140億年の孤独

日々感じたこと、考えたことを記録したものです。

吾輩は猫である

2015-09-27 00:05:01 | 夏目漱石
岩波文庫の「吾輩は猫である」を読んだ。
500ページ以上あってけっこう長い。テンポよく読めるが、読みやすい内容ではない。
平易な文章・リズム感・ユーモアといった要素を、村上春樹は夏目漱石から引き継いでいるのではないかと思う。
日本語で思考し、日本語で気持を伝える人々に訴えかけ、国民的作家と呼ばれるためには
日本語そのものの開拓が必要なのだろうが、二人の作家はそういうことを実践しているのだろう。
そのようにして編み出された表現が、私たちのどこかに強く働きかける。
その「どこか」を彼らは探り当てている。

151ページ
「僕は実業家は学生時代から大嫌いだ。金さえ取れれば何でもする、昔でいえば素町人だからな」
「・・・ところがその金という奴がくせ者で、―――今もある実業家のところへ行って
聞いて来たんだが、金を作るにも三角術を使わなくちゃいけないというのさ―――
義理をかく、人情をかく、恥をかくこれで三角になるそうだ面白いじゃないかアハハハハハ」

漱石は「富豪や金力」を憎悪していたということだ。
「吾輩は猫である」が発表されてから100年以上が経過し世界はますます実業家のものとなってきた。
「素町人」といって蔑視するものではなく、自らの実力で事業を切り開いてきた大層立派な人物として
崇め奉らなければならなくなっている。ここは「町人が支配する世界」なのだ。
意志も無く、目的も無く、自己増殖を続ける資本の性質と
他者より上に立ちたい、他者の言いなりにはなりたくないという野心あるいは虚栄心と
世界中の至る所で次々と解放されてゆく一人ひとりの欲望の集積を掛け合わせた結果、
町人による絶大な支配が実現されるようになった。
車やテレビや洗濯機が普及して人々の生活が豊かになったとか、
スマホやインターネットの普及によって情報の発信と収集が容易になったとか、
それで「何かしら良くなった」ということになっている。
そしてそのような変化の一部を担うことが世界に参加することであり、
大きな変化をもたらすことがサクセスであり支配となる。
ずっとその中で生きてきたのであれば、資本の性質に協力する人生を讃え続けなければならない。
その外で生きようとすれば、それなりの報復を覚悟しなければならない。
「参加せざるを得ない」か「疎外される」のかどちらかになる。

276ページ
「超人だ。ニーチェのいわゆる超人だ」

この本にはニーチェの超人がしばしば登場する。

326ページ
「・・・ナポレオンでも、アレキサンダーでも勝って満足したものは一人もないんだよ。
人が気に喰わん、喧嘩をする、先方が閉口しない、法廷へ訴える、法廷で勝つ、
それで落着と思うのは間違いさ。心の落着は死ぬまで焦ったって片付くことがあるものか。
寡人政治がいかんから、代議政体にする。代議政体がいかんから、また何かにしたくなる。
川が生意気だって橋をかける、山が気に喰わんといって隧道(トンネル)を掘る。
交通が面倒だといって鉄道を布く。それで永久満足が出来るものじゃない。
去ればといって人間だものどこまで積極的に我意を通す事が出来るものか。
西洋の文明は積極的、進取的かも知れないがつまり不満足で一生をくらす人の作った文明さ。
日本の文明は自分以外の状態を変化させて満足を求めるのじゃない」

東洋思想が良いかどうかは置いといて、西洋思想は満足を得られるものではないとして批判されている。
村上春樹の作品にも「山を崩して海を埋め立てるのが立派なことだと思っている」というような文章があった。
「積極的」「進取的」という考え方には、意志に対する過剰な評価が背景にあるように思える。
不死を望む宗教は精神を神に準じるものとして同じ地位に祀りあげ、
自然を造り替えようとする意志に指導者あるいは支配者としての第一の資質を認める。
キリスト教の教義とプラトンのイデアが結びついた思想が西洋をずっと支配してきた。
そしてその西洋に支配された世界は近代化(西洋化)を強いられてきた。
民族古来の文明は初め衝突し、次には融合するだろう。
やがて達成されるであろう偉大な目的の実現のために何かしらの貢献をしているのだと、
微力ではあるが世界や社会や文明の進歩に尽くしているのだと、
そんなふうに信じていなければやり切れないというのがこの世界のルールとなり、
そうではない考え方は「消極的」とか「ニヒリズム」といって退けられる。
日本で融合した文明は「やる気」を見せようとか「改善」の姿勢を見せようとか
「建て前」という現象として生じる場合もある。
どこまで行っても「改善」であり「改革」であり「維新」であり、
どこまで行っても「不満足」である。

345ページ
「天気の悪いのに何故グード・モーニングですかと生徒に問われて七日間考えたり、
コロンバスという名は日本語で何といいますかと聞かれて三日三晩かかって答を工夫する位な男」

猫の主人である苦沙弥は胃弱を抱えた英語の先生であることから作者に近い。
頭脳明晰からは程遠く、迷亭やら八木独仙君に振り回される。
「天気の悪いのに何故グード・モーニング」なのか「七日間考えたり」するので悪人ではない。

356ページ
「君はしきりに時候おくれを気にするが、時と場合によると、時候おくれの方がえらいんだぜ。
第一今の学問というものは先へ先へと行くだけで、どこまで行ったって際限はありゃしない。
到底満足は得られやしない。そこへ行くと東洋流の学問は消極的で大に味わいがある。
心そのものの修行をするのだから」と先達て哲学者から承った通りを自説のように述べ立てる。
「えらい事になって来たぜ。何だか八木独仙君のような事をいってるね」
369ページ
「自分が感服して、大に見習おうとした八木独仙君も迷亭の話しによって見ると、別段見習うにも
及ばない人間のようである。のみならず彼の唱道するところの説は何だか非常識で、
迷亭のいう通り多少瘋癲的系統に属してもおりそうだ」

東洋思想(仏教、道教)もまた道化として扱われる。
迷亭というのは後の「高等遊民」のモデルということだ。何も生み出さないし、何も選べない。
猫や主人(苦沙弥)に語らせているが、作者も西洋思想も東洋思想も選べず、迷っているように感じる。

421ページ
「吾輩が面白いというと、何がそんなに面白いと聞く人があるかも知れない。聞くのは尤もだ。
人間にせよ、動物にせよ、己を知るのは生涯の大事である。己を知る事が出来さえすれば
人間も人間として猫より尊敬を受けてよろしい。その時は我輩もこんないたずらを書くのは
気の毒だからすぐさまやめてしまうつもりである」

己の本分をわきまえるというような道徳的なことは除外するとして、
己のことを知ろうとか、心のことを理解しようと努めても、ほとんど得るものがない。
私たちの思惟は玉葱のようなものであり、その表層を一枚一枚剥がしていけば、
最後に「己」という核にたどり着くのだとか、そういうわけではない。最後の核は最初の皮と何ら変わるところはない。
己の働きというのは、あるものと別のものの関係性ということであり、実体はないのかもしれない。
それは本来は対象ではないのだが、私たちは思惟する自己を対象と考えたりするので誤解が生じる。
デカルトが勘違いしたのも、そういうことではないかと思う。
「心が捉われている」とは自己を対象化している状態ではないかと思う。
無心というのは対象に没頭している状態ではないかと思う。

中国行きのスロウ・ボート

2015-09-26 00:05:28 | 村上春樹
【中国行きのスロウ・ボート】
「僕」が出会った中国人について書かれている。
最初の中国人は模擬テストの会場にあてられた中国人小学校の監督官だった。彼はテストを受けに来た日本人の小学生たちに、机を傷つけてはいけない、落書きをしてはいけない、椅子にチューインガムをくっつけてはいけないといったことを注意する。「もしあなた方の小学校に中国人の子供たちが来てそんなことをしていったらどう思いますか」そのような言い回しで子供たちを納得させようとする。小学校の先生は立場を入れ替えることによって子供たちを相互理解へと導こうとする傾向がある。「相手の立場にたって考えなさい」と全都道府県の小学校の先生が子供たちに語りかける。もしかするとそういうことは世界規模で行われているのかもしれない。そして中国人の先生であっても日本人の先生であっても同じような言い回しで語りかける。中国人の子供も日本人の子供も同じようなことを聞いている。
おそらくは小学校というものができてからずっと。
二人目の中国人は大学生の時にアルバイト先で知り合った女子大生ということだ。門限を気にする彼女を電車に乗せて見送った「僕」はしばらくしてから逆まわりの山手線に乗せてしまったことに気付く。「あなたが本当に間違えたんだとしても、それはあなたが実は心の底でそう望んでいたからよ」と彼女は言う。子供の頃にバスケットボールのゴール・ポストに激突して脳震盪を起こして倒れていた「僕」は「大丈夫、埃さえ払えばまだ食べられる」としゃべったということだが、それと同じようなことが山手線のホームで起きてしまったのだろう。彼女が「そう望んでいたからよ」と言うのは言いすぎなのだ。ただ、そうなってしまったのだ。
三人目の中国人は高校時代の友人の友人といったあたりの中国人ということだ。その男が中国人にだけその百科事典を売っていると語るまで「僕」は知り合いであることを思い出せなかった。おそらくは記憶を紐付けているタグに中国人というキーワードがあったのだろう。そのようにして三人の中国人について語られているが彼らが中国人である必然性はどこにもないように感じられる。人類は平等であるとか、どのような民族も尊重されるべきとか、そんなふうなことではなくて、中国人と日本人を隔てるようなものは特に見あたらないということだろう。

【貧乏な叔母さんの話】
「僕は貧乏な叔母さんについて書いてみたい」、そういうところから始まる。
いったい「貧乏な叔母さん」とは何なのだろう? 何かを象徴しているのだろうか?
「あなたはそれを認めて、受け入れなくちゃいけない。理由も原因も、そんなものはどうでもいいことなのよ。貧乏な叔母さんはただそこに存在するのよ。貧乏な叔母さんというのは、その存在そのものが理由なのよ。私たちが特別な理由も原因もなくこうして今ここに存在しているのと同じことなのよ」
そのような解答が与えられる。それを解答と捉える人はあまりいないかもしれないが・・・科学的とか、合理的とか、私たちの住む世界では結果に対する理由や原因が常に求められる。予期せぬ結果が生じてしまった場合には、どのような意図で何をしようとして何処で間違えたのかが追求される。意図もなく漠然とそうなりましたという発言は受け入れられない。結果が生じてしまったのであれば、5W1Hがなければならないと彼らは考えている。PDCA(Plan/Do/Check/Action)のサイクルを回して常に改善を心掛けねばならないのだ。そんな人たちに向かって「Planがありませんでした」ということを口にするとひどい目に遭う。現象がただ生じているだけなのだが、そのようなことは科学的合理精神を尊重する現代では受け入れられないのだ。純粋理性批判の二律背反のところを読めば少しは寛容になれるのではないかと思う。私たちは理性や悟性の罠に落ち込んでしまっているのだ。

ひとつにはそのような因果関係に囚われてしまいがちな私たちのことを書いているのだと思う。次に気になるのは「貧乏な叔母さん」の持つ「無名性」のようなものだ。「彼女には名前はない。ただの貧乏な叔母さん、それだけだ」、そういうことだ。ただ無名であるというだけでは捉えられないので、ある人にとっては母親であったり、昨年の秋に食道ガンで死んだ秋田犬であったり、ずっと昔の小学校の女教師であったりする。そのような属性を頼りに私たちは現象を時系列に整理して記憶する。ただの「貧乏な叔母さん」というのでは誰も覚えられない。だが時間の経過と共にさして重要ではない記憶は「貧乏な叔母さん」化してしまいやがて忘却される。とても悲しいことだが、悲しんだことすら忘れ去れてしまう。無名とはそういうものだ。混沌もそうだが私たちには理解できないことかもしれない。

「貧乏な叔母さんはただそこに存在するのよ。貧乏な叔母さんというのは、その存在そのものが理由なのよ」
「分数ができる犬はただそこに存在するのよ。分数ができる犬というのは、その存在そのものが理由なのよ」
「トローリとろけるお肉が入ったビーフシチューはただそこに存在するのよ。
トローリとろけるお肉が入ったビーフシチューというのは、その存在そのものが理由なのよ」
この言い回しは、いろいろ遊べそうだ。

「もちろん世界の全ては道化だ。誰がそれを逃れられるだろう? 強いライトに照らし出されたテレビ局のスタジオから、暗い森の隠者の庵に至るまで、状況の根もとはみんなひとつだ」
いつから道化になったのかはよくわからないが、そう言われるとそういう気がしてくる。最近ではエンターテインメント(娯楽)と呼ばれて立派な産業となっている。

【ニューヨーク炭鉱の悲劇】
「僕のまわりでは、友人たちやかつての友人たちが次々に死んでいった」、そういうことが書かれている。「僕」は喪服を持っていないので、その度に友人に借りに行く。「世の中には葬式の出ない死に方もある。匂いのない死もある」と、その友人は語る。タイトルの「ニューヨーク炭鉱の悲劇」は、そのことと関連があるのだろう。ただ、たくさんの人々が死んだと、そこに個別の死がないということが、別の意味での「悲劇」なのだろう。あるいは「悲劇」として語られるべき個別性とか具体性に欠けているという「悲劇」なのだろう。最後の方に「あなたって私の知っている方にそっくりなのよね」という女性が現れる。その似ている人を「私が殺したの」と彼女は語る。おそらくこの女性は「僕」にとって専属の「死神」なのではないかと思う。友人が次々に死んでいく中で、死は例外なくあなたにも訪れるのだと、そういうことを告げに来たのだろう。
「みんな、なるべく息をするんじゃない。残りの空気が少ないんだ」年嵩の坑夫がそう言った。時々、大きな地震が発生し、瓦礫に生き埋めにされてしまう人々がいる。数千人の被害者がいたとする。その一人ひとりの死を悼むことはできない。そのための想像力が欠けている。戦争で命を落とした数百万人の一人ひとりを追悼することはできない。どういう人が生きていたのかさえわからない。スターリン・毛沢東・ヒットラーに殺された数え切れない人々がいた。葬式は出ない。

