140億年の孤独

日々感じたこと、考えたことを記録したものです。

名古屋フィル#40ショスタコーヴィチ交響曲第1番

2014-10-27 00:05:15 | 音楽
第417回定期演奏会、曲目は以下の通り
ベートーヴェン: 交響曲第1番ハ長調 作品21
アホ: トロンボーン協奏曲 [日本初演]
藤倉大: バニツァ・グルーヴ!
ショスタコーヴィチ: 交響曲第1番ヘ短調 作品10

交響曲の系譜はベートーヴェン・ブルックナー・マーラーと引き継がれた。
番号が進むにつれて工夫が凝らされると共に心情は簡素化されていき
各々の第9番の交響曲は各々の境地に達した。
その系譜をショスタコーヴィチが引き継いでいるとは思わない。
ハイドンの時代、音楽家の地位はそれほど高いものではなかったという。
彼らは貴族を楽しませ、その家来と共に食事を取ったのだという。
ベートーヴェン以降の時代に音楽家の地位は向上したようだが
ショスタコーヴィチの時代には再び受難の時期を迎えた。
彼は貴族ではなく体制に仕える音楽家としてソ連という時代を生き延びた。
前衛的な第2番・第3番の交響曲は十月革命・メーデーの名を冠していたので
大目に見てもらえたかもしれないが
次に作曲した第4番の初演は曲に重大な欠陥があるということで中止され
その後、四半世紀の間、演奏されることがなかった。
隠さなくても良くなった時代、私たちはマーラーを連想させるような
その交響曲を聴くことが出来る。
そうした体制にそぐわない曲が当局の批判に晒されるのを彼は恐れ
代わりに書いたのが20世紀の名曲とされる第5番だ。
その後の第7番や森の歌も露骨なほどに体制のために書かれている。
そのことを批判するのではない。
民主主義の時代に自由と正義が保証されているというのは幻想であり
人々は今なお、官僚主義的な体制の中で媚び諂いながら生きている。
私だってそうだ。
そんな人間が「ソ連」という時代を生き抜いた作曲家を批判できるものではない。
ただ、交響曲第5番が彼の代表作だという誤解は解いておきたい。
第5番から第12番まで当局の批判をかわし続けていた彼が
第13番「バビ・ヤール」という極めて政治的な曲を書いた理由はよくわからないが
彼が書きたかったのは第13番・第14番のような曲だったのだと思う。
死と隣り合わせの不安とそれを退けるユーモアが同居している点が
曲の特徴ではないかと思う。
そんなショスタコーヴィチの曲を初めて生で聴いた。
不安と諧謔が同居しているような気がした。
ベートーヴェンもそうだが第1番にはその後の作曲家の方向性を
暗示しているようなものが含まれていると思う。

法華経(上)

2014-10-26 00:05:07 | 仏教
坂本幸男・岩本裕訳「法華経(上)」を読んだ。
「そのとき、世尊は両眉の間にある毛の環(眉間白毫相)から一条の光を放った。
その光は、東方に於いて、一万八千の仏国土に拡がった。そして、それらの仏国土は、すべて、
下はアヴィーチ(無間)大地獄から、上は宇宙の頂に至るまで、その光に照らされて、完全に見渡された」
序品にて、いきなり世尊(釈迦、釈迦牟尼仏、ゴータマ・シッダッタ、ブッダ)は、眉間からビームを放つ。
白毫というのはココです。
ちなみにコレはパクリです。

「そして、余はそれを知っており、また他の仏たちも知っている。
それが、どのようであり、いかなるものであり、また、その特徴がいかなるものかを。
それを示すことはできないし、それを表現する言葉もない」
そういうわけで人が仏の智慧に達することはできないということだが
「信心の意向をもちつづける求法者(菩薩)たち」は理解し得るらしい。
「示すこともできないし、表現する言葉もない」というのであれば
この経典を守る意味はどこにあるのだろうか?
神や仏の深慮は人間には理解できないという表現は他の宗教でも見られる。
そのようなことを言っているのは神や仏ではなくて人間なのだから
その表現で神や仏の偉大であることや思想の深さが保証されるわけではない。
彼らはずっと昔に発見された真理を不変であると誇り
今を生きている人間の探究心を損ねてしまう。

「如来がこの世に出現する目的となった、如来の唯ひとつの偉大な目的、唯ひとつの偉大な仕事とは、
一体何であろうか。それは如来の智慧を発揮して人々を鼓舞するためであって、
そのために如来はこの世に出現するのである」
「かれらの教えを聴いて仏とならない者は、一人としてない。
『さとり』を求めて修行して、人々にも修行させたい、
これこそ実に如来たちの請願なのである」
如来(仏)は、人々を仏とするために出現したということになる。
全員、仏に生まれて来れば良かったのに、どういうわけか全員、人に生まれて来たのだった。
宗教では実現不可能なことが目標に設定される。
実現されてしまったなら次の目標が必要になってしまう。
実現されてしまう目標では千年や二千年を存続することは出来ない。
存続する宗教こそが世界宗教と呼ばれ真理に値するとされる。
目標は達成されないのだからどれだけ努力したところで人は仏にはなれない。
あるいは生きたまま仏にはなれない。
そして私たちは死者のことをホトケと呼ぶことに慣れている。
生者はホトケではないし仏にはなれない。

