140億年の孤独

日々感じたこと、考えたことを記録したものです。

ルカによる福音書

2014-08-30 00:05:08 | キリスト教
解説によるとルカの中には図式で表象された歴史観があるのだという。
「洗礼者ヨハネまでは『前史』であり、神の救済の約束がなされる。その次が『キリストの時』であって、
約束の成就の時であり、またサタンの攻撃から守られた、理想的『時』である。
・・・その死の後、イエスは復活して原則的には再び勝利が確認されるものの、
他方、苦難を特徴とする『教会の時』が開始されるのでもある。
・・・こうした救いの大筋が存在し、それを担っているのが教会であれば、人間が救われるのは
その教会に与ること以外には原則として有り得ない。そのための具体的条件が『悔い改め』である。
この語は、とりわけマルコでは人間の実存の根源的な方向転換であって『回心』とでも訳すべき
語であったが、ルカにおいては倫理的に自己の『罪』を教会に対して『悔いて』、行状を『改める』という
意味の述語に変質している。
・・・また、ルカによれば、イエスの受難以降迫害の動機が活性化するのだが、イエスはこの点において
優れて範例的意義を帯びる。つまり『父よ、あなたの両手に、私の霊を委ねます』と言って息絶えるイエスは、
典型的に美しい『殉教者』の死を遂げるのである。それは『教会の時』の迫害においては、
信者にとっての最高の規範に他ならない。
ただ、このイエスの言葉は、マルコ福音書の『エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ』を削除して、
その代わりに挿入された一文であることも注目せねばならない」

『教会の時』『罪』『悔い改め』という点で、ルカ福音書は最も現在のキリスト教に近いのではないかと思う。
そしてヘレニズム文化の正規教育を受けていたと言われる著者(便宜上、ルカと呼ばれる)は
ローマに対してはキリスト教が危険な宗教ではないことを説き
受胎告知の詳細なストーリーを加えることでマリヤを神聖化して女性信者をも取り込み
キリスト教に改宗した異邦人としてユダヤ人に欠けていたものを補いつつその普及に努めていったのではないかと思う。
・・・マルコではイエスの誕生は扱われていない。
マタイではひそかに身重になっていたマリヤについて思い煩う婚約者ヨセフのもとに御使い(名前はなし)が現れ
「ダビデの子ヨセフよ、お前の妻のマリヤを受け入れることを恐れるな。なぜなら、彼女が孕んでいるのは、
聖霊によるものだからである」と語りかける。
ルカでは、ヨセフではなくマリヤのもとに御使いのガブリエル(さすがに大天使)が遣わされる。
「恐れるな、マリヤム(ヘブライ語発音)よ、なぜなら、あなたは神からの恵みを得たのだ。
そこで見よ、あなたは身重になり、男の子を生むであろう、そしてその名をイエスと呼ぶであろう・・・」
そこでマリヤムは御使いに言う。
「どうしてそのようなことがあり得ましょう、私は男の人を知りませんのに」・・・
神格化されるマリヤと大天使ガブリエルの大物同士の対決は読者を捉えて離さない。
私はマタイに出て来る無名の御使いが存在感の薄いヨセフを慰めているシーンの方が身近に感じる。
「彼女、妊娠したんだってヨセフ・・・クヨクヨすんなよ・・・
男なら彼女のすべてを受け入れてやるもんだよ」
さすがに男だね、ヨセフ・・・

それにしても無駄に長くはないだろうか『教会の時』は・・・
終末がいつになっても訪れないのでキリスト教は年を取りすぎてしまったのだろう。
長く続いた『教会の時』の中で教皇はサタンの言葉に耳を傾けて地上の支配を手に入れるし、
地獄と煉獄と天国は開発整備され、『悔い改め』は発展し、
浄めるべき七つの罪(高慢・嫉妬・憤怒・怠惰・貪欲・貪食・邪淫)が設定される。
そんなことイエスは語ったのか?
『悔い改め』を独占した教会は、個人の超自我の上に君臨する。
しかし教会が個人を支配する術を持っていなかったとしたらキリスト教は今に伝わっていなかったかもしれない。
だが信仰を組織が支配するというのであれば何かが間違っているのではないか?
信仰は極めて個人的なものではないのか?

アナと雪の女王(王子様とFROZEN HEART)

2014-08-26 00:05:05 | 映画
今日は簡単な謎解きについて書こう。
まず、王子様のキスは二重に否定される。
ハンスによって、そしてアナによって・・・
TRUE LOVE(真実の愛)がFROZEN HEARTを溶かすということでアナは逃げ帰るが
ハンスに拒絶されてしまう。
それまでハンスは善人であったが王子様のキスが期待されるシーンで豹変する。
「ハンスって悪い奴だったのか?」
あるいは善人のままの物語にすることも出来たのではないかと思うが
製作者の明確な意図によって、つまりは従来の路線を捨てるという意図によって、
まずは男が王子様のキスを拒絶する。
ハンスが愛していないことを知ったアナはクリストフを求める。
ハンスでないならば真実の愛はクリストフにあるのだと信じて歩き始める。
しかしアナは自分を助けてくれるかもしれないクリストフよりも
自分が助けなくてはならないエルサの方へと向かう。
ここで女が王子様のキスを拒絶する。
この物語では凍った心を溶かすのは王子様のキスではなくて別のものなのだ。
もともと原題はFROZENとなっている。
FROZENの反対の言葉としてOPENが用いられている。
エルサがFROZENでアナがOPENということになるのだろう。
OPENすべきものとしてDOORとかGATEという言葉が使われる場合もあるが
これはHEARTを象徴したものとなっている。
心を閉ざしているのはエルサなので心理的にはFROZEN HEARTはエルサのことだ。
だが魔法によってアナの心が物理的にFROZEN HEARTとなってしまう。
OPEN HEARTがFROZEN HEARTを解けるというアナの誤った思い込みによって
FROZEN HEARTは二重にロックされてしまった。
クリストフではこれを解くことは出来ない。
トロールですら無理なのだ。
アナがクリストフではなくエルサの方に向かったのは正解ということになる。
まずは彼女自身が盾となり献身的な愛を示すことで物理的なロックを外す。
彼女のOPEN HEARTではなくSACRIFICEがロックを外す。
次にエルサが心理的なロックを外す。
愛することによって
彼女は自分が他人を愛せるということを知らなかったので
彼女の心は彼女自身がずっと凍らせたままだった。
そうすると鍵を二重に掛けたのは彼女たちであり
それを二重に解いたのも彼女たちということになる。
やれやれです・・・

アナと雪の女王(トトロと一神教)