【カンガルー通信】
この小説は独白(モノローグ)形式となっている。手紙(カセット・テープ)によりメッセージが伝えられる。その名称が「カンガルー通信」となっている。とても素敵な名前だ。メッセージの宛て先の女性は特に知り合いというわけではない。そのような相手に一人芝居を打っているので、まともなコミュニケーションが成立するとは思えない。「貧しき人々」でワルワーラさんに宛てた手紙でさえ、これほど孤立してはいないだろう。このほとんど行き先のないメッセージは、自分のことを語りたいという願望はあるのだが、実際に聞いてくれる相手はいないという状況を暗示しているのかもしれない。手紙が長ければ長いほど、個人的なことを語れば語るほど、悲しみは増していく。
「しかし何にせよ、僕は不完全さを志したのです」
その不完全さというのは、ものごとのあり方に挑んで敗れていくという、あの不完全さのことなのだろうか? 「海辺のカフカ」で大島さんがシューベルトのピアノ・ソナタについて語っている、あの不完全さなのだろうか? 「大いなる不完全さというのは、まあ簡単にいっちゃえば、誰かが誰かを結果的に許すということかもしれません」
不完全さがなければ「カンガルー通信」というようなものは、かたちを持たなかったかもしれない。不完全さを自覚した者が成立する見込みのないコミュニケーションにあえて挑戦するということかもしれない。

【午後の最後の芝生】
「僕の求めているのはきちんと芝を刈ることだけなんだ、と僕は思う」と書かれている。芝生を刈る作業が持つ現実感と、別れた恋人が残していった薄っぺらな言葉が対照的だ。ここでは芝生を刈ることにまじめに取り組むほど、他の物事の現実味が薄れていく。「適当にやろうと思えば適当にやれるし、きちんとやろうと思えばいくらでもきちんとやれる。しかしきちんとやったからそれだけ評価されるかというと、そうとも限らない。ぐずぐずやっていると見られることもある。それでも前にも言ったように、かなり僕はきちんとやる。これは性格の問題だ。それからたぶんプライドの問題だ」
プロ意識を持って仕事に取り組むのは大切なことだと思うが、そのモチベーションをどこまで維持できるかが問題になる。適当にやることと、きちんとやることの境界は明確ではないし、評価する側に問題がないわけではない。一般的なことを言えば、仕事の成果で評価されることは稀だと思う。評価されたいならボスの言うことに敏感に反応して気に入ってもらうことが大切だろう。ニホンザルの群れと同じだ。

【土の中の彼女の小さな犬】
八年間を一緒に過ごしたとても仲の良かった犬が死んでしまい深い悲しみに沈んでいた彼女は、写真とかドッグフードとかハンカチ、それから預金通帳と一緒に木箱に入れて庭に埋めたのだという。ところが十七の時に、いちばん仲の良い友だちがお金に困っているのを聞いて、その預金通帳を掘り起こした。その時に怯えもせず、怖くもなく、つらくも悲しくもなく何の感情もなかった自分に驚くという話。
犬を飼い始めたのが八つの時だということだから死んでから一年で掘り返したということになる。その犬の死は一時的には悲しみをもたらしたが、実際には「ちょっとした転換期」、
「無口な少女が外に向けて目を開いていく時期」の訪れと同期していた。あんなに仲の良かった犬のことを一年ですっかり忘れてしまえるような冷たい人間なのだと、そんなふうなことを考えたかもしれない。あるいは本当に何の感情もなく自己批判さえなかったかもしれない。あるいは仲の良かった誰かが死んでしまった場合も同じようなことになるのかもしれない。その時には死を悼むのだろう。だが日常生活を積み重ねている間に悲しみは忘れ去られてしまう。

【シドニーのグリーン・ストリート】
あり余るほどの金を持った男が南半球でいちばんしけた通りで私立探偵事務所を開いているというところで「ローズウォーターさん、あなたに神のお恵みを」に出てきた情景を思い出した。「エリオット・ローズウォーターは、財閥の跡取りとして使い尽くせないほどの財産と地位を手に入れた。彼はそれを貧しい人々に分かち与えることにした。彼は貧者の町に住んで張り紙を出す。
『ローヴウォーター財団、なにかお力になれることは?』」
ただ情景が似ているというだけで内容は全然違うのだが、そのような記憶の連鎖が私の頭の中にあるようだ。この短編では羊男や羊博士が出て来る。ここでは羊男は「僕」や「鼠」の影ということではなくて、ただの羊男のようだ。原因も理由もなく純粋に羊男として存在している。戦争に行きたくないというのではなくて単に「みっともない格好して楽しそうに暮らしている」のが羊男なのだ。「鼠」とか「戦争に行きたくない」という属性がないという意味で純粋であり、自立した羊男なのだ。そして「願望憎悪」を抱いていた羊博士も羊男になることができて幸せそうだということだ。
めでたし。めでたし。

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著者の長編小説は「1Q84」と「多崎つくる」は単行本で他は文庫本を持っている。
(ブログに引用した部分のページ番号は上記に準じている。)
「ノルウェイの森」は単行本も持っている。「羊をめぐる冒険」も単行本を買ったと思うが手元にない。「風の歌を聴け」と「1973年のピンボール」は文庫本を3回くらい買った記憶があるが手元には1冊ずつしかない。短編集は「神の子どもたちはみな踊る」と「東京奇譚集」の文庫本が手元にある。「カンガルー日和」「螢・納屋を焼く・その他の短編」「回転木馬のデッド・ヒート」「TVピープル」を持っていたと思うのだが見あたらない。
図書館で「中国行きのスロウ・ボート」を探したが見つからなかった。代わりに「村上春樹全作品1979~1989③短篇集Ⅰ」を借りてきて読んだ。この全集に収められた作品はオリジナルバージョンではなく改訂されているらしい。どこが変更されているか私にはわからない。
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色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年

2015-09-19 00:05:38 | 村上春樹
読書家でもなく音楽に詳しくもない主人公が登場する。本は「知覚の扉」、音楽は「巡礼の年」以外では「ラウンド・ミッドナイト」くらいしか引用されていない。そして自分を切り捨てた人たちにわざわざ会いに行く。そういうところが今までの作品とは違っている感じがする。

従来よく用いられていた二つの物語が交錯する展開ではなく、一つの小説に二つの物語が含まれている感じがする。
アカ・アオ・シロ・クロ・つくるで構成していたグループの物語と
緑川・灰田・シロという音楽(あるいは悪霊)に関わる人たちの物語

5ページ
多崎つくるがそれほど強く死に引き寄せられるようになったきっかけははっきりしている。彼はそれまで長く親密に交際していた四人の友人たちからある日、我々はみんなもうお前とは顔を合わせたくないし、口をききたくもないと告げられた。きっぱりと、妥協の余地なく唐突に。そしてそのような厳しい通告を受けなくてはならない理由は、何ひとつ説明してもらえなかった。彼もあえて尋ねなかった。

8ページ
また多崎つくる一人を別にして、他の四人はささやかな偶然の共通点を持っていた。名前に色が含まれていたことだ。二人の男子の性は赤松と青海で、二人の女子の性は白根と黒埜だった。多崎だけが色とは無縁だ。そのことでつくるは最初から微妙な疎外感を感じることになった。

35ページ
「こんな風になって残念だ」とアオは言った。
「それは全員の意見なのか?」
「ああ。みんな残念に思っている」
「なあ、いったい何があったんだ?」とつくるは尋ねた。
「自分に聞いてみろよ」とアオは言った。哀しみと怒りの震えが僅かにそこに聴き取れた。しかしそれも一瞬のことだった。つくるが言うべきことを思いつく前に電話は切れた。

40ページ
「記憶をどこかにうまく隠せたとしても、深いところにしっかり沈めたとしても、それがもたらした歴史を消すことはできない」。
沙羅は彼の目をまっすぐ見て言った。「それだけは覚えておいた方がいいわ。歴史は消すことも、作りかえることもできないの。それはあなたという存在を殺すのと同じだから」

「記憶」と「歴史」はどう違うのだろうか? 時系列に連なっている「記憶」を「歴史」と呼んでいるのだろうか? 「歴史を消すこと」が「あなたという存在を殺す」のと「同じ」というのであれば、そう解釈しても良さそうだ。論理的に筋道の通ったことが時系列に並べられた記憶が私の歴史であり、私という個の生存期間より長く、不特定多数に共有される記録が私たちの歴史であり、民族の歴史であり、世界の歴史ということになるのかもしれない。もちろん「私たちの」と言った時点で「歴史」は捏造される。作り変えることができないのは「私」の場合に限る。そして「記憶」にしても決して消すことはできない。それはふとしたときに「歴史」に介在してくる。そして「歴史」が要求する因果関係にそぐわない場合には「未決」となる。

62ページ
「フランツ・リストの『ル・マル・デュ・ペイ』です。『巡礼の年』という曲集の第一年、スイスの巻に入っています」
「『ル・マル・デュ・・・』?」
「Le Mal du Pays フランス語です。一般的にはホームシックとかメランコリーといった意味で使われますが、もっと詳しく言えば、『田園風景が人の心に呼び起こす、理由のない哀しみ』。正確に翻訳するのはむずかしい言葉です」

66ページ
「『コックはウェイターを憎み、どちらもが客を憎む』」と灰田は言った。「アーノルド・ウェスカーの『調理場』という戯曲に出てくる言葉です。自由を奪われた人間は必ず誰かを憎むようになります。そう思いませんか? 僕はそういう生き方をしたくない」

68ページ
「様々な宗教において預言者は多くの場合、深い恍惚の中で絶対者からのメッセージを受け取る」
「そのとおりです」
「そしてそのメッセージは預言者個人の枠を超えて、広く普遍的に機能することになる」
「そのとおりです」
「そこには背反性もなければ、二義性もない」
灰田は黙って肯いた。
「僕にはよくわからないんだ。だとすれば人間の自由意思というのは、いったいどれほどの価値を持つのだろう?」
「素晴らしい質問です」と灰田は言った。そして静かに微笑んだ。それは猫が日向で眠りながら浮かべる微笑みだった。
「僕はまだその質問には答えられません」

「自由意思なんてない」と書くと、そのこと自体があなたの意見ではないか、「意思」がないのであれば主張もはないはずだ、ということになってしまいそうだが、もちろん、そういうことを書いているわけではない。もともと「意思」や「思考」といったものは、徐々に発達してきた「身体」の働きの一部であって、様々な種類の制限に晒されている身体を克服したり超越したりするものではない。「有限の肉体」を蔑むために「無限の精神」が賞賛されるべきではない。記憶(情報)を組織化していっそう複雑な総体へと進行して行く「思考」の働きを私たちは理解できずにいる。「自我」は組織化された情報を一元管理するために必要とされる仮想的なものであって「実体」があるわけではない。「意思」は行動(行為)を制御するために必要とされる仮想的なものであって「実体」があるわけではない。そのような形而上学的幻想を実体あるものとして扱ってしまうと「自我」とは何ぞや「意思」とは何ぞやという不毛な問いを抱えてしまうことになる。(あるいは「思考」とは何ぞやと問いかける「思考」そのものはもっと不毛と言えるかもしれない。)
宗教においては「自由意思」や「精神」を神からの賜物と考える傾向があるので益々混乱する。神は自分に似せて人を作ったのであって、人は意思を持たない動物よりもすぐれているのだということだ。その尊い自由意志でもって、自らを神に捧げる(自由でなくなる)選択をすることことが最も尊い自己犠牲であるとかなんとか、いやまったく何がなんだかわからない。

78ページ
それから緑川は、『ラウンド・ミッドナイト』をためらいがちに弾き始めた。

84ページ
「モーツァルトやシューベルトは若死にしたが、その音楽は永遠に生きている。君の言いたいのはそういうことか」
「たとえばそういうことです」
「そこまでの才能はあくまで例外的なものだ。そして多くの場合、彼らは生命を削り、早すぎる死を受容することによって、その天才の代価を支払うことになる。それは命を懸けた取り引きのようなものだ。取り引きの相手が神なのか悪魔なのか、そこまではわからんが」、緑川はため息をついてしばし沈黙し、付け加えるように言った。「それとは別の話になるが、実を言うと俺は死期を迎えている。おおよそあと一か月の命しかない」

89ページ
緑川は言った。「死を引き受けることに合意した時点で、君は普通ではない資質を手に入れることになる。特別な能力と言ってもいい。人々の発するそれぞれの色を読みとれるのは、そんな能力のひとつの機能に過ぎない。その大本(おおもと)にあるのは、君が君の知覚そのものを拡大できるということだ。君はオルダス・ハクスレーがいうところの『知覚の扉』を押し開くことになる。そして君の知覚は混じりけのない純粋なものになる。霧が晴れたみたく、すべてがクリアになる。そして君は普通では見られない情景を俯瞰することになる」

それはたとえば画家が見ているような情景を俯瞰するということらしい。私たちの知覚は制限を受けているということなので、そのリミッターを外すということらしい。そのようなものを見たならそこで満足することができて「もっと見たい」とは思わなくなるのだろうか?
「ねじまき鳥クロニクル」で井戸の中の間宮中尉に訪れた恩寵というのも、そういうものの一種かもしれない。生命が誕生してまもない頃には、生き物が周囲の環境(餌、敵など)を把握する手段は発達していなかった。原始的な生命体は直接触れるものしか認知することができなかっただろう。そういう状況の中で視覚を備えるというのは革新的なことであったに違いない。いちはやく敵から逃れ、獲物を捕らえるために、その能力は発達してきたのだと考えられている。聴覚や嗅覚も物理的に離れた状況を把握するために発達してきたのだと考えられている。そのような知覚を私たちは文化と呼ばれるものに適用し、生存競争以外の目的にも適用してきた。音楽を聴いていて呼び起こされる感覚や感情というのは遺伝子が生存に役立てるために用意した機能ではないだろう。色や図形や模様やら視覚の認知するものも生存に役立つというだけのものではないだろう。生存競争が発端となって発達したものであったとしても、見るとか聴くということは、そのことに限定されるものではないということらしい。図形を認識するというのは知覚(視力)だけの働きではないので、人間(現存在)だけがその能力を拡張しているということかもしれない。そうすると薬物がそのリミッターを外すというよりは、存在一般を捉えようとする知性や感性がそうしているのではないかと思う。「普通ではない資質」「特別な能力」「純粋な知覚」というのは超自然的な解釈と呼べるかもしれない。
モーツァルトやシューベルトの残した音楽というのは、彼らが知覚したものを無理やり音に閉じ込めたものであるかもしれない。楽譜にできないような、楽器で鳴らせないような、そんな生々しい知覚を彼らは捉えていたのかもしれない。そういうものに触れることができたなら、それは恩寵であり、「普通では見られない情景を俯瞰する」ということかもしれない。ここの部分では、緑川や灰田やシロのような普通ではない人たちが、普通では見られないものを見ることができるのではないかと、そういうことを示唆しているのではないかと思う。彼らは「死を引き受け」「悪魔と取り引き」したのかもしれない。
304ページでエリがユズにとり憑いていた悪霊について語っている。
そこにつながっているのではないかと思う。