「仏の『さとり』を信じない輩は、口より悪臭を放って、この世の嫌われ者となり、
かれらの身体にはヤクシャや悪霊が入りこもう。かれらは貧乏となり、痩せ衰えて、
いつも他人の使用人となって、こきつかわれよう。
かれらは数々の苦痛を受け、庇護を受けることなく、世の中を流浪しよう。
かれらがこの世で誰かに使われる身となっても、その人はかれらに何も与えようとはしない。
また、たとえ施しを受けても、かれらは直ちにそれを失うであろう。
悪行の果報は実にこのようであるのだ」
このような記載はクルアーンと同質のものと考えられる。
教義に逆らった者に対して、あるいは教団内の規律を維持するために懲罰が必要となる。
宗教だけではなくておよそ集団を維持しようとすると懲罰が必要となる。
そしてこの時代では「他人の使用人となって、こきつかわれる」ということが懲罰らしい。
現代ではすべての人間が、他人の使用人となって、こきつかわれている。
あるいは深夜であっても休日であっても「主体的」に仕事に取り組んでいるのであって
「こきつかわれている」のではないと言う人々もいるだろう。
確かに「他人の使用人」ではないと思い込むことは幸福への第一歩なのだろう。
まさに企業はそのような人材を求めている。
深夜も休日も賃金なしで「自主的に」「主体的に」働いてくれる素晴らしい労働者を求めている。
それは確かに閉じられた世界の中で生きるための智慧であるかもしれない。
「空の思想」を語る仏教と同じように「疑問を感じないで過ごす」方がなにかと楽なのだ。
だが利益を追求することであったり、他人を出し抜くことであったり、
そういう価値観の世界で生きて行くことに対してやるせなさのようなものを感じてしまったら
やはりその世界の中に留まることも出来ない。
他人に使われることに耐え忍びながら
今までに疑問を感じてきた人々が考えたことと同じようなことを考えてみる。
そうしないではいられない。

ヒンドゥー教

2014-10-25 00:05:54 | 
クシティ・モーハン・セーン「ヒンドゥー教」という本を読んだ。
読んではみたがよくわからない。

「前800年頃にできたとされる『ウパニシャッド』は、ブラフマン(梵)とアートマン(我)の教説を
中心にしている。ブラフマンは万物に遍在する『神』のことであり、アートマンは『自己』を意味する。
『ウパニシャッド』は、このブラフマンとアートマンの同一説(梵我一如説)を主張し、
それによれば、最高実在はすべての霊魂のなかに自己を顕現するとされる。
これは、『ウパニシャッド』のなかで『お前は、それである』という教えを乞う者に向けられた
言葉によって劇的に語られている。この考えは、それ以後のほとんどのヒンドゥー教思想の核となり、
のちには哲学者シャンカラによって不二一元論という思想にまで高められた」
神、実在、自己、霊魂、またそれか・・・という感じがする。
宗教はそれらの概念を組み合わせ、「これが真理である」などと語る。
自己は、いつか消え去ってしまう儚い存在であると自覚した後に、その延命を図る。
最高実在と自己を結びつけて永遠を手に入れようとする。
そしてそのことに失敗した人生は不幸ということになるのだろう。
だが不幸とは現実を受け止めるという、ただそれだけのことではないだろうか?
どうして神とか実在を持ち出してこなければならないのかと思う。
言葉を獲得した時点で分離を嘆き、同じ言葉によって統合を語ろうとしている。
そういうのは不毛だ。

「ヒンドゥー教においては、物質的世界での成功は確かに立派ではあるが、それだけでは十分であるとは
みなされず、そこに解脱という思想が登場してくる。解脱とは、単なる否定の状態ではない。
それは、行為(カルマ)の絆すなわち再生から解放されて自由となり、存在に満ち溢れた、
完成の境地である。ヒンドゥー教の形而上学は再生という概念を受け入れており、
解脱とは、仏教の涅槃(ニルヴァーナ)の概念と同様に、再生の輪からの脱出である」
物質的世界で成功を収めた者は、強欲であり、それ以上のものを求める。
ただの金持ちではなくて「人格的にも優れている」ということにしたいらしい。
あるいは人格が優れているから商業的に成功したのだという話に変わっていたりする。
「存在に満ち溢れた完成の境地」を目指す動機とはそういうものなのだろうか?
仮にそういうものがあるのだとしても、こっそりとやってもらいたい。
「完成の境地」とか「涅槃」に周りの凡庸な人間の評価なんて関係ないだろうから・・・

「神へいたる『多くの道』の概念がヒンドゥー教に無限の多様性をもたらしている。
各宗派の信仰はそれぞれ異なっており、その宗教儀式も違っている。ヒンドゥー教には、
一元論、二元論、一神教、多神教、さらには汎神論にいたるまであり、
まさにあらゆる型の宗教の一大実験場さながらである」
神道には、開祖も、宗祖も、教義も、救済もないが、
ヒンドゥー教には何でもありそうだ。
そういう意味では宗教として捉えどころがない。
三位一体は間違っているとか、そんな議論にはならないらしい。
ヒンドゥー教から派生した仏教の教義すら取り込んでしまったらしい。
その実験場の概要すらよくわからない。

