140億年の孤独

日々感じたこと、考えたことを記録したものです。

タオ 老子

2014-12-21 00:05:58 | 老子
加島祥造「タオ 老子」という本を読んだ。「タオ」というのは「道」のことだそうだ。
アマゾンのカスタマーレビューで高評価だったので購入してみたが薄っぺらな感じがした。
「タオ」「タオ」「タオ」「タオ」「タオ」「タオ」「タオ」・・・と、うるさい。
「タオイズム」「タオ的な生きかた」「タオ的ライフ」「タオイスト」・・・と、くどい。
「老子の語る母や水のイメージから、直接に生命エナジーを汲みとった」なんて書いてあって
文明の進歩にあやかりながらエコも大切にしよう的な欧州的偽善に満ちている。
レビューには「この本で初めて老子がわかった」という書評があったが
きっと欧州的キリスト教的資本主義ズブズブの生活を送っている私たちは、
「タオ」という西洋的にイカシタ名称に共感してしまい何かわかったつもりになってしまうのだろう。
もともと「道」とは名付けようがないから便宜的にそう呼んでいるだけのものであり
ことさらに言葉そのものを強調するのは良くないと思う。
著者は「私は一介のタオイストだ」と書いている。
そんなことを宣言してどうする?

「世間の知識だけが絶対じゃないんだ。
他人や社会を知ることなんて/薄っ暗い知識にすぎない。
自分を知ることこそ/ほんとの明るい智慧なんだ。」
そんなことが書かれていた。
「己を知る」とか「内界の旅をつづける」といったことが好きな人も多い。
それを続けて行くと主観の謎に辿り着いて通常は撤退を余儀なくされる。
「見えること」とか「聞こえること」について私たちは何も知らない。
視覚細胞が波長これこれの光に反応して神経を介して信号が脳に伝えられニューロンが興奮すると、
そういうのが客観的な説明になるが、それが主観的な現象とどう結びついているのか何もわからない。
赤い色の波長は決まっており、赤い色が見える仕組みは説明できるのだが、
それが「赤に見えるということ自体」がどういうことなのかよくわからない。
感性についてもそんな状況だから知性についてはもっとわからない。
「考えている」時に脳で何が起こっているのか見当もつかない。
そんな時に「自分を知ることが大切」などと言われても「そうですか」としか答えようがない。
「知ろうと欲したことが何でも理解できると思っているのだろうか?」と
疑いの目で相手を眺めてしまうかもしれない。
また、「他人や社会を知ること」と「自分を知ること」を区別するのもどうかと思う。
個体は環境から独立しているわけではない。
様々な宗教を知ることが一つの宗教についての理解を深めることにもなる。
そのようにして分析と総合を繰り返すのは智慧のひとつのあり方だろう。
そして智慧というのはたいていは「世間の知識」であり自分で考えたものではない。
ただ、そういうものも自ら求めなければ得られるものは僅かだ。
世間に流布される情報がすべてだと思っているのならば視野が狭いということになるが
そういう人は思い込みも強くハッピーでいられるものだ。
知識は人を幸福にするものではないのだから
幸福を求めるのであれば知識など求めないことだ。

「名声やお金にこだわりすぎたら/もっとずっと大切なものを失う。
物を無理して蓄めこんだりしたら/とても大きなものを亡くすんだよ。
なにを失い、なにを亡くすかだって?/静けさと平和さ。
このふたつを得るには、いま自分の持つものに満足することさ。」
そんなことが書かれていた。
私たちには「静けさと平和」が与えられないようコントロールされているのではないかと思うことがある。
たとえば住宅ローンによって社畜に身を落とすこともあるだろう。
名声を得るためではなくて、ただ生きて行くためだけに、無理をしなければならないこともある。
子供一人を育てるのに二千万円必要とも言われる。
そのために「静けさと平和」を失ったりもする。
あまり選択の余地はない。
競争社会を肯定する人々は他人が平穏でいることを好まない。
そして努力をしない「怠け者」と言って批判する。
親も勉強しない子供を「怠け者」と言って叱る。
たとえば本を読んでばかりで受験勉強をしない子供とか、
自己啓発しない社員は非難される。
かつて「ゆとり教育」があれほど非難されたのはそういう背景が関係していると思われる。
そのようにして「役に立つ」人々が次世代の「役に立つ」人々を育てる。
「役に立たない」人々は排除される。
世界は「役に立つこと」と「役に立たないこと」に二分される。
人間がモノと成り下がってしまった時代では「役に立たないこと」は悪である。
こうなってしまっては「静けさと平和」はお金でしか買えない。
そして老人は現金だけしか信じられなくなり死ぬまで手放さない。
老後の不安を払拭するだけの現金をしたところで
私たちを待っているのはそのような死である。
なんて哀しい・・・

「無為とは/知識を体内で消化した人が/何に対しても応じられるベストな状態のこと、
あとは存在の内なるリズムに任せて/黙って見ていることを言う。」
「無為」とか「空」のたとえとして「イチロー」が用いられる。
それはしかし反射的な行動を示しているだけだろう。
行動には「思考」とか「知識」は必要ではない。
そのような体育会系の「無為」の他に文系の「無為」のようなものもある。
良いアイデアを思いつく時はたいていはリラックスした時だ。
意識的に必死になって考えても解決しなかった問題は
無意識下で引き続き検討されているらしい。
老子が「無為」と呼んでいるものが何なのかはよくわからない
「人為」の及ばぬものとしての「無為」なのだろうか?
「人為」を否定しようとする意図は
強く感じられる。