2014-08-25 00:05:11 | 映画
ディズニー映画としては異質な感じがする。
王子様のキスで目覚めないというだけではなく
敵がチャチで弱すぎるという点で異質なのではないかと思う。
一人も死なないというところは「となりのトトロ」級だ。
かつて物語は殺人とセックスなしでは成立しないのではないかと思われたが
そういうわけでもないらしい。
強大な敵を撃退するなんてことはもうやらなくてよいらしい。
「メイが迷子で困っている」というのと同様に
王国の人々は単に「冬が続いて困っている」というだけのことなのだ。
ひとつには子供向けということもあるだろう。
伝統的に大人向けの映画は殺人という名のアクションで集客する必要がある。
これは作り手のモラルの問題というよりは見る方の嗜好の問題だろう。
要するに大人は子供より低劣ということになる。
それだけだろうか?
むしろ意図的に戦いを避けているような感じがする。
絶対的な神が邪悪な存在を退けるという一神教の構図を押し付けようとはしていない。
それはキリスト教圏以外への展開を考えての対応なのかもしれない。
「もののけ姫」とか「千と千尋」では誰が悪いということには一切触れていない。
悪魔を懲らしめる物語は一神教やナショナリズムの下で育った人々に提供すれば良い。
そうすると作り手は一神教にこだわっていないのだろう。
もともとアニメーションに悪魔なんて必要ないのだ。
こじれた姉妹間の関係が修復するという点ではやはりトトロなのだろうか?
いや、サツキとメイがダブルヒロインという意味ではない。
そうすると頼りなさそうだが最後は男気を見せるという点でクリストフは勘太か?
凍った雫が立てる澄んだ音を聞いてうなり声を上げて喜ぶスヴェンは
雨だれの音を聞いてうなり声を上げるトトロか?
それとも一生懸命走るのでネコバスか?
そういえば確かサツキはメイに聞いていた。
「トトロって、絵本に出てたトロルのこと?」
「トロル」あるいは「トロール」をググってみると北欧の妖精ということだった。
所沢よりは北欧が似合っている妖精と思われる。
そういうことでトロールがトトロに確定した。
スヴェンはネコバスということにしておこう。
働き者だし。

アナと雪の女王

2014-08-24 00:05:05 | 映画
「ありのままで」の再生回数がすごいことになっている。
誰もが自分を受け入れてもらいたいと考えているのかもしれない。
あるいは自分が好きになりたくて仕方がないのかもしれない。
氷の階段を駆け上がる女王は本当に嬉しそうで美しい。
個の力を自覚するというただそのことだけで美しくなれるのかもしれない。
王国の中で制御された力を使う女王にその美しさは感じられないが
意図的にそうしているのではないかと思う。
透き通るような色使いが温暖で多彩な色使いを圧倒している感じがする。
喜びや美しさにとっては、孤独とか、みんなのためにとか、そんなことは関係がないのだろう。
「真実の愛」という言葉も出てくるが、どちらかというとコミカルに描かれている。
一部で「毒にも薬にもならない映画」という声もあるようだが
何かと抑圧される機会が多い時代にあって個の解放を取り上げるのは良いのではないかと思う。
だが「ありのまま」を集団に認めてもらうのは難しい。
「なにを勘違いしているのだろう、この人?」という結果に終わるだろう。
それ以前に本当に「ありのまま」があるのかわからない。
社会に適合することに慣れ、自分が被っているペルソナのことにも気付かなくなった個人には、
「ありのまま」なんて残っていないだろう。
そして個人の嗜好や願望のことであると勘違いしてしまうだろう。
「ありのまま」があったとしても望ましいものであるかはわからない。
ここで望ましいとか望ましくないというのは社会に適合するための発想であるから
「ありのまま」というのであれば無視して差し支えない。
たとえばここで書いていることも、まあ、どうでもいいことだが、
「ありのまま」かと言えば、きっとそうなのだろう。
利益にならないことに時間を費やしているという点で既に意味などない。
そうせずにはいられないという
ただそれだけのことだ。

"The cold never bothered me anyway."
雪の女王にとって寒さというのは自分自身のことなのだろう。
そんなことで悩んでも仕方がないのだ。

マルコによる福音書・マタイによる福音書

2014-08-23 00:05:55 | キリスト教
新約聖書翻訳委員会訳「マルコによる福音書・マタイによる福音書」を読んだ。

「マルコ福音書がペトロの想い出の収録ではなく、個々の資料が集められ編集されてできた
作品であることは、今では疑い得ないからである。パピアスの伝える話は、おそらく、
この福音書に使徒的な権威を持たせるために創作された伝説であろう」
「ここ(マタイ福音書)でも事情はマルコ福音書の場合と同じであって、今のわれわれには無名の、
おそらくユダヤ人キリスト教者である人物が著者である」
解説にそう書かれていた。きっとそうなのだろう。

―――「そもそも福音書は、紀年体のイエス言動録ではなく、福音史家四人のたれひとりとして、
イエスの伝記を月日を追い年を追って書こうと言う意図を持たなかった。
四人ともども目指したところは、
『イエスとはいったいだれであったのか』
『彼のたずさえたメッセージはいったい何であったのか』
『彼の短い一生の意味は何であったのか』を、
それぞれの角度から解明しようとつとめることであったからである」
―――「新約聖書物語」には、そう書いてあった。
『イエスといったいだれであったのか』という犬養道子さん思い入れが強かったのだろう。

福音書が成立した頃に想定された読者は、それほど信仰の深くのない教徒であったり、
ファリサイ派との争いで敵を許すなんて気持ちを抱くことができない教徒であったり、
これから伝道を広めて行く対象となる異教徒であったのだろう。
マルコ福音書を資料としてマタイ福音書が編集されたということだから
教会としては生き残りを賭けて教義を磨き上げて行く必要があっただろう。
新たな教徒獲得のために「ローマ」に取り入ることも必要であっただろう。
だからといって「福音書」に書かれている内容が損なわれるわけではない。
その内容は保持されている。

「マルコ福音書が、元来相互に独立した伝承から成ることは、既に示唆した。それらはもともと、
多くが口頭伝承であったろうが、マルコに到達する以前に、時と共に書きとめられていたものも
少なくなかったであろう。・・・著者はこれらの資料―――部分的にはすでに彼の教会で
流布していたものかも知れない―――を集め、自らの神学的・文学的意図に沿う形で編集し、
造形したのである」

「・・・これによってマルコ(便宜上、そう呼ばれる)は、何よりも彼の共同体に独特に
語りかけているのである・・・マルコの共同体は、異教徒からは不穏分子として叩かれ、
ユダヤ教徒からは裏切り者として迫害される危険にさらされていたと思われる。
そうした不安の中にあった共同体の者たちに、マルコはそこから目を転じよとは言わないのである。
むしろそれを凝視するように、というより、それと同種の状況をより徹底的に、凄惨に通って
行った者イエスを、その物語の中で凝視するように訴えるのである。
この中には、異様な戦慄と共に、それによって逆説的に働き出す浄化力がある。
いわば魅する衝撃がある。それが、独自の慰めを与え、かつ現状を乗り越えていく力を与えるに
違いないからである」

「原始キリスト教の中で、十字架の持つ極度の逆説性を把握したのは、使徒パウロ以外には
福音書記者マルコしかいないという事実も最後に特筆しておこう。最も惨憺たる弱さの敗北が、
最も抗いがたい威力の逆表現であることを徹底的に表現した点では、
マルコこそ新約の極北であると言えよう」