「ガウダパーダは、仏教の絶対的観念論者ナーガールジュナと同様に、変化の可能性や
因果律の妥当性を否定した。ガヅダパーダは語る。
滅亡もない、創造もない、束縛もない、解脱への修行もない、解脱への望みもない、
解脱されることもない。これが絶対の真理である」
21世紀に漠然と生きる人間には、絶対とか真理といった言葉の重みはうすれてきている。
そして「変化しない」ということを主張して何が良いのだろうかと考えてしまう。
「解脱されることもない」というのは、まだ「解脱に囚われている」ように思える。
そんなこと言わない方が良いのではないかと思う。
観念論者は気を付けていても自分自身が言葉に振り回されてしまう。
そして気が付けば何も語っていなかったりする。

「ヒンドゥー教は、解脱への三つの道を説く。そのうち第一の知識(ジュニャーナ)の道は無味乾燥で、
しかも難解になりがちであり、第二の宗教的義務を遂行する行為(カルマ)の道はしばしば
排他的になる傾向がある。したがって、第三の信愛(バクティ)の道が広く一般に受け入れられたとしても
不思議なことではない」
「主よ、われらには、あなたを知る力がありません。どうか、われらがあなたを見失い、
進むべき道を踏みはずさないようにお守りください」
そう、知識は救いにはならない。知識であるとか知性というのは不幸にしかつながっていない。
生老病死を認識して苦を感じるのは知性の働きによる。
それを知識で解決しようとするのは無理があるだろう。
知識で救われるよりは行為で救われる人の方が多くて
行為で救われるよりは信愛で救われる人の方が多いのだろうか?
知識でしか救われないのであれば衆生は救われない。
それ故に信愛(バクティ)の方が受け入れられそうだ。
そして「主よ、われらには、あなたを知る力がありません」ということだ。
誰が絶対者を知ることができよう?もともと梵我一如説というのは無理がある。
「娘よ、お前の信仰がお前を救った。安んじて行け」とイエスであれば言っただろう。
信じる者は救われるというが、信じることは難しい。

「あなたがたは、子孫のために、自分の歴史を残さないのですか」と私はたずねた。
「増水した川を行く小船は、何か跡を残すでしょうか。あとに長い足跡を残すのは、
つまらない必要に駆られ、泥のなかで小船を押している人だけです」
何かしら自分の歩んだ足跡であるとか、自分の考えた軌跡であるとか、
そういうものを残そうとしてしまう。
虚無主義があんぐりと口を広げてすべてを呑み込もうとしている。
そういうものに抵抗しようとしているのだ。
私を置き去りにしてあらゆるものは通り過ぎて行ってしまうので
5年前はこんなことをしていました、3年前はこんなことをしていました、と私は帳簿を広げる。
誰に対してそんなことをしているのだろう?
誰に対してそんなことをしなければいけないのだろう?
子孫のためにというのではない。「つまらない必要に駆られ」ているのかもしれない。
「バウル(向こう見ず)運動の起源を探ることは、困難である。というのは、
この運動がほとんど無学な、社会の最下層の人々に限られていたために、
文字にされた記録がまったく残っていなかったからである」
文字にならない活動は足跡を残すことなく消えていったのだろう。
彼らは消えてしまうことをなんとも思っていないのだろう。
私には真似できない。

神道はなぜ教えがないのか

2014-10-19 00:05:10 | 
島田裕巳「神道はなぜ教えがないのか」という本を読んだ。
「開祖も、宗祖も、教義も、救済もない宗教が神道である」とそのようなことが書いてある。
それは宗教と言えるのだろうか? 宗教ではないとしたら何なのだろうか?
私たちは、ほとんど疑問を感じることなく、初詣、初宮参り、七五三に出かけている。
どうして初詣に行くのか考えたことすらない。ただそうしているだけだ。
この本を読めば「ない宗教」としての神道のことがわかるかといえばそうでもない。
そもそも教義もないので、わかるとかわからないものの対象ではないのかもしれない。
そんな不思議なものと一緒に私たちは暮らしている。
「宗教としてあるべきものがないとしたら、なぜ日本人はそれでも神道を守り続けてきたのか。
神道に対する疑問は、そうした根源的な問いにも発展していく」となどと書いてあるが
「守り続けてきた」つもりはないのだと思う。

「天満宮の祭神は菅原道真である。道真は平安時代の貴族であり、学者、あるいは漢詩人としても知られた。
道真は、宇多天皇や醍醐天皇に重く用いられ、右大臣にまで昇進するが、藤原氏と対立し、
太宰権帥といて大宰府に左遷され、そこで失意のもとに亡くなってしまう。
ところが、道真の死後、政敵であった藤原時平をはじめ、皇子や皇太孫が次々と亡くなり、
天皇の御殿である清涼殿に落雷があって死者が出る事態にまで発展した。
そのため、これは道真の祟りだという声があがり、道真の怨霊は、雷神と習合して
北野天満宮に祀られることとなった」
そういうわけで菅原道真は、タタリ神なのだった。

