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わしはたまたま大山祇神の社の池におるといわれておった、イケニエのカタメ鮒のことをやね、あの時思いあわせたのやが、
それはいつでも大山祇神のために役立てられるように、片眼をつぶして囲うてあった鮒の、
先祖の血を引いて一つ目やというカタメ鮒や。
・・・
それはやね、永い時のたつ間、村の人間がやね、自分らの土地の特別の場所に、やがて自分らに大災難がふりかかる際の、
イケニエとなる者らをやね、生き延びさせておいたということやろう。それこそやね、プロフェソール、
人間のカタメ鮒を、一区画に囲いこんで飼うておったことや。
生贄は死ぬほどの思いをして日々の食を確保していた古代の人々が考案した祈りに含まれる一つの手段のようであり、
やせ細って収穫が得られなくなった土地を肥沃にする、あるいは干からびてしまった水源を復活させるためには、
若くて美しい生贄が必要であると、つまりその血に含まれる旺盛な生命力が荒廃した環境を復活させるために必要であると、
そういう発想と思われるのだが、本来、飢餓と環境に直結していたその発想に、擬人化した神の概念が入り混じって来ると、
神様が怒っているから収穫が得られないのだということになり、神の怒りを鎮めるための犠牲という形に変質する。
その考え方が長い間、引き継がれ、歴史上も飢饉や水害といった災難が降りかかったことが記録されていると、
人間のカタメ鮒が必要という村の総意が形成されるのかもしれない。
しかし鮒とは違って人間は自分が生贄であるということを自覚してしまうため、その運命からの逃亡を企てるに違いない。
だがそんな自分を生かして来たのが常に生贄の供給を求める巨大な力であったなら、
力にひれ伏すより他になく、道化のように振る舞ってごまかすしかない。
ただ誰もが時折、そんな気分になるのではないだろうか。
139ページ
兄さん、僕がはじめてそいつを遠方から眼にした時の嫌悪感は、いわばこの世に他人が実在し、自分が実在することへの、
その根本的な組みあわせそのものに発するもののようだったよ。
不俱戴天の仇。見ているだけでつのる恨み、憎しみ。
異形に対する説明のつかない情動的な嫌悪感もあれば、繰り返された不毛な会話の結果として形成された嫌悪感もある。
話し合えば解決するという民主主義的な姿勢をかなぐり捨てて、二度と和解はないという意思を貫き通すほどの嫌悪感、
何かしらこだわりを持っているライフスタイルのようなものを揶揄されて生じる底なしの憎しみ。
年齢、時代を問わず人は好き嫌いに行動を支配されているのだが、相手を貶める場合には公正な振りをする。
そうして殺し合いが繰り返されて来たのだろうし、現代では命を取られるようなことはないにしても、
憎しみの対象を社会的に抹殺するという手続きを経ないと踏み躙られた自尊心は回復しないものらしい。
そうして成功した、失敗したと言っては、人生の大半の時間を使い果たしてしまう。
そんな争いに参入したくはないのだし、誰かを恨んだりするのも嫌なものだが、
金銭を取得するためには集団の中にいなければならない。
好きなものの中で生きたい。
わしはたまたま大山祇神の社の池におるといわれておった、イケニエのカタメ鮒のことをやね、あの時思いあわせたのやが、
それはいつでも大山祇神のために役立てられるように、片眼をつぶして囲うてあった鮒の、
先祖の血を引いて一つ目やというカタメ鮒や。
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それはやね、永い時のたつ間、村の人間がやね、自分らの土地の特別の場所に、やがて自分らに大災難がふりかかる際の、
イケニエとなる者らをやね、生き延びさせておいたということやろう。それこそやね、プロフェソール、
人間のカタメ鮒を、一区画に囲いこんで飼うておったことや。
生贄は死ぬほどの思いをして日々の食を確保していた古代の人々が考案した祈りに含まれる一つの手段のようであり、
やせ細って収穫が得られなくなった土地を肥沃にする、あるいは干からびてしまった水源を復活させるためには、
若くて美しい生贄が必要であると、つまりその血に含まれる旺盛な生命力が荒廃した環境を復活させるために必要であると、
そういう発想と思われるのだが、本来、飢餓と環境に直結していたその発想に、擬人化した神の概念が入り混じって来ると、
神様が怒っているから収穫が得られないのだということになり、神の怒りを鎮めるための犠牲という形に変質する。
その考え方が長い間、引き継がれ、歴史上も飢饉や水害といった災難が降りかかったことが記録されていると、
人間のカタメ鮒が必要という村の総意が形成されるのかもしれない。
しかし鮒とは違って人間は自分が生贄であるということを自覚してしまうため、その運命からの逃亡を企てるに違いない。
だがそんな自分を生かして来たのが常に生贄の供給を求める巨大な力であったなら、
力にひれ伏すより他になく、道化のように振る舞ってごまかすしかない。
ただ誰もが時折、そんな気分になるのではないだろうか。
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兄さん、僕がはじめてそいつを遠方から眼にした時の嫌悪感は、いわばこの世に他人が実在し、自分が実在することへの、
その根本的な組みあわせそのものに発するもののようだったよ。
不俱戴天の仇。見ているだけでつのる恨み、憎しみ。
異形に対する説明のつかない情動的な嫌悪感もあれば、繰り返された不毛な会話の結果として形成された嫌悪感もある。
話し合えば解決するという民主主義的な姿勢をかなぐり捨てて、二度と和解はないという意思を貫き通すほどの嫌悪感、
何かしらこだわりを持っているライフスタイルのようなものを揶揄されて生じる底なしの憎しみ。
年齢、時代を問わず人は好き嫌いに行動を支配されているのだが、相手を貶める場合には公正な振りをする。
そうして殺し合いが繰り返されて来たのだろうし、現代では命を取られるようなことはないにしても、
憎しみの対象を社会的に抹殺するという手続きを経ないと踏み躙られた自尊心は回復しないものらしい。
そうして成功した、失敗したと言っては、人生の大半の時間を使い果たしてしまう。
そんな争いに参入したくはないのだし、誰かを恨んだりするのも嫌なものだが、
金銭を取得するためには集団の中にいなければならない。
好きなものの中で生きたい。