パウロとマルコしか把握していなかったのだとしたら
他のキリスト教徒が十字架をそのようなものだと考えていなかったのだとしたら
「十字架の滅びの瞬間にこそイエスの本質が見える」なんてことは今でも信じられていないのだとしたら
訳者の解釈は独りよがりということになってしまうのかもしれない。
新興宗教から世界宗教へと発展していく過程では「限られた者にしか把握できない」類の文学的意図は
切り捨てられていくしかないのではないかと思う。
そして正直なところ「最も抗いがたい威力」とは何のことだかよくわからない。
「最も惨憺たる弱さの敗北」というのも「最も惨憺たる敗北」とした方がわかりやすいだろう。
あるいは「人間的な十字架上の弱さと神的な威力」が結びついているということか?
震撼するものがなければ自身の中で何も働き出さないということか?
単純に「十字架」という悲劇がなければ誰も考えようとはしないということかもしれない。
かつて先祖に対する負い目が宗教の起源であると哲学者は考えた。
罪のない者が十字架で罪をつぐなうのだとしたらすべての人間が負い目を感じるようになると哲学者は考えた。
「十字架」は様々に解釈される。

「マタイ(便宜上、そう呼ばれる)が福音書を書いている相手は、彼の共同体(教会)である。
その状況は、復活者が弟子に指示を発する(部分)に読み取れる。つまり弟子たちはこれから、
異邦人相手の伝道に乗り出そうというのである。そのためのアイデンティティ確立と振舞いの指針の書が、
本書である」
「弟子に指示を発する」ところ以外もマルコにはない部分はマタイの頃になって付け加えられたものだろう。
原始キリスト教の発展と共にイエスの福音や行動は彼の許可なくつけ加えられて行く。
「神曲」の頃になると「地獄の征服」までイエスの為したことになっている。
神の王国とか天の王国は隣人の中にあったはずたが、
プトレマイオス的天動説に基づいて想定された天国で皆、仲良く暮らしている。

「・・・この最後の審判の場に立たされることを思うとき、キリスト教徒といえども、
自らの救いを外的に保証するものは一切ないことが示される。マタイ福音書の独特の厳粛さは、
この審判を前にした著者のそれであると言ってよい。
もっとも、そうであってもなおかつ、マタイには他者への非寛容さ、差別意識が残存する。
事実、愛敵にまで徹底する愛の律法と、現実のイスラエルに対する非妥協的な最終断罪とが
どのようにして調和しあうのかは、最後まで謎として残るであろう」
訳者は意地悪なので「謎」としているが、そこには調和などないのだと思う。
ファリサイ派を攻撃しているイエスには違和感がある。
そこには後の世の十字軍に連なるであろう他宗教に対する差別意識がある。
取り入るべき異教徒ローマには寛容な姿を見せているが
ユダヤ教に対しては徹底して攻撃する容赦のなさがある。
軽々しく愛敵なんて言うものではない。

キリスト教徒は最後の審判にビビッているようだが
その場に参加できるというだけでありがたいことではないだろうか?
ここではまだ無ということは意識されていない。
そういうのってニヒリズムと呼ばれ、前向きでない人間のすることとされて否定される。
別に私は無を肯定したいわけじゃないんだけど「前向き」な人っていつもそう。
判で押したように皆同じ対応をする。そういう人の相手をするのは疲れる。
何も知らないのに残念そうな顔付きをしている。
どれだけ言葉を尽くしても何も伝わらないので残念なのはこちらの方だ。
そうやっているうちに益々言葉が無力なものになる。
前向きな人が言葉を無力にしてしまうというのは逆説的かもしれない。
そうするといよいよ「To the Happy Few」ということになるのかもしれない。
数少なき幸福なる者よ・・・何が幸福なんだか・・・

「幸いだ、心の貧しい者たち、
天の王国は、その彼らのものである。」
「心の貧しい者」とは直訳すれば「霊において乞食である者たち」
「自分に誇り頼むものが一切ない者の意」だという。
意味がよくわからない。誇りがないのが幸いなのか、何も持たないのが幸いなのか・・・
それはもしかして「空」のことなのだろうか?

私はね、はじめから世界の半分に見向きもしないような、そんな考え方が嫌なんですよ。
その正当性を地位や富の蓄積で証明するという、そんな考え方が嫌なんですよ。
ただそれ自体で価値が決まるものが好きなんですよ。
何かの役に立つとか誰かのためになるということではなくそれ自体そこにある。
そういうものを探しているんですよ・・・
だからもう誰かと一緒でなきゃ嫌だなんてことは考えない。
感動したとか共感したとか安っぽいことは求めない。
よくよく考えてみれば他者の関心と他者の時間を奪い合う世界
そのようにして他者を奪い合う世界
娯楽と購買行動に満ちた世界、ヴィジュアルで薄っぺらな世界
海も山もすべて平らにしてしまう世界
そこから抜け出すことすら誰も思い付かない世界
19世紀であれば醜悪な世界を言葉にすることが出来たが
21世紀は薄っぺらなだけ
そこから抜け出すために必要なのはリアリティのある言葉
血で書かれた言葉が必要だ。

・・・バッハの「マタイ受難曲」では「マタイによる福音書」におけるキリストの受難を扱っている。
聖書を知らずしてヨーロッパの文化は理解できないというのは本当なのだろう。
キリスト教に少しでも触れたならイエスを拒むことが出来なくなる。
その体験が絵画や音楽や文学に表現されているのだろう。
宗教とは関わりあいたくないので音楽だけ聴きたいという人もいるだろう。
それはそれで良いと思うのだが、
最も重要な音楽作品を相手にしている時に聴き手に足りないものがあるというのは
残念なことであると思う。

Gebt mir meinen Jesum wieder!
Seht, das Geld, den Mörderlohn,
wirft euch der verlorne Sohn
zu den Füßen nieder!

私にイエスを返してくれ!
これが人殺しの報酬の金だ、
この放蕩息子はお前たちの足元に
この金を投げ返したではないか!

ここで「イエスを返してくれ」と言っているのはユダだ。
そんなセリフは福音書にはない。
作曲家は群集に対しては手厳しいがユダに対しては寛大であるようだ。
群集(合唱)は常にイエスをののしる。
群集に隠れて無責任になった個々の人間がイエスの十字架を望んだ。
それは大祭司に扇動されたのだと言ったところで無責任であることに変わりがない。
裏切って後悔して首を括ったユダの方がマシかもしれない。

Können Tränen meiner Wangen
nichts erlangen.
oh , so nehmt mein Herz hinein!
Aber laßt es bei den Fluten.
wenn die Wunden milde bluten,
auch die Opferschale sein!

私の頬の涙が
何の役にも立たぬのなら
おお、私の心を取り上げてください!
そのかわり、主の傷から
血が流れ出るとき、
私の心を、いけにえの血を捧げる器に使ってください。

心を引き裂くようなヴァイオリンが奏でられる。
血を盛る器に使ってもらうような心だから引き裂かれて当然なのだろう。

Komm, süßes Kreuz, so will ich sagen.
mein Jesu, gib es immer her!
Wird mir mein Leiden einst zu schwer.
so hilfst du mir es selber tragen.

