「人間の心に意識というものができて以来、それを磨きあげることによって、人類の文明は進歩してきた。
しかし構築された意識が無意識の土壌からあまりにも切り離されたものとなるとき、
それは生命力を失ったものとなる」
意識には生命力はなく無意識に生命力があるというのは本当だろうか?
意識という言葉についても生命という言葉についても実際に何を指しているのかよくわからない。
ぞして文明が進歩しなければ「それは生命力を失ったものとなる」ということすら考えることが出来ない。
仮に私が意識がそれほど明確とは思えないニホンザルであったなら
生命力に溢れた素敵な毎日がすごせるのだろうか?
いや、私たちは一度獲得した意識を手放したりはしない。
そのことを私たちに命じているのは私たち自身ではないというのに・・・
(おそらくここで勘違いをしている人が多い)
生存競争に明け暮れる競争社会、効率性を追求する管理社会、客観性の奴隷と化した科学、
無意識の願望を容赦しない厳格な一神教・・・
そのような外的環境によって生命力を失い足掻いている人々を救おうというのだろうか?
それとも内界の罠に落ち込んでしまった人々を救おうというのだろうか?
ある作家は「文章を書くことは自己療養のためのささやかな試みにすぎない」と書いていたが
彼は今でもそんなふうに考えているのだろうか?
精神とは言葉であり論理であり秩序であろうとする。
混沌とした無意識から芸術が生み出されるのだとしても
生み出されたものは既に秩序であり混沌ではない。
私たちはどのような方法を用いているのかも知らず長大な交響曲の構造も理解してしまうし
耳慣れない無調音楽であっても何回か聴いているうちに秩序があることに気付く。
そういう意味では「磨きあげる」というのは無意識から秩序を生み出すということや
それを受け入れるという側面もあるのではないかと思う。
芸術などというものは全く有用なところがないが私たちは「無意識の土壌」から
生み出されたものが好きなのだ。
実用面を重んじるスカーレット・オハラやレット・バトラーは
自分たちの豪邸で好きにすればよいのだ。
「トルーデさん」というお話しについて著者は次のように書いている。
「昔話は子どもたちに教訓を与えるためにあると思っている人、それも単純な勧善懲悪式の教訓を
考えている人は、この話のすさまじい結末にたじろぐことであろう。
この物語にたじろぐこともなく『だから、皆さんは親のいいつけにそむいてはなりません』などと
平然と教訓を垂れることのできる人は既成の道徳の鎧によって、生きた人間としての心の動きを
被っている人だと思われる。
このような人は、その鎧を強化するために、もう一歩進んで、話の書きかえをすら試みる。
この話の結末を『子どもに聞かせるのには、あまりにひどすぎる』ということで、
柔らかくしたり、ときにはハッピーエンドにしてしまったりする」
リトル・マーメイドは、アンデルセンの人魚姫をハッピーエンドに改変したものだ。
それは既成の道徳の強化をベースに既成の願望の充足のために改変される。
それは「人々を幸福にするため」なのだという。
そして原作では人魚姫の声と交換に薬を与えた魔女は物凄い化け物として登場し
契約を持ちかけたのも魔女の方であると改変されてしまい
「単純な勧善懲悪式」の結末としては当然の如く処分される。
私には人魚姫に出て来る魔女は彼女の無意識だと思われる。
人間の足を持ちたいという無意識の欲望を充足させるために
彼女は意識的なもの(声)を犠牲にする必要があったのだと思われるし、
彼女の姉たちが美しい髪との交換により魔女から手に入れた短剣というのは
意識界に戻るために最後のチャンスであったように思われる。
その短剣で王子を貫くことよりも自己犠牲を選択するというところは道徳的であるが・・・
しかしその自己犠牲により天国に至るという道徳も過去のものとなり
現世での幸福に取って代わられた。
そのことになんの後ろめたさも感じないのは「悪を処分」して獲得した幸福だからだろう。
そして人々は喜んでカネを払って劇場を後にするのだ。
近年では劇団四季がその商業主義に便乗している。