102ページ
「でもそれからもう十六年以上が経っているのよ。あなたは今では三十代後半の大人になっている。そのときのダメージがどれほどきついものだったにせよ、そろそろ乗り越えてもいい時期に来ているんじゃないかしら?」

112ページ
父親が若い頃に九州の山中の温泉で出会った、緑川というジャズ・ピアニストについての不思議な話を灰田が語った夜、奇妙なことがいくつか起こった。
116ページ
彼女たちは生まれたままの姿でベッドの中にいた。そして彼の両脇にぴたりと寄り添っていた。シロとクロ。
彼女たちは十六歳か十七歳だった。
129ページ
そしてつくるが最後に射精する相手は常にシロだった。クロと激しく交わっているときでも、最後の段階が近づき、ふと気がついたときにはパートナーが入れ替わっていた。そして彼はシロの体内に精液を放出していた。そのような決まったかたちの夢を見るようになったのは、大学二年生の夏に彼がグループから放逐され、彼女たちと会う機会が失われてしまってからだった。つまり、つくるがその四人のことをなんとか忘れてしまおうと心を固めてからだった。それ以前にそのようなパターンの夢を見た記憶はない。なぜそんなことが起こるのか、もちろんつくるにはわからない。それもまた彼の意識のキャビネットの「未決」の抽斗に深くしまい込まれている問題のひとつだ。

グループを放逐された後にシロの体内に射精する夢を見るようになったのだから、時系列的には夢の中でさえも、つくるは無実ということになる。だがシロには、つくるにそのような傾向があることが見えていたのではないかと思う。そして、つくるだけが「レイプ魔」ということではなくて、多かれ少なかれ誰にでもそのような傾向があるのではないかと思う。そのような持ってはいけない願望をフロイトの超自我であるとか世間の常識が封じ込めているのだが、夢の中ではその監視機能が弱まり「裏の顔」が奔放に活動を始める。夢というのは部分的には眠りであり部分的には覚醒であり、全体としては調和も取れてなければ論理的でもない。それは全体的に覚醒している意識の容認するところではなく「未決」の抽斗に入れるしかない。

162ページ
アオはひとしきり考えを巡らせていた。それから言った。「おまえの方に思い当たる節がまったくないというのは、どう言えばいいんだろう、それはつまり、おまえはシロと性的な関係を持たなかったということなのか?」
つくるの唇はとりとめのない形をつくった。「性的な関係? まさか」
「シロはおまえにレイプされたと言った」とアオは言いにくそうに言った。「無理やりに性的な関係を持たされたと」
つくるは何かを言おうとしたが、言葉は出てこなかった。いま水を飲んだばかりなのに、喉の奥が痛いほど乾いていた

174ページ
「シロは音楽大学を卒業したあと、しばらく自宅でピアノの先生をしていたんだが、やがて家を出て浜松市内に移り、一人暮らしを始めた。それから二年ほどして、マンションの部屋で絞殺されているのが見つかった。

194ページ
「シロはおそらく心を病んでいた」、アカはデスクの上から金のライターを手に取り、それをいじりながら慎重に言葉を選んで言った。
「一時的なものなのか、傾向的なものなのか、それはわからない。しかし少なくとも当時、あいつはちょっとおかしくなっていた。シロにはたしかに優れた音楽の才能があった。美しい音楽を巧みに演奏することができた。おれたちから見れば、それだけでもたいしたものだ。しかしそれは残念ながら、彼女自身が必要としているレベルの才能ではなかった。小さな世界ではやっていけても、広い世界に出ていくだけの力は具わっていなかった。どんなに熱心に練習しても、自分が設定した水準まで到達できなかった。知ってのとおり、シロは真面目で内向的な性格だ。音楽大学に入ってから、そうういうプレッシャーがますます強くなっていった。そして少しずつ妙なところが出てきた」

「海辺のカフカ」の大島さんによれば音楽には私たちを変えてしまう力があるのだという。
そして、つくるがシロの演奏をすばらしいと思って聴くことがあったとしても、もっとすばらしい才能が世の中には溢れていて、その世界で生き延びていくために凌ぎを削っている。「スプートニクの恋人」には現役のピアニストは二十人いればよいと書いてあった。そのような才能どうしの競争は、資本主義社会の企業間の競争よりもはるかにシビアなものに違いない。そういうわけで、ギレリスに「私とリヒテルが4本の腕でかかってもかなわない」と言わしめたラザール・ベルマンの演奏でしか、「巡礼の年」であるとか「ル・マル・デュ・ペイ」が聴けないというようなことを言ってはいけない。耳が良くなければ上達しないだろうし、耳が良ければ至らぬ技量にうんざりしてしまうだろうし、他者と競争するまでに心が折れてしまうかもしれない。プレッシャーに潰されて頭がおかしくなってしまうかもしれない。そういう状況に対して「おれたち」凡人は口出しできない。

201ページ
「・・・大事なのは、シロはそのとき既に、生命力がもたらす自然な輝きを失っていたということだ。あの子は性格的には内気だったが、その中心には、本人の意思とは関係なく活発に動く何かがあった。その光と熱があちこちの隙間から勝手に外に洩れ出ていた。言ってることはわかるだろう? でもおれが最後に会ったとき、そういうものは既に消えてなくなっていた。・・・」

217ページ
「そしてあなたにはふたつの顔があると彼女は言った」
「『表の顔からは想像もできない暗い裏の顔がある』と彼女は言った」

244ページ
それでも人々は時としてささやかな記念品を残していく。灰田が残していったのは、この『巡礼の年』の箱入りのレコードだ。彼はおそらく意図してそれをつくるの部屋に置いていったのだろう。決して単純に忘れておいったわけではない。そしてつくるはその音楽を愛した。その音楽は灰田に繋がっていたし、シロにも繋がっていた。それはいわば、散り散りになった三人の人間をひとつに結びつける血脈だった。儚いほど細い血脈だが、そこにはまだ赤い生きた血が流れている。音楽の力がそれを可能にしているのだ。彼はその音楽を聴くたびに、とりわけ『ル・マル・デュ・ペイ』のトラックに耳を傾けるたびに、二人のことを鮮やかに思い出すことになる。時には彼らが今も自分のすぐそばにいて、密やかに呼吸しているようにも感じられる。

285ページ
「ひとつだけお願いがあるの」とクロは言った。「私のことをもうクロって呼ばないで。呼ぶならエリって呼んでほしいの。柚木のこともシロって呼ばないで。できれば私たちはもうそういう呼び方をされたくないから」
「そういう呼び名はもう終わってしまったんだね?」
彼女は肯いた。

289ページ
つくるは続けた。「どう言えばいいんだろう、まるで航行している船のデッキから夜の海に、突然一人で放り出されたような気分だった」
そう言ってからつくるは、それが先日アカが口にした表現であることに思い当たった。

291ページ
「じゃあ、どうして・・・」
「どうして私が君のために立ち上がって弁護しなかったか。どうしてユズの言い分を信じてグループから追放したか。そういうこと?」
つくるは肯いた。
「それは私が、ユズのことを護らなくてはならなかったからよ」とエリは言った。「そしてそのためには、どうしても君を切らなくてはならなかった。一方で君を護りながら、もう一方でユズを護ることは現実的に不可能だった。私としてはどちらかを百パーセント受け入れ、どちらかを百パーセント捨てるしかなかったの」

292ページ
エリはもう一度首を振った。「相手が誰だかはわからはない。でもユズが自分の意思に反して、おそらく力尽くで、誰かと性的な関係を持たされたことは確かだよ。だって妊娠していたから。そしてあの子は自分をレイプしたのは君だと主張した。とてもはっきりと、相手は多崎つくるだと。そのときの状況を気が滅入るくらい詳細にリアルに描写してくれた。だから私たちとしては彼女の言いぶんをそのまま受け入れないわけにはいかなかった。たとえ君がそんなことをするわけないと、心の奥ではわかっていてもね」

299ページ
「ユズはもう白雪姫ではなくなっていた。あるいは白雪姫であり続けることにもう疲れていたのかもしれない。そして私も、七人のこびとであることにいささか疲れてしまっていた」

304ページ
「あの子には悪霊がとりついていた」、エリは密やかな声で打ち明けるように言った。「そいつはつかず離れずユズの背後にいて、その首筋に冷たい息を吐きかけながら、じわじわとあの子を追い詰めていった。そう考える以外にいろんなことの説明がつかないんだ。君のことにしても、拒食症のことにしても、浜松でのことにしてもね。私としてはそんなことは言葉にしたくなかった。いったん口にしたら、それが実在するものになってしまいそうだったから。だからこれまでずっと私ひとりの胸のうちにしまい込んできた。このまま死ぬまで黙っているつもりだった。でも今ここで思い切って言葉にしてしまうよ。この先、私たちが会うことはもうないかもしれないからね。君はたぶんそのことをしっかり知っておかなくてはならない。それは悪霊だった。あるいは悪霊に近い何かだった。そしてユズにはとうとうそいつを振り払うことができなかった」

「カラマーゾフの兄弟」でイワンが「悪魔」と対話するシーンがあったと思う。彼自身は「悪魔」の実在を認めていないのだが、彼はその実在しない相手と話している。「それが実在するものになってしまいそうだったから」というところで、そのことを思い出した。もちろん、悪魔とか悪霊を生み出しているのは人間であり、あるいは人間そのものが悪魔か悪霊か悪霊に近い何かなのだろう。そして彼らは感受性の強い人間にとり憑く、あるいは感受性の強い人間が彼らの養分となり、彼らを養っている。生まれつき悪霊と縁のない人間にとっては振り払う必要すらないだろう。そして悪霊にとり憑かれた人間は、スタヴローギンとかキリーロフのような結末を迎えてしまうのだろう。あるいは彼らはそんなふうな人間に生まれてきたくはなかっただろうし、そんなふうに死にたくもなかっただろう。自分の傾向を選択できないということが既に悪霊にとり憑かれているということかもしれない。そのこともまた時系列的に一元管理されているところの「歴史」なのだろう。悪霊を振り払うことは「あなたという存在を殺す」ことなのだ。そう考えると救いはどこにもない。

307ページ
そのとき彼はようやくすべてを受け入れることができた。魂のいちばん底の部分で多崎つくるは理解した。人の心と人の心は調和だけで結びついているのではない。それはむしろ傷と傷によって深く結びついているのだ。痛みと痛みによって、脆さと脆さによって繋がっているのだ。悲痛な叫びを含まない静けさはなく、血を地面に流さない赦しはなく、痛切な喪失を通り抜けない受容はない。それが真の調和の根底になるものなのだ。

「『ル・マル・デュ・ペイ』のトラックに耳を傾けるたびに、二人のことを鮮やかに思い出すことになる」というのがそういうことなのだろう。私たちは日常を離れて音楽を聴いている時に「傷と傷による結びつき」を感じているのかもしれない。「理由のない哀しみ」を感じているのかもしれない。

311ページ
「結局のところ私はユズを置き去りにしてきたのよ。私はなんとかして彼女から逃げ出したかった。あの子にとり憑いているものから、それがなんであれ、できるだけ遠く離れたかった。だから陶芸にのめり込み、エドヴァルトと結婚し、フィンランドまでやってきた。もちろんそれは私にとってあくまで自然な成り行きだった。何も意図してそうしたわけじゃないよ。でもね、そうすればもうこれ以上ユズの面倒をみなくても済むんだ、という気持ちもなくはなかった。・・・」

317ページ
そんな夢について考えると、ユズが彼にレイプされたと主張しても(その結果彼の子供を受胎したと主張しても)、それはまったくの作り話だ、自分には思い当たるところはないと断言することはつくるにはできなかった。夢の中での行為にすぎないとしても、自分にも何かしらの責任があるのではないかという気がしてならなかった。いや、レイプの件だけじゃない。彼女が殺されたことだってそうだ。その五月の雨の夜、自分の中の何かが、自分でも気づかないまま浜松まで赴き、そこで彼女の鳥のように細く、美しい首を絞めたのかもしれない。

つくるの「そうであったかもしれない」が読者の中の何かに働きかける時、
この作品の不気味さを理解することになる。

1Q84(BOOK3)

2015-09-13 00:05:17 | 村上春樹
[BOOK3]

124ページ
天吾は思わず顔を赤らめた。彼がこの町にいるのは父親の看護をするためではない。仄かに発する空気さなぎと、そこに眠っている青豆の姿をもう一度目にしたいからだ。

142ページ
暴力的なるものを巡る何らかの因子が、老婦人と青豆をそこで結びつけたのかもしれない。

191ページ
世の中の人間の大半は、自分の頭でものを考えることなんてできない―――それが彼の発見した「貴重な事実」のひとつだった。そしてものを考えない人間に限って他人の話を聞かない。

世の中の人間の大半が「自分の頭でものを考えることなんてできない」というのであれば、「一九八四年」で描かれた管理社会(監視社会)が非難される謂われはないのかもしれない。

218ページ
私が性行為抜きで妊娠したと告げたら、母親はいったいなんと言うだろう? それを信仰に対する重大な冒涜だと考えるかもしれない。

228ページ
「しかしいったん自我がこの世界に生まれれば、それは倫理の担い手として生きる以外にない。よく覚えておいた方がいい」
「誰がそんなことを言ったの?」
「ヴィトゲンシュタイン」

ヴィトゲンシュタインを読むゲイの用心棒はタマル以外には世界にそう何人もいないのではないかと思う。ヴィトゲンシュタインはトルストイの要約福音書を何度も読んでいたということだ。そういえば彼も同性愛者だった。

