解説によるとルカの中には図式で表象された歴史観があるのだという。
「洗礼者ヨハネまでは『前史』であり、神の救済の約束がなされる。その次が『キリストの時』であって、
約束の成就の時であり、またサタンの攻撃から守られた、理想的『時』である。
・・・その死の後、イエスは復活して原則的には再び勝利が確認されるものの、
他方、苦難を特徴とする『教会の時』が開始されるのでもある。
・・・こうした救いの大筋が存在し、それを担っているのが教会であれば、人間が救われるのは
その教会に与ること以外には原則として有り得ない。そのための具体的条件が『悔い改め』である。
この語は、とりわけマルコでは人間の実存の根源的な方向転換であって『回心』とでも訳すべき
語であったが、ルカにおいては倫理的に自己の『罪』を教会に対して『悔いて』、行状を『改める』という
意味の述語に変質している。
・・・また、ルカによれば、イエスの受難以降迫害の動機が活性化するのだが、イエスはこの点において
優れて範例的意義を帯びる。つまり『父よ、あなたの両手に、私の霊を委ねます』と言って息絶えるイエスは、
典型的に美しい『殉教者』の死を遂げるのである。それは『教会の時』の迫害においては、
信者にとっての最高の規範に他ならない。
ただ、このイエスの言葉は、マルコ福音書の『エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ』を削除して、
その代わりに挿入された一文であることも注目せねばならない」
『教会の時』『罪』『悔い改め』という点で、ルカ福音書は最も現在のキリスト教に近いのではないかと思う。
そしてヘレニズム文化の正規教育を受けていたと言われる著者(便宜上、ルカと呼ばれる)は
ローマに対してはキリスト教が危険な宗教ではないことを説き
受胎告知の詳細なストーリーを加えることでマリヤを神聖化して女性信者をも取り込み
キリスト教に改宗した異邦人としてユダヤ人に欠けていたものを補いつつその普及に努めていったのではないかと思う。
・・・マルコではイエスの誕生は扱われていない。
マタイではひそかに身重になっていたマリヤについて思い煩う婚約者ヨセフのもとに御使い(名前はなし)が現れ
「ダビデの子ヨセフよ、お前の妻のマリヤを受け入れることを恐れるな。なぜなら、彼女が孕んでいるのは、
聖霊によるものだからである」と語りかける。
ルカでは、ヨセフではなくマリヤのもとに御使いのガブリエル(さすがに大天使)が遣わされる。
「恐れるな、マリヤム(ヘブライ語発音)よ、なぜなら、あなたは神からの恵みを得たのだ。
そこで見よ、あなたは身重になり、男の子を生むであろう、そしてその名をイエスと呼ぶであろう・・・」
そこでマリヤムは御使いに言う。
「どうしてそのようなことがあり得ましょう、私は男の人を知りませんのに」・・・
神格化されるマリヤと大天使ガブリエルの大物同士の対決は読者を捉えて離さない。
私はマタイに出て来る無名の御使いが存在感の薄いヨセフを慰めているシーンの方が身近に感じる。
「彼女、妊娠したんだってヨセフ・・・クヨクヨすんなよ・・・
男なら彼女のすべてを受け入れてやるもんだよ」
さすがに男だね、ヨセフ・・・
それにしても無駄に長くはないだろうか『教会の時』は・・・
終末がいつになっても訪れないのでキリスト教は年を取りすぎてしまったのだろう。
長く続いた『教会の時』の中で教皇はサタンの言葉に耳を傾けて地上の支配を手に入れるし、
地獄と煉獄と天国は開発整備され、『悔い改め』は発展し、
浄めるべき七つの罪(高慢・嫉妬・憤怒・怠惰・貪欲・貪食・邪淫)が設定される。
そんなことイエスは語ったのか?
『悔い改め』を独占した教会は、個人の超自我の上に君臨する。
しかし教会が個人を支配する術を持っていなかったとしたらキリスト教は今に伝わっていなかったかもしれない。
だが信仰を組織が支配するというのであれば何かが間違っているのではないか?
