140億年の孤独

日々感じたこと、考えたことを記録したものです。

海辺のカフカ

2015-08-29 00:05:21 | 村上春樹
「海辺のカフカ」に登場する人物の相関関係を洗い出すと次のようになる。

■予言
僕 田村カフカ/カラスと呼ばれる少年
姉 さくら
母 佐伯さん
父 田村浩一/ジョニー・ウォーカー

■父殺し
加害者 田村カフカ/ナカノさん/ホシノちゃん
被害者 田村浩一/ジョニー・ウォーカー/白い物体

■恋人
昔 海辺のカフカ/佐伯さん
今 田村カフカ/佐伯さん

■案内役
大島さん(田村カフカ)
カーネル・サンダース(ホシノちゃん)

■敵対関係
芸術 ジョニー・ウォーカー
論理 カーネル・サンダース

■あの絵の中の人物
海辺のカフカ/ナカノさん

■半分しか影がない人たち(出入りした人たち)
佐伯さん/ナカノさん

■物語の進行
表 田村カフカ/大島さん/佐伯さん
裏 ジョニー・ウォーカー/ナカノさん/ホシノちゃん/カーネル・サンダース

■海辺のカフカ
佐伯さんの恋人/絵/曲

かなり入り組んでいて、正直よくわからない。影やトリックスターが錯綜している感じがする。エディプス・コンプレックスという点でフロイトだがタイトルはカフカとなっている。「世界の仕組みそのものが滅びと喪失の上に成り立っている」ということなので根底には「喪失感」が潜んでいる。「僕」や大島さんの持つ知性が表であるならば、およそ知性とは無縁であるナカノさんとホシノちゃんが裏で活躍する。そこには「知性」という落とし穴を逃れるためのヒントみたいなものがあるのだろうか?
物語の最後の方では「僕」は「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」にかなり似た内面の世界を訪れる。「僕」と違って成長著しいホシノちゃんは「無味乾燥ではない世界」を捉える感性を発展させて行く。激烈な人生を送ったベートーヴェンの「大公トリオ」の良さを感じとれるようになったホシノちゃんが、芸術生活に疲れ果てたのではないかと疑われるジョニー・ウォーカーの化身の息の根を止めるというのはなにかしら矛盾しているのではないかと思われるのだが、あまり気にしない方がよいかもしれない。だが、猫の魂で作ったとくべつな笛とは、まさに「大公トリオ」のことであるかもしれない。そうだとすると物語りは循環しているようだ。

[上巻]

65ページ
「名前はなんていうんですか?」と僕はたずねてみる。
「私の名前のこと?」
「そう」
「さくら」と彼女は言う。「君は?」
「田村カフカ」と僕は言う。
「田村カフカ」とさくらは反復する。「変わった名前だね。覚えやすいけど」
僕はうなずく。べつの人間になることは簡単じゃない。でもべつの名前になることは簡単にできる。

79ページ
「昔の世界は男と女ではなく、男男と男女と女女によって成立していた。つまり今の二人ぶんの素材でひとりの人間ができていたんだ。それでみんな満足して、こともなく暮らしていた。ところが神様が刃物を使って全員を半分に割ってしまった。きれいにまっぷたつに。その結果、世の中は男と女だけになり、人々はあるべき残りの半身をもとめて、右往左往しながら人生を送るようになった」

94ページ
「そうです。ナカタと申します。猫さん、あなたは?」
「名前は忘れた」と黒猫は言った。「まったくなかったわけじゃないんだが、途中からそんなもの必要もなくなってしまったもんだから、忘れた」
・・・
「・・・名前があるとなにかと便利なのであります。そうすればたとえば、何月何日の午後に**2丁目の空き地で黒猫のオオツカさんに出会って話をしたという具合に、ナカタのような頭の悪い人間にも、ものごとをわかりやすく整理することができます。そうすれば覚えやすくなります」

どちらかと言うとナカタさんも記憶とは関係が薄く現在にへばりついて生きている。猫はいっそう記憶とは無縁でほとんど現在に生きている。だから名前も要らない。映像とか音についての記憶であれば、名前は要らないかもしれないが、因果関係であれば名前や記号が必要になる。たいていの場合、体験を記憶して生存競争に役立てるためには、時刻と場所と客体を識別するための名称が必要になる。それらに先立って経験を一元的に管理するための主体が必要になる。そういういっさいのものが「猫」には必要ない。この物語では「名前の必要ない場所」がいくつか出て来る。たいていは記憶と無縁ということになる。記憶がなければ不幸になることはないのだろうが、幸福になることもない。そういうことは「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」に書かれていた。

101ページ
「・・・性欲というのは、まったく困ったものなんだ。でもそのときには、とにかくそのことしか考えられない。あとさきのことなんてなんにも考えられないんだ。それが・・・性欲ってもんだ・・・」

105ページ
「あんたの問題点はだね、オレは思うんだけれど、あんた・・・ちょっと影が薄いんじゃないかな。最初に見たときから思ってたんだけど、地面に落ちている影が普通の人の半分くらいの濃さしかない」

114ページ
今から百年後には、ここにいる人々はおそらくみんな(僕をもふくめて)地上から消えて、塵か灰になってしまっているはずだ。そう考えると不思議な気持ちになる。そこにあるすべてのものごとがはかない幻みたいに見えてくる。風に吹かれて今にも飛び散ってしまいそうに見える。僕は自分の両手を広げてじっと見つめる。僕はいったいなんのためにあくせくとこんなことをしているのだろう? どうしてこんなに必死に生きていかなくてはならないんだろう?

どうせ死んでしまうのに、どうしてあくせくしなければならないのか? 
べつに生きたいと思って生まれてきたわけでもない。死にたくないと思っても永遠の命が与えられるわけでもない。意思とは生物に自動操縦させるための仕掛けのようなものだ。それは用意されたものであってそれについて不満を言っても仕方がないのだし、人生を切り開くために神様から賜った最高の贈り物であると賞賛するようなものでもない。

118ページ
「もちろん君はフランツ・カフカの作品をいくつか読んだことはあるんだろうね?」
僕はうなずく。「『城』と『審判』と『変身』と、それから不思議な処刑機械の出てくる話」
「『流刑地にて』」と大島さんは言う。「僕の好きな話だ。世界にはたくさんの作家がいるけれど、カフカ以外の誰にもあんな話はかけない」

140ページ
意識が戻ったとき、僕は深い茂みの中にいる。湿った地面の上に丸太のように横になっている。あたりは深い闇に包まれていて、なにも見えない。

146ページ
やれやれ、君はいったいどこでこんなたくさんの血をつけてきたんだ? 君はいったいなにをしたんだ? でも君はなにひとつ覚えちゃいない。君自身の身体には傷らしきものは見あたらない。左肩のうずきをべつにすれば、痛みらしい痛みもない。だからそこについている血は君自身の血じゃない。それは誰かべつの人間の流した血だ。

208ページ
でもしばらくしてふと気がつくと、一人の男の子が何かを手に持って、私の方に歩いてくるのが見えました。中田という男の子でした。そうです。その事件後意識を回復しないまま、長いあいだ病院に入っていた子どもです。その子が手に持っているのは、血に染まった私の手拭いでした。
・・・
気がついたとき私はその子を、中田君を、叩いていました。肩のあたりをつかんで、何度も何度も平手で頬を張ってました。
213ページ
能力のある子どもは、能力があるが故に、まわりの大人の手によって、達成するべき目標をどんどん絶え間なく積み上げられていくことがあります。そうすると、目の前の現実的な課題の処理に追われるあまり、当然そこにあるべき子どもとしての新鮮な感動や達成感が
徐々に失われていくことが多いのです。
214ページ
もうひとつ、私はそこに暴力の影を認めないわけにはいきませんでした。彼のちょっとした表情や動作に、瞬間的な怯えのしるしを感じとることが再三ありました。それは長期間にわたって加えられてきた暴力に対する、反射的な反応のようなものです。
・・・
しかし中田君のお父さんは大学の先生でした。お母さんも、いただいた手紙を拝見する限り、高い教養を備えた方のようでした。つまり都会のエリートの家庭です。もしそこに暴力があったとしたら、それはおそらく田舎の子どもたちが家の中で日常的に受ける暴力とは異なった、もっと複雑な要素を持つ、そしてもっと内向した暴力であったはずです。子どもが自分一人の心に抱え込まなくてはならない種類の暴力です。ですから私がそのとき山の中で、無意識的ではあるにせよ、彼に対して暴力を振るわなくてはならなかったのは、まことに残念なことでしたし、それについて私は深く悔やんでおります。それは私がもっともやってはならないことだったのです。彼は集団疎開によって半ば強制的に親元から離され、新しい環境に入れられ、それをひとつの機会として私に対して少しずつ心を開こうと準備していたところだったのですから。

私の奥底に潜み、時々その姿を見せる怯えは、かつて家庭という名の監獄で繰り広げられた暴力の痕跡なのだろう。経済的に自立していない子供には逃げ場所がなく、成人してからも育ててもらった負い目が彼の逃げ場所を奪う。しかしそんな暴力に屈してはいけないのだし、そんな連中の相手をまともにしていても仕方がないのだろう。その子のためだとか、競争に生き残るためとかなんとか言って、彼らが自分たちの独善的な生き方を子供に押し付けようとするのは、自分たちの存在を世の中に承認させようとする欲求のひとつのあり方なのだろう。だから世襲の芸とか職業とか、親から子に一流の才能が引き継がれるというのであれば、みんながハッピーになれるのだろうが、カフカの小説の主人公のように疑問を持ってしまうと様相が異なってくる。それはある種の人間にとっては避けようのないことだ。

220ページ
「ここに来てからどんなものを読んだの?」
「今は『虞美人草』、その前は『坑夫』です」

231ページ
「フランツ・シューベルトのピアノ・ソナタを完璧に演奏することは、世界でいちばんむずかしい作業のひとつだからさ。とくにこのニ長調のソナタはそうだ。とびっきりの難物なんだ」
235ページ
「シューベルトというのは、僕に言わせれば、ものごとのありかたに挑んで敗れるための音楽なんだ。それがロマンティシズムの本質であり、シューベルトの音楽はそういう意味においてはロマンティシズムの精華なんだ」

18番から21番までののシューベルトのピアノ・ソナタを愛好している。
旧約聖書と呼ばれる平均律クラヴィーア曲集や新約聖書と呼ばれるベートーヴェンの32曲のピアノ・ソナタよりも好きだ。ものすごく演奏時間が長いのだが、ブルックナーやマーラーの交響曲と同様に、長いと感じることはない。ここで「ニ長調のソナタ」というのは番号で言えば17番にあたる。18番以降の作品に比べると「不完全」ということになる。そこに愛着を感じる著者の嗜好もどうかと思うが、この作曲家の特徴を的確に捉えているということかもしれない。フランツ・シューベルトが「ものごとのありかたに挑んで敗れるための音楽」というのであればフランツ・カフカもまた「ものごとのありかたに挑んで敗れるための小説」ということかもしれない。そういう滅びのあり方が、この小説の根底にあるのではないかと思う。

264ページ
「ウィスキーを嗜む人なら一目見てわかるんだが、まあよろしい。私の名前はジョニー・ウォーカーだ。ジョニー・ウォーカー。世間のだいたいの人は私のことを知っている。自慢するんじゃないが全地球的に有名なんだ。イコン的な有名さと言ってもいい。とはいえ、私は本物のジョニー・ウォーカーではない。英国の酒造会社とは何の関係もない。とりあえずラベルにあるその格好と名前を無断で拝借して使っているだけだ。格好と名前というのはなんといっても必要だからね」

295ページ
「いいかい、私がこうして猫たちを殺すのは、ただの楽しみのためではない。楽しみだけのためにたくさんの猫を殺すほど、私は心を病んではいない。というか、私はそれほど暇人ではない。こうやって猫を集めて殺すのだってけっこう手間がかかるわけだからね。私が猫を殺すのは、その魂を集めるためだ。その集めた猫の魂を使ってとくべつな笛を作るんだ。そしてその笛を吹いて、もっと大きな魂を集める。そのもっと大きな魂を集めて、もっと大きい笛を作る。最後にはおそらく宇宙的に大きな笛ができあがるはずだ」

すぐれた芸術とは「集めた猫の魂を使ってとくべつな笛を作る」ということなのかもしれない。どうしてそうなのかはよくわからない。

298ページ
「時間があまりない。単刀直入に言ってしまおう。私が君にやってもらいたいのは、私を殺すことだ。私の命を奪うことだ」

301ページ
「というわけでつまり、君はこう考えなくちゃならない。これは戦争なんだとね。それで君は兵隊さんなんだ。今ここで君は決断を下さなくてはならない。私が猫たちを殺すか、それとも君が私を殺すか、そのどちらかだ。君は今ここで、その選択を迫られている。もちろんそれは君の目から見れば実に理不尽な選択だろう。しかし考えてもみてごらん、この世の中のたいていの選択は理不尽なものじゃないか」

確かに、たいていの選択は理不尽であり、カフカであれば不条理と呼んだかもしれない。ひっそりと心静かに暮らしたいと願っても、そっとしておいてはくれない。世界にたった一人の例外もない。互いの存在目的を掲げてエゴとエゴが衝突し合う世界というのは、結局のところ万人にとって理不尽な世界になってしまう。そもそも個人の衝突を回避するためのシステムがいちばん理不尽なものであるかもしれない。世界がその結びつきを強固にすれば個人にとってはますます理不尽になって行く。戦争がなくなっても、戦争のようなものはなくならない。

314ページ
ジョニー・ウォーカーはくすくすと笑った。「人が人でなくなる」と彼は繰り返した。「君が君でなくなる。それだよ、ナカタさん。素敵だ。なんといっても、それが大事なことなんだ。『ああ、おれの心のなかを、さそりが一杯はいずりまわる!』、これもまたマクベスの台詞だな」

331ページ
「僕がいつか図書館で君に話したことを覚えているかな? 人はみんな自分の片割れを求めてさまよっているという話を」
「男男と女女と男女の話」
「そう。アリストパネスの話。僕らの大部分は自分の残り半分を必死に模索しながら、つたなく人生を送ることになる。しかし佐伯さんと彼にはそんな模索をする必要もなかった。二人は生まれながらにして、まさにその相手をみつけていたんだ」

335ページ
「曲のタイトルななんていうんですか?」
「『海辺のカフカ』」と大島さんは言った。
「『海辺のカフカ』?」
「そうだよ、田村カフカくん。君と同じ名前だ。奇しき因縁というところだね」

341ページ
「図書館がどうしてそんなに大事だったんだろう」
「ひとつには、そこに彼が住んでいたからだよ。彼は、佐伯さんの亡くなってしまった恋人は、今の甲村図書館がある建物で、
つまりかつての甲村家の書庫の中で生活していたんだ」

345ページ
「ナカタは寝ていたのでしょうか?」と彼は猫たちに尋ねた。2匹の猫は何かを訴えるように、口々に鳴いた。しかしナカタさんはその言葉を聞き取ることができなかった。

364ページ
部屋の中には装飾的なものはなにもないが、壁に一枚だけ小さな油絵がかかっている。海辺にいる少年の写実的な絵だった。悪くない絵だ。名のある画家が描いたのかもしれない。少年はたぶん12歳くらい。白い日よけ帽をかぶり、小振りなデッキチェアに座っている。手すりに肘をつき、頬杖をついている。いくぶん憂鬱そうな、いくぶん得意そうな表情を顔に浮かべている。黒いドイツ・シェパードが少年を護るような格好でそのとなりに腰をおろしている。背景には海が見える。何人かの人々も描きこまれているが、とても小さくて顔までは見えない。沖には小さな島が見える。海の上には握り拳のようなかたちをした雲がいくつか浮かんでいる。夏の風景だ。僕は机の前の椅子に座って、しばらくその絵を眺める。見ていると、実際に波の音が聞こえ、潮の匂いがかぎとれそうな気がしてくる。

380ページ
ただ、僕はこんな格好はしていても、レズビアンじゃない。性的嗜好でいえば、僕は男が好きです。つまり女性でありながら、ゲイです。

385ページ
「・・・結局のところ、佐伯さんの幼なじみの恋人を殺してしまったのも、そういった連中なんだ。想像力を欠いた狭量さ、非寛容さ。ひとり歩きするテーゼ、空疎な用語、簒奪された理想、硬直したシステム。僕にとってほんとうに怖いのはそういうものだ。・・・」

想像力が欠けているというのであれば、思想の表面的な部分が伝播していって世界がますます混乱してしまうというのは、当然のことであるように思える。いちばん薄っぺらなところがいちばん伝わりやすいのだろう。そして結局のところ私たちという複合体は、想像力や責任を欠いたところで、もっともその正体を曝け出してしまうのだろう。そうすると大島さんはいったい誰を非難して何を怖れているのだろうか?
そういった連中とは誰のことなのか? 
自分ではない誰かのことなのか?
人間そのものか?

