140億年の孤独

日々感じたこと、考えたことを記録したものです。

ダンテ神曲[永井豪]

2014-06-28 00:05:39 | 神曲
「ダンテよ!?
おまえがこの地獄で見たものを人の世に伝える意味もそこにある!!
人は死後の世界があることを知らねばならない!
現世だけうまく生きぬこうとする者は地獄で永劫の苦しみを味わうことを
知らねばならぬ!
人が死後の世界のあることを知れば現世での生き方も変わるだろう・・・・・・
現世が神によって人間性を試される場とわかれば人の生きざまも変わるやもしれぬ
ダンテよ
だからこそ地獄をしっかりと見て行くことだ!
そして人々に伝えるのだ!?
ダンテ
おまえのたぐいまれな詩の力で!!
言葉の力で伝えるのだ!!」

そんなセリフが書かれていたが
人々の生き方を変えるためにダンテが神曲を書いたとは私には思えない。
地獄に落とされるのが嫌だとか天国に行きたいとか思わない。
煉獄で浄罪に励んだ方が良いとは考えたが・・・
たいていの良い本がそうであるように神曲も鏡のようなものだと思う。
正しいとか間違っているということではなく
自分が見落としているものについて
考える機会を与えてくれる。

著者は「ようやく字が読めるようになった頃」に神曲に出会ったのだという。
その本にあったドレの挿絵に魅了されたのだという。
実はデビルマンの冒頭に神曲について触れている場面がある。
著者はバイオレンスとセックスの漫画家というイメージがあり
青少年の教育上好ましくない描写を数えればきりがないが
圧倒的な暴力を描きながら別に暴力を肯定しているわけでもない。
積極的に否定しているわけでもない不思議な人だ。
テレビ放映されたデビルマンは「悪魔の力を身に付けた正義のヒーロー」だったが
マンガでは「悪魔の能力と人間の精神を併せ持つ」のがデビルマン(悪魔人間)である。
そして「人のやさしさに目覚めて悪魔を裏切った」のではなく
飛鳥了に導かれた不動明がデーモンの勇者アモンの身体を乗っ取ったのだ。
だからデーモンにしてみれば不動明は許しがたい存在である。
特にアモンを慕っていたシレーヌにとっては・・・

そんなわけで著者の原点には「ドレの神曲」があったらしい。特に地獄篇の・・・
ダンテの神曲は地獄篇・煉獄篇・天国篇がほぼ同じ行数になっているが
永井豪の神曲は地獄篇が半分以上を占めている。
現世は地獄にいちばん良く似ているのだろう。
そしてデビルマンが涙を流したシーンを思い出すが
人間こそが悪魔になり得る。

名古屋フィル#37ビゼー『アルルの女』第1組曲

2014-06-22 20:47:48 | 音楽
第414回定期演奏会、曲目は以下の通り
ビゼー: 劇音楽『アルルの女』第1組曲
ホルト: 打楽器協奏曲『騒音の卓』 [日本初演]
ニールセン: 交響曲第1番ト短調 作品7,FS.16

ビゼーで知っているのはカルメン・アルルの女・交響曲だけだ。
36歳で夭折したのでそれほど多くの曲を残しているわけではない。
31歳で没したシューベルトや35歳で没したモーツァルトは
その年齢に達するまでに多くの曲を残した。
モーツァルトやシューベルトについて知りたいのであれば
それなりに多くの曲にあたらなければならない。
そうしているうちに「ああ、これがシューベルトか!」とか
「これがモーツァルトか!」と思って満足することが出来る。
ビゼーについてはつくづく惜しまれる。
カルメンだけでもフランス最大の作曲家ではないかと思う。
今回、アルルの女(第1組曲)を聴きながら、
やっぱりもっと聴きたいと思った。

今、彼の生前に演奏されることなく、
作曲の80年後に初演されたという交響曲を聴いている。
これがどういうわけか同じように放置されていたシューベルトに似ている。
何か必然性みたいなものがあるのだろうか?

