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140億年の孤独

日々感じたこと、考えたことを記録したものです。

純粋理性批判(7)

2013-03-23 00:05:05 | カント
光文社「純粋理性批判 7」を読んだ。哲学と数学の違いなどが書いてある。
「経験の助けを借りずに、純粋理性がみずからの領域を拡張することに成功した
輝かしい実例」である数学の方法を哲学で利用することによって大きな錯誤がもたらされるという。
これは幾何学的な方法でエチカを書いたスピノザを批判したものらしい。
その後、ヒュームが批判される。
「懐疑論者が主張する事柄そのものに、懐疑が向けられてしまう」ということだ。
ヒュームの理論だと「懐疑に陥ったまま抜けだせず、ニヒリズムにいたるかもしれない」と
解説にも書いてある。

解説によるとカントは人間の自由に二種類のものを考えていたという。
ひとつは「超越論的な自由」であり、これは「みずからの力で新しい状態を引き起こす
ことのできる能力」として定義される。
もうひとつは「実践的な自由」であり、これは人間が自分の欲望を否定してでも
「べきである」という命令にしたがって行動する自由を意味するという。
カントにおいては道徳と自由が結びついているらしい。

「わたしが道徳的な法則にあらゆる点でしたがわねばならないということは、
絶対的に必然的なこと」であり、ここで可能な信念は一つだけであり、それは
「神が現実存在すること、そして来世が存在すること」であるとのこと・・・

「神がいなければ来世もなく不死もなく、したがって善行もなく、すべては許される」
おっとこれはカラマーゾフの兄弟だ。みんな神様が好きなんだね。
そもそも全知全能の存在なんて人間には想像することもできないと思う。
四次元的に膨張している宇宙を創造した神様って何次元の存在なのだろうか?
十次元の存在だとしたら十一次元の存在に規定されてしまうのではないだろうか?
そんなふうに考えたら、どういう存在か決定できなくなる。

カントが「純粋理性批判」の初版を刊行したのは1781年のことで
沈黙をもって迎えられたそうだが、1787年の第二版になってようやく支持されたという。
しかし21世紀の今も沈黙によって迎えられているのではないかと思う。
再び読む機会を与えてくれた光文社と訳者に感謝したい。

純粋理性批判(6)

2013-03-20 20:32:32 | カント
光文社「純粋理性批判 6」を読んだ。
第6分冊では、第四の二律背反で問われた世界の必然的な存在者(=神)について考察される。
ここでは、存在論的な証明・宇宙論的な証明・自然神学的な証明の三種類に分類された
神の存在証明が批判される。

存在論的な証明は、「すべての経験を無視して、概念だけによってまったくアプリオリに、
最高原因の現実存在を推論する方法」と説明されている。
宇宙論的な証明は、「不確定な経験、すなわちある現実に存在するものを
経験的な根拠とする方法」と説明されている。
自然神学的な証明は、「人間の特定の経験から出発して、人間の感性界にはある特別な
性質がそなわっていることに注目し、そこから原因性の法則にしたがって、
世界の外部にある最高原因まで遡っていく方法」と説明されている。

神という最高の存在に、存在するという規定が欠如していることがあり得ないということから、
存在論的な証明は、「神が現実に存在する」と証明しているのだが、
それは「哀れな同語反復(トートロジー)」にすぎないのだという。

宇宙論的な証明は以下のようなものとされる。
[大前提]何かあるものが現存するのであれば、絶対に必然的なものもやはり現存しなければならない。
[小前提]ところが少なくともわたしは現存する。
[結論]だから絶対に必然的なものもやはり現存しなければならない。
わたしの現実存在という経験に依拠するところが存在論的な証明と異なる。
この証明に対して「最高の存在者という理想は、理性の統制的な原理にほかならず、
わたしたちはこの原理にしたがって、世界のすべての結びつきを、それがあたかもすべてのものを
満たすある必然的な原因から発生したかのようにみなすのだが、それは形式的な原理である」と指摘される。
「最高の存在者」は「形式的な条件」にすぎないのであり、
わたしたちが勝手に実体化しているだけなのだという。

