140億年の孤独

日々感じたこと、考えたことを記録したものです。

獣の戯れ

2016-09-24 00:05:23 | 三島由紀夫
「『獣の戯れ』は、三島由紀夫の長編小説。3人の男女の間に生まれた奇妙な愛とその共同生活と終局への決断が、
西伊豆の村の豊かな自然や花を背景に高雅なタッチで描かれた物語。
扇情的なタイトルとは裏腹に、静寂的な作品となっている」と
ウィキペディアに書いてあった。

獣(けもの)というのは獣(けだもの)という意味ではなくて、
確かにタイトルだけ見ればそういう受け取り方をしてしまうかもしれないが、
意味に取りつかれて意味から離れられない人間と対照的な存在としての獣だと思う。
動物と我々を隔て万物の霊長と言わしめる根源となっている知性と呼ばれるものは、
あらゆる事物について事象について意味とか価値を付与する。
そういう活動が人間の不幸を招いているというか、
不幸そのものも人間としての活動を推進して行くための道具にすぎないのかもしれないし、
そうやって改めて自分たち人間の活動を見通してみると益々悲しくなってしまう。
失語症の人物が登場するのはその意味とか価値といったものを超えようとする意図があるのだと思う。
そうして意味なき意味を作家は書こうと企てているようだ。
その物語の結果を法律や社会規範に照らし合わせて
愚かであるとか素晴らしいとか言えるだろうか?

沈める滝

2016-09-17 00:05:48 | 三島由紀夫
「『沈める滝』は、三島由紀夫の長編小説。原題は旧漢字の『沈める瀧』である。
愛を信じないダム設計技師が建設調査の冬ごもりの間、或る不感症の人妻と会わないことで人工恋愛を合成しようとする物語。
ダム建設を背景にした一組の男女の恋愛心理の変化を軸に、芸術と愛情の関連を描いた作品である」と
ウィキペディアに書いてあった。

石のように生きている主人公と石のような不感症の女が出会う。
他人や自分を石のようにしか思っていない男が石のような女に初めて愛情を覚えるとか、
不感症と知って遠ざかって行く男に対して内面までも石化させていた女も同じように相手を見ているとか、
それをマイナスとマイナスを掛けてプラスになる乗算とか人工恋愛とかそんなふうに形容しているが、
結局は同じ境遇の人間でないとわかりあえないと要約してしまうと乱暴だろうか。
どこかで理解されたいと思う人間の弱さとか、
離れていることで深まる愛情とか愛する姿勢を見せた途端に弱まる立場とか、
石なら愛せるが女としての喜びを隠さない相手に感じてしまう覚めた気持ちとか、
主人公たちの特殊な有り様は実際には通俗的な人間関係、男女関係とあまり相違ないかもしれない。
そして後になって、何事もなかったよりは何かあった方が良いということになる。
どんな記憶であったとしても。

名古屋フィル#61カステルヌオーヴォ=テデスコ ギター協奏曲第1番

2016-09-13 23:28:32 | 音楽
第438回定期演奏会、曲目は以下の通り
N.ロータ: 交響組曲『山猫』
カステルヌオーヴォ=テデスコ: ギター協奏曲第1番ニ長調 作品99
ドヴォルザーク: 交響曲第7番ニ短調 作品70, B.141

十日以上前のことになってしまった。
興奮、熱狂、感動、陶酔、その他過ぎてしまうと、それが何だったのか忘れてしまう。
感想はなるべく早く書いた方が良いのだが、そう思っている間にも時間は過ぎて行く。
忙しかったといえば忙しかったし、あるいはそうではなかったかもしれない。
後になって、そこであったと思っていることを書くのだが、本当は違っているのかもしれない。
過ぎ去ったことが本当にあったことかなんて確かめようがない。
それが言葉でない何かしらによって引き起こされる心情であれば尚更そうだ。
こうして書いていることは見当外れと言えなくもない。
それでもやっぱり書く。