今回はニールセンが目玉だったみたいだが
どうも好きになれない。

メディア・コントロール

2014-06-21 00:05:05 | 
ノーム・チョムスキー「メディア・コントロール」という本を読んだ。
「特別階級の一人がそこへ行って『あなたのために便宜をはかれます』と言えれば、
彼は支配階級の一員になれる。でも、そんなことを公言してはならない。それを公言するのは、
一部の私的権力の利益にかなう信念と教義を大衆に植えつけてきました、というのに等しいことだからだ。
この技能を習得できないかぎり、特別階級の一員にはなりえない」
そんなことが書いてある。偉大な指導者とは、お追従が上手な人たちのことなのだろう。
彼らはお世辞の能力も含めて自分は優秀であり、支配者階級に加わる資格があると考えているように見える。
私がよくわからない点は、そんなにまでしていったい何を支配したいのかということだ。
出来るだけ高い地位について死の直前まで快適な気分を味わいたいというのだろうか?
愚昧な民を、出来の悪い部下を導いてやることにエクスタシーを感じているのだろうか?
彼らは成功することに一生懸命で、レールから逸れぬよう常に注意深い。
時代に対して敏感で目の前の顧客と私的権力者への気遣いに長けている。
読書なんてものは既に死んでしまった人との対話であるから関心を持たない。
彼らは現役を引退した後も本は読まない。それは私がテレビを見ないのと同じことかもしれない。
誰しも無駄なことに時間を費やすのは嫌だ。
アリストテレスが「すべての人間は生まれながらにして知ることを欲する」と書いたのは誤りだと思う。
支配者は知ることを望まない。故に「すべての」のところが間違っている。
そして彼らは支配者なので他人に自分の時間の使い方を強要する。
「誰しも無駄なことに時間を費やすのは嫌」なのだが支配者はそんなことは意に介さない。
一部の人間と自分にとっての便宜が最優先すべきことであり、そのために他人の時間を奪う。
時間ではなく生命が奪われる場合もある。
そんなやつらはどこかに行ってほしいのだが(ダンテならきっと地獄へ送ってくれる)
彼らがいなくなっても別の誰かが同じことをするだけだ。
そこで再び『あなたのために便宜をはかれます』という会話が交わされる。

「威嚇、強要、恐怖の浸透を通じて、政治的、宗教的、思想的な目的を達するために
暴力や暴力の威嚇を計算ずくで用いること」
アメリカ合衆国の法規や陸軍教範では、テロはそのように定義されているという。
なるほど、しかしそれはアメリカ自身がやってきたことだし、
時代を遡ってみれば人類の歴史というものはテロの繰り返しであることが再発見されるだろう。
だから確かに「他人が私たちにたいして行う暴力」をテロと定義した方がわかりやすい。
勝った方が相手をテロリストと呼んでいるだけのことだ。
かつては敵を「帝国主義者」とか「共産主義者」と呼んでいたのだが
そんなやつらは「正義」が滅ぼしてしまったので今度はテロリストが滅ぼされる順番なのだ。
そいつらは自由や人権への脅威であるため排除しなければならない。
しかし随分と貧弱な敵を相手にしているものだ。
これでも「テロリストは弱者」ということに気が付かないというのは
やはりどうかしている。

「狂ってでもいなければ、ごく基本的な道徳上の自明の理を受け入れて、
書いてはならない事実を書くなんてことは考えられないのだろう。それはおそらく真実だと思う」
「ワシントン・ポスト」に掲載された「狂ったように興奮している」という批評に対して
著者はそのように答えている。
「自分の利益にならないことを書いている」という点で著者は狂っていると言われるのだろう。
現代では価値は万物の尺度である金額によって測られる。
金儲けにもならない上に自分の評判を落とすようなことを書く奴は狂っていると見做される。
どうしてそんなことをするのだろうか?
正しいことをして天国に行きたいわけでもないだろうに・・・
知への意志を持っている人は欺瞞が許せないのではないかと思う。
それで狂っているかいないかというのは
その意志を測る物差しとなる。

「現代政治におけるメディアの役割に目を向ければ、自分たちの住む世界が見えてくる。
20世紀初めから現在まで、支配層が大衆の目から真実を隠す手法は巧妙に構築されてきた。
米国の強圧的な政策、テロや戦争の実態とは? 世界の真の姿を知るためには、
それに気づかなければならない」
カバーにはそんなことが書いてあった。
まずはそういうことを知るための
本なのだろう。

