140億年の孤独

日々感じたこと、考えたことを記録したものです。

働くことがイヤな人のための本

2011-11-27 10:24:18 | 
中島義道「働くことがイヤな人のための本」という本を読んだ。
なんてストレートな表題なんだろうと思った。

「・・・しかし、あなたは確実に死んでしまう。あなたはこの地上ばかりか、
この宇宙の果てまで探してもいなくなる。
そして生を受けたこのチャンスはたぶんただ一度かぎり。
もう二度とあなたが生きることはない。
こうした残酷な状況の中で、ではあなたは何をすべきなのだろうか?
生きるかぎり、働かなければならないとすると、
どのような仕事をすべきなのだろうか?」

そのような記述から始められる。
「どうせ死んでしまうことの意味を問いつつ生きる」という「虚しさや不条理」から
「目を逸らしてはいけない」ということが著者の伝えたいことであると感じる。
「人生において何らかの壁にぶちあたっている人」に対して
「もっと前向きに」とか「もっと明るいことを見て」といった言葉が
いかに欺瞞に満ちているかを語っている。
それは「前向きな人々」に対して私が日常的に感じていることと似ている。
彼らに共通していることは「考えても仕方のないことは考えない」という姿勢だ。
理由もなく生まれ理由もなく死んでゆくという不条理を
「前向きな人々」が直視することはない。

やがて自らの死が訪れることを認識するまでに発達した生物は
ある意味では不幸だと思う。
世界と一体になっている動植物とは違って人間だけが世界と分離してしまった。
あらゆるものに名前を与え、あらゆる事象の因果関係を理解しようとすることが
生存に役立つが故に進化はその方向に傾いたのだと思う。
しかしそのような「進化のいたずら」は
たかだか遺伝子の乗り物にすぎない生物に心を与え世界と分離させ
個体の死を認識させるまでに至った。
あるいは自殺という行為はこうした不条理の一面であるかもしれない。
中島さんも引用しているが自殺が哲学上の重要問題であることを指摘したのはカミュだった。
人生が「生きるに値しない」と結論してしまう人々が日本だけで年間3万人以上いる。
それが精神の弱さを示しているのか敏感さを示しているのか私は判断できない。
しかし「生きるに値しない」という結論に対して
「前向きに」という言葉が欺瞞であることは確かなことだろう。

仕事に生きがいを見いだせない二十代、三十代、四十代、五十代の代表である四人と
著者との対話という形式で話は進められる。
「働くことがイヤな人」は実はたくさんいるのではないかと思う。
しかし「前向きな人々」が支配する社会の中では
そのような事を口にすることさえ憚られる。
そして生物間の生存競争を引き合いにして努力の尊さを滔々と説き
「怠け者」の存在を決して許すことはないのだろう。

「ある意味では不幸」だが「別の意味では不幸ではない」と思っている。
つまり私は多くのことについて考えることができる。
死そのものについても考えることができる。
そこには安直な答などない。

失踪

2011-11-26 02:05:40 | Weblog
祖父母については開設日に簡単に紹介した。
母方の祖母と父方の祖父は私が生まれた時にはいなかった。
それどころか母は母に捨てられたという気持ちを常に抱いていただろうし
父は5歳の時に父を失って戦後を生き延びてきたのだ。
私が知らないという以前に彼らが知らないのだ。
母の母は6人の子どもを置いて失踪したと少ない情報から私は推定している。
母は姉とともに必死に探したらしい。
そのことは彼女の一生を左右する出来事であったと私は思っている。
老人になっても彼女は子どものように何かを恐れている。
あの時のようにまた捨てられることを恐れている。
そして皮肉なことに私は誰よりもその失踪した婦人に似ていることだろう。
軍人でも寺の次男坊でも普通の人でもなくて
その人に似ていることだろう。
失踪の原因については知る由もない。
爺さんが浮気でもしていたのではないかと思う。
寺の次男坊で立派な教育者で勲章までもらった爺さんだが
妻に逃げられ愛情に飢えた子どもたちは歪な人格を有することとなった。
伯父さん伯母さんと話していると何かが足りないと感じるのだ。
しかし本当に何かが足りないのは実は私とその婦人だろう。
そして私は自分が真似をするのではないかと恐れている。
会ったこともないその祖母の遺伝子を私は引き継いでいる。
統計的には行方不明でどこでどのような最期をとげたのか知る由もない。
そんな彼女にとって人生はいったい何なのだったろうか?
しかしその問いは自分にも跳ね返ってくる。
私にとって人生とは何なのだろう?

