140億年の孤独

日々感じたこと、考えたことを記録したものです。

防火長城

2011-06-30 00:01:17 | Weblog
「「防火長城」と書いて「グレート・ファイアーウォール(GFW)」と読む。
中国政府が国内に敷く悪名高きインターネット検閲システムだ。」
「防火長城」は新しい「ベルリンの壁」なのか

チュニジアとエジプトで民衆が民主化を求めて立ち上がり独裁体制が崩壊した。
リビアではカダフィ政権と反体制派の攻防にNATOが介入している。

「今回の革命における起爆剤がソーシャルウェブであったことは疑いの余地がない。
FacebookやTwitterといったサービスが普及した事で、
個人の情報発信力が飛躍的に増大した。
結果としてデモの集合場所や方針といった革命において重要な情報を政府の圧政下
でも伝播していくことが出来たわけである。
つまり「個人」が情報の「媒介」として機能し「情報が伝播されていく環境」。
それがソーシャルウェブがもたらした情報革命だろう。」
ソーシャルが支える中東革命は、ルターの宗教改革に似ている

本当にFacebookやTwitterによって中東革命に至ったのかは知らないが
中国政府が個人のつながりを恐れているのは確かなことに思える。
彼らは革命の芽を摘み取ることにかけては超一流だ。
私たちは菅さんが権力にしがみついていると言って非難しているが
中国政府に比べればかわいいものだ。

アメリカは中国が民主化によって弱体化することを望んでいるだろう。
そして「防火長城」を民主化を阻害するものとして非難する。
中国のような国は民主化にそぐわないのではないかと私は思う。
世界の終わりが来るまで彼らは支配され続けると思う。
仮に今の中国政府が打倒されたとしても
もっと強い中央集権化の政治システムが代わりを務めるのではないかと思う。
約13億人という人口をまとめるのは並大抵のことではないだろう。

「経済は開放しても共産党独裁は変えない」という状況の中で
中国の国民は「民主化すれば貧富の格差が拡大する」ということを知った。
このため民主化を求める活動も精彩を欠いているということらしい。
共産党独裁と強欲資本主義のどちらが良いかなどという議論は
不毛なのだろう。

デビルマン

2011-06-30 00:00:22 | 映画
「デビルマン(実写映画)」を見た。
これはひどいと思ってWikipediaを見たら各方面から酷評されていることがわかった。
北野武は「酔っ払って見たらこれ以上のものはない」と述べたそうだ。
「制作費10億に対して興行収入は5億と興行的にも大失敗に終わった」という。
そして監督を務めた那須博之さんは翌年に急逝している。
ありとあらゆる意味で救いようがない映画だ。
実写版のキャシャーンもひどかったが
どっちがマシだろう?

しかし「デビルマン」は原作者の永井豪が最もこだわっている作品だと思う。
悪魔が人間よりも残酷ということではなく
放っておくと勝手に魔女狩りを始めてしまう人間はそれ自身で十分残酷な存在だろう。
悪魔も天使も所詮は人間が作り出したものであり
人間には両者の性質が含まれている。

しかし最近では悪魔も天使も見あたらない。
金儲けや保身しか考えていない姑息で矮小化した人間が増えている。
これを何と呼べば良いのだろう?小悪魔か?
そんなキュートなものではないな・・・

神と悪魔、善と悪のような二元論では語れない時代を迎えている。
善人もいなければ巨悪もない。
しかし国家は財政難で労働者間の所得格差は大きくなる一方で
事故を起こした原発が放射性物質を撒き散らしている。
誰が悪いとは言わないが誰も悪くないわけはあるまい。

「デビルマンレディー」の最終話では
ミカエル率いる神の軍団とサタン率いるデーモン軍団との決戦を予感させている。
「デビルマン」はまだ完結していないのだろう。
神とサタンのどちらが勝つかはわからない。
正義という言葉は無意味となっている。
勝った方が正義なのだ。

地デジ対策

2011-06-29 00:07:30 | Weblog
我が家の丈夫なブラウン管テレビはくたばる気配がない。
しかし期限が迫ってきた。
液晶テレビは駆け込み需要で値段が上がっており買い時でない。
しかしこのままアナログ停波されるわけにもいかないので地デジ対策を実施した。

まずは「BUFFALO ハイビジョンレコーダー機能搭載 TV用地デジチューナーDVR-1/2.0T」
お買い上げ。21,800円。2TBなので容量は十分だと思う。
続いて「MASPRO TV接続ケーブルJLS2D-P」
お買い上げ。1,000円。

