岩波文庫の「吾輩は猫である」を読んだ。
500ページ以上あってけっこう長い。テンポよく読めるが、読みやすい内容ではない。
平易な文章・リズム感・ユーモアといった要素を、村上春樹は夏目漱石から引き継いでいるのではないかと思う。
日本語で思考し、日本語で気持を伝える人々に訴えかけ、国民的作家と呼ばれるためには
日本語そのものの開拓が必要なのだろうが、二人の作家はそういうことを実践しているのだろう。
そのようにして編み出された表現が、私たちのどこかに強く働きかける。
その「どこか」を彼らは探り当てている。
151ページ
「僕は実業家は学生時代から大嫌いだ。金さえ取れれば何でもする、昔でいえば素町人だからな」
「・・・ところがその金という奴がくせ者で、―――今もある実業家のところへ行って
聞いて来たんだが、金を作るにも三角術を使わなくちゃいけないというのさ―――
義理をかく、人情をかく、恥をかくこれで三角になるそうだ面白いじゃないかアハハハハハ」
漱石は「富豪や金力」を憎悪していたということだ。
「吾輩は猫である」が発表されてから100年以上が経過し世界はますます実業家のものとなってきた。
「素町人」といって蔑視するものではなく、自らの実力で事業を切り開いてきた大層立派な人物として
崇め奉らなければならなくなっている。ここは「町人が支配する世界」なのだ。
意志も無く、目的も無く、自己増殖を続ける資本の性質と
他者より上に立ちたい、他者の言いなりにはなりたくないという野心あるいは虚栄心と
世界中の至る所で次々と解放されてゆく一人ひとりの欲望の集積を掛け合わせた結果、
町人による絶大な支配が実現されるようになった。
車やテレビや洗濯機が普及して人々の生活が豊かになったとか、
スマホやインターネットの普及によって情報の発信と収集が容易になったとか、
それで「何かしら良くなった」ということになっている。
そしてそのような変化の一部を担うことが世界に参加することであり、
大きな変化をもたらすことがサクセスであり支配となる。
ずっとその中で生きてきたのであれば、資本の性質に協力する人生を讃え続けなければならない。
その外で生きようとすれば、それなりの報復を覚悟しなければならない。
「参加せざるを得ない」か「疎外される」のかどちらかになる。
276ページ
「超人だ。ニーチェのいわゆる超人だ」
この本にはニーチェの超人がしばしば登場する。
326ページ
「・・・ナポレオンでも、アレキサンダーでも勝って満足したものは一人もないんだよ。
人が気に喰わん、喧嘩をする、先方が閉口しない、法廷へ訴える、法廷で勝つ、
それで落着と思うのは間違いさ。心の落着は死ぬまで焦ったって片付くことがあるものか。
寡人政治がいかんから、代議政体にする。代議政体がいかんから、また何かにしたくなる。
川が生意気だって橋をかける、山が気に喰わんといって隧道(トンネル)を掘る。
交通が面倒だといって鉄道を布く。それで永久満足が出来るものじゃない。
去ればといって人間だものどこまで積極的に我意を通す事が出来るものか。
西洋の文明は積極的、進取的かも知れないがつまり不満足で一生をくらす人の作った文明さ。
日本の文明は自分以外の状態を変化させて満足を求めるのじゃない」
東洋思想が良いかどうかは置いといて、西洋思想は満足を得られるものではないとして批判されている。
村上春樹の作品にも「山を崩して海を埋め立てるのが立派なことだと思っている」というような文章があった。
「積極的」「進取的」という考え方には、意志に対する過剰な評価が背景にあるように思える。
不死を望む宗教は精神を神に準じるものとして同じ地位に祀りあげ、
自然を造り替えようとする意志に指導者あるいは支配者としての第一の資質を認める。
キリスト教の教義とプラトンのイデアが結びついた思想が西洋をずっと支配してきた。
そしてその西洋に支配された世界は近代化(西洋化)を強いられてきた。
民族古来の文明は初め衝突し、次には融合するだろう。
やがて達成されるであろう偉大な目的の実現のために何かしらの貢献をしているのだと、
微力ではあるが世界や社会や文明の進歩に尽くしているのだと、
そんなふうに信じていなければやり切れないというのがこの世界のルールとなり、
そうではない考え方は「消極的」とか「ニヒリズム」といって退けられる。
日本で融合した文明は「やる気」を見せようとか「改善」の姿勢を見せようとか
「建て前」という現象として生じる場合もある。
どこまで行っても「改善」であり「改革」であり「維新」であり、
どこまで行っても「不満足」である。
345ページ
「天気の悪いのに何故グード・モーニングですかと生徒に問われて七日間考えたり、
コロンバスという名は日本語で何といいますかと聞かれて三日三晩かかって答を工夫する位な男」
猫の主人である苦沙弥は胃弱を抱えた英語の先生であることから作者に近い。
