん、それはあんまりです・・・
「その血のついた大きなくちばしは、横にまがっては居ましたが、たしかに少しわらって居りました。」
よだかが最後に見せるこの微笑は<臨終正念>の表現であると解説に書かれている。
「賢治の童話制作意図の核心である」ということだ。
そういうことはよくわからないが、一途に飛び続けるよだかに心を打たれ、強い印象が残る。

【さるのこしかけ】
白い三つのきのこが、さるのこしかけとなっている。

【種山ケ原】
この童話は、「風の又三郎」の「九月四日」の章の先駆形態ということだ。

【めくらぶだうと虹】
《丘の上の小さなめくらぶだうの木が、よるのそらに燃える青いほのほよりも、もっと強い、
もっとかなしおもひを、はるかの美しい虹に捧げると、ただこれだけを伝えたい》
ということだ。

【気のいい火山弾】
「周囲から馬鹿扱いされていた存在がのちにその貴重さを見出される―――「虔十公園林」とともに
いわゆる《デクノボー》主題の作品」と解説に書かれている。

【馬の頭巾】
びっこがなおりそうな馬を甲太が有っている。
「おい。お前が、この馬を有っているのか。まあ失敬だが、どうしてお前の手になどはひったかな。
ふんふん。だんだんびっこがなほったやうだ。斯うなるとはおれは思はなかったな。」
馬のびっこがなおるといいですね・・・

【ツェねずみ】
「償うて下さい。償うて下さい。」というねずみが登場する。しつこい。

【鳥箱先生とフウねずみ】
四人のひよどりを育てたという(実際には死なせてしまった)鳥箱が、フウねずみの教育を担当することになる。
最後には猫が登場する。
猫大将は、
「ハッハッハ、先生もだめだし、生徒も悪い。先生はいつでも、もっともらしいうそばかり云っている。
生徒は志がどうもけしつぶより小さい。これではもうとても国家の前途が思ひやられる。」
と云いました。

【クンねずみ】
他のねずみをそねむと「エヘン、エヘン」とやってしまうクンねずみが、
猫大将の子供たちの家庭教師になってしまう。
そこでも思わず、「エヘン。エヘン。エイ。エイ」とやってしまい、怒った猫たちに食われてしまう。
そこへ猫大将が帰って来て、
「何か習ったか。」とききました。
「鼠をとることです。」と四ひきが一緒に答へました。
だいたいそういうオチになりますね・・・

【けだもの運動会】
けだもの(獣)の運動会で鉄棒ぶらさがり競争が行われる。
「五十秒」で優勝候補の猿が落ちる。
「六十秒」で麒麟と馬と羊が落ちる。(キリンがどうやってぶらさがるのか?、あるいは馬も?)
「七十秒」でカンガルーが落ちる。
[以下原稿なし]ということで結末がわからないのが残念だ。

【十力の金剛石】
典型的な探索譚ということで、王子が大臣の子と金剛石を探しに行く。
そして見つかった十力の金剛石とは露だった。
露ばかりではなく、碧いそら、かがやく太陽、丘をかけて行く風・・・
そういったものだった。

【若い木霊】
解説によると「詩人は実際に山の夜道で樹霊に出遭った衝撃的体験をひとに語っている」ということだ。
賢治なら、そういうこともあるだろう。トトロにも遭えるのではないだろうか?

【カイロ団長】
三十疋のあまがえるが、一杯、二厘半の「舶来ウェスキイ」に酔っ払うところがかわいい。
「いや、ありがたう、ウーイ、ケホン、ケホン、ウーイうまいね。どうも。」

【とっこべとら子】
「とっとべとら子」というのは神出鬼没の狐ということだ。

【よく利く薬とえらい薬】
清夫のがよく利く薬で、大三のがえらい薬

【十月の末】
「嘉ッコという子供に世界の細部がどのように見え、どのようにきこえ、どのように感じられているかが
次々に展開されている」ということだ。

【ひかりの素足】
「私たちはどこへ行くんですか。どうしてこんなつらい目にあふんですか。」楢夫はとなりの子にたずねました。
そういうことは、ゴーギャンにでも聞いてみてください・・・
「みんなひどく傷を受けている。それはおまへたちが自分で自分を傷つけたのだぞ。
けれどもそれも何でもない、」その人はまっ白な手で楢夫の頭をなでました。
「その人は又微かに笑ひました。すると大きな黄金いろの光が円い輪になってその人の頭のまはりにかかりました。」
そういうことだとこの人物はイエスのように思えるが、
一方で「極楽風景は『妙法蓮華経』の中でも賢治が特に感動した『如来寿量品第十六」の叙景を原型としている」と
解説に書かれている。和洋折衷か?