393ページ
「わかりません。でもそこに行けばわかります。とりあえず、トーメイ高速道路を西に向かいます。それからあとのことは、またあとで考えようと思います。とにかくナカタは西に向かわなくてはならないのです」

424ページ
「君のお父さんが殺された翌日、その現場のすぐ近くに、イワシとアジが2000匹空から降ってきた。これはきっと偶然の一致なんだろうね」
「たぶん」
「そして新聞には、東名高速道路の富士川サービスエリアで、同じ日の深夜に大量のヒルが空から降ってきたという記事が載っていた。狭い場所に局地的にふったんだ。そのおかげでいくつか軽い衝突事故が起こった。かなり大きなヒルだったらしい。どうしてヒルの大群が空から雨みたいにばらばらと降ってきたのか、誰にも説明できない。風もほとんどない、晴れた夜だった。それについても心当たりはない?」

427ページ
「僕はどんなに手を尽くしてもその運命から逃れることはっできない、と父は言った。その予言は時限装置みたいに僕の遺伝子の中に埋めこまれていて、なにをしようとそれを変更することはできないんだって。僕は父を殺し、母と姉と交わる」

429ページ
大島さんは言う。「君のお父さんの作品を作品をこれまで何度か実際に見たことがある。才能のある優れた彫刻家だった。オリジナルで、挑戦的で、おもねるところがなく、力強い。彼の造っているものはまちがいなく本物だった」
「そうかもしれない。でもね、大島さん、そういうものをひっぱりだしてきたあとの残りかすを、毒のようなものを、父はまわりにまきちらし、ぶっつけなくちゃならなかったんだ。父は自分のまわりにいる人間をすべて汚して、損なっていた。父が求めてそうしていたのかどうか、僕は知らない。ただそうしないわけにはいかなかったということなのかもしれない。もともとそういうふうにつくられていたということなのかもしれない。
でもどっちにしても父はそういう意味では、とくべつななにかと結びついていたんじゃないかと思うんだ。僕の言いたいことはわかる?」
「わかると思う」と大島さんは言う。「そのなにかはおそらく、善とか悪とかという峻別を超えたものだったんだろう。力の源泉と言えばいいのかもしれない」

芸術がなければ「無味乾燥な人生を送る」であろう私たちは、毒をまきちらされたり猫が殺されたりしても芸術を欲するのだろう。それは「善とか悪とかという峻別を超えたもの」なのだ。ワーグナーのパトロンが芸術にハマッて財政が傾いて当時生きていた人々は迷惑しただろうが、その時代が過ぎ去ってしまえば偉大な芸術作品として人類共通の財産となる。そういう作品に接することで私たちは自分自身を向上させることができるのだろうか?
おそらくは作品の生い立ちと作品そのものは別なのだろう。人格の優れた人物が偉大な作品を生み出すというわけではないのだろう。

432ページ
「とにかくそれが君がはるばる四国まで逃げてきた理由なんだね。お父さんの呪いから逃れることが」と大島さんは言う。

472ページ
そしてもうひとつ大事な事実―――僕はその<幽霊>に心をひかれている。僕は今そこにいる佐伯さんにではなく、今そこにはいない15歳の佐伯さんに心をひかれている。

476ページ
「・・・怪奇なる世界というのは、つまりは我々自身の心の闇のことだ。19世紀にフロイトやユングが出てきて、僕らの深層意識に分析の光をあてる以前には、そのふたつの闇の相関性は人々にとっていちいち考えるまでもない自明の事実であり、メタファーですらなかった。いや、もっとさかのぼれば、それは相関性ですらなかった。エジソンが電灯を発明するまでは、世界の大部分は文字通り深い漆黒の闇に包まれていた。そしてその外なる物理的な闇と、内なる魂の闇は境界線なくひとつに混じり合い、まさに直結していたんだ―――こんな具合に」
大島さんは両方の手のひらをぴたりとひいとつにあわせる。「紫式部の生きていた時代にあっては、生き霊というのは怪奇現象であると同時に、すぐそこにあるごく自然な心の状態だった。そのふたつの種類の闇をべつべつに分けて考えることは、当時の人々にはたぶん不可能だったろうね。しかし僕らの今いる世界はそうではなくなってしまった。外の世界の闇はほとんどそのまま残っている。僕らが自我や意識と名づけているものは、氷山と同じように、その大部分を闇の領域に沈めている。そのような乖離が、ある場合には僕らの中に深い矛盾と混乱を生みだすことになる」

「心の闇」という表現は、すべてが自我や意識に管理されるべきとか、認識されるべきといった傲慢さから派生しているのではないかと思う。自我そのものは幻想にすぎないのだから、無意識の欲求を承認できないとか、そんなことで苦しむ必要もないのではないかと思う。奔放の限りを尽くす夢にしたって自分を知るための手がかりにすれば良いのではないかと思う。脳の活動を心であるとか精神であるとか自我、意識に限定してしまうことがすでに誤りではないかと思う。精神とは身体という大きな自分の中の部分に過ぎないと確かニーチェがそんなことを書いていた。人間以外の脳の働きなんてものは、すべてが無意識であるかもしれない。内臓を含む身体の制御を脳が司るとして、そんなことをいちいち意識に報告する必要なんてないのだ。誰が逐一、呼吸や消化の状況を知りたがるだろう。そのような伝える必要のない身体の制御状況、無意識、意識といったことの総称が脳の活動ということになる。意識以外の領域を「闇」と呼ぶ必要さえないのではないかと思う。

480ページ
『海辺のカフカ』

あなたが世界の縁にいるとき
私は死んだ火口にいて
ドアのかげに立っているのは
文字をなくした言葉。

眠るとかげを月が照らし
空から小さな魚が降り
窓の外には心をかためた
兵士たちがいる

(リフレイン)
海辺の椅子にカフカは座り
世界を動かす振り子を想う。
心の輪が閉じるとき
とこにも行けないスフィンクスの
影がナイフとなって
あなたの夢を貫く。

溺れた少女の指は
入り口の石を探し求める。
青い衣の裾をあげて
海辺のカフカを見る。

484ページ
佐伯さんは『海辺のカフカ』の歌詞をこの部屋の中で書いたのだろう。レコードを何度も聴いているうちに、僕はだんだんそう確信するようになる。そして海辺のカフカとは、壁にかかった油絵の中に描かれている少年のことなのだ。

『海辺のカフカ』とは、佐伯さんの恋人であり、佐伯さんの書いた曲のタイトルであり、この部屋にある油絵であり、そして田村カフカのことでもある。

[下巻]

45ページ
「あなたを見ていると、ずっと昔に15歳だった男の子のことを思いだすわ」
「その人は僕に似ている?」
「あなたのほうが背は高いし、体つきもがっしりしている。でも似ているかもしれない。
彼は同年代の子どもたちとは話があわなくて、いつもひとりで部屋にこもって、本を読んだり音楽を聴いたりしていた。
むずかしい話をするときには、あなたと同じように眉のあいだにしわが寄った。あなたもよく本を読むということだけれど」

67ページ
「ホシノちゃん」とその老人は呼んだ。よくとおるきんきんとした声だった。少し訛がある。
星野青年は呆然としてその男の顔を見ていた。「あんたは―――」
「そうだ。サンダース大佐だ」
「そっくりだ」と青年は感心して言った。
「そっくりではない。わしがカーネル・サンダースだ」

89ページ
「ねえ田村くん、悪いとは思うんだけど、そのことについてはイエスともノオとも言えない。少なくとも今は。私は疲れているし、風も強いし」

96ページ
「『純粋な現在とは、未来を喰っていく過去の捉えがたい進行である。実を言えば、あらゆる知覚とはすでに記憶なのだ』」
青年は顔をあげ、口を半分あけて、女の顔を見た。「それ、何?」
「アンリ・ベルグソン」と彼女は亀頭に唇をつけ、精液の残りを舐めてとりながら言った。

知覚を語ろうとしても記憶しか参照できないので「知覚が記憶である」ことになってしまうのではないかと思う。文章にする時には、すでに「現在」は失われてしまうのだ。

98ページ
「『<私>は関連の内容であるのと同時に、関連することそのものでもある』」
「ふうん」
「ヘーゲルは<自己意識>というものを規定し、人間はただ単に自己と客体を離ればなれに認識するだけではなく、媒介としての客体に自己を投射することによって、行為的に、自己をより深く理解することができると考えたの。それが自己意識」
「ぜんぜんわからないな」
「それはつまり、今私があなたにやっていることだよ、ホシノちゃん。私にとっては私が自己で、ホシノちゃんが客体なんだ。ホシノちゃんにとってはもちろん逆だね。ホシノちゃんが自己で、私が客体。私たちはこうしてお互いに、自己と客体を交換し、投射しあって、自己意識を確立しているんだよ。行為的に。簡単に言えば」
「まだよくわからないけど、なんか励まされるような気がする」
「それがポイントだよ」と女は言った。

考えている時に意識は自分のことを考えたりはしないが、意識が自分は考えていると思ったときには自己を意識している。「対自」というのは、そのことをうまく表現しているのではないかと思う。「自己と客体を交換」しているのかどうかわからない。

111ページ
彼女は頬杖をつくのをやめ、僕のほうに顔を向ける。それが佐伯さんであることに僕は気づく。僕は息を呑んだまま、吐きだすことができない。そこにいるのは、現在の佐伯さんなのだ。べつの言いかたをするなら、それは現実の佐伯さんなのだ。

121ページ
「・・・私の役目は世界と世界とのあいだの相関関係の管理だ。ものごとの順番をきちんと揃えることだ。原因のあとに結果が来るようにする。意味と意味が混じり合わないようにする。現在の前に過去が来るようにする。現在のあとに未来が来るようにする。・・・」
「私は人じゃない。何度言えばわかるんだ」

「原因のあとに結果が来るようにする。意味と意味が混じり合わないようにする。現在の前に過去が来るようにする」というのはとても人間的なことであるように思える。人間が介在しないのであれば、そんなことは誰も気にしないだろう。だからカーネル・サンダース本人が「人じゃない」と言ったとしても「人である」としか解釈できない。

127ページ
「いいか、ホシノちゃん。すべての物体は移動の途中にあるんだ。地球も時間も概念も、愛も生命も信念も、正義も悪も、すべてのものごとは液状的で過渡的なものだ。ひとつの場所にひとつのフォルムで永遠に留まるものはない。宇宙そのものが巨大なクロネコ宅急便なんだ」

138ページ
「その仮説の中では、私はあなたのお母さんなのね」

143ページ
彼女は首を振る。「べつに死のうとしているわけじゃないのよ。ほんとうのところ。私はここで、死ややってくるのをただ待っているだけ。
駅のベンチに座って列車を待っているみたいに」

145ページ
「あなたはあの二つのコードをどこでみつけたんですか?」
「二つのコード?」
「『海辺のカフカ』のブリッジのコード」
彼女は僕の顔を見る。「あのコードは好き?」
僕はうなずく。
「私はあの二つのコードを、とても遠くにある古い部屋の中で見つけたの。そのときにはその部屋のドアは開いていたの」と彼女は静かに言う。
「とてもとても遠くにある部屋」

153ページ
「ねえ知ってる? ずっと前に私はこれとまったく同じことをしていたわ。まったく同じ場所で」
「知ってるよ」と君は言う。

168ページ
「ナカタは頭が悪いばかりではありません。ナカタは空っぽなのです。それが今の今よくわかりました。ナカタは本が一冊もない図書館のようなものです。昔はそうではありませんでした。ナカタの中にも本がありました。ずっと思い出せずにいたのですが、今思い出しました。はい。ナカタはかつてはみんなと同じ普通の人間だったのです。しかしあるとき何かが起こって、その結果ナカタは空っぽの入れ物みたいになってしまったのです」
「でもさ、ナカタさん。そんなこと言い出したら、俺たちはみんな多かれ少なかれ空っぽなんじゃないのかい。メシ食って、クソして、ろくでもない仕事をして安い給料をもらって、ときどおきオマンコするだけじゃないか。それ以外に何があるんだい。・・・」

172ページ
「でもさ、どうしてナカタさんがその石を扱わなくちゃならないんだろう? どうしてそれはナカタさんじゃなくちゃいけないんだろう?」、星野青年は雷鳴が一段落したときに尋ねた。
「ナカタは出入りをした人間だからです」
「出入りをした?」
「はい。ナカタは一度ここから出ていって、また戻ってきたのです。日本が大きな戦争をしておりました頃のことです。そのときに何かの拍子で蓋があいて、ナカタはここから出ていきました。そしてまた何かの拍子に、ここに戻ってきました。そのせいでナカタは普通のナカタではなくなってしまいました。影も半分しかなくなってしまいました。そのかわり、今はうまくできませんが、猫さんと話をすることもできました。おそらくは空からものを降らせることもできました」

174ページ
「ジョニー・ウォーカーさんはナカタの中に入ってきました。ナカタが望んだことではないことをナカタにさせました。ジョニー・ウォーカーさんはナカタを利用したのです。でもナカタはそれに逆らうことができませんでした。ナカタには逆らえるだけの力がありませんでした。なぜならばナカタには中身というものがないからです」

192ページ
「誰も助けてはくれない。少なくともこれまでは誰も助けてはくれなかった。だから自分の力でやっていくしかなかった。そのためには強くなることが必要です。はぐれたカラスと同じです。だから僕は自分にカフカという名前をつけた。カフカというのはチェコ語でカラスのことです」

「カフカというのはチェコ語でカラスのこと」なのだと言う。そうするとべつに不条理だとか理不尽ということではないかもしれない。

199ページ
僕が誰なのか、それは佐伯さん」にもきっとわかっているはずだ、と君は言う。僕は『海辺のカフカ』です。あなたの恋人であり、あなたの息子です。カラスと呼ばれる少年です。そして僕らは二人とも自由にはなれない。僕らは大きな渦の中にいる。ときには時間の外側にいる。僕らはどこかで雷に打たれたんです。音もなく姿も見えない雷に。

209ページ
たとえば俺はこれまで中日ドラゴンズを熱心に応援してきた」。でも俺にとって中日ドラゴンズというのはいったい何なんだ? 中日ドラゴンズが読売ジャイアンツに勝つことで、俺という人間が少しでも向上するのだろうか? するわけないよな、と青年は思った。じゃあなんでそんなものを、まるで自分の分身みたいに今まで一生懸命応援してきたんだろう?

212ページ
ある日お釈迦様が彼に言った。「よう、茗荷、お前頭わるいから、経典もう覚えなくていい。そのかわりずっと玄関の土間に座ってみんなの靴を磨いてな」とか。茗荷は素直だったので、「ふざけんじゃねえや、お釈迦。てめえのケツでもなめてろ」とは言わなかった。それから10年も20年も言われたとおりみんなの靴をせっせと磨き続けた。そしてある日ぽんと悟りを開き、お釈迦様の弟子たちの中でももっともすぐれた人物の一人になった―――というような話だったと星野青年は記憶していた。

216ページ
「ピエール・フルニエは私のもっとも敬愛する音楽家の一人です。上品なワインと同じです。香りがあり、実体があり、血を温め、心臓を静かに励ましてくます。・・・」

フルニエの無伴奏チェロ組曲をよく聴く。

226ページ
君もその老人も、中野区野方からまっすぐ高松に向かっている。偶然の一致にしてはできすぎている。当然、そこにはなにかがあると警察は考える。たとえば君たちが共謀して今回の事件を仕組んだんじゃないかとね。

233ページ
大島さんは長いあいだ黙っている。それから口を開く。「そのとおりだ」と彼は認める。「君の言うとおりだ。僕はそう考えている」
「僕が佐伯さんに死をもたらそうとしている、ということだね」

234ページ
「いろんなことは君のせいじゃない。僕のせいでもない。予言のせいでもないし、呪いのせいでもない。DNAのせいでもないし、不条理のせいでもない。構造主義のせいでもないし、第三次産業革命のせいでもない。僕らがみんな滅び、失われていくのは、世界の仕組みそのものが滅びと喪失の上に成り立っているからだ。僕らの存在はその原理の影絵のようなものに過ぎない。風は吹く。荒れ狂う強い風があり、心地よいそよ風がある。でもすべての風はいつか失われて消えていく。風は物体ではない。それは空気の移動の総称にすぎない。君は耳を澄ます。君はそのメタファーを理解する。

仏教では「無自性―空―縁起」ということだろう。
もともと生き物は永遠にその形を留めるようには作られてはいない。
そしてその世代交代は微生物によって支えられている。
死んだ個体が分解されないとしたら子孫の身体を作るための材料は提供されない。
そのような物質が循環する仕組みというのも世界の成り立ちであるかもしれない。
とりあえず元素を構成している陽子の崩壊はないと私たちは考えている。
核融合や核分裂が起こる条件下でなければ元素も安定しているのではないかと考えている。
だが世界を捉えようとする生き物はそれ自体が不安定なのだ。
一瞬のあいだだけその形を留める生き物は「影絵」のようなものに過ぎない。
そのことに不平を言ったところで不死が与えられるわけではない。
キリスト教やイスラム教であれば気前よく不死がもらえるかもしれない。

281ページ
1週間前だったら、俺はこんな音楽を聴いても、たぶんただの一切れも理解できなかっただろう、と青年は思った。理解しようという気持ちにだってなれなかっただろう、と青年は思った。理解しようという気持ちにだってなれなかっただろう。しかしふとした巡り合わせでたまたまあの小さな喫茶店に入って、座り心地のいいソファに座ってうまいコーヒーを飲み、おかげでこの音楽を自然に受け入れることができるようになった。

295ページ
「申しわけありませんんが、石さんは無口なのです」
「そうか、石は無口ときたね―――見かけからしてだいたいの想像はつくよ」と星野青年は言った。「石さんはきっと無口で、水泳がことのほか苦手なんだろう。まあいい。今更なにも考えるまい。ぐっすり眠って、明日になったらまた続きをやろう」

311ページ
君はもういろんなものに好き勝手に振りまわされたくない。混乱させられたくない。君はすでに父なるものを殺した。すでに母なるものを犯した。そしてこうして姉なるものの中に入っている。もしそこに呪いがあるのなら、それを進んで引き受けようと思う。そこにある一連のプログラムをさっさと終えてしまいたいと思う。一刻も早くその重荷を背中からおろして、そのあとは誰かの思惑の中に巻きこまれた誰かとしてではなく、まったくの君自身として生きていく。それが君の望んでいることだ。

330ページ
「じゃあひとつ訊きたいんだけどさ、音楽には人を変えてしまう力ってのがあると思う? つまり、あるときにある音楽を聴いて、おかげで自分の中にある何かが、がらっと大きく変わっちまう、みたいな」
大島さんはうなずいた。「もちろん」と彼は言った。「そういうことはあります。何かを経験し、それによって僕らの中で何かが起こります。化学作用のようなものですね。そしてそのあと僕らは自分自身を点検し、そこにあるすべての目盛りが一段階上にあがっていることを知ります。自分の世界がひとまわり広がっていることに。僕にもそういう経験はあります。たまにしかありませんが、たまにはあります。恋と同じです」
星野さんにはそんな大がかりな恋をした経験はなかったが、とりあえずうなずいた。「そういうのはきっと大事なことなんだろうね?」と彼は言った。「つまりこの俺たちの人生において」
「はい。僕はそう考えています」と大島さんは答えた。「そういうものがまったくないとしたら、僕らの人生はおそらく無味乾燥なものです。ベルリオーズは言っています。もしあなたが『ハムレット』を読まないまま人生を終えてしまうなら、あなたは炭坑の奥で一生を送ったようなものだって」

「一段階上にあがっている」とか「ひとまわり広がっている」かはわからないが、「それまでとは違う」というのは確かなことだろう。音楽が「人間を向上させる」ものであるかは私にはわからない。知らない作曲家の知らない曲の魅力がわかるようになって何かしら変わったのだと思う。そしていろいろな作曲家のいろいろな魅力がわかるということは何もわからないよりは良いことなのだろう。きっと人生においては大事なことなのだろう。だが実態としては「大公トリオ」を知らない人の方が知っている人よりもずっと多いだろう。そして知らない人は趣味というのは相対的なものであって、知らないことで非難される謂われはないと主張することだろう。あるいはクラシックなんて聴いている暇はないのだと主張することだろう。それぞれに忙しい人生というのは相対化した趣味が世俗化していくという道をたどる。そんなふうにして音楽も小説も映画も最大公約数化されて行く。誰かを「一段階上にひきあげる」音楽があるとすればリスナーの都合など考慮しない一方的圧倒的な音楽だろう。ベートーヴェンというのはそういう作曲家だろう。相対的ではなく一方的なのだ。

353ページ
「もし思い違いでなければ、たぶん私は、あなたがいらっしゃるのを待っていたのだと思います」と彼女は言った。

355ページ
「むずかしい問題です。思い出のことは、ナカタにはまだよくわかりません。ナカタには現在のことしかよくわからないのです」
「私はどうやらその逆のようです」と佐伯さんは言った。

360ページ
「・・・だから私はそのような侵入や流出を防ぐために入り口の石を開きました。どうやってそんなことができたのか、今となってはよく思い出せません。でも彼を失わないために、外なるものに私たちの世界を損なわせないために、何があろうと石を開かなくてはならないと私は心を決めたのです。それが何を意味するのか、そのときの私には理解できていませんでした。そして言うまでもなく、私は報いを受けました」

363ページ
「ナカタさん」
「なんでありましょう?」
「ずいぶん昔からあなたを知っているような気がするんです」と佐伯さんは行った。「あなたはあの絵の中にいませんでしたか? 海辺の背景にいる人として。白いズボンをたくしあげて、足を海につけている人として」

上巻364ページに「何人かの人々も描きこまれているが、とても小さくて顔までは見えない」と書かれている。

373ページ
どうして彼女は僕を愛してくれなかったのだろう。
僕には母に愛されるだけの資格がなかったのだろうか?

