140億年の孤独

日々感じたこと、考えたことを記録したものです。

名古屋フィル#100ベートーヴェン交響曲第2番

2020-09-20 20:00:22 | 音楽
第482回定期演奏会〈「生誕250年記念 トリビュート・トゥ・ベートーヴェン」シリーズ/克服〉
ベートーヴェン:交響曲第2番ニ長調 作品36
ブラームス:交響曲第2番ニ長調 作品73

交響曲第2番は難聴が進行していた時期に作曲された。
「ハイリゲンシュタットの遺書」で検索し、全文を読んでみる。その中に以下のような言葉があった。

「どうかもっと大きな声で話して下さい。私は耳が聞こえないのですから叫ぶように
しゃべってください」と頼むことはどうしてもできなかったのだ。

他の音楽家には捉えることのできない僅かな差異をも鋭敏に感じ取ることのできた
彼にとって最も大切な器官がまもなく完全に失われてしまうことへの言い知れぬ不安。
音楽家として最も致命的な病気が徐々に進行して行くことの恐怖を誰にも相談できない。
病状を覚られてしまうのが怖くて人と交わることもできない。
音楽とは無縁の凡庸な人間にすら聞こえる音が自分には無であることの屈辱と哀しみ。
そうしたことが生々しい言葉で語られている。
だが、「遺書」と呼ばれながら、以下のような文章もある。

そのような死から私を引き止めたのはただ芸術である。私は自分が果たすべきだと
感じている総てのことを成し遂げないうちにこの世を去ってゆくことはできないのだ。

絶望の最中にあってもこれから飛躍を遂げようとする天賦の才能が死ぬことを許さなかったのかもしれない。
そんなこと凡人にはわからない。才能がなかったなら、彼に生きろと命じるものはいなかったのだろうか?
才能のない人間が辛い病気を患った末に自ら命を絶ってしまったとしても、
そんな哀しい人生があったことすら誰も気付かないだろう。
実際には、そうやって死んでしまう人がたくさんいるのかもしれない。
もしそういう場面に出くわしてしまったら、死ぬなと言えるだろうか?
「生きていればきっと良いこともあります」なんて出まかせを言って説得したりするのだろうか?
たいていの人間は、死に至るまでの痛みと存在が無になることの恐怖を踏み越えることができない。
そうしてなんとなく生きている。まさに死にたくないから生きている。
そして凡庸な人生を送りながら、ふと考える。何のために生きているのだろうかと。
「自分が果たすべきだと感じていること」なんてあるのだろうかと。
だが、偉大な作曲家と比べたりしたら、才能も努力も、あらゆる面で見劣りして却って嫌になるだけだ。
そんなことになったら、世界中の自意識過剰な人間は皆、死んでしまうことだろう。
何か間違っている。そうか。「自分が感じている」ことで良いのか、ということに気付く。
果たすべきことかどうかは知らないが、私にはやりたいことがある。
仕事が終わってから寝るまでの間、休日は朝から夜まで、やりたいことをやる時間を確保する。
その時に私は、「生きている」という気分になる。

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