140億年の孤独

日々感じたこと、考えたことを記録したものです。

宮沢賢治全集2

2015-12-27 00:05:51 | 宮沢賢治
ちくま文庫 宮沢賢治全集2を読んだ。
いや正確には、ぱらぱらめくっただけです。

174ページ
その服は
おれの組合から買ってくれたのかい
いやありがたう
すてきななりだ
まるでこれからアフガニスタンへ馬を盗みに行くやうだ

アフガニスタンへ馬を盗みに行くような素敵な服・・・
村上春樹かーーーっ

199ページ
あたたかくくらくおもいもの
ぬるんだ水空気懸垂体
それこそほとんど恋愛自身なのである
なぜなら恋の八十パーセントは
H2Oでなりたって
のこりは酸素と炭酸瓦斯との交流なのだ

(H2Oは化学記号であり、テキストファイルで表現できませんが、2は下半分に書かれる2であります。)
「恋の八十パーセント」というのは、賢治では珍しい表現ではないかと思う。
そもそも「恋」なんて全然、出て来ないので
その八十パーセントもない。

224ページ
一〇四九  基督再臨
風が吹いて
日が暮れかゝり
麦のうねがみな
うるんで見えること
石河原の大小の鍬
まっしろに発火しだした
また労れて死ぬる支那の苦力や
働いたために子を生み悩む農婦たち
また、、、、  の人たちが
みなうつゝとも夢ともわかぬなかに云ふ
おまへらは
わたくしの名を知らぬのか
わたしはエス
おまへらに
ふたゝび
あらはれることをば約したる
神のひとり子エスである

キリスト教と社会主義は抑制されているのだが、時々、出て来る。

230ページ
一〇五三  政治家
あっちもこっちも
ひとさわぎおこして
いっぱい呑みたいやつらばかりだ
     羊歯の葉と雲
        世界はそんなにつめたく暗い
けれどもまもなく
さういふやつらは
ひとりで腐って
ひとりで雨に流される
あとはしんとした青い羊歯ばかり
そしてそれが人間の石炭紀であったと
どこかの透明な地質学者が記録するであらう

政治家について書かれたものも少ない。
ましてや悪口になっているものは見あたらない。
そういう意味では珍しい。

233ページ
一〇五六  〔サキノハカといふ黒い花といっしょに〕
サキノハカといふ黒い花といっしょに
革命がやがてやってくる
ブルジョアジーでもプロレタリアートでも
おほよそ卑怯な下等なやつらは
みんなひとりで日向へ出た蕈のやうに
潰れて流れるその日が来る
やってしまへやってしまへ
酒を呑みたいために尤らしい波瀾を起すやつも
じぶんだけで面白いことをしつくして
人生が砂っ原だなんていふにせ教師も
いつでもきょろきょろひとと自分とくらべるやつらも
そいつらみんなをびしゃびしゃに叩きつけて
その中から卑怯な鬼どもを追ひ払へ
それらをみんな魚や豚につかせてしまへ
はがねを鍛へるやうに新らしい時代は新らしい人間を鍛へる
紺いろした山地の稜をも砕け
銀河をつかって発電所もつくれ

これもなんか悪口みたいだが、なんとなく悲しくなる。
「いつでもきょろきょろひとと自分とくらべるやつら」というのは私のことかもしれない。
ぜひ、びしゃびしゃに叩きつけてほしい。

256ページ
一〇七一  〔わたくしどもは〕
わたくしどもは
ちゃうど一年いっしょに暮しました
その女はやさしく蒼白く
その眼はいつでも何かわたくしのわからない夢を見てゐるやうでした
いっしょになったその夏のある朝
わたくしは町はづれの橋で
村の娘が持って来た花があまり美しかったので
二十銭だけ買ってうちに帰りましたら
妻は空いてゐた金魚の壺にさして
店へ並べて居りました
夕方帰って来ましたら
妻はわたくしの顔を見てふしぎな笑ひやうをしました
見ると食卓にはいろいろな果物や
白い洋皿などまで並べてありますので
どうしたのかとたづねましたら
あの花が今日ひるの間にちゃうど二円に売れたといふのです
……その青い夜の風や星、
  すだれや魂を送る火や……
そしてその冬
妻は何の苦しみといふのでもなく
萎れるやうに崩れるやうに一日病んで没くなりました

「恋」も珍しいが「妻」はもっと珍しいのではないかと思う。そういう意味で漱石の対極にある。
ここに出て来る妻は花の化身なのか、その身を犠牲にして食べ物を拵えたのか、
そんなふうにして萎れるように死んでいったのか、
いずれにしても幸福からは程遠い。

302ページ
〔断章六〕
新しい時代のコペルニクスよ
余りに重苦しい重力の法則から
この銀河系を解き放て

新しい時代のダーヴヰンよ
更に東洋風静観のキャレンジャーに載って
銀河系空間の外にも至って
更にも透明に深く正しい地史と
増訂された生物学をわれらに示せ

衝動のやうにさへ行われる
すべての農業労働を
冷く透明な解析によって
その藍いろの影といっしょに
舞踏の範囲にまで高めよ

素質ある諸君はただにこれらを刻み出すべきである
おほよそ統計に従はば
諸君のなかには少なくとも百人の天才がなければならぬ

〔断章七〕
新たな詩人よ
嵐から雲から光から
新たな透明なエネルギーを得て
人と地球にとるべき形を暗示せよ
 
新たな時代のマルクスよ
これらの盲目な衝動から動く世界を
素晴らしく美しい構成に変へよ

諸君この颯爽たる
諸君の未来圏から吹いて来る
透明な清潔な風を感じないのか

新しい時代のコペルニクス
新しい時代のダーヴイン
新たな時代のマルクス
彼らが切り開いた時代は過ぎ去ってしまった。
現代の英雄というのは、ジョン・レノンであったり、スティーブ・ジョブズであったりする。
きっと賢治の呼び掛けは、そういうタイプの英雄には届かないだろう。

368ページ
〔降る雨はふるし〕
降る雨はふるし
倒れる稲はたふれる
たとへ百分の一しかない蓋然が
いま眼の前にあらはれて
どういふ結果にならうとも
おれはどこへも遁げられない
  ……春にはのぞみの列とも見え
    恋愛そのものとさへ考へられた
    鼠いろしたその雲の群……
もうレーキなどはふり出して
かういふ開花期に
続けて降った百ミリの雨が
どの設計をどう倒すか
眼を大きくして見てあるけ
たくさんのこわばった顔や
非難するはげしい眼に
保険をとっても弁償すると答へてあるけ

生活(農業)に関わるものが増えて来る。
稲が倒れぬよう、凶作にならぬよう、身を擦り減らし、やがて病に倒れる。
あるいは、その顔つきや眼つきに倒れてしまったのかもしれない。

542ページ
〔そしてわたくしはまもなく死ぬのだらう〕
そしてわたくしはまもなく死ぬのだらう
わたくしといふのはいったい何だ
何べん考へなおし読みあさり
さうともきゝかうも教へられても
結局まだはっきりしてゐない
わたくしといふのは
[以下空白]

道草

2015-12-26 00:05:11 | 夏目漱石
587,588ページ
「道草」は漱石の全作品中もっとも自伝的な匂いの濃いものである。
(正宗)白鳥は、「道草」を芸術上の見地から最も傑出しているという意味ではなく、
漱石の作品の注釈書として、多大の価値をおく。
いろいろな作品の生まれた源をここにたどることが出来る意味で、
全作中最も大切な小説だといっている。

そう解説に書かれていた。

365ページ
「来たか長さん待ってたほい。冗談じゃないよ。使でも出そうかと思ってたところです」

「きたかチョーさん まってたドン」というのもありました。
明治時代の小唄の一節に、
♪ 碓氷峠の権現様よ 私が為には守り神 スイスイ~ ♪
♪ 来たか長さん 待ってた ホイ ♪
というのがあるそうです。