383ページ
「あのままでいれば、どうせ兵隊として外地につれていかれたんだ」とがっしりしたほうが言う。「そして人を殺したり、人に殺されたりしなくちゃならなかった。俺たちはそんなところに行きたくはなかった。俺はもともと百姓で、この人は大学を出たばかりだった。どっちにしても人なんて殺したくなかったし、殺されるのはもっと嫌だった。あたりまえの話だけどな」

理不尽な選択の続きかもしれないが、ここのところは「羊男」の台詞に似ている。

385ページ
「今はこの入り口はたまたま開いている」と背の高いほうが僕に説明する。

395ページ
「俺は思うんだけど、その中でもいちばん不思議なのは、なんといってもおじさん自身だ。そう、ナカタさんだよ。なぜおじさんが不思議かってえとだね、おじさんは俺という人間を変えちまったからだ。・・・」

417ページ
電気はどこからやって来るんですか?
二人は顔を見あわせる。
「小さな風力発電所だけど、森の奥のほうで電気をつくっている。そこでは風はいつも吹いている」と背の高いほうが説明する。
425ページ
台所ではひとりの少女が食事をつくっている。背中を向けて鍋の上にかがみこみ、スプーンで味見をしていたが、僕がドアを開けると顔を上げ、こちらを振りむく。甲村図書館で毎夜僕の部屋を訪れ、壁の絵を見つめていた少女だ。そう、15歳のときの佐伯さんだ。
428ページ
「君の名前は?」と僕はべつの質問をする。
彼女は小さく首を振る。「名前はないの。私たちはここでは名前をもたないの」

このあたりの記述は「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」に似ている。記憶がないので名前もない。あるいはその逆かもしれない。記憶がなければ不幸になることもないのかもしれないが結局のところ私たちは記憶のない世界で生きることはできない。それは理不尽で不条理なことかもしれないが、そんなふうに無防備に世界に投げ出されているのが私たちだろう。

445ページ
「よう、猫くん。今日はいい天気だな」
「そうだね、ホシノちゃん」と猫は返事をかえした。
「参ったなあ」と青年は言った。そして首を振った。

449ページ
「・・・こいつはね、善とか悪とか、情とか憎しみとか、そういう世俗の基準を超えたところにある笛なんだ。それをこしらえるのが長いあいだ私の天職だった。・・」

芸術は善悪を超えている。

463ページ
「記憶はここではそんなに重要な問題じゃない」

467ページ
「私があなたに求めていることはたったひとつ」と佐伯さんは言う。そして顔をあげ、僕の目をまっすぐに見る。
「あなたに私のことを覚えていてほしいの。あなたさえ私のことを覚えていてくれれば、ほかのすべての人に忘れられたってかまわない」

このあたりの記述は「ノルウェイの森」に似ている。誰か大切な人に私が生きていたことを覚えていてもらいたいのだと、他には何も望まないと、そういうことかもしれない。そういうことはこれまでに何億回も、あるいは何億×何億回も繰り返されてきたのかもしれない。そして誰かが生きていたことを覚えていた人が死んでしまったことすら何億回も忘れ去られて来たのだろう。実に私たちの存在というのはそんなふうにして軽々しく忘れ去られてしまうものなのだ。私が死んでもあなたは生き続けるという思い込みか無知が刹那的に「あなたに覚えていてほしい」と望むのだ。

468ページ
「ねえ、田村くん。あなたにお願いがあるの。あの絵を持っていって」
「図書館の僕のいた部屋にかかっていた、あの海辺の絵のことですか?」
佐伯さんはうなずく。「そう。『海辺のカフカ』。あの絵をあなたに持っていってほしいの。どこでもかまわない。これからあなたが行くところに」

471ページ
お母さん、と君は言う、僕はあなたをゆるします。そして君の心の中で、凍っていたなにかが音をたてる。

捨てられたと思っていた子供が母を許すということで問題が解決するというのは
どうなんでしょう?

482ページ
「名前はあるの?」
「名前くらいある」
「どんな名前?」
「トロ」と猫は言いにくそうに言った。

いわし、かもめ、サワラ、オオツカさん、カワムラさん、ミミ、ゴマちゃん、そしてトロ
猫の名前の系譜。

494ページ
懐中電灯の光は白く細長い物体を照らし出した。物体は死んだナカタさんの口から、もぞもぞと身をくねらせながら出てくるところだった。そのかたちはウリを思わせた。
500ページ
いったん入り口を閉めてしまうと、その白いものを片づけるのは思ったよりずっと簡単だった。もう行き場は塞がれてしまったのだ。白いものにもそのことはわかっていた。

ジョニー・ウォーカーの化身である白い物体は、猫のトロのチクリとホシノちゃんの活躍により滅ぼされてしまったのでした。

スプートニクの恋人

2015-08-22 00:05:51 | 村上春樹
[スプートニク]
「1957年10月4日、ソヴィエト連邦はカザフ共和国にあるバイコヌール宇宙基地から世界初の人工衛星スプートニク1号を打ち上げた。直径58センチ、重さ83.6kg、地球を96分12秒で一周した。翌月3日にはライカ犬を乗せたスプートニク2号の打ち上げにも成功。宇宙空間に出た最初の動物となるが、衛星は回収されず、宇宙における生物研究の犠牲者となった。(「クロニック世界全史」講談社より)」

この作品には今までの作品との関連はないようだ。
「風の歌を聴け」から「ねじまき鳥クロニクル」まで何かしら関連はあったと思うのだが、この作品は独立しているのだと思う。26ページに「物語というのはある意味では、この世のものではないんだ。本当の物語にはこっち側とあっち側を結びつけるための、呪術的な洗礼が必要とされる」と書かれている。全体としては、小説家を目指す登場人物が「あっち側」の世界について考察し、体験するということが主題ではないかと思う。物語の中に、そのような物語をものがたるのに必要な体験が含まれているので、そこには合わせ鏡のような妖しさが生じる。すみれが小説を書きたいと言い、ぼくがこっち側とあっち側を結びつけるための洗礼が必要だと言い、すみれがあちら側に行ってくる、そんなふうに「物語」は進行する。ところで「こっち側」と「あっち側」とはどういうことなのだろう?
別に「あちら側」が死の世界を代表しているというのではなさそうだ。次の部分がヒントかもしれない。
202ページ「わたしたちの世界にあっては、「知っていること」と「知らないこと」は、実はシャム双子のように宿命的にわかちがたく、混沌として存在している。混沌、混沌。」
205ページ「夢の中ではあなたはものを見分ける必要がない。ぜんぜん、ない。そもそもの最初からそこには境界線というものが存在しないからだ。だから夢の中では衝突はほとんど起こらないし、もし仮に起こってもそこには痛みはない。でも現実は違う。現実は噛みつく。現実、現実。」
「知っていること」と「知らないこと」を区別しなければならないのが「こっち側」で「知っていること」と「知らないこと」を区別しなくてもよい方が「あっち側」ではないかと思う。あるいはそれを「現実」と「混沌」という言葉で説明してもよいかもしれない。もちろん現実の世界は本当は混沌としているので「現実」が「こっち側」で「混沌」が「あっち側」ということではない。「知っていること」と「知らないこと」を区別せず、主体と客体を区別せずという姿勢は、どこか仏教に似ている。知性を放棄した仏教は「あっち側」に含まれているのだろう、きっと修行僧は「あっち側」で暮らしている。そして「この世のものではない」という物語は、「こっち側」で消耗し疲れ果ててしまった人々を癒そうとするものなのだろうか?
おそらく人々は論理であるとか、金儲けであるとか、そういうことを日々強要されて疲れ果ててしまっている。そのような世界がとことん嫌いになってしまったなら雲水にでもなって「あっち側」で生きるのも有りだろう。そこまで思い切れない大多数の人間はおそらくは娯楽やファンタジーでリフレッシュしてすぐに元の世界に戻るのだ。その欺瞞に馴染めない少数の人間は物語の中に何かを求めようとする。

14ページ
すみれはそれ以来ミュウのことを心の中で、「スプートニクの恋人」と呼ぶようになった。すみれはその言葉の響きを愛した。それは彼女にライカ犬を思い出させた。宇宙の闇を音もなく横切っている人工衛星。小さな窓からのぞいている犬の一対の艶やかな黒い瞳。その無辺の宇宙的孤独の中に、犬はいったいなにを見ていたのだろう?

26ページ
「小説を書くのも、それに似ている。骨をいっぱい集めてきてどんな立派な門を作っても、それだけでは生きた小説にはならない。物語というのはある意味では、この世のものではないんだ。本当の物語にはこっち側とあっち側を結びつけるための、呪術的な洗礼が必要とされる」

73ページ
「ここにいるわたしは本当のわたしじゃないの。今から14年前に、わたしは本当のわたしの半分になってしまったのよ。わたしがそっくりわたし自身であったときに、あなたに会えたらどんなにか良かっただろうと思う。でもそれはいまさら考えても仕方のないことなの」

84ページ
しかし自分について語ろうとするとき、ぼくは常に軽い混乱に巻き込まれることになる。「自分とはなにか?」という命題につきものの古典的なパラドックスに足をとられてしまうわけだ。つまり純粋な情報量から言えば、ぼく以上にぼくについての多くを語ることのできる人間は、この世界のどこにもいない。しかしぼくが自分自身について語るとき、そこで語られるぼくは必然的に、語り手としてのぼくによって―――その価値観や、感覚の尺度や、観察者としての能力や、様々な現実的利害によって―――取捨選択され、規定され、切り取られていることになる。とすれば、そこに語られている「ぼく」の姿にどれほどの客観的真実があるのだろう? ぼくにはそれが非常に気にかかる。というか、昔から一貫して気にかかってきた。

最近は、自分について語ろうなんて考えない。自分について語っても仕方がない。別に卑下しているのではない。もっと違うことが気になって仕方がない。そしてもう「客観的真実」なんてどうでもよくなったのだろう。客観的に語ることができるものはごく僅かであって、それはあまり重要なこととは思えない。

122ページ
その夜にギリシャから電話がかかってきた。夜中の二時。しかし電話をかけてきたのはすみれではなく、ミュウだった。

143ページ
「いったいなにがあったんですか?」とぼくは尋ねた。
ミュウはテーブルの上で両手の指を組み合わせ、ほどき、また組み合わせた。
「すみれは、消えてしまったの」
「消えた?」

180ページ
朝の七時に目が覚めたとき、すみれの姿は家の中のどこにもなかった。

187ページ
この女性はすみれを愛している。しかし性欲を感じることはできない。すみれはこの女性を愛し、しかも性欲を感じている。ぼくはすみれを愛し、性欲を感じている。すみれはぼくを好きではあるけれど、愛してはいないし、性欲を感じることもできない。ぼくは別の匿名の女性に性欲を感じることはできる。しかし愛してはいない。

性欲と愛情が一対一に対応しているのなら、ずいぶんと楽なのだろう。
ここではそういうことは稀にしか起こらないと言っているのだろうか?

198ページ
どうして書かずにはいられないのか? その理由ははっきりしている。何かについて考えるためには、ひとまずその何かを文章にしてみえる必要があるからだ。

誰にも共通していることだが、言葉がなければ考えることなんてできない。そんなあたり前のことに気付いて呆然としていた時もあった。そして考えるということは、結局のところ、より多くの秩序を取り込もうとする生体の働きのことではないだろうか?
混沌として意味不明な体験を少しずつ言葉にすることによって自らのうちに取り込んでいくことを私たちは「そと」から命じられている。私たちが自分たちの意思によってそうしているというわけではない。私たちは書かずにはいられないし、考えずにはいられない。だがしかし、言葉に置き換える過程でどんどん欠落しているものもあるのだろう。きっと現象学はその欠落を補おうとして単に記述することに撤しているのではないかと思う。説明するよりも記述することが大切なのだろう。

202ページ
わたしたちの世界にあっては、「知っていること」と「知らないこと」は、」実はシャム双子のように宿命的にわかちがたく、混沌として存在している。混沌、混沌。

205ページ
夢の中ではあなたはものを見分ける必要がない。ぜんぜん、ない。そもそもの最初からそこには境界線というものが存在しないからだ。だから夢の中では衝突はほとんど起こらないし、もし仮に起こってもそこには痛みはない。でも現実は違う。現実は噛みつく。現実、現実。

217ページ
わたしは彼女に率直にたずねる。そう、わたしは率直にものをたずねずにはいられない性格なのだ。

222ページ
でもフェルディナンドの出現はあくまでしみの一部に過ぎない。10日ばかりそこで暮らしたあとで、彼女は町での生活全体にある種の閉塞感を感じ始める。町は隅々まで美しく清潔なのだが、どこかしら狭量で独善的であるように思え始める。人々は親切で愛想がいい。しかし彼女はそこに東洋人に対する目には見えない感情的な差別があるように感じ始める。レストランで出されるワインには奇妙な後味がある。買った野菜には虫がついている。音楽祭の演奏はどれも気が抜けて聞こえる。彼女は音楽に意識を集中することができない。最初は居心地よく感じられたアパートメントも、趣味の悪い田舎じみた部屋のように見えてくる。いろんなものが最初の輝きを失っていく。不吉なしみは広がっていく。そして彼女はそのしみから目をそらせることができなくなる。

「不吉なしみ」というのは「気の持ちよう」でなんとでもなると、そんな感想が返ってきそうだ。ここでは夢とか現実とかいっているのも、おそらくは「気の持ちよう」なのだ。夢の中では自分の一部しか働いていないので、あらゆる部分が覚醒している時の「気の持ちよう」とは異なることになる。「こっち側」と「あっち側」という違いが生じるのも、私たちの感じ方とか捉え方が大きく関係しているのだろう。そうすると次の質問は「私たちの感じ方」というのはいったいなんなのだろうかということに向けられるのだろう。「ぼく自身」というのは存在を始めたものが生きて経験を積むことによって考え方・感じ方・捉え方が特定の方向にバイアスされたものだから蓄積された経験のある部分と別の部分が対立してしまうことで私たちは「こっち側」と「あっち側」に引き裂かれてしまうかもしれない。「不吉なしみ」というのは顕在化してきた別の部分の働きによるものだろう。「強い意志」はそのような「気の迷い」を一蹴してしまうに違いない。
だがそれは「鈍感」というだけのことなのだ。

234ページ
あの男はわたしの部屋でいったい何をしているのだ。

248ページ
すみれの夢。ミュウの分裂。
ふたつの異なった世界だ、としばらくあとでふと思った。それが、すみれの書いたふたつの「文書」に共通している要素だ。
(文書1)
ここでは主にすみれがその夜に見た夢の話が語られている。彼女は長い階段を上って死んだ母親に会いに行く。でも彼女がたどり着いたとき、母親はすでにあちらの世界に向けて去ろうとしていた。すみれにはそれを止めることができない。そして行き場のない塔のてっぺんで異界のものたちにとりかこまれることになる。すみれは同じパターンの夢をこれまでに何度も見ている。
(文書2)
ここに書かれているのはミュウが14年前に体験した不思議な事件だ。ミュウはスイスの小さな町の遊園地で、一晩観覧車の中に閉じこめられ、双眼鏡で自分の部屋の中にいるもう一人の自己の姿を見る。ドッペルゲンガーだ。そしてその体験はミュウという人間を破壊してしまう(あるいはその破壊性を顕在化する)。ミュウ自身の表現によれば、彼女は一枚の鏡を隔てて分割されてしまったわけだ。すみれはミュウを説得してその話を聞き出し、文章にまとめた。

自己の中の部分が解放されているのが夢であり、自己の中の部分が互いに相反することによって分裂が生じるのかもしれない。それは不思議な世界というよりは、実際にそこにある世界なのではないかと思う。自己の矛盾に耐え切れなくなったなら、おそらくはその矛盾を切り捨ててしまう方が楽なのだ。そんなふうにして自分の半分を「あちら側」のものとして諦めなくてはならなくなるのかもしれない。どちらの半分も捨てることができなければ人格が二重になってしまうのかもしれない。私たちは時系列的に一元管理された人格に慣れているので、そうではないものを異質なものとして捉えてしまうのだろう。ここで、すみれが母親とミュウを並べているのなら、母親の存在とすみれの愛情・性欲は関連があるものなのかもしれない。彼女のリビドーは母親から受けることのできなかった愛情に左右されているのかもしれない。

251ページ
ぼくは思い切ってひとつの仮説をたててみる。
すみれはあちら側に行ったのだ。

251ページ
疑問がひとつある。大きな疑問だ。どうやったらそこに行けるのだ?
254ページ
音楽の音で目がさめた。

論理的には「そこには行けない」のだが、意外とあっさり「ぼく」も「あちら側」に行けるのだということが示される。「どうやったら」とかそんなことは関係なくて、論理を捨ててしまえば「あちら側」に行けるのだろう。そういう意味では「こちら側」で疑問を感じているうちは「あちら側」には行けない。