神曲[Ⅲ]天国篇

2014-06-14 00:05:05 | 神曲
「われらの正義が、あわれ人間の眼に不正と映るは、むしろ信仰の証とも言うべく、
邪説異端とのかかわりはありませぬ」
神の正義が人間に不正と映るかは、人間には理解できないのだと言う。
そしてそのことにより人間は信仰に導かれていくのだと言う。
「ああ、神の知恵と知識の富の、何と底知れず深きことぞ。
その裁きの何と知り尽くしがたく、その道の何と測り知りがたきことぞ」・・・
神とか永遠とか無限を持ち出すと思考停止に至る。
理性は自分が理解できない概念を作り出してはその答えを求めてしまう。
そして「信仰に導かれる」か「神の世界を認めない」かを選択しなければならなくなる。
そうした不毛から逃れなければならない。「神の正義」も「人間の正義」も疑わしい。
いったい私たちが「正義」と呼んでいるものの正体は何だろうか?
それはもともと共同体を維持するために必要とされたものではなかったか?
「Alle Menschen werden Brüder,Wo dein sanfter Flügel weilt.
すべての人間ははらからとなる・・・」しかし人類を包摂する共同体というものはかつて無く、
シラーやベートーヴェンがAlle Menschenをどのように定義していたかよくわからない。
きっと日本人やイスラム教徒は含まれていないだろう。
争う者は必ずや「正義」を振り翳す。死んでしまった敗者は黙し生き残った勝者が正義を語り続ける。
神の裁きの前に服従することは権力者に阿るのと変わりはないように思える。
「正義」に対する服従を拒む者は煉獄の第一冠に留まるしかない。

「すなわち、意志の自由。知恵ある被造物だけが、漏れなくそのかみこれを受け、
今も渝らずこれを享く。これから推して、おことにはよく判るはず。
おこと諾い、神もまた諾いたもう誓願の、いかに価高きかが。
なぜならば、神と人との間に契約の結ばれる場合、わたしのいま口にしたこの貴い宝が、
犠牲のささげものになる、しかもそれ自らの作動によって」
神から人間への最大の贈物が「自由意志」なのだと言う。
そして「自由意志」が自らの作動によって「自由意志」そのものをささげものとして
神と人の間に契約を結ぶのであるから、その契約は貴く、
「自由意志」を放棄しているが故に「解約不可能」であるのだと言う。
なんだかよくわからないな・・・ハハハ・・・
いったい自由なのか不自由なのかよくわからないが、そもそも「自由」とはなんなのか?
生き物にとっては外界の変化に応じて行動を選択することが自由であると思われる。
そうすると動物は自由で植物は不自由なのだろう。
神を相手に契約する場合はもっと「自発的」な自由が求められる。
他の選択が可能であるのに、わざわざそれを、つまりは困難な道を選択しなければ
「自発的」とは見做されない。
しかしそれもまた自分が評価されることを勘案した成功報酬型の選択のような気がする。
一見、厳しくもあり、損をするようなことであっても、きっと選択することが喜びなのだろう。
ところで何の選択肢もないところから「自由意志」は生じるのだろうか?
「自由意志」は「意志」した結果として生じるのだろうか?
「自由意志」が生じる瞬間を「観測」することは出来るだろうか?
きっと脳の中では「自由意志」に関わる信号のやり取りというものがあるのだろう。
信号は入力と出力と内部状態に区別できるだろうし、
結果は出力であり、入力(外界)と内部状態(記憶)で決まるものだから、
どんなにがんばったところで何もないところから意志は生じないということになる。
私たちは時系列的に因果関係の中で生きているのだし
社会的には義務を押し付けあって生きている。
おそらくは脳が「私が選択した」ように見せかけているのだろうが
それを信じなければならない。

