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140億年の孤独

日々感じたこと、考えたことを記録したものです。

ウィトゲンシュタイン入門

2013-02-22 00:05:05 | ウィトゲンシュタイン
永井均「ウィトゲンシュタイン入門」を読んだ。

「いろいろな機会に何度か見かけ、あいさつ程度の会話はかわすようになっても、
それほど深く気にとめはしなかった人物が、ある日突然、自分の人生を決定するほどの
重要性をもって立ち現れる、そういった体験はないだろうか。
私とウィトゲンシュタインとの出会いは、そういう体験に似ていた」
そういう文章で始まっている。

初めて「論理哲学論考」を読んだ時はさっぱりだったねぇ・・・
野矢茂樹さんの「『論理哲学論考』を読む」を読んで(しかも2回目)
「えっ、なに、それっ」と思った瞬間が私にとって
「そういった体験」になるのかもしれない。
その時に、おそらくは私にとって最重要人物であることを直観したのだと思うが
明確な像は結べてはいない・・・それで最近、永井さんの本ばっかり読んでいるのは、
ウィトゲンシュタイン的なところに惹かれているからだと思う。

永井さんが子どもの頃に「私の心を捉えていた問題」として
「私はなぜ、今ここにこうして存在しているのか」という問いを紹介している。
そんなことは誰でも考えることじゃないのと思うかもしれない。しかしこの問いは
「なぜこの子(つまり永井均)が自分であって、隣にいる子が自分ではないのか」と
いうことだと説明されている。同じことを問うたことがあるなら意味はわかると思うが、
ややこしいことに、そこで問いが一般化・普遍化されてしまうので
同じかどうかはわからなくなってしまう。
そういうことになるのだとしても「私の問題」として私は考えて行きたい。
しかし、おそらくは答なんてない。

ウィトゲンシュタインの「語りえぬもの」は二種類あると紹介されている。
「世界の形式である先験的な語りえぬもの」と
「倫理、宗教、形而上学、独我論、といった超越的な語りえぬもの」である。
ウィトゲンシュタインの中で進展したのは前者の「語りえぬもの」であって
それは、論理形式・文法形式・生活形式というかたちで示されている。
後者の「語りえぬもの」についての直観は、ほとんど変えなかったそうだ。
彼はトルストイの「要約福音書」を大切にしていたそうだ。
しかし彼の宗教は、彼の哲学とは無縁のものだ。
彼は前者の「語りえぬもの」を示した。

「八人兄弟の末っ子として育つが、兄四人、姉三人のうち、
長男、三男、次男は、その後、あいついで自殺する。
ロシア戦線で右腕を失った片腕のピアニストである四男パウルと、
五男ルートウィッヒも、終生、自殺の誘惑と闘い続けたようである」と書いてあった。
そしてウィトゲンシュタインは同性愛者だったそうだ。
そういうことを気にする人もいるだろう・・・

最後の方で「私自身にとって、法外な値段がつく思想家は、今のところ
ウィトゲンシュタインとニーチェの二人だけである」と書いてあった。
「他の人がまったく語らなかった、彼らがいなければ誰も気づかなかったかもしれない、
まったく独自の問題を、ただ一人で提起した人たち」ということだ。
特にウィトゲンシュタインについては、「彼が勇気をもって語ってくれなければ、
私自身が彼と独立に感じていたある問題を、私は一つの問題として考えてよいという
ことすら、知らないで終わったであろう」とのことだ。

「思想の値段は勇気の量で決まる」とウィトゲンシュタインは
語ったそうだ。

「論理哲学論考を読む」を再読

2013-01-05 20:51:10 | ウィトゲンシュタイン
野矢茂樹「論理哲学論考を読む」を再読した。
前回はちょっと急ぎすぎて理解が足りないと思っていた。
野矢さんは『論考』を何回も読み返しているのだから
それよりアホな私はもっと読むべきだと思う。
それでとりあえず2回目です。

16ページに記載されているが『論考』全体に関わる問いかけは
「われわれはどれだけのことを考えられるのか」というものだ。
「『論考』は思考の限界を画定し哲学の全問題を解決したという不敵な表明」を示している。
それは解決というよりは解消であると記載されている。
思考不可能なことを思考することは
もともと無意味なことだ。