彼らの商品は、愛と希望と勇気だ。
「ヘンゼルとグレーテル」のところで次のように書かれている。
「この話の原話では、母は実母であり、1840年の決定版のときに、グリム兄弟がこれを
『まま母』に変更したことはよく知られている事実である。
このことは、あの悪名高い白雪姫の母の場合も同様である。嫉妬心から娘を殺そうとした王妃は、
白雪姫の実の母なのであった」
「・・・母なるものの存在として考えるとき、それは常に肯定、否定の両面を有することは
前章に述べた。そして、その両面のうちの肯定的な面のみを母性の本質として、
人間が承認しそれに基づく文化や社会を形成してきたのであるが、否定的な側面は常に人間の
無意識に存在して、われわれをおびやかすのである」
「・・・つまり、継母という名によって、母性の否定的側面をすべて背負いこまされて
しまったのである」
継母・魔女・帝国主義者・テロリストなどなど・・・
否定的な側面を背負い込まされる対象は「人間らしさがない」といって処分される。
否定的な側面を抹殺してしまえば社会は安定し希望に満ちたものになるのだと信じられ、
そして「前向き」に「建設的」に考えることが要求される。
「否定的なものの根」を断ち切ってしまうことが「前向き」なのかどうか私は知らない。
そうしてしまうことは人間から「考える機会」を奪ってしまうのだと思う。
「われわれをおびやかす無意識」を断ち切ってしまったなら
生きる値打ちなんてあるのだろうか?
「人間の意識は常に進歩を求め、効用の大なるものを求めて努力をつづけてきた。
しかし、それはともすると一面的なものとなり、安定性を失ったものとなる。
これに対して大工の石が櫟から教えられたことは、自らの運命を素朴に充足させて生き、
何かのためになどと考えることのない生き方が、いかに偉大であるかということであった。
これは、無為の思想である。老子の強調する無為の重要性も同じ考えの基盤に立っていると
見てよいだろう」
「・・・ところで、このように見てくると、無為の、したがって怠けの意味は、
東洋思想のなかによく述べられているのに対して、むしろ西洋の知性は、何かを為すことに、
効率をあげることのほうに重点をおいてきたと言うことができる」
「怠惰」は7つの罪のうちの一つなので西洋では許されないのではないかと思う。
しかし「有用である」とか「何かを為す」というのはどういうことだろう。
櫟は石に「おまえはいったい自分をどうして無用としうのか、どうせ人間に役立つ木と
比較したのだろう」と語ったということだ。
櫟で「舟をつくれば沈むし、桶をつくれば腐る、柱にすれば虫に食われる」ので
櫟から見れば「無用である」ことで伐採を免れている。
それは毒を持った魚が食えないといったことに似て、その種にとっては「有用なこと」で
あるように思われる。まったく「無為」とは言えないように思われる。
もともと「無為」を強調することなど矛盾している。
そんな「『有用なこと』を広めて人々の役に立っても仕方がない」ということを
主張する時点で循環している。
「何かのためになどと考えることのない生き方」が偉大であることすら知られる必要もない。
西洋的かどうか知らないが、言葉で表現するということ自体が有用であることから免れない。
物語が隠喩として示していることを感じるしかない。
「何らかの補償作用を有する」と書いてあるが、それが何であるかなんてわからない。
・・・
「ここで大切なことは、烏の話し声というのが他の人の耳に入らず、
怠け者にのみ聞こえたということである。常識の世界に忙しく働いている人は、
天の声を聞くことができない。怠け者の耳は天啓に対して開かれている。
このように言うと、私の心には現代の多くの『仕事に向かって逃避』している人たちのことが
思い浮かんでくる。これらの人は仕事を熱心にし、忙しくするという口実のもとに、
自分の内面の声を聞くことを拒否しているのである」
ここでは「烏の声」あるいは「天啓」は「自分の内面の声」ということらしい。
「怠け者」とは「自分の内面の声」を聞く者のことらしい。
私は怠け者なのか?