サン「なにかくる!乙事主さまようすがおかしいの…」
乙事主「…」
サン「もうちょっとだからがんばって!」
山犬「とてもいやなものがくる」
サン「なんだろう?血のにおいで鼻がきかない」
サン「猩猩たち…」
猩たち「おまえたちのせいだ。おまえたちのせいでこの森おわりだ」
サン「なにをいう!森のために戦った者へのこれが猩猩の礼義(れいぎ)か!」
猩たち「おまえたち破滅つれてきた!生きものでも人間でもない者つれてきた!」
サン「生きものでも人間でもないもの…?」
猩たち「きたーっ!森のおわりだ!」
サン「!」
山犬「ヴヴ~ッ」
サン「戦士たちが…」
乙事主「もどってきた!」
サン「ハッ」
乙事主「もどってきた!黄泉の国から戦士たちが帰ってきた」
サン「おまえは母さんにこのことを知らせて!人間の狙いはシシ神さまだ。母さんが生きていれば知恵をかしてくれる」
サン「おいき!山犬の血をとだえさせてはだめ!いい子…」
サン「最初の者を殺す!森じゅうにおまえたちの正体を知らせてやる!」
山犬「オオオオオーン」
サン「…アシタカが…」
乙事主「ブギイイ!」
サン「おのれ!」
乙事主「あついぞ!からだが火のようだ…」
サン「あっ!ダメーッ!乙事主さまタタリ神なんかにならないで!乙事主さま…!アッ!」

「ブギイイ!」ということで乙事主はタタリ神になってしまったのでした。
そんなふうにして神道では猪、ではなくて人が神に祀られるということだ。
祟り神だけではなく権力者も死後に神として祀られる。
秀吉は豊国神社に祀られているし家康は東照大権現として祀られている。
明治神宮、乃木神社、東郷神社・・・
そして靖国神社は軍人、軍属を英霊として祀っている。
神道に教義はないので一神教と違って人と神の違いを問題にしたりはしないのだろう。
そういう曖昧さであるとか、いい加減さが国家に利用される。
過去そうだっただけではなく今も利用されている。
国のために戦死した人々を祀って何が悪いのかと権力者は語る。
別に彼らは「国のために」死にたかった訳ではないだろう。
私たちに「同じように死ね」と言うために彼らは祀られている。
「あなた方の犠牲を無駄にしません」なんていうのであれば
戦う相手を間違えてはいけない。

「明治新政府は、天皇を頂点に抱く立憲君主制の確立をめざす。立憲君主制は、王を君主として戴く制度であり、
多くの近代国家で採用されたものだが、日本の場合、天皇が、皇室の祖神である天照大神につらなる
現人神とされた時点で特殊だった。そこに、神道の信仰が深く影響してくる原因があった」
武士が実権を握っていた時代、天照大神につらなる系譜を持つ天皇によって征夷大将軍の権威が高められた。
そんなものがなくても権力は維持できたとは思うが、「一番偉い奴より、もっと偉い」というのは、わかりやすい。
天皇の母方として実権を掌握していた摂関家、父方として権力を維持しようとした院、
戦後、天皇の上に立ったマッカーサー、それらすべて「一番偉い奴より、もっと偉い」となっている。
実効支配する者にとって、とても便利な仕組みであるのかもしれない。
明治新政府の場合は、ちょっとやりすぎではなかっただろうか?
近代国家と現人神、官僚が神を戴いて神に隠れて支配を目論んだということだろうか?
きっと神道に慣れ親しんだ日本人は生きている人間が神になれるかどうかなんて考えなかったろう。
イエスの神性を否定したイスラム教のように「神」の資質について考えることがなかっただろう。
そんなふうにして立憲君主制と結びついた現人神が誕生した。
担がれた方はおかしいとは思わなかったのだろうか?
「えっ、オレって神様になっちゃうの?」とか
・・・
乙事主「あついぞ!からだが火のようだ…」
サン「あっ!ダメーッ!乙事主さまタタリ神なんかにならないで!乙事主さま…!アッ!」
乙事主「ブギイイ!」
山犬「オオオオオーン」

「日本人は、神道に対して、現状がそのまま無事に続いてくれることや、
少し状態が改善されることを望みはするものの、今抱えている悩みや苦しみから
根本的に救ってもらうことを望んだりはしない。
仏教の場合には、苦ということを中心に考え、人間が苦を感じるのは、煩悩によるものだととらえる。
・・・そのために、仏教の世界では、煩悩を捨てるための修行が用意されていたりする」
神道と仏教が住み分けているのだとして・・・
軽い悩みは神道、深い悩みは仏教に引き受けてもらっているということだろうか?
おそらくは「現状がそのまま無事に続いてくれる」ことを望んでいるだけで仏教の教義はパスではないかと思う。
戦乱の世であったなら踏み躙られた弱者は「南無阿弥陀仏」を唱えて救われたいと思っただろう。
今はそうではない。葬式以外では仏教は必要とされていない。
仏教だけではなくてキリスト教もイスラム教も必要とされていない。
この世界には苦しみなんてものはなく娯楽があるだけだ。
そうすると神道という「ない宗教」をうまく説明できないから無宗教なのではなくて
無宗教だから無宗教ということになるだろう。
商業主義の発展に伴い世界はストレスとストレスの解消に二分されてしまった。
自らを商品やサービスとして提供する一方、商品やサービスを購入して気晴らしをする。
他人を活用して新たな商品やサービスを提供する者が現代の教祖となる。
彼らは「経済」という神を信じているのだろうが
それは単に自己増殖するだけの神だろう。