419ページ
人が溺れかかったり、または絶壁から落ちようとする間際に、よく自分の過去全体を一瞬間の記憶として、
その頭に描き出す事があるという事実に、この哲学者は一種の解釈を下したのである。
「人間は平生彼らの未来ばかり望んで生きているのに、その未来が咄嗟に起ったある危険のために
突然塞がれて、もうおれは駄目だと事がきまると、急に眼を転じて過去を振り向くから、
そこですべての過去の経験が一度に意識に上るのだというんだね。その説によると」

ベルグソン「物質と記憶」にそういうことが書いてあるそうだが、
死ぬほどの目に遭ったことがないので「一瞬間の記憶として描き出される過去全体」を想像することが出来ない。
過去全体とは、未来の行動を決定するために活用される蓄積された体験の全体ということだろうか?
音の響きが類似しているとか、意味が似ているとか、記憶は何らかの関連で紐付けられている。
その連鎖は分岐したり結合したりしているが、表象されるのはその連鎖の中の一部に限られている。
論理的に結合された情報がハードディスクからメモリに、メモリからレジスタに転送されるにつれて、
扱える情報の量が減って来るのと同じようなことではないかと思う。一度に全部を演算することは出来ない。
本当に過去全体を表象できるのだろうか?
よくわからない。

422ページ
「解らないね、どうも。いったい魚と獣ほど違うんだから」

519ページ
「ああ云うものが続々生れて来て、必竟どうするんだろう」
彼は親らしくもない感想を起した。その中には子供ばかりではない、こういう自分や自分の細君なども、
必竟どうするんだろうという意味も朧気に交っていた。

続々と生れて来た私たちは、気が付けば世界に投げ出されている。
そしていったん生れて来たならば、死にたくはないので、なんとかして生き延びて行かねばならない。
「どうするんだろう」と言われても、続々と生れて来て、連綿と続いて行くのが生き物だ。
やがて「どうするんだろう」と考えた個体も消失することになるので、
「どうするんだろう」という心配もその時には消失している。
気に病むことはない。

548ページ
「食わすだけは仕方がないから食わしてやる。しかしそのほかの事はこっちじゃ構えない。
先方でするのが当然だ」
父の理屈はこうであった。
島田はまた島田で自分に都合のいい方からばかり事件の成行を観望していた。
「なに実家へ預けておきさえすればどうにかするだろう。そのうち健三が一人前になって少しでも
働けるようになったら、その時表沙汰にしてでもこっちへ奪還くってしまえばそれまでだ」
健三は海にも住めなかった。山にもいられなかった。両方から突き返されて、両方の間をまごまごしていた。
同時に海のものも食い、時には山のものにも手を出した。
実父から見ても養父から見ても、彼は人間ではなかった。
むしろ物品であった。

実父と養父の狭間で、物品として扱われながら、漱石は育ったらしい。
そのような状況に遭いながら、その状況を俯瞰していた、もうひとりの漱石が作家になったのだろう。
物品として扱われ、愛情を受けずに育った人間の不幸は、愛情の与え方を学べなかったことではないかと思う。
そこから回復するのは、なかなか大変なことだ。

564ページ
人通りの少ない町を歩いている間、彼は自分の事ばかり考えた。
「御前は必竟何をしに世の中に生れて来たのだ」
彼の頭のどこかでこういう質問を彼に投げかけるものがあった。彼はそれに答えたくなかった。
なるべく返事を避けようとした。するとその声がなお彼を追窮し始めた。
何遍でも同じ事を繰返してやめなかった。彼は最後に叫んだ。
「分らない」
その声はたちまちせせら笑った。
「分らないのじゃあるまい。分っていても、そこへ行けないのだろう。途中で引かかっているのだろう」
「おれのせいじゃない。おれのせいじゃない」
健三は逃げるようにずんずん歩いた。

「何をしに生れて来たのか?」ということについて答なんてないだろう。あるは問いが不適切であるかもしれない。
続々生れて来た順に世界に投げ出されているだけのことだ。
資質と環境が複雑に組み合わされ時間が経過すると人格が特定の興味へと方向付けられ、
「何かがやりたい」という気持ちが生じるが、力量がなければ「そこへ行けない」だろう。
そういう場合は「分らない」と思っていた方が傷が浅くて済むのだが、
いつまでもそうしているわけにはいかない。

582ページ
「じゃどうすれば本当に片づくんです」
「世の中に片づくなんてものはほとんどありゃしない。一遍起った事はいつまでも続くのさ。
ただいろいろな形に変るから他にも自分にも解らなくなるだけの事さ」
健三の口調は吐き出すように苦々しかった。細君は黙って赤ん坊を抱上げた。
「おお好い子だ好い子だ。御父さまのおっしゃる事は何だかちっとも分りゃしないわね」
細君はこう云い云い、幾度か赤い頬に接吻した。

「世の中に片づくなんてものはほとんどありゃしない」
まったく同感です。

宮沢賢治全集1

2015-12-20 00:05:54 | 宮沢賢治
ちくま文庫 宮沢賢治全集1を読んだ。



わたくしといふ現象は
仮定された有機交流電燈の
ひとつの青い照明です
(あらゆる透明な幽霊の複合体)
風景やみんなといっしょに
せはしくせはしく明滅しながら
いかにもたしかにともりつづける
因果交流電燈の
ひとつの青い照明です
(ひかりはたもち、その電燈は失はれ)

これらは二十二箇月の
過去とかんずる方角から
紙と鉱質インクをつらね
(すべてわたくしと明滅し
 みんなが同時に感ずるもの)
ここまでたもちつゞけられた
かげとひかりのひとくさりづつ
そのとほりの心象スケッチです

これらについて人や銀河や修羅や海胆は
宇宙塵をたべ、または空気や塩水を呼吸しながら
それぞれ新鮮な本体論もかんがへませうが
それらも畢竟こゝろのひとつの風物です
たゞたしかに記録されたこれらのけしきは
記録されたそのとほりのこのけしきで
それが虚無ならば虚無自身がこのとほりで
ある程度まではみんなに共通いたします
(すべてがわたくしの中のみんなであるやうに
 みんなのおのおののなかのすべてですから)

けれどもこれら新世代沖積世の
巨大に明るい時間の集積のなかで
正しくうつされた筈のこれらのことばが
わづかその一点にも均しい明暗のうちに
   (あるひは修羅の十億年)
すでにはやくもその組立や質を変じ
しかもわたくしも印刷者も
それを変らないとして感ずることは
傾向としてはあり得ます
けだしわれわれがわれわれの感官や
風景や人物をかんずるやうに
そしてたゞ共通に感ずるだけであるやうに
記録や歴史、あるひは地史といふものも
それのいろいろの論料といっしょに
(因果の時空的制約のもとに)
われわれがかんじてゐるのに過ぎません
おそらくこれから二千年もたったころは
それ相当のちがった地質学が流用され
相当した証拠もまた次次過去から現出し
みんなは二千年ぐらゐ前には
青ぞらいっぱいの無色な孔雀が居たとおもひ
新進の大学士たちは気圏のいちばんの上層
きらびやかな氷窒素のあたりから
すてきな化石を発掘したり
あるひは白堊紀砂岩の層面に
透明な人類の巨大な足跡を
発見するかもしれません

すべてこれらの命題は
心象や時間それ自身の性質として
第四次延長のなかで主張されます

大正十三年一月廿日  宮澤賢治

「春と修羅」、これらの作品を詩集と呼ぶことを賢治は嫌い「心象スケッチ」と称したということだ。
ここでは「わたくし」は現象であり、「心象」は「風景」と同じスケッチということだ。
私欲を棄てた詩人の態度がそうなのではなくて、「私」が虚構に過ぎないことを見抜いているのか、
あるいは仏教から学んだのではないかと思う。
(「私」が虚構であるとか、実在しないとかいうことは、いろいろなところに書いているので、
ここにはもう書かない)