頭脳明晰からは程遠く、迷亭やら八木独仙君に振り回される。
「天気の悪いのに何故グード・モーニング」なのか「七日間考えたり」するので悪人ではない。
356ページ
「君はしきりに時候おくれを気にするが、時と場合によると、時候おくれの方がえらいんだぜ。
第一今の学問というものは先へ先へと行くだけで、どこまで行ったって際限はありゃしない。
到底満足は得られやしない。そこへ行くと東洋流の学問は消極的で大に味わいがある。
心そのものの修行をするのだから」と先達て哲学者から承った通りを自説のように述べ立てる。
「えらい事になって来たぜ。何だか八木独仙君のような事をいってるね」
369ページ
「自分が感服して、大に見習おうとした八木独仙君も迷亭の話しによって見ると、別段見習うにも
及ばない人間のようである。のみならず彼の唱道するところの説は何だか非常識で、
迷亭のいう通り多少瘋癲的系統に属してもおりそうだ」
東洋思想(仏教、道教)もまた道化として扱われる。
迷亭というのは後の「高等遊民」のモデルということだ。何も生み出さないし、何も選べない。
猫や主人(苦沙弥)に語らせているが、作者も西洋思想も東洋思想も選べず、迷っているように感じる。
421ページ
「吾輩が面白いというと、何がそんなに面白いと聞く人があるかも知れない。聞くのは尤もだ。
人間にせよ、動物にせよ、己を知るのは生涯の大事である。己を知る事が出来さえすれば
人間も人間として猫より尊敬を受けてよろしい。その時は我輩もこんないたずらを書くのは
気の毒だからすぐさまやめてしまうつもりである」
己の本分をわきまえるというような道徳的なことは除外するとして、
己のことを知ろうとか、心のことを理解しようと努めても、ほとんど得るものがない。
私たちの思惟は玉葱のようなものであり、その表層を一枚一枚剥がしていけば、
最後に「己」という核にたどり着くのだとか、そういうわけではない。最後の核は最初の皮と何ら変わるところはない。
己の働きというのは、あるものと別のものの関係性ということであり、実体はないのかもしれない。
それは本来は対象ではないのだが、私たちは思惟する自己を対象と考えたりするので誤解が生じる。
デカルトが勘違いしたのも、そういうことではないかと思う。
「心が捉われている」とは自己を対象化している状態ではないかと思う。
無心というのは対象に没頭している状態ではないかと思う。
500ページ以上あってけっこう長い。テンポよく読めるが、読みやすい内容ではない。
平易な文章・リズム感・ユーモアといった要素を、村上春樹は夏目漱石から引き継いでいるのではないかと思う。
日本語で思考し、日本語で気持を伝える人々に訴えかけ、国民的作家と呼ばれるためには
日本語そのものの開拓が必要なのだろうが、二人の作家はそういうことを実践しているのだろう。
そのようにして編み出された表現が、私たちのどこかに強く働きかける。
その「どこか」を彼らは探り当てている。
151ページ
「僕は実業家は学生時代から大嫌いだ。金さえ取れれば何でもする、昔でいえば素町人だからな」
「・・・ところがその金という奴がくせ者で、―――今もある実業家のところへ行って
聞いて来たんだが、金を作るにも三角術を使わなくちゃいけないというのさ―――
義理をかく、人情をかく、恥をかくこれで三角になるそうだ面白いじゃないかアハハハハハ」
漱石は「富豪や金力」を憎悪していたということだ。
「吾輩は猫である」が発表されてから100年以上が経過し世界はますます実業家のものとなってきた。
「素町人」といって蔑視するものではなく、自らの実力で事業を切り開いてきた大層立派な人物として
崇め奉らなければならなくなっている。ここは「町人が支配する世界」なのだ。
意志も無く、目的も無く、自己増殖を続ける資本の性質と
他者より上に立ちたい、他者の言いなりにはなりたくないという野心あるいは虚栄心と
世界中の至る所で次々と解放されてゆく一人ひとりの欲望の集積を掛け合わせた結果、
町人による絶大な支配が実現されるようになった。
車やテレビや洗濯機が普及して人々の生活が豊かになったとか、
スマホやインターネットの普及によって情報の発信と収集が容易になったとか、
それで「何かしら良くなった」ということになっている。
そしてそのような変化の一部を担うことが世界に参加することであり、
大きな変化をもたらすことがサクセスであり支配となる。
ずっとその中で生きてきたのであれば、資本の性質に協力する人生を讃え続けなければならない。
その外で生きようとすれば、それなりの報復を覚悟しなければならない。
「参加せざるを得ない」か「疎外される」のかどちらかになる。
276ページ
「超人だ。ニーチェのいわゆる超人だ」
この本にはニーチェの超人がしばしば登場する。
326ページ