「私たちは、日々の暮らしのなかで神道とかかわりをもっている。それは、現代においても変わらない。
初詣や七五三だけではない。私たちは、町の一角に祀られている小祠の前を通りすぎようとしたとき、
ふと立ち止まり、その前で手を合わせたりする」
空の思想とか言いながらご本尊様を拝んでいる仏教というのは何なのだろうと思う。
そして衆生が理解できない念仏というのは何なのだろうと思う。
「その前で手を合わせたりする」することの方が「空」であるかもしれない。
私たちが手を合わせる時、なんの功徳も期待してはいない。
それでいいんじゃないのかと思う。

生きて死ぬ智慧

2014-10-18 00:05:05 | 仏教
柳澤桂子「生きて死ぬ智慧」という本を読んだ。
般若心経の解説の一種だと思うがあまり仏教臭くないところが良いと思う。

「・・・私たちは、自己と他者、自分と他のものという二元的な考え方に深入りしていきます。
元来、自分と対象物という見方をするところに執着が生まれ、欲の原因になります。
・・・私たちは原子からできています。原子は動き回っているために、この物質の世界が
成り立っているのです。この宇宙を原子のレベルで見てみましょう。私のいるところは
少し原子の密度が高いかも知れません。あなたのいるところも高いでしょう。
戸棚のところも原子が密に存在するでしょう。これが宇宙を一元的に見たときの景色です。
一面の原子の飛び交っている空間の中に、ところどころ原子が密に存在するところがあるだけです。
あなたもありません。私もありません。けれどもそれはそこに存在するのです。
物も原子の濃淡でしかありませんから、それにとらわれることもありません。
一元的な世界こそが真理で、私たちは錯覚を起こしているのです。
このように宇宙の真実に目覚めた人は、物事に執着するということがなくなり、
何事も淡々と受け入れることができるようになります。
これがお釈迦さまの悟られたことであると私は思います」
あとがきにそんなことが書かれていた。

執着が欲の原因であるかもしれないが欲は生存生殖のために活用されている。
意識がなければ執着はなく欲は生命維持に必要な最小限のものかもしれない。
意識は執着を生み出し執着は満たされることのない欲望へと変質する。
それはもはや生存生殖のための欲とは異質のものとなっている。
対象を認識することは自然界の生存競争で有利に働く。
生き物が視覚を獲得した時に彼は圧倒的に有利な立場を得たのだと思う。
そして主観が思考を持って対象を認識することもその延長線上にある。
主観が世界を認識し客観(対象)と分離されてしまった時から不幸は始まっている。
そして主観が自らをも対象として捉えた時に生老病死といった苦しみが始まる。

「ひとはなぜ苦しむのでしょう・・・・・・
ほんとうは野の花のようにわたしたちも生きられるのです
もしあなたが目も見えず耳も聞こえず味わうこともできず触角もなかったら
あなたは自分の存在をどのように感じるでしょうか
これが『空』の感覚です」
冒頭にそのようなことが書かれていた。

野の花は世界に含まれている。
私たちのように世界と分離されているわけではないので苦しみもない。
自分の存在を感じることもない。
自分すらない。
・・・だが苦しみから逃れられるとして実際にそのように生きたいと思うだろうか?
世界に存在するものが野の花だけであったなら
世界が存在することなど誰も知らず
世界は存在しないに等しいだろう。
世界は140億年の間ずっと待っていた。
世界は自分を認識してくれる者を待っていた。
彼はいまさら自分を認識してくれる者を手放したりはしないだろう。
そうすると私たち宗教と共に歩まない者共は常に生老病死と共にある。
私・今・此処という主観と共にある。
苦しみと共にある。
それを二元的というのかどうかは知らない。
二元的が悪くて一元的が良いのかどうかは知らない。
私は絶対的な思想には馴染めない。
「空」によって認識を遠ざけ苦しみを克服するという思想よりも
「苦しみ」を抱えながらそれでも認識しようとする行為の方が
尊いのではないかと思う。

ずっと前に著者の本を読んだことがある。
独特の死生観を持った科学者という感じがする。
病気で数十年苦しんでいるのだという。
そういう人の言葉には重みがある。

ポケット般若心経

2014-10-12 00:08:28 | 仏教
ひろさちや「ポケット般若心経」という本を読んだ。
般若心経の解説をしている。

「わたしたちは、一生懸命がんばらないと幸福になれないと思っています。
つまり、幸福というものは、がんばりに対する報酬だと考えられています。
でも、それは逆なんです」
そんなことが書いてあった。
がんばらないと幸福になれないと考えているのではなくて
がんばらないと収入が得られない。収入がなければ家族と暮らして行くことも出来ない。
別にがんばりたいわけでも、がんばらなければいけないと考えているわけでもない。
他人の物差しに従って生きることを望んでいるわけでもない。
分業であるとか法であるとか社会契約であるとか仏教は気にしていないように見える。
正しさは相対的なものであり市民社会を構成する人間の半数以上が正しいと思うことが
正しいのであると仏教は考えていないように見える。
そういうことだから社会や組織に依存して生きなければならない人間の悲哀が
カフカが描いたような人間の悲哀がわからないのではないかと思う。
釈迦は子供も育てず勝手に出家し十字架に掛けられることもなく勝手に悟った。
おそろしく人間関係の希薄な教祖様に見える。
仏教は生活者に関係の薄い宗教ではないかと思う。
念仏を唱えるだけで良いといいながら実際には空の思想を会得しないとダメなのだという。
他人の物差しに従う給与生活者の生き方と両立は難しい。