「腕も無いのに、真理を漁る者は、出かけた時と同じ状態で帰って来はしないゆえ、
空しく岸を離れるより、はるかに質わるし」
真理を求める人間は誤謬に陥ってしまう。
ところで「真理」とはなんだろう?
これもまた理性が生み出した幻想だろうか?
もともとは言葉と対象との一致であったものが
いつの間にか一人歩きしてしまったのではないかと思う。
歩きながらそれは巨大になり、ありきたりの答えでは満足できなくなってしまった。
そういうのが「真理」ではないだろうか?
古今東西の賢者たちがずっと悩んできた結果、何も無しではすまされなくなった。
それが真理ではないだろうか?
私は「知りたい」と考えるが「真理を知りたい」とは思わない。
「真理を」という部分が余計だ。

「信仰とは、待ち望まれているものの実体、また、見えざるものの明証。
そしてこれを、私はその本質と了解いたしまする」
ダンテは信・望・愛の神学的三徳についてペテロの吟味を受ける。
トマス・アクィナスによると「信仰とは、それによって永遠の生命がわれらのうちにめざめ、
知力をしてまだ現れていないものへ向上させる心の習慣」なのだという。
どっちにしてもよくわからない。
「待ち望まれているもの」とは何だろうか?
何を待ち望んでいるのだろうか?
待ち望んでいたことは後になってからわかるもののことだろうか?
知りたいと欲することを予め知ることは出来ない。
本当に待ち望んでいたであろう価値ある本や音楽や絵画といったものは
待ち望んでいた主体の想像を超えている。
消費行動を満足させるための感動的な映画や音楽といったものは
予測可能であり予め仕組まれたものであるが故に
待ち望まれているものではないだろう。

「望みはと私の言う、未来の栄光への確実な期待であり、神の恩恵と、
それに先立つわれらの功徳、これを生む」
トマス・アクィナスによると「望みとは、未来の栄光あるいは至福への、ある種の期待」なのだという。
功徳に対して至福という報酬を期待していると感じられるのは穿った見方か?
胃袋を満たすために必要とされて呪術に取って代わった宗教は
死の恐怖から私たちを救い永遠の生命を約束する。
自然が与えた思考する能力はやがて訪れる自らの死を認識してしまうという欠陥を含んでいる。
痛みや恐れがなかったならば死はさらに身近なものになっていただろう。
そんな状態から私たちを救い出すのが宗教であり「望み」であるだろう。
座して死を待つよりは功徳を積んで希望をつなぎたいと思う心を
咎めたところであまり意味はないのだろう。

「永遠なる造園師の園に繁り合う葉のことごとくを、私は愛する、
おん方からかれらに与えられた、善の度合に応じて」
対神三徳の最後の愛についてダンテが答え終わると世にも甘美な歌声が天に響き渡った。
「神への愛が最大・最深・最高でなければならない」とか
「神が至上の善である」とか
それがなんなのかは信仰を持たない者にはきっとわからないのだろう。
私は漠然と「愛は与えるもの」と考えているだけだ。
そこに神が介在する必要はあるのだろうか?
キリストにとっては貧しき者や病に倒れた者を愛することがすべてであったのでは?
復活したとか地獄を征服したとか天国に御座しますとか
そんなことはどうでもいいことではないかと思う。
見返りも無く、今、そこに居る人を救わずにはいられない。
人間同士の意志がせめぎ合う世界、
あるいは物質同士が時間的空間的な存在をかけてせめぎ合う世界にあって、
積極的に意志を放棄した人物こそキリストではないかと思う。
そこには栄光もなければ至福もない。
そんなものは必要ではない。

未送信のメールより・・・

2014-06-11 21:34:39 | Weblog
ナポレオンとか豊臣秀吉とか、他人を踏み躙ることなんとも思わず、
平気で踏み越える人たちのことを便宜的に勝利者とか支配者とか権力者と呼んでいます。
「難波のことも夢のまた夢」なので、その勝利にいったい何の価値があるのかは置いといて、
要するに彼らは生殺与奪の権利を握っており、生きている間は(ナポレオンは没落したので
権力者である間はと書いた方が正確か?)好き勝手なことができるということになります。
これが「意志と表象としての世界」の
「第二巻 意志としての世界の第一考察 すなわち意志の客観化」で述べられているところの
「生きんとする意志」の例といえるでしょう。