物語では男性原理のみで効率性を追求するあまり行き詰った王国は
女性原理による創造的退行を示す者を王位継承者として打開を試みる。
それは「物語」の中の出来事であって現代に暮らす多くの「怠け者」は次々に抹殺される。
そのような「怠け者」の排除は「怠け者予備軍」への脅しとなり
その脅しを社会通念として国家や企業は統治を行う。
実際には効率性を測る物差しはなく効率化が達成できているかも疑わしい。
支配者にとっては統治できていればよいのだ・・・
「おまえは、おれが主人の動くなりに動くからといって非難するが、ほんとうにそうなのかねえ。
おれの主人にしたところで、果たして自分の意思で動いているのかどうか。
もしかすると、やはり何かほかのものに動かされているので、
形はあってもゆけがら同然のものかもしれぬ。
われわれには、なぜ自分が動くのかわかりっこないんだよ」
主人の動きに追従しているだけで自主性がないと批判された影はそうこたえる。
残念なことに21世紀の叡智は「なぜ自分が動くのかわかりっこない」という点で
「不動の第一動者」を神であるとしたアリストテレスの書いていることとそう変わりない。
「自由意志」は自我が身体と記憶を統治する上で必要とされる。
それがなんなのかよくわからない。
「やはり何かほかのものに動かされている」というのであれば
「何かほかのもの」とは何なのか?
著者は「われわれの行動の主体はわれわれの影だったのではないだろうか」と書いている。
そういうことではなく「主体」なんてものがそもそも私たちには
わからないのだと思う。
「母性的な宗教は、今までグレートマザーについて述べてきた点を思いだされると了解されようが、
すべてを包み、すべてを区別することなく救済しようとする宗教である。これに対して、
父性原理に基づく宗教は神との契約を守るものと守らないものに区別し、前者の救済を約束するが、
後者は異教徒として排斥する。天なる父を頂くキリスト教の厳しさは、精神性の強調とともに、
それに対立する肉体を低いものとし、したがってセックスに対する抑圧も強いものとなる。
このような文化においては、天―父―精神という結合に対して、土―母―肉体という結合が存在し、
後者はしばしば、悪と同一視される傾向をもつ」
神曲にキリストは地獄を征服したと書かれてあった。
イエスは、貧しい人々、病気で困っている人々を、無条件に愛せる人であって、
奇跡を行ったとか地獄を征服したとか、私にとってはそんなことはどうでもよいことだ。
それでイエスについては母性的でありキリスト教については父性的と感じる状態に陥ってしまっている。
神曲の地獄篇は「土―母―肉体」で天国篇は「天―父―精神」なのだろうか?
すべてを包み込む地獄は母性的なのだろうか?
そんなふうには感じない・・・
著者は「父性原理によるときは法による裁きのみが可能」で死をもたらさないと書いているが
私にはとてもそんなふうには思えない。
旧約聖書では神に背いた人間はひどいことになっている。
ひどいというレベルを超えている。
「すべての男性は心の奥の一室にひとりの乙女の絵姿をもっていると言えるかもしれない」
ジェロームが持っている絵姿にアリサは苦しめられたのだろうか?
その絵姿というのはどのようにして刻まれるものなのだろうか?
美しさは平均的なものであって遺伝子が変位を嫌っているのだろうか?
それは先天的なものなのだろうか?
ひとりに限られるのであれば後天的なものだろうか?