「来たれ甘き十字架よ!」と私は言おう。
私にイエスよ、それをいつまでも負わせてください。
苦痛の重さに耐えきれないときには、
私に背負う力をお与えください。

「来たれ甘き十字架よ!」とシモンは言う。
進んで苦痛を受け入れようとする殉教者精神が伝わって来る。
ここでシモンが担いでいるのはイエスの十字架だが
いずれ誰もが自分の十字架を背負って生きていかねばならない。
おのが十字架を背負う力がないとは言えない。

新約聖書物語

2014-08-16 00:05:34 | キリスト教
犬養道子「新約聖書物語」を読んだ。

「・・・元始(はじめ)に、時の限界のかなたに、言葉(ロゴス)があった。言葉は神と共に在った。
言葉は絶対なる神の『認識そのもの』であった。言葉は神であり、父なる神と相対していた。
万物はその言葉によってつくられた・・・・・・」
万物は『認識そのもの』によってつくられたのかもしれない。
世界を認識する者がいなければ世界は存在しないも同然だろう。
そして言葉がなければ世界を語ることも出来ない。
ひとりの観察者(主観)が捉えた世界は言葉によって定着し共有される。
万物は認識され共有される。

『これらの石をパンに変えよ』
『聖なる書物は記している、人の生きるのはパンのみによるのではない、神の口から出るすべての言葉によると』
「神の言葉こそ真正のパンである」と著者は書いている。
「平安を、真理を探り求めつつ生きる」のであると
いのちの糧であるパンが与えられると次に人は平安を求める。
飢餓との闘いが日常であった狩猟採集生活と共に「呪術」の時代が終わり「宗教」の時代が訪れる。
飢えが満たされると人々は「不死」を求めるようになる。
その言葉を直接使うのはあまりに厚かましいため
真理であるとか平安であるという言葉に置き換えるのかもしれない。
それで「不死がなければ信仰もない」ということにもなる。

『神の子ならば身を投げよ。「神、御使たちに命じて、汝の足を支え岩石から守りたもう」と記されている』
『聖なる書物はこうも記す。「主なる神をためすなかれ」と』
ヨブを試した神は、自らが試されることはお嫌いなのだろう。そういうところは神というよりは人のようだ。
超越した存在に相応しい言動をお願いしたい。

『わたしを拝めば、これら国々を与えよう、わたしの力の支配するこれら地上のすべての栄華を、世の終りまで』
『退け、サタン。
ヤーウェのみ神、
神のみ、主。
如何なるものをも、神の名もて
呼ぶべからず。
神なる主のみ
礼拝すべし』
「『時』と呼ばれる偶有を、いかに支配したとて、それだけで神の国には至り得ぬことを
イエスはサタンに告げたのであった」と著者は書いている。
そんな「神の国」を求めずサタンを拝んだということでダンテに糾弾されたローマ教皇もいた。
永遠に及ぶべくもない人間は地上の支配を求め続けてきた。
歴史は戦争あるいは支配者どうしの争いの繰り返しであり、
映像機器や情報網の発達により殺戮までには至らなくなった現代においても
権力者の意にそぐわない者は遠ざけられる。そうした争いに巻き込まれない者はいない。
隠遁者として生活したいと願ったとしても資産がなければ実現には至らない。
そのようにして奴隷となるべく誰かの僕となるべく無垢な嬰児が今日も生まれて来る。
彼らの父と母に生きる理由を与えるために生まれて来る。
そんな無益なことを繰り返すのであればいっそのこと歴史に介入するのをやめてもらいたいものだ。
歴史を、時間を止めてしまってもらいたいものだ。

「・・・そして彼の奇蹟はいかなる場合にも、相手にこの信のあるときに限られている。
・・・信は委ね切ることを知りおそれを知らない。
委ね切る、とは委ねる相手の何者かを―――少なくとも自分より大いなる者であることを―――
認識している証しである」
そのように信じ切ることは難しい。平安であるとか、永遠であるとか、そんなもの欲しくもない人にはいっそう難しい。
盲目的な信によって真理を得ようとは思わない。徹底的に考えなくてはならない人々もいる。
絶対存在に至ることが出来ないからといって考えることを止めてはいけない。

「ロゴスを生んだ神は父と呼ばれる。
神であるロゴスは子と呼ばれる。
三位一体の第一格と第二格と、のちの神学は呼ぶ。
父は子の方を向き、子は父の方を向く。それは両者間の『関係』に他ならなかった。
関係とは他者の価値に向って自らを開くことであった。
そして自らを開く、この種の関係を、ヨハネはその全福音を通し、愛と呼んだ」
三位一体とはそういうことらしい。つまり『精霊』は『愛』ということになる。
『関係』も『愛』である。そういう意味では世界は『愛』で溢れ『愛』に満ちている。
旧約に登場する神に『愛』を見出すことはむずかしいが
新約は『愛』に満ちている。

「イエスは十二人を使徒と名づけた。(原語アラマイ語の意味は「遣わされ送られる者」
すなわち現代語でのミショナリイ、言いかえると、遣わす者あっての、遣わされる者、である)」
エヴァンゲリオンで使徒をAngelとしているのは、どうなんでしょうか?
ファースト・チルドレンとか意味がわからない・・・
ちなみにEvangelionは福音の意で、ギリシャ語 εὐαγγέλιον, euangelion に
由来する言葉だという。化け物じゃなかったのね・・・

『ひとりひとり、おのが日々の十字架をとって、われにしたがえ』
「気の合わぬ上司や同僚への嫌悪に克とうとする『十字架』であろうと、
負い切れぬと思われる責任の荷であろうと。病苦、貧苦、孤独、恥辱、失敗―――
一切の『おのれの十字架を日々、とってしたがえ』」
私は私の十字架のことを子供の頃から知っている。日々、十字架と共に過ごして来た。
そんなものはない方が良かったかもしれないが、それがないと生きる意味を失くしてしまう。
誰かに背負ってもらうわけにもいかないし、誰かの十字架を背負うわけでもない。
他人の十字架を背負うことに意味はない。「おのが十字架」でなければならない。
そんなものを背負いながら何処に向かっているのだろうか?
ゴルゴタか?

『福(さいわい)なるかな
心の貧しい者よ、
貧しい者よ・・・・・・
なぜなら、
人は神と富とに仕えることは出来ず、
また、
宝のあるところに、その宝に、
心はしばられるから』
「羨望や嫉妬。富を得れば得るほど、なお富もうと望みたくなる際限のない欲望。
その欲望を貫くために人をあざむき友を棄てることすら屢々敢てする心のくらさ。
積んだ富を減らすまいと汲々となり、身辺にいる隣人の貧苦病苦をも敢えて見ず、
富をわかちあおうとしない利己」
資本は自己増殖を目的としているのだし、剰余価値は不払労働から成るのだし、
そんなふうに言うのはアカデミックかもしれないがずっと同じことの繰り返しに過ぎない。
富をめぐる争いのもっと根本には存在をめぐる争いがある。
原子は、分子は、無機物は、有機物は、生命は、その存在を賭けて他者と争っている。
生き残った者―――存在を続けている者が勝者になる。
その空間的、時間的に存在を続けようという意志がやがて富という無制限の目的に向かう。
もちろん生命の自己増殖にしても無制限には違いない。際限がない。
立派なビジネスピープルと言ったところで富を得る、富を減らすまいとする中で
汲々としている利己的な存在に過ぎない。
どんなに言葉を飾ってみたところで価値がないことに本当は気が付いているはずだ。
それを私が知らないとでも?