【ペンネンネンネンネン・ネネムの伝記】
「グスコーブドリの伝記」のもっとも古いかたちの先駆形であるという。

【風野又三郎】
「風というものが私たち人間や植物にとってどんなことをしてくれるかを宮沢先生は直接おもしろくわかりやすく
話して下さった」ということだ。
「大循環の話なら面白いけれどむずかしいよ。あんまり小さな子はわからないよ。」ということで
ここでは又三郎はずいぶんと立派な先生を勤めている。

【毒蛾】
解説によると、一九二二年七月に盛岡市中心で起った毒蛾発生・襲来事件を扱ったものだという。
この作品の半分以上に手が加えられて、ポラーノの広場の一部となったのだという。
「イーハトブの首都のマリオ」というのは岩手県の盛岡のことなのだろう。
そういうのには、ちょっとついていけない。

【谷】
「この谷は、「種山ヶ原」や「風の又三郎」で道に迷った少年が霧の中で出くわすあのまるで底なしの谷と
同じものであり、子どもにとっての<世界>のへりがもっているあの何ともいえぬこわさの象徴と
考えられる」ということだ。
「また来るよ。」慶次郎が叫びました。
「来るよ。」崖が答へました。
「馬鹿。」私が少し大胆になって悪口をしました。
「馬鹿。」崖も悪口を返しました。
「馬鹿野郎」慶次郎が少し低く叫びました。
ところがその返事はただごそごそっとつぶやくように聞こえました。
・・・たしかに怖い・・・

【二人の役人】
小心でユーモラスな二人の役人が登場する。

【鳥をとるやなぎ】
「きっと鳥はくちばしを引かれるんだね。」
「そうさ、くちばしならきっと磁石にかかるよ。」
「楊の木に磁石があるのだろうか。」
「磁石だ。」
鳥たちがいっぺんに楊の木に落ち込むのを見て子供はそう考えるのだという。
「<世界>の諸現象が、いかに不合理・反理性的な真実を実感させることがあるか、
このことに詩人と子どもは人一倍敏感である」ということだ。

【茨海小学校】
狐に欺されたのか、欺されなかったのか。
火山弾の標本を寄付してしまったところを見ると、欺されてしまったようだ。

【二十六夜】
「爾の時に疾翔大力、爾迦夷に告げて曰く、諦に聴け、諦に聴け、善く之を思念せよ、
我今汝に、梟鵄諸の悪禽、離苦解脱の道を述べん、と。
爾迦夷、則ち、両翼を開張し、虔しく頸を垂れて、座を離れ、低く飛揚して、
疾翔大力を讃嘆すること三匝にして、徐に座に復し、拝跪して唯願ふらく、
疾翔大力、疾翔大力、たゞ我等が為ために、これを説きたまへ。
たゞ我等が為ために、之を説き給へと。
疾翔大力、微笑して、金色の円光を以て頭に被れるに、その光、遍く一座を照し、
諸鳥歓喜充満せり。則ち説いて曰く、
汝等審に諸の悪業を作る。或は夜陰を以て、小禽の家に至る。時に小禽、既に終日日光に浴し、
歌唄跳躍して疲労をなし、唯唯甘美の睡眠中にあり。汝等飛躍して之を握つかむ。
利爪深くその身に入り、諸の小禽、痛苦又声を発するなし。則ち之を裂きて擅に噉食す。
或は沼田に至り、螺蛤を啄む。螺蛤軟泥中にあり、心柔輭にして、唯温水を憶ふ。
時に俄に身、空中にあり、或は直ちに身を破る、悶乱声を絶す。汝等之を噉食するに、
又懺悔の念あることなし。
斯の如きの諸の悪業、挙げて数ふるなし。悪業を以ての故に、更に又諸の悪業を作る。
継起して遂に竟ることなし。昼は則ち日光を懼れ又人及諸の強鳥を恐る。
心暫くも安らかなるなし、一度梟身を尽して、又新に梟身を得、審に諸の苦患を被りて、
又尽ることなし。」

解説によると、これはお経なのだという。お経とは一篇のテクストなのだという。
しかしお経によっては離苦解脱の道は説かれてはおらず、
<臨終正念>を示す穂吉の微笑が<離苦解脱>のすがたなのだという。
生き物を食べることでしか生き延びられない生き物は死に際になってようやく離苦解脱の道を得るのだろうか?
しかしそれは死に方であって生き方ではないように思える。

宮沢賢治全集4

2016-01-10 00:05:37 | 宮沢賢治
「私は、生れてから、兄が亡くなるまで豊沢町の家におりましたので、兄が家を離れた時以外、
いつも一緒だったのです。特に晩年のことはよく覚えています。
兄が寝ている部屋には机が置いてなかったので、兄は仰向きに寝たまま原稿を書いていました。
文語詩を大切にして、「なっても(何もかも)駄目でも、これがあるもや。」と言っていました。
賢治の妹のクニさんがそのようなことを語っていたと解説に書かれている。
全集を読むまで短歌を作っていたことも、文語詩を作っていたことも知らなかったし、
また、知ったからといって、簡単に受け入れられるものでもない。
あれほど親しみやすい童話を書いた作家の作品としては異質なものに見えてしまう。
きっと賢治の全貌というものがあるとすれば、今も謎のまま留まっているのだろう。
文語詩では、徹底してリズム感や音韻が追求されている感じがする。
語の数と響きと音色について推敲が重ねられ、何度も書き直されているようだ。
そうして鍛え抜かれた文章は童話にも展開される。
平易な意味と圧倒的に音楽的な文章により、私たちは彼の童話に惹き付けられてしまう。
だが意味が把握できずに音楽だけが取り残された短歌・文語詩の前では唖然としているのだ。

