金谷治訳注「荘子[内篇]」を読んだ。
「そこで、知識については分からないところでそのまま止まっているのが、最高の知識である。
[分からないところを強いて分かろうとし、またわかったとするのは、真の知識ではない。]
言葉としてあらわれない弁舌、道としてあらわれない道のことを、誰が知ろうか」
そんなことが書かれていた。
たとえば音楽とか絵について、言葉で説明することは出来ない。
言葉は世界を切り取るが、切り取れないものについては他者と共有することが出来ない。
そうしたことを表現の限界と考えることができる。
「地球は青かった」と言った宇宙飛行士がいたが、地球は本当に「青い」のだろうか?
私たちのような視覚器官を持っている生き物にとっては青いのだろうが、
イヌは色盲らしいのでそうではないだろうし、鳥は四種の光の波長を識別しているそうだから、
三原色で識別している私たちとはまた違った世界が見えているのだろう。
「光の三原色」というのは客観的なようで実は主観的なのかもしれない。
ハチには紫外線が見えるらしい。コウモリは超音波を発信受信する。
イヌは色盲だが嗅覚がとても発達している。彼らはきっと臭いを中心とした世界に生きている。
身に付けている「感性」によって世界は異なる様相を見せる。
嗅覚の発達した生き物であれば「地球は臭かった」と言ったりするかもしれない。
そうしたことを感性の限界と考えることができる。
私たちの思考は言語に深く依存しているので言語の限界というものもある。
どんなふうに限界が設定されているのか、これを言語で説明するのも無理がある。
そうした様々な限界があるので「強いて分かろう」とはしていないし「わかった」とは言わないが
「そのまま止まっている」のが「最高の知識」であってよいのだろうか?
きっと西洋の思想は立ち止まったりしないだろう。
二千年も前から「最高の知識」に達しているのなら人間が生きる意味なんてないと西洋の思想は考えるだろう。
そして東洋の思想は、そのような進歩ありきの考え方ではなく、無為自然に生きろというのだろう。
「また人間は牛や豚などの家畜を食べ、鹿の類は草を食い、むかでは蛇をうまいと思い、鳶や烏は鼠を好む。
この四類の中でどれが本当の味を知っていることになるのか。
猿は猵狙(いぬざる)がその雌として求め、麋(となかい)は鹿と交わり、鰌(どじょう)は魚と遊ぶ。
毛嬙や麗姫は、人がだれもが美人だと考えるが、魚はそれを見ると水底深くもぐりこみ、
鳥はそれを見ると空高く飛び上り、鹿はそれを見ると跳びあがって逃げ出す。
この四類の中でどれが世界中の本当の美を知っていることになるのか。
わしの目から見ると、[世間での]仁義のあり方や善し悪しの道すじは、雑然と混沌している。
その区別をわきまえることが、どうしてわしにできようか」
そんなことが書いてあった。
何を食べるか、何を好むか、突然変異と自然選択でそのようなことが決まって行くのだろう。
動物が美しいと思っているかなんてわからない。
人間が求める美しさも普遍的なものはなくて個人の好みがあるだけなのかもしれない。
その偏り方が半端でないものを独創的と呼んでいるだけかもしれない。
固定したものはないから、どれが本当かなんて、誰も答えられないのかもしれない。
そして各々が良いと思うことをめぐって争いが生じる。
どれが正しいか議論で決めようというのはやはり西洋的であって
キリスト教というルールをふまえた場合にしか議論は成立しないのではないかと思う。
議会制民主主義の類もそうではないかと思う。
あまりに隔たりが大きい文化の間では議論を成立させることは出来ない。
やがて武力で衝突する。もちろん勝った方が正しい。正義はキリスト教にあり、彼らの敵が悪魔なのだ。
キリスト教国どうしの争いでも負けた方が悪魔となる。
「棟梁の石が帰ると、櫟社の神木が夢にあらわれて、こう告げた、
『お前はいったいこのわしを何に比べているのかね。お前は恐らくこのわしを役に立つ木と比べているのだろう。
いったい、柤や梨や橘や柚などの木の実や草の実の類は、その実が熟するとむしり取られもぎ取られて、
大きな枝は折られ小さい枝はひきちぎられることにもなる。これは、人の役にたつとりえがあることによって、
かえって自分の生涯を苦しめているものだ」
牛や豚や鶏などの役に立つ家畜は殺されてしまう。
鼠や蝙蝠は食えないので殺されない。
ミンクは食えないが毛皮のために殺されてしまう。
象は象牙のために殺されてしまう。
だが役に立たない雑草もまた刈り取られてしまう。
無用であれば災難を逃れることが出来るというわけでもないのだ。
人間を物として見る社会では、役に立つ人間は酷使され、役に立たない人間は抹殺される。
売上と利益の拡大のために、あらゆる人間の労力が最大限に利用できるよう、社会は最適化されてきた。
遊ぶことすらリフレッシュして仕事の効率を上げるためのものだ。
そのような社会では合理主義が人間を押しつぶしてしまうので、
いつの間にか富の蓄積に長けた人間は徳もあるのだということになってきた。
勝利者は富と名誉を同時に手に入れることが出来る。このシステムはわかりやすい。
ブックオフを歩いていると、役に立ちそうなタイトルの本が並んでいた。
読書もまた、何かの役に立つ読書に成り下がってしまったらしい。
そしてそのような本しか売れない。売れない本は店頭から消えるし、そもそも流通しない。
図書館に行くと、誰が借りるのだろうと思うような本が並んでいる。
どう見ても有用ではないし娯楽が目的でもない。ここは商いとは無縁の世界なのだろう。
そして役に立たない本を借りては読んでいる。
なんという贅沢・・・
「そこで、知識については分からないところでそのまま止まっているのが、最高の知識である。
[分からないところを強いて分かろうとし、またわかったとするのは、真の知識ではない。]
言葉としてあらわれない弁舌、道としてあらわれない道のことを、誰が知ろうか」
そんなことが書かれていた。
たとえば音楽とか絵について、言葉で説明することは出来ない。
言葉は世界を切り取るが、切り取れないものについては他者と共有することが出来ない。
そうしたことを表現の限界と考えることができる。
「地球は青かった」と言った宇宙飛行士がいたが、地球は本当に「青い」のだろうか?
