加島祥造「タオ 老子」という本を読んだ。「タオ」というのは「道」のことだそうだ。
アマゾンのカスタマーレビューで高評価だったので購入してみたが薄っぺらな感じがした。
「タオ」「タオ」「タオ」「タオ」「タオ」「タオ」「タオ」・・・と、うるさい。
「タオイズム」「タオ的な生きかた」「タオ的ライフ」「タオイスト」・・・と、くどい。
「老子の語る母や水のイメージから、直接に生命エナジーを汲みとった」なんて書いてあって
文明の進歩にあやかりながらエコも大切にしよう的な欧州的偽善に満ちている。
レビューには「この本で初めて老子がわかった」という書評があったが
きっと欧州的キリスト教的資本主義ズブズブの生活を送っている私たちは、
「タオ」という西洋的にイカシタ名称に共感してしまい何かわかったつもりになってしまうのだろう。
もともと「道」とは名付けようがないから便宜的にそう呼んでいるだけのものであり
ことさらに言葉そのものを強調するのは良くないと思う。
著者は「私は一介のタオイストだ」と書いている。
そんなことを宣言してどうする?
「世間の知識だけが絶対じゃないんだ。
他人や社会を知ることなんて/薄っ暗い知識にすぎない。
自分を知ることこそ/ほんとの明るい智慧なんだ。」
そんなことが書かれていた。
「己を知る」とか「内界の旅をつづける」といったことが好きな人も多い。
それを続けて行くと主観の謎に辿り着いて通常は撤退を余儀なくされる。
「見えること」とか「聞こえること」について私たちは何も知らない。
視覚細胞が波長これこれの光に反応して神経を介して信号が脳に伝えられニューロンが興奮すると、
そういうのが客観的な説明になるが、それが主観的な現象とどう結びついているのか何もわからない。
赤い色の波長は決まっており、赤い色が見える仕組みは説明できるのだが、
それが「赤に見えるということ自体」がどういうことなのかよくわからない。
感性についてもそんな状況だから知性についてはもっとわからない。
「考えている」時に脳で何が起こっているのか見当もつかない。
そんな時に「自分を知ることが大切」などと言われても「そうですか」としか答えようがない。
「知ろうと欲したことが何でも理解できると思っているのだろうか?」と
疑いの目で相手を眺めてしまうかもしれない。
また、「他人や社会を知ること」と「自分を知ること」を区別するのもどうかと思う。
個体は環境から独立しているわけではない。
様々な宗教を知ることが一つの宗教についての理解を深めることにもなる。
そのようにして分析と総合を繰り返すのは智慧のひとつのあり方だろう。
そして智慧というのはたいていは「世間の知識」であり自分で考えたものではない。
ただ、そういうものも自ら求めなければ得られるものは僅かだ。
世間に流布される情報がすべてだと思っているのならば視野が狭いということになるが
そういう人は思い込みも強くハッピーでいられるものだ。
知識は人を幸福にするものではないのだから
幸福を求めるのであれば知識など求めないことだ。
「名声やお金にこだわりすぎたら/もっとずっと大切なものを失う。
物を無理して蓄めこんだりしたら/とても大きなものを亡くすんだよ。
なにを失い、なにを亡くすかだって?/静けさと平和さ。
このふたつを得るには、いま自分の持つものに満足することさ。」
そんなことが書かれていた。
私たちには「静けさと平和」が与えられないようコントロールされているのではないかと思うことがある。
たとえば住宅ローンによって社畜に身を落とすこともあるだろう。
名声を得るためではなくて、ただ生きて行くためだけに、無理をしなければならないこともある。
子供一人を育てるのに二千万円必要とも言われる。
そのために「静けさと平和」を失ったりもする。
あまり選択の余地はない。
競争社会を肯定する人々は他人が平穏でいることを好まない。
そして努力をしない「怠け者」と言って批判する。
親も勉強しない子供を「怠け者」と言って叱る。
たとえば本を読んでばかりで受験勉強をしない子供とか、
自己啓発しない社員は非難される。
かつて「ゆとり教育」があれほど非難されたのはそういう背景が関係していると思われる。
そのようにして「役に立つ」人々が次世代の「役に立つ」人々を育てる。
「役に立たない」人々は排除される。
世界は「役に立つこと」と「役に立たないこと」に二分される。
人間がモノと成り下がってしまった時代では「役に立たないこと」は悪である。
こうなってしまっては「静けさと平和」はお金でしか買えない。
そして老人は現金だけしか信じられなくなり死ぬまで手放さない。
老後の不安を払拭するだけの現金をしたところで
私たちを待っているのはそのような死である。
なんて哀しい・・・
「無為とは/知識を体内で消化した人が/何に対しても応じられるベストな状態のこと、
あとは存在の内なるリズムに任せて/黙って見ていることを言う。」
「無為」とか「空」のたとえとして「イチロー」が用いられる。
それはしかし反射的な行動を示しているだけだろう。
行動には「思考」とか「知識」は必要ではない。
そのような体育会系の「無為」の他に文系の「無為」のようなものもある。
良いアイデアを思いつく時はたいていはリラックスした時だ。
意識的に必死になって考えても解決しなかった問題は
無意識下で引き続き検討されているらしい。
老子が「無為」と呼んでいるものが何なのかはよくわからない
「人為」の及ばぬものとしての「無為」なのだろうか?
