140億年の孤独

日々感じたこと、考えたことを記録したものです。

現代伝奇集

2017-07-29 00:05:46 | 大江健三郎
99ページ
わしはたまたま大山祇神の社の池におるといわれておった、イケニエのカタメ鮒のことをやね、あの時思いあわせたのやが、
それはいつでも大山祇神のために役立てられるように、片眼をつぶして囲うてあった鮒の、
先祖の血を引いて一つ目やというカタメ鮒や。
・・・
それはやね、永い時のたつ間、村の人間がやね、自分らの土地の特別の場所に、やがて自分らに大災難がふりかかる際の、
イケニエとなる者らをやね、生き延びさせておいたということやろう。それこそやね、プロフェソール、
人間のカタメ鮒を、一区画に囲いこんで飼うておったことや。

生贄は死ぬほどの思いをして日々の食を確保していた古代の人々が考案した祈りに含まれる一つの手段のようであり、
やせ細って収穫が得られなくなった土地を肥沃にする、あるいは干からびてしまった水源を復活させるためには、
若くて美しい生贄が必要であると、つまりその血に含まれる旺盛な生命力が荒廃した環境を復活させるために必要であると、
そういう発想と思われるのだが、本来、飢餓と環境に直結していたその発想に、擬人化した神の概念が入り混じって来ると、
神様が怒っているから収穫が得られないのだということになり、神の怒りを鎮めるための犠牲という形に変質する。
その考え方が長い間、引き継がれ、歴史上も飢饉や水害といった災難が降りかかったことが記録されていると、
人間のカタメ鮒が必要という村の総意が形成されるのかもしれない。
しかし鮒とは違って人間は自分が生贄であるということを自覚してしまうため、その運命からの逃亡を企てるに違いない。
だがそんな自分を生かして来たのが常に生贄の供給を求める巨大な力であったなら、
力にひれ伏すより他になく、道化のように振る舞ってごまかすしかない。
ただ誰もが時折、そんな気分になるのではないだろうか。

139ページ
兄さん、僕がはじめてそいつを遠方から眼にした時の嫌悪感は、いわばこの世に他人が実在し、自分が実在することへの、
その根本的な組みあわせそのものに発するもののようだったよ。

不俱戴天の仇。見ているだけでつのる恨み、憎しみ。
異形に対する説明のつかない情動的な嫌悪感もあれば、繰り返された不毛な会話の結果として形成された嫌悪感もある。
話し合えば解決するという民主主義的な姿勢をかなぐり捨てて、二度と和解はないという意思を貫き通すほどの嫌悪感、
何かしらこだわりを持っているライフスタイルのようなものを揶揄されて生じる底なしの憎しみ。
年齢、時代を問わず人は好き嫌いに行動を支配されているのだが、相手を貶める場合には公正な振りをする。
そうして殺し合いが繰り返されて来たのだろうし、現代では命を取られるようなことはないにしても、
憎しみの対象を社会的に抹殺するという手続きを経ないと踏み躙られた自尊心は回復しないものらしい。
そうして成功した、失敗したと言っては、人生の大半の時間を使い果たしてしまう。
そんな争いに参入したくはないのだし、誰かを恨んだりするのも嫌なものだが、
金銭を取得するためには集団の中にいなければならない。
好きなものの中で生きたい。

名古屋フィル#71ヒナステラ エスタンシア組曲

2017-07-23 08:30:51 | 音楽
第448回定期演奏会〈メキシコシティ/マイ・メキシカン・ソウル〉
モーツァルト: 歌劇『ドン・ジョヴァンニ』K.527 序曲
モーツァルト: クラリネット協奏曲イ長調 K.622
モンカーヨ: ウアパンゴ
マルケス: ダンソン第2番
ヒナステラ: バレエ『エスタンシア』組曲 作品8a