詩、あるいは心象スケッチについての私の感度は驚くほど鈍く、その理解は驚くほど低い。
ここまで理解が低いと自分を擁護する気にもならない。
だからまあ、実態は、ここにある全集のページをぱらぱらめくっているだけなのだ。
哲学や小説のように字が敷き詰められているわけではないので、あっという間にページを繰ってしまう。
そして頭にも心にも、何も残っていない。

しかし振り返ってみれば、哲学や小説についても、それほど理解することが出来ず、
ぱらぱらめくっていただけの時期があったように思う。
きっとこの詩集(心象スケッチ)も今度、読む時には、もう少し理解がすすみ、
もう少し身近に感じられるようになるのではないかと思う。
まあ根拠も何もないですが・・・

そんな未熟な読者がピックアップするものだから、たいして意味はありません。
ただこの時期に、こういう本を読んだという記録に過ぎないです。

永訣の朝

けふのうちに
とほくへいってしまふわたくしのいもうとよ
みぞれがふっておもてはへんにあかるいのだ
   (あめゆじゅとてちてけんじゃ)
うすあかくいっさう陰惨な雲から
みぞれはびちょびちょふってくる
   (あめゆじゅとてちてけんじゃ)
青い蓴菜のもやうのついた
これらふたつのかけた陶椀に
おまへがたべるあめゆきをとらうとして
わたくしはまがったてっぽうだまのやうに
このくらいみぞれのなかに飛びだした
   (あめゆじゅとてちてけんじゃ)
蒼鉛いろの暗い雲から
みぞれはびちょびちょ沈んでくる
ああとし子
死ぬといふいまごろになって
わたくしをいっしゃうあかるくするために
こんなさっぱりした雪のひとわんを
おまへはわたくしにたのんだのだ
ありがたうわたくしのけなげないもうとよ
わたくしもまっすぐにすすんでいくから
   (あめゆじゅとてちてけんじゃ)
はげしいはげしい熱やあえぎのあひだから
おまへはわたくしにたのんだのだ
 銀河や太陽、気圏などとよばれたせかいの
そらからおちた雪のさいごのひとわんを……
……ふたきれのみかげせきざいに
みぞれはさびしくたまってゐる
わたくしはそのうへにあぶなくたち
雪と水とのまっしろな二相系をたもち
すきとほるつめたい雫にみちた
このつややかな松のえだから
わたくしのやさしいいもうとの
さいごのたべものをもらっていかう
わたしたちがいっしょにそだってきたあひだ
みなれたちゃわんのこの藍のもやうにも
もうけふおまへはわかれてしまふ
(Ora Orade Shitori egumo)
ほんたうにけふおまへはわかれてしまふ
あああのとざされた病室の
くらいびゃうぶやかやのなかに
やさしくあをじろく燃えてゐる
わたくしのけなげないもうとよ
この雪はどこをえらばうにも
あんまりどこもまっしろなのだ
あんなおそろしいみだれたそらから
このうつくしい雪がきたのだ
   (うまれでくるたて
    こんどはこたにわりやのごとばかりで
    くるしまなあよにうまれてくる)
おまへがたべるこのふたわんのゆきに
わたくしはいまこころからいのる
どうかこれが天上のアイスクリームになって
おまへとみんなとに聖い資糧をもたらすやうに
わたくしのすべてのさいはひをかけてねがふ

最愛の妹の最期を看取る、その風景が淡々と描写され、その心情が淡々と繰り返され、
(あめゆじゅとてちてけんじゃ)という音韻が、読者の心の中で何度も繰り返される。
その風景と心情と音韻が一段落した後に、あめゆきをとろうとした作者は、
雪のしろさに行為を阻まれる。

この雪はどこをえらばうにも
あんまりどこもまっしろなのだ

私はこの部分を読む度に泣きそうな気分になる。
気が狂いそうだ。

けだしわたくしはいかにもけちなものではありますが
自分の畑も耕せば
冬はあちこちに南京ぶくろをぶらさげた水稲肥料の設計事務所も出して居りまして
おれたちは大いにやらう約束しようなどいふことよりは
も少し下等な仕事で頭がいったいなのでございますから
さう申したとて別に何でもありませぬ
北上川が一ぺん氾濫しますると
百万疋の鼠が死ぬのでございますが
その鼠らがみんなやっぱりわたくしみたいな云い方を
生きているうちは毎日いたして居りまするのでございます
(春と修羅 第二集 序文より)

「一疋の大口魚が毎年生む子の数は百万疋とか聞く。牡蠣になるとそれが二百万の倍数の上るという。
そのうちで生長するのはわずか数匹に過ぎないのだから、自然は経済的に非常な濫費者であり、
徳義上には恐るべく残酷な父母である」と夏目漱石「思い出す事など」に書いてあったが、
「北上川の氾濫で死んでしまう百万疋の鼠」というのも残酷であり、濫費だろう。
そのような鼠らが「わたくし」みたいな言い方をしているのだという。
「風の歌を聴け」の鼠も、この中の一疋かもしれない。

告別

おまへのバスの三連音が
どんなぐあひに鳴ってゐたかを
おそらくおまへはわかってゐまい
その純朴さ希みに充ちたたのしさは
ほとんどおれを草葉のやうに顫はせた
もしもおまへがそれらの音の特性や
立派な無数の順列を
はっきり知って自由にいつでも使へるならば
おまへは辛くてそしてかゞやく天の仕事もするだらう
泰西著名の楽人たちが
幼齢弦や鍵器をとって
すでに一家をなしたがやうに
おまへはそのころ
この国にある皮革の鼓器と
竹でつくった管とをとった
けれどもいまごろちゃうどおまへの年ごろで
おまへの素質と力をもってゐるものは
町と村との一万人のなかになら
おそらく五人はあるだらう
それらのひとのどの人もまたどのひとも
五年のあひだにそれを大抵無くすのだ
生活のためにけづられたり
自分でそれをなくすのだ
すべての才や力や材といふものは
ひとにとゞまるものでない
ひとさへひとにとゞまらぬ
云はなかったが、
おれは四月はもう学校に居ないのだ
恐らく暗くけはしいみちをあるくだらう
そのあとでおまへのいまのちからがにぶり
きれいな音の正しい調子とその明るさを失って
ふたたび回復できないならば
おれはおまへをもう見ない
なぜならおれは
すこしぐらゐの仕事ができて
そいつに腰をかけてるやうな
そんな多数をいちばんいやにおもふのだ
もしもおまへが
よくきいてくれ
ひとりのやさしい娘をおもふやうになるそのとき
おまへに無数の影と光の像があらはれる
おまへはそれを音にするのだ
みんなが町で暮したり
一日あそんでゐるときに
おまへはひとりであの石原の草を刈る
そのさびしさでおまへは音をつくるのだ
多くの侮辱や窮乏の
それらを噛んで歌ふのだ
もしも楽器がなかったら
いゝかおまへはおれの弟子なのだ
ちからのかぎり
そらいっぱいの
光でできたパイプオルガンを弾くがいゝ

この作品は花巻農学校を去るにあたり、
音楽の才能を持っていた生徒に宛てて書いたということだ。
あるいは教師を辞めて農民になることを決めた自分に宛てて書いたのだろう。

おまへの素質と力をもってゐるものは
町と村との一万人のなかになら
おそらく五人はあるだらう
それらのひとのどの人もまたどのひとも
五年のあひだにそれを大抵無くすのだ
生活のためにけづられたり
自分でそれをなくすのだ
すべての才や力や材といふものは
ひとにとゞまるものでない
ひとさへひとにとゞまらぬ

音楽の世界で生きて行こうとすると熾烈な競争に晒されてしまう。
一万人の中の五人では到底生き残れないが、
そのようなありふれた才能ですら五年の間になくしてしまうのだという。
私たちは私たちで生活のために時間を切り売りしていて、
音楽や本はますます生活から遠ざかって行く。
私たちに接近してくる音楽や本は商業的なものばかりであり、
それに慣れると私たちは理解する力を失ってしまう。
生活に疲れ果てていた7年前はそんなふうだった。
何か明確な目標があるわけでもない。他人に誇れるものがあるわけでもない。
それでも手探りで、試行錯誤を重ねながら、
そして一方では経済的な影響力を失いながら、
私はここまでやって来た。
これからどこに向かうのかもわからない。
80年生きるための人生設計をしているわけではない。
きっといつか飢え死にするだろう。