303ページ
「わたしがまだ若かったころには、たくさんの人がわたしに進んで話しかけてくれた。そしていろんな話を聞かせてくれたわ。楽しい話や、美しい話や、不思議な話。でもある時点を通り過ぎてからは、もう誰もわたしには話しかけてこなかった。誰ひとりとして。夫も、子供も、友だちも・・・みんなよ。世の中にはもう話すべきことなんてなにもないんだというみたいに。ときどきね、自分の身体が向こう側まですっかり透けて見えるんじゃないかって気がすることがあるの」

「ぼく」の浮気相手である女性はそのように語る。そんなことを「愛情を感じることなく性欲しか感じていない」浮気相手に語っても仕方がないのではないかと思う。一般的に言えば、若くて美しい女性にはたくさんの人が話しかける。年取った女性に話しかける人はあまりいない。男性の場合も同様の傾向があるが、女性ほど極端ではない。「性欲しか感じていない」相手との関係をずるずる継続している「ぼく」には「けじめが必要」ということだろうか?
すみれやミュウだけが傷つくわけではないのだ。

309ページ
にんじんのような子供はこれからどんな日々(永遠に続くかと思える長い成長期)を通り抜け、大人になっていくのだろうとぼくは思った。それはおそらくきついことであるにちがいない。きつくないことよりは、きついことの方がずっと多いだろう。ぼく自身の経験から、そのきつさの概要は予測することができた。彼は誰かを愛するようになるのだろうか?
そしてその誰かは彼をうまく受け入れてくれるだろうか? でも言うまでもなく、それはぼくが今ここで考えてもしかたないことだった。小学校を卒業すれば、彼はぼくとは関係のないより広い世界に出ていってしまう。そしてぼくはぼく自身の考えるべき問題を抱えている。

物語の終盤では、すみれとミュウの存在感が薄くなり、どういうわけだか教師の「ぼく」が受け持っている小学生の話が続く。クラスで「にんじん」と呼ばれているその少年は万引きで補導され、保護者であるその母親と浮気をしている「ぼく」が呼び出される。「にんじん」はなんらかのトラブルを抱えており、あるいはトラブルを抱えてしまう性分であり、「ぼく」と似ている。「ぼく」が「にんじん」に語りかけるシーンはなんとなくアリョーシャがコーリャ・クラソートキンに語りかけるシーンに似ている。「君は将来とても不幸になるよ」と言ったりはしないが、彼らはみんな「きつい」日々を過ごしている。自分と似ている誰かの存在は、いっそう孤独を意識させる。そして自分の抱えている問題を再認識させる。

315ページ
でもあるとき電話のベルが鳴りだす。ぼくの目の前で本当に鳴りだしたのだ。それは現実の世界の空気を震わせている。ぼくはすぐに受話器を取った。
「もしもし」
「ねえ帰ってきたのよ」とすみれは言った。

ねじまき鳥クロニクル

2015-08-15 00:05:00 | 村上春樹
第1部 泥棒かささぎ編、第2部 予言する鳥編、第3部 鳥刺し男編の3部構成となっている。
「泥棒かささぎ 序曲」はあまり聴かない。「ウィリアム・テル 序曲」すら聴かない。序曲すら聴かないので本編を聴くこともない。イタリアオペラに関心がない。もちろんこれは偏見なのだろう。
「予言する鳥」はシューマンの「森の情景」に含まれているとても幻想的な曲だ。私はシューマンが好きで、ピアノ曲・弦楽四重奏曲・ピアノ協奏曲・交響曲などを聴いている。弦楽四重奏曲はベートーヴェン・バクトークに次ぐ傑作ではないかと思っている。
「鳥刺し男」は「魔笛」に出て来るパパゲーノのことだが、現代で「鳥刺し男」といっても意味がよくわからない。「魔笛」はモーツァルト最後のオペラであり、彼の最高傑作であると共にその分野での最高傑作となっている。パパゲーノやらパパゲーナやら、気楽に楽しめる作品となっている。モーツァルトには、人を寄せ付けない天才的な要素と、大衆的な要素が混じっているのだろう。

本作品の第1部・第2部は同時期に発表されたが、第3部は遅れて発表され内容も第1部・第2部とは異質なものとなっている。ただ「ねじまき鳥クロニクル」についての謎解きは第3部になってやっと登場するので第2部で完結という意図は初めからなかったのだろう。

獣医と僕が「あざ」という共通点を持ち、同質の役割を担っているのであれば、獣医の運命との不毛な戦いは、僕と綿谷ノボルとの骨肉の争いに相当するのかもしれない。そうすると綿谷ノボルとは、人格を持った人間というよりは、運命のようなものに近いのかもしれない。綿谷ノボルという絶対的な悪が僕と妻の間を引き裂いてしまったというようなことではなく戦争のように根こそぎ私たちを台無しにしてしまうものの象徴が綿谷ノボルであり、
そういったものと戦っていかなければならないということかもしれない。あるいは綿谷ノボルが「僕」の「否定的な影」という見方をするのであれば、「私たちを台無しにしてしまうもの」というのは結局のところ「私たち自身」ということになるのだろう。「羊」「やみくろ」「リトル・ピープル」の示すところは「普遍的無意識」における「否定的な影」であるのだと、そういうことだとすれば「私たち」は「私たち自身」と戦わなければならないということになる。しかしそれはバットで叩きのめせるような相手なのだろうか?

「国境の南、太陽の西」でそれまでの「誰にも理解されなくてもいいや」と思っている「僕」は実は「誰も理解することのできない僕」であるということが明らかにされ、
僕一人の喪失感から誰かと共有する喪失感へと視点が移されるという変化があった。ここでは他者理解の必要性がさらに拡大されているのだと思う。冒頭に出現する妙な電話をかけてくる女はクミコの「影」であって「ダンス・ダンス・ダンス」の「僕」という一人称の「影」から二人称の「影」へと発展しているのではないかと思う。

物語に登場する人物は一見すると奇妙だが「夢というかたちを取っている何か」の世界での対立関係と「現実」の世界での対立関係という形にまとめられるのではないかと思う。
「夢というかたちを取っている何か」の世界では、トリックスターと影のペアが不可解な何かと戦い、「現実」の世界では、他者と僕が相互理解を求めながら不可解な何かと戦う。

トリックスター 影           対立関係(あるいはテーマ)
加納マルタ   加納クレタ(クミコの影) 綿谷ノボル
本田さん    間宮中尉(僕の影)    皮剥ぎボリス/意識の核
赤坂ナツメグ  赤坂シナモン(僕の影)  存在理由
赤坂シナモン  獣医(僕の影)      戦争/世界/運命/諦観

他者      自己          対立関係
クミコ/電話の女 僕           精神の思い通りにならない身体/綿谷ノボル
笠原メイ    僕           精神の思い通りにならない身体/死

おそらくは「自分の属している世界の価値観をみじんも疑うことがない」人間であればこうした争いに巻き込まれることはないのだろうが、そのような人々に対して笠原メイは以下のように断言する。
「私はまだ十六だし、世の中のことをあまりよくは知らないけれど、でもこれだけは確信をもって断言できるわよ。もし私がペシミスティックだとしたら、ペシミスティックじゃない世の中の大人はみんな馬鹿よ」

[第1部 泥棒かささぎ編]

11ページ
台所でスパゲティーをゆでているときに、電話がかかってきた。僕はFM放送にあわせてロッシーニの『泥棒かささぎ』の序曲を口笛で吹いていた。スパゲティーをゆでるにはまずうってつけの音楽だった。
11ページ
「十分間、時間を欲しいの」、唐突に女が言った。

18ページ
近所の木立からまるでねじまきでも巻くようなギイイイッという規則的な鳥の声が聞こえた。我々はその鳥を「ねじまき鳥」と呼んでいた。クミコがそう名づけたのだ。

クミコは最初から「ねじまき鳥」のことを知っていたのかもしれない。
その鳥は、人々を「避けがたい破滅」へ導くということだ。

24ページ
しかし路地には入口も出口もなく、両端は行き止まりになっている。それは袋小路でさえない。少なくとも袋小路には入口というものがあるからだ。

井戸の話と並んで著者の作品には入口と出口の話がよく出てくる。
今回は入口すらないのだという。

25ページ
妻がどういう目的でそんなところに何度も出入りしていたのか、見当もつかなかった。

クミコは「その部屋」に出入りしていたということになる。

47ページ
ひとりの人間が、他のひとりの人間について十全に理解するというのは果して可能なことなのだろうか。つまり、誰かのことを知ろうと長い時間をかけて、真剣に努力をかさねて、その結果我々はその相手の本質にどの程度まで近づくことができるのだろうか。我々は我々がよく知っていると思い込んでいる相手について、本当に何か大事なことを知っているのだろうか。
51ページ
「悪いわよ。私は青いティッシュペーパーと、柄のついたトイレットペーパーが嫌いなの。知らなかった?」
52ページ
「それからもうひとつついでに言わせてもらえるなら」と彼女は言った。
「私は牛肉とピーマンを一緒に炒めるのが大嫌いなの。それは知ってた?」
60ページ
僕はいつかその全貌を知ることができるようになるのだろうか? あるいは僕は彼女のことを最後までよく知らないまま年老いて、そして死んでいくのだろうか? もしそうだとしたら、僕がこうして送っている結婚生活というのはいったい何なんだろう? そしてそのような未知の相手と共に生活し、同じベッドの中で寝ている僕の人生というのはいったい何なんだろう? それがそのときに僕の考えたことであり、その後もずっと断続的に考えつづけたことだった。そしてもっとあとになってわかったことだが、そのとき僕はまさに問題の核心に足を踏み入れていたのだ。

綿谷ノボルとの対決がある一方で「相手のことを理解できるのか?」ということが主題ではないかと思う。それは自分を理解してもらいたいのであれば、まず相手を理解しなければならないといったちっぽけなことではなく、そもそも理解し合える見込みはあるのか、理解できないとすれば人生とか生活(つまりは生きること)に何か価値があるのか、そういう問題に発展してしまう。守るべきものが未知の相手というのであれば、戦うことにすら意味はなくなる。

69ページ
もちろん僕に特徴がないというわけではない。失業していて、『カラマーゾフの兄弟』の兄弟の名前を全部覚えている。でもそんなことはもちろん外見からはわからない。

ここでも「カラマーゾフの兄弟」が登場する。

76ページ
「加納というのは本当の名前です。でもマルタというのは職業上の名前です。マルタ島から取ったのです。岡田様はマルタには行かれたことはおありでしょうか?」

83ページ
「不思議な場所にお住まいですね」、彼女は僕の質問を無視して言った。

クミコの影である「電話の女」がいる不思議な部屋へと通じる井戸のことを指している。

93ページ
しかしそういった人物がなりがちなように、ひどくプライドが高く、独善的だった。命令することに馴れ、自分の属している世界の価値観をみじんも疑うことがなかった。彼にとってはヒエラルキーがすべてだった。自分より上の権威にはかんたんにかしこまったが、下のものを踏みつけることに対してはいささかの躊躇も感じなかった。

そういう人はたくさんいる。著者は組織で働いたことはないだろうからあまり知らないと思うが、会社は100%そういうところだ。上にはへらへらして、下は踏みつける、それがあたり前だと思っている。そんなふうにして彼らは何をしたいのだろうか? おそらくは上に登ることしか頭にないのだろう。「自分の属している世界」に疑いを持ってしまったなら、カフカの小説の主人公のように悲劇(あるいは喜劇)が訪れる。そして負け犬となって吠えるのだ。
「わおーん!」

124ページ
飛べない鳥、水のない井戸、出口のない路地、そして・・・。

因果関係あるいは論理性の否定

135ページ
彼の両親はそのひとり息子を溺愛したが、ただ可愛がるというだけでなく、同時にきわめて多くのものを彼に要求した。父親は日本という社会の中でまっとうな生活を送るだめには少しでも優秀な成績を取って、一人でも多くの人間を押しのけていくしかないという信念の持ち主だった。本当に真剣にそう信じていたのだ。
136ページ
その頭脳を支配しているのは「自分が他人の目にどのように映るか」という、ただそれだけなのだ。そのようにして、彼女は夫の省内での地位と、息子の学歴しか目に入らない狭量で神経質な女になった。そしてその狭い視野に入ってこないものは、彼女にとっては何の意味も持たないものになってしまった。

ここで綿谷ノボルの両親について書かれているが、私は自分の両親について書かれているのではないかと思った。父は優秀な成績を取って一流の学校へ進むべきという信念を幼い私に押し付け、母もまた息子の学歴にしか興味を示さなかった。こんな人たちといっしょにいても仕方がないと思った。私にとっては彼らは「ストレス」でしかない。

148ページ
彼にとって僕という人間は、あえて時間とエネルギーを費やしてまで叩きのめすに値しない相手だったのだ。僕が綿谷ノボルに対して苛立ったのはたぶんそのせいだと思う。彼は本質的には下劣な人間であり、無内容なエゴイストだった。でも僕よりは明らかに有能な人間だった。

存在を無視されることが最大の侮辱であるかもしれない。
信玄に素通りされた家康もカッとなって三方ヶ原で大敗したのだという。

169ページ
私の言う痛みとは純粋に肉体的な痛みのことです。
174ページ
『あなたに苦痛の何がわかるっていうのよ。私の感じている痛みは普通の痛みなんかじゃないのよ。痛みのことなら、、私はもうありとあらゆる種類の痛みについて知っているのよ。私が痛いというときは本当に痛いのよ』

他人を理解できないことを説明するのに他人の痛みが理解できないということがしばしば利用される。色彩とか音についても同じなのだろう。私が感覚したことは、私にしかわからないのだ。他者の痛みは想像するしかないし、他者の考えもまた想像するしかない。

200ページ
もし私が電話の一本も入れずに日曜日の朝の三時に家に帰ってきて、今まで男の人と一緒にベッドに入っていたんだけど、何もしなかったから大丈夫よ、私を信じてちょうだい。ただその人に充電してあげてただけだから。さあこれから朝ご飯を食べてぐっすり寝ましょうって言ったら、あなたは腹も立てずにそれを信じてくれる?」

211ページ
「でもね、ねじまき鳥さん、人生ってそもそもそういうものじゃないかしら。みんなどこかしら暗いところに閉じ込められて、食べるものや飲むものを取り上げられて、だんだんゆっくりと死んでいくものじゃないかしら。少しずつ、少しずつ」
僕は笑った。「君は君の歳にしては、ときどきものすごくペシミスティックな考え方をするね」
「そのペシなんとかってどういうこと?」
「ペシミスティック。世の中の暗いところだけを取り出して見るっていうことだよ」
ペシミスティック、と彼女は何度か口の中で繰り返した。
「ねじまき鳥さん」と彼女は僕の顔をじっと睨むようにことを見上げながら言った。「私はまだ十六だし、世の中のことをあまりよくは知らないけれど、でもこれだけは確信をもって断言できるわよ。もし私がペシミスティックだとしたら、ペシミスティックじゃない世の中の大人はみんな馬鹿よ」

少しずつ死んでいくのが人生であるかもしれない。死は避けがたいものであるので人々はそのことを忘れて暮らしている。当面は私の元を訪れないであろうし、訪れたとしてもどう対処してよいのかわからない。考えても仕方がないので考えないのだが「みんな馬鹿」と言われてしまうと返す言葉もない。

235ページ
出かける前にクミコは僕のところに来てワンピースの背中のジッパーをあげてくれと言った。

265ページ
生命と呼べるようなものは何ひとつ存在しなかった太古から、これと同じことが何億回も何十億回も行われてきたのです。私は見張りをしていることも忘れて、その夜明けの光景をただ呆然と眺めておりました。

287ページ
『・・・生きたまま皮を剥がれると、剥がれる方はものすごく痛い。想像もできないくらいに痛い。そして死ぬのに、ものすごく時間がかかる。出血多量で死ぬわけだが、これはなにしろ時間がかかる』

他人の痛みが想像できないことについて再考している。

298ページ
世界の果ての砂漠の真ん中の、深い井戸の底にひとりぼっちで残されて、真っ暗な中で激しい痛みに襲われるというのが、どれくらい孤独なものか、どれほど絶望的なものか、とてもおわかりいただけないだろうと思います。私は自分があの下士官にあっさりと射殺されてしまわなかったことを悔やみさえしました。私がもし誰かに撃ち殺されたとしたら、少なくとも私の死は彼らによって関知されます。しかしここで私が死ぬのだとしたなら、それは本当にひとりぼっちの死です。それは誰にも関知されない、無音の死なのです。

そうは言っても誰もがひとりで死んでいく。誰かに看取られて死んだとしても看取った人が死んでしまえば、その人がかつて生きていたことなんて誰も知らない。数十億の人間が暮らしていても100年後に生きている人間は僅かであって、数十億の人間が生きていたことなんて誰も知らない。ひとりひとりの名前を覚えることなんてできない。誰が数十億の名前を覚えることができるだろうか? その人たちの人生を知ることができるだろうか?
そうするとやはり人々は、ひとりぼっちの死を迎える。戸籍に記録されたとしても誰も覚えてはいない。数十億の人々に各々名前があったとしても、無名の死を迎えることになる。私が生きていたことなんて100年後の世界を生きる人々には何の関係もない。私にしたって100年前の人たちのことを何も知らない。

302ページ
何かの気配に気づいてはっと目を覚ましたとき、光は既にそこにありました。私は自分が再びその圧倒的な光に包まれていることを知りました。私はほとんど無意識に両方の手のひらを大きく広げて、そこに太陽を受けました。それは最初のときよりもずっと強い光でした。そして最初のときよりもそれは長く続きました。少なくとも私にはそう感じられました。私はその光の中でぼろぼろと涙を流しました。体じゅうの体液が涙となって、私の目からこぼれ落ちてしまいそうに思えました。私のからだそのものが溶けて液体になってそのままここに流れてしまいそうにさえ思いました。この見事な光の至福の中でなら死んでもいいと思いました。いや、死にたいとさえ私は思いました。そこにあるのは、今何かがここで見事にひとつになったという感覚でした。圧倒的なまでの一体感です。そうだ、人生の真の意義とはこの何十秒かだけ続く光の中に存在するのだ、ここで自分はこのまま死んでしまうべきなのだと私は思いました。
309ページ
長い話になってしまいまいしたが、私があなたにお伝えしたかったのは、私の本当の人生というのはおそらく、あの外蒙古の砂漠にある深い井戸の中で終わってしまったのだろうということなのです。私はあの井戸の底の、一日のうちに十秒か十五秒だけ射しこんでくる強烈な光の中で、生命の核のようなものをすっかり焼きつくしてしまったような気がするのです。

[予言する鳥編]の72ページでも「意識の中核」という言葉が用いられている。そのような特殊な状況下にあって、私の意識はきわめて濃密に凝縮されており、そしてそこに一瞬強烈な光が射し込むことによって、私は自らの意識の中核のような場所にまっすぐに下りていけたのではないでしょうか。とにかく、私はそこにあるものの姿を見たのです。

「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」でも「意識の核」という言葉が用いられている。
上巻192ページ
「人は自らの意識の核を明確に知るべきだろうか?」
下巻269ページ
「意識の底の方には本人に感知できない核のようなものがある。僕の場合のそれはひとつの街なんだ」

本当にそんなものがあるのか、よくわからない。私はそういうものの姿を見たことがない。もしかすると言葉では語ることのできない宗教体験のようなものかもしれない。そして意識の中核を訪れた間宮中尉はその後、脱け殻のような人生を送ることになる。あるいは人生はもともと脱け殻のようなものであるが、意識の中核にあるものを見た間宮中尉にしか、
脱け殻であることがわからないのかもしれない。ちょっとずつ努力して、ひとつずつ階段を上るというスタイルが人生には適しているのだろう。いきなり核心に迫ってしまうのはよくないのだろう。

[第2部 予言する鳥編]

19ページ
少しあってから加納マルタは言った。「猫はよほどのことがない限り二度と見つからなのではないかと思うのです。お気の毒ですが、おあきらめになられた方がいいと思います。猫は去ってしまいました。おそらく猫はもう戻ってこないでしょう」

加納マルタの予言は外れることになる。第3部で猫は帰ってくる。「よほどのこと」があったのだろうか?