〔鶯宿はこの月の夜を雪ふるらし〕

鶯宿はこの月の夜を雪ふるらし。
 
鶯宿はこの月の夜を雪ふるらし、 黒雲そこにてたゞ乱れたり。
 
七つ森の雪にうづみしひとつなり、 けむりの下を逼りくるもの。
  
月の下なる七つ森のそのひとつなり、 かすかに雪の皺たゝむもの。
 
月をうけし七つ森のはてのひとつなり、 さびしき谷をうちいだくもの。
 
月の下なる七つ森のその三つなり、 小松まばらに雪を着るもの。
 
月の下なる七つ森のその二つなり、 オリオンと白き雲とをいたゞけるもの。
 
七つ森の二つがなかのひとつなり、 鉱石など堀りしあとのあるもの。
 
月の下なる七つ森のなかの一つなり、 雪白々と裾を引くもの。
 
月の下なる七つ森のその三つなり、 白々として起伏するもの。
  
七つ森の三つがなかの一つなり、 貝のぼたんをあまた噴くもの。
 
月の下なる七つ森のそのはての一つなり、 けはしく白く稜立てるもの。
  
稜立てる七つ森のそのはてのもの、 旋り了りてまこと明るし。

月・雪・七つ森・一つ・二つ・三つというような語を要素とし、
組み合わせが変更され、並びが変更され、変奏曲のような様相を呈している。
だが何を語っているのか意味がわからない私たちは曲が展開される様子を傍観するしかない。
ここには感情移入すべき人格もなければ動物たちも出て来ない。
すっかり取り残されてしまっている。

烏百態

雪のたんぼのあぜみちを
ぞろぞろあるく烏なり

雪のたんぼに身を折りて
二声鳴けるからすなり

雪のたんぼに首を垂れ
雪をついばむ烏なり

雪のたんぼに首をあげ
あたり見まはす烏なり

雪のたんぼの雪の上
よちよちあるくからすなり

雪のたんぼを行きつくし
雪をついばむからすなり

たんぼの雪の高みにて
口をひらきしからすなり

たんぼの雪にくちばしを
じつとうづめしからすなり

雪のたんぼのかれ畦に
ぴよんと飛びたるからすなり

雪のたんぼをかぢとりて
ゆるやかに飛ぶからすなり

雪のたんぼをつぎつぎに
西へ飛びたつ烏なり

雪のたんぼに残されて
脚をひらきしからすなり

西にとび行くからすらは
あたかもごまのごとくなり

雪・たんぼ・からすを材料としていて、先ほどの作品と似ている。
私たちは、なかなか作品の中に入れない。

〔ま青きそらの風をふるはし〕

ま青きそらの風をふるはし
ひとりはたらく脱穀機

 R-R-r-r-r-r-r-r-r
脱穀小屋の庇の下に
首を垂れたる二疋の馬

 R-R-r-r-r-r-r-r-r
粉雪おぼろにひかりたち
はるかにりりと鐘なれば
うなじをあぐる二疋の馬

華やかなりしそのかみの
よきギャロップをうちふみて
うまやにこそは帰り行くなれ

R-R-r-r-r-r-r-r-rという表現から連想される音の響きが
脱穀機と妙に合っている。

不軽菩薩

あらめの衣身にまとひ
城より城をへめぐりつ
上慢四衆の人ごとに
菩薩は礼をなしたまふ

 (われは不軽ぞかれは慢
  こは無明なりしかもあれ
  いましも展く法性と
  菩薩は礼をなし給ふ)

われ汝等を尊敬す
敢て軽賤なさざるは
汝等作仏せん故と
菩薩は礼をなし給ふ

 (こゝにわれなくかれもなし
  たゞ一乗の法界ぞ
  法界をこそ拝すれと
  菩薩は礼をなし給ふ)

デクノボーのモデルである不軽菩薩について書かれている。
不軽菩薩、あるいは常不軽菩薩と呼ばれる。
法華経常不軽菩薩品に登場する。

スタンレー探検隊に対する二人のコンゴー土人の演説

白人白人いづくへ行くや
こゝを溯らば毒の滝
がまは汝を膨らまし
鰐は汝の手を食はん

     ちがひなしちがひなし
     がまは汝の舌を抜き
     鰐は汝の手を食はん

白人白人いづくへ行くや
こゝより奥は暗の森
藪は汝の足をとり
蕈は汝を腐らさん

     ちがひなしちがひなし
     藪は汝の足をとり
     蕈は汝を腐らさん

白人白人いづくへ行くや
こゝを昇らば熱の丘
赤は汝をえぼ立たせ
黒は汝を乾かさん

     ちがひなしちがひなし
     赤は汝をえぼ立たせ
     黒は汝を乾かさん

白人白人いづくへ行くや
こゝを過ぐれば化の原
蛇はまとはんなんぢのせなか
猫は遊ばんなんぢのあたま

     ちがひなしちがひなし
     蛇はまとはんなんぢのせなか
     猫は遊ばんなんぢのあたま

白人白人いづくへ行くや
原のかなたはアラヴ泥
どどどどどうと押し寄せて
汝らすべて殺されん

     ちがひなしちがひなし
     どどどどどうと押し寄せて
     汝らすべて殺されん

    (このときスタンレー探検隊長こらへかねて
     噴き出し土人は叫びて遁げ去る)

白人白人いづくへ行くや
     ちがひなしちがひなし
という掛け合いが何度も繰り返される。
コンゴー土人は白人脅しているようだが、どことなくユーモアがある。
音楽的な要素に加えて風景も想像できるが、
私たちは「雨ニモマケズ」のような心情を吐露した詩に揺さぶられる傾向がある。
作者はそのことを意識していたのだろうか?