老子

2014-12-20 00:05:54 | 老子
蜂屋邦夫訳注「老子」を読んだ。
「天地が生成され始めるときには、まだ名は無く、万物があらわれてきて名が定立された」
「何かが混沌として運動しながら、天地よりも先に誕生した。それは、ひっそりとして形もなく、
ひとり立ちしていて何物にも依存せず、あまねくめぐりわたって休むものなく、
この世界の母ともいうべきもの。
わたしは、その名を知らない。かりの字をつけて道と呼び、むりに名をこしらえて大と言おう。
大であるとどこまでも動いてゆき、どこまでも動いてゆくと遠くなり、
遠くなるとまた道に返ってくる」
注釈には「すなわち、天地の形成以前にすでに存在する根源的な何かは、そもそもの実体が分からないから
名づけようがないが、しかし言葉がなければ言及もできないから、仮の呼び方をして道というのだ、
ということである」と書かれている。
宇宙が誕生する前はどうであったか、あるいは言葉が誕生する前はどうであったか、
そういう疑問を持ったとしても回答は得られない。
私たちは現象を因果関係で把握しようとするので因果関係が成立しない場合は思考停止に至る。
時空が存在する前の時間とか、言葉が存在する前の概念というのは、捉えどころがない。
物理的な、あるいは言語的な限界を超えることはできない。
そして天地が混沌から生まれたと言った時の「天地」とは物理的な実体というよりは
そのものに名まえをつけることで混沌から抜け出そうとする試みを示しているように思える。
それでいつも書いていることの繰り返しになってしまうが
「私たちは『秩序』しか理解できない」
混沌というのは「秩序がないこと」を意味しているだけであって
それ自体が何であるかはわからない。

「そこで、有ると無いとは相手があってこそ生まれ、難しいと易しいとは相手があってこそ成りたち、
長いと短いとは相手があってこそ形となり、高いと低いとは相手があってこそ現われ、
音階と旋律とは相手があってこそ調和し、前と後とは相手があってこそ並びあう」
「それゆえ、大いなる道が廃れだしてから、それから仁義が説かれるようになった。
知恵が働きだしてから、それから大きな虚偽が行われるようになった。
家族が不和になりだしてから、それから孝子や慈父が出てくるようになった。
国家が混乱しだしてから、それから忠臣が現われるようになった」
注釈では「『美』の観念は『醜』の観念と同時に生み出される相対的なものである、
ということを言っている」と書いてある。有と無、長と短も同じ。
そうすると仁義や忠臣も荒廃した世と対になった相対的な概念ということになるのだろう。
古今東西、それが真理であるかのように語られている場合も多いと思うが、
単に言葉の働きを述べているだけではないかと思う。
一方で「知恵が働きだしてから虚偽が行われるようになった」というのは少しトーンが異なる。
これは知恵の樹の果実を食べてしまったことで楽園を追われたあの話と似ている。
西洋で知恵は罪であるが東洋で知恵は虚偽であるというわけだ。
そして知恵についてはどういうわけか相対化している概念の悪い方だけが強調される。
犬は他の犬を騙したりはしないが、少し知恵のあるサルは他のサルを騙すこともある。
そういうのはあまりに利己的ではないかということで非難される。
他の犬を騙すような才覚のない犬にしてもエサを独り占めするなどして十分に利己的になれるが
ただ虚偽を為さないということで彼は忠犬でいられる。
だがなんといっても知恵や意識の働きによって人間は世界から分離されてしまった。
動物でいられたならば世界と一体化したまま死に怯えることもなく生きていられたのだ。
だからそれはなんと言っても罪であり虚偽であるというわけだ。
そうすると私たちは知恵からの解放を望んでいるのだろうか?

「道は常に無為にして、而も為さざる無し」
「道」について解説には次のように書かれている。
「天地自然の生成や活動の原理、人間もそれに同化して一体となるべきものであり、
人が広めるというように対象化されるものではない。いわば、宇宙と人間の根本原理とでもいうべきもの」
なんだかよくわからないが根本原理があるので人間も同化すべきであるというのが教えであるならば
本当になんのことだかよくわからない。自然に逆らうなということだろうが、では「自然」とは何なのか?
自然と対立し、自然を征服しようとしていると言われるキリスト教文化圏は、
万有引力の法則とか、マクスウェル方程式とか、デオキシリボ核酸であるとか、
「根本原理」には辿り着けないにしても自然の生成や活動の原理を少しずつ解き明かしている。
科学は分析して切り裂くだけというわけではない。
ティコ・ブラーエの膨大な観測データから規則性を見つけたケプラーや
ファラデーの発見を四つの方程式にまとめてしまったマクスウェルの為したことは総合であって
創造的な仕事には「無為」が必要であるとユング派が言うのであれば
それらの活動は「無為」に含まれるのではないかと考えられる。
だが「無為」「無」「空」を語る思想は、どこにも辿り着かないし、何も発見したりはしない。
その思想は進歩を求めてはいない。
探究心に駆り立てられてしまうことが多い私たちは、その思想に物足りなさを感じてしまうが、
一方では知恵によって引き起こされる終りの無い競争に疲れ果てており、
心の奥底では「知の呪縛から解放されたい」と願っているのかもしれない。
そういう時に私たちは老子を求めるのだろう。