自然神学的な証明は「これは世界のうちにそなわるようにみえる秩序と美しさを根拠として、
このような秩序正しく、目的に適っていて、美なる世界を設計し、創造した神が存在するのは
間違いない」と主張するものであるという。この証明は以下のように批判される。
「ここで最高の存在者は、この経験における条件の連鎖のうちに存在していると考えてみよう。
するとこの最高の存在者そのものがこの連鎖の一つの項となってしまうし、それよりも下位にあり、
この最高の存在者を前提とするそのほかの項と同じように、みずからの上位に、
みずからを根拠づけるものを、さらに探すことを求められるだろう」
「これにたいしてこの最高の存在者をこの経験における条件の連鎖と切り離して、
これをたんなる叡智的な存在者とみなし、自然の原因の系列のうちに含まれていないものと
みなしてみよう。しかしその場合にはこの存在者に到達するための<橋>を
理性はどのようにして架けることができるのだろうか」

このようにして、神の存在証明はすべて無効とされてしまうが、
「道徳的な法則が拘束力をもちうるための必然的な条件として、そのもの(神)の
現実存在は要請されることになる」という。
「こうした道徳的な法則は絶対に必然的なものであることを考えて、
こうした最高の存在者の現実存在を実践的に要請するのは当然」なのだという。

超越論的なことと道徳的(実践的)なことが同居していることには違和感を覚える。
神の存在証明は必要ではないが神の存在は必要であるらしい。
そこのところがよくわからない。

純粋理性批判(5)二律背反

2013-03-16 00:05:05 | カント
光文社「純粋理性批判 5」を読んだ。
第5分冊は「超越論的な弁証論」の続きで「純粋理性の二律背反」を扱っている。
「二律背反(アンチノミー)」とは「二つの対立する命題が、同じ根拠を持って成立することを
意味する論理学の用語」とのことだ。
「理性を、経験の限界を超えたところにまで拡張しようとすると、そこには詭弁的な理論が発生する」
「この理論には矛盾が含まれることがないのであり、それだけでなく理性の本性のうちの
必然的な条件から生まれるものである。ただ不幸なことに対立する命題も同じように、
妥当で必然的な主張の根拠を備えているのである」
そうしたものとしてカントは四つの二律背反について語る。

第一の二律背反
定立命題 :世界は時間的な端緒をもち、空間的にも限界によって囲まれている。
反定立命題:世界は時間的な端緒をもたず、空間的な限界をもたない。
      世界は時間的にも空間的にも無限である。

第二の二律背反
定立命題 :世界において、合成された実体はすべて単純な部分で構成されている。
      また世界には、単純なものか、単純なものから合成されたものしか現存しない。
反定立命題:世界のうちのいかなる合成されたものも、単純な部分で構成されたものではない。
      だから世界のうちには単純なものはまったく存在しない。

第三の二律背反
定立命題 :自然法則に基づいた因果関係が、世界の現象の全体を説明できる唯一の因果関係ではない。
      現象を説明するためには、自由に基づいた因果関係についても想定する必要がある。
反定立命題:自由というものは存在せず、世界ではすべてが自然法則だけによって生起する。

第四の二律背反
定立命題 :世界にはその一部であるか、その原因であるような絶対に必然的な存在者が含まれる。
反定立命題:世界のうちにも、世界の外にも、世界の原因として絶対に必然的な存在者などというものが
      現存することはない。

第二の定立命題は心の性質が単純であれば不滅であるということと関連している。
つまり二律背反は第4分冊にあった「形而上学の探求の目的とするところは、神、自由、不死という
三つの理念だけである」ということと関連している。

「思索にかかわる関心」として
定立命題は「すべての条件の連鎖をアプリオリに、そして完全に掌握することができることになる」が
反定立命題は「はてしなくどこまでも問いつづけざるをえなくするために、多くの人を不快にするのである」という。
明晰さという点では定立命題を支持する人が多いのだと思う。
「どこまでも問いつづけること」に耐えられる人は少ないのだと思う。