236ページ
「・・・何日か前にやってきたNHKの集金人のことを、その子が電話で説明してくれた。その男がドアをノックしながら廊下でどんなことを言って、どんなことをしたか。それはお父さんのかつてのやり口に不思議なほどそっくりだった。彼女が聞いたのは、僕が記憶しているのとまったく同じ台詞だ。できることならそんなものはそっくり忘れてしまいたいと思っている言い回しだ。そしてその集金人は実はあなたじゃないかと僕は考えている。僕は間違っているだろうか?」

BOOK3ではNHKの集金人が活躍する。青豆の潜伏先を訪れ、ふかえりが潜んでいる天吾のアパートを訪れ、天吾の周囲を見張る牛河の元を訪れる。天吾の父は隠れている人のところを訪れることが、ことのほか得意なのだろう。彼はそこまで意識を飛ばすことができるらしい。

272ページ
神とリトル・ピープルは対立する存在なのか。それともひとつのものごとの違った側面なのか? 青豆にはわからない。彼女にわかるのは、自分の中にいる小さなものがなんとしても護られなくてはならないということであり、そのためにはどこかで神を信じる必要があるということだ。あるいは自分が神を信じているという事実を認める必要があるということだ。

「自分の中にいる小さなもの」を護るために「神を信じる必要がある」という論理はよくわからない。

320ページ
あの少女は知っている。自分が牛河に密かに見つめられていることを。カメラで隠し撮りされていることも知っている。何故かはしらないがふかえりにはそれがわかるのだ。おそらくは一対の特別な触覚を通して、彼女はその気配を感じ取ることができる。

醜い者は美しい者を本能的に怖れている。
それは彼の遺伝子に染み付いている。

353ページ
「『空気さなぎ』を出版することによって、結果的に我々はその宗教団体にいささか迷惑をかけることになった。そういうことですね?」
「いささかの迷惑ではない」と坊主頭は言った。彼の顔が僅かに歪んだ。「声はもう彼らに向かって語りかけることをやめたのです。それが何を意味するか、あなたにはわかりますか?」
「わかりません」と小松は乾いた声で言った。

読者の多くは小松に同意するのではないかと思う。正気でいるならば「わかりません」と答えるしかない。

366ページ
「なあ、天吾くん。ちょっと思ったんだが、俺たちが目にしているふかえりが実はドウタで、教団の中に残っているのがマザだという仮説は成り立たないだろうか?」
・・・
天吾は言った。「ふかえりにははっきりとしたパーソナリティーがあります。独自の行動規範もある。それは分身にはおそらく持てないものです」

「パーソナリティー」や「行動規範」の有無で「マザ」と「ドウタ」を区別できるということだが、そもそも「パーソナリティー」というのは何なのだろうか? 「行動規範」というのは何なのだろうか? それは習慣(反復される行動)によって強化された記憶素子どうしの特定の結びつき方でしかないのではないだろうか? 分身が本体の記憶や習慣まで引き継いでいるのだとしたら「パーソナリティーや行動規範」も復元できるのではないだろうか? そのような創造的・主体的な機能が人間と他のものを区別しているという人間礼賛的な神秘思想がなくなることはないのだろう。そしてそういう考え方をする人は自分のことをヒューマニズムの守護神のように考えているのだろう。私はそこに留まり続ける人々があまり好きではない。卑怯だからだ。

396ページ
やがて牛河は息を呑んだ。そのまましばらく呼吸することさえ忘れてしまった。雲が切れたとき、そのいつもの月から少し離れたところに、もうひとつの月が浮かんでいることに気づいたからだ。

牛河にも何らかの「資格」があるということが示唆される。

452ページ
「お父さんはよほどそのお仕事が好きだったのね。NHKの受信料を集金して回ることが」
「好きとか嫌いとか、そんな類のものじゃなかったと思う」と天吾は言った。
「じゃあいったいどういうタグイのものだったの?」
「それが父にとって、いちばん上手にできることだったんだ」

ここから得られる教訓は、人は得意なことをすべきということだろう。
それがNHKの受信料の集金であったとしても。

476ページ
ここにいることは私自身の主体的な意思でもあるのだ。彼女はそう確信する。そして私がここにいる理由ははっきりしている。理由はたったひとつしかない。天吾と巡り合い、結びつくこと。それが私がこの世界に存在する理由だ。

「天吾と巡り合い、結びつくこと」というのは、どちらかというと遺伝子の命じていることではないかと思う。

506ページ
「『冷たくても、冷たくなくても、神はここにいる』」と牛河は今度はできるだけはっきりとした声で言った。

512ページ
「もう少しわかりやすく事情を話してもらえないかな。なぜあんた方がそこまで彼女を必要とするのか。いったい何が持ち上がって状況がかくも変化したのか」
相手は小さく一度呼吸をした。そして言った。「我々は声を聞き続けなくてはなりません。我々にとっては豊かな井戸のようなものです。それを失うわけにはいきません。ここで申し上げられるのはそれくらいです」

524ページ
彼らは私を必要としているんじゃない」と青豆は言う。「必要としているのは、私のお腹の中にいるものだと思う。彼らはどこかの時点でそれを知ったのよ」
「ほうほう」とはやし役のリトル・ピープルがどこかで声を上げる。

531ページ
リーダーは死に際して、私の胎内にこの小さなものをセットしていった。それが私の推測だ。あるいは直感だ。とすれば結局のところ、私はあの死んだ男の遺していった意思に操られ、彼の設定した目的地に向けて導かれているということになるのか。青豆は顔を歪める。なんとも判断がつかない。私はリーダーの企みの結果<声を聴くもの>を受胎しているのではないかとタマルは推測する。おそらくは「空気さなぎ」として。でもなぜそれがこの私でなくてはならないのだ? そしてなぜその相手が川奈天吾でなくてはならないのだ? それも説明のつかないことのひとつだ。

①ふかえりの「空気さなぎ」はリトル・ピープルの通路となるドウタを産み出した。
②天吾のための「空気さなぎ」では十歳の青豆が眠っていた。
③今度は青豆自身が「空気さなぎ」となり<声を聴くもの>を産み出すということだろうか?
各々の事例について書き出すと次のようになる。
事例 作り手 マザ ドウタ 役割
① リトル・ピープル ふかえり ふかえり リトル・ピープルのための通路
② 天吾? ? 十歳の青豆 青豆への通路?
③ リーダー ? <声を聴くもの> ①と同じ?

<声を聴く>ということが、閉じている無意識への回線を開くということであれば、「リトル・ピープルのための通路」というのは、自らのうちにある無意識、常識とか超自我を問題としない善悪を超えた無意識を目覚めさせるものであるかもしれない。そして「十歳の青豆」が天吾の中に開いたのは、今を生きている青豆への強い関心、つまりは愛ということであるかもしれない。彼の中で長い間、眠っていた感情、表層意識に上ることのなかった思い出が次第に力を増して、通路を開いたということかもしれない。「空気さなぎ」というのは、おそらくは子宮のことなのだろう。青豆自身が「空気さなぎ」となって受胎したのだから。

566ページ
しかし牛河の大きく開かれた口から声は出てこなかった。そこから出てきたのは言葉ではなく、吐息ともなく、六人の小さな人々だった。

牛河は「通路」として活用された。「めくらのヤギ」のような仮の通路なのだろうか?

573ページ
私たちはこの世界をそれぞれに違う言葉で呼んでいたのだ、と青豆は思う。私はそれを「1Q84年」という名で呼び、彼はそれを「猫の町」という名で呼んだ。でも示されているのは同じひとつのものだ。青豆は彼の手をいっそう強く握る。

「そこは彼が失われるべき場所だった。それは彼自身のために用意された、この世ではない場所だった」
「猫の町」についてはそのような説明があったので、「1Q84年」とは違うのではないかと思う。それは「1Q84年」の中でもさらに限定された場所ではないかと思う。

580ページ
「そう。細かい原理はわからないけれど、空気さなぎを通じて、それとも私自身が空気さなぎとしての役割を果たして、私はドウタを生もうとしている。そして彼らは私たち三人をそっくり手に入れようとしている。新たな<声を聴く>システムとして」

593ページ
ひょっとしてここはもうひとつの違う場所ではあるまいか。私たちはひとつの異なった世界からもうひとつ更に異なった、第三の世界に移動しただけではないのか。タイガーが右側ではなく左側の横顔をにこやかにこちらに向けている世界に。そしてそこでは新しい謎と新しいルールが、私たちを待ち受けているのではないのか?

そうすると「1984年」であっても「1Q84年」であっても
あまり違いはないのだろう。

1Q84(BOOK1/2)

2015-09-12 00:05:05 | 村上春樹
「1Q84」は2009年5月にBOOK1/2、2010年4月にBOOK3が発行された。店頭に並んでいた本を即購入したので、5年くらい前に読んだことになる。その時にも感想を書いたが、ちゃんとしたことが書けなかった。まともなことが書ける程の知識がなかったのだろう。この5年の間に、この作品で紹介されている「一九八四年」とか「金枝篇」を含めていろいろな本を読んだ。「シンフォニエッタ」「平均律クラヴィーア曲集」「マタイ受難曲」も含めていろんな音楽を聴いた。平易な文章なので、そういう本を読んだことがなくても、音楽を聴いたことがなくても、読み通すことはできる。それに関連知識があるからといって著者と同じ見解を持つようになるものでもない。実際のところ「金枝篇」については著者と全然違う印象を持っていると思う。それは仕方のないことだろう。本は人々に様々なものを喚起させ、想起させるが、読者の中のどのスイッチがONするのかは本人にもわからない。本の中に本や音楽が引用されると、さらにその複雑さが増して行き、感想はそれぞれに異なることになる。「1Q84」の発行部数は国内だけでも300万部を超えていて海外を含めると相当な数になる。それほど多くの人々がそれぞれに楽しめる「総合エンターテインメント」になっていると言えるかもしれない。あるいは「貧乏な叔母さんの話」に出て来る言葉を使うならば「道化」ということになるだろう。それは仕掛けのたくさん入った本ということであって「必殺仕事人」が好きだという人も、少年と少女の純愛が好きだという人も共に満足を得ることができる。

この作品でも「カラマーゾフの兄弟」が引用されている。トータルで5回目ではないかと思う。
風の歌を聴け154ページ(文庫本)
羊をめぐる冒険[上巻]215ページ(文庫本)
世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド[下巻]328ページ(文庫本)
ねじまき鳥クロニクル[第1部 泥棒かささぎ編]69ページ(文庫本)
1Q84[BOOK2]244ページ

投稿しようとしたら「本文は、全角20000文字以内にしてください」という表示が出た。
引用箇所だけでも1万文字を超えている。
仕方がないので分割する。

[BOOK1]

89ページ
天吾は言った。「小説を書くとき、僕は言葉を使って僕のまわりにある風景を、僕にとってより自然なものに置き換えていく。つまり再構成する。そうすることで、僕という人間がこの世界に間違いなく存在していることを確かめる。それは数学の世界にいるときとはずいぶん違う作業だ」

97ページ
「リトル・ピープルはほんとうにいる」と彼女は静かな声で言った。
「あなたやわたしとおなじ」
「僕や君と同じように」と天吾は反復した。
「みようとおもえばあななにもみえる」

154ページ
「私たちは間違ったことは何もしていません」と女主人は青豆の顔をまっすぐ見ながら言った。
155ページ
「私たちは正しいことをしたのです」と女主人は言った。

「間違ったことは何もしていません」とか「正しいことをしたのです」というセリフが繰り返されているということは、おそらくは「正しくない」ということなのだろう。その相手がどんなカス野郎であるとしても私刑で殺人を行うのは狂気と言えるだろう。個人から復讐する権利を取り上げるのが法治国家であって、裁きに不満があったとしても従わねばならない。そして不服があったとしても力のない個人はどうすることもできない。加害者に害を為すことはできない。老婦人の財力と、青豆の殺傷能力によって、彼女らは個人として他人を裁いている。そうすると力のある者が他人を裁くという、弱者には納得のいかない論理で彼女らは動いていることになる。そんなものは人道的でもなんでもない、ただの狂気だろう。

180ページ
そして彼女は読字障害を抱えており、本をまともに読むことができない。天吾はディスレクシアについて持っている知識を整理してみた。大学で教職課程をとったときに、その障害についてレクチャーを受けた。ディスレクシアは原理的には読み書きはできる。知能は問題ないとされる。しかし読むのに時間がかかる。短い文章を読むぶんには支障はないが、それが積み重なって長いものになると、情報処理能力が追いつかなくなる。文字とその表意性が頭の中でうまく結びつかないのだ。それが一般的なディスレクシアの症状だ。原因はまだ完全には解明されていない。

222ページ
「しかし言うまでもないことだが、ユートピアなんていうものは、どこの世界にも存在しない。錬金術や永久運動がどこにもないのと同じだよ。人の頭から、自分でものを考える回線を取り外してしまう。ジョージ・オーウェルが小説に書いたのと同じような世界だよ。」

265ページ
「ともあれ『さきがけ』はただの農業コミューンであることをやめて、宗教団体になった。それも恐ろしく閉鎖的な宗教団体になった」
「新宗教。もっと率直な言葉で言えば、カルト団体になったわけだ」

この宗教団体は「オウム真理教」をモデルにしているということだ。教義がインチキであるとか、教祖がニセモノであるとか、そういうことはとりあえず無視することにして、ここでは宗教団体という枠組みの中で、私たちが知ることができない、関与することができない、あるいは公権力すら場合によっては出し抜かれてしまうような、無差別テロの発生すら予測できないような、そんな集団が蠢いていた、ここで再現されているのはそういう事象だろう。「そんなことがあった」のだと、過去のものとして葬り去ることはできないのだと、著者は考えているのではないかと思う。そして私たちは実際のところ、そいつらよりももっと巧妙に身を隠しているカルト団体の活動を停止させることができないのだろう。今も私たちの知らない暴力が閉ざされた扉の中で蠢いている。

270ページ
その少女の目は、天吾に一人の少女のことを思い出させた。彼が小学校の三年生と四年生の二年間、同じクラスにいた女の子だ。彼女もさっきの少女と同じような目をしていた。その目で天吾をじっと見つめていた。そして・・・

275ページ
そしてあるときその少女は天吾の手を握った。よく晴れた十二月初めの午後だった。窓の外には高い空と、白いまっすぐな雲が見えた。

301ページ
あの男に制裁を加えなくてはならない、青豆はそのときにそう心を決めた。何があろうと世の終わりを確実に与えなくてはならない。そうしなければ、あいつは別の誰かを相手にまた同じことを繰り返すに違いない。

親友が自殺に追い込まれたということで加害者を殺害するに至った青豆の心境はいまひとつわからない。他人を支配できるような力を持っていたのに娘を守れなかった老婦人の狂気に協力するかたちで青豆が殺人者になったというのであれば理解できる。それ以前に既に手を染めていたというのであれば弁解の余地はないだろう。たとえその相手がクソ野郎であったとしても。

322ページ
ヤナーチェックの『シンフォニエッタ』は高校生が演奏するには難曲だった。そして冒頭のファンファーレの部分では、ティンパニが縦横無尽に活躍する。バンドの指導者である音楽教師は、自分が優秀な打楽器奏者を抱えていることを計算に入れてその曲を選んだのだ。ところが先に述べたような理由で、急にその打楽器奏者がいなくなったものだから、頭を抱え込んでしまった。当然のことながら、代役の天吾の果たす役割が重要なものになった。しかし天吾はプレッシャーを感じることもなく、その演奏を心から楽しんだ。

「シンフォニエッタ」を聴いていると、天吾くんのテーマソングという感じがしてくる。
それほどイメージがぴったりしている。

329ページ
人が自由になるというのはいったいどういうことなのだろう、と彼女はよく自問した。たとえひとつの檻からうまく抜け出すことができたとしても、そこもまた別の、もっと大きな檻の中でしかないということなのだろうか?