「ニイチェは『ツァラツストラはかく語りき』の中で、あわれみと言う『弱さ』を
その『中核におく』キリスト教を糾弾する。
が、あわれみは『超人』ニイチェが解し信じたような『弱さ』に満ちたものであろうか。
いや、むしろ『強さ』だ。泣く者と共に泣き、重荷負う者と荷をわかち、
己の持つ限りを他とわかちあうためには人は、それこそニイチェの筆法を借りて、
自らを超えねばならないのである」
ニーチェが糾弾したのは『弱さ』を『強さ』の上に置く価値の転倒であった。
そのような価値観の中では『強さ』も『美しさ』も認められず人々は窒息してしまう。
キリスト教が無敵となった中世はそうした時代ではなかっただろうか?
『あわれみ』や『同情』を良しとする価値観の中では『新しさ』もまた否定される。
その価値観に安住することなく『自らを超えていかねばならない』のだと思う。
著者は誤解していると思う。

「天とは頭上に広がる空ではない。生の終りの『あの世』でもない。彼岸でもない。
天とは不可見の、いまここに在る実在の世界である」
キリスト教徒はそのように考えているらしい。
『見えないけれど実在する世界』であるらしい。
原子や素粒子なんかは目に見えないので、そういうのに似ているかもしれない。
だが量子力学は粒子がその位置に存在する確率なんてことを語るので科学というよりは博打に近い。
そして『実在』とはかけ離れた世界にいることに、ふと気が付くことにもなる。
『実在』のような確固としたもの、不動のものを精神は求めて止まない。
そのようなものがあると信じて疑わない。
移ろい行く世界を目の当たりにした精神はそういうものを追い求めるのだ。
だからそれは精神が作り出した幻影であると言えなくもない。
それにすがって精神の安定が得られ、そのことを本人が望むのであれば私は止めはしない。
だがそのような精神の弱さを知りつつ不安定な毎日を過ごすことを望む人々もいる。
私はそうした人たちの味方だ。

「なんとなれば、『天』とは、いつかなくなり過ぎゆく偶有の可見の物体とは次元を異にする、
言いかえれば時の法則にしばられぬ『永劫のいま』であり、永劫のいまであるゆえに
過ぎゆくことない実在の世界を意味するからである、と。すなわち『天』は、
『いつも、いま、ここに』を指す」
『私、今、此処』が主観の性質であった。「委ね切る」教えはここから『私』を棄てた。
『いつも』と『いま』は同じであり、ここでは主観の性質を永劫に投影しているのではないかと思う。
それは『私』を『永劫』に結びつける。『私』を『不死』に結びつける。
『永劫のいま』なんてあるわけがない。『今』があるだけだ。
それはずっと続いているという意味で『永劫の今』と言えなくもない。
過ぎ去った記憶を、過ぎ去った歴史を、数十億年を要した生命の歴史を、
百数十億を要した宇宙の歴史を、今を生きる私たちが眺める。
過ぎ去った今を・・・

「絶対存在なればこそ、死と言う限界にかこまれた偶有存在の死の壁を破ることが出来る、
復活の名のもとに・・・・・・だからイエスは主であると、医師であったルカは
この箇所で読者にとくに語りかけるのである」
絶対存在は死を克服するために欠かせない。
絶対者にひれ伏して『永遠の生命』を請い願えば与えられるのだろうか?
もともと『不死』が目的であり、不死を得るために絶対者が必要と考えたのだろう。
だがもっと控え目に現世での平穏を得るために宗教が必要であるかもしれない。
宗教なき21世紀は強欲資本主義が支配し、強欲軍産複合体が支配し、
強欲IT企業、強欲エンタメ企業が支配し、人々は刷り込まれた価値観の中で一生を終える。
そのことに気付く者さえ稀になっている。
天の絶対者にも地上の支配者にも逆らうことが出来る強い意志を持ちたい。
それがなければ生き続ける意味なんてあるだろうか?・・・
ベートーヴェン弦楽四重奏曲第7番、音楽は突然、有機的な結合を持つようになった。
切れ切れだった音のつながりが音の流れとなった。
無機物は有機物となった。
生命を支えている有機物、その秩序を司る生化学反応、その礎となる物理法則
私たちがその仕組みを理解するまで生命が活動できないとしたら、周りは死の世界になってしまう。
その偶有存在を支配する法則を理解せぬくせに一足飛びに絶対存在に至ろうとする傲慢
超越的な存在に迫ろうとする傲慢
知ろうとする欲求を神の視座から見下す傲慢
そのような傲慢がトップダウンで世界を創ったのではなく
気の遠くなる年月をかけて自然がボトムアップで作り上げてきた遺伝子が
夥しいほどの個体という乗り物を乗り継いで生きながらえてきた。
時を越えてその因子を伝える遺伝子が神なのか?
・・・私はいったい『神』という言葉をどういう意味で使っているのだろう?
そんなこともよくわかっていないのに何かを語ろうということこそ
傲慢かもしれない。

「信仰とは―――さらに言えば信仰の祈りとは―――この女のように、
不潔なる、不浄なる、そのゆえに苦しみ嘆くわが存在そのものを、
無言のまま、主の前にさらけ出すこと、なのである」
純情無垢とは程遠いものが『信仰』と呼ばれているものらしい。
『さらけ出す』ということは大事かもしれない。
誰しも多少の見栄はあって、苦しんでいることや、嘆いていることを覚られたくはない。
私は満ち足りています、ハッピーです、素晴らしい人生を歩んでいます―――
そんなことに相手に感じさせたい、なんてことを考える。
主の前にさらけ出そうとする機会を逃しそうになった信仰は皆に知れわたる恥を忍ぶ。
―――それで「おまえの信仰がおまえを救った。安んじて行け」と
声をかけてもらえれば、それで救われることもある。
――― 一方では、苦しみ嘆きつつも、その十字架を持てることに感謝し、
その苦しみがなければ、どうということのない毎日を過ごすことになるという意味で、
そんなふうにして毎日を生きて行く場合もある。

「そもそも福音書は、紀年体のイエス言動録ではなく、福音史家四人のたれひとりとして、
イエスの伝記を月日を追い年を追って書こうと言う意図を持たなかった。
四人ともども目指したところは、
『イエスとはいったいだれであったのか』
『彼のたずさえたメッセージはいったい何であったのか』
『彼の短い一生の意味は何であったのか』を、
それぞれの角度から解明しようとつとめることであったからである」
「本書の目的は、立場として角度として、福音書元来が取った立場をとった。
すなわち、冒頭に述べた三つの問いとそれへの福音書の答とを、ひとつの綜合に組み上げて、
『当時・現地』にへだたることはるかな、『現代の・日本の』一般読者に『読みやすい』ものとする、
それだけを目的としたのである」
その目的は達せられていると思う。どのページからも著者の情熱が伝わってくる。
アマゾンで検索すると1円(配送料は別)で売っている。
売れる本で良い本というのはあまりない。
カネをかければ知的な時間を楽しめるというものではない。
書く人の思いが読む人に伝わるというそれだけのことだ。
そうした瞬間を求めて私は本を読む。

『あの豚の群に入れと命じたまえ、イエス』
『ゆるす』
ドストエフスキーの「悪霊」に引用されている。

『天父のみむねはこれである。
子を、
見て信じたすべての人に、
永遠のいのちを、開花して果しなきいのちを、
与え、
死のかなたにおいて彼らを、
復活させること、これである』
イエスは「天からくだり、この世に生命をわかち与える」ための「生命のパン」なのだという。
「パンとなるために十字架上で砕かれる」のだという。
パンと葡萄酒の話はよくわからない。こじつけであるように思える。
―――「信仰」が足りない者にはわからないのだろうか?