「通俗的という関心」については以下の記載がある。
「定立命題の側には通俗性という利点があり、この利点が定立命題の好ましさの大きな支えと
なっているのである。ふつうの人の知性は、すべての総合には無条件的な端緒が存在しているという理念には
いかなる困難な問題もないと考える。そしてこうした知性は、結果から原因に上昇するよりも、
原因から結果に下降することに慣れているのである。
そして絶対的な第一のものという概念のうちに安らぎをえるのであり、自分の歩みを導く糸を
結びつけるための確実な点をみいだすのである」
つまり考えることに安らぎなんてない。

「第一と第二の二律背反はどちらも虚偽であると判定された」と解説に書いてある。
どちらかが真であるという命題ではなかったということだ。
私たちは「無限」という概念を扱いきれないのだと思う。
そして経験的なことから遠ざかってしまうことで虚偽に至る。

第三の二律背反についてはどちらも正しいと考えることができるのだという。
「叡智的な原因という観点から眺めたときは自由なものとみなされるが、現象という観点から
眺めるときには、自然の必然性にしたがったさまざまな現象の帰結とみなされる」という。
なぜ「叡知的なもの」を引っ張り出してきているのかよくわからないが
カントは道徳的な自由が否定されることを避けようとしている感じがする。
カントはキリスト教からは自由ではなかったのだろうか?
ニーチェは道徳を攻撃したし、ウィトゲンシュタインは語りえぬものにしてしまった。
道徳的に自由であることから法的な責任が生じるというようなことも書いている。
哲学が法に助けてもらおうなんてどうかしている。

さて今を生きる私たちには少しでもまっとうな命題が与えられているだろうか?
遠くの天体ほど速く遠ざかっているという観測結果から宇宙は膨張を続けていると考えられている。
膨張の前には虚無の空間があり膨張の後には虚無の空間が埋められていくというわけでもない。
風船にいくつか点をかいて膨らませると点と点の間は広がって行くが、
この場合は三次元的に膨らむことにより二次元の空間が膨張していると考えられる。
そうすると宇宙は四次元的の球が膨らむことにより三次元の空間が膨張しているのだということになる。
しかし「四次元の球」なんて私たちは想像することもできない。
それは私たちの経験を超えたことであり空間に関しては第一の二律背反自体が意味をなくす。
そして時間的な端緒というものは今でも想像することができない。
時間があるから始まりとか終わりといえるのであって時間そのものの始まりなんて意味がない。
宇宙は無の揺らぎから生まれたといったとしても時間的な端緒については何も語れない。
それでもやはり理性は求めてしまうので安直な答に同意しないよう
気をつけなければならない。

空間が無限に分割できるのであれば物質も無限に分割できると考えてもよさそうだが
素粒子は単体では存在できないそうだ。
素粒子で構成された物質をエネルギーを加えて引っ張っても質量とエネルギーは等価だから
加えたエネルギーによって素粒子は新しいペアとくっついてしまう。
だいたい質量とエネルギーが等価といった途端に第二の二律背反自体が意味をなくす。
物質を分割するという行為は無限には繰り返せないし
単純なものを確認することもできない。

「1980年代にリベットは、被験者の脳の活動が、意識的に動作を決定するおおよそ1/3秒前に
開始したことを発見した。これは、実際の決定がまず潜在意識でなされており、
それから意識的決定へと翻訳されていることを暗示している」という。
自由意志はあるのだろうか?
入力と内部状態から出力を決める回路をステートマシン(有限状態機械)と呼んでいる。
感知することが入力に相当し、内部状態が思考に相当し、行動が出力に相当するのなら
私たちはちょっと複雑なステートマシンのようなものではないかと思う。
電気回路と異なるところは経験によって回路を変更することができるところだと思う。
その組み合わせが膨大になるので無限の選択肢が容易されていると錯覚する。
機械のように単純に動いているわけではない。
とても複雑な機械が動いている・・・