20ページ
「はっきりしたことはまだ何もわからないんです。ただ頭の中で考えているだけです。でもとにかく女房が家を出てどこかに行ってしまったと思うんです」

相互理解がテーマなら、第1部ですれ違い続け、第2部になって女房が家を出て行くということになるのだろう。

56ページ
「最初に君に会ったときから、私は君という人間に対して何の希望も持ってはいなかった。君という人間の中には、何かをきちんとなし遂げたり、あるいは君自信をまともな人間に育てあげるような前向きな要素というものがまるで見当たらなかった。そこには、もともと光るべきものもないし、何かを光らせようとするものだってなかった。君のやることは何から何までたぶん中途半端で終わるだろう、何ひとつ達成できないだろうと思った。そして事実そのとおりになった。君たちが結婚してから六年経った。そのあいだに、君はいったい何をした? 何もしてない―――そうだろう。君がこの六年のあいだにやったことといえば、勤めていた会社をやめたことと、クミコの人生を余計に面倒なものにしたことだけだ。今の君には仕事もなく、これから何をしたいというような計画もない。はっきり言ってしまえば、君の頭の中にあるのは、ほとんどゴミや石ころみたいなものなんだよ」

「何ひとつ達成できない」、あるいはそういうことかもしれない。いずれ死んでしまうのだから、生きているあいだに何かをなし遂げようと、一度しかない人生を悔いのないように生きようと、そんなふうに考えたとしても、結局のところ「何ひとつ達成できない」のかもしれない。私にできることは、家族が食べていくのに必要な分のお金を持って帰るということだけだ。「何かをなし遂げる」なんてとんでもない。私にできることは、こうやってつらつらと感想を書くことだけだ。もしかすると同じようなことを考えている誰かと出会えるかもしれない。そういうのも「ゴミや石ころみたいなもの」であるかもしれない。でもまあ、ゴミは嫌だけど、石ころでいいや。

63ページ
「どこかずっと遠くに、下品な島があるんです。名前はありません。名前をつけるほどの島でもないからです。とても下品なかたちをした下品な島です。そこには下品なかたちをした椰子の木がはえています。そしてその椰子の木は下品な匂いのする椰子の実をつけるんです。でもそこには下品な猿が住んでいて、その下品な匂いのする椰子の実を好んでたべます。そして下品な糞をするんです。その糞は地面に落ちて、下品な土壌を育て、その土壌に生えた下品な椰子の木をもっと下品にするんです。そういう循環なんですね」

これは『きっとどこかにナイーブな町があって、そこではナイーブな肉屋がナイーブなローストハムを切ってるんだ』を発展させたものだろうか?

72ページ
そのような特殊な状況下にあって、私の意識はきわめて濃密に凝縮されており、そしてそこに一瞬強烈な光が射し込むことによって、私は自らの意識の中核のような場所にまっすぐに下りていけたのではないでしょうか。とにかく、私はそこにあるものの姿を見たのです。私のまわりは強烈な光で覆われます。私は光の洪水のまっただなかにいます。私の目は何を見ることもできません。私はただ光にすっぽりと包まれているのです。でもそこには何かが見えます。一時的な盲目の中で、何かがその形を作ろうとしています。それは何かです。それは生命を持った何かです。光の中に、まるで日蝕のように、その何かが黒く浮かび上がろうとします。でも私にはその姿をはっきりと見定めることができません。それは私の方にやってこようとしています。それは私に何か恩寵のようなものを与えようとしているのです。私は震えながらそれを待ちます。でもその何かは、思いなおしたのか、それとも時間が足りなかったのか、結局私のところにはやってこないのです。それは形をはっきりと作り上げる直前でふっとその姿を溶解させ、再び光の中に消えてしまうのです。そして光が薄らいでいきます。光の射し込む時間が終わったのです。

81ページ
「二度目に岡田様の夢に現われたときに、私は岡田様と交わっている途中で知らない女性と交代いたしました。そうですね? その女性が誰であったのか、私にはわかりません。でもその出来事は岡田様に何かを示唆しているはずです。私はそのことを岡田様にお伝えしたかったのです」

「知らない女性」は「電話の女」で、加納クレタも「電話の女」もクミコの影なのだから、まったく知らないというわけではないだろう。お互いの存在は感知しているが、交わることのない人格ということなのだろう。

122ページ
「これはもうさんざん話し合ったことだけれど、今ここで子供を作ったら、私の仕事も終わってしまうし、あなたは私や子供を養うためにどこか別のところで、もっと給料のいい仕事をみつけなくてはならなくなるのよ。生活の余裕なんてものはまったくなくなってしまうし、やりたいことがあっても何もできなくなってしまうわよ。私たちがこれから何をするにせよ、その可能性は現実的にずいぶん狭められてしまうことになるわよ。あなたはそれでもいいの?」

堕胎は女性にとってはショックなことではないのだろうか?
子供を育てること以外の目的がある男女関係は稀であるに違いない。セックスがいつまでも目的というわけにはいかない。愛する男の子供を身篭ったとしたら普通は産みたいと思うのではないだろうか? 男が堕ろせと言ったなら一瞬にして愛情は醒めてしまうのではないだろうか?
ここではそのような展開はなく、妊娠したクミコが自らの呪われた血を意識するようになったということになっている。

130ページ
それから彼は、蝋燭の火の上に黙って左の手のひらをかざした。そして少しずつ、少しずつ、その手のひらを炎の先に近づけていった。客の一人がうなりともため息ともつかない声をだした。やがてその炎の先が彼の手のひらを焼くのが見えた。

「他者の痛み」を感じることはできないのだが、想像することはできる。想像することで理解し合えるのだろうか?

132ページ
夜明け前に井戸の底で夢を見た。でもそれは夢ではなかった。たまたま夢というかたちを取っている何かだった。

136ページ
ボーイが部屋から出てくるのを待った。部屋の番号は208だった。そうだ208だ、と僕は思った。どうして今までそれが思いだせなかったんだろう。

「1973年のピンボール」に出て来る双子のひとりが208だった。

138ページ
「ここに来ればたぶん君に会えるだろうと思った。あるいは君じゃなければ加納クレタにね。僕はクミコの行方を知らなくちゃならないんだ。いいかい、すべては君の電話から始まったんだよ」

電話の女、加納クレタ、クミコが並べられている。

140ページ
「あなたは私の名前を知りたいと思う。でも残念ながら私はそれを教えてあげることができない。私はあなたのことをとてもよく知っている。あなたも私のことをとてもよく知っている。でも私は私のことを知らない」

168ページ
「ねえ、ねじまき鳥さん、あなたが今言ったようなことは誰にもできないんじゃないかな。『さあこれから新しい世界を作ろう』とか『さあこれから新しい自分を作ろう』とかいうようなことはね。私はそう思うな。自分ではうまくやれた、別の自分になれたと思っていても、そのうわべの下にはもとのあなたがちゃんといるし、何かあればそれが『こんにちは』って顔を出すのよ。あなたにはそれがわかっていないんじゃない。あなたはよそで作られたものなのよ。そして自分を作り替えようとするあなたのつもりだって、それもやはりどこかよそで作られたものなの。ねえ、ねじまき鳥さん、そんなことは私にだってわかるのよ。どうして大人のあなたにそれがわからないのかしら?」

笠原メイは最年少だが、ずいぶんと哲学的なセリフが用意されている。人格というのは習慣の積み重ねによって形成された脳内の物理的な記憶情報とその接続情報の総体なのだから、
そんなものがいきなり、まっさらにはならないだろう。「自分を作り替えよう」とする自由意志はもちろん「意志」が作ったものではなく「遺伝子」に従って構築された身体の機能の
ひとつなのであって、「あなたはよそで作られたもの」ということになる。

183ページ
「岡田様」と現実の加納クレタが言った。「そこにいらっしゃるんですか?」

192ページ
どうしてそんなときに出し抜けに私の身にそれが起こったのか、どうしてあなた相手ではなく他の人を相手に起こったのか、私にもわかりません。

ここは「ノルウェイの森」の直子の身に起こったことと同じかもしれない。

199ページ
チャイコフスキーの弦楽セレナーデが終わったあとで、シューマンのものらしい小曲がかかった。聞き覚えのある曲だったがどうしても題名が思いだせなかった。演奏が終わったあとで女性のアナウンサーがそれを『森の情景』の第七曲『予言する鳥』だと言った。

212ページ
肌のその部分は顔のほかの部分に比べると微かな熱を帯びているようだったが、それ以外に特別な感触はなかった。それはあざだった。井戸の中で熱を感じていたちょうどその部分にあざができていたのだ。

221ページ
でも僕は突然思いだした。クミコはもういない―――彼女は家を出ていったのだ。誰か別の人間が僕の隣に寝ている。僕は思い切って枕元のスタンドの明かりをつけてみた。それは加納クレタだった。

238ページ
それから奇妙なことが起こりました。そのぱっくりとふたつに裂けた自分の肉の中から、私がこれまでに見たことも触れたこともなかった何かが、かきわけるようにして抜け出してくるのを私は感じたのです。その大きさはよくわかりません。でもそれはまるで生まれたての赤ん坊のようにぬるぬるしたものでした。それが何であるのか、私にはまったく見当もつきませんでした。それはもともと私の中にあるものでありながら、私の知らないものなのです。でもこの男が、私の中からとにかくそれを引き出したのです。

綿谷ノボルが加納クレタを犯したということは、クミコを損なったということと同じだろう。だがしかし「それを引き出した」と言われてもよくわからない。綿谷ノボルは、個人のうちに潜む破壊的な本能のようなものを引き出すことができるのだろうか?
歴史的に悪名が高い人物というのは、そういう能力を備えているのであって、その危険性を「綿谷ノボル」で描いているのだろうか?

244ページ
「つまり、その男が君に新しい自己をもたらしたということなんだね?」、僕はそう尋ねてみた。

クミコは損なわれたが、加納クレタには「新しい自己」がもたらされたのだという。

254ページ
服は思ったとおり、全部加納クレタにぴったりだった。

260ページ
「岡田様が失っていく世界で、綿谷様は獲得していきます。岡田様が否定される世界で、綿谷様は受け入れられていきます。またその逆のことも言えます。だからこそあの方は岡田様のことを激しく憎んでおられるのです」

岡田さんと綿谷さんは対になって二元論をなしている。

298ページ
「・・・暗闇の中でひとりでじっとしているとね、私の中にある何かが私の中で膨らんでいくのがわかったわ。鉢植えの中の樹木の根がどんどん成長していって、最後にその鉢を割ってしまうみたいに、その何かが私のからだの中でどこまでも大きくなって最後には私そのものをばりばりと破っちゃうんじゃないかっていうような感じがしたのよ。太陽の下では私のからだの中にちゃんと収まっていたものが、その暗闇の中では特別な養分を吸い込んだみたいに、おそろしい速さで成長しはじめるのよ。私はそれを何とか抑えようとしたわ。でも抑えることができなかった。そして私はどうしようもなく怖くなったの。そんなに怖くなったのは生まれて初めてのことだった。私という人間は私の中にあったあの白いぐしゃぐしゃとした脂肪のかたまりみたいなものに乗っ取られていこうとしているのよ。それは私を貪ろうとしているの。ねじまき鳥さん、そのぐしゃぐしゃは最初は本当に小さなものだったのよ」

その「白いぐしゃぐしゃとしたもの」というのは加納クレタから取り出されたものと同じなのだろうか?
バイクを運転している男の子の目を塞いでしまうような衝動が彼女の中で成長してしまう。強い意志で自己を制御していると吹聴している人を見かけるが、それはもともと内在している衝動が弱いだけだろう。

300ページ
「ねえ、ねじまき鳥さん」と笠原メイは言った。「私は思うんだけれど、人間というのはきっとみんなそれぞれ違うものを自分の存在の中心に持って生まれてくるのね。そしてそのひとつひとつ違うものが熱源みたいになって、ひとりひとりの人間を中から動かしているの。もちろん私にもそれはあるんだけれど、ときどきそれが自分の手に負えなくなってしまうんだ」

きっと私にも熱源のようなものもあるのだろう。感性的諸要素の複合体のことだろうか?

327ページ
男が苦痛にからだを折っているあいだに僕は男の手からバットをもぎ取った。
330ページ
結局僕はそのバットを家まで持って帰った。そして押入れの中に放り込んでおいた。

345ページ
私は思うのだが、おそらく本田さんは私とあなたとを引き合わせたかったのではないだろうか。本田さんは私とあなたとが会うことが、私のためにもあなたのためにも良いことだと思っていたのではないだろうか。

357ページ
それからさっと裏返るみたいに、僕はすべてを理解する。何もかもが一瞬のうちに白日のもとにさらけ出される。その光の下ではものごとはあまりに鮮明であり、簡潔だった。僕は短く息をのみ、ゆっくりとそれを吐き出す。吐き出す息はまるで焼けた石のように固く、熱い。間違いない。あの女はクミコだったのだ。

361ページ
それから僕は息を殺し、じっと耳を澄ませる。そしてそこにあるはずの小さな声を聞き取ろうとする。水しぶきと、音楽と、人々の笑い声の向うに、僕の耳はその音のない微かな響きを聞く。そこでは誰かが誰かを呼んでいる。誰かが誰かを求めている。声にならない声で。言葉にならない言葉で。

「1Q84」のBOOK2の終り方もこんな感じではなかっただろうか?
両作品は、第3部が後で書かれたとか、牛河が出て来るという共通点がある。

[第3部 鳥刺し男編]

40ページ
何があってもあの井戸を手に入れなくてはならない。
それが僕の到達した結論だった。

76ページ
僕の予感は間違ってはいなかった。家に帰ったとき、猫が僕を出迎えた。僕が玄関の戸を開けると待ちかねたように大きな声で鳴きながら、先が少し曲がった尻尾を上に立てて僕の方にやってきた。それは一年近く行方不明になっていたワタヤ・ノボルだった。僕は買い物の紙袋を置き、猫を抱きあげた。

鼠も妻も直子もキキも決して僕のところに帰ってはこなかったのだが、猫は帰ってきた。
著者の作品で帰ってきたのは「サワラ」が初めてなのではないかと思う。

87ページ
この猫にサワラという名前をつけようと僕は思った。僕は猫の耳のうしろを撫でながら、いいか、お前はもうワタヤ・ノボルなんかじゃなくてサワラなんだ、と教えた。僕はできることならそのことを世界中に大きな声で告げてまわりたかった。

いわし、かもめに続き、サワラが命名された。猫に他の動物の名前を付けるシリーズは継続されている。このときから「ワタヤ・ノボル」の支配は弱まっていくことになる。名前を変える意味はそこにある。

100ページ
「ナツメグ?」
「ふと頭に浮かんだの。それを私の名前にすればいいわ。もし嫌じゃなければ」
「別に僕はそれで構いませんが・・・じゃあ息子さんはなんて言うんですか?」
「シナモン」

105ページ
今ここにいる僕とその奇妙な部屋を隔てているものは、ただの一枚の壁に過ぎない。そして僕にはその壁を抜けることができるはずなのだ。僕自身の力と、そしてここにある深い暗闇の力によって。

113ページ
この潜水艦は、私たちみんなを殺すために深い海の底から姿を現わしたのだ。でもそれはべつに不思議なことじゃない、と彼女は思った。それは戦争とは関係なく、誰にでもどこにでも起こりうることなのだ。みんなはこれがみんな戦争のせいだと思っている。でもそうじゃない。戦争というのは、ここにあるいろんなものの中のひとつに過ぎないのだ。

私たちは自分の力で、あるいは自分の意志によって、人生を切り開いているなどと考えているのだが、どこにでも起こりうる何かによって常に蹂躙されてしまう。論理的な思考は「戦争のせい」とか「自分のせい」と考えようとする。そうでなければどうすればよいというのだろう?
私たちが不幸になるのは何か原因があるに違いないのであって、ネガティブな思考を退け、幸福を掴み取らなければならない・・・だが実際には、原因などどこにもないのだ。

126ページ
ナツメグは微笑んだ。「ねえ、それってなんだかモーツァルトの『魔笛』みたいな話じゃない。
魔法の笛と、魔法の鐘で、遠くのお城に囚われたお姫さまを救いだす。私、あのオペラが大好きよ。何度も何度も見た。台詞もそっくり覚えている。『国じゅうに知らぬものなき鳥刺し男、パパゲーノとは俺のことだ』。見たことある?」
・・・どちらがほんとうに正しい側なのか、主人公たちは途中でわからなくなってしまう。

162ページ
「いやいや、自己紹介が遅れましたね。失礼、失礼。牛河っていいます。動物の牛に、さんずいの河って書くんです。覚えやすい名前でしょう。まわりの人はみんな、ウシって呼ぶんです。<おい、ウシ>ってね。そういわれると変なもので、だんだん自分が本物の牛みたいな気がしてきますね。実際の牛をどこかで見たりすると、親しみさえ覚えますね。名前というのは妙なものです。そう思いませんか、岡田さん?」

牛河はフョードル・カラマーゾフのように自虐的な感じがする。
聞いてもいないのに余計なことをどんどんしゃべる。

217ページ
彼女は長い年月にわたって顧客たちが体内に抱えている何かを「仮縫い」し続けてきた。自分が何をやっているのか正確には理解できなかったけれど、とにかくできるかぎりの努力を続けた。しかしナツメグにはその何かを治癒することはできなかった。それは決して消え去らなかった。彼女の治癒する力によって一時的に活動をゆるめるだけだ。

221ページ
さて私は思うのですが、世の中の人々の大奥は人生とか世界というのは、多少の例外はあるものの、基本的にシュビ一貫した場所であると(あるいはそうあるべきだと)考えて生きているのではないでしょうか。

269ページ
<駄目になった>というのは、もっと長い時間のことです。クミコはいったい僕に何を伝えようとしているのだ?
275ページ
<駄目になった>というのは、もっと長い時間のことです。それはいったいどんな長い時間のことなのだろう?