次に「思考の限界」を思考できるのかということが問題となる。
「思考可能な領域と思考不可能な領域を分ける境界が思考の限界」ということだが
「思考不可能な領域」など思考することはできない。
そこで思考に対してではなく思考されたことの表現、つまり言語において限界が引かれる。
「丸い三角形について考えろと言われても私たちは何も考えることができない」
「何について考えられないと言っているのかもわからない」
それはただ無意味でしかない。

「言語の限界は思考の限界と一致するのか」
ウィトゲンシュタインは一致すると主張する。

「善、悪、幸福、価値、生の意義、そうしたものは語りえぬが示されうるもの」だという。
「神は存在するか」とか「善とは何か」とか「生きる意味はあるか」など
そんなことは哲学で扱える問題ではないということだと思う。
紀元前より多くの哲学者がそうした不毛な問題を語ってきた。
『論考』という薄っぺらな本が全ての問題を解消したかは今のところよくわからない。
だが私たちはそもそも何が問題となっているか、それが語りえるものなのか、
まずはそういうことを考えるべきであると『論考』は語っているかのように思える。

『論考』が「語りえぬが示されうるもの」としたものは「論理と倫理」であるという。
倫理については語らないことにしよう。私たちの認識は倫理まで解明できない。
だが論理について語りえぬとはどういうことなのか?そもそも論理とは何か?
・・・論理とはNOT・AND・ORのことだ。
ソフトウェアやハードウェアの設計をしたことがある人はよく知っていると思う。
加算や乗算にしてもプロセッサの中では論理で計算される。
NAND(NOT+AND)回路という最小単位の組み合わせで全ての演算が可能となる。
「論理はア・プリオリなものである」という。
私たちは論理を元にして推論しているわけだから論理の正しさなど解明することはできない。
そういう意味で「ア・プリオリ」なわけだ。

そこで私は単に示されうるものである「論理」についてコンピューターとの類比で考えてみる。
脳を構成しているニューロンとシナプスにしたって
最小単位によって構成された「論理のかたまり」のようなものだろう。
脳の中が物理的・生化学的に論理的なのだから
それがア・プリオリであるということかもしれない。

ウィトゲンシュタインは「思考し表象する主体は存在しない」という。
『論考』では主体は対象ではないので論理空間に主体などないわけだ。
確かキルケゴールは「自己とは関係である」と書いていた。
両者の意味が一致するというわけではないと思うが
主体や自己が存在するとか、主体や自己という実体があるとか、
そういうのは私たちの勘違いではないかと思う。
少なくとも私には「本当の私」といったものは発見できなかった。
そんなものが脳の中に局在するなんてあり得ないだろう。
このことについて反論のある方はたくさんいるかもしれない。
<私>がなくなってしまうことについては本能的に恐れがあると思う。
行動の主体としての私はあると思う。
でも思考の主体はないのです。

論理哲学論考を読む

2012-05-29 00:01:23 | ウィトゲンシュタイン
野矢茂樹「ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む」という本を読んだ。
「論理哲学論考」は薄っぺらい本ですぐに読めてしまうが
きちんと理解できたかというと「???」という感じの本だ。
それで「論考を読む」の方は丁寧に解説してもらってとても参考になった。

「論考」には「哲学の全問題がけっきょくのところ思考不可能なものでしかなかったことを
明らかにしよう」とする意図があり、それは「われわれはどれだけのことを考えられるのか」
という思考の限界を追求することで達成されるものらしい。
古今の哲学者が悩んできたことは実は「思考不可能」なものだったということであれば
全ての哲学上の問題は解決、いや解消されるということになる。

そうすると「神」や「魂の不滅」なんてものは思考可能なことではなく、
単に信仰の告白なわけで、それは哲学の問題ではなく、信じる信じないの問題となる。
そうは言っても私たちの心は「神」の問題を考えてしまうのだが
限界がどこにあるかを知っておくことは無駄ではないだろう。

「論考」では「世界」と「論理空間」が次のように対置される。
世界・・・現実に成立していることの総体
論理空間・・・可能性として成立しうることの総体
この論理空間の限界こそ、思考の限界に他ならないそうだ。