342ページ
「一人でもいいから、心から誰かを愛することができれば、人生には救いがある。たとえその人と一緒になることができなくても」

344ページ
青豆は言った。「でもね、メニューにせよ男にせよ、ほかの何にせよ、私たちは自分で選んでいるような気になっているけど、実は何も選んでいないのかもしれない。それは最初からあらかじめ決まっていることで、ただ選んでいるふりをしているだけかもしれない。自由意志なんて、ただの思い込みかもしれない。ときどきそう思うよ」

「(運命として)最初からあらかじめ決まっている」から自由意志がないというわけではなく、自分がその身を委ねている環境(世界)に対する反応としての行動(行為)があるだけだという意味で自由意志なんてものはないのだろうう。

351ページ
空には月が二つ浮かんでいた。小さな月と、大きな月。それが並んで空に浮かんでいる。大きな方がいつもの見慣れた月だ。満月に近く、黄色い。しかしその隣にもうひとつ、別の月があった。見慣れないかたちの月だ。いくぶんいびつで、色もうっすら苔が生えたみたいに緑がかっている。それが彼女の視野の捉えたものだった。

368ページ
「趣味はなんですか?」
「オンガクをきくこと」
「どんな音楽?」
「バッハがいい」
「とくにお気に入りのものは?」
「BWV846からBWV893」
天吾はしばらく考えてから言った。「『平均律クラヴィーア曲集』。第一巻と第二巻」
・・・
「ほかには?」
「BWV244」
・・・
天吾はしばらく言葉を失っていた。音程はそれほど確かではないが、彼女のドイツ語の発音は明瞭で驚くばかりに正確だった。
「『マタイ受難曲』と天吾は言った。「歌詞を覚えているんだ」
「おぼえていない」とその少女は言った。

「マタイ受難曲」はヘンデルの「メサイア」と並んで、キリスト教を扱った音楽の中では最も有名な曲ではないかと思う。演奏時間が非常に長く、ドイツ語もわからないが、感情移入しやすく、購入後1週間くらいは毎日聴いていた記憶がある。「わがイエスを再び返せ」という感動的なアリアがあるのだが、ここで「返せ」と言っているのはイエスの身内というわけではなく、ユダ(もちろん彼も身内であったわけだが)であるということをインターネットからダウンロードした歌詞の対訳を読んで知った。ユダと言えば「神曲」などでは酷い目に遭っているが、バッハはユダに対して比較的寛容であるということかもしれない。
「マタイ受難曲」が扱っているのは「マタイによる福音書」の一部なので、福音書の内容も把握しておくと良い。福音書は4つ(マルコ・マタイ・ルカ・ヨハネ)あって、バッハが作曲したとされる受難曲も各々数えられているが、マルコ受難曲は消失し、ルカ受難曲はニセモノということで、マタイ受難曲とヨハネ受難曲が伝えられている。マタイ受難曲に比べると多少その評価は下がるのだろうが、ヨハネ受難曲もけっこう好きだ。各々の福音書(エヴァンゲリオン)に書かれている内容は、かなり違っている。マタイでは精霊によりマリアが身重になったという記述があるが、マルコにはそのような言及は一切なく、ルカでは大天使ガブリエルが受胎告知に訪れる。ルカは女性信者を獲得するための福音書ということで、そのような破格の待遇となっているようだ。とりあえずエヴァンゲリオンとは碇シンジや綾波レイが操縦している巨大な人型兵器のことではないということだ。だが福音書はかなりとっつきにくい書物なので(おそらくは成立した時期の価値観に我々がついていけないのだと思う)
聖書の入門書のようなものを読んだ方が良いのだろう。
西洋化が近代化とほとんど同じ意味を持つ世界にあっては「キリスト教」的な価値観はあらゆるところに及んでいて、そのことを避けていると、どこにもたどり着けないのではないかと思う。カントやヘーゲルにしてもキリスト教の観念論に振り回されていたのではないかと思うこともあるし、村上春樹もキリスト教と一定の距離を保っているように見えるが、実はその観念論に影響されているのではないかと考えられる部分がけっこうあると思う。

384ページ
「しかしそこは残酷な世界でした。子供たちの半分以上は、慢性的な疫病や栄養不足で成長する前に命を落としました。ポリオや結核や天然痘や麻疹で人はあっけなく死んでいきました。一般庶民のあいだでは、四十歳を超えた人はそんなに多くはいなかったはずです。女はたくさんの子供を産み、三十代になれば歯も抜け落ちて、おばあさんのようになっていました。人々は生き延びるために、しばしば暴力に頼らなくてはならなかった。子供たちは小さいときから、骨が変形してしまうくらいの重い労働をさせられ、少女売春は日常的なことでした。あるいは少年売春も。多くの人々は感受性や魂の豊かさとは無縁の世界で最低限の暮らしを送っていました。都心の通りは身体の不自由な人々と乞食と犯罪者で満ちていました。感慨をもって月を眺めたり、シェイクスピアの芝居に感心したり、ダウランドの美しい音楽に耳を澄ますことのできるのは、おそらくほんの一部の人だったでしょう」

400年前の人々の感性の方が優れていたのかもしれないが、そんな人は僅かしかいなかったのだと青豆は語る。彼らが生きた時代を「残酷な世界」と私たちは言うのだが、その時代を生きる人々にとっては「普通の世界」であったのではないかと思う。あるいは単に「世界」であったのではないかと思う。病気・暴力・重労働・売春・乞食・犯罪者、そういうものがありふれているというのであれば、誰も気にとめない。

385ページ
「・・・人間というものは結局のところ、遺伝子とってのただの乗り物であり、通り道に過ぎないのです。彼らは馬を乗り潰していくように、世代から世代へと私たちを乗り継いでいきます。そして遺伝子は何が善で何が悪かなんてことは考えません。私たちが幸福になろうが不幸になろうが、彼らの知ったことではありません。私たちはただの手段に過ぎないわけですから。彼らが考慮するのは、何が自分たちにとっていちばん効率的かということだけです」

私たちが遺伝子の「乗り物」であると言い出したのは、リチャード・ドーキンスだったと思う。とても適切な表現だと思う。その次に「通り道」と書かれているが、これはどういうことなのだろうか? めくらのヤギやドウタがリトル・ピープルの「通路」であることと重ねようとして「通り道」と書いているのではないかと思う。「遺伝子は何が善で何が悪かを考えない」というのと同様にリトル・ピープルも善悪のことなど知らないのだろう。遺伝子的な善悪に対する無頓着さをリトル・ピープルは備えているのかもしれない。あるいはリトル・ピープルには遺伝子的なところがあるのかもしれない。

388ページ
「あなたは正しいことをしたのです」と老婦人はゆっくり噛んで含めるように言った。
389ページ
彼女の実の娘もやはり、大塚環と似たような経緯で自らの命を絶った。娘は間違った相手と結婚したのだ。

狂気と正当化、老婦人に敵対するものが同じことを考えていたのなら、どちらが正しいかなんて私たちにはわからない。おそらくは生き残った方が「正しい」ということになる。「勝てば官軍」だ。

404ページ
「しかし彼女の卵子が受胎をすることはありません」と老婦人は言った。「先週、知り合いの医者に検査をしてもらいました。彼女の子宮は破壊されています」

417ページ
「『空気さなぎ』という作品を世に出すことで、エリさんの両親の身に何が起こったのか、真相が暴かれるかもしれない。それが池に意思を放り込むことの意味ですか?」

421ページ
「エリの描くところのリトル・ピープルが何を意味しているのか、私にはわからない。彼女にもリトル・ピープルが何であるかを言葉で説明することはできない。あるいはまた説明するつもりもないみたいだ。しかしいずれにせよ、農業コミューン『さきがけ』が宗教団体に急激に方向転換するにあたって、リトル・ピープルが何らかの役割を果たしたことは、どうやら確からしい」

小松と戎野先生の思惑が交錯するが、結局のところ二人とも出し抜かれることになる。

443ページ
老婦人が言ったように、もし我々が単なる遺伝子の乗り物に過ぎないとしたら、我々のうちの少なからざるものが、どうして奇妙なかたちをとって人生を歩まなくてはならないのだろう。我々がシンプルな人生をシンプルに生きて、余計なことは考えず、生命維持と生殖だねに励んでいれば、DNAを伝達するという彼らの目的はじゅうぶん達成されるのではないか。ややこしく屈折した、ときには異様としか思えない種類の人生を人々が歩むことが、遺伝子にとって何らかのメリットを生むのだろうか。

446ページ
やがて彼女の口がゆっくり開き、そこから、リトル・ピープルが次々に出てくる。彼らはあたりの様子をうかがいながら、用心深く一人、また一人と姿を現す。

459ページ
「そう、今年がちょうど一九八四年だ。未来もいつかは現実になる。そしてそれはすぐに過去になってしまう。ジョージ・オーウェルはその小説の中で、未来を全体主義に支配された暗い社会として描いた。人々はビッグ・ブラザーという独裁者によって厳しく管理されている。情報は制限され、歴史は休むことなく書き換えられる。主人公は役所に勤めて、たしか言葉を書き換える部署で仕事をしているんだ。新しい歴史が作られると、古い歴史はすべて廃棄される。それにあわせて言葉も作り替えられ、今ある言葉も意味が変更されていく。歴史はあまりにも頻繁に書き換えられているために、そのうちに何が真実だか誰にもわからなくなってしまう。誰が敵で誰が見方なのかもわからなくなってくる。そんな話だよ」

「ビッグ・ブラザー」はスターリンをモデルにしているということだ。ただ「一九八四年」はそのような独裁者が支配する暗い社会というのではなく、そんな人物が実在するのかしないのかわからないが全体として人々が監視されているという不気味さを描いているのではないかと思う。ひとりの独裁者を怖れているというのではなく、独裁者がいなくても支配が続くシステムの方が怖ろしい。(あるいは日本では、それを実現する官僚システムが既に構築されているのかもしれない。) もはやテレスクリーンによる監視が実現されることはないのだろうが、私たちの一人ひとりが撮影手段と通報手段を備えることによって偶然あるいは必然として高度監視社会が実現されてしまったのではないかと思う。
「ビッグ・ブラザーはあなたを見ている」

[BOOK2]

91ページ
そして天吾は三十歳になろうとしている今でも、何もすることがなく、ただぼんやりとしているようなときに、自分が知らず知らず、その十歳の少女の姿を思い浮かべていることに気がついて、驚かされた。その少女は放課後の教室で彼の手を堅く握り締め、澄んだ瞳で彼の目をまっすぐのそぎ込んでいた。あるいは体操着にやせた身体を包んでいた。あるいは日曜日の朝、母親の後ろをついて市川の商店街を歩いていた。唇はいつも堅く結ばれ、その目はどこでもない場所を見ていた。

123ページ
「物語としてはとても面白くできているし、最後までぐいぐいと読者を牽引していくのだが、空気さなぎとは何か、リトル・ピープルとは何かということになると、我々は最後までミステリアスな疑問符のプールの中に取り残されたままになる。あるいはそれこそが著者の意図したことなのかもしれないが、そのような姿勢を<作家の怠慢>と受け取る読者は決して少なくはないはずだ。この処女作についてはとりあえずよしとしても、著者がこの先も長く小説家としての活動を続けていくつもりであれば、そのような思わせぶりは姿勢についての真摯な検討を、近い将来迫られることになるかもしれない」と一人の批評家は結んでいた。

批評を回避するために架空の批評を記載しているのではないかと思う。別に「作家の怠慢」というふうには思わない。「空気さなぎとは何か、リトル・ピープルとは何かという」疑問でBOOK2の終わりまでは興味が持続する。さすがにBOOK3までは続かない。「遺伝子」やら「金枝篇」やら「カラマーゾフの兄弟」を持ち出して、何処にも着地する気はないのだろう、とは思う。物語を物語ることが大切であると著者はしばしば表明しているように思うが、その意図を私は理解できていない。私たちが生きていく中で大切なこと、私たちの心にとって大切なこと、そういうことよりも、その働き自体が不思議でならない。小説を読んでいておもしろいと思うのだが、一方では別の人格が冷徹に分析・総合を進めている。

167ページ
ここは猫の町なんかじゃないんだ、と彼はようやく悟った。そこは彼が失われるべき場所だった。それは彼自身のために用意された、この世ではない場所だった。そして列車が、彼を元の世界に連れ戻すために、その駅に停車することはもう永遠にないのだ。

174ページ
「私に息子はおらない」と父親はあっさりと言った。
「あなたには息子はいない」と天吾は機械的に反復した。
父親は肯いた。
「じゃあ、僕はいったい何なのですか?」と天吾は尋ねた。
「あなたは何ものでもない」と父親は言った。そして簡潔に二度首を振った。