そうすると今、こうして書いていることも
自由意志によるものではないと
いうことになる。

二律背反の問題はカントのオリジナルというわけではなくて
18世紀初頭にはニュートンの代理人であるクラークとライプニッツのあいだで、
世界、神、自由について激しい論争が行われたという。
古代ギリシャではプラトンとエピクロスの対立があったという。
しかしSNSもメールもない時代なのでクラークとライプニッツは往復書簡を交わす形で論争を行ったという。
往復書簡ってなんか仲が良さそうだね。

純粋理性批判(4)

2013-03-10 00:05:05 | カント
光文社「純粋理性批判 4」を読んだ。第4分冊より「超越論的な弁証論」に入る。
「『純粋理性批判』のうちに含まれる理性は、感性と知性を含めた人間の理性全体を
示している」とのことだが、「超越論的な弁証論で語られる理性は狭義の理性を
示している」という。
それは「規則を作る能力である知性と対比された、原理を作る能力」だという。
「理性の働きは推論で示される」
「理性は経験の領域という安全な大地を離れ、経験のうちでえられたさまざまな知識や
概念を使って、経験を超えた領域に進みでようとする。それが人間の宿命なのであり、
人間の理性につきまとって、追い払うのが困難なものである」
そして誤謬に陥る・・・

「純粋な理性の概念、すなわち超越論的な理念の役割は、一般にあらゆる<条件づけるもの>の
総合的で無条件な統一を作りだすことにある。だからすべての超越論的な理念は、
次の三つの理念に分類されることになる。
第一の理念は、思考する主体の絶対的な(無条件的な)統一を含むものである。
第二の理念は、現象の条件の系列の絶対的な統一を含むものである。
第三の理念は、思考一般のすべての対象の条件の絶対的な統一を含むものである」

「<思考する主体>は心理学の対象である。<すべての現象の総括>、すなわち世界は、
宇宙論の対象である。思考しうるすべてのものの可能性の最高の条件を含む<物>、
すなわちあらゆる存在者のなかの[最高の]存在者[=神]は、神学の対象である」

「形而上学の探求の目的とするところは、神、自由、不死という三つの理念だけである」ことと
超越論的な理念は結び付けられる。
<思考する主体の統一>は<不死>、<現象の条件の系列の絶対的な統一>は<自由>
<すべての対象の条件の絶対的な統一>は<神>に対応している。

(一)心は実体である[関係のカテゴリー]
(二)心の性質は単純である[性質のカテゴリー]
(三)心はさまざまな時間に存在していても、数的に同一であり、単一である[量のカテゴリー]
(四)空間に存在する可能的な対象と関係する[様態のカテゴリー]

「純粋な心理学のすべての概念はこれたの四つの要素だけから、そしてもっぱらその合成から
生まれるのであり、ほかにはいかなる原理も認めるものではない」
「心という実体は非物質性という概念を与える」
「単純な実体としては不壊性という概念を与える」
「実体の同一性は人格性という概念を与える」
「これらの三つを組み合わせて精神性という概念が生まれる」
「だから心理学は思考する実体を、物質における<生>の原理として、すなわち心(アニマ)として
また動物性の根拠として示すのである。この動物性が精神性によって制限されると
不死の概念が生まれる」

<わたし>は<実体>でないことについては以下のように説明されている。
「<わたしは考える>の<わたし>は、思考においてはつねに主語とみなさなければならない
ものであり、述語のように、たんに思考に付属するようなものとみなすことはできない。
このことは必然なことであり、それ自体として同一的な命題である。
しかしこの命題は、わたしが客体として、みずからを自存する存在者であるとか、
実体であるとかを意味するものではない。このようなことを想定するのは行き過ぎであり、
思考のうちにまったく存在しないものを<与えられたもの>として求めることになる」

