どうして彼は死んでしまったのだろう。
もう、何度も問いかけているが、わからない。
時は残酷なものだから、家族から彼を奪ってしまったのだ。
例え私がそういうことに納得できなくとも時間は過ぎていく。
問いに答えることもなく時間は流れていく。
誰にも止めることはできない。
また、時間の流れは不可逆であり、もとに戻すこともできない。
時間の枠外で生きることを望んでも、その望みはかなえられない。
ビッグバン以前には時は存在しなかったから、時間の枠外という状態があったかも知れない。
しかし、そこに生きている存在はない。
それから星が誕生し、恒星内の核反応や超新星爆発で、単純な水素からあらゆる元素が作られた。
気の遠くなるほどの時間をかけて、そうしたことが繰り返された。
そして、我々の太陽系が形成されるときに、様々な元素を含んだ地球が作られた。
生命はその元素が組み合わされてできている。
したがって我々は皆、星の子だ。
大昔に恒星内で作られた炭素を多く含む化合物だ。
また、進化する生命体だ。
進化がなければその種は淘汰されてしまうため、進化を否定することはできない。
そして進化を容認するということは個体の死を容認することと同じだ。
ってそんな理詰めのことはわかっているんだよ。
ただ、「心」が納得しないんだよ。
しかし、その「心」でさえも進化の結果だ。
その矛盾は、「心」が存在を始めてから、ずっと存在する。
その矛盾は、宗教の成立と表裏一体だ。
良い行いをしたものは天国、悪い行いをしたものは地獄に行くとしても、
その存在が無になることはないのだ。
生まれ変わりを説く宗教もある。
個体の死について救済を与えようとすると、そのようなあやしげやものに身を委ねることになる。
その方が楽だからという理由もあるだろう。
そんなことで悩むのは嫌だから誰かに考えてもらった方が楽だというわけだ。
いつ訪れるかわからない死に対して宗教は安息を与える。
で私は、そんなものは信じていない。
彼の死についてやがては何も感じなくなるだろう。
事実として認めてしまうだろう。
今は人間一人が簡単に消えてしまうことに対して憤りを感じているだけだ。
やがては、その憤りも消えてしまうだろう。
しかし家族は違うだろう。
子や夫や父がいなくなったことに対して、ずっと悲しみを感じ続けていくだろう。
それなのに、どうして彼は死んでしまったのだろう。
振り出しに戻った。
彼が生きてきた証はどこにあるのだろう。
証なんて必要ないのか。骨が証か。
カンブリア紀の生物の化石のようにぺしゃんこになったものが生きてきた証か。
そうやって古来より、数え切れないほどの個体が死んでいった。
死んでいった個体は、新しい個体の材料になる。
細菌のおかげて炭素や窒素が循環して、新しい生命の材料になるらしい。
もうそろそろ、人は何故死ぬのか、について卒業したいが、
僕は彼の結婚式にも出席したんだよ。
その時のことを考えるととても虚しい。
とても似合いの二人だった。
仲人は課長が務めていたが、新婦の名前を間違ったりしていた。
そうした出来事は実際にあったことなのだろうか、それとも幻だったのだろうか。
それとも過ぎ去った出来事は、全て幻なのだろうか。
私も今こうやって文章を書いているが、明日になればそれも幻になるのだろうか。
現在・過去・未来、存在するのは現在だけ。
過去や未来は実態がない。
では現在はどうか。
現在にしたって通り過ぎていくだけで掴み取ることはできない。
では現在も幻か。
現実とか事実とかそういった言葉に意味はないのか。
今わたしの目に映っているものは存在しないのか。
昔の人は「存在する。」ことの定義もしないで哲学をしていたが、
私もまた「存在する。」ことの定義ができない。
でも、「存在する。」ということで、あれは存在する、これは存在しないと言ったところで、
あんまり意味のないことだと思うけど。
「我考える。故に我有り。」それがどうした。
またしても時間に翻弄されているようだ。
全く時間とはやっかいなものだ。
結局、そこのところがよくわからない。
x,y,zの次の4番目の次元としてictが出てくる。
ローレンツ変換の話。
ただの式で、それ以上、何も語らない。
何か意味があると考えることが間違い。自然は冷たい。宇宙は数式で語られる。
未来永劫その存在が保証されているわけではないけど、我々は優れた文学や音楽やその他芸術を語り継いでいる。
語り継がれるものほどすばらしいものだ。それらに接することで、人は幸せな時を過ごす。
この時は生きた時間が過ぎ去る。
そうやって過ごすことに喜びを見出すことが、我々にできる時間への復讐か。
また、すばらしい作品が生み出されることにはかけがえのない価値がある。
自分の一生をそれに捧げる人もいる。
そうしたことに時間を費やすことは苦痛ではなく喜びである。
また、我々は子供と過ごすことでも幸せを感じることができる。
子供が育つにつれて親は老いていくが仕方のないことだ。
だから時間が流れることを容認している場合もあるのだ。
早く育って欲しいと望むことは、自分が老いることを前提にしている。
彼は彼自身の作品を残すことができたのだろうか。
彼ほど優秀な人間でもそれはできなかったのだろうか。
技術の進歩に貢献したとは言えるだろう。
でもそれだけか。
私はもっと多くを私自身に望んでいる。