開演前のロビー・コンサートではオーソドックスな弦楽構成やら木管だけであるとか小編成で十分程度の演奏を聴かせてくれる。
すぐ目の前で演奏してもらえるというのが楽しみだが、十数人程度しか座って聴けなくて後は立ち見になるので、
15時15分の開場前に早々と到着し、入場券をしおりにして本を読みながら並んで待っている。
今回は金管の五重奏という珍しい編成だった。
遅れてやって来た人が「座席は四人掛けです」と言って、おしりをフリフリ割り込んで来て、
そんなに座りたいなら、もっとスリムな体形になればいいのにとか、少し早く来て並ぶとかすればいいのにと思ったが、
夏場に密着するほど接近されるのはお互いに迷惑という良識に蓋をして権利だけを主張する人に何を言っても無駄なのだろう。
あなたよりも早く来た人たちが、こんなに大勢いるのに、あそこには小さい子供たちが並んで立っているのに。
そんなことをちらっと考えたが、考えるともっと不快になるだけなので、ちょうど各パートの首席奏者のみなさんも登場し、
一点の曇りもなく磨き抜かれて眩い光を放つ金管楽器が並び、磨き上げられた超絶技巧が間近で披露された。
やっぱり何も考えずに音楽だけ聴いているのは幸せだと思った。
演奏が終わって奏者は私たちのすぐそばを通り抜けて抜けて去って行くのだが、
小さな子供たちのそばを通り抜ける時に頭を撫でたりもしていたように見えた。

モンカーヨ、マルケスはメキシコの作曲家、ヒナステラはアルゼンチンの作曲家ということだが、
不勉強なもので、名前も知らないし、曲も知らない。
いつも知らない曲はYouTubeで検索して、コンサートまでに覚えることにしている。
聴いてみると、今回の演奏会のタイトルとなっている〈マイ・メキシカン・ソウル〉の息吹が感じられた。
どのあたりが「メキシカン」なのかと問われても明確に答えられるわけではないのだが、
リズムとか音色とか、舞踏が絡むような情熱的な響きとか、記憶の中では混然としていて判別のつかないものであっても、
直接に聴いたなら確かにこれが「メキシカン」なのだと思う音を、私たちひとり一人が多少の相違はあれど、
だいたい一致するようなものとして把握しているというのは考えて見れば不思議なことだ。
そしてパソコンやスマホで聴いたものとコンサートで聴くものとはやはりまるで違っていて、
いつものコンサートで聴く欧州の主要な作曲家の作品とも違っていて、
かつて聴いたことのない、かつて体験したことのない経験として私を捉えていた。
ありきたりなことを書けば「ソウル」が籠っていた。
指揮者は女流でおまけに美貌の持ち主だし、いつもと雰囲気が違ってて良かったと思って、
演奏終了後の洪水のような拍手の中で陶然としていたら、突然、タクトが降ろされてエスタンシアの終曲が再開され、
指揮者は会場の方を向いて拍手を誘導する。そして演奏の切れ目ではぴょんぴょんと二回跳躍するよう促す。
一階も二階も三階も、みんな身体を左右に揺すりながら拍手して、時々跳躍する人たちでいっぱいになった。
名フィルのコンサートが何回目かはタイトルを見ればわかっていただけると思うが、こういうのは初めてだ。
そしてあの小さな子供たちは、この日の感動を、熱狂を、ずっと覚えていることだろう。

叫び声

2017-07-22 00:05:51 | 大江健三郎
5ページ
戦争も、洪水も、ペストも大地震も大火も、人間をみまっていない時、そのような安堵の時にも、
確たる理由なく恐怖を感じながら生きる人間が、この地上のところどころにいる。
かれらは沈黙して孤立しているが、やはり恐怖の時代においてとおなじく、
ひとつの恐怖の叫び声をきくとその叫びを自分の声だったかと疑う。
そしてそのような叫び声は恐怖に敏感なものの耳にはほとんどつねに聞えつづけているのである。