みんなが町で暮したり
一日あそんでゐるときに
おまへはひとりであの石原の草を刈る
そのさびしさでおまへは音をつくるのだ
多くの侮辱や窮乏の
それらを噛んで歌ふのだ
もしも楽器がなかったら
いゝかおまへはおれの弟子なのだ
ちからのかぎり
そらいっぱいの
光でできたパイプオルガンを弾くがいゝ

賢治も、オルガンの得意なこの子も、
みんなが遊んでいる姿を羨ましいと思っているわけではないだろうが、
ひとりでさびしく侮辱や窮乏に耐えねばならない境遇が待ち受けていることについては、
先輩である賢治がやさしく語りかける「おまへはおれの弟子なのだ」と。
その言葉があれば生きていける。
その言葉があるからこそ生きていける。

こころ

2015-12-19 00:05:19 | 夏目漱石
154ページ
実際ここにあなたという一人の男が存在していないならば、私の過去はついに私の過去で、
間接にも他人の知識にはならないで済んだでしょう。私は何千万といる日本人のうちで、
ただあなただけに、私の過去を物語りたいのです。あなたは真面目だから。
あなたは真面目に人生そのものから生きた教訓を得たいと云ったから。

「先生」は真面目な「あなた」だけに私の「過去」を物語りたいのだというのだが、
本当は漱石が「真面目」な読者だけに私の「小説」を物語りたいということではないかと思う。
人には、自分のことを、自分の考えたことを、自分の作品を物語りたいという欲望がある。

170ページ
「一口でいうと、叔父は私の財産をごまかしたのです。事は私が東京へ出ている三年の間に
容易く行われたのです」

195ページ
「私はその友達の名をここにKと呼んでおきます。私はこのKと小供の時からの仲好しでした」

198ページ
私はまた彼の室に聖書を見ました。私はそれまでにお経の名をたびたび彼の口から聞いた覚えが
ありますが、基督教については、問われた事も答えられた例もなかったのですから、ちょっと驚きました。
私はその理由を訊ねずにはいられませんでした。Kは理由はないと云いました。
これほど人のありがたがる書物なら読んでみるのが当り前だろうとも云いました。
その上彼は機会があったら、コーランも読んで見るつもりだと云いました。
彼はモハメッドと剣という言葉に大いなる興味をもっているようでした。

聖書やコーランを読んだところで宗教を体験することはできないのだろうが、読まないよりは良い。
それほど多くの人がどうして惹き付けられるのかということを知っていた方が良い。
仏教とキリスト教とイスラム教が宗教という括りで共通したものを持っているとは思わない。
正しい行いや悪しき行いがすべて天の帳簿に記載されることで安心する人々もいれば、
自己を忘るることが身心脱落とか言っている人々もいる。
そんなことも知らないで互いの意見を尊重するとか多様性を認めようと言っても仕方がないのだ。
多様性を理解しようと思うなら個別の価値に触れねばならない。
Kが「理由はない」と言うのはそういうことだろう。

238ページ
だから驚いたのです。彼の重々しい口から、彼のお嬢さんに対する切ない恋を打ち明けられた時の
私を想像してみてください。私は彼の魔法棒のために一度に化石されたようなものです。
口をもぐもぐさせる働きさえ、私にはなくなってしまったのです。

250ページ
私はまず「精神的に向上心のないものは馬鹿だ」と云い放ちました。
これは二人で房州を旅行している際、Kが私に向って使った言葉です。私は彼の使った通りを、
彼と同じような口調で、再び彼に投げ返したのです。しかしけっして復讐ではありません。
私は復讐以上に残酷な意味をもっていたという事を自白します。
私はその一言でKの前に横たわる恋の行く手を塞ごうとしたのです。

251ページ
「精神的に向上心のないものは馬鹿だ」
私は二度同じ言葉を繰り返しました。そうして、その言葉がKの上にどう影響するかを見詰めていました。
「馬鹿だ」とやがてKが答えました。「僕は馬鹿だ」

「精神的に向上心のないものは馬鹿だ」ということだが、向上心というのは精神的なものに決まっている。
そうすると「向上心のないものは馬鹿だ」に短縮できそうだが、当時の二十代は「精神的に」という言葉に
弱かったのかもしれない。あるいは酔いしれていたのかもしれない。
そのような言葉は「向上心」のある者にしか効かない。向上心のない者は何とも思わない。
そして真面目な二十代の人間は、そのことが何なのかよくわかってはいないのだが、向上したいと考えている。
二十代を過ぎてしまうと、向上して来た、成長して来た、と考えたがる。
右肩上がりの成長を善と見做す高度資本主義社会は、そのような人間のためにある。
それは結局のところ加速度的に資源とエネルギーを消費するだけのことかもしれない。
あるいはもうすぐ行き止まりなのかもしれない。
ここでは二度繰り返された「精神的に向上心のないものは馬鹿だ」という言葉が
Kを追い込んだということだ。

266ページ
奥さんの云うところを綜合して考えてみると、Kはこの最後の打撃を、最も落ち付いた驚きをもって
迎えたらしいのです。Kはお嬢さんと私との間に結ばれた新しい関係について、
最初はそうですかとただ一口云っただけだったそうです。
しかし奥さんが、「あなたも喜んでください」と述べた時、彼ははじめて奥さんの顔を見て
微笑を洩らしながら、「おめでとうございます」と云ったまま席を立ったそうです。

269ページ
手紙の内容は簡単でした。そうしてむしろ抽象的でした。
自分は意志弱行でとうてい行く先の望みがないから、自殺するというだけなのです。

277ページ
私は妻と顔を合わせているうちに、卒然Kに脅かされるのです。つまり妻が中間に立って、
Kと私をどこまでも結び付けて離さないようにするのです。妻のどこにも不足を感じない私は、
ただこの一点において彼女を遠ざけたがりました。

愛する妻と自分が殺してしまったと考えているKが常に不可分のものとして映る。
生きていることが幸福であると共に地獄となる。

278ページ
叔父に欺かれた当時の私は、他の頼みにならない事をつくづくと感じたには相違ありませんが、
他を悪く取るだけあって、自分はまだ確かな気がしていました。
世間はどうあろうともこの己は立派な人間だという信念がどこかにあったのです。
それがKのためにみごとに破壊されてしまって、自分もあの叔父と同じ人間だと意識した時、
私は急にふらふらしました。他に愛想を尽かした私は、自分にも愛想を尽かして動けなくなったのです。

エゴイズムを追求していくと「自分もあの叔父と同じ」という結論に辿り着き、自殺することになった。
だからみなさん、そうならないようにお互いを尊重しましょう、愛し合いましょう、
利他主義で行きましょうと、そんなことを言っているわけではないと思う。
言い方を変えると「あの叔父も自分と同じ」エゴに振り回されたということになるのだと思う。
そういうやっかいなもの、制御できないものを抱えた生き物であるという点でこそ、
私たちの相互理解の可能性が残されている。

280ページ
Kはまさしく失恋のために死んだものとすぐ極めてしまったのです。しかしだんだん落ち付いた気分で、
同じ現象に向かってみると、そうたやすくは解決が着かないように思われて来ました。
現実と理想の衝突、―――それでもまだ不十分でした。私はしまいにKが私のようにたった一人で
淋しくって仕方がなくなった結果、急に所決したのではなかろうかと疑い出しました。
そうしてまたぞっとしたのです。私もKの歩いた路を、Kと同じように辿っているのだという予覚が、
折々風のように私の胸を横過り始めたからです。