一方で、イエスや釈迦や宮沢賢治などは、財産やら殺生やら競争を疎い、
彼らの行動を理解できぬ者たちからは「利他的」などと呼ばれるような行為を自ら行い、
そのことに積極的な価値を見出しているとすら言えます。
これは「意志と表象としての世界」の
「第四巻 意志としての世界の第二考察 自己認識に達したときの生きんとする意志の肯定ならびに否定」で
述べられているところの「生きんとする意思の否定」にあたります。
「否定」というところに厭世主義とかペシミズムの匂いを察知して
それ以上知ろうとしない人も多いですが、ここでいう「否定」というのは、
実は積極的な意味を持っていると思います。

この両者の中間が、やはり「意志と表象としての世界」に引用されていますが、
ホッブズの「万人の万人に対する闘い」から発展した自然法の管理下の状態かと思います。
法の下の平等などと言いますが、共同体の維持のために個人の自由を制限すること、
統治とか支配になんらかの正当性を与えること、
君子における徳であるとか、リーダーに必要な器であるとか、その類の本は巷に溢れていますが、
要するに「自分のしてほしくないことを他人に強要するな」ということです。
小学校の道徳の教科書に書いてあるようなことになります。
しかしここでいくら良い人とか立派な人とか徳のある人と言ったところで、
「生きんとする意思の否定」に達した人には及ばないと思います。

そういうわけで「意志と表象としての世界」というのは考え方を整理するのに役立ちます。
ちなみに第一巻はカント、第三巻はプラトンのイデアに基づいて芸術のことを書いています。
そこで超越論的な哲学であるとか、芸術の価値についても理解を深めることができます。

私はしかし自己の生存の無制限の拡大(生きんとする意志)とか、
生存競争の否定による道徳的な勝利(生きんとする意志の否定)のいずれかを支持する
立場にはいないし、ましてやその中間状態を支持したりしないです。
ま、年とったら宮沢賢治みたいな生き方をしてみたいとは思います。
いずれかの立場に組してしまうと、それ以上のことを考えられなくなると思うので、
そんなふうにはなりたくないです。

これで説明になっているのかな?

自由を希求する

2014-06-10 20:58:47 | Weblog
自由を求めるということは実際には自由でないことを証明しているのかもしれない。
過去を愛するこは思想の奴隷であることを示しているのかもしれない。
夢見るとか前向きというのは実際には現在に屈服した人間のすることかもしれない。
未来を愛するためには現在の奴隷とならねばらならないのかもしれない。
自由を求めることすら遺伝子の命ずるままに生きることのようであり
そうだとするとプログラムされた自由という矛盾に至る。
自由な選択で意志を決定しているということすら嘘ではないかと疑ってしまう。
そのようにして「疑う」ことは「自由」なのだろうか?
そのような問いはきっと無意味なのだろう。
「自由」かどうかなんて誰にもわからないのだろう。
生き延びること、子孫を残すことを目的として「自由」は活用される。
よく考えてみると望んで生まれて来たわけでもないし望んで死んで行くわけでもない。
生きることも死ぬことも自由に決められない。
他人に支配されるのが嫌ならば他人を支配しなければならないという矛盾
支配者には責任が伴い、判断力がなくとも判断を求められ時間に追われ、
「自由」に思い通りに過ごせる時間がない。
そんな支配者が「自由」であるはずもないが、一時の支配が彼らに束の間の喜びを、
他人を支配することの喜びを感じさせる。

未来永劫「存在」することも出来ない存在が「自由」であるはずがない。
だからそこにいる君よ!好きなことをしよう。

地球(テラ)へ・・・

2014-06-09 00:24:35 | 
地球(テラ)というのは彼らの故郷というよりはルーツなのだろう。
彼らは自分たちが何者であるかを知るために地球(テラ)を目指す。
この物語の二人の主人公ジョミーとキースは互いを補完している。
ユング心理学の典型例であるかのようにキースはジョミーの影だ。
コンピュータに管理された社会が非人間的であるというのが主張ではなく
感情を押し殺したキースのような人物こそ国家元首あるいは王に相応しい
徹底してペルソナを被ることが成功につながる
そうした考えを暗に批判しているらしい。
だからキースも最後には我に返る。

