140億年の孤独

日々感じたこと、考えたことを記録したものです。

SMAPとシューマン

2009-01-30 17:48:10 | 音楽
昨年11月にSMAPがドームに来たんだけど、あの時はすごかった。
私はドームに隣接する図書館にいて、図書館の窓からドームに向かう人々を眺めていた。
とにかくものすごい人数だった。阪神ファンよりも圧倒的だった。

その時、私はシューマンを聴いていた。
大作曲家というわけではないけど、だんだんと親しみを感じるようになってきたいた。
そして、シューマンが好きな人は、SMAPが好きな人の何分の一だろうかと考えてみた。
今は圧倒的に(商業的に)SMAPのファンの方が多いが、
50年後にはシューマンが好きな人の方が多いだろうと思った。

映画アマデウスに描かれていたように、モーツァルトと同時代の凡庸な作曲家は皆、淘汰されてしまった。
淘汰されてしまうものをわざわざ聴くのも時間の無駄だと思う。
人生に無駄はあってもいいが、無駄ばかりの人生は意味がない。
それにしても、SMAPが来た時に図書館にいた女性、
よっぽど本が好きなんだろうなと思った。

ショスタコーヴィチ

2009-01-29 17:57:33 | 音楽
ショスタコーヴィチの弦楽四重奏曲第8番にはピアノ三重奏曲第2番の旋律が引用されている。
この部分を聴いていると何故かイワン・カラマーゾフが悪魔と対話するシーンを思い出す。
少し不気味で、とても思索的な曲だ。
ショスタコーヴィチは20世紀を代表する作曲家だと思うが、
今のところマーラーの次に交響曲をたくさん書いた人ぐらいにしか思われていないようだ。
どのCD屋さんにいっても交響曲しか置いていない。
彼が生きていた時代はスターリンの治世下と重なっており、
交響曲のように注目されるジャンルには相当気を使っていたようだ。
そのため、第5交響曲は大衆に理解されやすいベートーヴェン的な曲になっている。
第4交響曲はマーラー的であるため、作曲後25年間演奏されなかったそうだ。
そして第13番と第14番は傑作だ。その頃にはスターリンはもういなかったから。

ロマン・ロランの呪い

2009-01-23 18:45:11 | 
ロマン・ロランは「ジャン・クリストフ」というとても長い小説を書いたひとです。
ジャン・クリストフはベートーヴェン後の時代を生きた音楽家に設定されています。
彼は現状に満足しない革新的な音楽家として描かれており、
その対抗軸つまり保守派の代表としてブラームスが引用されています。
ジャン・クリストフを支持する限りブラームスを否定しなければならない。
このことを私は「ロマン・ロランの呪い」と勝手に呼んでいます。
学生時代は、この呪いにかかって、ブラームスを聴く事ができませんでした。
今では、ようやく呪いが解けて、聴けるようになりました。
ブラームスは確かに保守的なのですが、そんなに悪くいうこともないだろうと思っています。
ベートーヴェンを意識しすぎているという気がしますが、
そんなこと、どうでもいいじゃないの、音楽に正義も悪もあるもんか、と思っています。
それから、この小説は、私が読んだことがある長い小説ベスト3にランクインしています。
ですが、読み返すことは、まずないでしょう。
その理由を知りたければ、1回読んでみてください。

弦楽四重奏曲

2009-01-23 18:43:04 | 音楽
ベートーヴェン中後期、バルトーク、ショスタコーヴィチの弦楽四重奏曲が好きです。
ベートーヴェン前期はあまり聴きません。モーツァルト、ハイドンもあまり聴きません。
それよりはシューベルト、シューマン、ヤナーチェク、ベルク、シェーンベルクを聴きます。
ブラームス、メンデルスゾーン、スメタナ、ドヴォルザーク、ラヴェル、ドビュッシーも時々聴きます。
クラシックの中でも弦楽四重奏曲ってとっても好きです。
四重奏という比較的小さな構成の中に非常に深い内容が紡ぎ出されていると思います。
そういう音楽に耳をすますのが好きです。
タカーチ四重奏団のバルトークを聴いた時には凍りつきました。
「聴く」こと以外の体の機能が停止したような状態になりました。
凍りつくような美しさと勝手に呼んでいます。
最近、アルバン・ベルク四重奏団やスメタナ四重奏団のベートーヴェンが安価に手に入るようになりました。
昔はこんな安いのなかったので、なんか損した気分です。