私たちのような視覚器官を持っている生き物にとっては青いのだろうが、
イヌは色盲らしいのでそうではないだろうし、鳥は四種の光の波長を識別しているそうだから、
三原色で識別している私たちとはまた違った世界が見えているのだろう。
「光の三原色」というのは客観的なようで実は主観的なのかもしれない。
ハチには紫外線が見えるらしい。コウモリは超音波を発信受信する。
イヌは色盲だが嗅覚がとても発達している。彼らはきっと臭いを中心とした世界に生きている。
身に付けている「感性」によって世界は異なる様相を見せる。
嗅覚の発達した生き物であれば「地球は臭かった」と言ったりするかもしれない。
そうしたことを感性の限界と考えることができる。
私たちの思考は言語に深く依存しているので言語の限界というものもある。
どんなふうに限界が設定されているのか、これを言語で説明するのも無理がある。
そうした様々な限界があるので「強いて分かろう」とはしていないし「わかった」とは言わないが
「そのまま止まっている」のが「最高の知識」であってよいのだろうか?
きっと西洋の思想は立ち止まったりしないだろう。
二千年も前から「最高の知識」に達しているのなら人間が生きる意味なんてないと西洋の思想は考えるだろう。
そして東洋の思想は、そのような進歩ありきの考え方ではなく、無為自然に生きろというのだろう。
「また人間は牛や豚などの家畜を食べ、鹿の類は草を食い、むかでは蛇をうまいと思い、鳶や烏は鼠を好む。
この四類の中でどれが本当の味を知っていることになるのか。
猿は猵狙(いぬざる)がその雌として求め、麋(となかい)は鹿と交わり、鰌(どじょう)は魚と遊ぶ。
毛嬙や麗姫は、人がだれもが美人だと考えるが、魚はそれを見ると水底深くもぐりこみ、
鳥はそれを見ると空高く飛び上り、鹿はそれを見ると跳びあがって逃げ出す。
この四類の中でどれが世界中の本当の美を知っていることになるのか。
わしの目から見ると、[世間での]仁義のあり方や善し悪しの道すじは、雑然と混沌している。
その区別をわきまえることが、どうしてわしにできようか」
そんなことが書いてあった。
何を食べるか、何を好むか、突然変異と自然選択でそのようなことが決まって行くのだろう。
動物が美しいと思っているかなんてわからない。
人間が求める美しさも普遍的なものはなくて個人の好みがあるだけなのかもしれない。
その偏り方が半端でないものを独創的と呼んでいるだけかもしれない。
固定したものはないから、どれが本当かなんて、誰も答えられないのかもしれない。
そして各々が良いと思うことをめぐって争いが生じる。
どれが正しいか議論で決めようというのはやはり西洋的であって
キリスト教というルールをふまえた場合にしか議論は成立しないのではないかと思う。
議会制民主主義の類もそうではないかと思う。
あまりに隔たりが大きい文化の間では議論を成立させることは出来ない。
やがて武力で衝突する。もちろん勝った方が正しい。正義はキリスト教にあり、彼らの敵が悪魔なのだ。
キリスト教国どうしの争いでも負けた方が悪魔となる。
「棟梁の石が帰ると、櫟社の神木が夢にあらわれて、こう告げた、
『お前はいったいこのわしを何に比べているのかね。お前は恐らくこのわしを役に立つ木と比べているのだろう。
いったい、柤や梨や橘や柚などの木の実や草の実の類は、その実が熟するとむしり取られもぎ取られて、
大きな枝は折られ小さい枝はひきちぎられることにもなる。これは、人の役にたつとりえがあることによって、
かえって自分の生涯を苦しめているものだ」
牛や豚や鶏などの役に立つ家畜は殺されてしまう。
鼠や蝙蝠は食えないので殺されない。
ミンクは食えないが毛皮のために殺されてしまう。
象は象牙のために殺されてしまう。
だが役に立たない雑草もまた刈り取られてしまう。
無用であれば災難を逃れることが出来るというわけでもないのだ。
人間を物として見る社会では、役に立つ人間は酷使され、役に立たない人間は抹殺される。
売上と利益の拡大のために、あらゆる人間の労力が最大限に利用できるよう、社会は最適化されてきた。
遊ぶことすらリフレッシュして仕事の効率を上げるためのものだ。
そのような社会では合理主義が人間を押しつぶしてしまうので、
いつの間にか富の蓄積に長けた人間は徳もあるのだということになってきた。
勝利者は富と名誉を同時に手に入れることが出来る。このシステムはわかりやすい。
ブックオフを歩いていると、役に立ちそうなタイトルの本が並んでいた。
読書もまた、何かの役に立つ読書に成り下がってしまったらしい。
そしてそのような本しか売れない。売れない本は店頭から消えるし、そもそも流通しない。
図書館に行くと、誰が借りるのだろうと思うような本が並んでいる。
どう見ても有用ではないし娯楽が目的でもない。ここは商いとは無縁の世界なのだろう。
そして役に立たない本を借りては読んでいる。
なんという贅沢・・・