ジョミーは初め「自分はミュウではない」と主張する。
ミュウたちの中で自分はミュウではないというのは
人間たちの中で人間ではないと主張するに等しい。
ミュウたちの中で実は人間であったフィシスと
ミュウなのにキースを守ろうとするマツカを見ていると
人間であるとかミュウであるということは問題ではないことがわかる。
そのような呼称は支配者たちが用意したものであって
私たちは私たちに相応しい呼称を使った方が良い。
テロリストというのは実は弱者なのだ。
私たちが弱者になったならミュウとかテロリストと呼ばれるに違いない。
強者であっても弱者であっても私たちはそんなものではない。
私たちは機械や他人に支配されるものではない。

地球へ・・・(ダ・カーポ)

キースがシロエを殺すのは通過儀礼なのだろう。
私は通過できませんでした。

facebookを止めた理由なんてあるわけない

2014-06-08 00:14:31 | Weblog
もともと似合ってもいなかったが・・・
仮面を立派に見せようといろいろ工夫しているのが馬鹿馬鹿しくなったし・・・
メッセージのやり取りをしている方には悪いと思いましたが・・・
そのメッセージは自分の言葉とはかけ離れてしまっているようにも感じ・・・
そして他人のフォーマットに従うのは苦痛でならない・・・
そのことに何の疑問も持たないというのはどうもおかしい・・・
思えばこうした身近なことから私たちはコントロールされているのかも・・・
料理を撮影してコメントするのは変だと思う・・・
この頃「○○食べ放題」みたいなのを見るとめまいがする・・・

美しい小鳥がカラスに追いかけられていた。
そのカラスを仲間の小鳥が追いかけていた。
彼(あるいは彼女)は親だったのだろうか、恋人だったのだろうか?
注意を自分に向けようとしていた。
やがてカラスは小鳥を捕らえ夕日を背に獲物を嘴にして建物の上に立っていた。
私が飛べたなら助けに行けたのに・・・と思った瞬間に
先週、鶏肉をさばいてから揚げにしていたのは誰かと考えた。
自ら手を下した分、カラスの方が立派なのだろう。
私たちは「から揚げなう」「焼き肉なう」とかとつぶやいてコメントするだけだ。
あー、めまいがしてきた。

それでこれからもきっと「から揚げ」を作るのだろう。
「カツ丼」も作る・・・豚さん、ごめんなさい・・・
生き物というのはそういうものだ。
でも写真は撮らない。

昨年の巣に戻って来たと思われたツバメは、その後、姿を見せなくなった。
食われてしまったのだろう。

神曲[Ⅱ]煉獄篇

2014-06-07 00:05:05 | 神曲
煉獄の七つの冠では一つずつ七つの罪が浄められる。
高慢・嫉妬・憤怒・怠惰・貪欲・貪食・邪淫

第一冠では高慢が浄められる。
「おおニオベよ、なんといういたわしい眼で私は見たことか、
射殺された七また七の子供たちの間、路の上に彫られたおん身の姿を!」
テーバイ王アンフィオンとの間に七男七女をもうけたニオベは、
アポロンとアルテミスしか子供のいない女神レトに勝ると言ったことで怒りを買い、
その七男はアポロンに七女はアルテミスに射殺されてしまった。
子供を失ったニオベは石となっても涙を流し続けたという。
その行為はここで「高慢」の一つに数えられている。
浄められるかどうかは知らない。