著者は福音書を次のように要約している。
マタイ:過去。過去とイエスとのつながり。
マルコ:現在。拡がり。
ル カ:こんご。拡がり伸びる未来の地平線。
ヨハネ:一切の綜合。時間と、時間を超える実在の証明。イエスの実存。その心。

「善きサマリア人は、いま、己が隣人と『選んだ』ユダヤ人が過去サマリア人一般に対して
どんなことを言いどんなことを行ったのか、回復ののち礼を言ってくれるような人であるのかないのか、
そんなことの一切を詮索しなかった。ただ、わが身がこういう状態に置かれたとき
してもらいたいであろうことのすべてを、『いま』行っただけである。
『神を愛すとはそれだ』とイエスは言う。
『永遠の生命とはそこにある』と。
その論理は当然、ただひとつの結論において完成される。
すなわち―――神と生命とは隣人の中に在る、と。しかも永遠の生命が救いなら、
『神と救いは、いま、隣人の中に在る』。
福音とはそれであった!」
ダンテが書いたように天界が空間的に地上と異なる方を好む人もいれば
そんな空想よりは「神は隣人の中に在る」と言うことを好む人もいる。
隣人は、たまたま隣りに住んでいる人のことではなく、詮索の結果として選ばれるに相応しいというのではなく、
ただ自分が隣人であると『選んだ』人のことであって一切の行動は自己に帰せられる。
そういうことであればわかりやすい。

「人の持つ天賦の才(タレント)はその人の責任なのである。いかにそれを使うか、
路傍で鳥についばませるか、痩地で死なせるか、沃地で水をやって育てるか、
それによって人は審きを受けるのである」
才なんてないと、如何に自分が平凡であるかと、意のままになることは何もないと、
インターネットでつながった広大な世界の中では私なんて取るに足りない存在であるとか、
機会の均等、自由競争、努力に対する正当な報酬、そんなことを語るのは才のある人間に限るとか、
そのことに関する妬み嫉みを退けることも出来ずに自己嫌悪に至るとか、
そういう一切を含めて「天賦の才」なのだと言うしかない。
才がないと言うことですら天賦なのだから・・・そのような不平等な世界を受け入れよう。
一切を了解した上で、私は私に出来ることをしよう。
評価されたいとも思わないし神さまがご覧になっているからとか言うつもりもない。
一切は「その人の責任」だ。

「死を超え死に打ち克つ救と生命を求める者は、再び『死すべき肉』によみがえるのではなく、
もはや死を超え、死と縁を切った、『新しい生、新しい肉』に復活する。
それは『天使のごとく』霊化された肉であって、ゆえにこそ『もはや死なない』のである。
なぜなら死とは、霊と肉の分離であるから。そして『もはや死なない肉』に復活した者は、
死すべき肉にあったときと同じ生き方をしないのである。
・・・ちなみに、聖パウロがいわゆるパウロ神学の核心に復活の問題をすえ、
荘重なスコープを以てその『奥義』にふれてゆくのは、サドカイ的、またはユダヤ的復活論への
反駁と同時に、こんどは打って変って『救とは霊のみになること』を主張したギリシャ哲学への
反駁でもあったのである。プラトンの説いたごとく、ギリシャ人にとっての救いの理想は、
『枷である』肉を永久に『出て、魂のみになる』ことであったから」
肉を否定し霊を肯定する、精神は身体より優れている、というのがキリスト教かと思っていたが、
誤解があったようだ。それはギリシャ哲学であってキリスト教神学ではないらしい。
だが『霊化された肉』とは何のことであるのかよくわからない。
それならいっそ『霊のみになること』の方がわかりやすい。
いずれにしても『(死すべき)肉』を否定して『復活』であるとか『永遠』を求めている。
精神は容易なことでは自らの死を受け入れない。特に宗教に目覚めた精神は死を受け入れない。
そして死が差し迫るものでないと感じて『終りがあるからこそ美しい』とか
『終りがあるから一生懸命に生きることが出来る』という世代はいずれ他人事のように語った言葉を捨て
『復活』や『永遠』を語る老人に変貌することだろう。
「不死がなければ、善行もないわけであり、したがってすべてが許される」
死を避けられぬものと考える合理的な精神はそのようにして現世の悪行を肯定する。
どちらが勝っても仕方がないようなことでカラマーゾフの兄弟は争う。
現代は生命がまだ人の考えも及ばぬ謎であった頃とは違う。
子孫を残すための本能は自己増殖を目的とする遺伝物質に帰せられ
死すべき肉は身体を維持するために遺伝物質に閉じ込められた情報が開かれて作られる。
イエスが生きていた頃の神さまはそんな仕掛けもご存知なかっただろう。
さて私たちはどうするのか、私はどうするのか?
盲目的な復活に身を委ねる気もないが死を受け入れる準備も出来ていない。
そんなふうにしてどこかに救いがないか探している。
そんな暮らしが続く・・・

『人の子が、光栄を受ける時が来た。
まことに、
まことに、
わたしは言う。
もし一粒の麦、地に落ちて死せずば、ひとつのままにのこり果実を結ばぬ。
地に落ちて死ねば多くの果実を結ぶ』
カラマーゾフの兄弟の冒頭に引用されている。続きは次のようになっている。
『自らの命に執着する者はそれを失ない、
その命を手放す者はかえってそれを永遠に保つであろう』
繰り返し不死の問題になっている。

『エリ、エリ、ラマ、サバクタニ』
「それは詩篇二十二の冒頭句であった」と著者は書いている。
『神(エリ)よ、神よ、なにゆえわれを棄てたもう・・・・・・』という意味であるという。
『成就した!』
『天父よ、御手にわが魂を・・・・・・』
言い終えて息を引きとられたという。