198ページ
「彼女たちはわたしのまわりで巫女の役割を果たしている。私と交わることは、彼女たちの務めのひとつでもある」
「務め?」
「役割として決められていることだ。後継者をみごもるように務めることが」

241ページ
「リトル・ピープルが何ものかを正確に知るものは、おそらくどこにもいない」と男は言った。
「人が知り得るのはただ、彼らがそこに存在しているということだけだ。フレイザーの『金枝篇』を読んだことは?」
「ありません」
「興味深い本だ。それは様々な事実を我々に教えてくれる。歴史のある時期、ずっと古代の頃だが、世界のいくつもの地域において、王は任期が終了すれば殺されるものと決まっていた。任期は十年から十二年くらいのものだ。任期が終了すると人々がやってきて、彼を惨殺した。それが共同体にとって必要とされたし、王も進んでそれを受け入れた。その殺し方は無惨で血なまぐさいものでなくてはならなかった。またそのように殺されることが、王たるものに与えられる大きな名誉だった。どうして王は殺されなくてはならなかったか? その時代にあって王とは、人々の代表として<声を聴くもの>であったからだ。そのような者たちは進んで彼らと我々を結ぶ回路となった。そして一定の期間を経た後に、その<声を聴くもの>を惨殺することが、共同体にとっては欠くことのできない作業だった。地上に生きる人々の意識と、リトル・ピープルの発揮する力とのバランスを、うまく維持するためだ。古代の世界にといては、統治することは、神の声を聴くことと同義だった。しかしもちろんそのようなシステムはいつしか廃止され、王が殺されることもなくなり、王位は世俗的で世襲的なものになった。そのようにして人々は声を聴くことをやめた」

「金枝篇」は膨大な著作であり私たちが手にすることができるのは簡約本ということである。その簡約本にしても岩波文庫だと5冊に及ぶ。絶版だが、永橋卓介訳の中古本を購入することができる。レヴィ=ストロースなどのフィールドワークを重視する人類学者のフレイザーに対する評価はかなり低いようだ。そういう事情は素人にはよくわからないが「悲しき熱帯」よりは「金枝篇」の方がおもしろいのではないかと思う。好みの問題だが。
ここでは「王が進んでそれを受け入れた」ということが書かれているのだが、私はそのような印象は持っていない。<声を聴くもの>という視点がそれほど強調されていたとも思わない。その時に書いた感想を修正しながら、当時どのような印象を受けたか、思い出してみることにする。

[金枝篇(二)より]
「・・・ネミの『森の王』が樹木の精霊あるいは植物生育の精霊であったと考えられる理由、
および、このような者として、彼が樹木に果を結ばせたり農作物を生育させたりする
呪術的な力を賦与されていると礼拝者たちが信じていた理由を見た。
・・・しかし、この人間神の生命に結びつけられた価値そのものが、その生命を不可避の
老衰から救う唯一の手段として、彼の非業の最期を必要としたことをわれわれは見た。
・・・すなわち彼もまた、その身に受肉している神的精神が無瑕のまま継承者に
転移されるために殺されねばならなかった。彼はより強い者が彼を殺すまではその職を
保つことができるという規定は、神的生命を最も活発な状態に保つこと、および、
その活発さが害われはじめるや否や適当な後継者にそれを転移すること、の二つを
証明するものと考えられたであろう」

「殺される神」あるいは「神聖な王の弑殺」についてそのようなことが書かれている。
ここで「神的生命」とされているのは「霊魂」ということらしい。
宗教的な霊魂(あるいは精神)は有限な肉体に対して無限であるとされるが、
未開人が霊魂を無限なものとして捉えていたかについては、よくわからない。
きっと有限とか無限とか、そんなことは考えていなかったのだろう。
「彼の非業の最期を必要とした」理由は「人々の代表として<声を聴くもの>であったから」ではなく、
「その生命を不可避の老衰から救う」ためだった。
「神的精神」だか「神的生命」を「最も活発な状態に保つ」ことが何より重要であり、
それは衰えてから伝承されるものではあり得なかった。

[金枝篇(三)より]
エジプトの農民は収穫時において、「穀物神の身を鎌でもって切断し、
それを打穀場で家畜の爪にかけて粉々に砕いてしまった」・・・

「オシーリスの切断された骸が国のあちこちに撒き散らされた」という神話は
「穀物を播くこと」を伝える方法であったらしいし、
「穀物霊の代表である人間犠牲を殺して、畑を豊饒肥沃にするためその肉を配布し、
あるいはその灰を撒布した慣習」について説明したものらしい。
「生贄」は、神とか自然とか超自然的なものに犠牲を捧げるというよりは、
「畑を豊饒肥沃にするため」のものであったらしい。
「最も活発な状態に保つ」という点で「神聖な王の弑殺」と同じということなのだろう。
「活発な生命力」が次の豊作を保障してくれるはずだと飢えた人々は考えたことだろう。
ここでの犠牲者は、神の代理を務めているということだ。
そうでなければ「効き目」はない。

[金枝篇(四)より]
「これまでのところでは、神を殺す慣習を、農耕の社会段階に達した諸民族の間でたどって見た。
われわれは穀物霊または他の栽培植物の霊が、一般に人間の形か動物の形で表されていることを
見たし、さらにある地方では毎年神の表象である人間を殺す慣習か、神の表象である動物を殺す
慣習のいずれかが、よりよく普及していることを見た。
このように穀物霊をその表象の身柄において殺す理由の一つは、本書の初めの部分に暗々裡に
与えられている。つまりそのねらいは、精霊がなお強健かつ多産なうちに、それを生気溌剌たる
後継者の身柄に転移することによって、彼または彼女を老年の衰弱から護ろうとするものだ、と
想像することができる。彼の神的精力の更新を希求する願望とは別に、穀物霊の死は刈り手の
鎌や小刀のもとでは不可避だと考えられただろうから、その礼拝者たちはおのずとこの悲しき
必然に盲従せざるを得ないものと感じたであろう。しかしさらに、神を表す人間の形につくった
ものにおいてか動物のかたちにつくったものにおいてか、あるいはまた人間もしくは動物に
似せてつくったパンの形においてか、礼典的に神を食べる慣習があまねく行われたことを
われわれは見出している。こうして神の体を食べる理由は、原始的思惟からすれば極めて
簡単である。一般に未開人は、動物または人間の肉を食べることによって、肉体的性質のみならず
その動物なり人間なりの特性となっている道徳的性質および知的性質までも獲得することが
できると信じている。」

「王殺し」にとどまらず「神を食べる」慣習があったということだ。
食べることで「肉体的性質」のみならず「道徳的性質および知的性質までも獲得することができる」と信じられていた。
キリストの血であるブドウ酒と肉であるパンを食べるという聖体拝領は、
キリスト教を普及させるためにが異教から取り入れた慣習のひとつだろう。
仏教もそうだと思うが世界宗教という性質を持つものは多くの信者を獲得するための変更を余儀なくされている。
それが普及したからと言って、真理であるとか普遍的なものであると見做すのは勘違いであって、どちらかというと逆なのだ。

「原始的思惟」が「呪術」という手段を用いるのは、あたり前ということだ。
私たちの思惟の形態を古代に適用して彼らは残酷だったとか未開だったとか言ったところで仕方がない。
政治と宗教が分離できない時代にあっては、王は<声を聴くもの>であったと思うが、民衆にとってはどうでも良いことであって、
彼らは単に自分たちの胃袋を満たしてくれる指導者を求めていただけではないかと思う。
いずれにしても私の中では「金枝篇」と「リトル・ピープル」はつながらない。

244ページ
「この世には絶対的な善もなければ、絶対的な悪もない」と男は言った。「善悪とは静止し固定されたものではなく、常に場所や立場を入れ替え続けるものだ。ひとつの善は次の瞬間は悪に転換するかもしれない。逆もある。ドストエフスキーが『カラマーゾフの兄弟』の中で描いたのもそのような世界の有様だ。重要なのは、動き回る善と悪とのバランスを維持しておくことだ。どちらかに傾き過ぎると、現実のモラルを維持することがむずかしくなる。そう、均衡そのものが善なのだ。わたしがバランスをとるために死んでいかなくてはならないというのも、その意味合いにおいてだ」

「善と悪とのバランスの維持が重要」「均衡そのものが善」というのは「カラマーゾフの兄弟」の読み方のひとつなのだろうが、初めからそんなふうに上から目線で考えていると、この本はおもしろくないのではないかと思う。
「三次元空間にへばりついて生きるしかない人間に何ができるのか?」
どちらかというとそんなふうに読んでいる。

249ページ
男は言った。「しかし正確に言えば、それはただの偶然ではない。君たち二人の運命が、ただの成り行きによってここで邂逅したわけではない。君たちは入るべくしてこの世界に足を踏み入れたのだ。そして入ってきたからには、好むと好まざるとにかかわらず、君たちはここでそれぞれの役割を与えられることになる」
「この世界に足を踏み入れた?」
「そう、この1Q84年に」
「1Q84年?」と青豆はいった。顔はもう一度大きく歪められた。それは私の作った言葉じゃないか。
「そのとおり。君が作った言葉だ」と男は青豆の心を読んだように言った。

273ページ
「この世界にいる人の多くは、時間性が切り替わったことに気づいていない?」
「そうだ。おおかたの人々にとってここは何の変哲もない、いつもの世界なんだ。『これは本当の世界だ』とわたしがいうのは、
そういう意味合いにおいてだよ」

276ページ
「・・・リトル・ピープルと呼ばれるものが善であるのか悪であるのか、それはわからない。それはある意味では我々の理解や定義を超えたものだ。我々は大昔から彼らと共に生きてきた。まだ善悪なんてものがろくに存在しなかった頃から。人々の意識がまだ未明のものであったころから。しかし大事なのは、彼らが善であれ悪であれ、光であれ影であれ、その力がふるわれようとする時、そこには必ず補償作用が生まれるということだ。この場合、わたしがリトル・ピープルなるものの代理人になるのとほとんど同時に、わたしの娘が反リトル・ピープル作用の代理人のような存在になった。そのようにして均衡が維持された」
「あなたの娘?」
「そうだ。まず最初にリトル・ピープルなるものを導き入れたのがわたしの娘だ。彼女はそのとき十歳だった。今では十七になっている。彼らはあるとき暗闇の中から現れ、娘を通してこちらにやってきた。そしてわたしを代理人とした。娘がパシヴァ=知覚するものであり、わたしがレシヴァ=受け入れるものとなった。わたしたちにはたまたまそういう資質が具わっていたようだ。いずれにせよ、彼らが私たちを見つけた。私たちが彼らを見つけたわけではない」

「娘がパシヴァ=知覚するものであり、わたしがレシヴァ=受け入れるものとなった」ということでリトル・ピープルを受け入れたということだが、その娘が「反リトル・ピープル作用の代理人」となり、「わたし」が「リトル・ピープルなるものの代理人」となり均衡が維持されたというのはどういう理屈なのだろうか? ふかえりが「パシヴァ=知覚するもの」、天吾が「レシヴァ=受け入れるもの」でホンを書いたことは「反リトル・ピープル作用」ということだろうか?
結局のところ、「知覚する」とか「受け入れる」ということがどういうことなのかはよくわからない。そして「リトル・ピープル」と「反リトル・ピープル」の相違というのもよくわからない。「善」と「悪」の区別もないのだから、同じものを別の名前で呼んでいるだけかもしれない。理由も知らずに戦わなければならないということかもしれない。きっと戦争のように避けがたいものであり、私たちの個別の事情など一切考慮してはもらえないのだ。
そして私たちがそのような抜き差しならない状況に落ち込んだとしても遺伝子は知らん振りをしている。空間に長く滞在することを巡って物質どうしが争っている。そのような世界をショウペンハウアーは「意志の世界」と呼んだ。

284ページ
「天吾くんはリトル・ピープルと、彼らの行っている作業についての物語を書いた。絵里子が物語を提供し、天吾くんがそれを有効な文章に転換した。それが二人の共同作業だった。その物語はリトル・ピープルの及ぼすモーメントに対抗する抗体としての役目を果たした。それは本として出版され、ベストセラーになった。そのせいでリトル・ピープルは一時的にせよ、いろんな可能性を潰され、いくつかの行動を制限されることになった。『空気さなぎ』という題名を耳にしたことはあるだろう」

285ページ
「私はつまり、天吾くんの物語を語る能力によって、あなたの言葉を借りるならレシヴァとしての力によって、1Q84年という別の世界に運び込まれたということなのですか?」
「少なくともそれが私の推測するところだ」と男は言った。

レシヴァとしての力には「声を聴く」ということと「物語を語る」ということがあるのだろうか? それとも「声を聴く」ことと「物語を語る」ことは同じなのだろうか?
「小説を書くとき、僕は言葉を使って僕のまわりにある風景を、僕にとってより自然なものに置き換えていく。つまり再構成する」と天吾は語っている。そうすると二つの能力は同じことなのかもしれない。

394ページ
それから天吾はその月から少し離れた空の一角に、もう一個の月が浮かんでいることに気づいた。最初のうち、彼はそれを目の錯覚だと思った。あるいは光線が作り出した何かのイリュージョンなのだと。

398ページ
「集まり」の中で暮らす大人たちは、その外にある世界のあり方を嫌っている。自分たちの住んでいる世界は、シホンシュギの海の中に浮かんだ美しい孤島であり、トリデなのだ、と彼らはことあるごとに言う。少女はシホンシュギ(時にはブッシツシュギという言葉が使われる)が何であるかを知らない。ただ人々がその言葉を口にするときに聞き取れるさげすむような響きからすると、それはどうやら自然や正しさに反する、ゆがんだものごとのあり方であるらしい。自分の身体や考え方をきれいに保つために、外の世界とできるだけかかわってはならないと少女は教えられる。そうしないと心がオセンされていくことになる。