差し迫る脅威もないのにいつも不安に怯えている人々、神経質で気難しく、
考えることはいつも後ろ向き、そして人の和に交わろうとせずいつも孤立している。
彼らは自分たちの感じていることをうまく説明できないでいる。
あるいはここに描かれている小説のように表現できたとしても、その日本語を聞き、あるいは読んだ者は、
問題の所在を把握することに関して自らに欠点があることに決して気付きもせず、
いったい何を気に病んでいるのか訝しく思うだけだろう。
核兵器の開発に成功したと言われている隣国が巡行ミサイルを発射したわけでもなく、
都心で大規模な爆弾テロがあって多数の死傷者が出たというわけでもなく、
三代続いた間抜けな経営者のせいで医療機器や半導体といった優良事業を手放すことになり、
さらなる経費削減のためのリストラに戦々恐々としているわけでもなく、
重い障害を持った身内を抱え精神的にも肉体的にも逃げることのできない緊張の連続した日々をすごしているわけでもなく、
自身が怪我や病気や失業に遭って子供の養育に対して責任を果たせない惨めな姿を晒しているわけでもない。
具体的な脅威が一切ないというのに何の叫び声か。
自らの世界観を疑った経験のない人に対しての一切の説明が無駄だということを
長年の経験で身に染みて感じている彼らは押し黙るより他にすることがない。
自分が生まれる前から世界はずっとそうだったのだし、これからもずっとそうだろう。
人々の間に生じるこの生まれ付きの差異が生じる原因は何なのか知る術もない。
叫び声を発するような人間に生まれて来たかったわけではない。別の人生があったかもしれない。
だがそんなことを言っても仕方がない。

29ページ
いま考えてみれば、虎がアフリカへ行きたいように、おれもどこかへ、ここより他の場所へ行きたかったんだなあ。
それというのもおれは自分を、おかしな具合でこの世界にいる流刑された、
どこかちがう世界の人間だというふうに感じることがあるんだよ。

「ここより他の場所」「この世界に居場所がない」という主題がこの頃はの作品には多いと思う。
集団になじめない孤立した人間に居場所などないのであって、ここより他の場所に行っても同じことだ。
居場所、つまり役割が信頼関係によって与えられるに違いないと考えるのは間違いで、役割は上下関係によって与えられる。
だから人間の尊厳などと言って妙にプライドの高い人間というのは、いつまでも居場所が与えられない。
それがこうした小説の登場人物、あるいは私自身の陥りやすい落とし穴だろう。

54ページ
呉鷹男はロビンソンを舌をならして呼びよせ、それから熊でもうちのめそうとするように力をこめて殴った。
ロビンソンは一瞬、世界中のすべての真実を疑ってピイピイなきながら台所へもぐりこんでいった。

ロビンソンというのは猫なのだが、世界中のすべての真実を疑う猫の表情というものを思い浮かべようとすると、
なんだかとてものんびりとした気分になれる。

みずから我が涙をぬぐいたまう日

2017-07-15 00:05:53 | 大江健三郎
116ページ
天皇陛下ガ、オンミズカラノ手デ、ワタシノ涙ヲヌグッテクダサル、死ヨ、早ク来イ、眠リノ兄弟ノ死ヨ、早ク来イ、
天皇陛下ガ、オンミズカラノ手デ、ワタシノ涙ヲヌグッテクダサル、ト歌ッテイルノダ。
天皇陛下ガミズカラソノ指デ、涙ヲヌグッテクダサルノヲ待チ望ンデイル、ト歌ッテイルノダヨ。

天皇、あるいは「純粋天皇のテーゼ」を扱っているのだということだが、よくわからない。
戦前の偏った教育により洗脳されてしまった不幸な国民、私たちはずっと騙されていたのだという類のことで片付きはしないだろうし、
割腹自殺を遂げた作家の根底に死すべきどのような訳が潜んでいたのか凡人には推し量れないところもある。
民族の意識に共通的に根源的にすり込まれてしまっているのではないかと思えるようなこと、
いつの時代にあっても滅ぼされることなく、時の権力に担がれて来た神聖なる存在、
通常であれば敵対勢力は根絶やしにしてしまうだろうし、大陸の皇帝であれば自分以外の血族が神聖であることなど認めないだろうし、
ただこの国では、神倭伊波礼比古命を起源とする神話、あるいは言い伝えを頑なに信じようとするところがあって、
それは日本人の心、日本人の起源というものを大切にしようとする自尊心と微妙な案配に結合しているようなものであって、
そうした人々に、カムヤマトイワレビコは朝鮮半島での争いに敗れて日本列島に落ちのびて来たのではないかと言ったとしたら、
ものすごい剣幕で怒られてしまうのだろう。
神聖な者の存在を頑なに肯定しようとする傾向は、たとえば地に触れると皇子の力が弱まるといった信仰は、
私たちだけではなくて世界中の民族に共有されるようなところがある。
私たちが容易に触れることを禁じられている神性が確かに存在していて、禁じられてはいるが、
本来の手の届かないところにあるような神性とは違って、
何かめざましい特別な功績を成遂げたのであれば御みずからの手で勲章を授けていただけるとか、
御みずからの手で「涙をぬぐってくださる」といった褒賞を得る機会もあり得るようなそんな性質の神性であって、
私たちはそれと隔離されているのではないといった思いが込められているような気がする。
民間から配偶者を迎え身近になった皇室というのとは違う、美しすぎる皇族といって話題になる姫君とは異なる、
侵すべからざる神性を備えた人間の存在を私たちは熱望しているということなのだろうか?