旧約聖書物語

2014-08-09 00:05:05 | キリスト教
犬養道子「旧約聖書物語」を読んだ。

「いまだ『時間』の始まらぬとき、『時間』を超絶する『存在』はすでに在った。
その存在は神であった。時間に支配されず時間の外に在る神は、すなわち永遠の神であった。
他の如何なるものにも頼らず、自ら充溢して『在る』者であり、言いかえれば自立独立の生命そのものであった。
『時』は如何にしてあらわれたか。その滔々たる流れの上に万物の生と死とを流しゆく『時』は」
時間の解けぬことといったら他のものの比ではない。
哲学者がその人生を棒に振ってしまうほど『時間』は不可解であり続ける。
時間を第4の座標とした四次元の時空に縛られた生命は時間を超えた存在のことなど想像も出来ない。
ただそうした神のような存在が在ったとしても「神の世界を認めない」と抵抗することは出来る。
永遠なるものに身を委ねた方が楽だと思うがそうしない人もいる。
それは人間としての矜持のようなものかもしれない。
『永遠』とか『存在』とか抽象概念が考えだしたわけのわからないものを相手にするよりは
目の前の課題に取り組むことの方が大切なことかもしれない。
そしていつまでも『時間』は私たちの思考の外にあり続ける。
たまたま哲学や科学が何か思い付くことがあるかもしれない。
虚数の時間とかなんとか・・・しかし全体としては宗教が記述することとそう変わりはない。
カント、ウィトゲンシュタインは、私たちの思考が如何に限られたものであるかを示した。
だが思考とはそのような限定された生き物にのみ可能なことのように思える。
永遠の神がどのようにして思考するのか私は知らない。

「鷲の翼のごとき強き力もて、イスラエルの民を守り、聖地シナイまで導いたわれ、主なる神。
イスラエルの子らに問う―――全世界の主なる神と、なんじイスラエル、契約を結ぶやいなや。
契約を結んでそれを守るなら、イスラエルはわが民となり、聖別された民となろう・・・」
神とイスラエルとの契約が旧約ということらしいが神と契約するということが日本人の私にはよくわからない。
それに「聖別された民」というのがどういう意味なのかもよくわからない。
モイゼ(モーゼ)が聞いた神の言葉は次の通りであったという。
「われは神、われは主。
唯一の神、唯一の主。
われのみ神、われのみ主。
天に在るもの地に在るもの、地の下の水に在るもの、
如何なるものをも―――われ以外の如何なるものをも
―――神の名もて呼ぶべからず。
金を鋳、銀を溶かし、彫り造った如何なる形をも神となして拝むべからず。
偶像を崇むることなかれ、
われのみ神。
ねたみ深み神。
擬似神に心を寄せる者をこらしめる神。
われを憎む者を憎み、
われを愛す者を愛す神」
神意に背いた者は罰せられ、神意に忠実な者は道を得る、そのような伝承はどの民族も持っている。
王朝が華やかな時に自らの権威が正当であることを示すために物語は作られる。
イスラエルの民が持つ伝承もそうしたものだったろう。
その神は日の照りつける荒野で生まれ「絶対神」としての雛形を持っていた。
世界を支配するためにその絶対神としての性格が文明に引き継がれることが必然であったかもしれない。
その神は多くの思想家の攻撃にあっても生き残っている。

「どこにいる」と、主である神が呼びかけた。
木々の深々とした緑のかげから、男は答えた。「裸を恥じて木の茂みに」
「裸であると何故知った」と神は問うた、「知識の木の実を食したのか」
「女が」と男は答えた、「主なるあなたがわたくしに与えられた女が、木の実を取ってくれました」
女は声をあげて言った。「蛇が、わたしに食せと言いました」
「呪われよ」と神は蛇に向って言った。
・・・
さて神は、女を見返って言った。
「この日から、女よ、苦しみのうちに妊り、苦しみのうちに子を生もう。
女のさそった男が女を支配する・・・」
神はまた、男に向って言った。
「この日から、男よ、
労し汗して、いのちの続くかぎりいのち果てる
その日まで、
労し汗して、
食を得る者。
地は茨を生じ、
労し汗してその地を耕し、食を得よ。
土よりつくられたる者よ、
土より生じたればこそ、
いのちの果てに土に帰れ」
死が宣せられたのであった。

知識を得るということといつか自分が死ぬことを知るということは等価であるように思われる。
生存と生殖を目的とした生命の機能の一つである意識はその目的を果たすための最強の武器となったが
同時に最大の不幸を生命の担い手である個体にもたらすことになった。
その不幸と共に宗教が生まれたのかもしれない。
信じる者に永遠の生命を約束するのが宗教であるならば・・・
そのことはまた新約のところで書こう。

「・・・肉身の病を癒し、健康を再び戻し、さらに以前の二倍を神は与えた。
羊は一万四千、らくだは六千、千頭の牛と千頭のろば。ヨブのテントは昔日のように
エドムからアラビアまでの草地を埋めて連なった。七人の息子と三人の美しい娘が生まれた」
悪の力のそそのかしによって神はヨブから全てを奪い二倍にして返したが、
亡くなった息子や娘が帰ってくるわけでもない。
「人間の限られた智恵を以って、神の無限の智に挑むことをしなかった」ヨブは讃えられるべきだろうか?
無限に挑まないという姿勢は賞賛に値するのだろうか?
限られた智恵に満足して新しいことを考えることをやめてしまったなら
生きる意味なんてなくなってしまうだろう。
私たちがどんなに優れたことを成し遂げたとしてもいつか人間がいなくなる日は訪れるだろう。
そうであるからこそ、今、挑まないでいられようか?
そのことだけが生きる証であるというのに永遠に屈服するか?
人間よ?

「無一物にて
わたしは母の胎から出た。
無一物にてわたしは母なる地に帰る」
それはそうだ。

斥けられた三つの問い

2014-08-03 18:52:54 | 140憶年の孤独
「宇宙は無のゆらぎから生まれた」そうだ。
空間は「無」なのではなくて「電子と陽電子」が発生したり対消滅したりするなどして
「揺らいでいる」のだという。「どうして揺らいでいるのか」はわからない。
そこでまー、そーゆーことだと了解したとして「無のゆらぎ」の前はどうかというと
時間すら存在しないので「その前」はない。じゃあ「時間」とは何なのか?・・・
「宇宙の起源」についての問い掛けは「時間」についての無知により
問いでなくなってしまう。

19世紀にパスツールは生物の自然発生説(生物が無生物から生まれることがある)を否定した。
科学技術の進展がめざましい近代以降ではその説を疑う者はあまりいない。
ところが太陽系が誕生した頃に生命は地球に存在せず現在では存在することから
過去を遡ったある時点で「生物が無生物から発生した」と考えなければならなくなる。
これはいったいどういうことなのだろう?そもそも生物とか生命というのは何なのだろう?
生命が秩序であるとするならば非生命は無秩序(あるいは混沌)ということになる。
「混沌から秩序が生まれるものなのだろうか?」そのような問いを発した時に別の問いが生じる。
「混沌とは何なのだろうか?」
私たちに理解できることは何らかの意味を持ったことであり何らかの秩序を持ったことでしかない。
たとえば私たちは雑音を音楽として理解することは出来ない。
音に規則性がなければ音楽として理解することが出来ないように
何ら規則性のない現象を知識として理解することは出来ない。
混沌が理解できないのであれば、混沌から秩序への移行を理解することは出来ない。
そのようにして「生命の起源」について問い掛けてみても
「混沌」を理解することが出来ない私たちが回答することは出来ない。