Kは失恋のために死んだのではなくて、友達に裏切られたから死んだのではなくて、
彼もまた己のエゴを始末できないことに悩み抜き、ひとりで淋しくて死んでいったのではないかと思う。
そういう意味で「先生」はKと同じ道を辿っている。

『考え方が違うから闘うんでしょ?』と208が追求した。
『そうとも言える。』
『二つの対立する考え方があるってわけね?』と208。
『そうだ。でもね、世の中には百二十万くらいの対立する考え方があるんだ。いや、もっと沢山かもしれない。』
『殆んど誰とも友だちになんかなれないってこと?』と209。
『多分ね。』と僕。『殆んど誰とも友だちになんかなれない。』
それが僕の一九七○年代におけるライフ・スタイルであった。ドストエフスキーが予言し、僕が固めた。

キリーロフもスタヴローギンも死んで行った。
殆ど誰とも友達になんかなれない。
その自覚から相互理解の可能性へと、村上春樹の初期から中期の作品は、発展して行った。
漱石の頃から、あまり変ってはいない。
そして現代では、誰とも友達になれない人々が、つながりを求めてか、つながりが絶えることを怖れてか、
LINE中毒から逃れられない。

287ページ
私は私の出来る限りこの不可思議な私というものを、あなたに解らせるように、
今までの叙述で己れを尽くしたつもりです。

私というものは、いつまでたっても、私にとって不可思議であり、不可解であり続ける。
その不可思議なものを語り尽くそうとする行為もまた不可解であり続ける。

引用箇所のページ番号はちくま文庫の夏目漱石全集8のものである。

行人

2015-12-13 00:05:20 | 夏目漱石
270ページ
「二郎、なぜ肝心な夫の名を世間が忘れてパオロとフランチェスカだけ覚えているのか。その訳を知ってるか」
「おれはこう解釈する。人間の作った夫婦という関係よりも、自然が醸した恋愛の方が、実際神聖だから、
それで時を経るに従って、狭い社会の作った窮屈な道徳を脱ぎ棄てて、大きな自然の法則を嘆美する声だけが、
我々の耳を刺激するように残るのではなかろうか。」

380ページ
「人間の不安は科学の発展から来る。進んで止まる事を知らない科学は、かつて我々に止まる事を許してくれた事がない。
徒歩から俥、俥から馬車、馬車から汽車、汽車から自動車、それから航空船、それから飛行機と、
どこまで行っても休ませてくれない。どこまで伴れて行かれるか分らない。実に恐ろしい」

科学の発展により暮らしが豊かになった、自然の脅威に晒されていた人間は飢えや寒さを克服したということだ。
インフラ、電化製品、自動車やパソコンやスマートフォン、世界はますます発展を続けているということだ。
だがいったんその世界に身を委ねてしまったら途中下車できなくなる。
漱石が生きた時代は、日本が近代化した時代、あるいは近代化せざるを得なかった時代のように思える。
近代化は西洋化であり、科学を武器にして西洋は世界を侵食していた。
その勢力に対抗するためには己れ自身が西洋化する必要があった。
江戸時代やオーストラリア大陸のように、世界の片隅で干渉されずにいることは不可能になった。
深海に逃れた古代魚のように他の生き物との接点を無くしていけば進化と無縁でいられるのかもしれない。
端末を持ったあらゆる人が動画撮影可能な時代にあっては、たったひとりの労働者さえ見逃されることはない。
世界中の出来事が瞬時に伝えられる時代にあっては、情報を共有するための枠組みから逃れることが出来ない。
右肩上がりが強要されるこのキチガイ地味た世界の構成員から逃れることは出来ない。
誰も彼もが進歩と無縁ではいられない、進歩に身を捧げなければならない、自分の時間を捧げねばならない。
そうしてお互いの身体を精神を拘束し合い「どこまで行っても休ませてくれない」。
今では漱石が予言したその怖ろしい世界を「怖ろしい」と思う人もあまりいないのだろう。
進歩と消費のためだけに生きることは、それほど苦痛ではないのかもしれない。
そんなふうに生きていて、ある時ふと「自分は空っぽだ」と気付くのが、私は怖ろしい。
「わが生涯に一片の悔い無し(ラオウ昇天!)」みたいなことを言える人が羨ましいわけではないが、
進歩の道具になりたくないと思いながら、進歩のために働くことでしか稼ぎを得ることが出来ない状況を
さして苦にもせずに過していたりする。

383ページ
「君でも一日のうちに、損も得も要らない、善も悪も考えない、ただ天然のままの心を天然のまま顔に出している事が、
一度や二度はあるだろう。僕の尊いというのは、その時の君の事を云うんだ。その時に限るのだ」

391ページ
「自分に誠実でないものは、けっして他人に誠実であり得ない」

398ページ
「死ぬか、気が違うか、それでなければ宗教に入るか。僕の前途にはこの三つのものしかない」
「しかし宗教にはどうも這入れそうもない。死ぬのも未練に食いとめられそうだ。なればまあ気違だな。
しかし未来の僕はさておいて、現在の僕は君正気なんだろうかな。もうすでにどうかなっているんじゃないかしら。
僕は怖くてたまらない」

あるいはニーチェもそんなふうだったかもしれない。
死ぬというのは、人生は生きるに価しないという果敢な判断の結果であり、
気が違うというのは、生きるという矛盾から逃げ出さずに過した忍耐の結果であり、
宗教に入るというのは、主客を分離させなければ生き延びることが出来ない世界への反乱であり、
そのいずれもが尊いのではないかと思う。

409ページ
兄さんは神でも仏でも何でも自分以外に権威のあるものを建立するのが嫌いなのです。
(この建立という言葉も兄さんの使ったままを、私が踏襲するのです)。
それではニイチェのような自我を主張するのかというとそうでもないのです。

410ページ
兄さんは純粋に心の落ちつきを得た人は、求めないでも自然にこの境地に入れるべきだと云います。
一度この境界に入れば天地も万有も、すべての対象というものがことごとくなくなって、
ただ自分だけが存在するのだと云います。そうしてその時の自分は有るとも無いとも片のつかないものだと云います。
偉大なようなまた微細なようなものだと云います。何とも名のつけようのないものだと云います。
すなわち絶対だと云います。そうしてその絶対を経験している人が、俄然として半鐘の声を聞くとすると、
その半鐘の音はすなわち自分だというのです。言葉を換えて同じ意味を表わすと、
絶対即相対になるのだというのです、したがって自分以外に物を置き他を作って、苦しむ必要がなくなるし、
また苦しめられる掛念も起らないのだと云うのです。

419ページ
「君は絶対絶対と云って、この間むずかしい議論をしたが、何もそう面倒な無理をして、
絶対なんかに這入る必要はないじゃないか。ああいう風に蟹に見惚れてさえいれば、
少しも苦しくはあるまいがね。
まず絶対を意識して、それからその絶対が相対に変る刹那を捕えて、そこに二つの統一を見出すなんて、
ずいぶん骨が折れるだろう。第一人間にできる事か何だかそれさえ判然しやしない」
兄さんはまだ私を遮ろうとはしません。いつもよりはだいぶ落ちついているようでした。
私は一歩先に進みました。
「それより逆に行った方が便利じゃないか」
「逆とは」
こう聞き返す兄さんの眼には誠が輝いていました。
「つまり蟹に見惚れて、自分を忘れるのさ。自分と対象とがぴたりと合えば、
君の云う通りになるじゃないか」

主客をひとつにするには、自分を忘れる方が簡単だろう。
釈迦牟尼仏も道元もエルンスト・マッハも皆、同じことを言っている。
種と自己の繁栄あるいは維持(つまりは遺伝子の自己増殖)を至上命題として存在している生命が
自動操縦の仕掛けとして意識を備えた時から悲劇は始まっている。殺戮と呼んでも良い。
それまでは虚しく死んで行く生命体はさして尊くもなかったのだ。
神風特攻隊とか人間魚雷回天とか旧日本軍のイカレタ兵器と同様に
自然と言う名のイカレタ神はいずれ死んで行く個体に心を与えた。
そうして気が付けば世界の中に投げ出されている人間は
自分を忘れることで自然に一矢報いる。