「・・・ナポレオンでも、アレキサンダーでも勝って満足したものは一人もないんだよ。
人が気に喰わん、喧嘩をする、先方が閉口しない、法廷へ訴える、法廷で勝つ、
それで落着と思うのは間違いさ。心の落着は死ぬまで焦ったって片付くことがあるものか。
寡人政治がいかんから、代議政体にする。代議政体がいかんから、また何かにしたくなる。
川が生意気だって橋をかける、山が気に喰わんといって隧道(トンネル)を掘る。
交通が面倒だといって鉄道を布く。それで永久満足が出来るものじゃない。
去ればといって人間だものどこまで積極的に我意を通す事が出来るものか。
西洋の文明は積極的、進取的かも知れないがつまり不満足で一生をくらす人の作った文明さ。
日本の文明は自分以外の状態を変化させて満足を求めるのじゃない」
東洋思想が良いかどうかは置いといて、西洋思想は満足を得られるものではないとして批判されている。
村上春樹の作品にも「山を崩して海を埋め立てるのが立派なことだと思っている」というような文章があった。
「積極的」「進取的」という考え方には、意志に対する過剰な評価が背景にあるように思える。
不死を望む宗教は精神を神に準じるものとして同じ地位に祀りあげ、
自然を造り替えようとする意志に指導者あるいは支配者としての第一の資質を認める。
キリスト教の教義とプラトンのイデアが結びついた思想が西洋をずっと支配してきた。
そしてその西洋に支配された世界は近代化(西洋化)を強いられてきた。
民族古来の文明は初め衝突し、次には融合するだろう。
やがて達成されるであろう偉大な目的の実現のために何かしらの貢献をしているのだと、
微力ではあるが世界や社会や文明の進歩に尽くしているのだと、
そんなふうに信じていなければやり切れないというのがこの世界のルールとなり、
そうではない考え方は「消極的」とか「ニヒリズム」といって退けられる。
日本で融合した文明は「やる気」を見せようとか「改善」の姿勢を見せようとか
「建て前」という現象として生じる場合もある。
どこまで行っても「改善」であり「改革」であり「維新」であり、
どこまで行っても「不満足」である。
345ページ
「天気の悪いのに何故グード・モーニングですかと生徒に問われて七日間考えたり、
コロンバスという名は日本語で何といいますかと聞かれて三日三晩かかって答を工夫する位な男」
猫の主人である苦沙弥は胃弱を抱えた英語の先生であることから作者に近い。
頭脳明晰からは程遠く、迷亭やら八木独仙君に振り回される。
「天気の悪いのに何故グード・モーニング」なのか「七日間考えたり」するので悪人ではない。
356ページ
「君はしきりに時候おくれを気にするが、時と場合によると、時候おくれの方がえらいんだぜ。
第一今の学問というものは先へ先へと行くだけで、どこまで行ったって際限はありゃしない。
到底満足は得られやしない。そこへ行くと東洋流の学問は消極的で大に味わいがある。
心そのものの修行をするのだから」と先達て哲学者から承った通りを自説のように述べ立てる。
「えらい事になって来たぜ。何だか八木独仙君のような事をいってるね」
369ページ
「自分が感服して、大に見習おうとした八木独仙君も迷亭の話しによって見ると、別段見習うにも
及ばない人間のようである。のみならず彼の唱道するところの説は何だか非常識で、
迷亭のいう通り多少瘋癲的系統に属してもおりそうだ」
東洋思想(仏教、道教)もまた道化として扱われる。
迷亭というのは後の「高等遊民」のモデルということだ。何も生み出さないし、何も選べない。
猫や主人(苦沙弥)に語らせているが、作者も西洋思想も東洋思想も選べず、迷っているように感じる。
421ページ
「吾輩が面白いというと、何がそんなに面白いと聞く人があるかも知れない。聞くのは尤もだ。
人間にせよ、動物にせよ、己を知るのは生涯の大事である。己を知る事が出来さえすれば
人間も人間として猫より尊敬を受けてよろしい。その時は我輩もこんないたずらを書くのは
気の毒だからすぐさまやめてしまうつもりである」
己の本分をわきまえるというような道徳的なことは除外するとして、
己のことを知ろうとか、心のことを理解しようと努めても、ほとんど得るものがない。
私たちの思惟は玉葱のようなものであり、その表層を一枚一枚剥がしていけば、
最後に「己」という核にたどり着くのだとか、そういうわけではない。最後の核は最初の皮と何ら変わるところはない。
己の働きというのは、あるものと別のものの関係性ということであり、実体はないのかもしれない。
それは本来は対象ではないのだが、私たちは思惟する自己を対象と考えたりするので誤解が生じる。
デカルトが勘違いしたのも、そういうことではないかと思う。
「心が捉われている」とは自己を対象化している状態ではないかと思う。
無心というのは対象に没頭している状態ではないかと思う。