そして懲りない私たちは「心とは何か」と問い掛ける。この「心」という不思議な現象について・・・
脳科学についての研究を進めていけば私たちは「心」の正体を
あるいは「私」の正体を知ることが出来るのだろうか?
残念ながら出来ない。科学は客観的な現象を扱う手段であって主観的な現象である「心」には適用できない。
私たちに出来ることは「○○のことを考えている」時に「○○野」が活発に働くといったことを知る程度だろう。
ある活動とそれに呼応して働いているニューロンを結びつけることで満足しなければならない。
あるいは単純なニューロンが複雑な系を作り出す仕掛けくらいはわかるようになるかもしれない。
哲学は独我論とか何とか言っているがやはり主観については何もわからない。
そのようにして「心の起源」について問い掛けてみても
「主観」という謎の前で立ち止まってしまう。

私たちは「時間」を理解出来ないため「宇宙の起源」について知ることは出来ない。
私たちは「混沌」を理解出来ないため「生命の起源」について知ることは出来ない。
私たちは「主観」を理解出来ないため「心の起源」について知ることは出来ない。
それでは私たちは何を知ることが出来るのか?
・・・私たちが私たちの限界についてどれだけ語ったとしても
私たちの好奇心や探究心は「はい、そうですか」と納得したりはしない。
人生で成功するためにとか、より良い生き方のためにとか、道徳のためとか、来世のためにとか、
神のためにとか、社会の発展のためにとか、人類の無限の進歩のためにとか、
そんな「○○のために・・・」というのはもうやめよう。
私たちはもっと良いものを持っている。

新約聖書を知っていますか

2014-08-02 00:04:33 | キリスト教
「初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。
万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。
言の内に命があった」
ヨハネによる福音書の冒頭にはそのようなことが書かれているらしい。
遠くウィトゲンシュタインを暗示している感じがする。
「人類は言葉というものを発見し、それによって世界を切り取り、それによっていっさいの思考を
深めて来た」と著者は書いている。きっとその通りなのだろう。
しかし「言は神であった」というよりは「言によって成った」もののひとつが「神」であるかもしれない。
そういうのは不信者の戯言ではあるが・・・

「だれだって、いきなり天使が現れ、
『あなた、妊娠していますよ』と言われたら、普通ではいられない」
<受胎告知>とはそのような出来事であったのだろうか?
確かに天使に言われたくはない。

「・・・でも、ヨカナーン、あたしはまだ生きている、だのに、おまえは、おまえは死んでしまい、
おまえの首はあたしのものになっているのだよ。これをどうしようと、あたしの思いのまま。
犬にでも空の鳥にでも投げてやれる・・・」
ヨカナーン(ヨハネ)の首に頬ずりしながらサロメは語る。
そのセリフは後の時代になってワイルドが考えたものということだが
人間は復讐に取り憑かれ、気に食わない奴の首を犬に食わせてやろうと考えるものなのだろう。
そして私怨が正義の名のもとに実行される。

「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。
金持ちが神の国に入るようりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」
らくだには・・・無理です。
「貧乏人の方が幸せ」みたいなことを言っているのは支配者にとってはありがたいことかもしれない。
そのような考え方を広めることによって民衆の不満を逸らすことが出来る。
本当は「富に執着している限り悩みはつきない」という意味であり、その通りだとは思うが、
私たちはあまりにも日々の糧を得ることに疲れ果てている。
そのために神経をすり減らしている。

「あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。
魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、
自分の子供には良い物を与えることを知っている。
まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない」
そのようなキリスト教信者たちが二千年の時を経て生み出したものが強欲資本主義であった。
その有様を学者は「資本の目的は自己増殖である」とか「剰余価値は不払い労働から成る」と書いている。
かつて正義感で自分を満足させていた人々は「搾取」と言っていた。
今は仕事があることに満足しなければ仕事すら奪われる。
資本に頭を下げなければ生きては行けない。

そのような時代に人々が求めるのは娯楽であり
虐げられ強迫された人々は勧善懲悪の物語を熱望している。
フレイザーは呪術の後に宗教、宗教の後に科学という時代があると書いていたと思うが
宗教の後は娯楽の時代ではないかと思う。
それも操作された・・・

名古屋フィル#38ルトスワフスキ管弦楽のための協奏曲

2014-08-01 18:52:13 | 音楽
第415回定期演奏会、曲目は以下の通り
プロコフィエフ: 交響曲第1番ニ長調 作品25『古典交響曲』
ショパン: ピアノ協奏曲第1番ホ短調 作品11
[ヤン・エキエル校訂によるナショナル・エディション]
ルトスワフスキ: 管弦楽のための協奏曲

プロコフィエフはあまり知らない。
ブリテンのチェロ交響曲に触発されて書かれたという交響的協奏曲が好きだ。
作曲家は重厚な交響曲ではなく協奏曲との境界が曖昧なものを書きたかったかもしれないし
ロストロポーヴィチの存在が大きかったのかもしれない。
『古典交響曲』はプロコフィエフ存命時にハイドンが生きていたなら、
こんな曲を書いたのではないかという意図で作曲されたのだと記憶している。
作曲家は将来、もっと素晴らしい曲を書けると自分を信じていたのではないかと思う。
だがあいにく交響曲という形式は廃れつつあった。
ショスタコーヴィチがソ連当局の監視の目を欺きながら第13番と第14番を完成させた。
メシアンがトゥーランガリラ交響曲を完成させた。
そんなふうにして交響曲の系譜は幕を閉じてしまった。
『古典交響曲』は何かの始まりではない。
というのは終りが無かったからだ。

ショパンはあまり聴かない。
子犬のワルツだとか華麗なる大円舞曲だとか英雄ポロネーズだとか
そんなものは何回も聴いていると飽きてしまうのだ。
ピアノ協奏曲は割と好きだが10年ほど聴いていなかったような気もする。
指揮者はあまり動かなかったがピアニストは運動選手のようだった。
実際、W杯の出場選手に負けないくらいの運動神経をしているのだと思う。
その流れるようにというよりは活発な動きの中で
「病弱」であると私が偏見を持っている音楽は生命力を迸らせていた。
何が正しいかなんてわからないし、きっと音楽に正しさなんてないのだろう。
そんなふうにしてショパンのピアノ協奏曲との
何回目かの出会いをした。

ルトスワフスキは初めて聴いた。
予習をしていかなかったのが悔やまれる。
初めてなので当然かもしれないが聴いたことのない種類の音楽だった。
だが巷は子供が映画館で口ずさんでしまうような誰もに親しみやすく、
どこかで聞いたことがあるような音楽で溢れている。
金にならないという理由で新しい音楽は遠ざけられる運命になる。
この曲は1954年の作曲らしい。
こんなふうにコンサートで演奏されるまでに数十年が必要とされた。
まさに金にならない曲の代表であると言える。
指揮者は前の二つの曲とは別人のように機敏に動いていた。
実はこのひともW杯クラスだったのだ。
そして彼を動かしていたものは説明できない何かであったろうし
拍手をする私たちもまた説明不可能な何かに
満たされていた。