それから「BUFFALO リモコン付き TV用地デジチューナー DTV-S110」を買おうと思ったが
カスタマーレビューに「受信レベルが60を切ると映らない」という声多数あり
「DVR-1/2.0T」で受信レベルを調べると60に達しない局が複数あり断念。

さらにカスタマーレビューを読んでいると以下の記載あり。
「近所のホームセンターでキュリオムという初耳のメーカーの3900円の安物チューナーを
買って。書斎のテレビに取り付けてみたです。 そうしたら!! 何とー!!
ブースター無しでもちゃんと映るじゃないですか!! 」
早速コーナンに出かけると「キュリオム」ありました。
お買い上げ。3,780円。これはまだつないでいない。
アナログ停波されたらアナログレコーダーを取っ払ってつなごうと考えている。

そういうわけでブラウン管テレビはモニターとして現役続行
アナログ停波されたら液晶テレビの値段も下がるだろう。
そうなったら「キュリオム」は要らなくなるが
3,780円なので良しとしよう。

しかしちゃんと映っているのに何でこんなことしなければならないのだろう。
地デジ普及率は80歳以上を除外しているというし
本当にアナログ停波するのだろうか?

プライバシーは死んだ

2011-06-29 00:02:58 | Weblog
「何億もの独り言やナルシスティックな自己報告を原動力にますます遍在性を高める
ソーシャルネットワークは、私生活、家庭生活という「聖域」を侵略してもいるのだ。」
「ソーシャル」という罠 ―プライバシーが消えてゆく

プライバシーという言葉を辞書で調べたら
「個人や家庭内の私事・私生活。個人の秘密」と書いてあった。
そこで私生活という言葉を辞書で調べたら
「公的な場を離れた、その人の個人としての生活」と書いてあった。

プライバシーが消えてゆくということは
個人としての生活をソーシャルに逐一報告することによって
個人の生活から私的な部分がなくなるということを意味しているのだろうか?
ソーシャルネットワークとはそのようなものなのだろうか?

人間は「社会的な生き物」であるから「ソーシャル」から逃れることは出来ない。
石器時代であれば集団で行う狩りが「ソーシャル」なことだったろうし
現代であれば会社で働くことが「ソーシャル」なことだろう。
そして個人では生きてゆけなくとも社会を構成する集団の一員として
生きてゆくことが出来るようになる。

「ソーシャル」という言葉についてそのようなイメージを持っているので
TechWaveの湯川さんがナントカの一つ覚えのように
「これからはソーシャルの時代」と書いていることについては
理解していないと思う。

しかし「ソーシャル」でなかった部分が「ソーシャル」になってゆくことであれば
何となく状況の変化に気付く。
私生活を過ごしていた時間がソーシャルネットワークで過ごす時間になり
私生活を自己報告することでプライバシーを消失する。
そういうことをするのが当然と見做される社会は
随分と過ごしにくい社会だと思う。

高齢者にiPad

2011-06-28 00:01:06 | Apple
「インターリンクは24日、2010年度の社会貢献活動「シルバー向け無料iPad教室」を
総括したサイトを公開した。「シルバー向け無料iPad教室」は、60歳以上による
iPad利用の促進を目的に、2010年6月20日から全12回開催された。最終的に計204名
(平均年齢72歳)が受講したようだ。」
高齢者にiPadを使ってもらった

新聞を読むには少し重たいと思うが
キーボードに拒絶反応を示す高齢者にとっては身近に感じられるのかもしれない。
iPadは今までパソコンなんて使ったことがないユーザーのための
デバイスを目指しているのだろう。

「電子書籍は日本国内の作品が少ないとの不満も多かったという」
それは高齢者のみならず誰もが不満に感じていることだ。
Appleは日本の電子書籍に興味はないみたいなので
Amazonに期待するしかないと思う。

適当な品揃えで独自のフォーマットが乱立する日本の電子書籍は救い難い。
価格も安くないので今でも紙の本を買っている。
たった一つの本棚はCDが占拠しているので
床に直置きしている。

「軽くて接続代が安くなったら使いたい」
全くその通りだ。
イオンと日本通信が月額980円のサービスを開始したが
最大100KbpsなのでYouTubeとか見れません。
月額4980円だとそこそこのスピードが出るようだが
それならイーモバイルの方が良いかもしれない。