孤独について

2011-11-21 22:39:22 | 
「つまり、あなたは自分を含めた人間が嫌いなのだ。それはもうしかたないことである。
人間の醜さがことごとく見えてしまうあなたは、敏感なのだから。そして、そうではない
人は鈍感なのだから。あなたは自分を変えなくてもいい。それでいいではないか。
だが、そういうあなたは社会的には排除される。だから、あなたも社会から離れようでは
ないか。そのうえで、あなたなりに豊かに生きる道を探そうではないか。
世の中のありとあらゆる教育者は、孤独から抜け出て多様な人間関係のうちに生活せよと
教える。彼らは「人は独りで生きてゆけるものではないからな」という、欺瞞の臭いが
立ちこめる不潔きわまりない言葉を繰り返す。しかし、あなたはこうしたお説教に耳を
傾けることはない。自分をごまかすことはない。無理をすることはないのだ。
あなたは、孤独に徹して生きるという素晴らしい道を追求すべきなのである。」
中島義道「孤独について 生きるのが困難な人々へ」より

この本の中で著者は別に読みたくもないプライベートなことを綴っている。
小学生の頃に給食が食べれなかったとか
「それ、女の投げ方だ」と言われてボールが投げられなくなったとか
小便を我慢して漏らしてしまったとか私小説よりリアリティのある告白が続く。
そして「深刻で崇高な悩み」ではなく「リアルで矮小な悩み」を語り
無様な自分の姿を隠すことなく曝け出している。
いったい何のためにそんなことをするのか?
生きるのが困難な人々を救済するなどということを目論んでいるわけではないだろう。
しかし自分のような無様で不器用な人間が生きているという事実を
知ってもらいたいという気持ちを感じ取ることができる。
「人は独りで生きてゆけるものではない」という欺瞞ではなく
赤裸々な告白こそが人の心に届くものなのだ。

しかしこの本を受け入れることができる人間はきっと少ないだろう。
子どもの頃から「広大なカラッポの宇宙の中で私はまもなく死んでしまう」という恐怖を
抱いてきた著者と同じように死についてあるいは生について目を背けることなく
対峙してきた人間だけが受け入れることができるのだと思う。
それは優れた人間であることを証明するものではない。
単に敏感な人間であることを示している。世界中の人間が敏感である必要はないのだ。
しかしそのような人間がいることを鈍感な人間は想像することすらできないだろう。
敏感な人間であることのメリットはあまりない。
しかしそのような人間に生まれたのならそれを受け入れるしかないではないか?
欺瞞であることがわかるのであれば欺瞞を生きる必要はないのではないか?
それは運命としか言いようがない。

名古屋フィル#15チャイコフスキー③「悲愴」

2011-11-03 20:16:13 | 音楽
チャイコフスキーの交響曲第3番と第6番「悲愴」を聴いてきた。
指揮者はロッセン・ゲルゴフという人だった。
うん、知らない。ゲルググなら知っている。シャアが赤いのに乗っていた。

「悲愴」のインパクトが強すぎて第3番の感想は忘れてしまった。
「悲愴」はチャイコフスキー自身が「最高の出来栄え」と語っているように
マンフレッド交響曲を含む他の6曲をはるかに凌ぐ傑作だと思う。
チャイコフスキーの第5番を酷評したブラームスも「悲愴」レベルの交響曲を
残すことができなかった。

アダージョに始まりアダージョで終わる交響曲にはマーラーの交響曲第9番がある。
マーラー最後の交響曲も彼の作品の中で最高傑作と言えるだろう。
しかし消え入るように終わる終楽章はチャイコフスキーがマーラーよりも
16年先んじて書いていることになる。16年遅い分だけマーラーの方があの世に近いが・・
終わり方も消え入るようだが始まり方も無から生じたように弱音で入る。
無から始まり無に還る点では人生を暗示している感じがする。

第2楽章はワルツになっている。
「くるみ割り人形」の「花のワルツ」が有名だがチャイコフスキーはワルツの名手だ。
ちなみに私はウィーンフィルのニューイヤーコンサートは苦手だ。
第3楽章は行進曲になっている。全曲を通じて一番盛り上がる。
この楽章で終われば拍手喝采で客も喜ぶところだが
彼は敢えてそういう構成を採らなかった。

チャイコフスキーは自身の指揮で「悲愴」の初演を行った9日後に亡くなった。
作曲家は書きたい曲があるうちは死なないものだと思っている。
きっと彼はこの曲に満足したのだろう・・・