140億年の孤独

日々感じたこと、考えたことを記録したものです。

荘子[内篇]

2014-12-28 00:05:16 | 荘子
金谷治訳注「荘子[内篇]」を読んだ。
「そこで、知識については分からないところでそのまま止まっているのが、最高の知識である。
[分からないところを強いて分かろうとし、またわかったとするのは、真の知識ではない。]
言葉としてあらわれない弁舌、道としてあらわれない道のことを、誰が知ろうか」
そんなことが書かれていた。
たとえば音楽とか絵について、言葉で説明することは出来ない。
言葉は世界を切り取るが、切り取れないものについては他者と共有することが出来ない。
そうしたことを表現の限界と考えることができる。
「地球は青かった」と言った宇宙飛行士がいたが、地球は本当に「青い」のだろうか?
私たちのような視覚器官を持っている生き物にとっては青いのだろうが、
イヌは色盲らしいのでそうではないだろうし、鳥は四種の光の波長を識別しているそうだから、
三原色で識別している私たちとはまた違った世界が見えているのだろう。
「光の三原色」というのは客観的なようで実は主観的なのかもしれない。
ハチには紫外線が見えるらしい。コウモリは超音波を発信受信する。
イヌは色盲だが嗅覚がとても発達している。彼らはきっと臭いを中心とした世界に生きている。
身に付けている「感性」によって世界は異なる様相を見せる。
嗅覚の発達した生き物であれば「地球は臭かった」と言ったりするかもしれない。
そうしたことを感性の限界と考えることができる。
私たちの思考は言語に深く依存しているので言語の限界というものもある。
どんなふうに限界が設定されているのか、これを言語で説明するのも無理がある。
そうした様々な限界があるので「強いて分かろう」とはしていないし「わかった」とは言わないが
「そのまま止まっている」のが「最高の知識」であってよいのだろうか?
きっと西洋の思想は立ち止まったりしないだろう。
二千年も前から「最高の知識」に達しているのなら人間が生きる意味なんてないと西洋の思想は考えるだろう。
そして東洋の思想は、そのような進歩ありきの考え方ではなく、無為自然に生きろというのだろう。

「また人間は牛や豚などの家畜を食べ、鹿の類は草を食い、むかでは蛇をうまいと思い、鳶や烏は鼠を好む。
この四類の中でどれが本当の味を知っていることになるのか。
猿は猵狙(いぬざる)がその雌として求め、麋(となかい)は鹿と交わり、鰌(どじょう)は魚と遊ぶ。
毛嬙や麗姫は、人がだれもが美人だと考えるが、魚はそれを見ると水底深くもぐりこみ、
鳥はそれを見ると空高く飛び上り、鹿はそれを見ると跳びあがって逃げ出す。
この四類の中でどれが世界中の本当の美を知っていることになるのか。
わしの目から見ると、[世間での]仁義のあり方や善し悪しの道すじは、雑然と混沌している。
その区別をわきまえることが、どうしてわしにできようか」
そんなことが書いてあった。
何を食べるか、何を好むか、突然変異と自然選択でそのようなことが決まって行くのだろう。
動物が美しいと思っているかなんてわからない。
人間が求める美しさも普遍的なものはなくて個人の好みがあるだけなのかもしれない。
その偏り方が半端でないものを独創的と呼んでいるだけかもしれない。
固定したものはないから、どれが本当かなんて、誰も答えられないのかもしれない。
そして各々が良いと思うことをめぐって争いが生じる。
どれが正しいか議論で決めようというのはやはり西洋的であって
キリスト教というルールをふまえた場合にしか議論は成立しないのではないかと思う。
議会制民主主義の類もそうではないかと思う。
あまりに隔たりが大きい文化の間では議論を成立させることは出来ない。
やがて武力で衝突する。もちろん勝った方が正しい。正義はキリスト教にあり、彼らの敵が悪魔なのだ。
キリスト教国どうしの争いでも負けた方が悪魔となる。