つまり実体であるとか、実体でないとか、そんなことは思考することができない。
デカルトについては「『わたしは考える』という命題と『わたしは現実に存在する』という
命題は『同一の命題』である」と指摘している。

初版の誤謬推論のところでカントは次のようなことを書いている。
「どのようにすれば、思考する主体一般において、外的な直観が可能になるのか、
すなわちどのようにすれば空間の直観が可能となるのか。しかしこの問いには、
いかなる人も答えることはできない。わたしたちは、みずからの知におけるこの空隙を
埋めることはできないのである」

どのようにすれば、見ることが可能となるのか、わからない。
三原色に対応した周波数を持つ光を受け取った網膜の細胞が神経を介して
空間的な場所に対応したニューロンに情報を伝達した結果として
主体に何かが見えるのだと語ったとしても、そんなことは何の説明にもなっていない。
その空隙に気が付いたのはカントが最初なのだろうか?

純粋理性批判(3)

2013-03-09 00:05:05 | カント
光文社「純粋理性批判 3」を読んだ。
第1分冊では「感性による直観の純粋な形式」である時間と空間を扱っていた。
第2分冊では「感覚器官が直観した対象を思考する能力」である知性に関して
「直観一般の対象そのものにアプリオリに関わる純粋知性概念」である「カテゴリー」が
列挙され、その超越論的な根拠づけ(演繹)が展開された。
第3分冊の原則論では「カテゴリーをどのようにして現象に適用するか」を扱っている。
「カテゴリーが現象に適用できるという事実の確認」ではなく、
「カテゴリーを適用するための方法」について考察される。
「根拠づけの応用編」とのことだ。

「感性なしでは対象が与えられないし、知性なしでは対象を思考することができない。
対象の概念を感覚的なものにすること、すなわち概念に直観の対象を与えることが
必要であると同時に、直観を理解できるものとすること、すなわち直観の対象を
概念のもとに配置することもまた必要なのである」と
カントは超越論的な論理学の最初のところで示していたという。

カテゴリーが対象に適用される可能性を示すため、カントは<図式論>を展開する。
解説によると概ね以下のようなことらしい。

「知性と感性を媒介する第三のものに必要な要件は二つあり、
第一の要件は、心に描かれた像のように具体性を持つという感性の側の性質と
カテゴリーのように純粋なものという知性の側の性質の両方を兼ねそなえていることだった」
「時間は内的な感覚能力で描かれる像の多様なものの形式的な条件であることで
感性と共通したものであると同時に、純粋な直観のうちにあるアプリオリな多様なものを
含むという意味でカテゴリーおよび知性と共通したものである。
こうして時間は第一の要件を満たす」

「第二の要件は、現象と同じように感性的なものであるという性質と、カテゴリーのように
知性的なものであるという性質を兼ねそなえていなければならないことだった」
「時間は普遍的なものであり、アプリオリな規則にもとづくものであるという意味で
カテゴリーと同種のものであると同時に、時間は多様なものを心のうちで経験的に
思い描いたときに、その像のうちにつねに含まれているという意味で
現象と同種のものである」

「このように時間は、感性と知性を媒介する第三のものに必要なすべての要件を満たしている。
だから超越論的な時間規定こそが、知性の概念の<図式>の役割をはたすのであり、
この時間規定を媒介として、現象がカテゴリーのもとに包摂されることになる」

ちょっとわかりにくいので箇条書きにしてみる。
①時間は内的な感覚能力で描かれる像の多様なものの形式的な条件である<感性と共通>
②時間は純粋な直観のうちにあるアプリオリな多様なものを含む<知性と共通>
③時間はアプリオリな規則にもとづくものである<カテゴリーと同種>
④時間は思い描いた像のうちにつねに含まれている<現象と同種>

もともと「感性による直観の純粋な形式」を時間と空間と捉えていたので①は定義通り。
さて②についてはどうだろう?アプリオリな多様なものとは何だろうか?
次に③についてはどうだろう?「直観の形式」であることは「アプリオリな規則にもとづく」
ことを含んでいるのだろうか?
最後に④についてはどうだろう?像のうちに含まれていることは①から自明と思われる。
だからといって現象と同種のものなのだろうか?
そもそも時間そのものを認識することはできないとしておきながら
時間を主語として文章を組み立てるのはおかしくないだろうか?
循環してはいないだろうか?