さて、実際に哲学問題は「解消」されたのだろうか?
著者は最後の方で「こんな短い著作で哲学にカタがつくはずがないという健全な直感が
復活するだけのことである」と書いている。
ウィトゲンシュタインは失敗したのだろうか?
しかし私にはハイデッガーのような迷走した哲学ではなく
健全な哲学がそこにあると感じられる。

はじめての言語ゲーム

2012-05-27 20:31:24 | ウィトゲンシュタイン
橋爪大三郎「はじめての言語ゲーム」という本を読んだ。
ウィトゲンシュタインの「言語ゲーム」について知りたかったのだが
他に適当な本が見つからなかったので、とりあえず購入した。

この本では「言語ゲーム」のことだけでなく「論理哲学論考」のことや
ウィトゲンシュタインがどのような家庭に生まれ、どのように育ったか、
ラッセルとの出会いがどのようなものであったかなどが記載されている。(抜粋だが)
彼が通った冴えない実科学校にはヒトラーも通っていたらしい。
互いに口をきいたわけではないだろうが在籍期間が1年だけ重なるらしい。
ヒトラーとウィトゲンシュタイン、なんという組み合わせだろう。

ウィトゲンシュタインは裕福な家庭の生まれだが、二人の兄が自殺している。
そして本人は第一次世界大戦に従軍している。
《砲撃を受ける。砲撃のたびに私の魂は縮み上がる。私はもっと生きたいとこんなにも思う》
1916年7月24日に彼はそのようなことを記している。
死と向き合ったことがある人は生に対する執着が強いのだと思う。

「言語ゲーム」とは何かについて、この本では以下のように記載されている。
「規則(ルール)に従った、人びとのふるまい」

「『机』という言葉は、この世界にある、数えきれないたくさんの机を意味している。
けれども『机』の意味を理解するのに、そんなにたくさんの『机』を見る必要はない。
私たちは有限個の、それも、ごくわずかの机を見るだけで十分なのだ。
有限個を見るだけなのに、数えきれない場合にあてはまる規則(ルール)を理解する。
こういう、なんとも不思議な能力によって、人間は言葉の意味を理解する」
『机』という言葉を使う、「言語ゲーム」とは上記のようなこをを指すらしい。

「石工とその助手」で示された「2人4語ゲーム」を拡張していけば「n人m語ゲーム」になる。
「それこそ、私たちの世界(社会)ではないだろうか」ということらしい。
「この世界の意味や価値は、権力などによらなくても、人びとのふるまいの一致によって、
ちゃんとささえられている」とも書かれている。

今、ドヴォルザークの8番を聴いているが、
この曲の価値も言語ゲームに支えられているのだろうかと考えてみる。
思えば音楽そのものの価値もどうやって決まるのだかよくわからない。
音符の並びが、どのようにして私の中に様々な感情を引き起こすのかよくわからない。
ふるまいの一致は多分あるのだろう。しかし、どうして意味を理解するのかは謎だ。
それに言葉と音楽が同じかどうかはわからない。

「この能力こそ、人間が人間であることの根本ではなかろうか」と書いてあるが、
「この能力」というのは何なのか結局のところよくわからない。
人間を人間たらしめている能力が何かわからないということは
人間そのものがわからないということなのだろう。

青色本

2011-10-17 06:57:06 | ウィトゲンシュタイン
ウィトゲンシュタイン「青色本」を読んだ。
解説によるとこの本はケンブリッジによる講義の記録とのこと
ただし通常の講義は数週間で断念され、選ばれた数名の学生に口述し、
そのノートを他の学生たちに渡すというやり方に変更された。
その謄写版によるコピーに青い表紙がつけられ「青色本」と呼ばれるようになったという。
そしてこの本は「ウィトゲンシュタインの哲学的格闘の生々しい記録である」という。
それ故に非常に読みにくい。

そして「青色本は、その前半においては、「望む」「期待する」「信じる」
あるいは「考える」といった心の働きとされる諸概念にまつわる哲学的困難を論じており、
後半は、他我問題および独我論が中心になっている」とのこと

たとえば何ごとかを「望む」とはどういうことかに答えようとした場合に
「望む」という語を定義することが絶望的に困難であると感じられるという。
「望み方」にも「願い」や「欲望」や「期待」などの様々なレベルがあり
「望む対象」には様々な物事が含まれる。
そういうことを必要十分に特徴づけることは出来ないと野矢さん(解説者)は語る。
その議論を続けていくと「意味とは使用である」というところに行き着く。
「知識とは何か」「心とは何か」と考えたところで
純粋な「知識」なるものや純粋な「心」なるものが抽出できるわけではないらしい。
その言葉がどのように使われているかということが
「xとは何か」に答える唯一の道であるらしい。