〔廿日月かざす刃は音無しの〕

廿日月かざす刃は音無しの
    黒業ひろごるそらのひま
         その竜之介

風もなき修羅のさかひを行き惑ひ
    すゝきすがるゝいのじ原
         その雲のいろ

日は沈み鳥はねぐらにかへれども
    ひとはかへらぬ修羅の旅
         その竜之介

「春と修羅」によると、賢治は自分のことを修羅と考えていたということだ。
そんな人間には帰るところなんてないのだろう。

宮沢賢治全集3

2016-01-03 00:05:25 | 宮沢賢治
ちくま文庫 宮沢賢治全集3を、ぱらぱらめくった。
この全集は1~4が詩集で、5~8が童話という構成になっている。
そういうわけで詩を解さぬ愚か者は、一冊700ページの本を4冊めくり続けることになる。
4冊分を合計すると3000ページくらいに達するのではないかと思う。
時間がかかりそうだが、ぱらぱらめくるだけなので、1時間で200ページくらい進む。
3000ページに換算しても、およそ15時間で済む。
・・・いつか日を改めて、ゆっくり読もう。

詩集とは言っても、この第3巻には短歌も含まれている。
賢治が短歌を書いていたことは知らなかった。そういうことは全集を読んでみないとわからないのだろう。
その短歌だが、何を書いているのか、よくわからない。

うどの花
ひたすらに嚙む甲虫の
翅にうつりて
飛ぶちぎれ雲

甲虫の翅に雲が映っていたんですね。うーん、だからなんなのだろう。
・・・詩のときよりもいっそう、ページをめくるスピードが増す。

ベムベロはよき名ならずや
ベムベロの
みじかき銀の毛はうすびかり

うーん、ベムベロってなんなのだろう?
ググってみると、ん、妖怪人間?、闇に隠れて生きるというアレか?
いや、そうではない。「カワヤナギの若い花芽を総称して、東北ではベムベロと呼びます」ということだ。

夜の間がら ちゃんがちゃんがうまこ
見るべとて 下の橋には いっぱ 人立つ

これもググってみる。「ちゃがちゃがうまこ」とはおそらく「チャグチャグ馬コ」のことだと思われます。
なるほど・・・

さうしてすべてのこれらのゝゝゝは
何は何何で何だわよと主張をし
何は何何で何だわよと他を叱り
ゝゝゝはゝゝゝでゝゝゝだわよ 戦って
いまや巨きな東京をほとんど征服しようとする

私たちが普段やっていることというのは「何は何何で何だわよ」の繰り返しかもしれない。
「ゝゝゝはゝゝゝでゝゝゝだわよ」
そんなことを言っている間に、多くの時間が通り過ぎた。
そして残された時間も
「ゝゝゝはゝゝゝでゝゝゝだわよ」
なんてことを言い続けなければならないと思うとうんざりする。
私の時間はどこに行ってしまったのだろう?

〔この夜半おどろきさめ〕

この夜半おどろきさめ
耳をすまして西の階下を聴けば
あゝまたあの児が咳しては泣きまた咳しては泣いて居ります
その母のしづかに教へなだめる声は
合間合間に絶えずきこえます
あの室は寒い室でございます
昼は日が射さず
夜は風が床下から床板のすき間をくゞり
昭和三年の十二月私があの室で急性肺炎になりましたとき
新婚のあの子の父母は
私にこの日照る広いじぶんらの室を与へ
じぶんらはその暗い私の四月病んだ室へ入って行ったのです
そしてその二月あの子はあすこで生まれました
あの子は女の子にしては心強く
凡そ倒れたり落ちたりそんなことでは泣きませんでした
私が去年から病やうやく癒え
朝顔を作り菊を作れば
あの子もいっしょに水をやり
時には蕾ある枝もきったりいたしました
この九月の末私はふたゝび
東京で病み
向ふで骨にならうと覚悟してゐましたが
こたびも父母の情けに帰って来れば
あの子は門に立って笑って迎へ
また階子からお久しぶりでごあんすと声をたえだえ叫びました
あゝいま熱とあえぎのために
心をとゝのへるすべをしらず
それでもいつかの晩は
わがなぃもやと云ってねむってゐましたが
今夜はたゞたゞ咳き泣くばかりでございます
あゝ大梵天王こよひはしたなくも
こゝろみだれてあなたに訴へ奉ります
あの子は三つではございますが
直立して合掌し
法華の首題も唱へました
如何なる前世の非にもあれ
たゞかの病かの痛苦をば私にうつし賜はらんこと

この詩は「雨ニモマケズ手帳」に書かれていて「雨ニモマケズ」の二つ前に載っている。
祈りなのか、諦観なのか、そういうものが漂っている。
なんだか浄化されたものを眼にしている感じがする。
その姿がすっと私たちの方へ忍び込んで来て、読んでいる私たちまで浄化される。
一瞬、訪れた心地良さは、そういう類のものであるらしい。
明日の朝、出勤する頃には忘れてしまっているだろう。
そして夜に本を読んで、また思い出すのだ。
私たちの昼の姿は偽りなのだろうか?
私たちにそのような問い掛けをもたらすのは芸術の作用ではない。
芸術に触れた私たちが迷っているだけ。