「剰余価値は不払い労働から成る」という、なんとかの法則みたいなことが資本論に書いてあり、なるほどと思ったことがある。そして「資本の目的は自己増殖である」という、なんだかあたり前のようなことも書いてあった。資本が一度成立してしまうと、それは人の手を借りて、どんどん自己増殖していくものらしい。そうすると資本には、私たちを乗り物としている遺伝子と、どこか共通点があるように思えてくる。資本も遺伝子も物質もショウペンハウアーふうには「意志」を持って世界に留まろうとするのだが、実際のところ彼らに「意志」なんてものはないし「効率化」みたいなことを考えているわけでもない。彼らに意志はないにしても、彼らの意のままに動いているのは私たちであり、それはなんとアイロニーに満ちていることだろう。資本を蓄積するためには剰余価値を積み重ねていく必要があり、不払い労働を増やして行かなければならない。アップルやディズニーがそうしているように。それが「ゆがんだものごとのあり方」と呼ばれているものなのだろう。遺伝子と同じように資本には善悪の区別なんてないのであって、ゆがんでいると言ったところでどうということはないのだ。生存・生殖と倫理が無関係であるように、売上・利益と倫理も無関係だろう。主義主張を比較してより良いものを採用していけば解決するといった問題ではないのだし、ましてや革命によって成就されるものでもない。革命とは支配者の入れ替えに必要なものであって人民を解放するためのものではない。そもそも人民を解放するということに意味はない。善悪に無関心な遺伝子や資本に対して、弱肉強食を振りかざす遺伝子や資本に対して、私たちは、それもまた生存・生殖から派生したであろう愛や倫理で対抗するしかないのだろう。手詰まりという感じはする。だが他にどうすることもできない。コミューンに閉じこもって心がオセンされないように務めていたとしても、いつか鎖国は解かれるものだ。「自分をきれいに保つ」よりはイカレタ世界を見つめ続けることの方が大事だろう。

411ページ
さなぎの中にいるのが少女自身であることを、少女は発見する。彼女はさなぎの中に裸で横たわっている自分の姿を眺める。そこにいる彼女の分身は仰向けになって目を閉じている。意識はないようだ。呼吸もしていない。まるで人形のように。
「そこにいるのはキミのドウタだ」としゃがれた声のリトル・ピープルが言った。そしてひとつ咳払いをした。後ろを振りかえると、いつの間にか七人のリトル・ピープルが、そこに扇形に並んで立っていた。
「ドウタ」と少女は自動的に言葉を繰り返す。
「そしてキミはマザと呼ばれる」と低音が言った。
「マザとドウタ」と少女は繰り返す。
「ドウタはマザの代理をつとめる」と甲高い声のリトル・ピープルが言う。
「わたしはふたりにわかれる」と少女は尋ねる。
「そうじゃない」とテノールのリトル・ピープルが言う。「キミは何も二つに分かれるわけじゃないぞ。キミは隅から隅までもとのままのキミだ。
心配はいらない。ドウタはあくまでマザの心の影に過ぎない。それがかたちになったものだ」

「ドウタはあくまでマザの心の影に過ぎない」ということだが、二つに分離してしまったのであれば、どちらが光でどちらが影かということも曖昧になる。おそらくはどちらもが自分を光と考え相手を影と考えるのだ。あるいはひとつの身体に光と影が住まう時も、厳密に光と影が区別されるものではないだろう。「思考する主体」としてそれ自体が認識されるような「意識」が光と呼ばれ、決して表層には浮かばない事象が影と呼ばれるならば、その影が通路となってリトル・ピープルが現れるという時のそれは「無意識」とか「エス」と呼ばれているもののことかもしれない。私たちは便宜的に「無意識」という言葉を使ってはいるが、本来その言葉は「混沌」と同じように何も示してはいない。言葉で示せないという点ではそういうものかもしれない。そしてその「言葉で示せない」ものが善であるか悪であるかという問いも意味をなさないことになる。そのような状況にも関わらず「それ」は私たちを規定している。

418ページ
少女があとに残してきたドウタは、おそらくリトル・ピープルのための通路となって、彼らをリーダーである少女の父親へと導き、その男をレシヴァ=受け入れるものに変えてしまった。そして不必要な存在となった「あけぼの」を血なまぐさい自滅へと追い込み、そのあとに残された「さきがけ」をスマートで先鋭的な、そして排他的な宗教団体へと変貌させていった。それがリトル・ピープルにとってもっとも快適で都合の良い環境だったのだろう。

455ページ
天吾は顔を少し歪めた。「つまり君は僕がレシヴァであることを知っていて、あるいはレシヴァの資質を持つことを知っていて、だからこそ僕に『空気さなぎ』の書き直しをまかせた。君が知覚したことを、僕を通して本のかたちにした。そういうことなのか?」
返事はなかった。

496ページ
さなぎの中にはいったい何があるのだろう?
それは彼に何を見せようとしているのだろう?
・・・
自分のために用意された空気さなぎの中に何が入っているか、彼はそれを知りたくはなかった。知らないままで済ませられるものなら、
済ませてしまいたかった。
・・・
しかしそれができないことは、天吾にもわかっていた。もしその中にあるものの姿を目にしないままここを立ち去ってしまったら、俺は一生そのことを後悔するに違いない。その何かから目を背けたことで、おそらくはいつまでも自分自身を赦すことができないだろう。

498ページ
天吾がそこに見出したのは、美しい十歳の少女だった。

名古屋フィル#50ベートーヴェン交響曲第3番

2015-09-05 22:15:11 | 音楽
第427回定期演奏会、曲目は以下の通り
ベートーヴェン: 『レオノーレ』序曲第3番 作品72b
ドホナーニ: 童謡(きらきら星)の主題による変奏曲 作品25
ベートーヴェン: 交響曲第3番変ホ長調 作品55『英雄』

ドホナーニの曲が終わった後に休憩時間に入った。
総譜を広げて曲を聴いていた学生とおぼしき男性は演奏後に盛んに拍手していたが、
ベートーヴェンの英雄が始まるまでには戻って来なかった。
なんとなく戻ってこないだろうとは思っていた。
時折、マイナーな曲の演奏を聴きに来る彼はメジャーな曲には興味がないようだ。
自腹で聴いていないのかもしれないし、明日の作曲家を夢見ていて、
そんな古風なものは聴いていられないと思っているのかもしれない。
いずれにせよ聴きたくないモノを無理に聴く必要はないのだ。
たとえそれが私の大好きな曲であったとしても彼には関係ないのだ。
でもなんか腹が立つ。

ベートーヴェン: 交響曲第3番変ホ長調 作品55『英雄』
ベートーヴェン個人にとっても音楽史全体にとっても重要な曲ではないかと思う。
私は学生の頃からずっと聴き続けている。
美しさをかなぐり捨て自らの理想とする姿を追求し続けるかのような第一楽章
一度止まってしまうとすべてが崩れ落ちてしまうような不安定な時空間を突き抜ける。
意志する存在そのものを表現しているのではないかと思われる。
ここには自分の力を自覚した者の姿がある。
引きちぎられるような美しさを備え偉人を葬送するかのような第二楽章
葬られたのはナポレオンだろうか?
この楽章ではため息すら美しい。
あまりの緊張に聴衆は咳払いをすることさえ忘れたようだ。
指揮者の作曲家に対する思い入れがそうさせているのかもしれない。
軽快に快速に天駆けるかのような第三楽章
交響曲第2番で初めて用いられたスケルツォはメヌエットではないかと感じるが、
第3番のスケルツォはその後の交響曲の模範となったのではないかと思う。
ブルックナーもマーラーもスケルツォの名手だった。
変奏曲(ヴァリエーション)の第四楽章
確か今日のテーマは<アート・オブ・ヴァリエーション>だった。
第一楽章とは違った意味で執拗に繰り返されるものがある。
変奏曲という形式がその内容と結びついている。
何かしら妙に浄化されたものが感じられる。
そこにたどり着くまでにはまだまだ苦悩の道が続く。

名フィルもとうとう50回になりました。
3階席で応援しています。

アフターダーク

2015-09-05 00:05:45 | 村上春樹
25ページ
「なんで僕らはみんなべつべつの人生を歩むようになるんだろうね? つまりさ、君たちの場合でいえばだけど、同じ両親から生まれて、同じ家で育って、同じ女の子で、それがどうしてそんなにがらっと色あいの違う人格になってしまうんだろう? どこにその、別れ道みたいなものがあるんだろう? 一人は手旗信号サイズのビキニを着て、プールサイドでチャーミングにただ横になっていて、一人はスクール水着みたいなのを着て、水の中をイルカ並みに泳ぎまくっていて・・・」

生まれと育ち、気質と環境、遺伝子と経験というように「私たち」を規定する二種類の要因があり、そうしたものが複雑に組み合わさた結果として「人格」が形成されるのだと、そんなふうに考えられている。どこまで同じであれば、同じ人格が形成されるのか、具体的なことは何もわからない。きっと生年月日と血液型ですべての組合せが網羅できると信じている人も少しはいるのだろう。双子は遺伝子レベルで同一であって第三者が容姿を区別するのはとても困難だ。人格も似ているのではないかと思う。だが当人たちは容姿も人格もまったく異なると考えていたりする。「同じ」とか「違う」といったとしても、どの程度で「同じ」と判断するか人によって「違う」のだ。仮にクローン人間の製造が許可されたとして人格まで同じにすることができるだろうか? その人間がどのような環境で育ったのか記録が残っているわけではないので、彼と相互作用を起こしたであろう、他者の人格であるとか、食事やら芸術やら自然の風景といったものも、その時々の一回限りのことであって、それと同じ現象をことごとく寸分の狂いもなく再現させることなんてできないだろう。そうすると同じ人格は作れないということになりそうだ。
もしも物質をコピーすることができる装置があったなら、脳・神経・血管・内臓・骨・筋肉の組成や構造が瞬時に再現され、ニューロンの数とか配置とかその接続状況も再現され、その結果「私」のコピー(つまりは同じ人格)ができるかもしれない。ここで脳内に記録されたものを私たちは「記憶」と呼び、それを記憶素子(ニューロン)と接続状況(シナプス)が担っていると考えている。しかしそのようにして出来上がった「別の私」が「私」と「同じ」なのか「違う」のかどうやって知ることができるだろう? (そして「別の私」にしても「同じ」かどうか判断がつかないに違いない。) おそらくはコピーした瞬間は「同じ」であったとしても時間の経過と共に異なる事象に遭遇し「私たち」は「違う私たち」へと変化して行く。私たちは常に選択に晒されているのであって、その結果「べつべつの人生を歩む」ことになる。

28ページ
「その話には教訓みたいなものはあるの?」
「教訓はたぶんふたつある。ひとつは」と彼は指を一本立てる。「人はそれぞれに違うということ。たとえ兄弟であってもね。もうひとつは」と二本目の指を立てる。「何かを本当に知りたいと思ったら、人はそれに応じた代価を支払わなくてはならないということ」

「何かを本当に知りたい」と思った時には時間が必要になる。本を一冊読むのに何時間もかかる。一週間くらいかかる場合もある。知っていることであれば理解も早いが、そもそも「知らないこと」を知りたいのだから、時間がかかるのは仕方がない。そしてたいていの場合、時間を手に入れるのは難しい。お客様の要望が時々刻々と変化する市場にあっては一瞬でも手を抜くと他社(他者)に出し抜かれてしまう。そのために経営者は顧客に忠実であらねばならないし、部下は上司に服従しなければならない。高度に発達した資本主義社会にあっては連鎖反応的に他者のために生きることになり、他者のために自らの大切な時間(つまりは命)のほとんどすべてを差し出すことになる。(いつ携帯電話が鳴り出しても不思議はない。) そうまでしてしか生きられない世界から逃れるためには、それなりの代価を支払い、報いを受けなければならない。

32ページ
「・・・でもとにかく、A面の一曲めに『ファイブスポット・アフターダーク』っていう曲が入っていて、これがひしひしといいんだ」

私の人生とジャズとの関係は非常に希薄だが、YouTubeで「ファイブスポット・アフターダーク」を検索して聴いてみた。便利な時代だ。「ひしひしといい」ということで確かにそうなのだが、それ以上は追求しない。きっと「本当に知りたい」と思っていないのだろう。著者のように全方位的に音楽に触れることができればと考えたこともあったが実現できなかった。仕事が忙しいこともあったし、子供たちと遊ぶのが楽しかったということもある。ブログを始めた頃に「子供たちと遊ぶ」時間を代価として支払うようになったが、その時の子供の残念そうな顔は忘れることはできない。著者はあるいは「子供を持たない」という代価を支払っているのだろう。

39ページ
浅井エリの姿を眺めているうちに、その眠りの中には何かしら普通ではないところがあると、次第に感じるようになる。彼女の眠りはそれほど純粋であり、完結的である。顔の筋肉ひとつ、まつげひとつ動かすわけでもない。ほっそりとした白い首は工芸品のような濃密な静謐を守り、小さなあごはかたちのよい岬となって、端正な角度を指している。いくら熟睡するにせよ、人はここまで奥深く眠りの領域に足を踏み入れはしない。ここまで全面的に意識を放棄することはない。

どうしてそのよう眠りにつく必要があるのか、どうして全面的に意識を放棄しなければならないのか、最後の方になって、その解答が与えられたような気もするが、実際のところよくわからない。

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マスクの真の不気味さは、顔にそれほどぴたりと密着しているにもかかわらず、その奥にいる人間は何を思い、何を感じ、何を企てているのか(あるいはいないのか)、まったく想像がつかないところにある。男の存在が良きものなのか、悪しきものなのか、彼の抱いている思いが正しきものなのか、歪んだものなのか、その仮面が彼を隠すためのものなのか、それとも彼を護るためのものなのか、判断するための手がかりがない。男は精緻な匿名の仮面を顔にかぶせられ、静かに椅子に座り、テレビ・カメラにとらえられ、そこにひとつの状況を作り出している。とりあえず私たちは判断を保留し、その状況をありのまま受け入れるしかなさそうだ。彼を「顔のない男」と呼ぶことにする。

「顔のない男」は「名前のない男」とどう違うのだろう?
匿名性が罪の意識を軽減していて、無名性を帯びた不特定多数の人間を抑圧するという図式が思い浮かぶ。一方で虐げられている無名の人々が匿名を確保した場合には容易に立場が逆転し得る。(ここでは、白川という人物がその代表と考えられる。)
仮面は彼を隠すと共に護っている。しかしいつまでも「顔のない男」でいることはできずやがて「名前のない男」に戻ってしまう。その時に彼を護るものはない。彼は「逃げ切れない」のだ。