単に遺伝子を残したいのであれば多数であってもよさそうなものだ。
「・・・これに対して、父なるものは、切断の機能を持つ。それは母なるものが一体化するはたらきを
もつのに対して、物事を分割し、分離する。善と悪、光と闇、親と子、などに世界を分化し、
そこに秩序をもたらす。・・・母なるものの、すべてのものを区別することなく包みこむ機能と、
父なるものの善悪などを区別する機能との間に適切なバランスが保たれてこそ、
人間の生活が円滑に行われる」
正―反―合というプロセスのことなのか、分析と総合のことなのか、
そういうものを父性的であるとか母性的であるとか区別することは父性的なことなのか、
そもそも「父性的なものは、これこれ」と説明することに意味があるのか、
よくわからない。「バランスが大切」みたいなことも月並みであると感じられる。
いつもそんなふうに誤魔化されてきたような気もする。
私たちは既存の秩序に新たな秩序を加えるべく生きている。
そのようにして獲得した領土は広大な無意識に比べると微々たるものに過ぎない。
そのような特異点を集めては私たちは無意識と対峙してきた人々のことを思う。
人間の生活が円滑に行われることを目的にしても仕方がない。
「すなわち、苦難の長さに比例して、その人がノイローゼの克服によって得る宝も
価値の高いものとなるのである」
価値の高い宝とは何だろうか?著者は「自己実現」と書いている。
・・・
ユングでは「自我」と「自己」は異なるそうだ。
「われわれの意識は自我を統合の中心として、ある程度のまとまりをもっているが、
それは何らかの偏りを避けることができず、意識の一面性は常に無意識によって補償される。
このような意識と無意識を通じての心の全体性のあり方に注目して、ユングはそのような全体としての
心の中心として、自己の存在を仮定したのである」
・・・
振り返ってみて「知らなかった方が良かった」というようなものはない。
知ることが喜びであり宝であると思われる。
「心の全体性のあり方」というのは何のことなのかわからない。
「心」がわからないのに「心の全体性」なんてわかるわけがない。
ユングにはそのような不可解さが付きまとっている。
「『私とは何か』という問いは『私の魂とは何か』という問いにおきかえられる。
自分の心の奥にはいったい何があるのか。魂は存在するのか。これらのことは確かに人間にとっての
永遠のなぞである」
「私とは何か」がわからないのに「私の魂とは何か」という問いを発しても
仕方がないと思われる。いったい「魂」という時に何をイメージしているのか?
「私」とは記憶と身体を束ね、体験(今・此処・私)に付きまとうものである。
その心の奥とは何だろうか?
ここで「奥」というのは体験する主体が容易には引き出せない「記憶」のことであると思われる。
思い出せないことに対して「深さ」を感じるのが私たちだ。
だからこの問いは「なぞ」というよりは
もともとこたえが用意されてない。
しかし構築された意識が無意識の土壌からあまりにも切り離されたものとなるとき、
それは生命力を失ったものとなる」
意識には生命力はなく無意識に生命力があるというのは本当だろうか?
意識という言葉についても生命という言葉についても実際に何を指しているのかよくわからない。
ぞして文明が進歩しなければ「それは生命力を失ったものとなる」ということすら考えることが出来ない。
仮に私が意識がそれほど明確とは思えないニホンザルであったなら
生命力に溢れた素敵な毎日がすごせるのだろうか?
いや、私たちは一度獲得した意識を手放したりはしない。
そのことを私たちに命じているのは私たち自身ではないというのに・・・
(おそらくここで勘違いをしている人が多い)
生存競争に明け暮れる競争社会、効率性を追求する管理社会、客観性の奴隷と化した科学、
無意識の願望を容赦しない厳格な一神教・・・
そのような外的環境によって生命力を失い足掻いている人々を救おうというのだろうか?
それとも内界の罠に落ち込んでしまった人々を救おうというのだろうか?
ある作家は「文章を書くことは自己療養のためのささやかな試みにすぎない」と書いていたが
彼は今でもそんなふうに考えているのだろうか?