「人為」を否定しようとする意図は
強く感じられる。
アマゾンのカスタマーレビューで高評価だったので購入してみたが薄っぺらな感じがした。
「タオ」「タオ」「タオ」「タオ」「タオ」「タオ」「タオ」・・・と、うるさい。
「タオイズム」「タオ的な生きかた」「タオ的ライフ」「タオイスト」・・・と、くどい。
「老子の語る母や水のイメージから、直接に生命エナジーを汲みとった」なんて書いてあって
文明の進歩にあやかりながらエコも大切にしよう的な欧州的偽善に満ちている。
レビューには「この本で初めて老子がわかった」という書評があったが
きっと欧州的キリスト教的資本主義ズブズブの生活を送っている私たちは、
「タオ」という西洋的にイカシタ名称に共感してしまい何かわかったつもりになってしまうのだろう。
もともと「道」とは名付けようがないから便宜的にそう呼んでいるだけのものであり
ことさらに言葉そのものを強調するのは良くないと思う。
著者は「私は一介のタオイストだ」と書いている。
そんなことを宣言してどうする?
「世間の知識だけが絶対じゃないんだ。
他人や社会を知ることなんて/薄っ暗い知識にすぎない。
自分を知ることこそ/ほんとの明るい智慧なんだ。」
そんなことが書かれていた。
「己を知る」とか「内界の旅をつづける」といったことが好きな人も多い。
それを続けて行くと主観の謎に辿り着いて通常は撤退を余儀なくされる。
「見えること」とか「聞こえること」について私たちは何も知らない。
視覚細胞が波長これこれの光に反応して神経を介して信号が脳に伝えられニューロンが興奮すると、
そういうのが客観的な説明になるが、それが主観的な現象とどう結びついているのか何もわからない。
赤い色の波長は決まっており、赤い色が見える仕組みは説明できるのだが、
それが「赤に見えるということ自体」がどういうことなのかよくわからない。
感性についてもそんな状況だから知性についてはもっとわからない。
「考えている」時に脳で何が起こっているのか見当もつかない。
そんな時に「自分を知ることが大切」などと言われても「そうですか」としか答えようがない。
「知ろうと欲したことが何でも理解できると思っているのだろうか?」と
疑いの目で相手を眺めてしまうかもしれない。
また、「他人や社会を知ること」と「自分を知ること」を区別するのもどうかと思う。
個体は環境から独立しているわけではない。
様々な宗教を知ることが一つの宗教についての理解を深めることにもなる。
そのようにして分析と総合を繰り返すのは智慧のひとつのあり方だろう。
そして智慧というのはたいていは「世間の知識」であり自分で考えたものではない。
ただ、そういうものも自ら求めなければ得られるものは僅かだ。
世間に流布される情報がすべてだと思っているのならば視野が狭いということになるが
そういう人は思い込みも強くハッピーでいられるものだ。
知識は人を幸福にするものではないのだから
幸福を求めるのであれば知識など求めないことだ。
「名声やお金にこだわりすぎたら/もっとずっと大切なものを失う。
物を無理して蓄めこんだりしたら/とても大きなものを亡くすんだよ。
なにを失い、なにを亡くすかだって?/静けさと平和さ。
このふたつを得るには、いま自分の持つものに満足することさ。」
そんなことが書かれていた。
私たちには「静けさと平和」が与えられないようコントロールされているのではないかと思うことがある。
たとえば住宅ローンによって社畜に身を落とすこともあるだろう。
名声を得るためではなくて、ただ生きて行くためだけに、無理をしなければならないこともある。
子供一人を育てるのに二千万円必要とも言われる。
そのために「静けさと平和」を失ったりもする。
あまり選択の余地はない。
競争社会を肯定する人々は他人が平穏でいることを好まない。
そして努力をしない「怠け者」と言って批判する。
親も勉強しない子供を「怠け者」と言って叱る。
たとえば本を読んでばかりで受験勉強をしない子供とか、
自己啓発しない社員は非難される。
かつて「ゆとり教育」があれほど非難されたのはそういう背景が関係していると思われる。
そのようにして「役に立つ」人々が次世代の「役に立つ」人々を育てる。
「役に立たない」人々は排除される。
世界は「役に立つこと」と「役に立たないこと」に二分される。
人間がモノと成り下がってしまった時代では「役に立たないこと」は悪である。
こうなってしまっては「静けさと平和」はお金でしか買えない。
そして老人は現金だけしか信じられなくなり死ぬまで手放さない。
老後の不安を払拭するだけの現金をしたところで
私たちを待っているのはそのような死である。
なんて哀しい・・・
「無為とは/知識を体内で消化した人が/何に対しても応じられるベストな状態のこと、
あとは存在の内なるリズムに任せて/黙って見ていることを言う。」
「無為」とか「空」のたとえとして「イチロー」が用いられる。
それはしかし反射的な行動を示しているだけだろう。
行動には「思考」とか「知識」は必要ではない。
そのような体育会系の「無為」の他に文系の「無為」のようなものもある。
良いアイデアを思いつく時はたいていはリラックスした時だ。
意識的に必死になって考えても解決しなかった問題は
無意識下で引き続き検討されているらしい。
老子が「無為」と呼んでいるものが何なのかはよくわからない
「人為」の及ばぬものとしての「無為」なのだろうか?
「人為」を否定しようとする意図は
強く感じられる。