「これまでの探求で我々が問題にしてきたのは、見る、聞く、感じる、等
「心の働き」と呼ばれるものを述べる語の文法であった、と事実言えるだろう。
それは、我々の問題とするものは「感覚与件を述べる語句」の文法である、
と言うことと結局は同じになる」と著者は語る。

しかし「感覚与件」とか「感覚与件を語る語句」とか「感覚与件を語る語句の文法」について
十分な説明があるわけではない。
そこで格闘していることは伝わってくるのだが
その問題は今でも解けていないのだ。

ウィトゲンシュタイン「私」は消去できるか

2011-10-14 19:00:28 | ウィトゲンシュタイン
入不二基義「ウィトゲンシュタイン「私」は消去できるか」という本を読んだ。
ウィトゲンシュタインの「私」をめぐる思想について考え
それが「私」の消去を試みたものだと説明している。

その補助線として著者は自身の名字に含まれる「不二」について説明している。
「不二の法門に入る」とは「さとりの境地に入る」ということであり
菩薩たちがその議論を展開している。

「「二」とは、「生と滅」や「幸や不幸」のような二項対立の状態であり、
「不二(二ではない)とは「対立する二項のどちらでもない」ことによって、
二項対立から自由になっていることである。
「さとり」とは二分法的な概念の軛から、解放されていることなのだろう」

そして最終的には「ことば」そのものが「二」であるとして退けられる。
「ことば」の本質的な働きは「分ける」ことであり
「A」という名前をつけることはAとAでないものを「分ける」ことであるから
「ことば」は「二」なのである・・・
つまり「沈黙」こそが「不二」ということになる。

このような「正反対の一致」についてウィトゲンシュタインが触れている箇所として
「論理哲学的論考」の独我論の箇所を扱っている。

そこに至る前にまず素朴な実在論といわゆる独我論の対立について語られる。
・素朴な実在論は「私」が「世界」の中の一存在者にすぎないことを説く。
・いわゆる独我論は「世界」全体は「私」の表象の中にあると説く。
「私」を蝶番のようにして素朴な実在論といわゆる独我論は相互に入れ替わるという。

ウィトゲンシュタインは「論考」を通過させることにより「いわゆる独我論」を
「徹底した独我論」に純化させているという。
そして「素朴な実在論」の方も「純粋な実在論」に純化させているという。

「論考」の感想にも抜粋したが「思考し表象する主体は、存在しない」と
記載されている。主体は世界に属さないのだ。
つまり「徹底した独我論」では「思考し表象する主体」は消し去られる。

一方、「純粋な実在論」では、世界内の「私」=「A」は、心的な要素の複合体へと
解体されるという。「世界」の中には、信じたり思考したりする単一の主体など、
存在しない。「世界」の中にあるのは、諸要素とその組み合わせから成る事実のみである。
純粋な実在論は、「私」=「A」という主体を、世界内の事実へと解消・解体してしまう
のであるという。

その結果、純粋な実在論と徹底された独我論は、次の二点において、
ぴたりと合致してしまうと著者は語る。
(1)「世界」の内にあるのは、もの(対象)の組み合わせから成る諸事実だけである。
(2)「世界」の内にも「世界」の外にも、「私」という特別な主体は存在しない。

さてこれで「私」は消し去れたのだろうか?
何か釈然としないものが残ってはいないだろうか?
いったい「私」を消去したからといって何がうれしいのだろうか?
それで哲学の謎は解けたと言えるのだろうか?
私の直感はここに示された論理に激しく抵抗している。
著者の思考によって生み出された本の中で「思考する単一の主体など存在しない」と
語るのは矛盾ではないだろうかと考える。

論理に傾きすぎた議論に欠けているものは私たちが生き物であるということだと思う。
哲学単体で解決できる問題とは思えない。
「哲学の目的は思考の論理的明晰化」であって
思考そのものを扱うことは出来ないのではないだろうか?