285ページ
僕はこのあざによって、シナモンの祖父(ナツメグの父)と結びついている。シナモンの祖父と間宮中尉は、新京という街で結びついている。間宮中尉と占い師の本田さんは満州と蒙古の国境における特殊任務で結びついて、僕とクミコは本田さんを綿谷ノボルの家から紹介された。そして僕と間宮中尉は井戸の底によって結びついている。
・・・でもどうして僕とクミコがそのような歴史の因縁の中に引き込まれて行くことになったのか、僕には理解できない。それらはみんな僕やクミコが生まれるずっと前に起こったことなのだ。

「僕とクミコ」が特別というわけではなくて、誰もが「歴史の因縁」のようなものに引き込まれて行くことになる。現代に生きる私たちが「インターネット」とは無縁の世界で生きることができないというのは何かの因縁に引き込まれているのと似ている。ただその因縁というのは個々の人間が相互に干渉した結果、生じてきたものだろう。一個の電子の振る舞いを決定するためには全宇宙の電子の位置情報が必要かもしれないのだし、そのようにしてお互いが干渉し状況は常に変化する。
「結びつき」というのはそのような状況をまとめる働きがある。
「結びつき」と無縁ではいられない。

310ページ
あなたが死んだクミコのお姉さんに何をしたかも、今では見当がついています。これは嘘じゃありません。あなたはこれまでにいろんな人々を一貫して損ない続けてきたし、これからも損なっていくことでしょう。

「損ない続ける」という表現は今までの作品でもしばしば出現していた。それは主に自分で自分を損なうという意味で使われてきた。この作品ではそうではなく、損なう側は一定している。しかも自分ではない。そうすると綿谷ノボルというのは、やはり人格ではなく、悪魔でもなく、私たちの世界に潜む何かである。いや悪魔というのは結局のところ人間に他ならないのだから、鏡に映った自分自身の姿かもしれない。あるいは思い通りに行かない人生を阻害するもろもろの現象の象徴かもしれない。

318ページ
運命は獣医の宿業の病だった。彼はまだ小さな子供のころから「自分という人間は結局のところ何かの外部の力によって定められて生きているのだ」という、奇妙なほど明確な思いを抱いていた。あるいはそれは、彼の右の頬についている鮮やかな青いあざのせいかもしれなかった。
・・・しかし成長するにつれて、彼はその顔のあざを、切り離すことのてきない自分の一部として、「受け入れなくてはならないもの」として静かに受け入れる方法を少しずつ覚えていった。そのことも彼の運命に対する宿命的諦観を形作った要因のひとつであったかもしれない。

338ページ
そのねじの音に耳を澄ませているうちに、さまざまな断片的なイメージが彼の前に現われて、そして消えていった。あの若い主計中尉はソビエト軍に武装解除されたあとで中国側に引き渡され、この処刑の責任を問われて絞首刑に処される。伍長はシベリアの収容所でペストで死ぬ。

「ねじまき鳥」というのは、いったい何なのだろう?

342ページ
この「ねじまき鳥クロニクル#8」がシナモンによって語られた物語であることはまず間違いがなかった。彼は「ねじまき鳥クロニクル」というタイトルのもとに16の物語をコンピューターの中に書き記し、僕はたまたまその中の8番目の物語を選択して読んだわけだ。

344ページ
おそらくシナモンは自分という人間の存在理由を真剣に探しているのだ。
彼はそれを自分がまだ生まれる以前に遡って探索していたに違いない。

ヘーゲルの観念論を放棄した時に宗教や人間の存在理由は無くなってしまったのだろう。もちろん私たちが生きていく上ではそれは必要である。理由がないのに生きるのは苦痛なのだ。存在理由を求めてしまうというのも宿業のひとつだろう。

345ページ
しかしそれが偶然の一致であるにせよないにせよ、シナモンの物語では「ねじまき鳥」という存在が、大きな力を持っていた。人々はとくべつな人間にしか聞こえないその鳥の声によって導かれ、避けがたい破滅へと向かった。そこでは、獣医が終始一貫して感じ続けていたように、人間の自由意志などというものは無力だった。

「ねじまき鳥」の声を聞き、「避けがたい破滅」を感知する能力を「僕」は備えている。
「ねじまき鳥」もただ「破滅」を感知して鳴いているだけなのだろうか?

360ページ
おそらくナツメグとシナモンは僕との関係を断ってしまうことにしたのだ。あの奇妙な母子は沈みかけた船を離れて、どこか安全な場所に逃れたのだろう。そのことは僕を意外なくらい悲しい気持ちにさせた。まるで実の家族に最後で裏切られたような気持ちに。

369ページ
「それであなたはそれをネタにしてうまく馬を乗り換えたというわけですね?」と僕は訊いた。

382ページ
加納クレタの生んだ子供の名前はコルシカです、と加納マルタは夢の中で言った。

391ページ
それは誰あろうハルハ河の対岸でモンゴル人に山本の皮を剥がさせたあのロシア人の将校だったのです。
394ページ
「それは皮剥ぎボリスだよ」と彼は言いました。

408ページ
そして覚えのある花粉の鋭い匂いが僕の鼻をついた。僕はあの奇妙なホテルの部屋の中にいた。僕は顔をあげ、あたりを見回し、息をのみこんだ。
壁を抜けたのだ。

413ページ
彼は前と同じようにロッシーニの『泥棒かささぎ』序曲を吹いていた。

448ページ
「あなたは誰ですか?」
顔のない男は、何かを引き渡すように僕の手の中にそっとライトを置いた。「私は虚ろな人間です」と男は言った。

453ページ
「実を言うと、僕は君のことをクミコだと思っている。最初は気がつかなかったけれど、だんだんそう思うようになった」

457ページ
それは君が僕の側の世界から、綿谷ノボルの側の世界に移ったということだ。

459ページ
「・・・そして彼は今その力を使って、不特定多数の人々が暗闇の中に無意識に隠しているものを、外に引き出そうとしている。それを政治家としての自分のために利用しようとしている。それは本当に危険なことだ。彼の引きずりだすものは、暴力と血に宿命的にまみれている。そしてそれは歴史の奥にあるいちばん深い暗闇にまでまっすぐ結びついている。それは多くの人々を結果的に損ない、失わせるものだ」

ひとりの悪人が、みんなが「無意識に隠しているもの」を引きずり出したなら、その責任はすべて「ひとりの悪人」に帰せられるのだろうか? そいつじゃなくても別の悪人がいずれは引きずり出してしまうのではないだろうか? そして引きずり出された方は被害者なのだろうか? そういうのも「相互作用」ではないのだろうか?
個々の人間の相互作用の結果として、ひとりの悪人が生み出される場合だってあるだろう。その悪人にしたって「白いぐしゃぐしゃしたもの」を抱えているのだろう。

460ページ
「・・・でも君にはぼんやりとわかっていた。綿谷ノボルが何らかの方法でお姉さんを汚して傷つけたということがね。そして自分の血筋の中に何か暗い秘密のようなものがひそんでいて、あるいは自分もそれと無縁ではいられないかもしれないということがね」

470ページ
完璧なスイングだった。バットは相手の首のあたりを捉えた。骨の砕けるような嫌な音が聞こえた。三度目のスイングは頭に命中し、相手をはじき飛ばした。男は奇妙な短い声を上げて勢いよく床に倒れた。彼はそこに横たわって少し喉を鳴らしていたが、やがてそれも静まった。僕は目をつぶり、何も考えず、その音のあたりにとどめの一撃を加えた。そんなことをしたくなかった。でもしないわけにはいかなかった。憎しみからでもなく恐怖からでもなく、やるべきこととしてそれをやらなくてはならなかった。

ここでは「僕」の方が、彼に襲いかかる「運命」のようなものになっている。
相対的ということかもしれない。

471ページ
「それを見ちゃいけない」、誰かが大声で僕を押しとどめた。奥の部屋の闇の中からクミコの声がそう叫んでいた。
・・・僕はそれが何なのかを知りたかった。この闇の中心にいたものの姿を、僕が今ここで叩き潰したものの姿を、自分の目で見てみたかった。

477ページ
笠原メイ、君は肝心なときにいったいどこで何をしているんだ?

488ページ
「シナモンがあなたをここまで運んできたのよ」とナツメグが言った。

493ページ
彼女は僕にこの子供の名前はコルシカで、その半分の父親は僕で、あと半分は間宮中尉なのだと言った。

498ページ
それは私が兄である綿谷ノボルを殺さなくてはならないということです。

507ページ
「もし僕とクミコとのあいだに子供が生まれたら、コルシカという名前にしようと思っているんだ」と僕は言った。

加納クレタはクミコの影だから、子供が生まれたらコルシカという名前にするのは、自然なことかもしれない。だがコルシカは、あのナポレオンの出身地ということだ。クミコが呪われた血を抱えていて、生まれてきた子供がナポレオンのような「化け物」であるとしたなら、「それを見ちゃいけない」と闇の中で叫ぶクミコの気持ちはよくわかる。彼女は「化け物」を産みたくはなかったのだ。それを見てほしくなかったのだ。

509ページ
「さよなら、笠原メイ」と僕は言った。さよなら、笠原メイ、僕は君が何かにしっかりと守られることを祈っている。

「笠原メイ」をしっかりと守るべきなのは「僕」かもしれない。
どうして守ってあげないのだろう?

国境の南、太陽の西

2015-08-08 00:05:18 | 村上春樹
「島本さん」は「僕」の心にずっと住み続けていた。
もっとも深い記憶に刻み込まれたその姿は、男性を支配し続け、ギャツビーにとってのデイジーのように破滅をもたらすことすらある。その女性は、実際の美点とは関係なく、実際の彼の生活とも関係なく、彼の心の中に住み続けてきた。そういうことを種族保存の本能で説明しようとしてもうまくいかない。子供の頃に刻み込まれた記憶、焼き付けられた心象風景といったものは子孫を残すこととはあまり関係がないようだ。私たちは、遺伝子が目論んだ本来の目的から逸脱しまう、ややこしい存在なのだろう。乙女の絵姿と共に、満たされない欲望、渇ききった心もまた住みついてしまった。私たちはそのような理不尽なものを死ぬまで抱えているのだろう

8ページ
僕の通っていた学校では、兄弟を持たない子供は本当に珍しい存在だった。小学校の六年間を通じて、僕はたったひとりの一人っ子にしか出会わなかった。たったの一人だ。
11ページ
僕らは本を読むのが好きだった。音楽を聴くのが好きだった。猫が大好きだった。他人に対して自分の感じていることを説明するのが苦手だった。
17ページ
クラシック音楽の他に、島本さんの家のレコード棚にはナット・キング・コールとビング・クロスビーのレコードが混じっていた。僕らはその二枚のレコードも本当によく聴いた。
21ページ
「ある時間が経ってしまうと、いろんなものごとがもうかちかちに固まってしまうのよ。セメントがバケツの中で固まるみたいに。そしてそうなると、私たちはもうあと戻りできなくなっちゃうのよ。つまりあなたが言いたいのは、もうあなたというセメントはしっかりと固まってしまったわけだから、今のあなた以外のあなたはいないんだということでしょう?」
22ページ
ナット・キング・コールが『国境の南』を歌っているのが遠くの方から聞こえた。

そんなふうにして子供の頃の「僕」と島本さんは心を寄せ合っていた。仲が良かったからいつもいっしょに居たのか、いつもいっしょに居たから仲が良くなったのか、ある傾向が生じると、結晶が一定の方向に成長していくように、二人は同じ嗜好を持ち、同じ思考に慣れ、同じ志向へと向う。そして二人が過ごした時間が十分であるなら、あなたというセメントは私というセメントも同じように固まるのかもしれない。お互いの心が変らぬなら、お互いをずっと理解し続けることができるかもしれない、死ぬまでずっと。だが変らないままいることなんてできるのだろうか? ある種の人間は変化なしには生きられない。退屈してしまった「僕」は違う本を読み、違う音楽を聴いているうちに別の「僕」になってしまうこともあるだろう。変らぬことを嘆き、変ってしまったことを嘆く。どちらに転んでも嘆きしかなくなるだろう。やがて再会する「僕」と「島本さん」は変らぬことに喜びを覚える。
そしてそれが落とし穴であることに気付く。

24ページ
小学校を出ると、僕と彼女は別の中学校に進んだ。いろんな事情があって、僕はそれまで住んでいた家を出て、違う町に移った。

そんなふうにして「僕」と島本さんはいっしょに居る理由を失くしてしまった。引っ越ししたから会えなくなったというのではなくて、ただ会いに行かなくなったというだけのことだ。そんな経験は誰にでもあるのかもしれない。
小学校の頃に隣の席に座っていた女の子に年賀状をもらったりバレンタインデーのチョコレートをもらったりして有頂天になったことがある。その子は今、どうしているだろう。私は違う町の違う中学校に移った。彼女に住所すら告げず、翌年の年賀状も送らず、姿を消してしまった。大人になって、その町を訪れたことがある。彼女の家の表札には父親らしき人物の名が残っていた。彼女は町を去ってしまったのだろう。おそらくは私の知らないどこかの町で子供を育てているのだろう。大人になってから訪れたその町は、なんとなく薄汚れていた。瑞々しさが無くなっていた。あるいは子供だけが町の良さに気付き、新鮮な気持ちで常に何かを発見し、楽しく暮していけるのかもしれない。
薄汚れてしまったのはきっと私の方なのだ。

30ページ
イズミというのが彼女の名前だった。素敵な名前だね、と最初に会って話をしたときに僕は彼女に言った。
59ページ
彼女と出会ったとき僕は十七歳の高校三年生で、相手の女性は二十歳の大学二年生だった。そして彼女はこともあろうにイズミの従姉だった。
64ページ
しかし実際にはそうはならなかった。
実際には僕は彼女をひどく傷つけてしまった。僕は彼女を損なってしまった。

そんなふうにして「僕」はイズミを傷つけ損なってしまった。
ここでは綺麗ごとで済ませられる程度の過去の過ちにしか聞こえないが、
イズミについての話には続きがある。

78ページ
僕は年末の渋谷の雑踏の中で、島本さんにそっくりな脚のひきずり方をする女性を見かけた。
88ページ
それからテーブルの上に置かれたその封筒を手に取って、中をのぞいてみた。封筒の中には一万円札が十枚入っていた。
90ページ
それは本当に起こったのだ。僕は時々その封筒を机の上に置いてじっと眺めた。それは本当に起こったのだ。

事実の積み重ねによって、物証の積み重ねによって、記憶の積み重ねによって私たちは「それが本当に起こった」のだと信じることができる。封筒がなくなってしまえば、事実は、存在は、覆されてしまうかもしれない。誰もそれが本当にあったことであると断言できなくなる。あるいはそのことを録画していたなら、それが本当にあったのだと確信できるかもしれない。だがすべてを録画したところで、すべてを再生して見ることはできない。繰り返されぬ経験は忘れ去られる。私たちはそんなふうに作られている。

91ページ
三十になって僕は結婚した。僕は夏休みに一人で旅行をしているときに彼女と出会った。

95ページ
結局僕はそのビルの地下でジャズを流す、上品なバーを始めることにした。
・・・
店は予想を遥かに越えて繁盛し、二年後にはやはり青山にもう一軒別の店を出したなんだか。

98ページ
でも今僕がいる世界は既に、より高度な資本主義の論理によって成立している世界だった。僕は知らず知らずのうちにその世界にすっぽりと呑み込まれてしまっていたのだ。・・・これは僕の人生じゃないみたいだな、と。まるで誰かが用意してくれた場所で、誰かに用意してもらった生き方をしているみたいだ。いったいこの僕という人間のどこまでが本当の自分で、どこから先が自分じゃないんだろう。それについて考えれば考えるほど、僕にはわけがわからなくなった。

○○主義は受け入れられないと言ったところで誰も聞いていない。また、△△主義がいいと言ったところで誰も聞いていない。資本主義というのは顧客優先に撤するものであって、つまりは相手の意向に沿うことが原則であり、誰もが自分の主張を押し殺して生きているということになる。そうすると「これは僕の人生じゃない」と思うのは当然なのだ。相手の意向に左右されたくないと願う自分が「本当の自分」であるならば資本主義の中でしぶとく生き延びる自分とは一致するはずがない。どちらも自分であるような気もするし、そもそも「自分」なんてものは幻想であるような気もする。もし、寿命があと一年しかないとしたらどうするだろうか?
「本当の自分」なんていないかもしれないが、まもなく自分が失われてしまうという状況が、「本当の自分」を生み出すこともある。

101ページ
でも何度かその葉書を見ているうちに、僕はそこに彼女の硬く冷たい感情を読み取ることができた。イズミはまだ僕のやったことを忘れてもいないし、許してもいないのだ。そして彼女はそのことを僕に知らせたかったのだ。
109ページ
「あのマンションの子供たちの多くは彼女のことを怖がっているんだ」

「僕」のやったことで、イズミというセメントは歪な固まり方をしてしまった。人間は他人に対して悪を為すことができる。意図的にそうしたわけではなくても結果的にそうなってしまう。たとえば私だって、ずいぶんとひどいことをしてきた。どうしてそうなってしまったのか、よくわからない。欲望に流されてしまったということかもしれない。強い意思があればそんなことは起こらなかったのかもしれない。誰かの欲望であるとか考え方であるとか、そういうものを押し付けられるのはいつも近くにいる他者だ。誰も許されないし、誰も許しはしない。