〔雨ニモマケズ〕

雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク
決シテ瞋ラズ
イツモシヅカニワラッテヰル
一日ニ玄米四合ト
味噌ト少シノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲ
ジブンヲカンジョウニ入レズニ
ヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ
野原ノ松ノ林ノ蔭ノ
小サナ萓ブキノ小屋ニヰテ
東ニ病気ノコドモアレバ
行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ
行ッテソノ稲ノ朿ヲ負ヒ
南ニ死ニサウナ人アレバ
行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ
北ニケンクヮヤソショウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイヒ
ヒドリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニ
ワタシハナリタイ

法華経に出て来る常不軽菩薩がデクノボーのモデルと言われている。
みんなから軽蔑されても、あなたを尊敬しますと言うような、そんな菩薩だ。
ドストエフスキーの小説に登場するムイシュキン公爵やアリョーシャも
常不軽菩薩系というか、デクノボー系の人物の特徴を備えている。
彼らの最大の特徴は「ジブンヲカンジョウニ入レズニ」というところにある。
20世紀以降は自我が肥大化して様々な不幸が生じている。
そのような不幸を回避する方法を宗教家や詩人や作家は求めている。
ひとつの解決策がここに示されているが真理でいられるのは夜だけであり
昼になれば私と共に偽りになってしまう。
21世紀を生きる人間はそのことを考えてはため息を吐く。

〔あゝそのことは〕

あゝそのことは
どうか今夜は云はないで
どうか今夜は云はないでください
半分焼けてしまった肺で
からくもからくも
炭酸を吐き
わづかの酸素を仰ぐいま、
どうしてそれがきめられませう
あゝそのことは
健康な十年の思索も
ついに及ばぬものなのです
その爆弾が
わたくしの頭の中でまっしろに爆発すれば
そこに湧くはげしい熱や
血を凍らせる悪瓦斯を
もうわたくしははきだすことも
洗ひ去ることもできないのです

健康な十年の思索も及ばなかったものというのは、
きっとアレのことだろう。

宮沢賢治全集2

2015-12-27 00:05:51 | 宮沢賢治
ちくま文庫 宮沢賢治全集2を読んだ。
いや正確には、ぱらぱらめくっただけです。

174ページ
その服は
おれの組合から買ってくれたのかい
いやありがたう
すてきななりだ
まるでこれからアフガニスタンへ馬を盗みに行くやうだ

アフガニスタンへ馬を盗みに行くような素敵な服・・・
村上春樹かーーーっ

199ページ
あたたかくくらくおもいもの
ぬるんだ水空気懸垂体
それこそほとんど恋愛自身なのである
なぜなら恋の八十パーセントは
H2Oでなりたって
のこりは酸素と炭酸瓦斯との交流なのだ

(H2Oは化学記号であり、テキストファイルで表現できませんが、2は下半分に書かれる2であります。)
「恋の八十パーセント」というのは、賢治では珍しい表現ではないかと思う。
そもそも「恋」なんて全然、出て来ないので
その八十パーセントもない。

224ページ
一〇四九  基督再臨
風が吹いて
日が暮れかゝり
麦のうねがみな
うるんで見えること
石河原の大小の鍬
まっしろに発火しだした
また労れて死ぬる支那の苦力や
働いたために子を生み悩む農婦たち
また、、、、  の人たちが
みなうつゝとも夢ともわかぬなかに云ふ
おまへらは
わたくしの名を知らぬのか
わたしはエス
おまへらに
ふたゝび
あらはれることをば約したる
神のひとり子エスである

キリスト教と社会主義は抑制されているのだが、時々、出て来る。

230ページ
一〇五三  政治家
あっちもこっちも
ひとさわぎおこして
いっぱい呑みたいやつらばかりだ
     羊歯の葉と雲
        世界はそんなにつめたく暗い
けれどもまもなく
さういふやつらは
ひとりで腐って
ひとりで雨に流される
あとはしんとした青い羊歯ばかり
そしてそれが人間の石炭紀であったと
どこかの透明な地質学者が記録するであらう

政治家について書かれたものも少ない。
ましてや悪口になっているものは見あたらない。
そういう意味では珍しい。

233ページ
一〇五六  〔サキノハカといふ黒い花といっしょに〕
サキノハカといふ黒い花といっしょに
革命がやがてやってくる
ブルジョアジーでもプロレタリアートでも
おほよそ卑怯な下等なやつらは
みんなひとりで日向へ出た蕈のやうに
潰れて流れるその日が来る
やってしまへやってしまへ
酒を呑みたいために尤らしい波瀾を起すやつも
じぶんだけで面白いことをしつくして
人生が砂っ原だなんていふにせ教師も
いつでもきょろきょろひとと自分とくらべるやつらも
そいつらみんなをびしゃびしゃに叩きつけて
その中から卑怯な鬼どもを追ひ払へ
それらをみんな魚や豚につかせてしまへ
はがねを鍛へるやうに新らしい時代は新らしい人間を鍛へる
紺いろした山地の稜をも砕け
銀河をつかって発電所もつくれ

これもなんか悪口みたいだが、なんとなく悲しくなる。
「いつでもきょろきょろひとと自分とくらべるやつら」というのは私のことかもしれない。
ぜひ、びしゃびしゃに叩きつけてほしい。