誰だって自分のことを優れていると思いたい。
なんといっても自分のことは自分しか知らないのだしかけがえのないものだ。
誰がなんと言おうとなにかしら取り柄があるのだと信じて生き続けるのだ。
知性に優れた者は知性を中心とした世界観を築くだろうし、
感性に優れた者は音楽や絵画や文学に基づいた世界を愛するだろう。
スポーツが好きな人もいれば映画を見て感動する人もいるだろう。
そしてギリシャ神話の時代に限らず子供がすべてと思う母親たちはいつの世にも存在する。
そうしたささやかな誇りを「高慢」と受け取った「神」だけが人を裁くのだろう。
だが「神」でない人間はどのような理由で同じ人間を裁くのか?
今では人間の価値は富を稼ぎ出す能力で決まる。その能力に従い序列化される。
現代では「富める者が神の国に入るよりも駱駝が針の穴を通る方が易しい」という類のことは
ルサンチマンの戯言であると解釈されるだろう。
そして逃れる術も知らぬようなニオベのような弱者が裁かれる。
生来の実力で「神」となり弱者を裁くか「人」となり強者に裁かれるかが決まる。
圧倒的多数の弱者として裁かれる私たちは皆
ニオベのように泣きはらすしかない。

第二冠では嫉妬が浄められる。
「この冠では、嫉妬の罪を鞭つ。さればこそ鞭の紐の出どころは、愛」
「嫉妬の対蹠である無限定な愛の行為を示す」ことが
「罪を浄めるための鞭打ち」なのだという。

愛されない人間が嫉妬するのであって愛される人間は嫉妬したりはしない。
愛しても愛されない人間が嫉妬する。
だから愛することが嫉妬の対蹠であるということとは紙一重になる。
キリスト教では愛する者が愛される者なのだという。やれやれ・・・
私だってこんなに嫉妬深い人間に生まれたくはなかったが
そんな感情に左右されたくないと思うことで何かしら改善出来たものはあった。
ダンテの妄想により理想化されたベアトリーチェは永劫の美しさを備えているのだろうが
普通の人間が愛する普通の人間は老いや病によって損なわれて行く。
・・・そして彼女は痛々しい姿をしていた。あるいは偏見を恐れることなく語れば醜くさえあった。
私たちが普段、目にするものと言えば、自然のままには白き髪をカラスの濡羽の如く黒に染めて、
老いを避けている風景だろう。そこには何かしらの欺瞞がある。
滅びゆく肉を避ける宗教もまた同じ欺瞞を抱えていることだろう。
彼らが永劫を生き永遠の若さを持つ神を讃えるのを見て私は嫌気がする。
醜さを斥ける宗教は醜さを退ける資本主義と同類であることに私は気付いた。
彼らが自らの醜さを自覚するに至った時にはどうするのだろう?
死は生の対極にあるわけではないのだと言ったところで
手遅れかもしれない。

第三冠では憤怒が浄められる。
「私はもろもろの声を聞いたが、どの声のあるじも、罪を拭い去る神の子羊に、
平和と慈悲を乞い求め祈るがに見うけられた」
「子羊としてのキリストは、憤怒の対蹠である無垢と柔和を表象する」のだという。

温厚な人物を目の当たりにすると怒っている自分がバカに思えてしまう。
いったい何にイライラしているのだろうとか怒っても目的が達成できるわけではないとか
そんなことに気付かない自分は間抜けであるとか・・・
そんなふうに寛大になってみたところで他人から向けられる憤怒には我慢がならないのだ。
「憤怒」と「高慢」は独立したものではなく関連しているように思える。
怒ることが許されている身分の人間と憤怒の対象となってしまう人間の二種類に分かれている。
それも例の能力の有りや無しやで・・・

「愛は塵泥の人間では三つの型を取って生まれ来る。おのれの隣人をおとしめることにより、
おのれを高めようとの願い、やみがたく、ただこの願いだけのために、
隣人が偉大の座からすべり落ちるのを望む型」
「他人の高められているのを見、権力、恩顧、栄誉、名声を、おのれを失いはすまいかと恐れ、
うらがなしさの余り、その反対を愛するに至る型
「さらに、損害を受けて憤懣やる方なく、ただ復讐の一念に明け暮れると見ゆる型。
かかる者は、必ずや相手の損傷はかる」
高慢・嫉妬・憤怒はいずれも愛のゆがんだ形なのだという。
リビドーというやつか?

