140億年の孤独

日々感じたこと、考えたことを記録したものです。

名古屋フィル#122ショスタコーヴィチ交響曲第5番

2022-10-16 21:54:09 | 音楽
第505回定期演奏会〈ショスタコーヴィチ〉
リムスキー=コルサコフ:歌劇『金鶏』より序奏と婚礼の行列
プロコフィエフ:ヴァイオリン協奏曲第2番ト短調 作品63
ショスタコーヴィチ:交響曲第5番ニ短調 作品47

ショスタコーヴィチの第三番はとても前衛的であり、第四番はマーラーのような響きがすることから、
次に続く第五番が闘争勝利型の構成というのは不自然な感じが拭えない。
「克服すべき課題が与えられ、紆余曲折の末、終楽章で勝利を収める」
その形式はベートーヴェンと共に終わったのではないのか?
特に交響曲第四番の初演が四半世紀もの間、引き伸ばされたという事実は、
その頃の作曲家を取り巻く状況が極めて厳しかったということを類推させる。
芸術に対しても何かと指導したがる当局の目を欺くために、
わかりやすい形式を選択したということは十分にあり得るだろう。
そうした経緯から、交響曲第五番には無理やり書かされたというイメージがつきまとう。
それはソ連という時代を生き延びるための苦渋の選択であったのかもしれない。
第十三番や第十四番といった二十世紀の交響曲の傑作を書いた作曲家の生涯を概観すれば、
めくらましが必要な時期があっただけだと思った方が良いのかもしれない。
以上のような印象をずっと私は持ち続けているのだが、実際にこの曲を聴くのは本当に久しぶりだった。
二十年くらいは聴いていなかったかもしれない。
「果たして無理に欠かされた曲なのだろうか?」私は自分の先入観に疑問を感じ始めた。
切れ味鋭いこの旋律は、この作曲家に特有のもので、一瞬で雰囲気を作ってしまう。
そう思って聴いていると、不誠実に拵えられたようなものは次第に消えて行ってしまう。
私は単にそこに表現されているものを受け止めれば良いだけなのだろう。
作曲者の思惑のようなものは、作曲家の生涯を思うときに素人が邪推してしまうものなのだが、
そんなことは一切考えない方が良いのだろう。
作曲家の手を離れた作品は本来、自由なのだ。親元から巣立った子供のようなものなのだ。
それは本質的に自由であり、聞き手はそのまま受け止めれば良いのだ。
だから今日は一つ、自分の先入観から自由になったような気がした。
長く生きていると余計なものがどんどん蓄積されてしまうのだが、
捨てた方が良いものもたくさんありそうだ。