226ページ
―――しかもそのヒッピイなどという連中も、この月への有人宇宙船計画で実用化された科学技術は平気で利用するんだからね。
恥知らずな話じゃないだろうか? 自分では努力せず、他人の努力は批判し、それも論理にならぬ悪口をいい、
ただ現実化した利益のわけまえにだけあずかるんだぜ。

「反対ばかりしている」「何にでも反対している」「いつでも反対している」
生産的であることを自負している人は、敵対勢力を貶める場合にそうした主張を行う。
相手の言っていることが間違いであると論証するのではなくて、
反対ばかりしている人間の人格を取り上げ否定することにより、今後彼が発言するすべての言葉を否定する。
過去にあった経歴詐称とかスキャンダルを利用することもある。
相手の人格が信用できないということを証明すれば大抵の場合は易々と勝利を手にすることができる。
そうして科学技術の恩恵にあやかっている私たちは原発が嫌なら電気を使うなとか言われてしまう。
電気を使わなくても生活できる手段が用意されているわけでもないのにそんなことを言われ、
発電技術の専門家でもないのに代替手段を示せとか言われ、最後には「反対ばかりしている」と言われる。
だが実際のところ、批判する方もされる方も、実用化された科学技術と無縁の生活を送ることができない。
進歩も進化も不可逆的なところがあって、それがなかった頃には戻れはしない。
初めから選択肢などない。そういう意味では反対しても仕方がない。

255ページ
エコロジカルな意味あいでの存在の意味とは、それがなんであれ、ある種が滅亡することなしに保存される、ということだ。
その種の保存がなににもまして重要だという認識だ。つまらぬちっぽけな植物にしても、
それがうしなわれてしまうということは、大変なことなんだよ。
なぜなら人間には、その植物をあらためてつくり出すことはできないからね。

人間が絶滅させた動植物の数よりも、自然が絶滅させた動植物の数の方がずっと多いだろう。
あるいは絶滅を免れている種というのはなく、古代よりその姿を保っていたなら生きている化石などと言われたりする。
だから種をつくり出せないからというのではなくて、共に滅びるべき存在の片割れとして、
動植物の滅亡には加担することはできないという方が私にはしっくり来る。

名古屋フィル#70 R.シュトラウス ホルン協奏曲第1番

2017-07-08 12:17:31 | 音楽
第447回定期演奏会〈ベルリン/ドイツのホルン〉
モーツァルト: 交響曲第40番ト短調 K.550
R.シュトラウス: ホルン協奏曲第1番変ホ長調 作品11
R.シュトラウス: 交響詩『ドン・ファン』作品20
R.シュトラウス: 交響詩『ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら』作品28

名フィルHPの「聴きどころ」には以下の記載があった。
ベルリンで学んだ指揮者とベルリン・フィル首席ホルン奏者が、名古屋で邂逅! 
ホルン奏者を父に持ち、ホルンの扱いについては音楽史上最高とも言えるシュトラウスの傑作を3曲取り上げます。
「これぞドイツ」というホルンの響きを、たっぷりご堪能ください。