256ページ
一〇七一  〔わたくしどもは〕
わたくしどもは
ちゃうど一年いっしょに暮しました
その女はやさしく蒼白く
その眼はいつでも何かわたくしのわからない夢を見てゐるやうでした
いっしょになったその夏のある朝
わたくしは町はづれの橋で
村の娘が持って来た花があまり美しかったので
二十銭だけ買ってうちに帰りましたら
妻は空いてゐた金魚の壺にさして
店へ並べて居りました
夕方帰って来ましたら
妻はわたくしの顔を見てふしぎな笑ひやうをしました
見ると食卓にはいろいろな果物や
白い洋皿などまで並べてありますので
どうしたのかとたづねましたら
あの花が今日ひるの間にちゃうど二円に売れたといふのです
……その青い夜の風や星、
  すだれや魂を送る火や……
そしてその冬
妻は何の苦しみといふのでもなく
萎れるやうに崩れるやうに一日病んで没くなりました

「恋」も珍しいが「妻」はもっと珍しいのではないかと思う。そういう意味で漱石の対極にある。
ここに出て来る妻は花の化身なのか、その身を犠牲にして食べ物を拵えたのか、
そんなふうにして萎れるように死んでいったのか、
いずれにしても幸福からは程遠い。

302ページ
〔断章六〕
新しい時代のコペルニクスよ
余りに重苦しい重力の法則から
この銀河系を解き放て

新しい時代のダーヴヰンよ
更に東洋風静観のキャレンジャーに載って
銀河系空間の外にも至って
更にも透明に深く正しい地史と
増訂された生物学をわれらに示せ

衝動のやうにさへ行われる
すべての農業労働を
冷く透明な解析によって
その藍いろの影といっしょに
舞踏の範囲にまで高めよ

素質ある諸君はただにこれらを刻み出すべきである
おほよそ統計に従はば
諸君のなかには少なくとも百人の天才がなければならぬ

〔断章七〕
新たな詩人よ
嵐から雲から光から
新たな透明なエネルギーを得て
人と地球にとるべき形を暗示せよ
 
新たな時代のマルクスよ
これらの盲目な衝動から動く世界を
素晴らしく美しい構成に変へよ

諸君この颯爽たる
諸君の未来圏から吹いて来る
透明な清潔な風を感じないのか

新しい時代のコペルニクス
新しい時代のダーヴイン
新たな時代のマルクス
彼らが切り開いた時代は過ぎ去ってしまった。
現代の英雄というのは、ジョン・レノンであったり、スティーブ・ジョブズであったりする。
きっと賢治の呼び掛けは、そういうタイプの英雄には届かないだろう。

368ページ
〔降る雨はふるし〕
降る雨はふるし
倒れる稲はたふれる
たとへ百分の一しかない蓋然が
いま眼の前にあらはれて
どういふ結果にならうとも
おれはどこへも遁げられない
  ……春にはのぞみの列とも見え
    恋愛そのものとさへ考へられた
    鼠いろしたその雲の群……
もうレーキなどはふり出して
かういふ開花期に
続けて降った百ミリの雨が
どの設計をどう倒すか
眼を大きくして見てあるけ
たくさんのこわばった顔や
非難するはげしい眼に
保険をとっても弁償すると答へてあるけ

生活(農業)に関わるものが増えて来る。
稲が倒れぬよう、凶作にならぬよう、身を擦り減らし、やがて病に倒れる。
あるいは、その顔つきや眼つきに倒れてしまったのかもしれない。

542ページ
〔そしてわたくしはまもなく死ぬのだらう〕
そしてわたくしはまもなく死ぬのだらう
わたくしといふのはいったい何だ
何べん考へなおし読みあさり
さうともきゝかうも教へられても
結局まだはっきりしてゐない
わたくしといふのは
[以下空白]

宮沢賢治全集1

2015-12-20 00:05:54 | 宮沢賢治
ちくま文庫 宮沢賢治全集1を読んだ。



わたくしといふ現象は
仮定された有機交流電燈の
ひとつの青い照明です
(あらゆる透明な幽霊の複合体)
風景やみんなといっしょに
せはしくせはしく明滅しながら
いかにもたしかにともりつづける
因果交流電燈の
ひとつの青い照明です
(ひかりはたもち、その電燈は失はれ)

これらは二十二箇月の
過去とかんずる方角から
紙と鉱質インクをつらね
(すべてわたくしと明滅し
 みんなが同時に感ずるもの)
ここまでたもちつゞけられた
かげとひかりのひとくさりづつ
そのとほりの心象スケッチです

これらについて人や銀河や修羅や海胆は
宇宙塵をたべ、または空気や塩水を呼吸しながら
それぞれ新鮮な本体論もかんがへませうが
それらも畢竟こゝろのひとつの風物です
たゞたしかに記録されたこれらのけしきは
記録されたそのとほりのこのけしきで
それが虚無ならば虚無自身がこのとほりで
ある程度まではみんなに共通いたします
(すべてがわたくしの中のみんなであるやうに
 みんなのおのおののなかのすべてですから)