精神とは言葉であり論理であり秩序であろうとする。
混沌とした無意識から芸術が生み出されるのだとしても
生み出されたものは既に秩序であり混沌ではない。
私たちはどのような方法を用いているのかも知らず長大な交響曲の構造も理解してしまうし
耳慣れない無調音楽であっても何回か聴いているうちに秩序があることに気付く。
そういう意味では「磨きあげる」というのは無意識から秩序を生み出すということや
それを受け入れるという側面もあるのではないかと思う。
芸術などというものは全く有用なところがないが私たちは「無意識の土壌」から
生み出されたものが好きなのだ。
実用面を重んじるスカーレット・オハラやレット・バトラーは
自分たちの豪邸で好きにすればよいのだ。
「トルーデさん」というお話しについて著者は次のように書いている。
「昔話は子どもたちに教訓を与えるためにあると思っている人、それも単純な勧善懲悪式の教訓を
考えている人は、この話のすさまじい結末にたじろぐことであろう。
この物語にたじろぐこともなく『だから、皆さんは親のいいつけにそむいてはなりません』などと
平然と教訓を垂れることのできる人は既成の道徳の鎧によって、生きた人間としての心の動きを
被っている人だと思われる。
このような人は、その鎧を強化するために、もう一歩進んで、話の書きかえをすら試みる。
この話の結末を『子どもに聞かせるのには、あまりにひどすぎる』ということで、
柔らかくしたり、ときにはハッピーエンドにしてしまったりする」
リトル・マーメイドは、アンデルセンの人魚姫をハッピーエンドに改変したものだ。
それは既成の道徳の強化をベースに既成の願望の充足のために改変される。
それは「人々を幸福にするため」なのだという。
そして原作では人魚姫の声と交換に薬を与えた魔女は物凄い化け物として登場し
契約を持ちかけたのも魔女の方であると改変されてしまい
「単純な勧善懲悪式」の結末としては当然の如く処分される。
私には人魚姫に出て来る魔女は彼女の無意識だと思われる。
人間の足を持ちたいという無意識の欲望を充足させるために
彼女は意識的なもの(声)を犠牲にする必要があったのだと思われるし、
彼女の姉たちが美しい髪との交換により魔女から手に入れた短剣というのは
意識界に戻るために最後のチャンスであったように思われる。
その短剣で王子を貫くことよりも自己犠牲を選択するというところは道徳的であるが・・・
しかしその自己犠牲により天国に至るという道徳も過去のものとなり
現世での幸福に取って代わられた。
そのことになんの後ろめたさも感じないのは「悪を処分」して獲得した幸福だからだろう。
そして人々は喜んでカネを払って劇場を後にするのだ。
近年では劇団四季がその商業主義に便乗している。
彼らの商品は、愛と希望と勇気だ。
「ヘンゼルとグレーテル」のところで次のように書かれている。
「この話の原話では、母は実母であり、1840年の決定版のときに、グリム兄弟がこれを
『まま母』に変更したことはよく知られている事実である。
このことは、あの悪名高い白雪姫の母の場合も同様である。嫉妬心から娘を殺そうとした王妃は、
白雪姫の実の母なのであった」
「・・・母なるものの存在として考えるとき、それは常に肯定、否定の両面を有することは
前章に述べた。そして、その両面のうちの肯定的な面のみを母性の本質として、
人間が承認しそれに基づく文化や社会を形成してきたのであるが、否定的な側面は常に人間の
無意識に存在して、われわれをおびやかすのである」
「・・・つまり、継母という名によって、母性の否定的側面をすべて背負いこまされて
しまったのである」
継母・魔女・帝国主義者・テロリストなどなど・・・
否定的な側面を背負い込まされる対象は「人間らしさがない」といって処分される。
否定的な側面を抹殺してしまえば社会は安定し希望に満ちたものになるのだと信じられ、
そして「前向き」に「建設的」に考えることが要求される。
「否定的なものの根」を断ち切ってしまうことが「前向き」なのかどうか私は知らない。
そうしてしまうことは人間から「考える機会」を奪ってしまうのだと思う。
「われわれをおびやかす無意識」を断ち切ってしまったなら
生きる値打ちなんてあるのだろうか?