下記はWikipediaより引用
ドン・ファン(Don Juan)は、17世紀スペインの伝説上の放蕩児、ドン・フアン・テノーリオ(Don Juan Tenorio)のことで、
プレイボーイの代名詞として使われる。フランス語ではドン・ジュアン、イタリア語ではドン・ジョヴァンニと呼ばれる。

「交響詩(symphonic poem)」は作曲家自身がそのジャンルに属するものとして命名しており、
その標題が示すように「文学的、絵画的な内容と結びつけられる」ものなのだろう。
そうした音楽とは異なる形式の芸術作品から作曲家が何をインスパイアされたのかはよくわからぬが、
聴いている方は作曲家とは異なった印象を文学作品に対して抱いていたりするのだし、
それも音という形式ではない言語や視覚で表象されるイメージを堅固に持っていたりするものだから、
音によって表現される内容とは一致しないことの方が多いと思う。
映画にも引用されて有名になった「ツァラトゥストラはかく語りき」に至っては、
そんなものは決して音楽という形式では表現し得ないと固く信じている哲学研究者にとっては極めて不快な音として響く場合もあり得る。
確かに標題は客を引き付ける作用を持っているには違いないが、逆にその信仰者を反発させる要因にもなっている。
一般的にはそのような事情が、R.シュトラウスの作品から人を遠ざけているような気がする。
私も別に愛好家というわけではなく、コンサートで取り上げられているので、聴いたというだけのことだ。
それにまたオペラであれば物語の進行と音楽の進行が両立するのだろうが、
交響詩の演奏時間は極めて短いため、題材とされた人物の体験をいちいち想像する時間もない。
その心情や情景を音楽に重ねている余裕はあまりない。
それで今回聴いていて「標題を忘れて聴いた方が良い」と思った。
言語や意味の縛りから自由に飛翔できるところが音楽のすばらしいところであるのだから、
標題にしばられながら聴くのは良くないと思った。

新しい人よ眼ざめよ

2017-07-08 00:05:40 | 大江健三郎
70ページ
先生の記憶されるところでは、息子の頭蓋の欠損をはさんで二つの脳があった。
外側の脳が活動していないことを見きわめて切除したのだが、その手術部位に近い、
生きている脳の部分は視神経と関係する部位であった。

脳が活動しているか活動していないかを見極める方法がどのようなものなのかよくわからない。
電気信号だか化学反応だかを可視化した装置によって活動の有無を調べるというようなものだろうか?
ただ、頭と同程度の大きさの瘤を抱えたまま、歩いたり活動したりはできないのだろうし、
それが外側の脳だとして、それが生きていたとしても、動物としての活動を営むためには切除しなければならないのだろう。
いったい脳のどの部分が必須で、どの部分が人間としての活動を生みだしているのだろうか?
人間と獣の差異を生みだす部位に障害を持って生まれて来た子供が親に与えるインパクトは強烈なものに違いなく、
母親ならば、正常な機能のままに産んであげられなくてごめんなさいといったことを考えてしまうかもしれない。
遺伝だか事故だかよくわからないが、何らかの変異で頭蓋が欠損する確率は存在するのだろうが、
私を含めて多くの人間は、そんなことを知らずに、それとは無関係に生きている。
人間は脳の発達によって高度な文明を築きあげたということだし、
知的で創造的な活動を生業とする作家という職業にあっては、知恵おくれの子供の存在の与える意味は明確であって、
非常に冷たい言い方をするのであれば、役に立たない、ということになる。
ただその知的な活動というのが、人間性を回復するとか、人としての非道な振る舞いを告発するというようなことであれば、
貴重な人生の時間を将来が約束されているわけでもないその子のために使わなければならないと思ってしまうこと自体が、
人間性を人一倍大切にしようとする本人を強く苦しめてしまうのかもしれない。
告発されるべきは本当は自分自身であったというごまかしようのない事態が目の前に展開されてしまうのだ。
そうして自らを裁く事態を避けるためには、生じた一切の事態を受け入れることしか残されていなくて、
そのことをモチーフとして様々な小説が展開されたという事実がそれを証明しているかのようだ。
そしてその小説を読む側も、いったい自分はどれほどのものを引き受けられるのだろうかという問題を突きつけられる。
他者のために自身の貴重な時間をどのくらい注ぎ込むことができるのか?
時間というのはもちろん、それを合計すると命になるという性質のものである。
つまりは自分の命を差し出すことができるのか?
忠誠心というのはこれに似たところがあって、我に従い己が時間を無条件に差し出す部下、
主君のために己が命を捧げる部下、を見きわめて、それは毎日の習慣となった歯の浮くようなお世辞であることもしばしばだが、
そういう人間が信用を勝ち取っている。ただ報酬を望む望まないによって両者の性質は著しく異なる。
そうして自己犠牲がすべてではないにしても、それを追求していったのであれば、
イエス・キリストに辿り着くのかもしれない。ただ作者はキリスト教と一定の距離を置いているように感じられる。
私のように信じることができなくて、感じることができなくて、考えてしまうからというのが、
その理由なのかもしれない。