「言葉のいらぬ世界が仏の世界、
言葉の必要なのが人間界
言葉の通用しないのが地獄」
そんなことが書かれていた。
実際のところ人間界でも言葉が通用しないことが多い。
もしかすると人間を相手にしているつもりだったがそうではないということか?
人間のようだが正体は閻魔大王第一補佐官であるかもしれない。
そして鬼のような連中に対して復讐したいと思うこともまた鬼の所業だろう。
そのようにして人間界は怨みに満ちている。
言葉によって生じた恨みは言葉を捨てることでしか消えない。

「観自在菩薩は空によってあらゆる苦悩を克服された」
「じつは、『般若心経』で言いたいことは、この要約に尽きるのです」
解説にそのように書かれていた。
そうすると空というのは苦悩を克服するための手段ないし方便なのだろうか?
第九交響曲のような「苦しみを通しての歓喜」という考え方はない。
きっと苦しみが試練であるというのはキリスト教的なことなのだろう。
そしてまた資本主義的なことなのだろう。
苦しみを試練と考えず苦しみそのものを消去しようとするのであれば
現世への関心が無くなって行く。
空はまた進歩とか非進歩とかにもこだわらないから世界から置き去りにされる。
そのような生活を何世紀も続けてきた仏教徒は
隣人愛を説いているはずのキリスト教国に征服された。
キリスト教徒たちはいつのまにか進歩を積み重ねていたのだ。
認識しないことを最上の思想としている人々が苦しまないためには
認識する連中におとなしくしてもらわなくてはならない。
それとも彼らは軍事的に経済的に侵略を重ねてくるキリスト教徒に対して
右の頬も左の頬も差し出すのだろうか?

法華経入門

2014-10-11 00:06:27 | 仏教
菅野博史「法華経入門」という本を読んだ。

「紀元前七世紀頃に成立したと推定される文献に輪廻の思想がはじめて現われ、
いったん登場すると、またたくまにインドの宗教思想の中心の座を占めるようになった」
そういうわけで輪廻は仏教のオリジナルというわけではないのだろう。
宗教は宗教思想の流れの中で改変されていくのだろう。
そのつど変更されるものに真理はあるのだろうか?

「舎利弗よ。要点を取りあげていうと、計量することもできず、限界も無い多くの
これまでにないすばらしい法について、仏はすべて完成した。
舎利弗よ。もはや説く必要がない。その理由は何か。仏の完成したものは、最高で、稀有で、
理解することが難しい法であり、ただ仏と仏とだけがはじめて多くの法の真実の様相を
認識することができるからである」
そういうことだと限りのある人間は神意を理解できないというヨブのアレと同じではないかと思う。
神や仏にしか認識できない法とか思想に価値なんてないだろう。
法や思想は人に理解されてこそ意味を持つものだと思う。
「この私などは及ぶべくもない」とそんなことを語るのであれば
初めから最後まで黙っていた方が良いのではないかと思う。

「彼は、自分の出会う人すべてに『私は深くあなたたちを尊敬する。軽んじあなどろうとはしません。
なぜならば、あなたたちはみな菩薩の修行を実践して、成仏することができるであろうからです』と
語りかける。つまり、彼はすべての人を未来の仏として尊敬するという実践をしたのであった。
ところが、周囲の人々は彼にきわめて冷淡であり、そればかりか石をぶつけたり、杖で打ち据えたりする。
それにもかかわらず、彼はこの実践行を一生貫いたのである。
この人物は常不軽菩薩という名の菩薩である。
宮沢賢治の『雨ニモマケズ』の詩に出る『デクノボー』は、この常不軽菩薩をモデルにしたとされ、
宮沢賢治自身が彼のように生きたいと痛切に祈った人物である」

なんとあの「デクノボー」にはモデルが存在したのであった。
「サウイフ モノニ ワタシハ ナリタイ」その言葉を引用するものは後を絶たない。
確かにあるところまで来てしまうと「デクノボーでいいや」という気もする。
おっと「デクノボーでいい」じゃなくて「デクノボーがいい」と「デクノボーになりたい」と
サウイウことであった。
出会う人すべてを軽んじないという点ではアリョーシャも「デクノボー」のひとりだろう。
彼は道化を演じるフョードルの自尊心すら大切にしていた。
どんな人間にも自尊心があり、それを踏み躙ることから争いが始まるということをよく知っていた。
さて「デクノボー」と「常不軽菩薩」は同じなのだろうか?
どちらも不用意に道端を歩いていると石をぶつけらそうな存在ではあるが
「デクノボー」は役立たずで「常不軽菩薩」はそうではないかもしれない。
「常不軽菩薩」の頃には「役立たず」という考え方はなかったかもしれない。
私たちの時代では常に「役立たず」かどうかが判定される。
あの機関車トーマスですら「役に立つ機関車だよ~」と歌っている。
子供もうかうかしていられない。
職場で気が付けば私も他人のことを「役立たず」と言ったりしている。
合理主義の発達は人間を商品に変えてしまう。
「デクノボー」を名乗るということはサウイウ価値基準に抗議をしていることかもしれない。
日本全国のデクノボー好きはどう考えるだろうか?