「人間の意識は常に進歩を求め、効用の大なるものを求めて努力をつづけてきた。
しかし、それはともすると一面的なものとなり、安定性を失ったものとなる。
これに対して大工の石が櫟から教えられたことは、自らの運命を素朴に充足させて生き、
何かのためになどと考えることのない生き方が、いかに偉大であるかということであった。
これは、無為の思想である。老子の強調する無為の重要性も同じ考えの基盤に立っていると
見てよいだろう」
「・・・ところで、このように見てくると、無為の、したがって怠けの意味は、
東洋思想のなかによく述べられているのに対して、むしろ西洋の知性は、何かを為すことに、
効率をあげることのほうに重点をおいてきたと言うことができる」
「怠惰」は7つの罪のうちの一つなので西洋では許されないのではないかと思う。
しかし「有用である」とか「何かを為す」というのはどういうことだろう。
櫟は石に「おまえはいったい自分をどうして無用としうのか、どうせ人間に役立つ木と
比較したのだろう」と語ったということだ。
櫟で「舟をつくれば沈むし、桶をつくれば腐る、柱にすれば虫に食われる」ので
櫟から見れば「無用である」ことで伐採を免れている。
それは毒を持った魚が食えないといったことに似て、その種にとっては「有用なこと」で
あるように思われる。まったく「無為」とは言えないように思われる。
もともと「無為」を強調することなど矛盾している。
そんな「『有用なこと』を広めて人々の役に立っても仕方がない」ということを
主張する時点で循環している。
「何かのためになどと考えることのない生き方」が偉大であることすら知られる必要もない。
西洋的かどうか知らないが、言葉で表現するということ自体が有用であることから免れない。
物語が隠喩として示していることを感じるしかない。
「何らかの補償作用を有する」と書いてあるが、それが何であるかなんてわからない。
・・・
「ここで大切なことは、烏の話し声というのが他の人の耳に入らず、
怠け者にのみ聞こえたということである。常識の世界に忙しく働いている人は、
天の声を聞くことができない。怠け者の耳は天啓に対して開かれている。
このように言うと、私の心には現代の多くの『仕事に向かって逃避』している人たちのことが
思い浮かんでくる。これらの人は仕事を熱心にし、忙しくするという口実のもとに、
自分の内面の声を聞くことを拒否しているのである」
ここでは「烏の声」あるいは「天啓」は「自分の内面の声」ということらしい。
「怠け者」とは「自分の内面の声」を聞く者のことらしい。
私は怠け者なのか?
物語では男性原理のみで効率性を追求するあまり行き詰った王国は
女性原理による創造的退行を示す者を王位継承者として打開を試みる。
それは「物語」の中の出来事であって現代に暮らす多くの「怠け者」は次々に抹殺される。
そのような「怠け者」の排除は「怠け者予備軍」への脅しとなり
その脅しを社会通念として国家や企業は統治を行う。
実際には効率性を測る物差しはなく効率化が達成できているかも疑わしい。
支配者にとっては統治できていればよいのだ・・・
「おまえは、おれが主人の動くなりに動くからといって非難するが、ほんとうにそうなのかねえ。
おれの主人にしたところで、果たして自分の意思で動いているのかどうか。
もしかすると、やはり何かほかのものに動かされているので、
形はあってもゆけがら同然のものかもしれぬ。
われわれには、なぜ自分が動くのかわかりっこないんだよ」
主人の動きに追従しているだけで自主性がないと批判された影はそうこたえる。
残念なことに21世紀の叡智は「なぜ自分が動くのかわかりっこない」という点で
「不動の第一動者」を神であるとしたアリストテレスの書いていることとそう変わりない。
「自由意志」は自我が身体と記憶を統治する上で必要とされる。
それがなんなのかよくわからない。
「やはり何かほかのものに動かされている」というのであれば
「何かほかのもの」とは何なのか?
著者は「われわれの行動の主体はわれわれの影だったのではないだろうか」と書いている。
そういうことではなく「主体」なんてものがそもそも私たちには
わからないのだと思う。
「母性的な宗教は、今までグレートマザーについて述べてきた点を思いだされると了解されようが、
すべてを包み、すべてを区別することなく救済しようとする宗教である。これに対して、
父性原理に基づく宗教は神との契約を守るものと守らないものに区別し、前者の救済を約束するが、
後者は異教徒として排斥する。天なる父を頂くキリスト教の厳しさは、精神性の強調とともに、
それに対立する肉体を低いものとし、したがってセックスに対する抑圧も強いものとなる。
このような文化においては、天―父―精神という結合に対して、土―母―肉体という結合が存在し、
後者はしばしば、悪と同一視される傾向をもつ」
神曲にキリストは地獄を征服したと書かれてあった。
イエスは、貧しい人々、病気で困っている人々を、無条件に愛せる人であって、
奇跡を行ったとか地獄を征服したとか、私にとってはそんなことはどうでもよいことだ。
それでイエスについては母性的でありキリスト教については父性的と感じる状態に陥ってしまっている。
神曲の地獄篇は「土―母―肉体」で天国篇は「天―父―精神」なのだろうか?