「棟梁の石が帰ると、櫟社の神木が夢にあらわれて、こう告げた、
『お前はいったいこのわしを何に比べているのかね。お前は恐らくこのわしを役に立つ木と比べているのだろう。
いったい、柤や梨や橘や柚などの木の実や草の実の類は、その実が熟するとむしり取られもぎ取られて、
大きな枝は折られ小さい枝はひきちぎられることにもなる。これは、人の役にたつとりえがあることによって、
かえって自分の生涯を苦しめているものだ」
牛や豚や鶏などの役に立つ家畜は殺されてしまう。
鼠や蝙蝠は食えないので殺されない。
ミンクは食えないが毛皮のために殺されてしまう。
象は象牙のために殺されてしまう。
だが役に立たない雑草もまた刈り取られてしまう。
無用であれば災難を逃れることが出来るというわけでもないのだ。
人間を物として見る社会では、役に立つ人間は酷使され、役に立たない人間は抹殺される。
売上と利益の拡大のために、あらゆる人間の労力が最大限に利用できるよう、社会は最適化されてきた。
遊ぶことすらリフレッシュして仕事の効率を上げるためのものだ。
そのような社会では合理主義が人間を押しつぶしてしまうので、
いつの間にか富の蓄積に長けた人間は徳もあるのだということになってきた。
勝利者は富と名誉を同時に手に入れることが出来る。このシステムはわかりやすい。
ブックオフを歩いていると、役に立ちそうなタイトルの本が並んでいた。
読書もまた、何かの役に立つ読書に成り下がってしまったらしい。
そしてそのような本しか売れない。売れない本は店頭から消えるし、そもそも流通しない。
図書館に行くと、誰が借りるのだろうと思うような本が並んでいる。
どう見ても有用ではないし娯楽が目的でもない。ここは商いとは無縁の世界なのだろう。
そして役に立たない本を借りては読んでいる。
なんという贅沢・・・

中国の思想[12] 荘子

2014-12-27 00:05:44 | 荘子
岸陽子訳「中国の思想[12] 荘子」という本を読んだ。
「荘子は、自然を損なうものとして、人為を否定した。人為の観点からすれば無用なものほど、
実は貴いのであるという価値の転換が、ここに成立する。
・・・
無用であればあるほど、人為とのかかわりが薄れる。つまりその自然が保たれる。
人間が何者の道具にもならず、自己のために生きてこそ、天寿を全うできると説くのである。
『無用の用』という逆説でしか表現しえない価値こそ真の価値なのだ」
冒頭の解題にそのようなことが書かれていた。

「自己のために生きる」とか「天寿を全うする」というのはよくわからないが
きっと私は道具に堕した生活を送っているのだろう。
もちろん望んでそうしているわけではない。
市場の要望に応えることが出来ない製品やサービスは撤退を余儀なくされる。
スマホが登場してノキアなどの携帯電話メーカーは壊滅的な打撃を受けた。
そのハードウェア部門はマイクロソフトが買い取ったが人員は解雇整理された。
市場の要望に応えるために、人々の欲望を満たすために、お客様のために、上司のために、
自分の持てる時間を費やさなければ生き残ることが出来ない。
自分のペースで生きることなど出来ない。
その時に人間は道具として生きることを強制される。
世界は弱肉強食だから残酷なのではなくて、
そのような生き方しか許されないという点で残酷なのではないかと思う。
そして一度でもそのような考え方を表明したなら異邦人のように扱われることになる。
もっと前向きに考えられないのかと問い詰められてしまう。
きっと「ポジティブ」しか選べない考え方についていけない時点で不適格者であり
芸能・スポーツの話題についていけない時点でコミュニケーション障害者となるのだろう。
「真の価値」というのがどういう価値なのかよくわからないが
「無用」というからには他者による評価から逃れようとしているのだろう。
「ポジティブ」という点では私ほど様々なものに価値を見出そうとしている者もあまりいないだろう。
そしてどんなものを見つけたかを記すことが楽しみなのだろう。
それが「自己のために生きる」ということかもしれない。