「すべての現象は時間のうちに存在する。(内的な直観の持続的な形式としての)時間は
基体であり、同時存在も継起も、時間のうちでしか思い描くことができない」
現象は時間のうちでしか思い描くことはできない。
そして時間そのものを思い描くことはできない。

純粋理性批判(2)

2013-03-02 00:05:05 | カント
光文社「純粋理性批判 2」を読んだ。
第1分冊では「感性による直観の純粋な形式」である時間と空間を扱っていた。
第2分冊では「感覚器官が直観した対象を思考する能力」である知性を扱っている。
カントは「直観一般の対象そのものにアプリオリに関わる純粋知性概念」について考察し
これらの概念をアリストテレスにならって「カテゴリー」と名づける。
「カテゴリー」は以下のように列挙される。

カテゴリー表
一 量
    単一性
    数多性
    全体性
二 性質
    実在性
    否定性
    制限性
三 関係
    付属性と自存性(実体と偶有性)
    因果性と依存性(原因と結果)
    相互性(能動的なものと受動的なものの相互作用)
四 様態
    可能と不可能
    現実存在と非存在
    必然性と偶然性

「知性はこれらの概念をアプリオリな形でみずからのうちに含んでいる」
「知性はこれらの純粋な概念によってのみ、直観した像の中に含まれる多様なものについて
何事かを理解できる」ということだ。

カテゴリーが完全に列挙されていることは
「カテゴリーの分類が、一つの共通した原則によって、すなわち判断する能力にもとづいて
体系的に作りだされている」ことにより確信できるという。
「手当たり次第に探しだして、作りだされたものではない」のだという。
そうすると「カテゴリーの分類が体系的である」というのは
どういう判断によるのだろう?
「認識する方法を認識する」ことは、とても危ういと感じる。
「認識する方法を認識する方法を認識する」としたならば
もうなんのことだかわからなくなってしまう。

「だからわたしが、直観において与えられたこれらのすべての像がわたしたちに属する
ものであると考えるということは、わたしが一つの自己意識のうちに、これらの像を
統一するということであり、少なくともこれらの像を自己意識のうちに統一できると
いうことである」
「自己総合の意識のもとに統一されるというこの原則」を
カントは「人間のすべての認識の最高の原則」であるという。
なんとなく当たり前のことを言っているのではないかと感じる。
人間でなくても、犬や猫にしたって、すべての像を統一しているのではないかと思う。
アプリオリに生き物にそなわっている原則とでも呼びたいが
ここでは「生存競争と自然淘汰」という原則は経験的なものとされるのだろう。
認識が成立している状態、あるいは言語が成立している状態でないと
語ることすらできないという意味で生物学の地位は低くなってしまうだろう。
人類が誕生していなかった時代や地球が誕生していなかった時代すら
言語がなければ、したがって認識がなければ語れない。
しかし本当にそうなのだろうか?

そして「わたし」とは現象を統一するために必要な便宜的なものなのだろうか?
確かに「わたし」がなかったなら何も認識できないだろう。
「認識する」という行為には主体が伴う。
そのような「わたし」を対象として認識することは矛盾しているのだろうか?
世界を認識する「わたし」を対象としてしまうことが適切なことかどうか、
よくわからない・・・
自己意識を対象として思考することが適切なことかどうか、
よくわからない・・・

純粋理性批判(1)