すべてを包み込む地獄は母性的なのだろうか?
そんなふうには感じない・・・
著者は「父性原理によるときは法による裁きのみが可能」で死をもたらさないと書いているが
私にはとてもそんなふうには思えない。
旧約聖書では神に背いた人間はひどいことになっている。
ひどいというレベルを超えている。
「すべての男性は心の奥の一室にひとりの乙女の絵姿をもっていると言えるかもしれない」
ジェロームが持っている絵姿にアリサは苦しめられたのだろうか?
その絵姿というのはどのようにして刻まれるものなのだろうか?
美しさは平均的なものであって遺伝子が変位を嫌っているのだろうか?
それは先天的なものなのだろうか?
ひとりに限られるのであれば後天的なものだろうか?
単に遺伝子を残したいのであれば多数であってもよさそうなものだ。
「・・・これに対して、父なるものは、切断の機能を持つ。それは母なるものが一体化するはたらきを
もつのに対して、物事を分割し、分離する。善と悪、光と闇、親と子、などに世界を分化し、
そこに秩序をもたらす。・・・母なるものの、すべてのものを区別することなく包みこむ機能と、
父なるものの善悪などを区別する機能との間に適切なバランスが保たれてこそ、
人間の生活が円滑に行われる」
正―反―合というプロセスのことなのか、分析と総合のことなのか、
そういうものを父性的であるとか母性的であるとか区別することは父性的なことなのか、
そもそも「父性的なものは、これこれ」と説明することに意味があるのか、
よくわからない。「バランスが大切」みたいなことも月並みであると感じられる。
いつもそんなふうに誤魔化されてきたような気もする。
私たちは既存の秩序に新たな秩序を加えるべく生きている。
そのようにして獲得した領土は広大な無意識に比べると微々たるものに過ぎない。
そのような特異点を集めては私たちは無意識と対峙してきた人々のことを思う。
人間の生活が円滑に行われることを目的にしても仕方がない。
「すなわち、苦難の長さに比例して、その人がノイローゼの克服によって得る宝も
価値の高いものとなるのである」
価値の高い宝とは何だろうか?著者は「自己実現」と書いている。
・・・
ユングでは「自我」と「自己」は異なるそうだ。
「われわれの意識は自我を統合の中心として、ある程度のまとまりをもっているが、
それは何らかの偏りを避けることができず、意識の一面性は常に無意識によって補償される。
このような意識と無意識を通じての心の全体性のあり方に注目して、ユングはそのような全体としての
心の中心として、自己の存在を仮定したのである」
・・・
振り返ってみて「知らなかった方が良かった」というようなものはない。
知ることが喜びであり宝であると思われる。
「心の全体性のあり方」というのは何のことなのかわからない。
「心」がわからないのに「心の全体性」なんてわかるわけがない。
ユングにはそのような不可解さが付きまとっている。
「『私とは何か』という問いは『私の魂とは何か』という問いにおきかえられる。
自分の心の奥にはいったい何があるのか。魂は存在するのか。これらのことは確かに人間にとっての
永遠のなぞである」
「私とは何か」がわからないのに「私の魂とは何か」という問いを発しても
仕方がないと思われる。いったい「魂」という時に何をイメージしているのか?
「私」とは記憶と身体を束ね、体験(今・此処・私)に付きまとうものである。
その心の奥とは何だろうか?
ここで「奥」というのは体験する主体が容易には引き出せない「記憶」のことであると思われる。
思い出せないことに対して「深さ」を感じるのが私たちだ。
だからこの問いは「なぞ」というよりは
もともとこたえが用意されてない。