「提婆達多(だいばだった)は阿難の兄弟で、釈尊の従弟にあたる。釈尊の晩年に教団の改革を唱え、
釈尊から拒絶されて分派独立したといわれる」
そのことで釈尊を毒殺しようとした宿敵であるかのようにも伝えられているらしい。
「インドの山奥でっ、修行して~、ダイバダッタの魂やどし~」って悪者じゃねえか!

「『法華経』の一仏乗の思想は、すべての衆生が平等に成仏できるとする思想である。
そこにはどんな例外もないはずである。しかし、『法華経』成立以前の仏教史においては、
釈尊に敵対した提婆達多は、ちょうどイエスを裏切ったユダのごとく嫌われ、
生きながら地獄に落ちたと非難された。また女性は成仏できないと説かれてきた。
『法華経』の提婆達多品には、一仏乗の思想に基づいて、
具体的に提婆達多とサーガラ龍王の娘(龍女)の成仏を説いている」
「だれでも仏になれる」というのが『法華経』であるらしい。
「提婆達多」も仏になれるし「常不軽菩薩(通称デクノボー)」も
「すべての人を未来の仏として尊敬するという実践をした」ということである。
ユダは地獄の最下層コキュートスでルチフェルの呵責を受けているが提婆達多は救われる。
そうすると愛敵というのはキリスト教よりは仏教に相応しいのかもしれない。

「輪廻の思想は、業の思想と密接な関係をもっている」
「個人の行為の善悪によって、次に生まれる場所、境遇が決定されるとする思想が
業の思想である」ということである。
だが悪人を含めてすべての人が成仏できるというのであれば
業も輪廻も解消されているのだろう。

大乗経典を読む

2014-10-04 00:05:57 | 仏教
定方晟「大乗経典を読む」という本を読んだ。

「『結果は原因からなり、原因は原因を必要としないなどということはありえない』と
ナーガールジュナはいう」と書いてあった。
「もし、原因・結果の概念を求めるなら、原因にもまた原因が考えられねばならない。
これでは無限後退になってしまう。これは、宇宙はそれ自体で存在するはずがない、
神が造ったに違いない、しかし神はそれ自体で存在しうる、という議論に対する批判である。
こうして第一章が終わり、結論がくだされる。『だから、原因からなる結果もなければ、
原因からならない結果もない。結果がないから、原因とか無原因とはもない』」
第一動者が存在するか、無限後退するか、因果関係を遡る理性はそのようなことを考えるが、
感性の範囲を遙かに超えてしまったところの議論は不毛であると、
純粋理性批判にそんなことが書いてあったと思う。
「結果は原因からなる」という考え方は経験の範囲に留めていればよいのであって
「原因の原因」とセットで考えなければならないことではないと思う。
著者はこの議論を引用して「仏教がいかに智恵を重視する宗教であるかを示した」と書いているが、
論理矛盾するのでその考え方は間違っているということではなくて
どうして論理矛盾に陥ってしまうのかを考えることの方が智恵と呼べるのではないだろうか?
それに人間の探究心を途中で止めることなんて出来ない。
「物質は原子からなる」「原子は原子核と電子からなる」「原子核は陽子と中性子ならなる」
そのような議論が最後まで到達しないからといって
「物質は原子からなる」という考え方まで捨てなければならないとすれば私たちには何も残らない。
そのような思考停止に至る考え方を智恵などと呼ぶのはおかしい。

文殊は続けた。『仏は御存知です。存在するものは涅槃のように静寂であり、したがって不安を
脱することは不可能である、と。もろもろの存在はありのままに観察されるべきです。
そうすれば、それらには取るところも、捨てるところもないことが分かります。
もろもろの存在は平安に満ちている。だから、疑心の起こる余地がない。
増えることも減ることもありません。もろもろの存在は、本来、無であるから、変化がない。
これを知るひとには、一切の不安が消えてしまう。
浄らかなものも、汚れたものもありません。もろもろの存在に、本来、差別はない。
心は汚れていない、浄らかでない。心は見ることができない。差別を思わぬひとは汚れることがない。
いかなる存在も仏身です。不安も仏身です。不安をどこかへ追い出すことなど、できません』
王は文殊にいった。『すばらしい御教えです。わたしの不安が消えました』
『不安が消えたというそのこと自体が大きな不安です。先ほどからいっているように、
存在は、本来、無です。あなたは不安をどこで手に入れたのですか』
『あなたのおかげで、心が軽くなったのです。いまは、涅槃せずに死ぬことをも憂えません』
『王が欲しているもの(涅槃)は存在しません。すべては初めから涅槃しているので、
涅槃が生じることはないからです」