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「『アルファヴィル』って、私のいちばん好きな映画のひとつだから。ジャン・リュック・ゴダールの」

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男が一人、コンピュータの画面に向かって仕事をしている。ホテル「アルファヴィル」の防犯カメラに映っていた男だ。

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たぶんあちらが本物のベッドなのだろうと、私たちは推測する。本物のベッドは、しばらく目を離しているあいだに(私たちがこの部屋を離れてから、二時間以上が経過している)、エリごとあちら側に運びさられてしまったのだ。

あちらが本物で、こちらがコピーということを、私たちが判断する材料は実際にはない。

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「で、いったんそういう風に考えだすとね、いろんなことがそれまでとは違った風に見えてきた。裁判という制度そのものが、僕の目には、ひとつの特殊な、異様な生き物として映るようになった」
「異様な生き物?」
「たとえば、そうだな、タコのようなものだよ。深い海の底に住む巨大なタコ。たくましい生命力を持ち、たくさんの長い足をくねらせて、暗い海の中をどこかに進んでいく。僕は裁判を傍聴しながら、そういう生き物の姿を想像しないわけにはいかなかった。そいつはいろんなかたちをとる。国家というかたちをとるときもあるし、法律というかたちをとるときもある。もっとややこしい、やっかいなかたちをとることもある。切っても切っても、あとから足が生えてくる。そいつを殺すことは誰にもできない。あまりに強いし、あまりにも深いところに住んでいるから。心臓がどこにあるかだってわからない。僕がそのときに感じたのは、深い恐怖だ。それから、どれだけ遠くまで逃げても、そいつから逃れることはできないんだという絶望感みたいなもの。そいつはね、僕が僕であり、君が君であるなんてことはこれっぽっちも考えてくれない。そいつの前では、あらゆる人間が名前を失い、顔をなくしてしまうんだ。僕らはみんなただの記号になってしまう。ただの番号になってしまう」
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高橋は続ける。「僕が言いたいのは、たぶんこういうことだ。一人の人間が、たとえどのような人間であれ、巨大なタコのような動物にからめとられ、暗闇の中に吸い込まれていく。どんな理屈をつけたところで、それはやりきれない光景なんだ」

その「異様な生き物」とか「巨大なタコ」というのは「リヴァイアサン」のことかもしれない。ホッブズは「コモンウェルス」を「リヴァイアサン(レヴィアタン)」になぞらえていて、それは単に怪物である「クラーケン(その多くが巨大なタコやイカのような頭足類の姿で描かれる北欧伝承の海の怪物)」とは違って神聖や正義を帯びているのだとウィキペディアに書いてあった。(本当かどうか知らない。ウィキペディアにはガセネタがけっこうある。) どちらかというと「クラーケン」の方がここに出て来る「巨大なタコ」のイメージに似ているのだろう。ホッブズには「怪物」のつもりはなかったとしても現代に生きる私たちは「怪物」のように感じてしまうのだろう。
一般にそれは個々人の「権利」が譲渡・集積された「権力」と見做される。その起源についてはよくわからない。「投票」というのは個々人の「権利」を譲渡する仕組みであり、集積され一元化された「権力」の正当化に役立っている。その「権力」は「あまりに強い」「心臓がどこにあるかだってわからない」ような怪物なのだろう。そして国家や法律というかたちをとった「怪物」が司法制度や官僚制度のようなたくさんの長い足を発展させ、その制度に支配された官吏や警官が「僕」や「君」を捕らえることになる。逃げることはできない。
(売春組織の男が高橋に「逃げ切れない」というのも同じような意味なのだと思う。) 逃げる方は「名前をなくし」捕らえる方は「顔をなくす」。あるいは双方とも名前も顔もなくしてしまうのかもしれない。匿名性は加害者の罪を隠蔽し被害者の存在を隠蔽して「やりきれない光景」を覆い隠す。ナチスの一人ひとりがユダヤ人の一人ひとりを意識していたなら虐殺は起きなかっただろうし、広島市民や長崎市民の一人ひとりの表情を思い浮かべることが出来たなら原爆が投下されることもなかっただろう。それらの残虐行為が一方は「悪」で一方は「正義」と見做されているのは別の意味でおかしなことだろう。ときには「怪物」どうしが争って、敗れた方の「怪物」は「悪魔」ということになる。そして福島では「名前を失ってしまった」人々が「クラーケン」の責め苦にあっている。その「怪物」には心臓もないし心もない。

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「ハッピーエンド。二人で末永く幸福に健康に暮らすんだ。愛の勝利。昔は大変だったけど、今はサイコー、みたいな感じで。ぴかぴかのジャガーに乗って、スカッシュして、冬にはときどき雪投げをして」

感動する「映画」とはそのようなものではないかと思う。「感動したがっている」人々がどういう映画を望んでいるのかを業界の人々は知り尽くしているのだろう。努力は実を結ばねばならないし、虐げられた個人はいつか解放されなければならない。非業の死を遂げる者があったなら誰かが仇を討ってやらねばならない。もしかすると私は自分では気がついていない隠れた能力を秘めていて修行をすれば「かめはめ波」くらいは打てるようになるかもしれない。あるいは「そちらの国」では王子や皇女ということになっているかもしれない。そうした一人ひとりの願望を満足させるのが「映画」という巨大産業の役割に違いない。「車」や「スマホ」が充足させる即自的な願望とはちょっと違うかもしれないが、
本質は似ているのではないかと思う。

165ページ
その部屋が白川が深夜に仕事をしていたオフィスに似ていることに、私たちは気づく。

167ページ
これは現実なのだ、と彼女は結論を下す。別の種類の現実が、なぜか私の本来の現実に取って代わっているのだ。

「別の種類の現実」と「本来の現実」はどのように違うのだろうか? 個体にとって望ましい現実が「本来の現実」でそうでないのが「別の種類の現実」ということだろうか? そこで各個体の見解や要望が異なるというのであれば「本来の現実」とは多数決とか需要や供給の一致で決まるようなものなのだろうか? 様々な可能性を持ち得る論理空間のただ一つが実現された「現実」なのだろうか? とにかく「現実」というのはよくわからない。

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「・・・でも浅井エリにはそれができなかった。与えられた役割をこなし、まわりを満足させることが、小さい頃から彼女の仕事みたいになった。君の言葉を借りれば、立派な白雪姫になろうと努めてきたんだ。たしかにみんなにちやほやされただろうけど、それは時にはしんどいことだったと思うよ。人生のいちばん大事な時期に、自分というものをうまく打ち立てることができなかった」

193ページ
「エリは今、眠っているのよ」とマリは打ち明けるように言う。「とても深く」
「みんなもう眠っているよ、今の時間は」
「そうじゃなくて」とマリは言う。「あの人は目を覚まそうとしないの」

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それからふと思いついて、コートのポケットから中国女の携帯電話を取り出す。まわりを見まわし、誰にも見られていないことを確かめてから、チーズの箱の隣りに並べて置く。銀色の小さな電話は、その場所に不思議なくらい自然に収まる。まるでずっと昔からそこにあったもののようだ。それは白川の手を離れ、セブンイレブンの一部になる。

214ページ
「つまりさ、僕はそのときこう感じたんだよ。お父さんはたとえ何があろうと僕を一人にするべきじゃなかったんだって。ぼくをこの世界で孤児にするべきじゃなかったんだ」

「海辺のカフカ」で母に捨てられた主人公が同じようなこととを言っている。

233ページ
「マリちゃん。私らの立っている地面いうのはね、しっかりしてるように見えて、ちょっと何かがあったら、すとーんと下まで抜けてしまうもんやねん。それでいったん抜けてしもたら、もうおしまい、二度と元には戻れん。あとは、その下の方の薄暗い世界で一人で生きていくしかないねん」

一度、足を踏み外したなら、二度と元には戻れない。だが足を踏み外さないように戦々恐々としているというのもどうかと思う。いずれにしても救いはない。それに元に戻る言ったって、どこに戻るというのだろう?
末永く幸福に暮らしましたということであれば、さっきの映画と変わりはない。
そうしたプチ優越感に浸れるステレオタイプな人生は望んでいないのではなかったのか?
あるいはなくしてみるとそちらの方が良かったということか?

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「それで、姉は二ヵ月ほど前に『これからしばらくのあいだ眠る』と言いました。夕食のときに、家族の前でそう宣言したんです。そいう言われても、誰も気にしませんでした。まだ七時だったけど、姉はいつも不規則な眠り方をしているし、とりたててびっくりするようなことでもなかったんだす。私たちは『お休み』と言いました。姉は食事にはほとんど手をつけず、自分の部屋に行って、ベッドに入りました。それ以来ずっと眠り続けているんです」

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「・・・それやったら輪廻を信じてた方がまだしも楽や。どんなひどいもんにこの次生まれ変わるとしても、少なくともその姿を具体的に想像することはできるやんか。たとえば馬になった自分とか、かたつむりになった自分とかね。この次はたぶんあかんとしても、そのまたネクスト・チャンスに賭けることかてできる」
「でも、私にはやはり、死んだらなんにもないという方が自然な気がします」とマリは言う。
「それはね、たぶんマリちゃんが精神的に強いからやないかな」

信じていれば「かたつむり」くらいには生まれ変わることができるのだろうか?
私たちは「百年後の自分の不在」を決して容認することができない。「百年前の不在」であれば容認できる。それは仕方がないのだけど、たとえば一神教のようにありもしないもののために現世を生きる人々が争うのはバカバカしいと思う。執着をなくすことができなければいつまでたっても同じだろう。

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「それで思うんやけどね、人間ゆうのは、記憶を燃料にして生きていくものなんやないのかな。その記憶が現実的に大事なものかどうかなんて、生命の維持にとってはべつにどうでもええことみたい。ただの燃料やねん。新聞の広告ちらしやろうが、哲学書やろうが、エッチなグラビアやろうが、一万円札の束やろうが、火にくべるときはみんなただの紙切れでしょ。火の方は『おお、これはカントや』とか『これは読売新聞の夕刊か』とか『ええおっぱいしとるな』とか考えながら燃えてるわけやないよね。火にしてみたら、どれもただの紙切れに過ぎへん。それとおんなじなんや。大事な記憶も、それほど大事やない記憶も、ぜんぜん役に立たんような記憶も、みんな分け隔てなくただの燃料」

火が紙を燃料としているように、人間は記憶を燃料にして生きていくのだという。その記憶であるとか、記憶が指している内容がどのようなものかは問わないのだという。きっと思考といったものは参照する方と参照される方の総体を指しているのだろう。火も実際には燃える方と燃やされる方の区別はない。それは反応と呼ばれたり、関係と呼ばれたりする。食べる方と食べられる方の関係が次の瞬間の食べる方を形成し、参照する方と参照される方の関係が次の瞬間の参照する方を形成する。口に合わなかったり、思想がむずかしかったりすると、消化されない場合も生じる。まずい食事であっても栄養であり、役に立たない記憶もまた燃料というわけだ。それが何であったとしても供給されなければ生きてはいけない。

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浅井エリの部屋。
浅井エリはいつの間にか、こちら側にいる。自分の部屋の自分のベッドに戻って、そこで眠っている。

262ページ
「もしもし」と高橋は言う。
「逃げ切れないよ」と男の声が出し抜けに言う。「逃げ切れない。どこまで逃げてもね、わたしたちはあんたをつかまえる」
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「逃げ切れない」と高橋は、その三日月を見上げながら声に出してみる。その言葉の謎めいた響きは、ひとつの隠喩として彼の中に留まることになる。逃げ切れない。あんたは忘れるかもしれない、わたしたちは忘れない、と電話をかけてきた男は言う。言葉の意味について考えているうちに、そのメッセージはほかの誰かにではなく、彼個人に直接向けられたものであるように思えてくる。ひょっとして、あれは偶然に起こったことじゃないのかもしれない。携帯電話はあのコンビニの棚の上で静かに身をひそめ、高橋が前を通りかかるのを待ち受けていたのかもしれない。わたしたち、と高橋は思う。わたしたちって、いったい誰のことなんだ? そして彼らはいったい何を忘れないんだろう?

「異様な生き物」について語った高橋に、この言葉が向けられるのは必然であるかもしれない。その言葉は「彼個人に直接向けられたもの」なのだろう。

273ページ
「ねえ、僕らの人生は、明るいか暗いかだけで単純に分けられているわけじゃないんだ。そのあいだには陰影という中間地帯がある。その陰影の段階を認識し、理解するのが、健全な知性だ。そして健全な知性を獲得するには、それなりの時間と労力が必要とされる。君はべつに性格的に暗いわけじゃないと思う」

人生において「明るさ」と「健全な知性」は相反している。

280ページ
「・・・そのとき私は、エリの両腕の中にそっくり自分を預けることができた。私たちは暗闇の中で隙間なくひとつになることができた。心臓の鼓動まで、私たちは分け合うことができた」
286ページ
エリ、帰ってきて、と彼女は姉の耳元で囁く。お願い、と彼女は言う。それから目を閉じ、身体の力を抜く。目を閉じると、柔らかな大波のように、眠りが沖合からやってきて、彼女を包み込む。涙はもうとまっている。

この小説の主人公は「マリ」と「高橋」なのだろうか?
「マリ」が主人公ということであれば、著者の長編小説としては初の女性の主人公ということになる。エレベーターの暗闇の中でエリがマリを守ろうとするシーンは感動的であり、そうした姉妹間の愛情や相互理解といったものが、あるいはこの作品の主題ということかもしれない。それは闇から守られねばならないのだ。

289ページ
「もしもし!」と店員はどなる。
「でもね、逃げられない。どこまで逃げても逃げられない」、暗示的な短い沈黙があり、電話は切れる。

293ページ
今の震えは、来るべき何かのささやかな胎動であるのかもしれない。あるいはささやかな胎動の、そのまたささやかな予兆であるのかもしれない。しかしいずれにせよ、意識の微かな隙間を抜けて、何かがこちら側にしるしを送ろうとしている。そういう確かな印象を受ける。私たちはその予兆が、ほかの企みに妨げられることなく、朝の新しい光の中で時間をかけて膨らんでいくのを、注意深くひそやかに見守ろうとする。夜はようやく明けたばかりだ。次の闇が訪れるまでに、まだ時間はある。