時間への復讐

2009-01-22 20:55:22 | Weblog
どうして彼は死んでしまったのだろう。
もう、何度も問いかけているが、わからない。
時は残酷なものだから、家族から彼を奪ってしまったのだ。
例え私がそういうことに納得できなくとも時間は過ぎていく。
問いに答えることもなく時間は流れていく。
誰にも止めることはできない。
また、時間の流れは不可逆であり、もとに戻すこともできない。
時間の枠外で生きることを望んでも、その望みはかなえられない。
ビッグバン以前には時は存在しなかったから、時間の枠外という状態があったかも知れない。
しかし、そこに生きている存在はない。
それから星が誕生し、恒星内の核反応や超新星爆発で、単純な水素からあらゆる元素が作られた。
気の遠くなるほどの時間をかけて、そうしたことが繰り返された。
そして、我々の太陽系が形成されるときに、様々な元素を含んだ地球が作られた。
生命はその元素が組み合わされてできている。
したがって我々は皆、星の子だ。
大昔に恒星内で作られた炭素を多く含む化合物だ。
また、進化する生命体だ。
進化がなければその種は淘汰されてしまうため、進化を否定することはできない。
そして進化を容認するということは個体の死を容認することと同じだ。
ってそんな理詰めのことはわかっているんだよ。
ただ、「心」が納得しないんだよ。
しかし、その「心」でさえも進化の結果だ。
その矛盾は、「心」が存在を始めてから、ずっと存在する。
その矛盾は、宗教の成立と表裏一体だ。
良い行いをしたものは天国、悪い行いをしたものは地獄に行くとしても、
その存在が無になることはないのだ。
生まれ変わりを説く宗教もある。
個体の死について救済を与えようとすると、そのようなあやしげやものに身を委ねることになる。
その方が楽だからという理由もあるだろう。
そんなことで悩むのは嫌だから誰かに考えてもらった方が楽だというわけだ。
いつ訪れるかわからない死に対して宗教は安息を与える。
で私は、そんなものは信じていない。
彼の死についてやがては何も感じなくなるだろう。
事実として認めてしまうだろう。
今は人間一人が簡単に消えてしまうことに対して憤りを感じているだけだ。
やがては、その憤りも消えてしまうだろう。
しかし家族は違うだろう。
子や夫や父がいなくなったことに対して、ずっと悲しみを感じ続けていくだろう。
それなのに、どうして彼は死んでしまったのだろう。
振り出しに戻った。
彼が生きてきた証はどこにあるのだろう。
証なんて必要ないのか。骨が証か。
カンブリア紀の生物の化石のようにぺしゃんこになったものが生きてきた証か。
そうやって古来より、数え切れないほどの個体が死んでいった。
死んでいった個体は、新しい個体の材料になる。
細菌のおかげて炭素や窒素が循環して、新しい生命の材料になるらしい。
もうそろそろ、人は何故死ぬのか、について卒業したいが、
僕は彼の結婚式にも出席したんだよ。
その時のことを考えるととても虚しい。
とても似合いの二人だった。
仲人は課長が務めていたが、新婦の名前を間違ったりしていた。
そうした出来事は実際にあったことなのだろうか、それとも幻だったのだろうか。
それとも過ぎ去った出来事は、全て幻なのだろうか。
私も今こうやって文章を書いているが、明日になればそれも幻になるのだろうか。
現在・過去・未来、存在するのは現在だけ。
過去や未来は実態がない。
では現在はどうか。
現在にしたって通り過ぎていくだけで掴み取ることはできない。
では現在も幻か。
現実とか事実とかそういった言葉に意味はないのか。
今わたしの目に映っているものは存在しないのか。
昔の人は「存在する。」ことの定義もしないで哲学をしていたが、
私もまた「存在する。」ことの定義ができない。
でも、「存在する。」ということで、あれは存在する、これは存在しないと言ったところで、
あんまり意味のないことだと思うけど。
「我考える。故に我有り。」それがどうした。
またしても時間に翻弄されているようだ。
全く時間とはやっかいなものだ。
結局、そこのところがよくわからない。
x,y,zの次の4番目の次元としてictが出てくる。
ローレンツ変換の話。
ただの式で、それ以上、何も語らない。
何か意味があると考えることが間違い。自然は冷たい。宇宙は数式で語られる。
未来永劫その存在が保証されているわけではないけど、我々は優れた文学や音楽やその他芸術を語り継いでいる。
語り継がれるものほどすばらしいものだ。それらに接することで、人は幸せな時を過ごす。
この時は生きた時間が過ぎ去る。
そうやって過ごすことに喜びを見出すことが、我々にできる時間への復讐か。
また、すばらしい作品が生み出されることにはかけがえのない価値がある。
自分の一生をそれに捧げる人もいる。
そうしたことに時間を費やすことは苦痛ではなく喜びである。
また、我々は子供と過ごすことでも幸せを感じることができる。
子供が育つにつれて親は老いていくが仕方のないことだ。
だから時間が流れることを容認している場合もあるのだ。
早く育って欲しいと望むことは、自分が老いることを前提にしている。
彼は彼自身の作品を残すことができたのだろうか。
彼ほど優秀な人間でもそれはできなかったのだろうか。
技術の進歩に貢献したとは言えるだろう。
でもそれだけか。
私はもっと多くを私自身に望んでいる。