111ページ
「・・・なあ小学校の頃にウォルト・ディズニーの『砂漠は生きている』っていう映画見たことがあるだろう?」
「あれと同じだよ。この世界はあれと同じなんだよ。・・・ひとつの世代が死ぬと、次の世代がそれにとってかわる。それが決まりなんだよ。みんないろんな生き方をする。いろんな死に方をする。でもそれはたいしたことじゃないんだ。あとには砂漠だけが残るんだ。本当に生きているのは砂漠だけなんだ」

115ページ
彼女は十一月初めの月曜日の夜に、僕の経営するジャズ・クラブのカウンターで、ひとり静かにダイキリを飲んでいた。
117ページ
「素敵なお店ね」
118ページ
「島本さん」と僕は乾いた声で言った。
「思い出すのにけっこう時間がかかったのね」

そんなふうにして「ロビンズ・ネスト」に島本さんはやってきた。

126ページ
「私もあなたに会いたかったのよ」と彼女は言った。「でもあなたがこなかったのよ。それはわかっているでしょう?」

138ページ
でも二月の初めの、やはり雨の降る夜に彼女はやってきた。

145ページ
僕は今の仕事が好きだよ。僕は今二軒の店を持っている。でもそれはときどき、僕が自分の頭の中に作りだした架空の場所にすぎないように思えることがある。それはつまり空中庭園みたいなものなんだ。僕はそこに花を植えたり、噴水を作ったりしている。とても精妙に、とてもリアルにそれを作っている。そこに人々がやってきて、酒を飲んで、音楽を聴いて、話をして、そして帰っていく。どうして毎晩毎晩多くの人が高い金を払ってわざわざここに酒を飲みに来ると思う? それは誰もがみんな、多かれ少なかれ架空の場所を求めているからなんだよ。精妙に作られて空中に浮かんだように見える人工庭園を見るために、その風景の中に自分も入り込むために、かれらはここにやってくるんだよ」

147ページ
「でもあなたにはわかってないのよ。何も生み出さないというのが、どんなに空しいものかということが」
149ページ
「あなたどこか川を知らない?」
161ページ
その袋の中には小さな壺が入っていた。彼女はその壺の紐をほどき、そっと蓋を開けた。
そしてしばらくのあいだ中をじっとのぞきこんでいた。
164ページ
「あれは私の赤ん坊の灰なのよ。私が生んだ、ただ一人の赤ん坊の灰」と島本さんは独り言を言うように言った。

仕事に就いたこともないし、赤ん坊はすぐに死んでしまった。彼女は二重の意味で何も生み出さない空しさを抱えている。やっつけ仕事であったり、「雪かき」や「砂漠に水を撒く」ような仕事であったとしても、何もしないよりは救いがある。どんなにつまらない人生であったとしても、子供を育てていれば何かしらの救いはある。島本さんにはそういうものが一切ない。主人公が彼女のことを知りたいと言っても何も話さない。彼女のイメージのために生活臭を消しているというよりは、本当に語るべきものがないという設定かもしれない。その方がいっそう寂しい。

191ページ
それから僕はイズミのことをふと思い出した。おそらくその男が有紀子を深く傷つけたのと同じように、僕もイズミを深く傷つけたのだろう。有紀子はそのあとで僕にめぐり会った。でもおそらくイズミは誰にもめぐり会わなかったのだろう。

202ページ
「それに私は男の子たちの足手まといになるのが嫌だったの」と彼女は言った。

204ページ
「ある種のものごとは、後ろ向きには進まないのよ。それは一度前に行ってしまうと、どれだけ努力をしても、もうもとには戻れないのよ。もしそのときに何かがほんの少しでも狂っていたら、それは狂ったままそこに固まってしまうのよ」

ここで「固まってしまう」というのは、21ページの「あなたというセメントはしっかりと固まってしまったわけだから」というところに対応しているのだと思う。人格形成であるとか、考え方の傾向であるとか、そういうもののことだ。何かが原因で狂ってしまったなら、「狂ったまま固まってしまう」のだ。そのようなものを抱えてずっと生きていくことになるのだ。十字架を抱えて生きるとか、地獄を抱えて生きるというのは、おそらくはそういうことなのだ。その十字架も地獄も自分自身であるので決して逃れることはできない。そんなこととは無関係の人と話していて愕然とすることがある。彼らは地獄があることなんて知らないのだ。

233ページ
「悪い星のもとに生まれた恋人たち」と島本さんは言った。「まるでなんだか私たちのために作られた曲みたいじゃない?」

241ページ
「あなたが運転しているのをこうして横で見ていると、私ときどき手を伸ばしてそのハンドルを思い切りぐっと回してみたくなるの。でもそんなことをしたら死んじゃうでしょうね」

243ページ
「国境の南、太陽の西」と彼女は言った。
「なんだい、その太陽の西っていうのは?」
「そういう場所があるのよ」と彼女は言った。

245ページ
「わからないわ。何かよ。東の地平線から上がって、中空を通り過ぎて、西の地平線に沈んでいく太陽を毎日毎日繰り返して見ているうちに、あなたの中で何かがぷつんと切れて死んでしまうの。そしてあなたは地面に鋤を放り出し、そのまま何も考えずにずっと西に向けて歩いていくの。太陽の西に向けて。そして憑かれたように何日も何日も飲まず食わずで歩きつづけて、そのまま地面に倒れて死んでしまうの。それがヒステリア・シベリアナ」

247ページ
「・・・だからあなたは私を全部取るか、それとも私を取らないか、そのどちらかしかないの。それが基本的な原則なの。・・・でももしあなたがそういうのは嫌だ、二度と私にどこにも行ってほしくないというのであれば、あなたは私を全部取らなくてはいけないの。私のことを隅から隅まで全部。私がひきずっているものや、私の抱え込んでいるものも全部。そして私もたぶんあなたの全部を取ってしまうわよ。全部よ。あなたにはそれがわかっているの? それが何を意味しているかもわかっているの?」
「よくわかっているよ」と僕は言った。

256ページ
それは僕が生まれて初めて目にした死の光景だった。僕はそれまでに身近な誰かを亡くしたという体験を持たなかった。

身近な人が次々と死んでいく。
「死は生の対極としてではなく、その一部として存在している」という「ノルウェイの森」の主題が繰り返されているのではないかと思う。
「あなた自身」の中で死は、現存在が現に存在しなくなることの可能性として成長していく。そのような死を抱えた部屋を「僕」は持っている。おそらくはみんな持っている。
そんなことを「ダンス・ダンス・ダンス」の感想に書いた。
この作品でも繰り返されているのだと思う。

259ページ
「僕は君のことを知りたいんだ」と僕は島本さんに言った。

261ページ
明日はもちろんやってきた。でも目が覚めたとき、僕は一人きりだった。

268ページ
「私が何を考えているか、あなたには、おそらく、わからない、と思う」と有紀子は言った。彼女は子供に何かを説明するときのようにゆっくりと言葉をひとつひとつ丁寧に発音していた。

今までの作品では主人公が思い悩むだけだったが、ここのところでそうした独りよがりの世界観に釘が刺される。自分のことを理解してもらわなくてもいいと考えている人間に対して
あなたこそ誰も理解することができないのだと通達される。

272ページ
「そして私もたぶんあなたの全部を取ってしまうわよ。全部よ。あなたにはそれがわかっているの? それが何を意味しているかもわかっているの?」

このあと説明があるように「あなたの全部を取る」というのは「あなたといっしょに死ぬ」ということだ。だがそのことを口にした時点で、彼女にそうする気はないのだろう。

275ページ
それはもうかつてのあの精妙で鮮やかな色彩を帯びた空中庭園ではなかった。どこにでもあるただのうるさい酒場だった。すべては人工的で、薄っぺらで、うらぶれていた。そこにあるのは酔っぱらいから金をむしりとることを目的として作り上げられた、ただの舞台装置に過ぎなかった。

145ページの記述と相反する。自分を忘れることができる架空の場所、夢とかファンタジーとか、いつもの自分が嫌で嫌でたまらない人、ポジティブに問題解決に取り組んではいるが本当はそんな自分が好きではない人、彼らは空中庭園とか人工庭園を求めるのだ。そしてそんなまがい物を差し出して夢を売る輩というのは「酔っ払いから金をむしりとっている」だけなのだ。あるいは経営者が自信に満ちている場合は空中庭園だが、内省的になると金をむしりとる舞台装置だと思うのかもしれない。都合の良いように思い込んでいる方がハッピーだろう。。

280ページ
でもその封筒が消えてしまったという事実を僕が認識し、僕の意識の中でその不在と存在とが位置をはっきりと交換してしまうと、封筒が存在するという事実に付随して存在していたはずの現実感も、同じように急速に失われていった。

今から百年後には、この小説があったことも忘れ去られているかもしれない。百年後の人々は私たちが喜んだことも悲しんだことも知らないし興味がないだろうし、ましてや何を認識していたか、何を事実だと思っていたか、そんなことはどうでもいいのだろう。私たちだって、百年前の人々が何を考えていたかだなんて知らないし興味がない。歴史上の人物についてのドラマを見たり、歴史小説を読んだりして、なんとなく自分がすごい人物の考え方に触れられるような気がしてなんとなくいい気分になっている。だが実際に、市民のひとりひとりが何を考え死んで行ったか、そんなことはわからないのだ。そうした些細な事実を拠り所にしてようやく成立する現実感というのは、おそらくは空想と紙一重なのだろう。自分自身の中ですら急速に失われてしまうのだ。

282ページ
ふと目をあげたとき、そこにはイズミの顔があった。
283ページ
彼女の顔には表情というものがなかったのだ。いや、それは正確な表現ではない。おそらく僕はこう言うべきだろう。彼女の顔からは、表情という名前で呼ばれるはずのものがひとつ残らず奪い去られていた、と。
285ページ
イズミはそこで僕を待っていたのだ、と僕は思った。彼女はいつもどこかで僕のことを待っていたのだ。どこかの街角で、どこかのガラス窓の奥で、彼女は僕がやってくるのを待っていたのだ。

「僕」の店が雑誌に載って島本さんが訪れてきたくらいだから、イズミが「僕」に近づいてきたとしても不思議はない。「僕」に損なわれてしまったイズミはずっと復讐の機会を窺っていたのだろうか?
復讐ということを明確に意識していなかったにしても、彼のまわりに居たかったのではないかと思う。表情のない、あるいは表情と呼ぶべきものがない彼女の様子は、すべてのものを呑み込もうとする「死」を象徴しているようだ。「あなたの全部を取る」と語る島本さんにも、その傾向はある。快活であったイズミは表情なき死神に転落してしまったが、そして島本さんは消えてしまう。

291ページ
でも結局のところ、僕はどこにもたどり着けなかったんだと思う。僕はどこまでいっても僕でしかなかった。僕が抱えていた欠落は、どこまでいってもあいかわらず同じ欠落でしかなかった。
295ページ
「・・・でもね、それにもかかわらず、何かがいつも私のあとを追いかけてくるの。真夜中に私は汗でぐっしょりになってはっと目が覚めるのよ。その、私が捨てたはずのものに追いかけられて。何かに追われているのはあなただけではないのよ。何かを捨てたり、何かを失ったりしているのはあなただけじゃないのよ」
299ページ
誰かがやってきて、背中にそっと手を置くまで、僕はずっとそんな海のことを考えていた。

今までの作品では喪失感は「僕」固有のものだったが、本作では「私たち」の喪失感になっているのではないかと思う。だが「私たち」とは言っても共有するところまではいかない。
「背中にそっと手を置いた」のが誰かはわからない。喪失感を共有しようとする「誰か」かもしれない。

東芝的なもの

2015-08-04 00:05:11 | Weblog
【なつかCM】

「経営陣は実現不能な目標を設定するだけ。あとは「従順」や「忠誠」を代名詞とする
日本の企業文化に任せておくだけでよかった。そこではヒエラルキーの下層にいる人間たちが
上からの言いつけを死に物狂いで実行するのだから」
そんなふうなことが書かれているが、それは何処にでもある風景だと、
東芝に限ったことではないと考えている人がたくさんいるだろうし、
粉飾と言わずに「不適切会計」と報じていることに違和感を持つ人もたくさんいるだろう。
報道のあり方自体がすでに東芝的であり、歴代社長の確執がどうとかいったことくらいしか書けない。
上場廃止にするとせっかく上向いてきた株価やら経済に水を差すのだし、
メディアにおいては重要なスポンサーである東芝さまを粉飾と報じることは御法度だし、
上司の意向に沿わないし、自分の出世を含めた人生設計にそぐわないということなのだろう。
それは日本に固有のことかと言えばそういう気はしない。
いつの時代も、どの国家であっても、権力者の意向に沿った情報操作が行われてきたのだし、
つまりは情報操作を行えるということが権力者の証ということなのだ。
この種の報道の行き着く先は大衆のガス抜きであって、
「不正を行った社員は解雇されてしまうが、不正を行った社長は辞任で済むのは如何なものか?」と
書いたりはするが、いずれみんな飽きてしまうのだ。
そして司法もまた権力の一部であり、相互の権力に干渉しないという程度にしか機能しない。
お互いの地位とか、ヒエラルキーの上層にいる人間がもらえることになっている年金には干渉しない。
そうすることで自分たちの老後は安泰ということになるだろう。
そんなふうにして反吐が出るほど嫌な奴らが権力を持っているのが通常の社会であり、
その権力は元の権力者の地位を保証する者に継承されていく。
そういうのが羨ましければ、明日からは心を入れ替え、上司に向かって全力で尻尾を振るべきだろう。
えっ、もうそうしている?・・・
失礼しました。

そういうわけで今回の教訓は何かというと、
「明日を作る技術の東芝」とか「エネルギー(原子力事業)とエレクトロニクス(半導体事業)の東芝」
といった企業の業績を上げることは「実現不能な目標」になってしまったということではないかと思う。
あるいはシャープというこれまた大企業が底なしの業績不振に陥っていることも同じ事情による。
かつて農業に従事する人口が養えなくなったのと同じように、
エネルギーやらエレクトロニクスに従事する人口が養えなくなって来たということになる。
「20万人の従業員が一丸となれば会社存亡のこの危機をきっと脱出できる」なんて気合だけではどうにもならない。
江戸幕府が抱えていたような不労階級を維持することは出来ない。
将軍の意向に沿っていれば自らの地位も安泰なんてことではなくて
上司の意向に沿っていても共倒れになっしまうというようなことになって来ている。
いまさら転職なんて出来ないというのが大多数の意見だと思うが、
余っているのに米を作っても仕方がないとか、海外の大規模農業に比較して価格競争力がないとか、
そういった言葉が製造業に撥ね返って来ている。
そんな先の見えない時代に役立つ技能というのはエネルギーとかエレクトロニクスではなくて
コミュニケーション能力ということだ。

美は、細部に宿る。

コンチェルトの夕べ

2015-08-03 00:05:11 | 音楽
セントラル愛知交響楽団「コンチェルトの夕べ」に行って来た。
ピアノ協奏曲3曲のセットで税込み3,000円、一曲あたり千円でお買い得だ。
曲目は以下の通り。

モーツァルト:ピアノ協奏曲第27番変ロ長調 K.595(ピアノ/田中晴子)
ショスタコーヴィチ:ピアノ協奏曲第2番ヘ長調 Op.102(ピアノ/増田純奈)
ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第5番変ホ長調 Op.73「皇帝」(ピアノ/竹内沙奈)

会場は名フィルのコンサートと同じ愛知県芸術劇場コンサートホールで全席自由だった。
いつもは3階席で聴いているが、今回は割と良い席で聴けた。
音楽の才能はないので演奏がどうとかはいうことは書かない。(というか書けない。)
聞き分けられる耳がないので料金の高い海外のオーケストラの演奏に行ったりはしない。
名フィルの定期演奏会にしても1回あたり3,000円もかかっていない。
あと、モノラル録音のフルトヴェングラーがどうとかいうのも興味がない。
名盤のベルリンフィルより生の名古屋フィルの方が好きだ。
好きな曲であればセントラル愛知交響楽団も有りです。
今回、初めてですが・・・

モーツァルトの曲は久しぶりに聴いた。
最近はあまり聴かないが音楽ファンであればモーツァルトを無視することはできないので
けっこうたくさんの曲を知っている。ピアノ協奏曲第27番も覚えていた。
ピアノ協奏曲としてはいちばん最後のもので白鳥の歌という雰囲気を持っている感じがする。

ショスタコーヴィチのピアノ協奏曲第1番を名フィルで聴いたことがあるので、
どういうわけか二つしかない彼のピアノ協奏曲を二つとも聴くことになってしまった。
モーツァルトやベートーヴェンは生涯を追いかけるべき作曲家だと思うが、
ショスタコーヴィチもそういうところがあってけっこうたくさん知っている。
ソ連という国家を相手にしたたかに生きた側面もあるとは思うが、
感情を押し殺しながら生きているといつか爆発するものであって、
その瞬間の彼はハジけているのだと思う。

ベートーヴェンの「皇帝」を生で聴くのも初めてだ。
冒頭でティンパニが外したような気がしてすこしがっかりした。
本日登場したピアニストの中で一番小柄な人がこの大曲を演奏していた。
何でこの曲が「皇帝」と呼ばれるようになったのか知らないが、
あらゆるピアノ協奏曲の中で最も堂々としていて威厳があるので、
そんな名称がついてしまったのかもしれない。
ピアノ三重奏曲「大公」がその分野の最後の曲となったように
「皇帝」はベートーヴェン最後のピアノ協奏曲となった。
極めてしまったことに興味を持たない性格なのだろう。
そんな生き方をしていると決して長生きできないのだろうが、
そういう人の曲はとても長生きなのだ。

名古屋フィル#49展覧会の絵

2015-08-02 00:05:51 | 音楽
第426回定期演奏会、曲目は以下の通り
リムスキー=コルサコフ: スペイン奇想曲 作品34
ムソルグスキー[ラスカトフ編]: 歌曲集『死の歌と踊り』[日本初演]
藤倉大(名フィル コンポーザー・イン・レジデンス):
歌曲集『世界にあてたわたしの手紙』
[委嘱新オーケストレーション・バリトン+オーケストラ版 世界初演]
ムソルグスキー[ラヴェル編]: 組曲『展覧会の絵』

もともと「展覧会の絵」はムソルグスキーが作曲したピアノ曲だが、
ラヴェルが編曲したオーケストラ版の方が普及することになり、
演奏会向けの主要なレパートリーのひとつになっているのではないかと思う。
タイトルからして色彩に富んだ曲であり、その色彩の表現には個々の楽器の音色が適している。
そして絵を見て触発される心象が音になって返って来るという不思議な体験が可能になっている。
この曲も前回の「ボレロ」と同様に音色や強弱や音の重なりといったものは、
コンサートホールでなければ聴き取ることが出来ない。
普段、MP3プレーヤーで我慢している私たちはそういう体験を求めて出掛けているのだ。
そして押し寄せてくる音に圧倒されて震えてしまったりしている。
本の中にすっと入って自分の存在を忘れてしまう読書体験と同じように
音の中に埋没して感覚と一体となるような機会を私たちは望んでいる。
そうした体験を提供してくれる場はあまりない。

ダンス・ダンス・ダンス

2015-08-01 00:05:05 | 村上春樹
「ダンス・ダンス・ダンス」は、いるかホテルの回想から始まる。すっかり忘れていたが、この作品は「羊をめぐる冒険」の続きだった、つまり四部作だったということになる。
鼠が化けて出て来るわけではないが、羊男が影のような役割で登場する。完全な耳を持つ女性も回想や夢の中で登場する。そうした「彼」や「彼女」のキャラクターからは固有性が失われ、「僕」の付属物か分身のような様相を帯びている。そして前作に引き続いて何人かの女と寝る。相手はプロであったり都合よく「僕」の魅力に惹きつけられる素人だったりする。プロと寝る場合だって自分からはガツガツとはしない。誰かが都合よく女を用意してくれる。まとめてしまうと、まわりの人間は自己の付属物のようであり、いろんなことが自己都合に満ちていると言えなくもない。あるいはここで想定されている読者とは、そういう身勝手な人間に似ているのだろう。
・・・「ノルウェイの森」のラストで「僕は今どこにいるのだ?」というシーンがあったが、その回答であるかのように「ここは僕の人生なのだ」という台詞でこの小説は始まる。「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」や「ノルウェイの森」のような明確なストーリーは設定されない。札幌とかハワイとか場当たり的に物語は進行する。白骨死体が出て来るまでとにかく場当たり的に進行する。白骨死体が六体というところで、ようやく物語は終結へと向う。今までに何人死んだか、あと何人死ぬのか、そういうことだ。その数は六に近づくに違いない。だが六に達してしまうと緊張感が途切れてしまうので、六になる前に終るのだろう。
・・・最後になって、ひとまわりして現実に戻ってきたと書かれている。「やれやれ」と言いたくなる。「現実」に引き戻されるのだか、「現存在」が知らぬ間に世界に投げ出されているのだか、そういうことで決着しようとしている。「こちらの世界」という場合は現実の世界で「そちらの世界」という場合は死者の世界か可能性の世界か幻想の世界か、いずれにしても私たちが属していない世界のことであるらしい。著者は「そちらの世界」を引きずり回したあげく「こちらの世界」で生きることを「僕」に選ばせる。「やれやれ」そんなことはあたり前ではないだろうか?