けれどもこれら新世代沖積世の
巨大に明るい時間の集積のなかで
正しくうつされた筈のこれらのことばが
わづかその一点にも均しい明暗のうちに
   (あるひは修羅の十億年)
すでにはやくもその組立や質を変じ
しかもわたくしも印刷者も
それを変らないとして感ずることは
傾向としてはあり得ます
けだしわれわれがわれわれの感官や
風景や人物をかんずるやうに
そしてたゞ共通に感ずるだけであるやうに
記録や歴史、あるひは地史といふものも
それのいろいろの論料といっしょに
(因果の時空的制約のもとに)
われわれがかんじてゐるのに過ぎません
おそらくこれから二千年もたったころは
それ相当のちがった地質学が流用され
相当した証拠もまた次次過去から現出し
みんなは二千年ぐらゐ前には
青ぞらいっぱいの無色な孔雀が居たとおもひ
新進の大学士たちは気圏のいちばんの上層
きらびやかな氷窒素のあたりから
すてきな化石を発掘したり
あるひは白堊紀砂岩の層面に
透明な人類の巨大な足跡を
発見するかもしれません

すべてこれらの命題は
心象や時間それ自身の性質として
第四次延長のなかで主張されます

大正十三年一月廿日  宮澤賢治

「春と修羅」、これらの作品を詩集と呼ぶことを賢治は嫌い「心象スケッチ」と称したということだ。
ここでは「わたくし」は現象であり、「心象」は「風景」と同じスケッチということだ。
私欲を棄てた詩人の態度がそうなのではなくて、「私」が虚構に過ぎないことを見抜いているのか、
あるいは仏教から学んだのではないかと思う。
(「私」が虚構であるとか、実在しないとかいうことは、いろいろなところに書いているので、
ここにはもう書かない)

詩、あるいは心象スケッチについての私の感度は驚くほど鈍く、その理解は驚くほど低い。
ここまで理解が低いと自分を擁護する気にもならない。
だからまあ、実態は、ここにある全集のページをぱらぱらめくっているだけなのだ。
哲学や小説のように字が敷き詰められているわけではないので、あっという間にページを繰ってしまう。
そして頭にも心にも、何も残っていない。

しかし振り返ってみれば、哲学や小説についても、それほど理解することが出来ず、
ぱらぱらめくっていただけの時期があったように思う。
きっとこの詩集(心象スケッチ)も今度、読む時には、もう少し理解がすすみ、
もう少し身近に感じられるようになるのではないかと思う。
まあ根拠も何もないですが・・・

そんな未熟な読者がピックアップするものだから、たいして意味はありません。
ただこの時期に、こういう本を読んだという記録に過ぎないです。

永訣の朝

けふのうちに
とほくへいってしまふわたくしのいもうとよ
みぞれがふっておもてはへんにあかるいのだ
   (あめゆじゅとてちてけんじゃ)
うすあかくいっさう陰惨な雲から
みぞれはびちょびちょふってくる
   (あめゆじゅとてちてけんじゃ)
青い蓴菜のもやうのついた
これらふたつのかけた陶椀に
おまへがたべるあめゆきをとらうとして
わたくしはまがったてっぽうだまのやうに
このくらいみぞれのなかに飛びだした
   (あめゆじゅとてちてけんじゃ)
蒼鉛いろの暗い雲から
みぞれはびちょびちょ沈んでくる
ああとし子
死ぬといふいまごろになって
わたくしをいっしゃうあかるくするために
こんなさっぱりした雪のひとわんを
おまへはわたくしにたのんだのだ
ありがたうわたくしのけなげないもうとよ
わたくしもまっすぐにすすんでいくから
   (あめゆじゅとてちてけんじゃ)
はげしいはげしい熱やあえぎのあひだから
おまへはわたくしにたのんだのだ
 銀河や太陽、気圏などとよばれたせかいの
そらからおちた雪のさいごのひとわんを……
……ふたきれのみかげせきざいに
みぞれはさびしくたまってゐる
わたくしはそのうへにあぶなくたち
雪と水とのまっしろな二相系をたもち
すきとほるつめたい雫にみちた
このつややかな松のえだから
わたくしのやさしいいもうとの
さいごのたべものをもらっていかう
わたしたちがいっしょにそだってきたあひだ
みなれたちゃわんのこの藍のもやうにも
もうけふおまへはわかれてしまふ
(Ora Orade Shitori egumo)
ほんたうにけふおまへはわかれてしまふ
あああのとざされた病室の
くらいびゃうぶやかやのなかに
やさしくあをじろく燃えてゐる
わたくしのけなげないもうとよ
この雪はどこをえらばうにも
あんまりどこもまっしろなのだ
あんなおそろしいみだれたそらから
このうつくしい雪がきたのだ
   (うまれでくるたて
    こんどはこたにわりやのごとばかりで
    くるしまなあよにうまれてくる)
おまへがたべるこのふたわんのゆきに
わたくしはいまこころからいのる
どうかこれが天上のアイスクリームになって
おまへとみんなとに聖い資糧をもたらすやうに
わたくしのすべてのさいはひをかけてねがふ

最愛の妹の最期を看取る、その風景が淡々と描写され、その心情が淡々と繰り返され、
(あめゆじゅとてちてけんじゃ)という音韻が、読者の心の中で何度も繰り返される。
その風景と心情と音韻が一段落した後に、あめゆきをとろうとした作者は、
雪のしろさに行為を阻まれる。