「生きるために心身を労して外物と争い、それによって心身をすりへらし滅ぼしてゆく、
この動かしがたい矛盾は、なんら解明されていないのである。
その人生の不可解さを、人々はどう解釈するのであろうか」
おそらく創造主は人間が心身をすりへらしているかどうかなんて気にせずに意識を与えたのだ。
そしてその労苦は創造主どころか他人にもわからない。
わからないどころか他者を支配しようとする者は意図的に心身をすりへらそうとする。
支配するためには痛みを与えるに限るのだろう。
虐待や拷問が禁止されている社会では精神的な責め苦(いじめ)により痛みが与えられる。
それで人が死んだりすると「パワハラ」ということになる。
その矛盾から逃れたければ社会から集団から逃れるしかなさそうだ。
世捨て人となれば磨り減らすことはないのだろう。
そういうのもありかもしれない。

「太古の人こそ、最高の知の所有者だったといえるのではなかろうか。
なぜならば、かれらは自然そのままの存在であり、かれらの意識は、主客未分化の、
いわば混沌状態だったと考えられるからである。この混沌こそ、もっと望ましいありかたなのである」
主客未分化の意識というのは矛盾していると思う。
主客未分化の動物たちは意識もなく世界と一体化しているように思われる。
あるいは意識が認識する主体と認識される客体を分離したのではないかと思う。
そしてその混沌状態が自然であるというのであれば
意識がない状態が自然であり、意識は人為ということになるだろう。
そうすると思考している限り、どんなにがんばっても「自然」には辿り着けない。
自然そのままが良くて最高の知であるかどうかはわらならない。
知を捨てることが「最高の知」ということだろうか?
どうもそう聞こえる。

「罔両(影の外縁にできるうすいかげ)が、影を批判した。
『おまえときたら、歩いていたかと思えば立ちどまり、座っていたかと思えば立ち上がる。
いったいなんだってそう主体性のない動き方をするんだ』
すると影はこう答えた。
『たしかに、おれは主人の動くままに動いているのかもしれない。だが、おれの主人にしたところで、
果して自分の意志で動いているのかどうか。おれが動いたり止まったりするのは、
蛇が腹の下のウロコによって動き、蝉が羽によって動くように、どうしてそうなるのか
わからないのだよ』」
西洋の思想(宗教)では自由意志は神から与えられた最高の贈り物なのだろう。
そしてその文明が支配する私たちの世界では様々なケースで主体性が要求される。
そこでは「蝉が羽によって動く」のではなく、「私が足を動かす」と言い換えられる。
「人が足によって動く」と言えば主体性がないことになる。
生き物の進化を辿ると、もともと身体があって次に脳が発達してきたことになっている。
しかし自然より与えられた精神は自分の方が身体より偉いのだと考えるようになった。
なんといっても「主体」なのだ。
そして経験の主体と記憶の主体は一致していなければならない。
今後の生存を有利にするために蓄積される経験(記憶)を一元管理する者が「私」である。
それは虚構に満ちているので「果して自分の意志で動いているのかどうか」
よくわからないものなのだろう。

「人間にしても同じこと、秩序の枠に押しこめられ、善を称揚し悪を排斥して暮らすよりは、
善悪を超越して『道』そのままに生きるほうが、はるかに好ましいはずである」
西洋が「善悪の彼岸」に気付くずっと前から東洋は気付いていたのだろう。
そうすると何が進歩なのだかわからなくなる。
何がオリジナルなのだか・・・

「今や天下の人々は、みな本来の自己を忘れて外物の奴隷になりさがってしまった。
そしてその奴隷としてつかえる対象が『仁義』ならば、君子として尊敬され、
『財貨』ならば、小人として軽蔑される。
だが、両者の間にいったいどれだけの差があるというのであろう。
・・・君子だの小人だのと各づけしてみたところで、たいした違いはないのである」
経済的な成功だけではなく道徳的な勝利まで手に入れようとする輩に対してニーチェは憤慨したが、
『財貨』であっても『仁義』であっても奴隷であることに変わりはないということだ。
金儲けのために生きることも特定の思想のために生きることも
奴隷であることに変わりはない。