喪失感

2009-01-22 18:58:25 | Weblog
彼はどうして死んでしまったのか?そのことが頭を離れない。
3年ほど前に幕張メッセで偶然会ったが、それが私の見た彼の最後の姿になった。

僕は18年ほど前に彼の結婚式に招待してもらった。
彼と奥さんはとても幸せそうだった。まもなく彼らは二人の子供をもうけた。
僕が伊丹を去ってからも、彼らの幸せな様子を年賀状で知ることができた。
そうした生活が突然、失われることなど全く予想していなかった。
「喪失感」が再び僕の目の前に現れる。
人は得たものを失っていくばかりだ。それを防ぐことはできない。
どんなに慎ましい生活を送っていたとしてもいつかは失われる。
「喪失感」は僕の中で無力感を呼び起こす。
自らのこのような心象を目の当たりにすると、自分がいかに変わっていないかよくわかる。
僕はちっとも強くなっていない。ちょっとしたことで、すぐ動揺する。
その動揺がずっと持続する。感受性が強すぎる。喪失感が復活する。無力感が継続する。
良いとか悪いとかいう問題じゃないし、好きとか嫌いとかいう問題じゃない。
僕が鈍感に生まれたかったとしても、それはあらかじめ決められていたことなのだ。
僕はそれを受け入れるしかないのだ。
「しかし、全体としては人生を祝福しなさい。」とアリョーシャが言うから、
僕はそうすることにする。
彼の死を受け入れて、彼の人生も祝福しよう。
この喪失感や無力感から逃れることはできないから、全部、僕の中に取り込んでしまおう。
ああ、しかし彼ほど優秀な人間が死んでしまって、生きていた証なんてほとんどなくて、
もう消えてしまって何も残らない。
まるで僕たちは風のようだ。

彼の死を思い出す度、僕はGARNET CROWの「君を飾る花を咲かそう」を聴いている。
もう彼から年賀状が届くことはない。会うこともできなければ、話すこともできない。
メールのやりとりもできない。
ああ彼は、今年の年賀状を書いていた時に自らの死を予感していたとは思えない。
彼の家族だってそうだろう。
そして1年が経ち、彼のいない世界がごく自然な姿で存在する。
そのことに腹を立てているのかも知れない。
でもそれは昔からずっと同じように続いていることだ。
そして世界は一日一日わずかに変化しながら存続していく。
僕はその世界のあり方を受け入れなければならないのだろう。

2009-01-22 01:35:52 | Weblog
核融合を起こして光り輝く天体。
レアメタルなどを除いて鉄までの元素が作られるそうだ。
レアメタルや鉄より重い元素は超新星爆発で作られるそうだ。
私たちの体を構成する炭素・酸素・窒素なども全て星の中で作られる。
そう考えると不思議な気がする。
この手が、この指が、今こうして思考をめぐらしている脳を構成する物質も全部、星の中にあったのだ。
もちろん、そんな記憶はどこにも残っていないけど、私たちはみんな星の子なのだ。
冬の豪華な星座を見上げながら、ふとそんなことを考えてみる。
私たちは宇宙に憧れるが、それは実際に宇宙が私たちの故郷だからかも知れない。
私たちは、そこに行ったことがないのではなくて、
そこからやってきたのだ。