112ページ
それでも僕は、自分の生涯からあの汚辱の五週間を、なにものかの強い浄化の力によって洗いながすことはできず、
むしろ自分の死の時のいたるまで、できぬはずのことであろうと考えているのでもある。

「畸形の息子の誕生から、かれの死を願った汚辱の五週間」
生まれて間もない赤ん坊には意識のようなものは芽生えてはいないのだと言ってのけるような恥知らずさと、
後々の自分の人生の足手まといになるであろう存在から逃れたいという切なる願望とが混じった気持ちから、
生ける我が子の死を願うという、人間存在の損なわれぬことを訴えようとしている自分がそんなふうだったとしたら、
まさにその記憶は汚辱にまみれていて、一生拭い去ることはできないのだろうが、
その事実を隠さずに公表するある意味での強さや誠実さというのが現れているように感じる。
私にはそんな勇気はなく、汚辱を墓場まで持って行くことだろう。
汚辱のない人間はいないのかもしれない。

197ページ
―――奥さん、そのような考え方は、だめですよ。敗北主義ですから、だめですよ、といったのである。
この憲法パンフレットを胸ポケットに入れさせて置いてですね、困ったことがあれば、障害児がハイといってこれを出す。
それだけで、すべて解決。そういう社会をですね、実現しなければ、だめですよ。
それをめざさないかぎりは、みな敗北主義ですよ。

憲法に何が書かれていたかなんて、もう覚えてはいない。
基本的人権の尊重とか、国民主権とか、そういったことだったろうか?
そういうことを一生懸命訴えたところで、所属する集団の利益を損なう者は尊重されないのであって、
個を強く自覚して、個として生きようとする人々が「憲法」といったところで排斥されるだけだろう。
社会はいくつかのグループに別れて激しい競争のさなかにあるのだから、
「そういう社会」というのは実現しようがないというか、
生存競争のただなかにあるのが、社会とか、世界とか、空間を満たす物質の常態という感じがしなくもない。
それが卑怯とか、人道的ではないという行き過ぎを除外できたとしても、
たいていは競争の中にあって、障害児はそこからはみ出してしまう。
だが、そうしてはみ出してしまうような存在がいることがまた、別の考え方を生みだすのであって、
最終的には老いて弱者となって虚しく死んで行くしかない自分自身の将来を想像する程度の能力があるのならば、
やさしくあろうという気持ちが湧いて来るような気がする。

万延元年のフットボール

2017-07-01 00:05:59 | 大江健三郎
22ページ
なぜなら、性的な偏向など結局たいしたことではないのだからな。それは、その人間の根底にとぐろをまいている、
本当に恐しい奇怪なもののもたらした、ひずみのひとつにすぎない。巨大な、抵抗しがたい狂気の原動力が、
魂の奥底にねそべっていて、それがたまたまマゾヒズムというひとつの歪みを誘発したにすぎないのだから。
マゾヒズムへの深入りが、友人の内部に自殺にいたる狂気を生みだしたのではない、その逆だ。
そしてこの癒しがたい狂気の種子は僕にもまた・・・・・・