430ページ
私の見た兄さんはおそらくあなた方の見た兄さんと違っているでしょう。
私の理解する兄さんもあなた方の理解する兄さんではありますまい。
もしこの手紙がこの努力に価するならば、その価は全くそこにあると考えて下さい。
違った角度から、同じ人を見て別様の反射を受けたところにあると思って
ご参考になさい。

多すぎる知性に悩まされる人物をいろいろな作家が描いてきた。
「もしこの手紙がこの努力に価するならば、その価は全くそこにあると考えて下さい」というのは、
イワンを救おうとするアリョーシャに似ているところがあって、
この小説が書かれた目的はそこにあるのではないかと思う。

引用箇所のページ番号はちくま文庫の夏目漱石全集7のものである。

名古屋フィル#53ホルスト惑星

2015-12-12 22:06:24 | 音楽
第430回定期演奏会、曲目は以下の通り
ホルスト: 日本組曲 作品33, H.126
藤倉大:フルート協奏曲[委嘱新作・オーケストラ版 世界初演]
ホルスト: 組曲『惑星』作品32, H.125

ホルスト「惑星」は特に木星(ジュピター)が人気で
スーザン・オズホーンやジョイ・エンリケスや遊佐未森が歌ったりしていて
かなり通俗化されている感じがする。この中ではスーザン・オズホーンが一番良いと思う。
木星の次に人気があるのが火星で小太鼓が独特のリズムを刻んでいる
と思ったら冒頭の部分のそれは実は弓を弦に叩き付けていた。いやー、びっくりした。
火星でパイプオルガンが鳴った。
このホールは数十回訪れているがパイプオルガンが鳴ったところは初めて聴いた。
それ以降はオルガンが登場する機会はなかったが律儀な奏者は演奏が終わるまでそこにいた。
この曲の通俗的なところは専門家に好まれなくて埋もれていたということだが
カラヤンが取り上げてから人気が出たということだ。
「惑星」の作曲時期は1914年から1916年で1930年に発見された冥王星は含まれていない。
ホルストは冥王星を作曲しようとしたということだが1934年に亡くなってしまう。
だが2006年に冥王星は準惑星に降格された。
作曲しなくて良かったね。

約束された場所で

2015-12-12 00:05:56 | 村上春樹
村上春樹「約束された場所で」を読んだ。
「そのためにはやはり『アンダーグラウンド』と基本的には同じ形式を用いて、オウム真理教の信者(元信者)の気持ちや主張を聞き書きしていくしかないだろうという結論に私は達した」ということで本書にはオウム信者(元信者)へのインタビューと「アンダーグラウンド」と「悪」をめぐっての河合隼雄氏との対話が収められている。インタビューからは引用しにくいので対話から引用する。

村上「それはとても強く感じたと思います。僕は意識の焦点をあわせて、自分の存在の奥底のような部分に降りていくという意味では、小説を書くのも宗教を追求するのも、重なり合う部分が大きいと思うんです。そういう文脈で、僕は彼らの語る宗教観をある程度正確に理解できたという気がします。でも違うところは、そのような作業において、どこまで自分が主体的に
最終的責任を引き受けるか、というところですよね。はっきり言って、僕らは作品というかたちで自分一人でそれを引き受けるし、引き受けざるを得ないし、彼らは結局それをグルや教義に委ねてしまうことになる。簡単にいえばそこが決定的な差異です。」

多くの人は「グルや教義に委ねてしまう」主体性の無さを指して「洗脳」と呼んでいるのだが、「上司や規則に委ねる」という社会通念も似たようなものかもしれない。やれヒトラーに操られていた、大本営に逆らえなかった、そういう一昔前の体制なり政権であれば、民主主義社会の市民の心得というか、たしなみというか、常識の一環として批判することができる。誰も反論する人間がいないというところが、この批判のおいしいところである。すでに敗れ去った者、死んでしまった者への批判であり、きわめて卑怯である。とれとれピチピチのヒトラーを相手に正々堂々と渡り合う者など、どこにもいない。そんな勇気はない。おそらくは今の体制や社会にしても、今を生きる人々がいなくなってから批判されるのだろう。生き延びるためには、ただひたすらに従わねばならないのだし、従うことを苦痛と感じないためには考えることを放棄するに限る。新聞やら、テレビやら、ウェブで当たり前のように報道されていることに疑問を持たないのであれば、洗脳されているなんて誰も考えないほど大規模な洗脳が進行しているのだろう。あるいはそれを「民意」と呼ぶ人もいるが、それは権力を獲得した者が支配の由来の正当性を説明するための言葉だ。
次に「自分の存在の奥底のような部分に降りていく」意味では一般の人より宗教を追求する人が小説を書くのに近いのだという。その小説を読むのは一般の人であり、その本を読む目的が「自分の存在の奥底のような部分に降りていく」ことであれば結局のところ、ぐるぐる回って、みんな同じかもしれない。そして読むという行為が主体性を欠いているのだとすれば、私たちは「オウム」と同じかもしれない。だが「自分の存在の奥底」なんてものが本当にあるのかどうかよくわからない。
「自我」があるというのは誘惑だ。
アイデンティティーといった、なにかしらかけがえのないものが自分の拠り所であるという考えは人を安心させる。私の個性は、私という存在は、確固たる存在理由を持っているのだと思えることは幸せなことだろう。ちょっと考えればわかりそうだが、数十億の人々が、「オレはオレ固有の存在理由がある」と考えるのは不自然だ。あるいは数十億の鳥や魚や羊が「おいらにはおいら固有の存在理由がある」と言い出したら、「そんなことありえない」と私たちは否定するだろう。お前たちには「意志」がないではないかと。
「自我」というのは、「そと」から用意された仕掛けだ。
あるいは競争に疲れ果てて、煩悩を振り払いたくて、欲望から解放されたくて、自我を捨てようと試みる人もいる。宗教が救済するのは、本来、そのような人々であって、金持ちは「神の国」には入れない。自我を捨てた金持ちは存在しないので、金持ちが神の国に入れないのは自明ということになる。「そのためにあなたの財産を全部寄付してしまいなさい」というのであればインチキ宗教ということになるだろう。だがどの宗教でも聖職者は経済活動をせずに修行に励んでおり、そのための寄付を募り、パトロンを募っている。昔は乞食(托鉢)をしていたのだというが、あやしい。きっと威張っていたに違いない。
自我に執着しないというのは心の持ち方としては良いことなのだと思う。それは宗教団体と個人の問題というよりは、一人ひとりの心の持ち方の問題ではないかと思う。自我に執着することなく、組織に媚びることなく独立した自我、主体的に責任を引き受けた自我というのは矛盾している感じもする。だが結局のところ、人は何かを選択する。

村上「でも中には『この人は世間でうまくやっていけないだろうな』という人は明らかにいますよね。一般社会の価値観とはもともと完全にずれてしまっている。それが人口の中に何パーセントくらいなのかは知らないけれど、良くも悪くも社会システムの中ではやっていけないという人たちが存在していることは確かだと思うんです。そういう人たちを引き受ける受け皿みたいなものがあっていいんじゃないかと僕は思いますが。」
河合「それは村上さんの言っておられることの中で僕がいちばん賛成するところです。つまり社会が健全に生きているということは、そういう人たちのポジションがあるということなんです。それをね、みんな間違って考えて、そういう人たちを排除すれば社会は健全になると思っている。これは大間違いなんです。そういう場所が今の社会にはなさすぎます。」