王(阿闍世王)は「あなたのおかげで、心が軽くなったのです」と言っているが
文殊(文殊菩薩)の主張によると「心が軽くなる」こともなさそうだ。
変化がないのだから・・・
たとえば痛みを感じることは生体の維持に必要なことだろう。
流血しているのに痛みを感じないのだとしたら失血して個体は死に至る。
暑さや寒さを感じてそれを避けようとするのも同様だろう。
不安や苦しみも同じようなものではないだろうか?
不安を避けるために「すべては無」だとか「心は無」と言っても仕方がない。
それは不安を避けるための働きを無効にしてしまうだろう。
痛みを感じない身体が個体を死に至らしめるのと同じように心の働きを損なってしまうだろう。
そして「心」というのは本来は「身体」に含まれるものだから
結局は「身体」を損なってしまう。
不安の性質を知ることなく不安を感じることそのものを消去しても仕方がない。
痛みの性質を知ることなく身体を治療するようなものだ。

「梁の武帝が達磨に「わたしは仏教のために多くの善をおこなった。功徳はどのくらいか」と
聞いたとき、達磨が「無功徳」と答えた話は有名である。ひとは常に報酬を求めて行動する。
生存本能のしからしめるところであろう。だが、宗教者は報酬を求める心を卑しいものとみなす。
しかし、宗教者といえども、この心を真に脱するものは稀である。
神を信じるひとは絶対に脱することができない。神に嘉せられるという報酬を期待するからである。
しかも、かれは自分にそういう心があるとは夢にも思わない。だから、右の頬を叩かれたら
左の頬をさし出しなさい、ということばを愛のことばと信じて疑わない。
これは、(ひとから)不利益を受ければ、(神から)褒美がもらえるという報酬の思想を表しているのである。
褒美は一つよりは二つのほうがよいから、左の頬を出すのである。
相手をほんとうに愛しているなら、左の頬を出して、相手に罪を重ねさせようとするはずがないだろう」
さて「報酬を求める心を卑しいものとみなす」ことは「神の報酬を期待する」ことと同じではないだろうか?
「報酬を求める心を卑しいものとみなして」行動するのはすでに卑しい。
きっと達磨はそんなことは考えなかっただろう。そして「真に脱する」とも考えなかっただろう。
さて次に右の頬と左の頬だが、マタイ5章には次のように書かれている。
「・・・しかし、この私はあなたたちに言う、悪人に手向かうな。むしろ、あなたの右の頬に
平手打ちを加える者には、もう一方の頬をも向けてやれ」
ここでは「悪人を愛せ」というのではなく「悪人に手向かうな」と言っているだけなのだ。
だが、ルカ6章になると愛敵に変質してしまっている。
「しかし、聞いているあなたたちには、私は言う、あなたたちの敵を愛せよ。
あなたたちを憎む者たちに好意を尽くせ。あなたたちを呪う者たちを祝福せよ、
あなたたちを虐待する者たちについて、祈れ。
あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも差し出してやれ」
ここでは「敵を愛せ」と書いている。
私はルカよりはマタイを取る。
ルカ福音書を必要とした教会がユダヤ教を敵として許せなかったように敵を愛することなど出来ないだろう。
キリスト教における神の報酬についてはヨブ記が参考になると思われる。
神とサタンに試されているヨブは褒美を期待していないように見えるが
神とサタンの裏話を知っているキリスト教徒は褒美を期待するようになるだろう。
またイスラム教は神を信じる者に褒美を約束しており、そのことを卑しいとも考えていないようだ。
卑しいとも考えないことこそ卑しくないのではないだろうか?
そして仏教がキリスト教を卑しいと考えることは卑しいことではないだろうか?
愛敵にはついていけないが隣人愛であれば報酬を期待しているわけでもないだろう。
隣人の中に神の国があるというのは心の持ち方について述べている。
功徳を期待しているわけではないのだ。

『浄土に魅力を感じない』と親鸞は言ったそうだ。
「これによって何人ものひとが、親鸞のことばに耳を傾ける気持ちになったことだろう。
かれらは親鸞のなかに、自分とまったく同病の人を見出すのである」ということだ。
きっと私もその同じ病なのだろう。病かどうかよくわからないが・・・
妻帯した親鸞は立派に救われてみせ「仏教を真にすべてのひとのものにしたのである」ということだ。
出家者でなくとも成仏できることを示そうとしたということだ。
「『南無阿弥陀仏』を繰り返し唱えるあいだ、ひとは自分を忘れる。
もし実質的にこれ以外に無我に至る方法がないとすれば、念仏は唯一の方便、真実の方便とすらいえるだろう」
そうだとするとイスラム教と同じではないだろうか?
そんなふうにして心が穏やかになり平安な世界が訪れるというのであればそれでよいのではないだろうか?
キリスト教国および日本を含むその周辺国ではイスラム教は過激で恐ろしいと喧伝しているが
イラクに住む無数の民間人を殺傷した米軍のことは伏せられている。
南無阿弥陀仏を唱えコーランを唱和して無我に至る。
それだけのことで満ち足りている人々をそのままにしておけない人々が世界を混乱させる。
彼らは神の報酬と現世での報酬の両方を求めている。
そのどちらも必要でないというのに・・・