第四冠では怠惰が浄められる。
「それを見、あるいはそれに達しようとずる者を引く愛がなまぬるければ、
その者、ふさわしい悔悛のあと、この台地でその罪ゆえに呵責される」
その罪についての具体的な言及は見あたらない。
ダンテは怠惰に相当する出来事をあまり知らなかったのかもしれない。
それにしても怠けるのと生ぬるいのは全然ちがうと思うのだが・・・
あるいは夜の暗闇での活動を可能とする電気を発明し、溢れた情報の処理に苛立ち、
他人を死ぬまで働かせるのがエグゼクティブのたしなみであるといった
現代における勤勉の定義がダンテの想像を超えているのかもしれない。
私たちは私たちに相応しい煉獄を作り上げた。
そこでは何も浄められるものはなく周りの人間を同類にすべく足を引っ張りあう。
そうすると煉獄ではなくてやはり地獄か。

第五冠では貪欲が浄められる。
「呪われてあれ、なんじ歴劫の牝狼よ、その飢えの深きこと底知れず、
ほかのいかなる毛物よりも多く獲物をむさぼる牝狼よ!」
冒頭に現れたのも貪婪の牝狼だった。貪欲の対蹠は清貧である。
次々に工業製品や新しいサービスが生み出される現代では、
怠惰が一番の罪悪であると共に清貧との関わりが最も少ない。
貧しい者はスーパーに行って一円でも安い食品を買い求めるが、
それは貧しいだけで清らかではない。
分業は独立を奪った。贅沢から逃れて庵を結ぶような生活はもはや許されない。
自給自足の生活はなく、衣食住が保証されていない者は従うしかない。
蜂の巣のようなマンションのために未来を売り、勤勉と呼ばれる服従の中で時間を失い、
本物とめぐりあうこともなく一生を終える。
地上を席巻する貪欲は貧者の時間という時間を
つまりはその積み重ねである命を奪う。

第六冠では貪食が浄められる。
「飽くこと知らず貪り啖った罪のむくいで、泣き泣き歌うここのすべての民は、
餓えと渇きに徹して、再びおのが身を浄うする」
断食を伴う宗教では貪食が浄められるのだろう。
その苦しみはしばらくすると忘れ去られてしまうので定期的に行われるのだろう。
それはしかしキリスト教よりは彼らと対立する宗教が実践していることだ。
貪り喰らうということも現代では咎められることもない。
食品や料理やそのサービスも売上げと利益を拡大するための大切な手段であり
そのことに秀でた人物を押し上げる。
その罪が咎められるわけがない。

第七冠では邪淫が浄められる。
「自然の掟に背いた好色の族は左へ、人の掟に背いた好色の族は右へと、
泣く泣く急ぎ、先の斉唱と、かれらにはげにふさわしい叫びに帰る」
同性愛は生まれつきの性的指向であって不当に扱われてはならないのだという。
確か「脳」が男性であるか女性であるかを決めるのは外性器ではなくホルモンであり
そこに至る過程が損なわれてしまうと性同一性障害になる場合があるということだったと思う。
そして異性に対する愛情であっても特定部位に激しく執着するケースもある。
性的エネルギーがどこに向けられるべきかという議論は空回りしてしまう。
たとえばキスにしても代償行為のひとつだと思うがそうではないと思う人もたくさんいる。
カリタスと呼ばれるものは性的エネルギーが特定の思想に向けられたものかもしれない。
そんなふうに考えるとダンテに怒られそうだが・・・
異性への関心を活用した結果として人間は社会を形成したのだと思う。
「生まれながらにして社会的な動物」とは
そういう意味だと思う。

ビールとプリン

2014-06-06 21:41:57 | 音楽
「旅立つ日が来るならば」と「旅立つ日が迫って」と
そんな日は来ない方が良いに決まっているのに・・・
なんだかそんなことを思い出しては苦々しい思いをする。
「君」と「僕」が望んだ「旅立ち」ではないというのに
なんでそんなものを受け入れようとするのだろう。

ビールとプリン

この歌と同じ光景を見たことがある。
彼女は料理を作り、僕はビールを飲んでいるだけ。
「僕」は「彼女」に応えられないかもしれないと考えて
そのことをごまかそうとしているのかもしれない。。
一生懸命に誠実を装っているのかもしれない。
そんな思惑とは無関係の「彼女」を見て
ますます「僕」は苛々する。