絶望的で過酷な状況の中、理性と分別を失わず、強靭な意志を持って実現困難な目標に向かって怯むことなく取り組む、
そういう美しい精神のあり方、偉人と呼ばれる人々に共通しているタイプの資質、のようなものを賛美する傾向、
自らを同列に重ねてほくそ笑んでいる、分析と理解が可能である精神の活動範囲を逸脱しないということ。
フロイトが平穏な価値観を根底から変えてしまうような世界観、つまり自分は自分の主人ではない、を提唱したが、
あまりに性的な偏向が強いということで、まさにその対象であるところの人々の共感を得られなかった。
そうして相変わらず、制御不能なものを抱えているというのは自制が足りない、訓練が足りないのだということになるのだが、
生まれ付きその恐ろしい資質から解放されている人々にとっては根本的に理解不能なことかもしれない。
行動の主体としての人間が時系列的にすべての体験を整理して今後の活動つまりは生存に役立てるという仕組みが、
うまく機能している場合は良いのだが、それは意識の働きの全体の可能性の中のごく一部にすぎないのであって、
意識の届かない大部分の領域ではいつも「恐しい奇怪なもの」がはびこっている。
そんなものとは無縁の生涯をすごしたいと思ってもどうにもならない。
それを避けて生きては行けない。

111ページ
―――ジンは肥満してほとんどなにひとつ仕事ができず、しかもなお毎日大食せざるをえなくて
ますます肥大しつづけているだけの生活を、まったくムダなことだと感じているんだ。
凄まじく肥満した四十五歳の女が、自分の大食の日々はムダだ、とあらためていうのを聞くと、それはなにごとかを悟らしめるよ。
ジンは、単なる思いつきではなくて、あらゆる観点から自分の生活がムダだと実感しているのに、朝から晩まで、
あんなつまらない大量のものを食いに食っているんだからなあ。ジンの厭世感には実体がつまっている、
と鷹四は同情的にいっていた。

仕事もできずに毎日大食するだけのまったく無駄な生活、無駄な人生、無駄な一生、
肥満した大女のことをそのように扱ったとして、私たちはそれより優れた存在なのだろうかという想いが過ぎる。
ぱっとしない仕事を数十年も続けて生計を立てている一億を超える国民の大多数のうちのひとり、
大食というのではないが命をつなぎとめるために毎日何かしら口にしなければならない悲しむべき存在のうちのひとり、
おそらくは自分はここに描かれている大女とさして変わらないのだろう。
そしてこの先もたいしたことないのだろうし、子供を育てることの他には生きる理由も見当たらない。
じゃあ死ねばと言われたとしたら、死ぬのは怖い、死ぬのが恐いから生きているというだけ。
そしてこんなことを、つらつら書いているのも、そのムダな人生に含まれているに違いないが、ムダでいいじゃないかとも思う。
有意義な時間を過ごそうと言ったところで、何が有意義かもわからないので、できる範囲でそうするしかない。
まったく自分の能力に絶望しながらも、生き続ける能力、厭世的でありながら心の奥底に根拠のない希望を持って生きる能力、
壊れやすさと同居した耐え忍ぶ力、そういうものがあればいいなと思う。

155ページ
「単純なことさ、蜜ちゃん。谷間の人間は、二十年前強制されて森に伐採労働に出ていた朝鮮人に、
今や経済的な支配をこうむっていることを、あらためて認めたくないんだ」

経済的な支配というのは圧倒的で、暴力的で軍事的な支配を露骨に面に出すことができなくなった時代にあっては、
それこそが支配そのものという感じがして、その支配者になるべく順風満帆な経営状態の営利企業における地位を
一歩一歩固めて行くというのが、常識を備えた人間の日常的に取るべき行動指針であるという感じになる。
自由競争が保障された社会で自分自身の能力を磨き努力し達成した成果であり確保した地位なのだから、
努力もせずに妬んでいる連中が何を語ろうとも意に介さなくて良いのだと彼らは態度で示す。
人間でなくとも自意識を発達させうる霊長類の群れの中の関係は微妙なので、
流血を回避するためには日々のマウンティングが欠かせないのであり、会社の上下関係というのもその発展形なのかもしれない。
被支配者の認めたくない事実を、支配者は毎日確認したいのであって、
そういう意味では確認の労を取らなくてもよいお世辞の類というのは支配者にとって最も好ましい行為なのだろう。
そこまでして上に行きたいかということだが、私たちは下にいるのが嫌というのが実態であり、
嫌なら「努力」しなさいということなのだろうが、やはりそういう世界にはなじめない。