[上巻]

8ページ
ここは僕の人生なのだ。僕の生活。僕という現実存在の付属物。特に認めた覚えもないのにいつの間にか僕の属性として存在するようになったいくつかの事柄、事物、状況。

「僕という現実存在」の付属物なのか、僕という「現実存在の付属物」なのか一瞬判断に迷った。後に続く文章から著者は前者を指しているのだと思われるが、もしかすると「自我」が「存在」の付属物であるかもしれない。人生を積み重ねるにつれて記憶素子は固着し、属性は固定され、状況における判断は一定の傾向を持つようになる。そういうものを私たちは「僕」とか「自我」と呼んでいる。

30ページ
僕は三年半の間、こういうタイプの文化的半端仕事をつづけていた。文化的雪かきだ。

たとえば三年前も一生懸命仕事をしていたのだろうが、何をしていたのか覚えていないし、その時その仕事自体の価値は確かにあったのだろうが、時の流れと共に、その意味は失われていく。そうやって私たちは過去から未来へ「雪かき」を続けている。その時に何かしらの意味はあったのだろうが、過ぎ去ってしまうとみんな忘れてしまう。お互い要求し合い、睡眠時間を削り、休日を返上してまで、やがて忘れられるであろう「雪かき」をするのだ。それも私たちの場合はただひたすらに「エコノミックな雪かき」でしかない。「文化的雪かき」の方がまだ救いがありそうだ。

34ページ
彼はもう死んでしまった。
あらゆる物を抱え込んで、彼は死んでいった。
入り口と出口

入り口と出口、1973年のピンボール、出口がないという話はもう出てこない。

41ページ
我々は高度資本主義社会に生きているのだ。そこでは無駄遣いが最大の美徳なのだ。政治家はそれを内需の洗練化と呼ぶ。僕はそれを無意味な無駄遣いと呼ぶ。考え方の違いだ。でもたとえ考え方に相違があるにせよ、それがとにかく我々の生きている社会なのだ。それが気にいらなければ、バングラデシュかスーダンに行くしかない。

消費を継続しなければ産業が維持できない、つまり私たちは給料がもらえなくなる。この本が書かれた時点でそうであったし、今ではいっそう自転車操業的になってしまった。「それがとにかく我々の生きている社会なのだ」ということであり、そういう社会でしか私たちは生きていけないことになる。もっと違う社会あるいは世界もあったのだろうが、列強が植民地を拡大しようとして衝突を繰り返す世界であったり、農民が汗水垂らして収穫した米を無産階級が当然のように召し上げる世界であったり、誰もが気に入るような世界なんて存在したこともなければ存在する予定もないのだろう。原子力発電をなくそうとか、もしかしたらそういうことぐらいは変えることができるかもしれない。生産と消費の規模を加速度を増して拡大している資本主義は何処にたどり着こうとしているのだろうか?
風船が膨らんでいるうちは誰も異論を差し挟んだりはしない。風船が破裂した時にはそれどころではないのでやはり誰も語りはしない。

44ページ
でも結局のところ僕は彼女を求めてはいなかったのだ。彼女が去ってしまった三日ばかり後で、僕はそのことをはっきりと認識した。そう、結局のところ彼女の隣にいながら僕は月の上にいたのだ。

物語の最初では求めていなかった「僕」は最後になって求めるようになる。
その違いが、決定的だということだろうか?

55ページ
お前は違う、と。お前は違うお前は違うお前は違う。

お前は違う、と。普通じゃない、と。ずっとそんなことを言われてきたような気がする。やがて、お前は違う、というのが、お前は人並みな努力をしていない、という言葉に置き換えられ、私はずっと罵倒されてきた。そうしたければそうすればよいのだ。私はもう、あなた方には一生関わり合いたくはないのだ。もう二度と会うこともないだろう。
さようなら。

114ページ
当時はそうは思わなかったけれど、一九六九年にはまだ世界は単純だった。機動隊員に石を投げるというだけのことで、ある場合には人は自己表明を果たすことができた。

行動が益々意味を失っていく世界に私たちは立ち会っている。情報が過多ということかもしれない。論理空間は結果を生み出し続けるが、その次の日の結果と共に忘れ去られてしまうのだ。そんな世界では誰も機動隊員に石を投げたりはしない。
機動隊員すら見あたらない。

151ページ
「待ってたよ」とそれは言った。「ずっと待ってた。中に入りなよ」
それが誰なのか目を開けなくてもわかった。
羊男だった。
158ページ
「・・・ここがあんたの場所なんだよ。それは変らない。あんたはここに繋がっている。ここがみんなに繋がっている。ここがあんたの結び目なんだよ」
161ページ
「ここでのおいらの役目は繋げることだよ。ほら、配電盤みたいにね、いろんなものを繋げるんだよ」
164ページ
「踊るんだよ」羊男は言った。「音楽の鳴っている間はとにかく踊り続けるんだ。おいらの言ってることはわかるかい?
踊るんだ。踊り続けるんだ。何故踊るかなんて考えちゃいけない。意味なんてことは考えちゃいけない。意味なんてもともとないんだ」
166ページ
「・・・僕はこれまでの人生の中でずっと君のことを求めてきたような気がするんだ。そしてこれまでいろんな場所で君の影を見てきたような気がする。君がいろんな形をとってそこにいたように思えるんだ」
180ページ
僕が求め、羊男が繋げる。

「羊をめぐる冒険」に出てきた羊男と本作の羊男は違う感じがする。「羊をめぐる冒険」ではアイヌ青年の末裔という感じだった。ユングが影と呼んだ元型は「意識に比較的に近い層で作用し、自我を補完する作用を持つ元型。肯定的な影と否定的な影があり、否定的な場合は、自我が受け入れたくないような側面を代表することがある」というものであるらしい。そうすると本作品での羊男とは、自我を補完するが意識が気付いていないところの「肯定的な影」ではないかと思う。「いろんな場所で君の影を見てきたような気がする」とか「僕が求め、羊男が繋げる」と書いているのでそうだと思う。著者の作品は「河合隼雄さんくらいしか深いところで理解していない」ということだ。河合隼雄さんと言えばユングでしょう?

190ページ
それはキキだった。座席の上で僕の体は凍りついた。後ろの方でからからからという瓶の転がる音が聞こえた。キキだ。あの廊下の暗闇の中で見たイメージのとおりだ。本当にキキが五反田君と寝ているのだ。繋がっている、と僕は思った。

219ページ
「仕事用の名前を持ってるの」とユキは言った。「アメっていう名前で仕事してるのずっと。それで私の名前をユキにしたの。馬鹿みたいだと思わない? そういう人なの」

「おおかみこどもの雨と雪」という映画があったが、何か関係はあるのだろうか?

265ページ
「幸運だったことは認めるよ。でも考えてみたら、僕は何も選んでいないような気がする。そして夜中にふと目覚めてそう思うと、僕はたまらなく怖くなるんだ。僕という存在はいったい何処にあるんだろうって。僕という実体はどこにあるんだろう?
僕は次々に回ってくる役回りをただただ不足なく演じていただけじゃないかっていう気がする。僕は主体的になにひとつ選択していない」

「僕」は何も求めなかったし、五反田君は何も選んでいないのだという。そういうものは人生ではないということだろうか?
「次々に回ってくる役回り」を演じるのは役者だけではないのだと思う。そんなふうにして「自分のペースで仕事に取り組むことが出来ない多忙な人」こそが資本主義社会では有能ということだ。だが演じていても、選んでいても、存在とか実体なんて実感できないだろう、そんなものは初めからなかったのだ。

293ページ
踊るんだよ、と羊男は言った。それも上手く踊るんだよ、みんなが感心するくらい。

302ページ
「概念としての春は暗黒の潮流とともに激しくやってきた。その訪れは都市の間隙にこびりついた名も知れぬ人々の情念を揺すり起こし、それを不毛の流砂へ音もなく押し流していった」
僕はそういう文章を片っ端から添削していきたかった。

著者は誰を批判しているのだろうか?

308ページ
「ああいう時代はね、終わったんだよ。それで、私もあんたもみんなこの社会にきちっと埋めこまれてるの。権力も反権力もないんだよ、もう。誰もそういう考え方はしないんだよ。大きな社会なんだ。波風を立てても、いいことなんか何もないのよ。システムがね、きちっとできちゃってるの。この社会が嫌ならじっと大地震でも待ってるんだね」

310ページ
女が死んでいることには説明の必要がなかった。目が見開き、口もとが妙にこわばって歪んでいた。メイだった。

320ページ
フランツ・カフカの小説は果して二十一世紀まで生き残れるだろうか、とふと僕は心配になった。いずれにせよ、彼は「審判」のあらすじまで書類に書きつけた。どうしてそんなことをいちいち聞いて書類にしなくてはならないのか、僕には全然理解できなかった。実にフランツ・カフカ的だ。僕はだんだん馬鹿馬鹿しくなってうんざりしてきた。

346ページ
「君は僕の中にある、あるいは僕にくっついて存在している感情なり思念なりを感じとって、それを例えば象徴的な夢みたいに映像化できるということ?」

つまり「羊男」は「僕にくっついて存在している感情なり思念」であるということらしい。

351ページ
「ずっと昔から羊男はいたの?」
僕は肯いた。「うん、昔からいた。子供の頃から。僕はそのことをずっと感じつづけていたよ。そこには何かがあるんだって。でもそれが羊男というきちんとした形になったのは、それほど前のことじゃない。羊男は少しずつ形を定めて、その住んでいる世界の形を定めてきたんだ」

358ページ
「大袈裟な道具とか偉そうなカートとか旗とか、着る服とか履く靴とか、しゃがみこんで芝を読む時の目付きとか耳の立て方とか、そういうのがひとつひとつ気に入らないんです」
「耳の立て方?」と彼は不思議そうな顔つきで聞き返した。
「ただの言い掛かりです」

[下巻]

10ページ
ピーク、と僕は思った。そんなものどこにもなかった。振り返ってみると、それは人生ですらないような気がする。少し起伏はあった。ごそごそと登ったり下りたりはした。でもそれだけだった。殆ど何もしていない。何も生み出していない。誰かを愛したこともあったし、誰かに愛されたこともあった。でも何も残っていない。

そんなふうに「僕」に人生を振り返ってもらうと気が滅入る。私も、何も生み出していない。つまりは凡庸なのだ。その凡庸さを認めてしまうと、もっとズルズル堕ちていきそうだが、乗り越えるほどの力もない。だから今はこうして、理解しようとしている。そこにどんなことが書かれていたのか、どんな意味があったのかを点検している。そういうこともしなかったなら、私はますます自分に幻滅してしまう。

22ページ
「昔よく聴いたな。中学校のころだね。ビーチ・ボーイズ―――何というか、特別な音だった。親密でスイートな音だ。いつも太陽が輝いていて、海の香りがして、となりに綺麗な女の子が寝転んでいるような音だ。唄を聴いているとそういう世界が本当に存在しているような気持ちになった。いつまでもみんなが若く、いつまでも何もかもが輝いているようなそういう神話的世界だよ。永遠のアドレセンス。お伽噺だ」

著者はビーチ・ボーイズがお気に入りということだが私は馴染めない。おそらくは「神話的世界、永遠のアドレセンス、お伽噺」というところに馴染めない。ミッキーマウス的なものから商業主義を幾分か取り除くとビーチ・ボーイズ的なものになるのかもしれない。

92ページ
ブルース・スプリングスティーンが「ハングリー・ハート」を歌った。良い歌だ。世界もまだ捨てたものではない。

128ページ
キキだ、と僕は思った。間違いない、僕は今そこでキキを見かけたのだ。このホノルルのダウンダウンで。

136ページ
僕は部屋をぐるりと歩いてまわってみた。それぞれの椅子の上には、それぞれの人骨が座っていた。骨は全部で六体あった。ひとつを除けばどれも完全な人骨で、死んでから長い時間が経っていた。

143ページ
まさか、と僕は思った。

159ページ
高度資本主義はあらゆる隙間から商品を掘りおこす。幻想。それがキーワードだ。売春だって人身売買だって階層差別だって個人攻撃だって倒錯性欲だってなんだって、綺麗なパッケージにくるんで綺麗な名前をつければ立派な商品になるのだ。

売春とか人身売買といった反社会的な性質のものはとりあえず置いておくとして、資本主義(高度資本主義とは言わない)が、商品を掘りおこす様子は今では洗練された言葉(たとえばイノベーション)で語られる。陳腐化した商品は「コモディティー化した」などと言われる。今ではスマホも「コモディティー化」してしまった。薄くて軽くてRetinaディスプレイを備えている商品にはディズニーの魔法がかけられているようであり、そうした流行だか幻想だか魔法に対して人々はお金を支払う。魔法も含めてマーケティングということなのだろう。だがそういうヒット商品がないと産業が停滞してしまい、物やカネの流れが滞り、みんなが困るのだが、それこそ自転車操業ではないのだろうか?

208ページ
ディック・ノースは月曜日の夕方に箱根の町に買い物に出て、スーパーマーケットの袋を抱えて外に出たところをトラックにはねられて死んだ。

250ページ
「残念ながらちゃんと動いてるね。時はどんどん過ぎ去っていく。過去が増えて未来が少なくなっていく。可能性が減って、悔恨が増えていく」

白骨の部屋に至るまで時は流れ続ける。可能性がひとつひとつ消され、「僕」の中で死の占める割合が増えていく。過去も未来も現在という瞬間に投影された幻想であり、私たちはただ現在しか体験できないということは真実であると思われるが、一方で自我を統合する働きは、今までに積み重ねた経験を振り返ると共に、経験を活かすべき機会が随分と減っていることに気付く。選択したことを悔やむのではなく、選択しなかったことを悔やむのではなく、まもなく選択できなくなるという事態におびえている。たとえば将来に不安のないよう蓄財できれば、成功体験の余韻に浸りながら平穏な老後を過ごせるかもしれない。だがその平穏な老後なり、余生という設定自体が、そもそも哀しいのだ。

271ページ
「彼があの女の人を殺したのよ」
「あの女の人。日曜日の朝に彼と一緒に寝てた人」
289ページ
「どうしてキキを殺したの?」と僕は五反田君に訊いてみた。
290ページ
「僕がキキを殺したのか?」と彼はゆっくりと言葉を区切るようにして言った。
293ページ
「でも何故君がキキを殺すんだ? 意味がないじゃないか?」
「わからない」と彼は言った。「たぶんある種の自己破壊本能だろう。僕には昔からそういうのがあるんだ。一種のストレスだよ。自分自身と、僕が演じている自分自身とのギャップがあるところまで開くと、よくそういうことが起きるんだ」

キキはすでに死んでいて、それも五反田君が殺したのだという。だが、五反田君はそのことを自分自身で把握できていない。五反田君は数少ない「僕」の友だちということであり、二人は全編を通してお互いを理解しようとする。五反田君自身が把握できていない五反田君は、おそらくは「僕」の「否定的な影」ではないかと思う。

303ページ
何はともあれ死体がまたひとつ増えた。鼠、キキ、メイ、ディック・ノース、そして五反田君。全部で五つだ。残りはひとつ。僕は首を振った。嫌な展開だった。次に何が来るのだろう? 次に誰が死ぬのだろう? 僕はユミヨシさんのことをふと考えた。
322ページ
「あれはいったい何を意味してたんだろう? 六体の白骨」
「あなた自身よ」とキキは言った。「ここはあなたの部屋なんだもの、ここのあるのはみんなあなた自身なのよ。何もかも」

身近な人が次々と死んでいく。
「死は生の対極としてではなく、その一部として存在している」という「ノルウェイの森」の主題が繰り返されているのではないかと思う。「あなた自身」の中で死は、現存在が現に存在しなくなることの可能性として成長していく。そのような死を抱えた部屋を「僕」は持っている。
おそらくはみんな持っている。