祖父母

2009-01-21 20:07:27 | Weblog
私の父方の祖父は軍人だった。召集された民間人ではなく職業軍人だった。
海軍の少尉で潜水艦に乗っていたそうだ。
彼は戦争が終わろうとする年に5歳と3歳の幼子を残して潜水艦ごと沈んで亡くなった。
私には容易に推測できないことだが、幼子と共に残された父方の祖母は
大変な苦労をしたことだと思う。
彼女は90過ぎまで生きて、誰にも惜しまれることなく死んでいった。
いわゆる「天寿を全うした。」というやつだ。冷たい言い方だ。
一方、母方の祖父はお寺の次男で数学が得意な校長先生だった。
私は小さい頃、よく遊んでもらったが、
遊びといっても数学の謎解きのようなことをさせられていた。
高校生の時に手紙をもらったがどういう返事を書いてよいかわからず、
返事は出さなかった。まもなく彼は亡くなった。自分の死期がわかっていたのだろうか。
彼の墓碑は自筆だ。寺の次男坊だけあって、お経もよくよんでいた。
母方の祖母は、母が未成年の時に失踪したらしい。
そのことについてはあまりはっきりしたことは知らないが、
彼女は名家のお嬢さんで文学少女だったというイメージを私は持っている。
しかし、6人の子を残して失踪なんて普通はできない。
精神を病んでいたのだろうか。

そういうわけで父を失った父は妙に打たれ強い人間に育ち、母に捨てられた母は愛に飢えた人間に育った。
そして祖父母4人の遺伝子を受け継いだ私には彼らの特徴が備わっている。
(軍人+苦労人+校長先生+文学少女)÷4=私というわけだ。
亡くなった4人の祖父母は幸せだったろうか?
そして人生の終盤を迎えた父母は、私に何一つ伝えるべきものを持たない彼らは、このまま死んでいくのだろうか?
私たちは風のようなものだから、現れては消えていく。
ただ消えていくのは寂しいから私は何かを残してから死にたい。

音楽が美しさを超えた瞬間

2009-01-21 19:37:36 | 音楽
ベートーヴェン交響曲第3番「英雄」
そこには確信に満ちた自分の姿を万人に知らしめようという人格があり、
どんな障害をも突き抜けて行こうとする強固な意思が存在する。
ハイドン・モーツァルトの音楽とは大きく異なり、
音楽が表現可能な世界が美しさだけではないことを世界に知らしめた。
人類史上はじめて、音楽が美しさを超えた瞬間、と勝手に僕は呼んでいる。
本当にこの凄まじいまでのエネルギーはどこから沸いてくるのだろう。
どれほど多くの人々に勇気を与えてきたことだろう。
人生の岐路に立たされた時はいつも、この曲を聴かずにはいられなかった。
「新しい」ということはどういうことかをも、この曲は示している。
そして困難に直面しても「新しい」ことを実行しようとする人々を
これからも励まし続けることだろう。

140億年の孤独

2009-01-21 19:35:25 | Weblog
彼が生まれてから死ぬまでに与えられた時間は、
140億年と言われる宇宙の年齢に比べると、
ほんの一瞬の出来事だ。
しかし彼が生まれて夜空を見上げるようになって宇宙を意識するようになるまで、
宇宙はずっと彼を待っていたのだ。
そして彼が死んでしまうと宇宙はまた彼を待ち続ける。
そしてまた宇宙は140億年の孤独にじっと耐え続けなければならない。
彼はまた帰ってくるだろうか。
それは宇宙にもわからないことだ。
宇宙に理解できることは時間と空間が存在する場合についての知識だけだ。
宇宙にしても自分が生まれる前にはどうだったか、
時間と空間がないビッグバン以前に何があったかはわからない。
そして、現在、加速度をつけて膨張している自分自身が将来どうなるのかも宇宙にはわからない。
でも宇宙は誰かに自分のことを見ていてもらいたいのだ。
140億年やそれ以上の孤独に耐えることは宇宙にとってもつらいことだ。
だから宇宙はずっと彼を待っていた。
だから彼が死んでもまた彼を待ち続けることだろう。