「一般社会の価値観」というのは「多数決」で決まるものだから、ずれてしまう人は必ず出てくる。LGBTが次第に市民権を獲得するようになってきたが、国内ではレズの結婚は認められていない。つまり受け皿はない。レズやゲイを排除しても社会は健全にはならない。もともと何が健全かということもよくわからない。おそらくは「多数決」で決まる。
考え方というのは言葉(つまりは差異で識別される記号)の組合せだから、DNAの組合せできまる身体と同じように多様性を持つ。そして個体が環境との相互作用の中で生きていくように、思想は社会との相互作用とは無縁ではいられない。そのような思想と社会の干渉の結果、思想も社会も変化していく。言葉や遺伝子が変化していくのと同じように。
村上も河合も、どうして受け皿を用意してあげないのか、ポジションを用意してあげないのか、みたいなことを言っているのだが、そういうのこそ間違いだろう。ポジションは与えられるものではなく、個体が環境の中で自ら獲得していくしかない。

河合「そうです。絶対帰依です。これは楽といえば楽でいいです。この人たちを見ていると、世界に対して『これはなんか変だ』と疑問を持っているわけです、みんな。で、その『何か変だ』というのは、箱の中に入ると『これはカルマだ』ということで全部きれいに説明がついてしまうわけです。」
村上「全部きれいに説明がつくというのが、この人たちにとっては大事なんですね。」
河合「そうです。でもね、全部説明がつく論理なんてものは絶対だめなんです。僕らにいわせたらそうなります。そやけど、普通の人は全部説明できるものが好きなんですよ。」
村上「そうですね。そういうのをみんな求めている。これは宗教だけじゃなくて、一般のメディアなんかにしてもそうですね。」

「なんのために生きるのか?」といったことが確定すると楽なのかもしれない。
まあ一般的には「幸せになるため」とか、そんな答えが返ってくるかもしれないし、「野望を実現するため」というような優秀な人もいるのだろう。あるいは生き続けるために頭を下げなくてもよいということが大切かもしれない。生きるために誰かの赦しを請う必要があるというのであれば、もう生きるのが嫌になってしまう。家族のためとか、子供のためとか、何か理由があるのなら、たいていのことには我慢ができるかもしれない。
そんなふうにして子育てが終わったある日、「私の人生って何だったんだろう?」みたいなことを考えてしまうかもしれない。いちばん悲しいことは命には限りがあることで、宗教はその苦しみを取り除き、永遠を約束する。一神教だとただひたすらに全能者を信じればよい。ヒンドゥー教・仏教だと輪廻のようなものを信じることになるが、。
仏教をつきつめていくと、輪廻とか涅槃とか解脱というのは信者を招き寄せる「方便」であることがわかってくる。だからオウムの信者も含めて、私は今この段階にいて、ここから解脱までは速くて3年だみたいなことを言っていたとすれば、それはかなり勘違いしているのではないかと思う。そしてまあ天国だの、煉獄だの、地獄といったものも、ダンテがその創造力で詳細に劇的に謳いあげてはいるが、まやかしでしかない。
おそらくは「全部きれいに説明がついてほしい」というのであれば、問い掛けを途中で止めればよいのだろう。教義とはそのためのものであって、ただ信じるためのものであって、そのことに疑問を感じてしまうのは信仰ではない。そのような人には、「安住の地」であるとか、「約束の地」なんてものはない。死ぬまで説明がつかない世界を、あるいは無条件に与えられている世界そのものを信じていないならもっと別のものを、求め続けることになる。どこまで行っても終着点がない、探究心を持ち続けるなら、そうなる。そして「なんのために生きるのか?」という問い掛けも、自信を持って信条を語る他人も、実際のところどうでも良くなってくる。気がつけば、ニヒリストにされていたり、ペシミストにされていたりする。

河合「人間というのは、いうならば、煩悩をある程度満足させるほうをできるだけ有効化させようという世界を作ってきとるわけです。しかもとくに近代になって、それがずいぶん直接的、能率的になってきてます。直接的、能率的になってくるということは、そういうものに合わない人が増えてくるといいうことですね、どうしても。そういうシステムがいま作られているわけです。だから、そういう『合わない』人たちに対して我々はどう考えていけばいいのか。それに対してひとつインパクトを持ちうるのは芸術とか文学とか、そういうもんですね。これは非常に大事なものなんですが、でもそれもできない人がいますね。そういう人たちのためにどうするか。これはむずかしいことです。ただそう考えていきますと、生活保護みたいなのがあるんやったら、そういう人たちのために補助金を払うのは当たり前やないかという気がしますね。補助金をあげますから、まあ楽しく生きてくださいと。」

シホンシュギは資本の自己増殖を効率的に実現するよう洗練されて行く。
効率的でないものは淘汰されてしまうので、効率的なシステムが生き残り、資本を獲得し、買収し、勢力を拡大していく。勝てば勝つほど、どんどん強大になり、世界に確固たる地位を築く。そして効率化し、有効化し、直接的、能率的な同類を増やし、ますます世界はその傾向を強めていく。私たちは「遺伝子」のキャリアであると共に「資本」の担い手でもあるが、遺伝子も資本も私たちのことを考えてはくれない。私たちの心というのは自動操縦するための仕掛けであり、遺伝子と資本の増殖に活用される。あるいは利用されているというふうにも書いてみたかったが、結局のところ、遺伝子や資本に意志があるわけでもない。そのような自己増殖に活用されるのは嫌だという人たちが「合わない」人たちであるかもしれない。政治家も経済学者も「経済成長」が最優先事項らしいが、それはつまり資本の自己増殖を信仰していることになる。そのシステムに合わないというのは効率化とは反対の方向の無駄ということになるのだろうか?
システムに合わない人たちを税金の無駄遣いで救済するというのは、「資本の効率的な自己増殖」のために生きている人にとっては耐え難いことだろう。

彼岸過迄

2015-12-06 00:05:58 | 夏目漱石
248ページ
かねてから自分は個々の短篇を重ねた末に、その個々の短篇が相合して一長篇を構成するように仕組んだら、
新聞小説として存外面白く読まれはしないだろうかという意見を持していた。

まえがきに小説の構成について書かれている。

572ページ
彼は森本の口を通して放浪生活の断片を聞いた。けれどもその断片は輪郭と表面から成る極めて浅いものであった。
したがって罪のない面白味を、野生の好奇心に充ちた彼の頭に吹き込んだだけである。
・・・
彼は田口と云う実際家の口を通して、彼が社会をいかに眺めているかを少し知った。
同時に高等遊民と自称する松本という男からその人生観の一部を聞かされた。
・・・
彼は千代子という女性の口を通して幼児の死を聞いた。
千代子によって叙せられた「死」は、彼が世間並に想像したものと違って、美くしい画を見るようなところに、
彼の快感を惹いた。けれどもその快感のうちには涙が交っていた。
・・・
彼は須永の口から一調子狂った母子の関係を聞かされて驚いた。彼も国元に一人の母を有つ身であった。
けれども彼と彼の母との関係は、須永ほど親しくない代りに、須永ほどの因果に纏綿されていなかった。
・・・
彼はまた須永から彼と千代子との間柄を聞いた。そして彼らは必竟夫婦として作られたものか、
朋友として存在すべきものか、もしくは敵として睨み合うべきものかを疑った。
その疑いの結果は、半分の好奇と半分の好意を駆って彼を松本に走らしめた。
彼は案外にも、松本をただ舶来のパイプを銜えて世の中を傍観している男でないと発見した。

最後に小説全体の要約が示されている。
幼児の死、歪な母子の関係、寄り添っては敵対してしまうような男女関係
個々の短篇のテーマを再確認しているようだ。
解説に次のようなことが書かれている。

582ページ
加えるに須永という人間が、性格的に、この作に次ぐ「行人」「心」の主人公と共通するものを
多分にもっているために、また主題が、個我の孤独な内面の、深刻な分析という共通性をもっているために、
この作を第二の三部作の冒頭に置く見方が定説に近い。

須永は「三四郎とも、代助とも、宗助ともちがっている」ということである。
引用箇所のページ番号はちくま文庫の夏目漱石全集6のものである。

アンダーグラウンド

2015-12-05 00:05:05 | 村上春樹
この本を読むのは初めてだ。もっと前に読むべきだったのかもしれないが、その時に読みこなせたかどうかはあやしい。