村上春樹の規範

2011-06-28 00:00:07 | Weblog
「最初にも述べましたように、我々は、無常という移ろいゆく儚い世界に生きています。
生まれた生命はただ移ろい、やがて例外なく滅びていきます。
大きな自然の力の前では、人は無力です。そのような儚さの認識は、
日本文化の基本的イデアのひとつになっています。
しかしそれと同時に、滅びたものに対する敬意と、そのような危機に満ちた脆い世界に
ありながら、それでもなお生き生きと生き続けることへの静かな決意、
そういった前向きの精神性も我々には具わっているはずです」
村上春樹 無常から始まるスピーチの倫理観

確かに「風の歌を聴け」や「1973年のピンボール」には「通奏低音」としての「儚さ」がある。
そして前向きの精神性は「ダンス・ダンス・ダンス」になって
ようやく現れる。

死を認識し無に還ることを覚悟した人には儚さの自覚がある。
やがて訪れる死を追いやって「効率化」や「利益」を求める人にはわからない。
彼らは仕事に忙殺されることによって死を忘れることが出来る。
そういう人たちによって支配されている世界は貧しい。

科学技術と一絡げにしてしまうのは少し乱暴な気がする。
科学はどちかかと言うと行き詰まっている。
コンピューターに関する技術が世界を振り回している。
そういうのをイノベーションと呼ぶ人がいて信者がそれを崇拝している。
そして「マネジメント」に書かれている内容は「無常」に反するものだろう。

「マネジメント」や「7つの習慣」が指し示す規範は本当に優れていると言えるのか?
何が優れているかという点について一致しているものはあるのだろうか?
儚さの自覚がある人と効率化を求める人の間に一致したものなどないだろう。
それは両者が混在する私の中で明らかになっていることだ。

私自身が矛盾を抱えてしまっているらしい。
私が矛盾を解決できれば良いのだが当分は現状維持だろう。
このような状態でいることはストレスになる。
しかし夢想家でいることは得意だ。

世界文化遺産に平泉

2011-06-27 00:02:26 | Weblog
平泉、世界文化遺産に決定 東北初

「奥州藤原氏は清衡、基衡、秀衡、泰衡と4代100年に渡って繁栄を極め、平泉は
平安京に次ぐ日本第二の都市となった。戦乱の続く京を尻目に平泉は発展を続けた。」
平泉は日本史における特異点だと思う。

偶然に奥州の王となった藤原清衡の父である藤原経清は
前九年の役で安倍氏に味方したが源頼義と清原氏の連合軍に破れ
錆び刀で鋸挽きによって斬首された。

経清亡き後、妻は七歳の遺児清衡を連れ、前九年の役で敵対した清原武貞と再婚
後三年の役で清原氏が内部抗争に陥り、陸奥守となった源義家がこれに介入
戦役にて清原真衡は急死し、清原家衡、清原武衡も破れ
清原姓であった養子の清衡は清原氏の旧領すべてを手に入れることとなった。
戦役後、清衡は実父である藤原経清の藤原姓に復し奥州藤原氏の繁栄が始まる。

時は流れ鞍馬寺に預けられていた源義経は平泉に下り藤原秀衡の庇護を受ける。
その後、平氏との合戦で活躍した義経は兄頼朝と対立し、再び秀衡を頼る。
そして義経を匿った平泉は三度、源氏と相まみえ遂に滅ぼされる。

しかし奥州との因縁浅からぬ源氏も三代将軍実朝が公暁に殺され滅びたのだった。
後に残ったのは奥州藤原氏が建立し、頼朝が感銘を受けた
中尊寺、毛越寺、宇治平等院を模した無量光院だった。

日本史で好きなのはココだけかもしれない。
戦国時代とか明治維新とか喧伝されている時代は
どちらかというとどうでもよい。

名古屋フィル#13チャイコフスキー①

2011-06-27 00:01:19 | 音楽
今年の名古屋フィルはチャイコフスキー・ツィクルスをやることになっている。
今日はその1回目で交響曲第1番「冬の日の幻想」と第4番を聴いてきた。
ティエリー・フィッシャーの代わりに円光寺雅彦さんが正指揮者に就任したので
その就任披露公演も兼ねている。