この雪はどこをえらばうにも
あんまりどこもまっしろなのだ

私はこの部分を読む度に泣きそうな気分になる。
気が狂いそうだ。

けだしわたくしはいかにもけちなものではありますが
自分の畑も耕せば
冬はあちこちに南京ぶくろをぶらさげた水稲肥料の設計事務所も出して居りまして
おれたちは大いにやらう約束しようなどいふことよりは
も少し下等な仕事で頭がいったいなのでございますから
さう申したとて別に何でもありませぬ
北上川が一ぺん氾濫しますると
百万疋の鼠が死ぬのでございますが
その鼠らがみんなやっぱりわたくしみたいな云い方を
生きているうちは毎日いたして居りまするのでございます
(春と修羅 第二集 序文より)

「一疋の大口魚が毎年生む子の数は百万疋とか聞く。牡蠣になるとそれが二百万の倍数の上るという。
そのうちで生長するのはわずか数匹に過ぎないのだから、自然は経済的に非常な濫費者であり、
徳義上には恐るべく残酷な父母である」と夏目漱石「思い出す事など」に書いてあったが、
「北上川の氾濫で死んでしまう百万疋の鼠」というのも残酷であり、濫費だろう。
そのような鼠らが「わたくし」みたいな言い方をしているのだという。
「風の歌を聴け」の鼠も、この中の一疋かもしれない。

告別

おまへのバスの三連音が
どんなぐあひに鳴ってゐたかを
おそらくおまへはわかってゐまい
その純朴さ希みに充ちたたのしさは
ほとんどおれを草葉のやうに顫はせた
もしもおまへがそれらの音の特性や
立派な無数の順列を
はっきり知って自由にいつでも使へるならば
おまへは辛くてそしてかゞやく天の仕事もするだらう
泰西著名の楽人たちが
幼齢弦や鍵器をとって
すでに一家をなしたがやうに
おまへはそのころ
この国にある皮革の鼓器と
竹でつくった管とをとった
けれどもいまごろちゃうどおまへの年ごろで
おまへの素質と力をもってゐるものは
町と村との一万人のなかになら
おそらく五人はあるだらう
それらのひとのどの人もまたどのひとも
五年のあひだにそれを大抵無くすのだ
生活のためにけづられたり
自分でそれをなくすのだ
すべての才や力や材といふものは
ひとにとゞまるものでない
ひとさへひとにとゞまらぬ
云はなかったが、
おれは四月はもう学校に居ないのだ
恐らく暗くけはしいみちをあるくだらう
そのあとでおまへのいまのちからがにぶり
きれいな音の正しい調子とその明るさを失って
ふたたび回復できないならば
おれはおまへをもう見ない
なぜならおれは
すこしぐらゐの仕事ができて
そいつに腰をかけてるやうな
そんな多数をいちばんいやにおもふのだ
もしもおまへが
よくきいてくれ
ひとりのやさしい娘をおもふやうになるそのとき
おまへに無数の影と光の像があらはれる
おまへはそれを音にするのだ
みんなが町で暮したり
一日あそんでゐるときに
おまへはひとりであの石原の草を刈る
そのさびしさでおまへは音をつくるのだ
多くの侮辱や窮乏の
それらを噛んで歌ふのだ
もしも楽器がなかったら
いゝかおまへはおれの弟子なのだ
ちからのかぎり
そらいっぱいの
光でできたパイプオルガンを弾くがいゝ

この作品は花巻農学校を去るにあたり、
音楽の才能を持っていた生徒に宛てて書いたということだ。
あるいは教師を辞めて農民になることを決めた自分に宛てて書いたのだろう。

おまへの素質と力をもってゐるものは
町と村との一万人のなかになら
おそらく五人はあるだらう
それらのひとのどの人もまたどのひとも
五年のあひだにそれを大抵無くすのだ
生活のためにけづられたり
自分でそれをなくすのだ
すべての才や力や材といふものは
ひとにとゞまるものでない
ひとさへひとにとゞまらぬ

音楽の世界で生きて行こうとすると熾烈な競争に晒されてしまう。
一万人の中の五人では到底生き残れないが、
そのようなありふれた才能ですら五年の間になくしてしまうのだという。
私たちは私たちで生活のために時間を切り売りしていて、
音楽や本はますます生活から遠ざかって行く。
私たちに接近してくる音楽や本は商業的なものばかりであり、
それに慣れると私たちは理解する力を失ってしまう。
生活に疲れ果てていた7年前はそんなふうだった。
何か明確な目標があるわけでもない。他人に誇れるものがあるわけでもない。
それでも手探りで、試行錯誤を重ねながら、
そして一方では経済的な影響力を失いながら、
私はここまでやって来た。
これからどこに向かうのかもわからない。
80年生きるための人生設計をしているわけではない。
きっといつか飢え死にするだろう。

みんなが町で暮したり
一日あそんでゐるときに
おまへはひとりであの石原の草を刈る
そのさびしさでおまへは音をつくるのだ
多くの侮辱や窮乏の
それらを噛んで歌ふのだ
もしも楽器がなかったら
いゝかおまへはおれの弟子なのだ
ちからのかぎり
そらいっぱいの
光でできたパイプオルガンを弾くがいゝ

賢治も、オルガンの得意なこの子も、
みんなが遊んでいる姿を羨ましいと思っているわけではないだろうが、
ひとりでさびしく侮辱や窮乏に耐えねばならない境遇が待ち受けていることについては、
先輩である賢治がやさしく語りかける「おまへはおれの弟子なのだ」と。
その言葉があれば生きていける。
その言葉があるからこそ生きていける。