140億年の孤独

日々感じたこと、考えたことを記録したものです。

リヴァイアサン(二)

2013-06-08 11:06:21 | ホッブズ
「すなわち、わたくしは、この人に、また人々のこの合議体にたいして、自己を統治する
わたくしの権利を、権威づけ与えるが、それはあなたもおなじようにして、あなたの権利を
かれにあたえ、かれのすべての行為を権威づけるという、条件においてである。
このことがおこなわれると、こうして一人格に統一された群集は、コモン-ウェルス、
ラテン語ではキウィタスとよばれる。これが、あの偉大なリヴァイアサン、むしろあの
可死の神の生成であり、われわれは不死の神のもとで、われわれの平和と防衛について
この可死の神のおかげをこうむっているのである。というのは、コモン-ウェルスのなかの
各個人がかれにあたえたこの権威によって、かれは、かれに附与された、ひじょうに
おおきな権力とつよさを利用しうるのであり、そのおおきさは、かれが、それの威嚇によって、
かれらすべての意志を、国内における平和とかれらの外敵に対抗する相互援助へと、
形成することができるほどなのである。そして、かれのなかに、コモン-ウェルスの本質が
存在する。
それは、ひとつの人格であって、かれの諸行為については、一大群集がそのなかの各人の
相互の信約によって、かれらの各人のすべてを、それらの行為の本人としたのであり、
それは、この人格が、かれらの平和と共同防衛に好都合だとかんがえるところにしたがって、
かれらすべてのつよさと手段を利用しうるようにするためである。
そして、この人格をになうものは主権者とよばれ、主権者権力をもつといわれるのであり、
他のすべてのものは、かれの臣民である。」

基本的人権の尊重であるとか、国民主権であるといったことを、私たちは小学校で習う。
実際のところ、それがなんなのか、よくわかっていなかったりする。
そして女の前で恥をかかされたりすると「人間の尊厳を傷つけられた」といって
ツイッターで拡散したりする。
ホッブズの場合に人権に相当するのは生存権になるのだと思う。
各人の各人に対する戦争状態が続く限り個人の生存は脅かされるので、
そのような状態を免れるためにコモン-ウェルスが設立される。あるいは獲得される。

「獲得によるコモン-ウェルスとは、主権者権力が力(フォース)によって獲得される
コモン-ウェルスである。そして、力によって獲得されるとは、人々が個別的に、あるいは
おおくのものがいっしょに多数意見によって、死や枷への恐怖にもとづいて、かれらの生命と
自由を手中ににぎる人または合議体の、すべての行為を権威づけるというばあいである」

春秋戦国時代は秦の始皇帝により、日本の戦国時代は徳川家康により平定されたということだが、
その場合は「死や枷への恐怖にもとづいて」人々は統治される。
生存権を得るためにはどんな理不尽な命令にも従わなければならない。
家康すら力のない頃には信長に因縁をつけられ妻子を失った。
中国や北朝鮮では現代でもそのような状態かもしれない。
中国の軍事費の増大に各国は懸念を示しているが、
中国では軍事費よりも治安を維持するために必要な費用の方が大きいそうだ。
なんと不安定な・・・

民主主義の発達した現代では、生存権を含む人権は尊重されているのだろうか?
巷ではブラック企業についての書き込みが頻繁になされている。
そして国会議員は自分たちの年金は別枠で確保した上で、
(臣民については)年金の支給開始年齢を68歳にしようとしている。いずれ70歳を超えるだろう。
ブラック企業に関する書き込みは実際のところ想定内のことで別に驚いたりしない。
現代においても私たちは「生存権を得るためにはどんな理不尽な命令にも従わなければならない」
パワハラで自殺者が出ても誰も責任を取らない。
遺族の無念は推し量ることができない。