論理哲学論考

2011-10-10 00:10:30 | ウィトゲンシュタイン
ウィトゲンシュタイン「論理哲学論考」を読んだ。
「よくわかんないなー」と思いながらとりあえず最後まで読む。
「バートランド・ラッセルによる解説」がついているので読む。
訳者(野矢茂樹さん)の解説もあるので読む。
「なるほどそういうことなのか」と思い
もう一度最初から読む。

「哲学の目的」について以下のように語られている。
「哲学の目的は思考の論理的明晰化である。
哲学は学説ではなく、活動である。
哲学の仕事の本質は解明することにある。
哲学の成果は「哲学的命題」ではない。諸命題の明確化である。
思考は、そのままではいわば不透明でぼやけている。
哲学はそれを明晰にし、限界をはっきりさせねばならない。」

「限界」については以下のような記述がある。
「私の言語の限界が私の世界の限界を意味する。
論理は世界を満たす。世界の限界は論理の限界でもある。
・・・
世界が私の世界であることは、この言語(私が理解する唯一の言語)の限界が
私の世界の限界を意味することに示されている。」

そして「哲学的なことがら」について以下の記述がある。
「哲学的なことがらについて書かれてきた命題や問いのほとんどは、
誤っているのではなく、ナンセンスなのである。
それゆえ、この種の問いに答えを与えることなどおよそ不可能であり、
われわれはただそれがナンセンスであると確かめることしかできない。
哲学者たちの発するほとんどの問いと命題は、われわれが自分の言語の論理を
理解していないことに基づいている。」

この本で著者が論じようとしていることについてラッセルは次のように書いている。
「彼の理論の中で、その記号体系に関する部分について言うならば、
彼はそこにおいて、論理的に完全な言語が満たすべき条件は何かという
問題を論じています。」

論理的に完全な言語によって
「およそ語られうることは明晰に語られうる。そして、論じえないことについては、
ひとは沈黙せねばならない。」というわけだ。
これが真理であるならば実に哀しむべきことかと思う。
著者はそのことを予測していて序文を次の文章で締めくくっている。
「そしてもしこの点において私が誤っているのでなければ、本書の価値の第二の側面は、
これらの問題の解決によって、いかにわずかなことしか為されなかったかを
示している点にある。」

そして「主体」についても哀しむべき記述をしている。
「思考し表象する主体は存在しない。
「私が見出した世界」という本を私が書くとすれば、そこでは私の身体についても報告が
為され、また、どの部分が私の意志に従いどの部分が従わないか等が語られねば
ならないだろう。これはすなわち主体を孤立させる方法、というより
むしろある重要な意味において主体が存在しないことを示す方法である。
つまり、この本の中で論じることのできない唯一のもの、それが主体なのである。
主体は世界に属さない。それは世界の限界である。」

世界に属さないものについては語りようがないというわけである。
私たちが論理的に完全な言語を手に入れたとしても主体を語ることは出来ない。
つまり主体は「語ることしか出来ない」と言いたいのであろう。
論理的にはそうかもしれない。

ウィトゲンシュタインがこの本を書いたのは1918年であり、もうすぐ100年が経過する。
そして彼の書いた通り、私たちは「主体」を語ることに成功していない。
私はそれを「科学的な限界」かと思っていたが「言語の限界」ということになると
何だか絶望的な気分になってしまう。

「語りえぬものについては、沈黙せねばならない。」という文章でこの本は終わる。
その直前に「私の諸命題を葬りさること。そのとき世界を正しく見るだろう。」という
文章がある。ここにわずかな希望を見出す。
私は沈黙したくはない。

論理の最小単位はANDとORである。いや実際にはNANDだけで全ての論理は構築できる。
NAND回路を使えばAND回路とOR回路は作れる。
そして算術演算に使用する加算器ですらAND回路とOR回路で構築できる。
論理も数学も全てNANDの組み合わせで構築できる。
つまりコンピューターとはNANDという回路の組み合わせに過ぎないし
それを使用するソフトウェアにしてもNAND回路を使った演算しか実行していない。
ここに私の付け入る隙があると思える。
つまり論理の組み合わせが上位の概念を作り出すということだ。
それは分析的手法では理解できないことだと思う。
私たちは上位の概念が生成する過程を理解しなくてはならない。
それは分子の集まりに過ぎない生命がエントロピーに逆らって
秩序を維持するということに似ている。