ギター協奏曲という形式はクラシックでは珍しくて生の演奏で聴くのは初めてだ。
気のせいかもしれないが、弦を弓で振動させる弦楽器と違って澄んだ音がする。
そんなことはあまり考えたこともなかったが、
こうして広いコンサートホールで聴いていると心地良い音が私の座っている席までやって来る。
ヴァイオリンじゃなきゃいけないというわけでもないのである。
そんなふうにして単純に音に触れ、音と何かしらの意味で対峙している自分がいる。
誰が作曲したのか、作曲者のことを何もしらない。
聴衆を一瞬にして虜にしてしまうソリストのことも何も知らない。
作曲家が偉大であるとか、奏者のテクニックがどうだとか、
そんなことは結局のところ、どうでも良いことなのかもしれない。

演奏が終わって、鳴りやまぬ拍手の中でアンコールが始まったが、
その時、指揮者はオーケストラの空いた席に座って、演奏を聴いていた。
ああ、この人は音楽が心の底から好きなんだと思った。

ギター協奏曲の後のドヴォルザークも凄い演奏だったが、
何が凄かったのか書こうとすると止まってしまう。
やはり時間の経過は致命的だ。

永すぎた春

2016-09-10 00:05:08 | 三島由紀夫
「『永すぎた春』は、三島由紀夫の長編小説。永すぎた婚約期間中の男女の紆余曲折と危機を描いた作品である。
同時に平行して連載された『金閣寺』とは趣が正反対の明るい青春の恋愛小説で、主人公のカップルのように、
婚約期間の長い恋人の倦怠や波乱を指す「永すぎた春」という言葉は流行語となった。
“January” から“December” までの12か月の章に分かれ、二人の間に起こる大小さまざまな恋の危機が、
巧妙な逆説と洒脱な風味で描かれている」とウィキペディアに書いてあった。

「永すぎた」というと「永すぎたから○○に終わった」というニュアンスが漂って来て、
主人公の二人の行く末を心配してしまうのだが、そういう意図で「永すぎる」ではなく「永すぎた」なのかと思った。
金閣寺の登場人物に対して、どこにでもいるような恋人、友人、両親が登場するが、
婚約中の子供を案じるどこにでもいそうな母親とか類型的な人物を的確に配置していて、
そんなふうに人間を分類することに長けていて各々を抽斗にしまっている作家というものが、
特殊でありながら普遍的な金閣寺の主人公のような人物を生み出せるのかと思った。
基本がなければ応用もないという、ごく当たり前のことなんでしょうけど。

美徳のよろめき

2016-09-03 00:03:53 | 三島由紀夫
「『美徳のよろめき』は、三島由紀夫の長編小説。人妻の姦通(婚姻外の恋愛)を描いた作品で、
多くの大衆読者を獲得した作品である。結婚前の男友達と再会し関係を持ち、
官能に目覚めたヒロインが妊娠・中絶を繰り返した苦しみの末に、別れを決心するまでの一年間を描いた物語。
フランスの心理小説の趣を生かした文体で、ヒロインの背徳を優雅に表現している。「よろめき」という言葉は流行語になり、
「よろめき夫人」「よろめきドラマ」という言葉が流行った。」

「僕はあの小説はね、何もムキになつて書いた小説ではないんですがね。シャレタ小説を書きたいと思つてゐたんでね。
だけど日本ではああいふ、ただシャレタ小説を書かうといふんでは、たちまちやられるわけで
――つまり、「金閣寺」とくらべてどうだとか、かうだとか。しかし、僕はまあさういふ意味でとても一生懸命書いたんです。
ただ、意図とか主題とかさういふものはたいしたもんぢやない。
— 三島由紀夫「三島由紀夫渡米みやげ話―『朝の訪問』から」

「背徳を優雅に表現している」ということですが・・・
あらゆる行為が、聖なるものと俗なるものにきっちり分類できるというわけでもないのです。
「『清濁併せ呑む』の心は自分の度量を大きくし、理想のリーダー像につながる」なんてことでもないのです。
生きている限り、相反するもの、矛盾するものを抱え込んでしまうというわけでもないのです。
道徳という「檻」のようなものを持ってしまうと、聖俗の区別をつけようとする心が芽生えて来るわけで、
それ以前の認識のない未来を恐れず現在のみに生きているという状態は娼婦と聖女の区別すらつかない。
それでここには他人の規範に沿って自分の行為を判定しようという姿勢は一切なくて、
ただ相手との関係により生じる喜びや苦しみ、そういう心理現象が事細かに書かれる。
それを追って行くのがおもしろい。