2013-02-23 00:05:05 | カント
光文社の「純粋理性批判 1」を読んだ。全7巻になっている。
岩波文庫は上中下の全3巻なので、どうして7巻になるのかと思っていたが、
字が大きいし、初版まで載せているし、解説も長いのが、その理由らしい。
カントなんて久しぶりだ。どうして18世紀に逆戻りするのと思うかもしれない。
21世紀に独自の哲学がないと思っているのかもしれない。
ウィトゲンシュタインはトランスツェンデンタール(超越論的または先験的)なものを
扱っているが、初めて超越論的な哲学を示したのはカントだろう。
「純粋理性批判」を読んだことがあるといっても実際には忘却の彼方にある。
ここはひとつ「超越論的」なものを再確認しておこう、
ウィトゲンシュタインとカントのやり方は全然違うと思うけど、
他に例もあまりないので読んでみよう、
そんなふうに考えた。

「超越論的」とは、どのようなものだろう?
「わたしは、対象そのものを認識するのではなく、アプリオリに可能なかぎりで、
わたしたちが対象を認識する方法そのものについて考察するすべての認識を、
超越論的な認識と呼ぶ。そしてこのような諸概念の体系は、
超越論的な哲学と呼ばれるべきであろう」
序論でカントはそのように書いている。
「認識する方法を認識する」
彼はそういうことに挑戦したわけだ。

第1巻には「超越論的な感性論」として空間と時間のことが記載されている。
カントは空間と時間を「感性による直観の純粋な形式である」と考えた。
「だからなんなの?」と思うかもしれない。実は私もそうだ。
特に「時間」についてはカント以降も哲学はずっと迷走を続けている・・・

解説に記載されているが、カントはニュートンを批判しているそうだ。
ここでは、ニュートンの理論は以下のように紹介されている。
「ニュートンにとっては空間と時間は「自存する」ものであり、すべてのものを
取り去った後にも、空間と時間が絶対的なものとして残るという
絶対空間と絶対時間だった。これは神の時間と神の空間である。
空間を神の「感覚中枢」と考えるニュートンの時空論の裏側には、
神学が貼りついていたことはすでに見たとおりである」

カントにとって空間と時間は「人間的」だった。
彼は「人間の経験が可能になる条件を考察していた」のだ。
現代においても時間の不可解さを誰も説明できないのだが
そもそも私たちには絶対時間なんて想定できないと思う。
時間は生きられるものだろう。

ニュートンの時空論はアインシュタインにより修正される。
時空と物質は切り離せないものらしい。
そうすると「すべてのものを取り去る」なんて操作は、もともと出来ないことになる。
現代の物理学の水準は18世紀の哲学を不毛なものにしているのだろうか?
本質的には、あまり変わらないような気がする。
物質をどんどん分割していっても何も変わらない。
単体では存在できないもの(つまり分割しようとすると途方もないエネルギーが必要で
分割したと思った時にはエネルギーを加えた結果として単体ではありえない)に
辿りついても、それが究極のモノなのか判断することはできない。
最終的には神様に登場していただくしかない。
宇宙が膨張しているという観測結果から宇宙の誕生を推測することはできても
宇宙が誕生する前はどうだったかなんてわからない。
そもそも時間が存在する前なんて表現はありえない。
やはり神様に登場していただくしかない。
しかし言語で語りうる神なんて有限な神でしかない。
現代の物理学というのも不毛なのだろう。

「カントはその対象の真の姿を物自体と呼ぶが、物自体を認識することができないという
カントの主張は、実は大きな影響をもたらすのだった」・・・
「ニーチェが後に主張するように、哲学のうちに懐疑と相対主義とシニシズムの
強い芽を植えつけることになったのである」・・・
そんなふうなことが解説に書かれていた。
「物自体」を認識できないということが、それほど重要なことなのか私にはわからない。
10のマイナス15乗程度の大きさの原子核のまわりを10のマイナス10乗程度の軌道で
電子が取り巻いている。しかも不確定性原理によると電子の位置は特定できず
その存在確率しか示すことができない。
それだけでも私は「物自体」なんてどうでもよい気分になってしまう。
その時代の哲学者たちは何を望んでいたのだろう?
「物自体」の認識に価値なんてあるだろうか?