こんな暑い日に「冬の日の幻想」・・・
この曲は弱々しく大地を照らす陽の光を連想させる。
電気を使わない生の音楽を聴くといろいろな楽器の音が聴こえて来る。
iPod付属のイヤフォンをインナーイヤーヘッドフォンに変えたところで
オーケストラの放つ周波数領域とダイナミックレンジには到底かなわない。
ロックやポップは電気に頼って音を増幅しているだけなので
ライブよりもCDの方が音が良かったりするが
クラシックではそういうことはない。

交響曲第4番で気が付いたこと
この曲の第3楽章はピッツィカートだけで演奏されている。
CDで聴いていても気が付かなかったが視覚的に変な感じがしたので納得した。
この曲から私が連想するイメージは以下の通り。
第1楽章は「偽りの運命」
第2楽章は「まとわりつく情感」
第3楽章は「軽妙な散策」
第4楽章は「華麗な舞曲」
嘘も本当も含めて様々な要素が含まれている。

チャイコフスキーについて思うこと
彼は交響曲第5番を書いて自分にウンザリしたのだと思う。
それで第6番「悲愴」は虚構を廃してオリジナルな作品になったのだと思う。
ちなみにチャイコフスキーは「悲愴」の初演のわずか9日後に急死している。
逆に考えると作曲家は満足のいく作品を書くまでは死なないのだろう。
―――例えばシューベルトの最後の3曲のピアノソナタ
―――例えばモーツァルトの最後の3曲の交響曲
それらの曲はいったい誰のために書かれたかわからない。
ただ書きたかったのだと思う。

脳をめぐる冒険

2011-06-26 00:05:36 | 
竹内薫+藤井かおり「脳をめぐる冒険」という本を読んだ。
帯に「世界一わかりやすい脳の本」と書いてあるが
脳の代表的な箇所についての役割を紹介していくファンタジーであり
説明が足りないと思うところもあるが
簡潔にまとめたという点は良いのではないかと思う。

この本を読んで脳や心についての新しい知見が得られるわけではない。
坂井克之「心の脳科学 「わたし」は脳から生まれる」
ラマチャンドラン「脳のなかの幽霊」
のような本を読むと脳と心の研究が行き詰っているように感じられる。
科学的なアプローチで主観的な「心」を解明できるのかという疑問がある。
一方で哲学が「心」を解明できるわけでもない。
何か新しい方法が必要なのだろう。

本書のような簡素な本が普及すれば
次世代の子ども達が「新しい方法」を考えてくれるかもしれないと
淡い期待を抱いてしまったりする。

放射能汚染の実態

2011-06-26 00:05:03 | Weblog
「ここで紹介する放射能汚染図は、群馬大学教育学部地学教室の早川由紀夫教授が、
東北・関東の各自治体が観測した数値を集めたデータをもとにして地図上に表し、
ブログで発表したものである。等高線のように見えるエリアは、放射線量の値を
結んだ等値線だ。」
実態がわかってきた関東平野の放射能汚染

「百聞は一見に如かず」ということで地図の等高線を見ると汚染の実態がよくわかる。
福島県は全滅に近く汚染は北は一関から南は関東まで広がっている。
色が塗られた地域が不動産としての価値をなくすのであれば
それだけでも膨大な損失だ。

早川教授のブログに以下のような記載がある。
「日本は詰んだ。
・汚染の程度はチェルノブイリを上回る。
(チェルノブイリでは、555 kBq/m2 の Permanent Control Zone(移住必要区域)に
 40万人。フクシマではこれ相当 1.11 uSv/h に120万人。)
・汚染源を封じ込める見通しが立たない。
・パニックを恐れて政府が国民に本当を言わない。
・情報公開すると不安が拡大してしまう。したがって、日本は詰んだ。」

「汚染源を封じ込める見通しが立たない」
この文章が私たちの持つ科学技術の限界を端的に示している。
オーバーテクノロジー、制御不可能な技術
一向に状況が改善されないのに
この夏の電力需要を賄えるだろうかとか
代替エネルギーがどうだとかという問題にすりかえられている。
そして風評被害を防止するとかワケのわからないことを言っている。

私たちは事実を知るべきだろうし知らなくてはならない。
汚染は現在も進行していてチェルノブイリを超える事故になっている。
そして国民の生命と財産を守るべき国家の中枢は
情報を隠蔽しようとする人たちで満ちている。
それから悲しいことに原子力の専門家ではなくて
地質学の専門家が情報を公開している。

「日本は詰んだ」と言われても私たちは此処で生きてゆかねばならない。
此処は私たちの国なのだから・・・