金子武蔵「ヘーゲルの精神現象学」という本を読んだ。
これくらいの本だと、まあなんとか読める。
ここではマルクスを扱った部分について取り上げてみたいと思う。
「絶対者は主体である」というのがヘーゲルの根本思想であり、マルクスもそれを継承しているらしい。
マルクスは『現象学』の根本問題を、疎外とその克服ということにおいて、見ていたそうだ。
「精神とは、自己同一的なものではなく、むしろ自分とちがった、自分に外的な、
したがって対象的なものになりながら、即ち疎外におちいりながら、
これを克服して自分自身にかえるものだからです」と著者は書いている。
「じっさい、『現象学』では疎外も克服も、個別と普遍、即自と対他(対自)、主観と客観と
いうような論理的形式に即してとらえられるきらいがあり、したがって観念的たるを
まぬがれませんでした」ということだが、マルクスにおける疎外はリアルなものであり、
「労働者が採光も換気も排水も極端に悪いスラム街に住んでいて、しかも家賃を払わなくては
いつでも追いだされるから、かかる住居にとどまることそのことを血と汗とで
あがなわざるをえず、食事も栄養失調をきたさざるをえぬような性質のものであることが
疎外だというのです」と著者は書いている。
「一言でいえば、労働者が物化し商品化していることが疎外なのです」
巷に商品が溢れるようになった近代社会において人をモノと見做すようになったのだか
それともずっと昔から、奴隷制があった時代から、人は他人をモノとしてしか見ないのか、
どちらかといえば後者だろう。
そして現代では、人だけでなく、価値そのものも金銭でしか測れなくなっている。
本も音楽も映画もどれくらいの利益を出したかで判定される。
それを多くの人が支持していると言い換える人もいるが
怪しいものだ。
そんな疎外された世界を拒むのなら
ひとり孤独に陥るという「疎外」の方は拒むことはできなくなる。
ま、どっちでもいいんですけど、他人の評価ばかり気にしていても仕方がない。
価値を見出すのは結局は自分という主体でしかない。
「絶対者は主体」というのは、どういう意味なのかよくわからない。
「人間が自然の所有者であり、世界の主人であるという意識の、精神面を担当したものが
ドイツ観念論であり、ヘーゲル哲学はそれの完成である」ということだが
19世紀には人間は自然の支配者であると言ったり、
20世紀には人間は自然と共存すべきであると言ったり、
いったいそれが何なのだろう?
これくらいの本だと、まあなんとか読める。
ここではマルクスを扱った部分について取り上げてみたいと思う。
「絶対者は主体である」というのがヘーゲルの根本思想であり、マルクスもそれを継承しているらしい。
マルクスは『現象学』の根本問題を、疎外とその克服ということにおいて、見ていたそうだ。
「精神とは、自己同一的なものではなく、むしろ自分とちがった、自分に外的な、
したがって対象的なものになりながら、即ち疎外におちいりながら、
これを克服して自分自身にかえるものだからです」と著者は書いている。
「じっさい、『現象学』では疎外も克服も、個別と普遍、即自と対他(対自)、主観と客観と
いうような論理的形式に即してとらえられるきらいがあり、したがって観念的たるを
まぬがれませんでした」ということだが、マルクスにおける疎外はリアルなものであり、
「労働者が採光も換気も排水も極端に悪いスラム街に住んでいて、しかも家賃を払わなくては
いつでも追いだされるから、かかる住居にとどまることそのことを血と汗とで
あがなわざるをえず、食事も栄養失調をきたさざるをえぬような性質のものであることが
疎外だというのです」と著者は書いている。
「一言でいえば、労働者が物化し商品化していることが疎外なのです」
巷に商品が溢れるようになった近代社会において人をモノと見做すようになったのだか
それともずっと昔から、奴隷制があった時代から、人は他人をモノとしてしか見ないのか、
どちらかといえば後者だろう。
そして現代では、人だけでなく、価値そのものも金銭でしか測れなくなっている。
本も音楽も映画もどれくらいの利益を出したかで判定される。
それを多くの人が支持していると言い換える人もいるが
怪しいものだ。
そんな疎外された世界を拒むのなら
ひとり孤独に陥るという「疎外」の方は拒むことはできなくなる。
ま、どっちでもいいんですけど、他人の評価ばかり気にしていても仕方がない。
価値を見出すのは結局は自分という主体でしかない。
「絶対者は主体」というのは、どういう意味なのかよくわからない。
「人間が自然の所有者であり、世界の主人であるという意識の、精神面を担当したものが
ドイツ観念論であり、ヘーゲル哲学はそれの完成である」ということだが
19世紀には人間は自然の支配者であると言ったり、
20世紀には人間は自然と共存すべきであると言ったり、
いったいそれが何なのだろう?