「手紙は、地下鉄サリン事件のために職を失った夫を持つ、一人の女性によって書かれていた。彼女の夫は会社に通勤している途中で運悪くサリン事件に遭遇した。倒れて病院に運び込まれ、数日後に退院はできたものの、不幸にも後遺症が残り、思うように仕事をすることができなくなった。最初のうちはまだ良かったのだけれど、事件後時間が経つと、上司や同僚がちくちくと嫌みを言うようになった。夫はそのような冷たい環境に耐えきれずに、ほとんど追い出されるようなかっこうで仕事を辞めた。
雑誌がいま手元に見つからないので、正確な文章までは思い出せないけれど、たいだいそういう内容だったと思う」
「不運にもサリン事件に遭遇した純粋な「被害者」が、事件そのものによる痛みだけでは足りず、何故そのような酷い「二次災害」まで(それは言い換えれば、私たちのまわりのどこにでもある平常な社会が生み出す暴力だ)受けなくてはならないのか? まわりの誰にもそれを止めることはできなかったのか?」
その投書の手紙は、本書執筆の「現実的な点火プラグのようなもの」であったということだ。事件を起こした「オウム」は「やみくろ」で二次災害を与えた「私たち(の影の部分)」は「リトル・ピープル」ということだろうか?

それで「二次災害」を中心とした構成かと思っていたが、そういうことではなかった。もともと弱者の味方をするよりは、いじめたり、けなしたり、仲間外れにしたりすることが得意というか、「強気を助け弱きを挫く」ことが主流の社会であるため、「二次災害」を語ることは「三次災害」の増加につながってしまうのだろ。そうした他者への寛容さとか、思いやりとか、余裕が欠落したシステムが、オウムのような組織につけいる隙を与えているのだろう。ここで提示されている問題というのは「正常」と「異常」に識別できることではなく、全体像を把握するのも困難であり、批判を加えれば、めぐりめぐって自分に跳ね返ってくるようなことなのだと思う。
そういうわけで「二次災害」を受けた人がインタビューを快く受けるということはないのだろうし、インタビューを受けた人の中に「二次災害」を受けた人がいたとしても話そうとはしないのだろう。(そうすると本来、語るべきことについて、事件から誘発された本質について、人々は押し黙ってしまうということになる。)
「二次災害」が封印されてしまったので、現象を一般化してしまう(あるいは型に嵌めてしまう)報道が語らない被害者の姿、事件の日に一人ひとりが考えたこと、感じたこと、そういうことを記録したのが本書ということかもしれない。痛みはいつでも個人的なものであって一般化された痛みなどない。痛みを知るには人格を知らなければならない。車両や駅の様子など同じような情景が何度も繰り返されるが、それを同じものとして括ってしまうと痛みは取り除かれてしまう。分厚い本のページを繰っていると読者自身も一般化してしまいたいという誘惑にさらされる。その誘惑であるとか要望を叶えたものが報道ということであるかもしれない。報道もまた私たちを映す鏡なのかもしれない。

「それはある意味では、我々が直視することを避け、意識的に、あるいは無意識的に現実というフェイズから排除し続けている、自分自身の内なる影の部分(アンダーグラウンド)ではないか。私たちがこの地下鉄サリン事件に関して心のどこかで味わい続けている「後味の悪さ」は、実はそこから音もなく湧き出ているものではないだろうか?」
あとがきにはそのようなことが書かれている。
「羊」「やみくろ」「綿谷ノボル」「ジョニー・ウォーカー」「リトル・ピープル」
いずれも「自分自身の内なる影の部分(アンダーグラウンド)」を暗示しているのかもしれない。この事件と著者の小説に描かれている世界は同質のものなのだろう。

「私の個人的な考えを言わせていただくなら、麻原彰晃という人物は、この決定的に損なわれた自我のバランスを、ひとつの限定された(しかし現実的にかなり有効な)システムとして確立することに成功したのだろうと思う。彼が宗教家としてどのようなレベルにあったのか、私は知らない。宗教家としてのレベルを何で測ればいいのかも、よく知らない。しかし彼がたどってきた人生の道筋を見てみると、そう推論しないわけにはいかない。彼はその個人的欠損を、努力の末にひとつの閉鎖回路の中に閉じこめたのだ。ちょうど瓶の中にアラビアン・ナイトの魔人が閉じこめられたように。そして麻原はその瓶に<宗教>というラベルを貼り付けた。そしてそのクローズド・システムをひとつの共有体験として、そしてまた商品として、世間に広めていったのだ。
そのようなシステム確立にたどり着くまでの麻原自身の懊悩と内的葛藤はおぞましいまでに血みどろのものであったに違いない。またそこには「悟り」というか、なんらかの「超常的な価値の獲得」もあったに違いない。そのような激しい内的地獄を通過していなければ、そしてある種に非日常的な価値転換を体験していなければ、麻原がかくも強いカリスマ性を身につけることはおそらくなかっただろう。原始宗教というものは、考えようによっては、常にこのような精神の欠損部分の発する特殊なオーラに呼応しているものなのかもしれない」

ここで「個人的欠損」「精神の欠損部分」とは「個人の自律的パワープロセス」と「他律的パワープロセス(社会システム)」のネゴシエーションに失敗したことの結果ということらしい。発生的に純粋な「自律的パワープロセス」は存在しない(社会システムの内部でしか個人は存在しない)ということなので「その論理だけで乗り越えようとするときに、社会的論理と個人とのあいだに物理的(法律的)軋轢が生じることになる」ということだ。本来、独立したものではあり得ない「自律的パワープロセス」を宗教としてシステムとして商品として麻原彰晃は確立したということだ。常に個人の自由を圧迫しようとする「システム」に馴染めない人々に対して彼は明確な解答を持っていた。カリスマ性というのは、そういうものであるらしい。
既成の宗教から見れば「オウム真理教」はインチキということになるのだろうが、ではインチキでない宗教とはどういうものなのだろうか? どこで区別できるのだろうか?
その宗教が力を持っているのなら、経済的な力を持っているのなら、インチキでないと主張することができるだろう。出家者は経済活動を禁じられているので、どのようにして経済的な力を得るのかはよくわからないが(寄付?)、既成の宗教は既に「システム」に取り込まれているのであり、ズブズブの関係なのだろう。
そして私たちの考え方も荒んでいて、たとえば貧しい人々を見て私たちは「彼らは努力をしていない」と口にする。現代においては機会は均等に与えられているのであって努力すれば生活はいくらでも向上させることができるということになっている。そしてまた宗教に熱心な人のことを「気持ち悪い」と思っている。終末思想とか葬式仏教が嫌いで相手をするだけ時間の無駄だと思っている。宗教から離れているだけではなく経済活動と直結していない物事に対して価値を見出せないでいる。文芸作品とか音楽作品の愛好家に対して「現実逃避している」と言ったりしている。そんなくだらないものに傾倒するくらいなら仕事に励んで少しでも地位や所得を上げるべきだと言ったりしている。おそらくは「資本の論理」が最も根強い「宗教」の如きものなのだろう。無条件にそういうことを信じている連中がカルトによる「洗脳」を問題視するのだが、その言葉は本来は自分自身に向けられるべきだろう。

「自律的パワープロセス」を渇望する気持ちが「影の部分」というのであれば「光」はいったいどこにあるのだろうか?
「システム」が本質的に硬直する傾向を持つものである限り、そこからはみ出してしまう個人は必ず発生する。そうした個人の欲求に応えようとする「オウム真理教」のような受け皿は、いつの世も存在しているのではないかと思う。武装しなければ彼らは信者を食い物にして「ぬけぬけ」とやっていけたのだ。同じような「組織」が今もシステムからはみ出した人々を取り込んでいることだろう。おそらくは「システム」側もあからさまに自分たちに敵対しない限り、そのような「組織」を容認している。その「組織」とはやはり「やみくろ」であり、「システム」の維持を最優先する「私たち」は「リトル・ピープル」なのだろう。