237ページ
「単純な話だが、おれは暴力的なるものについて考えるといつも、自分の先祖たちがかれらをめぐる暴力的なるものに対抗して
よくも生きのびることができ、おれという子孫に生命をつたえ得たものだと不思議に思うよ。
かれらは恐しい暴力の時代を生きたんだからね。ここにおれが生きている事実の背後に、おれにつながる人間がいったい
どれだけの量の暴力的なるものに対抗しなければならなかったろうと考えると気が遠くなるなあ」

戦争を生き延びた先祖の時代を思い浮かべ、あるいは偶然が彼の命を奪うこともできたのだろうと、
そうであったなら私は今、ここにはいないのだと考えたりして、過去にさかのぼることで壮大なストーリーを夢想し酔いしれる。。
かけがえのない自分に結び付く暴力に満ちた偶然の出来事をくぐり抜ける若き頃の先祖たち、本当にそうだったのかは知らない。
どんどん遡っていけばカンブリア紀の生命現象が爆発した頃の温暖な海の中がその事象の発端であり、
それまでは生命は単純な形を気が遠くなるほど長い間、維持して来たのであって、
生命の多様化が競争を激化させたのか、食う食われるの関係が競争を加速して生命の多様性をもたらしたのか、
とにかく食う食われるというのが暴力的なものの起源ということかもしれない。
同族間で激しい争いを繰り広げる人間は少し違うのかもしれないが、食うことから始めて豊かさを追求した結果として、
ある集団と別の集団が衝突することになったというのであれば、その発展形と言えるかもしれない。
そういう意味では暴力の時代というのはいつもそうなのだ。

261ページ
「生き残る者たちへの最後の自己表現を、朱色の頭をした自分の素裸の死体でおこなうという決断は、
まったく勇気のいることだろうじゃないか。かれは行為において、本当のことをいって死んだ。
かれがどのような本当の事をいったのかはわからないが、とにかく絶対にかれが、本当の事をいったということだけは確実だ。
おれは菜採ちゃんからその話を聞いた時、蜜の死んだ友達に腹の中で、O・K、あなたの叫んだ本当の事は聞こえた、と合図したよ」

それを言ってしまうと死に至ってしまうような本当の事、
生存を維持するためには群れの中の秩序に従わねばならず、掟に背くことはできず、他人との関係性を損なう事実は表沙汰にはできず、
そうしている間に、本当の事は、私の中の深いところにしまい込まれるしかなくなってきて、
でもその本当の事とはまったく無関係に私は成立しているわけではないことを強く自覚していて、
そうして打ち上げ花火のように燃え尽きる手前で華々しく命を迸らせるしかなくなる。
それは不可解な形でしか表面化しない性質の事象に違いなくて、大抵の場合は理解が及ばないのだが、
誰か受け止める人がいなければ寂しすぎる。

332ページ
―――四国にやってくる車の中で、走りながら夜が明けて来たら、どこかの海のそばを車が走っていた朝、
鷹は、いったい人間には、まだ善いところが残っているのか? と私たちに聞いて、そうだ残っているんだ、と自分で答えたのよ

「いったい人間には、まだ善いところが残っているのか?」と問う時に、その人間とはいったい誰のことを指しているのだろう。
さほど深刻でない場合は世界中のどこにでもいるありきたりな、それによって特定を免れた人間のことだろうし、
それが極めて深刻な場合は、おそらくは自分自身のことを指している。
そうして「そうだ残っているんだ」と答える時、自分への期待を込めて、これから先の事態の好転を願って、
そうでも言わなければやって行けない現状をなんとかしようとしている。

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「蜜、おれは話したいことがあるんだ。蜜に本当の事をいいたいんだ」

本当の事を話してしまったら、もうおしまいだ。