それで私は思うのだが、基本的人権の尊重であるとか国民主権というのは幻想であり、
施政者はそのように信じ込ませたいのではないかと思う。
国民主権といったところで、権力はその性質上、一部の人間にしか委ねられない。
そうしないと権力を発動することができなくなってしまう。
「そして、この人格をになうものは主権者とよばれ、主権者権力をもつといわれるのであり、
他のすべてのものは、かれの臣民である。」

そういうわけで臣民のみなさん!
今日もがんばりましょう。

リヴァイアサン(一)

2013-06-01 00:05:05 | ホッブズ
岩波文庫のホッブズ「リヴァイアサン(一)」を読んだ。
アマゾンの中古本を購入、昭和48年の発行で旧字体で書かれていた。
さすがに読みにくい。

この本で最も有名であろう部分は以下のように翻訳されていた。
「こうして、つぎのことはあきらかである。すなわち、人々が、かれらのすべてを威圧しておく
共通の力なしに、生活している時代には、かれらは戦争とよばれる状態にあるのであり、
かかる戦争は、各人の各人にたいするそれなのである。」

ググってみると「万人の万人に対する闘争」は「市民論」で書かれたものだという。
リヴァイアサンの原文は以下のようなものであるらしい。
...such a war as is of every man against every man.
「万人の万人に対する闘争」の方が雰囲気が出ていると思う。
好みの問題なのだろうが・・・

「共通の力のないところに法はなく、法のないところに不正義はない」
現在、野放しにされている強欲は、それが合法的であり、正義であると認められている。
競争の機会は平等に与えられているのだから努力すればよいではないかと勝利者は語る。
しかし機会は平等でも能力は平等に与えられていないのが事実であり、それはそれで仕方がない。
人は結果が平等になるようにはつくられていない。

ところでその共通の力とはなんだろうか?
「しかしながら、ひとつの力がもうけられて、さもなければ自分たちの誠実をふみにじろうと
する人々を束縛する、社会状態においては、そういう恐怖はもはや理由あるものではない。
それであるから信約によって、最初に実行すべくさだめられた者は、そうすることを
義務づけられるのである。」
この部分から、共通の力は「国家権力」のようなものと読み取れる。

市民社会の成立以前には宣誓という形態があり、約束を守らない場合は、神に背くこと、
その後いっさい神の加護が得られなくなることの恐怖で、平和が維持されているのだという。
「市民社会の時代よりまえにおいては、・・・協定された平和の信約を、貪欲、野心、肉欲
その他の、つよい意欲の誘惑にたいして強化しうるものは、みえない力への恐怖でしかなく、
かかる力を、各人は神として崇拝し、かれらの不信の報復者として恐怖するのである。」
宗教あるいは道徳の起源は国家よりも法よりも古い。

「正義は各人に各自のものをあたえようとする不断の意志である。したがって、各自のものが
ないばあい、すなわち所有権がないばあいには、不正義は存在しない。また強制力が
樹立されていないところ、すなわちコモン-ウェルスがないところでは、所有権は存在しない。
・・・信約の有効性は、人々をしてそれをまもらせるに十分な、社会的権力の設立によってのみ
はじまり、それと同時に所有権もまた、はじまるのである」
「不正義の定義は、信約の不履行にほかならないのである。そして不正でないものは
すべて正しいのである」とも書いてある。
つまり、正義(あるいは不正義)・所有権・社会的権力は各々独立しているわけではなく
同時に成立したということになる。

そうすると「社会的権力による不正義」のようなものはないのだろうか?
あるいは政権が交代しても「正義」の内容は不変なのだろうか?

「他人が自分のためにしてくれるようにおまえが要求するすべてのことを、他人にたいして
おまえがおこなえ」、このような「福音書の法」も自然法であるという。
「おまえが、おまえのためになされるのを欲しないことを、他人にむかってしてはならない」
これは「すべての人の法」であるという。
その自然法は小学校の道徳で教えてもらったような気がする。
自然法と宗教と道徳の違いが何だかよくわからない。
きっと重複する部分もあるのだろう。