信仰は極めて個人的なものではないのか?
「洗礼者ヨハネまでは『前史』であり、神の救済の約束がなされる。その次が『キリストの時』であって、
約束の成就の時であり、またサタンの攻撃から守られた、理想的『時』である。
・・・その死の後、イエスは復活して原則的には再び勝利が確認されるものの、
他方、苦難を特徴とする『教会の時』が開始されるのでもある。
・・・こうした救いの大筋が存在し、それを担っているのが教会であれば、人間が救われるのは
その教会に与ること以外には原則として有り得ない。そのための具体的条件が『悔い改め』である。
この語は、とりわけマルコでは人間の実存の根源的な方向転換であって『回心』とでも訳すべき
語であったが、ルカにおいては倫理的に自己の『罪』を教会に対して『悔いて』、行状を『改める』という
意味の述語に変質している。
・・・また、ルカによれば、イエスの受難以降迫害の動機が活性化するのだが、イエスはこの点において
優れて範例的意義を帯びる。つまり『父よ、あなたの両手に、私の霊を委ねます』と言って息絶えるイエスは、
典型的に美しい『殉教者』の死を遂げるのである。それは『教会の時』の迫害においては、
信者にとっての最高の規範に他ならない。
ただ、このイエスの言葉は、マルコ福音書の『エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ』を削除して、
その代わりに挿入された一文であることも注目せねばならない」
『教会の時』『罪』『悔い改め』という点で、ルカ福音書は最も現在のキリスト教に近いのではないかと思う。
そしてヘレニズム文化の正規教育を受けていたと言われる著者(便宜上、ルカと呼ばれる)は
ローマに対してはキリスト教が危険な宗教ではないことを説き
受胎告知の詳細なストーリーを加えることでマリヤを神聖化して女性信者をも取り込み
キリスト教に改宗した異邦人としてユダヤ人に欠けていたものを補いつつその普及に努めていったのではないかと思う。
・・・マルコではイエスの誕生は扱われていない。
マタイではひそかに身重になっていたマリヤについて思い煩う婚約者ヨセフのもとに御使い(名前はなし)が現れ
「ダビデの子ヨセフよ、お前の妻のマリヤを受け入れることを恐れるな。なぜなら、彼女が孕んでいるのは、
聖霊によるものだからである」と語りかける。
ルカでは、ヨセフではなくマリヤのもとに御使いのガブリエル(さすがに大天使)が遣わされる。
「恐れるな、マリヤム(ヘブライ語発音)よ、なぜなら、あなたは神からの恵みを得たのだ。
そこで見よ、あなたは身重になり、男の子を生むであろう、そしてその名をイエスと呼ぶであろう・・・」
そこでマリヤムは御使いに言う。
「どうしてそのようなことがあり得ましょう、私は男の人を知りませんのに」・・・
神格化されるマリヤと大天使ガブリエルの大物同士の対決は読者を捉えて離さない。
私はマタイに出て来る無名の御使いが存在感の薄いヨセフを慰めているシーンの方が身近に感じる。
「彼女、妊娠したんだってヨセフ・・・クヨクヨすんなよ・・・
男なら彼女のすべてを受け入れてやるもんだよ」
さすがに男だね、ヨセフ・・・
それにしても無駄に長くはないだろうか『教会の時』は・・・
終末がいつになっても訪れないのでキリスト教は年を取りすぎてしまったのだろう。
長く続いた『教会の時』の中で教皇はサタンの言葉に耳を傾けて地上の支配を手に入れるし、
地獄と煉獄と天国は開発整備され、『悔い改め』は発展し、
浄めるべき七つの罪(高慢・嫉妬・憤怒・怠惰・貪欲・貪食・邪淫)が設定される。
そんなことイエスは語ったのか?
『悔い改め』を独占した教会は、個人の超自我の上に君臨する。
しかし教会が個人を支配する術を持っていなかったとしたらキリスト教は今に伝わっていなかったかもしれない。
だが信仰を組織が支配するというのであれば何かが間違っているのではないか?
信仰は極めて個人的なものではないのか?